「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」福島英著 (音楽之友社) 2,200円

●目次

(1)初版の本文の訂正案内
(2)読者の方の感想
(3)著者からのメッセージ
(4)音楽之友社の紹介文
(5)本書の目次
(6)索引一覧
(7)内容骨子(本文より引用)

(1)初版の本文の訂正案内

P85訂正 下1行目軟口蓋→トル
P91訂正 表の「平−(唇の形)−丸」をトル
P92訂正 表のt(ダデドの子音)→d(ダデドの子音)


「読むだけで、声と歌が見違えるほどよくなる本」が重版になりました。
第二版以降は、訂正部分も反映されています。(以下の記述は、参考のためであり、補足説明です。)

P85 子音の発音K
カ子音[K]は、奥舌と軟口蓋でつくる破裂音です。奥舌を軟口蓋 につけて息の出口をふさぎ、息をはき出すとき、この閉じた部分を つき破ることによって発します。
鏡でみると、のどの奥(軟口蓋)の口蓋垂に舌が盛り上がります。

P85 子音の発音N 歯茎の軟口蓋→歯茎
舌の接するところは、タ行と同じです。タ行音は破裂音、ナ行音は 、舌を歯ぐきにつけたまま、息を鼻へ抜く鼻音になります。
ナは、そのまま、声を出さないと、ただ鼻から息が静かにもれます 。そこで、鼻に手をあて声を出してナを発音すると、声が鼻に響い て振動するのがわかるでしょう。
ナ行は、鼻にこもらせないことがポイントです。

P86 ラ行音は、いくつかのパターンがあります。
1.ホラッ! というときに、はじくように聞こえる弾音。
軽く歯と歯ぐきの境目のあたりに舌をはじくようにつけます。弾く ところは前からル、レ、ラ、ロ、リの順で、奥に。(これは語中・ 語尾に、多くあらわれます。空、くり、晴れ、風呂など。)
2.ブルンブルンなどというときの強い震え音。巻き舌で話すとき の音です。(この巻き舌のラ行は共通語では用いないのが普通です 。)
3.英語のLのような発音で、前もって舌先が歯ぐきに触れていて 跳ねる音です。語頭には、この音が多く用いられます。(ラジオ、 ロボット、リズム、レモン、ルビーなど。リは、口蓋化します。) ちなみに英語のLは、舌先を軟口蓋、口の奥で、Rは、唇を丸め、 舌先を上(口蓋)につけず、口先で発します。ラ行はべらんめい調 にならないように。

(2)読者の方の感想

日頃のトレーニングや物の考え方、 音楽の聴き方がいかに足りないか、を感じさせてくれます。 学ぶこと、考えていくことは山のようにあり、 果てしない道が続いている。 本書はその道しるべになってくれそうです。 私が一番感動したのは次のくだりです。「 声域や音程ばかりを気にしていると、平たく薄っぺらい声で、 めりはりのない歌にしかなりません。声の作品にもまた、 奥行きや深さが必要なのです。そうであってこそ、 繰り返し聞くに耐えるものとなるのです。 さらに体の深部感覚に神の声のようなものが満ちてきたら、 せりふや歌はその人独自の世界を離れて、 もっと深遠なものになるように思えます。 それは人間の力を超えたものが、 人間に力を与えてくれているものが現れ出てくるような感じです。 歴史に名を残した名優や名歌手たちは、きっと、 こういう世界で声を使っていたのではないでしょうか。」 なんて素敵な世界の入り口に自分は立っているのだろうと思います 。生きているうちに、その世界の片鱗に触れてみたいものです。 そして、「さいごに」書かれているメッセージ。「 これまで関わったすべての皆さんと、いつも愛読してくださる貴方に心からの感謝を込めて、 この本がお役に立ちますように祈っています」。 私の知っている後書きのベスト3に入る素敵な言葉です。

(3)著者からのメッセージ

何冊も本を書いていると、どれを読めばよいのかとよく聞かれます。どの本にも愛着はあるので、「好きな本を選んでください、そうでなければ全てを」と答えるのですが、たしかに1冊ですべてのことが伝わる本があればよいと思っていました。
そこに音楽之友社さんから、1990年代にヒットしていたON BOOKSのシリーズで、私の発声の一連の著作(4冊)を新たにまとめられないかの話がありました。新ON BOOKSで、Q&A集(「ヴォイストレーニングがわかる!Q&A100」)を出していたので、それに対しての、本論との位置づけでもありました。
ほとんど新しく書き起こし、220ページを超える大作となりました。私と研究所、日本のヴォイストレーニングのアプローチとしてお読みいただけます。

皆さんの知らない、レッスンやトレーニングの変遷、それぞれの成り立ち、意味、理由、自主トレーニングのための判断や材料、現在や将来の歌や声の問題、仕事へ対するスタンス、トレーナーだけでなく、業界内外や他の職などに学ぶべきこと、そして、日本人、日本語と世界のギャップ、それに私自身や研究所の歩みまで重ねて述べました。
なによりも、基礎と表現、レッスンやトレーニング、それに使っているシートなど研究所でのすべての材料や基準が盛りだくさんです。                                                      福島 英
            
(4)音楽之友社の紹介文

ヴォイストレーニングの第一人者であり、弊社既刊のONBOOKSシリーズでも人気を博していた著者が、著者自らが所長をつとめるブレスヴォイストレーニング研究所でのスタッフ一丸となっての指導経験の積み重ねをもとに、新たに書き下ろしたヴォイストレーニングの総合的入門書。最新の実践成果を踏まえつつ、「声の力をつけること」を目標に、ヴォイストレーニングに向う際の心得から平易に説き、外国人との肉体的言語的なギャップを踏まえた上での日本人特有の欠点克服法など、独自の視点からの提言も盛り込まれている。ミュージシャン・俳優等の舞台人のほか、声優・講演者・司会者・アナウンサー・教育現場の指導者など、「声」にまつわる活動をし、「人の心をつかむ声」を必要としている人々、あるいはそれらの職業を目指す人々のために、トレーニングメニューも豊富に掲載した、必携の1冊と言える。
すべての舞台人に送る 最新のヴォイストレーニング強化書!
この本を「読む」
⇒声についての思いが変わる
⇒ヴォイストレーニングが変わる
⇒「声と歌が見違えるほどよくなる」!

「私の行っているレッスンは、「オンする」ことを目的とします。「オン」とは、まったく異なる次元の感覚で声をだせるようにすることです。スポーツにおける「ランナーズハイ」や、「ゾーン状態」にたとえるとよいかもしれません。
これまでとまったく違う感覚で声が出るようになるためには、体や呼吸から根本的に変える必要があるのです。」
                                       (< 「
第1章 発声は何をどう学べばよいのか」より>)

このトレーニングは、世界に一流の歌手や役者なら誰もが持つ、声についての根本的な技術を体に習得させていくものです。
それと同時に、環境や素質に恵まれていなかった人でも早く力をつけ、プロとして必要な条件を確実に手に入れていくための感覚トレーニングでもあります。
                                                           < 「おわりに」より>

(5)本書の目次

はじめに

第1章 発声は何をどう学べばよいのか 〜基本の考え方(トレーニングの方針)
 1-1 声の状態を知る
 1-2 声の条件を変える
 1-3 声の調子によって行なうべきことも違う 〜最良の状態を知る
 1-4 レッスンとトレーニング 〜発声の素地、器を作っていく
 SHEET トレーニング前チェックシート
 1-5 状態をよくした時の声を知る 〜みずから状況を変える力をつける
 1-6 発声の次元を変えること 〜異なる感覚、異なる体を求める
 1-7 トレーニングは底上げと限界への挑戦 〜最良状態に絞り込み、可能性を拡げる
 1-8 ハイレベルに目標をおく 〜確実な再現力を身につける
 1-9 ステージとトレーニングの違い 〜ギャップを温存しておく
 1-10 すぐに高い声が出る、大きな声が出る? 〜長期戦で考えていく
 SHEET トレーニング後のレポート 
 1-11 イメージの構築と修正 〜自分の声の表現力をつきつめる
 1-12 必要性を高めていくこと 〜声そのもの、音色が変わること
 SHEET トレーニングのための  「本人のカルテ」
 column 一流のプロになるための条件から考えると、声の目的と成果はわかりやすい

第2章 声の基準作り 〜声を判断するということ
 2-1 声の判断基準 〜ひと声の完成度か、歌での表現力か
 2-2 せりふや歌を判断する力を磨く 〜本当に心に働きかける作品、歌を知る
 2-3 「耳」の判断力を磨く 〜音楽だけでなく芸術観を高める
 SHEET 鑑賞レポート
 2-4 表現の判断力を磨く 〜言葉、声での成立と音楽
 2-5 感覚の違い 〜音色とその置き方にこだわる
 2-6 何でも歌えるよりも、自分の味を抽出する 〜だれにもできない何が自分にあるのか
 2-7 心地よいということの答えは自分に 〜付け焼刃に頼るな
 2-8 聞こえない音は出せない 〜意識的に「耳」を磨いていく
 2-9 息を聞くこと 〜結果として深い息にしていく
 2-10 感覚について 〜頭でわかるのでなく、体に身につけること
 column 自分の声を活かす力をつける 〜限界やできないことを知る

第3章 言語音声力の強化 〜体作り、息作り、声作りの実践
 3-1 体づくり 〜フォームを保てる筋力、感覚をつけていく
 3-2 姿勢フォーム作り 〜体幹中心に呼吸と発声をとらえていく
 3-3 腹式呼吸をマスターする 〜声を支えられる体にしていく
 3-4 ブレストレーニング(呼吸・息) 〜深い息にしていく
 3-5 深い息から深い声にする 〜体から声が出るようにする
 3-6 声をつかむイメージ 〜胸声を強化していく
 3-7 声の密度(声になる効率)を高める 〜無駄な力を喉にかけない
 3-8 発声から発音へ 〜共鳴、構音を整えていく

第4章 表現のためのトレーニング 〜本当に人の心に声を届けるために
 4-1 詞を伝えよう 〜内容から構成していく
 4-2 せりふを伝えよう 〜声の力と意味を生じさせる
 4-3 声の振動を伝えよう 〜共鳴 地の声、天の声
 4-4 曲で歌を伝えよう 〜音楽のもつ力を損なわない
 4-5 表現力をつけるトレーニング 〜詞とメロディと声を調和させる
 4-6 オリジナルフレーズをつくる
 lesson (1)「メロディ処理」のトレーニング
      (2)息で表現を支えるトレーニング
      (3)だらだらと伸ばさずに切りつめる表現トレーニング
      (4)音程・メロディ・言葉より音色・リズム感を優先するトレーニング
      (5)フレージングのトレーニング
      (6)言葉のフレーズを歌のフレーズにするトレーニング
      (7)線でつなぎ、統一して音楽にするトレーニング
 supplement 日本人の声について知る

第5章 音の感覚を磨こう 〜歌が自然と声に出てくるように(歌手編)
 5-1 世界の一流の音声を入れる/一流の型を取り入れる
 5-2 全神経を研ぎ澄ませて聞こう 〜音や声が化ける時を知る
 5-3 頭と体に叩き込もう 〜瞬時に声で動かしてみる
 5-4 音程をよくする 〜ピッチを安定させ、気持ちよくのろう
 5-5 リズム感を磨く 〜リズムグルーヴを入れ、ダイナミズムをつけよう
 5-6 ハーモニー感をつける 〜コーラスで音をひびかせ、重ね、集約しよう
 5-7 歌唱力で勝負する 〜独自の声のデッサンで、オリジナリティを鍛えよう
 5-8 ツールの使い方 〜鏡とヴォイスレコーダー、ビデオカメラ
 column 何からでも学ぼう

第6章 ヴォイストレーニングの発声法 〜余計なものをとり、シンプルに洗練させる
 6-1 発声の基本 〜声を息に乗せるフレージング
 6-2 声域を拡げるトレーニング 〜低音から高音まで均等に出そう
 6-3 声量を拡げるトレーニング 〜声の大小、強弱のコントロールを完全にする
 6-4 フレージングで歌を大きくする 〜めりはりをつけた見せ方をする
 6-5 高音発声にチャレンジする 〜ハイトーン、ファルセットを効かせる
 6-6 音楽的効果をつける 〜フェイク、アドリブ、シャウトで、自由に展開する
 6-7 コントロール力で心地よく聞かせる 〜音楽の流れを大切にしよう
 column 学んだことを捨てる(守から破・離へ) 〜固まらず、解放しつくそう

第7章 独力で学ぶ人のために 〜人と場と教材の使い方
 7-1 他人に学ぶ 〜最適のトレーナーを選ぶのは難しい
 7-2 どういう方法を選べばよいのか 〜すべては未知数のなかに
 7-3 ヴォイストレーナーに就く 〜とにかく第三者に聞こう
 7-4 トレーナーの生かし方 〜チームとして考える
 7-5 スクール、養成所、レッスンの選び方 〜本質を見抜くこと
 7-6 どんな本を読めばよいのか 〜目的別トレーニング参考本
 7-7 教材の使い方 〜使い方を知ること
 7-8 お勧めCD&DVD 〜おのずと上達させてくれるアーティストたち
 column これから歌手という職は成立するのか
 supplement 日常でできる基本トレーニング

おわりに
エピローグ
 SHEET せりふ歌唱のステージでの問題&評価表

                                                                                                          【紀伊国屋書店のサイトより】

(6)索引一覧(一部、本書と異なっているところもあります)

第1章
1-1  18  失声症
1-2  19  (「ベターな声」)
     20  声の4要素
             21  仲代達矢  平幹二郎
1-5  26  (「よい状態の声」)
            28   <トレーニング前チェックシート>
1-6    30  <自分の声の分類表>
            31   「くせ声」
1-8     33    <浅い声と深い声>
1-10 37    <トレーニング後のレポート>
1-11 39   デッサン
1-12 41   <ドリームマップ>
            43     <トレーニングのための「本人のカルテ」>
column 44   プロの条件

第2章
2-3    49    <鑑賞レポート>
2-4    52     ドラマ(ドラマトゥルギー)
2-10  64  渡辺直美、パティ・ラベル

第3章
3-4    73  声の芯
3-7    82  声域 声量 ロングトーン
3-8    91  母音の舌の位置
           92     子音の発音

第4章
4-1    93    〇詞を読むトレーニング
4-3    96  軟口蓋
           96  硬口蓋
            97  グレゴリオ聖歌
       97  ブルガリアンヴォイス
           97  声明
      97  山城組「恐山」
           98  〇般若心経
           98   「地の声、天の声」
     99  通奏低音
     99  コーラス
     99  声の投げかけ(コール&レスポンス)
     99  ファルセット
4-4  100    インストゥルメンタル
         100   グルーヴ
4-6 103    めりはり
    103    インプロ(インプロビゼーション)
    103   「オリジナルフレーズ」
    104   「オリジナルのデッサン」
    104  フレーズコピー
    106  コール&レスポンス

lesson109   福島英のレッスン「メロディ処理」
supplement115  「日本人の声について知る」
    117  藤山一郎 近江俊郎 伊藤久男 淡谷のり子 
    118    越路吹雪 深緑夏代 岸洋子
    119   「リアリティ」
          123    「モノローグ」
   
第5章
5-1  132  「海外のヴォーカリストが日本語で歌ったものを聴く」(曲リスト)
5-2  134  出だしフレーズ(曲リスト) 
           135  シャルルアズナブール エディット・ピアフ
5-3  136    サビのフレーズ(曲リスト)
     136   美空ひばり
5-4  139    〇音程トレーニング
           139    〇スケールのトレーニング
5-5  141    〇リズムトレーニング
           142  リズムパターン(曲リスト)

column151  「何からでも学ぼう」
           152  ポロスカジャン イッセイ尾形 清水みちこ いっこく堂 コロッケ
     155   大本恭敬

第6章
6-1  157   「縦の線」
           159  歌の三要素
           159   「声の芯」
6-2    161    スケール
6-3  163  レガート

6-4  164  ロングトーン
           165     めりはり
6-5  166  ミックスヴォイス 
     167  ハイトーン ファルセット
6-6  167  フェイク アドリブ シャウト
           167    ため 構成 展開 間
       168    「リピート効果」 タッチ ニュアンス エッジ
column173  学んだことを捨てる
           175    ヴィブラート
           176    千住明

第7章
7-1   177    「トレーナーの選び方」(メールマガジン)
         187    著書一覧
column194  これから歌手という職は成立するのか
         196   日常でできる基本トレーニング
         198    必要な分野と内容
 
         199   おわりに
         206     用語の解説
         206     「ブレスヴォイストレーニング」の考え方
         210     さいごに
         211     エピローグ
         220     問題&評価表
   
 (〇トレーニングの一覧は、目次を参考にしてください)

(7)内容骨子(本文より引用)

「ヴォイストレーニング」の効果を最大に出すために

 「読むだけで」とつけたのには、いくつかの理由があります。
 多くのヴォイストレーニングでは、「こうしたらできます」というように、述べられています。しかし、それでそれができているのかどうかは、本当のところ、よくわかりません。何よりも、何が、どうできているのかがあいまいです。できているつもりになっても、もしかしてできていないとわかっても、ほとんどの人は、そこで終わってしまいます。できていると思った人は、本当はそんな簡単にできるはずはないので、どんどんとくせをつける方向に行きます。発声は、一人で行うと、特に誤解の生じやすいものです。
 それにもまして、一人ひとり、感覚ものども違うのに、決まったメニュを同じように行うのは、あまりに乱暴なことです。トレーナーについたとしても、そのトレーナーがそういう方針なら同じことです。この場合、高い声や大きな声、音程、リズム、ビブラート、発音、滑舌や語尾などという、目先にとらわれたものが目的になることが多く、そこで判断するために、そのときはよくとも長期的にみると、さらに悪い結果になりかねません。(ヴォイストレーニングでは、現状や目的をどう定めるのかが難しいのですが、そのことによっては取り組みが全く違ってくるのですから、まずそれを知るだけでも、本書を読むだけの価値があると思います)
 それに対して、少しでも客観視できるスタンスをもち、判断のヒントとしたり、できないときの気づきや発想の転換を与えようと思い、初心者にも経験者にもプロにもトレーナーにも、気をつけることを知っていただこうと思って、この本は書きました。声楽やヴォイトレを受けるのなら、そのまえに読んでおくこと、さらにレッスンやトレーニングをしているのなら、必ず一度、本書でチェックしてみることをお勧めします。

 よくなるためには、よくなる方向に自分をセットしなくてはなりません。トレーナーを「使う」ときも同じです(レッスンの主体性の大切さを知ってもらうために、あえて「教えてもらう」のでなく、「使う」としました)。それは、明確な理想とする目標のイメージづくりから始まります。
 例えば、大リーグのバッターの多様なフォームをみて、自分の可能性をもっとも伸ばせるフォームを見つけることは、至難の業です。すべてにチャレンジしたら、かえってめちゃくちゃになるでしょう。ですから、少年野球から高校野球で教えられるのは、万年に通じる基本フォームのイメージです。

 ただ、声の場合、スポーツよりもはるかに、理想とするイメージが自分の持って生まれた素質(体、のど、性格など)に基づいていなければならないのです。スポーツのように、速く高く強くなどといった方向づけがあり、運動生理学や運動科学に基づき、さらに多くの経験値から改良を重ねた筋肉トレーニングなどで、大きな筋肉を鍛えるのとは違います。とても小さく微妙な筋肉群で、まだ未完成なのどまわりの整備は、大変に根気と精力を必要とするものです。
 一方、声には、別の観点から助けてくれるイメージがあります。そのイメージとは、聴くことから取り込む感覚であり、音の聴き方、聴こえ方による判断といえます。この本には、聞くことからの判断の基準づくりを明らかにしました。
 多くの人は、声だけの問題と思って、発声トレーニングに励んでいますが、私からみると、9割の人の根本的な問題は、まずは2つです。声の楽器である体の管理、補強をする毎日の過ごし方と、聴く力で描く厳密なイメージ力と、それに応用できる発声への判断力なのです。(極論をいうと、問題はここまで生きてきた中でのあなたのイメージ力と判断が、今の声に結果として現れているのをどうするかということです)
 貧困であいまいなイメージや、一人よがりな判断力から、よいトレーニングは望めません。声をよい方向に伸ばすのに必要な、理想的なイメージができていないのですから、そうしたイメージを作っていくことの方がずっと大切ともいえるのです。

 「一流のアーティストを聞きなさい」
 「息を吐き体を変えつつ、声を出すトレーニングをしなさい」
 私は先の2つの問題に対し、トレーニングの現場ではそのように言ってきました。感覚から、体を通じて正していくためです。いや、感覚を正し、高め、深めながら、声を養っていくためです。
 現場で、より対応できるようになるためには、この本を読み、一流のアーティストを聞くことで耳を養い、トレーニングを一流の(すぐれたアーティストや、すぐれたトレーナーと同じ)厳しい判断でできるようになることです。それによってのみ、一流の声と体を持つことの可能性が開かれてくるのです。トレーニングよりも、その前の準備をすること、つまり、本書を“読む”ことでよりよい準備ができるようにすることが、真の上達へとつながるという点がわかっていただけたでしょうか。

いくつものスクールや何人ものトレーナーのところで、何年間も腹式呼吸などを教わったのに、その意味も、イメージも、実際の呼吸も発声も、ほとんどできていないヴォイストレーニングの受講者を、たくさんみてきました。「今日は、腹式呼吸をマスターします」「ハイ、これで皆さん、全員できました」などと、本来は程度の問題を、正しいか、間違いか、あるいはできたか、できていないのか、の二極に分けてしか、考えられない人(トレーナーも含む)ばかりになってしまいました。
 芸事の世界は、一年目に「よくできている」といわれたことは、二年目には「あたりまえ」、三年目には「それではよくない」、五年目には「全くできていない」といわれるものなのです。そういうことに“気づく”ために、こういう本が必要だと思ったのです。

(はじめに〜より)

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 本書は、私のヴォイストレーニング関係で出版したなかで、50冊目くらいになります。音楽之友社さんからは、7冊目です。しかも今回は5年を費やし、一度預けた原稿を白紙に戻しての難産でした。

 デビュー本から20年、ヴォイストレーニングに関わって、およそ四半世紀を超えた今、何とか誰もが本当に使えて本物の効果のある本をと思いつつ、いつも書いたあとに言い足らないことが出て、次々と出してきたのですが(中には、そこまで言及を許されず、初心者用とのくくりの中で他書と似たつくりで終わってしまった本も少なくないのですが)、ようやく本書にて、本意を遂げることができたようにも思います。他のヴォイトレの本も、いまやコーナーが設けられるほどに多く出ており、CDやDVD付きのものも珍しくなくなりました。それぞれによいところがありますが、それを知った上で、本書の違いを述べようと思います。

<類書と特に異なる点>

・基礎を徹底して掘り下げ、初心者からプロ、声楽家にも対応している(多くの本は初心者向け、即効果をうたっていますが、本書は長期的なスタンスでトレーニングを述べています)
・本人自身が判断できる基準をできる限り、明示している
・外国人とのギャップを踏まえ、日本人特有の欠点の克服法を中心に構築
・その前段階として、ほぼ全世界の方法やメニューの整理をしている
・複数のトレーナーの複数のメニューを加え、私だけの一人よがりになるのを避ける

 人の心をつかむ声への自覚を促し、漠然と行われているメニューや方法の本当の意味や目的を理解し、それに沿って独習できるようにしてあります。
 一流プロから声の病気の人まで、他の多くの専門家やトレーナーとともに、研究所に膨大なデータと実績に基づくさまざまなトレーニングを、今の時代の日本人の必要性に併せて展開しており、最新の状況で内容を盛り込んでいます。

<対象>

・世界で通用する歌手、声楽家、ミュージカル俳優、伝統芸術家になりたい人
・役者、声優、アナウンサー、一般でも声を鍛えて、深めて魅力的に通る深い声になりたい人
・教師、政治家、インストラクター、ビジネスリーダーなど

<本書の使い方>

「メニューをこなすのでなく、声の力をつけること」
 本書は、どこから使ってもかまいません。わからないもの、できないもの、やりにくいものは、抜かしてください。たくさんあるメニューから、やりやすいものを選んでください。
 メニューの中でも、発音(ことば)、声の高さ(声の大きさや長さも)も、もっともやりやすいものをご自分で選んでください。そこで少しずつ、仮の自分独自のメニューをつくってみてください。
 1ヶ月ごとにチェックしつつ、少しずつ他のメニューも試して、よりよいものがあればメニューとして、確かに簡単なもの、難しいもの、とっつきにくいものなどがありますが、どんどんとこなしていくのでなく、わずかなメニューでよいので、それを使って声の力をつけていくことを常に考えてください。

※ヴォイトレは、レッスンでの現場にて行われるものですから、ことばはその補助にすぎず、そのことばだけで成立している本の有効性はかなり疑わしいものです。いくら方法やメニューが親切に述べられていても、第一に本の著者には、相手がみえません。そのため、その本の内容、目的や意図がどこまで正しく行われているのかどうかは、伺い知れないのです。
 初期の頃は、私の本を読んで一人で何ヶ月もトレーニングしたいという人も数多く、研究所にいらっしゃいました。伝えたつもりのことが伝わっていないことに唖然として、そのつど注意などを補充していきました。つまり、レッスンをした人やトレーニングをした人とともに、私の本の内容は育っていきました。

 私の本は、再版時に増補したり、改訂を重ねています。その分だけ、著者の一人思いが正されているということです。そういった意味では、この頃のトレーニング本は、ほとんど著者自身の体験で自分に効果のあった方法を羅列しただけのものが多いです。私のように自分の本を読んでトレーニングしたという人を、それもタイプの違う何百人、何千人を、しかも何十年もみてチェックしなくては、まだ見ぬ相手にとってどのくらい役立つのかは、仮説にすぎません。
 また、レッスンと本とは違うので、レッスンで効果のあがったことをそのまま、並べればよいわけではありません。
 著者が本当に結果を反省して、研究してきたような本当によい本には、効果ばかりでなく、効果のあがらなかったことについても言及しているものです。

 私の初期の本は、声楽や声楽の本への補強的なスタンスで述べたものでしたので、画期的ゆえに、実践(つまり、レッスン)なしには、本当のところにおいて、使いにくかったことも今となればよくわかります。
 それでも、ノウハウ書の運命として、誰にでも使いやすくするほどに、真の目的や効果が遠ざかることを知っていた私は、一流、本物ということにこだわり続けてきました(もちろん、啓蒙のため、一般の方に声に親しんでいただく本も出しておりましたが)。
 しかし、この本では、初めて私の理論と指導実績を述べるだけでなく、私自身の経験とともに声楽を含め、いろんな方々の見解やアドバイス、メニューなども取り込み、真の意味で実践的にしました。トレーナー自身の資質や経験も、トレーニングのメニューや方法に必ず反映してしまうからです。これは私が、研究所を私だけでなく、いろんな専門家を交えて運営している環境をそのまま、本書へ移そうとしたからです。つまり、トレーナーサイドとして、私、福島英だけでなく日本の有数のトレーナーの共著に近い体裁を伴えることができたと思うのです。

 私の研究所では、あなたが日本中を探して出会えるよりも、さらに大きい器をもって、トレーナーを紹介しています。
 あなたにとって世界一ふさわしいトレーナーは誰なのかわかりませんが、少なくともその大切な出会いをここで試し、トレーナーを選べる基準を身につけてもらうことができるようにしています。
 自分にとってのトレーニングの最適な環境づくりとしては、適当に誰か一人のトレーナーにつくのでなく、複数のトレーナーにつきながら、本当に必要なトレーナーを見分ける力をつけていく方が、多くの場合、ずっと確かなプロセスを歩めます。この「トレーナー」というのは、そのまま成長した自分に置き換わっていくことにもなりますし、トレーニング方法やメニューとも置き換えられます。
 一方で、世界中のヴォイトレのメニューを私は集めています。そういうところで、体験を積んできた多くのトレーナーやレッスン受講生と活動をずっと共にしてきました。一人で教えてきた人の何倍もの情報量をもっています。
 ただ、これを一冊に網羅したところで一個人であるあなたは却って混乱するでしょう。私のところでさすがに10人のトレーナーすべてをあなたにつけることはないのと同じことです。

○「方法」について

 誰にでも世界一のトレーナーが、そう簡単にみつからないのと共に、世界一の方法もみつからないというか、わからないものなのです。トレーナーはそれを少しずつハッキリさせていくためのヒントをくれる存在であるべきです。この本もそれと同じ位置づけです。
 たとえば類書では、著者であるトレーナーが、自分で学んだ方法や開発した方法のうち、自分で効果のあったと思い込んでいる方法を使います。自分に合ったことが、他人に同じように合うかどうかはわかりません。自分に合っていたのかも検証できません。
 トレーナーもベテランになると、経験から他の人に効果のあった方法を紹介します。これは信頼できそうですが、実のところ、相手がどんな人なのか、効果があったとはどんなレベルにおいてなのか、自分にはそれが合うのかなどはわかりません。それでも、こんなタイプはこうしなさいと、いろいろと分類して各人の問題への対処法を述べてあるのは、一見使いやすそうに思われます。

 たとえば、本書の「トレーナーの共通Q&A」は、全くタイプの違う10人近くのトレーナーに同じ質問の答えを述べさせたものです。それぞれの答えの違いに驚くかもしれませんが、これもいろんなトレーナーや、いろんな方法があることを知る一つの勉強です。どれが正しいか間違いかではありません。目的やその人のレベル、声やのどの性格(性質?)などによっても大きく違ってきます。また同じことでも、どのようなチェックをするかによって全く違います。
 私は方法やノウハウを正誤で論じるような人は馬鹿だと思っています。科学的とか、のどの生来のよしあしだけでその人の声の可能性を限定するようなトレーナーも同じです。どこよりも科学的に研究をしてきた私が述べるのですから、信じてください。

 デビュー本から私は「方法」と「ノウハウ」でなく、「材料」と「基準」を学ぶべきだと述べてきました。その考えは今も全く変わりません。声は正誤でなく、程度問題なのです。安易に「正しい、間違い」としか言えないトレーナーをみていると、「違う」としたら、あなたの声そのものや判断が間違っているのだろうと、言いたくなります。
 そういうトレーナーで魅力的な一声を示せる人をみたことがないからです。顔と同じで、どんな声でも間違いはないのです。ただ、より機能的に、より魅力的に使うことができるし、使いやすくするために行うと、よいトレーニングがいろいろとあるということなのです。
 ですから本書は、他のどんなトレーナーやトレーニングの方法、メニューも否定するものではありません。要は使いよう次第なのです。誰もがおかしいと思うようなメニューでさえ、それで一流になる人もいるのです(むしろ、その方がモノにできれば確かとさえいえるのです)。

 トレーナーが狭い経験と固定観念で、あなたの可能性を押さえることに、初心者は気をつけた方がよいかもしれません。
 多くのトレーナーは生活のため、生徒を辞めさせないために、一回ごとのレッスンの成果を問われています。生徒さんも初回からわかりやすく実感でき、しかも効果が出るようなレッスンを望んでいます。これがヴォイトレの大きな弊害となっていることを指摘しなくてはなりません。表面上、お互いが満足してよいレッスンが成り立っているようで、実のところ、声が育たないからたちが悪いのです。

 ワークショップなど一日で体験できるヴォイトレはいくら受けても、本質的に大きく変わりません。それは、ちょっと声が出て心地よい実感を全員に与えるように仕組まれているからです。それが目的だから、批判しているのではありません。何でも体験するのはよいことです。しかし、この目的はヴォイトレで「声をトレーニングして変える」ということとは違うのです。

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「ヴォイストレーニングの目的」

○本当の問題は、声におけるさまざまな「二重性」にある

 声については、素人の方には考えられないほど、複雑な問題がたくさんあります。まず声は、歌やせりふなど何かに使うためのツールです。最終的な判断は、声だけでなく歌やせりふとしてこなされます。表現を成立せしめるものは、声だけではありません。発音、音程、リズムなど、いろんな要素がありますし、判断は声そのものでなく、声の応用された音声表現においてなされるということです。
 さらに、日本ではヴィジュアル面のルックス、表情、仕草などが大きくものをいいます。どの国でもその傾向はありますが、視覚的効果で聴覚的な判断がこれほど疎かになるのは、日本人だけと私は思っています。
 日本での圧倒的な「音声=聴覚」<「ヴィジュアル=視覚」の受け取り方は、日本人の音声表現力向上の最大の障害です。

 少なくとも声を身につけていくなら、聴覚での判断能力を磨いていくことが、もっとも大切なはずです。本当に音声表現力の完成度を問うのでしたら、声という音を奏でる体という楽器を最大限に鍛え、声のコントロール力をつけることです。これがもっとも基本的なトレーニングとなります。スポーツでの筋トレや柔軟、呼吸、集中力などのトレーニングにあたります。スポーツや武道、舞踏の基礎トレーニングをそのまま応用できることがあります。
 ※たとえば最近は、「腹筋をつけるな」などと言われるようになりました。ボディビルダーのチャンピオンクラスでない限り、歌い手や役者には、人並み以上の腹筋は必要です。腹筋の動きで声を出すとか、腹直筋で横隔膜呼吸するというイメージからそういったことが言われるようになったのでしょう。骨髄盤筋、インナーマッスルが大切などというのは、これと別問題です。

 第二に、自分の声は、自分だけはリアルに聞こえないということ、これは内耳(骨伝導の声も一緒に聞いてしまうことです。外に出している自分の声を把握するのが難しいために、トレーナーや第三者の判断に委ねた方がよいということになります。「自分で大きく聞こえる声はひびかない」などと言われます。
 第三に生まれたときののどから育っていくときののど、DNAレベルでの骨格、筋肉など、人種民族差、これらに加え、両親の遺伝による差もあれば、育ちの中でどのくらい声を使ってきたかによって大きく違ってきます。

※「発声してのどが痛ければ、声の出し方、のどの使い方が間違っている」とトレーナーに言われたという人もいます。
 私は、そういう人には、「いつもより多くの階段をのぼって筋肉痛になったら、足の使い方が間違っていたと思いますか」と言っています。つまり、日頃やっていないことを急にやると疲れるのは当然のことです。確かに、トレーナーとして声を壊させたら、信用を失うので危険なことはやらせないようになっていますが、最近、過保護すぎるのが気になります。
 こういうときは、イメージ、やり方を変えることもありますが、そう簡単に変わらないものです。
 量を少なく、声量をセーブし、無理な声域を出さない、何よりも間に休みをたくさんとればよいことです。睡眠不足や心身の疲れはこたえます。おかげで、ポップスの歌い手ものどの手術をすることも少なくなりました。
 しかし反面、若い歌手がデビューのあと、楽に無理しないことが第一優先されて、誰もが似たような発声になり、ファルセット依存などで、パワー、インパクトがなくなっています。日本の客もそういう癒し系の声やイメージを求めるようになったこともあります。私はのどを酷使することには反対ですが、このように器をそのままに、調整だけで音声表現をしていることが、歌の真の魅力を損なっていると思うのです。

 この第三の問題は、もっとも根深いことです。今の年齢まで、あなたが使ってきた声や歌ってきた歌は、あなたが生まれてから生きてきた全人生の結果の現れなのです。つまり、あなたのイメージや生活の中での使い方、鍛えられ方が顕著に出ているのが、声だということです。
 これを「私は、人はすべて生まれてこの方、誰しもヴォイトレを行ってきている」と述べています。その中で誰しもが、プラス面マイナス面を持っています。20歳くらいで歌手や役者になれる人は(日本のようにルックス中心では、歌とスタイルが第一でしょうが)、声でのプラス面が並外れて多かった人です。ヴォイトレに通ったのでなく、日常の中でかなりのレベルを習得したのです。

 逆に、どこかの学校の学年で一番歌の下手な人が、たとえ2年歌の先生のところに通っても、学校で一番になることは難しいのです。これが水泳やバスケットなら、部活動で2年もやれば、他の生徒より並外れて上達しているでしょう。ピアノなどの楽器も、2年やった人が初めて触れた人に負けることは考えられません。
 つまり、声を使うこと、歌やせりふは、赤ちゃんをのぞき、誰もが初心者ということはありえないということです。ですから、逆にカラオケ教室に10年通ってものど自慢に出られないどころか、近所の人に勝てなくても珍しくないのです。

 先天的か後天的かわかりませんが、そこまで育ってきた環境と、その中で養われた感覚や体には、大きな個人差があるのです。体やのどそのものの大きさも違えば、それの使いこなし方も違ってくるのです。これを同じ方法で、同じ年月で、同じ成果を求めることなど、不可能なのです。こういう日常の生活やその人の育ちの影響がそのまま、声に出るのですから、トレーニングにおいては、その目的や範囲をどのようにセットするのかがとても大切です。それとともに、自分に何があって、何が欠けているのかということです。さらに、そこから何が必要かを見極め、どのように変えていくのかということです。

※一例として、数年前に古武術がブームになりました。野球、サッカー、バスケットボール、陸上などでプロや有名校が取り入れ、成果を出しました。介護などの現場でも、患者の移動などのコツが役立ったようです。しかし、その後、多くのクラブなどが取り入れて、逆にうまくいかなくなったと聞きます。基本ができていないところに、きちんとした応用は効かないのです。
 趣味で楽しむアマチュアのスポーツと、毎日鍛錬している成果を競うプロのスポーツとは、レベルが違います。ヴォイトレもどこまで求めるかということ、その人の目的とその必要性からくるのです。

 一般の一日サッカー教室での基本やゲームの指導と、プロサッカー選手のオフシーズンでの基本の練習や肉体鍛錬、体の管理とはレベルが違うというのと同じです。自分たちが楽に、楽しくやるのか、見に来る人を感動させるのかは、どちらが正しいというのではなく、目的が違うのです。その結果としてのレベルもシンプルに大きく違うとわかりやすいのですが、歌い手や役者などの声の場合は、音楽などでカバーできるため、結果は複雑になっています。

 私が少々、厳しく述べているのは、それをわからないですぐに成果が出ないからと、批判するような浅いレベルでヴォイトレを捉えて欲しくないからです。
 私が今、指導している能の謡のヴォイトレでは、20歳でもそれなりに声の基本ができている人が来ていますが、そこから20年、40年と、さらに修業していく世界なのです。もちろん、それは声だけではありません。とはいえ、一生使っていく声に関して、求めるレベルが浅く、必要性がなければ大して変わらないのは、当然ということになります。彼らは謡のまえに、声そのものを自覚するためにヴォイトレにくるのです。

○本書のスタンス

 本書は次のように構成しています。これは真の声の改革のためのヴォイトレ書です。具体的にした分、一見、方法やメニューの集大成のようにみえると思いますが、すべてはあなたへの問いかけです。あなたがあなた自身を知るために、自らに問い、そして実践しつつ自ら選び、進めていってください。どんな方法やメニューでもよいのです。あなたがそれをどのレベルの深さまで使い込めるかの勝負だということを忘れないでください。

 尚、本書は類書のように、今のあなたの声ですべてをこなして、終えるものではありません。ヴォイトレの多くは、カラオケのレパートリーを増やすのと同じく、たくさんこなして慣れさせて、うまくできるような気にしているだけです。私が他書を読んで驚くのは、「そんな複雑なメニューをこなせるなら、すでに世界で一流レベルで歌えているはずではないか」というものが並んでいることです。
 たとえば、高い声を出すための本が、冒頭から高い声のメニューであったりします。高い声は、高い声を出して身につけていくしかありませんが、それでもおかしなことです。多くの本は、今のあなたの声の使い方を調整して出すことで、1,2割歌い方がよくなって終わりです。声が全くよくならないのは、自明です。そういうことを教えているトレーナーの声を電話でも、レッスンでも、聞いてみてください。

 どんな偉い人に習っても、声は一声聞いたらすべてわかるものです。ですから、天性のよい声か、努力して鍛えた声か、何にしろ、便利なものです。私が相当に無茶なことをやりつつ、未だにやれているのは、誰に対しても一声で、ここまでの人生での声の結果を示せるからです。
 しかし、私の声を真似ても仕方ありません。あなたはあなたの声をあなたの感覚で体を磨いて、取り出していくのです。そこで、足らない分は鍛えて補っていくのです。
 ヴォイトレは、トレーニングだというのに、「鍛えよう」という表現を私以外にほとんどみないのは、どうしてでしょうか。それは、のど声になるのをカバーするために、頭部共鳴に頼り、そこで多くはくせをつけて響きあてた声で弱々しく、高い音だけを目指して、歌うようなそらし方をしているからです(これをスキルテクニックとしているのが、大半です)。

○『ブレスヴォイストレーニング』について

 私は20年以上前、これでは世界に通用しないと「ブレスヴォイストレーニング」を提唱しましたが、日本の歌は、現場ではますます高く、浅く抜く方向になりました。オペラ歌手もリリックなドイツリートにと偏向し、さらに世界との差を広げられてしまいました。演劇もミュージカルも、役者も腹から声の出る人は少なくなりました。政治家も財界人、言論人も、芸術家も声の迫力は衰えています。お笑い芸人や歌舞伎、落語で若干、体から声の出る人がいるという状況です。
 私の「ブレスヴォイストレーニング」は、役者声を目標に胸声(低中域)の充実を目的にしたものですが、当初、日本の声楽家の大半と対立したかと思えた方法も、長らく研究所を続けるうちに、基礎トレーニングとしてはすっかり融合しました。全声域に渡り、使えるトレーニングとなりました。J−POPSのトレーナーのように、もともと生まれついて高音の出やすいのどを持つ人を真似るよりも、声楽のようにトレーニングによって、自分のもつ条件を変えて習得する方が高音としての確実なものとなります。
 つまり、クラシックな発声=その人本体のオリジナルな声を感覚、体を極限まで鍛え、楽器の完成度を高めた上で、完全にコントロールして使えるようにしていくということです。

 今のところ、私はトレーニングをベルディング唱法と声楽との混合したものと位置づけています(これらも定義しにくいし、机上の論議となるので避けます)。役者、声優、アナウンサーは、せりふから上のことで問われるのですが、イタリア語(語意や方法は無視して)でそれっぽく読んだり、「アー」や「ガー」だけで、それをもとに呼吸(筋)、体や感覚づくり、さらに共鳴をつかんでいくのも一つのアプローチです。ヴォーカルと同じく、声の音色、そのものの魅力と、その動かし方についての徹底したトレーニングをしています。

 私が役者や黒人トレーナーでなく、日本の声楽家と組んできたのは、基礎づくりにもっとも細かく、鍛えるプロセスのチェックができているからです。つまり、声楽家は共鳴の専門家であり、それだけでは心もとないのですが、私のところでは、プロや一般の人と接して、呼吸や体づくり(体の管理、トレーニング)に加え、せりふやその表現から、声力の必要性を与えるようにしています。

 声楽家の皆さんには(これはハモネプ、合唱団、日本のミュージカル、日本のゴスペル、ハワイアン他、ポピュラー、特にJポップスを含めてよい)、高音域に響きを届かせようとするだけの練習をやめて、トータルとして、自分の声を、音色と動かし方を中心に、声をみていくことをお勧めします。

 日本では、自分の器を大きくして、その中心の上にオリジナリティを発揮するより、歌いやすい(つまり、軽く動かしやすく、メロディやリズムがとりやすい)声と、その発声ばかりが優先されてしまいます。その結果、声そのものの持つパワー、インパクトがありません。そのまま言語=リズムに音楽として動き出す(私はそれを”歌”と呼ぶ)のを待てないために、1,2割の上達で頭打ちとなり、デビューの歌の声が最もパワフルという歌手ばかりになりました。小手先でやっているから、そのことがいつまでも一皮むけないのです。プロになって、まわりのプロデューサーやトレーナーの向こうのプロのレベルにバランスをとることと、声が楽に出ることばかり気にするようになって、最も大切な個性と表現力を失っていくとさえいえるのです。

 2,3倍うまくなりたいなら、”うまくなる”という目的をやめて、”すごくなる”ように、しゃべるように叫ぶように感覚することです。そのために日常から表現をする内容や意志を持ち、言語に表わし、テンションを全開にすることです。
 尚、本書を上梓するにあたり、研究所のトレーナーはもとより、ここに通う著名なヴォーカリスト、役者、キャスター、邦楽家、ミュージカル俳優、専門家、合唱トレーナーほか、1,2=受講生など、多くの考証と実証の機会をいただいており、ここで感謝を表わしたく存じます。
                         福島 英

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(1) ヴォイストレーニングがわからない?

 最近、私の講演会には、歌手、俳優志願の方のほかにも、ヴォイストレーナーや指導者、声楽家、演出家、キャスターの方などがよくいらっしゃいます。ベテランの役者、お笑い芸人、プロデューサー、インストラクター、講演家など。さらに一般の方のなかにも、人前で話す方、声に関心のある方なども増えています。高齢者から、中高校生まで、声に悩んでいる人も増えました。多くの識者が、「声の力」の必要性を宣伝してくれるようになったこともあるのでしょう。

 ただ、そこで一様に「ヴォイストレーニングがよくわからない」といわれるのです。いやむしろ、「一度受けてみて、よくわかりました」「うまくできるようになりました」などといわれる方が、問題が根深いかもしれません。
 多くの本やセミナーがあるに関わらず、声のトレーニングは混迷を深めているようにさえ思われます。事実、劇団などに話をしにいくと、そこでは多くの方が自らの声についてもですが、それ以上に、他人に「声」を教えることについて、悩んでいるのです(いや、悩んでいるなら、まだ何かに気づいているからよいのですが・・・)。
 「声について、何か根本的に勘違いしているのではないか」、もしくは「声そのものが若い世代において変わったのでないか」、さらに「学び手の求める声も変わってきたのではないか」、などといった疑問が出ることも少なくありません。そういうことも念頭において、ヴォイストレーニングに関心のある人全般のために書いた本です。実践に即して述べるため、これまでの私の研究所での取り組みや私のこと、さらに私への質問なども具体的に取り上げていきます。

※指導における課題
 近年、声に関する書物が増えました。ヴォイストレーニングはカルチャーセンターでも人気講座の一つとなり、ヴォイストレーナーやヴォイスティチャーを肩書きにする人も増えました。ただ、安易に自分の体験だけをもとにした指導も多くなり、とんでもない誤解や誤用まで引き起こしています。この分野で先駆けてきた私は、少なからず責任、つまり、このわからないものをよりわかりやすく理解していただくための努力の必要を感じています。

 私は、相手を知らない状況で、トレーニングについて、本書で述べることには、慎重に、本というものの限界を認めた上で対処してきました。誰でも何でもできるようには、書いてこなかったつもりです。それでも現実には、誤解、誤用をまぬがれないことも知りました(誤解、誤用は、本だけでなく、レッスンでも頻繁に起こります)。そのため、現場での実践から省みては、5〜10年ごとに改訂版、あるいは新版にて表現を改め続けてきました。

 トレーナーの問題もあります。これについては本文中でも詳しく触れますが、一言でいうなら、自分一人で指導をしているために、あまりにも客観的な検証に欠けている場合が多いということです。指導にあたっては、発声技術を身につけたつもりの本人が、自身を基準として考えるのは当然ですが、相手の一人ひとりの個人差をあまりにも理解しないまま、一様なやり方で行なっており、改善をしていることもないように思われます。特に、声はのどという「楽器」から出すため、トレーニングで開く可能性がある一方で、「楽器」が個別に違っていることからくる、さまざまな限界もあるのです。
 また、学び手があまりに知識がなく、素直であるため、トレーナーがのど声であっても気づかずに、それを真似て、くせがつくこともよくあります。販売されているCDに聴くお見本でさえ、そうなっているのが多いのですから、トレーナーから学ぶ場合も、そのトレーナーがそういう感覚でいるなら同じことでしょう(もちろん、そのトレーナー自身が自覚して、真似させないような対処をしていたら、トレーナー失格ではありません)。
 とはいえ、いろんな人が教えるのは、新しい時代の波ですし、いろいろなレッスンやトレーニングがあるのは、よいことです。何事であれ、いろんな材料はあった方がよいと思うからです。
 ただ、声のレッスンは、トレーニングメニューややり方を教えられて終わりなのではなく、そこからのトレーナーとの共育(共に育つこと)なのです。本当の効果をあげるには、それなりの準備も必要です。現場での経験を基に、どんどんと本当の力をつけていただきたいと思っています(そうなれば、私自身も安心して、本来の研究や活動に一層専念できるようになります)。

 とにかく長年にわたり、おそらく誰よりも多くの声を聞き、見て、いろいろ試みてきた私の経験を述べることは、現在の声の問題、さらにこれから起きてくる声の問題に対して、役に立つのではないかと思っています(特に、日本人の声が世界に進出するために、踏み台にして欲しいと願っています)。
 レッスンの受講を望む人の層が思いのほか、広がっているため、未経験の相手を前にしては、試行錯誤するということを繰り返す現状では、まだまだ課題を残したままですが、その課題も明らかにしておきます。この分野に欠けているのは、声という幅広く深い分野に対しての、多くの専門家との協力体制に他ならないと思うからです。

○ヴォイストレーニングとヴォイストレーナー

 私の主宰する「ブレスヴォイストレーニング研究所」を訪れてきた顔ぶれの多彩さには、我ながら驚くばかりです。タレント、歌手から落語家、声優、アナウンサー、キャスター、ナレーターから、学校の先生はもとより、議員、外交官、ケアマネージャー、介護士、一般のビジネスン、OLさんもずいぶん多くなりました。そして、トレーナーやスクールも増え、カルチャーセンターでも人気講座の定番になったせいか、「もっと学びたい」とか、「いろいろなところで学んだが効果がない」など、ヴォイストレーニングも啓蒙期から吟味、選抜の時期に入ったとさえ思われます。

 ちなみに私は、複数のトレーナーと二十年以上にわたり、“組織として”トレーニングをしてきました。しかし、それぞれのトレーナーの個性を最大限に活かすという難題をかたし、両立させてきました。
 その経験から、トレーナーの選び方、ヴォイストレ−ニングの方法や学び方について、毎日のようにメールで質問を受けつけ、そのヒントを公開しています。たとえば、「発声」「トレーニング方法」を知りたいという方に、何十冊もの本やサイトで答えてきたのです。ただし、一般的な回答は教科書と同じで、一個人の具体的なトレーニングにそのまま活かすには、難しいものです。特に声の場合は、個人差が大きいため、一般論では通じないことが多いのです。ネットなどを通じて議論しても、本人不在の机上のやりとりでは、ほとんど現実に無力なのです。また、レッスンで伝えたことを身につけるための自主トレーニングが必修ですが、そこで大きく方向や判断を誤解して、悪くしてしまう人が少なくありません。この点を防ぐことが、最大の問題の解決であり、本書の目的でもあります。

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 一般の方にお伝えしておかなくてはいけないのは、「ヴォイストレーニング」「ヴォイストレーナー」とひとくくりにされているのに、そこには何ら、共通の方法や基準もないということです。これは、声というものが得体もしれないというか、ほとんどの人が使って生活や仕事をしており、一概によしあしや正誤などいえないところで扱われるものだからです。しかし、トレーナーがトレーニングするとなると、事情は一変して、いかにも正しい声や優れた声があり、それを習得させるというスタンスをとらざるを得なくなるのです。ですから本にも、「自分の方法だけが正しい」「新たに発見した私の方法ですべて、すぐに解決」というようなトレーナーが、跋扈(ばっこ)することになります。
 声に自信のない人は、声の正解を求めたいから、そこにレッスンが成立しています。私が20年以上みてきて、今やそれが極まれりという状況なのです。
 何ら他の人と声の変わらないトレーナーが、本に書かれたようなことを処方して、声に自信のない方が「とてもよくなった」と思わせてあげています。実のところ、本人も何ら前と声は根本に変わらず、自信をもったせいで、説得力が出るのです。ちなみに、アナウンサーは報道のプロで、発音、滑舌、アクセント、イントネーションなどは詳しいのですが、いろんな人の声自体についてはけっこう素人、役者、声優もそれに近いといえます。

 私の研究所は、プロやヴォイストレーナーも学びに来るところなので、そのようなレベルでのヴォイストレーニングの流行を心配しないわけではありません。しかし、ビジネスというなら、エステやヨガと同じで、対価に見合う満足感を得られたらよいとも思うのです。それでヴォイトレのすそが広がることは、悪いことではないから、私もここ10年、一般向けの本を精力的に出してきたわけです。
 ただ、ヴォイストレーニングとトレーニングというからには、私は、本書もそのきっかけになればと思いつつ、やはり本物に至る伏線を引いてしまうのです。つまり、プロでも使えるどころか、声の弱い日本人が、外国人レベルを超えられるというところまで、考えてしまうのです。
 せっかく20年前に日本人の言語音声力の欠点にまで遡り、外国人のトレーナーにも教えられない基礎の基礎まで掘り下げたのに、後進の人たちが、表面的なことでヴォイトレを捉えているのに過ぎないのが残念なのです。
 本当に声を深く捉えたのなら、外国語の習得、アンチエイジングはもちろん(拙書一覧参考)、一声で相手を説得できるあなた自身の最高の声、ここを間違えないで欲しいのですが、声がよい人と同じ声でなく、あなたの喉やキャラクターに合った、最大の可能性をもつ声(プロの声)を獲得していけるのです。

※私は、ヴォイストレーニングをする人は、自らが自分のヴォイストレーナーであるべきと思っています。この本は、私がヴォイストレーナーとして、ヴォイストレーニングを語る本ではありません。私にとっては、「ヴォイストレーニングとは何ぞや」とか、「ヴォイストレーナーとは何ぞや」とかいうことは、そう簡単に述べることができないからです。この分野を今の私が代表できるものだとは思っておりません。私自身も自分で気づかぬ一人よがりを防ぐため、声楽家や医者や音声学者など、多くの専門家に協力をお願いして、どんどん成長しているのです(一例として、今、能の謡と詩吟については、長唄の師匠や合唱団のトレーナーを誘って指導しています。こういう連携やプロデュ−スがほとんどみられないこと自体が、この分野の閉鎖性と発展の妨げとなっているのです)。

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 私は、これまでたくさんのヴォイストレーニングに関する本を出してきました。今から二十年前に、書店にギターやピアノの本の棚があるのに、「声」に関する本はほとんどなかったのです。あっても声楽の専門書、あとはスピーチ、話し方の本といった程度でした。そこで私は、ヴォーカルやヴォイストレーニングという棚ができるまで、入り口をつくろうと思いました。自他ともに、より研究する必要があると思ったのです。幸い、拙書はロングセラーを重ね、その後、いろいろな出版社がこぞって「声」の本を出すようになりました。他のトレーナーが出版したり、仕事として自立しやすくしたくらいの礎にはなったつもりです。
 私の一連の本によって、多くのトレーナーから、受講者も増えたとのうれしい知らせもいただいています。また、私の本の愛読者であった人も活躍するようになって、ときに会いにいらしたり、後輩を紹介していただきます。ありがたいことです。

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○「ヴォイストレーニングの”ビフォー&アフター” 〜ヴォイトレで何が変わるのか」 

 ヴォイストレーニングを目的と結果、ビフォーアフターでみてみましょう。
 トレーニングをしたのですから、何かが変わるわけです。いろんなトレーナーのあげる例でみると、大体、次のようなものです。

   Before   →   After
1.高い声が出ない   高い声が出た
2.大きい声が出ない  大きい声が出た
3.声がかすれる    声がかすれなくなった
4.声が疲れる     声で疲れなくなった
5.声が弱弱しい    声が強くなった
6.声が出しづらい   声が出しやすくなった
7.声が途切れる    声が途切れない(途切れにくくなった)
8.声が悪い      声がよくなった

 このうち、1の声域、2の声量は、相対的なものでしょう。「まわりの人に比べて劣っていたのが、人並みになった」ということか、「自分の中で出しにくかったのが出しやすくなったのか」、これもあいまいです。高い声も大きな声も人間としての限度もあるし、個別にその人の限度もあります。
 しかし、最初に申し上げておくと、ヴォイトレにおいて、結果(終点)はもちろん、始点(現状)を定めるのさえ容易なことではありません。しかしだからこそ、ことばを使ってはっきりさせたいということになります。ただ、それが逆に一つの目安としてのことばのイメージが一人歩きして、トレーニングの進行や効果を妨げている例はとても多いのです。

 とはいえ、ビフォーアフターでみるなら、「前よりよくなった」で充分かとも思います。その人の中では、トレーニングにしろ、レッスンにしろ、やればやらなかったよりも大体はよくなります。相当やってからレッスンにいらっしゃる場合は、さらなる伸びしろがそれほどないということもあります。

○目的に対する現実の問題とは

 大切なのは、一音でもトレーニングした結果の声が出てくることです。つまり、トレーニングをして、「トレーニングしていない人には出せないレベルの声」にするということでしょう。
 トレーニングもせずに、高い声を簡単に出せる人がたくさんいるのに、できない人がそれを無理に補正することだけに年月をかけていると、早々に限界になるわけです。できて当たり前、だからやらなくてはいけないということではありません。できても、何ら強みにならないことは目的にしないことです。
 一方、カラオケの上達法は、今では高音やファルセットをそれらしくすることにつきます。あなたがしっかりとした声を本当に身につけたいと思うなら、そういう人たちの目的には、あまり関わらないことです。それは、結果として、あなたが本当の個性(個声)を出せずに終わるのを選んでいることになります。体から表現できるしぜんでパワフルな声の可能性は、眠ったままになるのです。
 絶対的に自分の声がトレーニングされ、トレーニング以前と一声で、つまり一聴で違って聞こえるレベルにするというだけのものを選ぶことです。少なくとも、それが私の考えるヴォイストレーニングなのです。

 声域、声量重視(特に高音)の考えは向こうのすぐれた歌唱をする人のコピーからきたものにすぎません。現に、そういう人たちの目指す理想のレベルの人たちは、何も苦労せず語りかけるように歌っているではありませんか。それなら、まずは語りかけられるように、歌える声の獲得が先でしょう。
 短期、目先の目的のみに価値をおくと、トレーナー自身が気づかないうちに、いやむしろ、相手のために親切に頑張るほど、トレーニングの大半の問題を刷りかえてしまっていることが多いのです。もっともそれがわかっていても、相手が求めるから、対応しているトレーナーもごく一部にいます。対応すべきは、現実問題だからです。

 何よりも一声を変える方が、声域声量などよりも大変だし、わかりにくいからです。時間もかかります。しかし、これがわかりにくいのは、低レベルでの格闘だからです。素人にもその違いは一声でわかる、それだけの声でなければ、どうしてトレーニングの成果といえるのでしょう。
 鍛えられた声の見本は、CD、DVDにいくらでもあります。私は今、能、狂言、歌舞伎の演者に接していますが、そこでの第一人者は声だけでも第一人者です。つまり、トレーニングされた声を示せるトレーナーが、あまりに少ないのです。(むろん声が鍛えられた分、個性的でアーティスト性を帯びるケースもあるので、そこはメリットとデメリットがあります。)

○体でみせる声の基準

 私の会ってきた海外のヴォイストレーナーにも、いろんな声の人がいます。ただ、少なくとも私は、本人の一声でトレーニングの成果を示せないトレーナーのいうことはあまり信じません。そこに何ら能書きや理屈はいりません。声で話しているのですから。ただ、そのようにして出来上がっている体、感覚はあまりにしぜんですから、そう簡単に真似のしようもありません。

 ときおり、私はトレーニングのプロセス中の人の声のビフォーアフターを聞かせていました。でも、それはあなた自身の声(のど)とは違うので、参考にしかなりません。とにかく、皆さんにもヴォイストレ−ニングを本格的に行うと、声自体が変わることを知って欲しいのです。
 声の判断にも好き嫌いは入ります。私の声が嫌いという人もいるでしょう。ただ、私はいつも歌も声も学びたいなら、好き嫌いでなく、優れているかどうかでみるべきといってきました。私は少なくとも自らの声でそれを示してきたつもりです。
 残念ながら、このような声の本質やその形成プロセスをよく知るトレーナーはあまりいません(外国人のトレーナーは、日本人については、自分たちがしぜんと獲得してしまった声の形成プロセスを示せません。
 声の深さ、息の深さの見本は、私はいつでも瞬時に示しています。すぐには絶対に真似られないから、トレーニングが必要なのです。
 もちろん、そんなことをしなくても声についても、素質と育ちに恵まれたプロやプロレベルの人もたくさんいます。すぐにそのようにできる人はそうしたらよいのです。海外でも日本でも、ヴォイトレなしに一流ヴォーカルとなった人はたくさんいます。私のヴォイストレーニングは、一流の声の持ち主のプロセスを凝縮したものですから、そういう人は研究所に来なくても、私の述べているヴォイストレ−ニングをしたことになるといえるわけです。

 ヴォイストレーニングはトレーニングというのですから、負荷をかけ、それで器(体、感覚)を大きくします。ヴォイス=声(のど)に負荷をかけるというと誤解の元ですが、声帯筋、のどの筋肉、呼吸筋、体の筋肉なども鍛えるのです。
 もちろん急にハードに行うと壊しかねません。副作用も出ます。そこは注意しなくてはなりません。それは一人では難しいし、トレーナーがついていても、自分勝手にやりすぎて損ねてしまう人もいます。自分で自分のをみるのは無理ですから、レッスンに通うのです。

 それぞれの人に「今、調整して使えるもっとよい声(ベターな声)」と、「今からトレーニングして得られるもっともよい声(ベストの声)」があると、分けて、私は述べています。
 現に、私のところのトレーナーも、役者、声優の第一人者も、たとえば平井堅さんも声は声としての完成度(話し声も応用性に富む)をもっているのです。それに比して、学校の先生や医者、言語聴覚士、演出者、プロデューサーなどのいう、いい声は前者の「ベターな声」にすぎません。彼らの声自体は、それにも値していないことが多いです。(それはそれでよいのです。なかには、体やのどのとても弱い人もいます)

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1.日本人の理想とすべき声のベースとは

 私がヴォイストレーニングにあたり、最初に考えたのは、欧米の歌手や俳優の持つ声のパワーとインパクトとの差でした。
 それとともに、日本のヴォイストレーニングでの現実の成果、いったいヴォーカルの声そのものは、歌唱技術はともかく、ヴォイストレーニングでどのくらい変わっているのか、そこに大きな疑問を抱いたのです。
 最初に、私の関係してきた劇団で、どんどん声がよくなっていく役者たちと、大して変化のない若い声楽のトレーナーとをみたことも大きなきっかけでした。お笑い芸人は、短期間のうちに声を鍛えてプロになっていきます。私自身の声も、十代の頃とは比べものにならないほど、タフに力強く、深くなりました。今では、8時間話しても、全く変調がありません。
 役者はせりふを言うことで、4〜5年をかけて少しずつ声がよくなっていくのがわかりました。それに比べ、最近の日本の歌い手の声は、普通の人とあまり変わらないのです。現在のポップスの歌手やトレーナーにも、声は素人同然の人は珍しくありません。声の使い手のプロであるのに、こんなおかしなことはないと思います。

 そもそも日本人でプロの声をしているというと、誰が思い浮ぶでしょうか。私は、一時代前の役者の声となるのです。時代劇俳優やアクションスターによい声の使い手が多かったように思います。歌手の声でも印象に残るのは、独自の音色のあった1970年代くらいまででしょうか。
 それでは、今の時代のお手本は誰でしょう。私はお笑い芸人といわれる人を参考にさせています。
 確かに朗読家、声優、ナレーター、アナウンサーにもすぐれた人はいます。しかし、どちらかというと、発音、滑舌と日本語アクセント、イントネーションですぐれてはいますが、声の力そのものは、日本ではそれほど問われていません。オペラ歌手は、日本人に限ってはですが、どうも話し声がよいとはいえないし、声も弱い人が多いように思われます。
 落語家、ミュージカル俳優や歌手、朗読家、ナレーター、講演家、セールスマン、販売員なども、プロとして声を使うといってよいでしょう。
 ただ、それもプロとしての声の使い方をしている人が大半です。それでは、声だけでプロと思わせるには足りません。もちろん、どちらでもない人が、大半ではないでしょうか。

2.二つに分かれてしまう日本人の声

 ここで、海外との差がわかりやすいミュージカル俳優を見てみましょう。本来は、個人別にみていくべきものですが、大まかな分け方をしてみます。日本の場合、どうも声楽出身者と役者出身者にくっきりと分けられてしまうのです。仮にここで、前者をXタイプ、後者をYタイプとしておきましょう。
 Xタイプは、声が伸びやかでつやがあります。声楽特有の歌声、音色があり、それは高音域で明らかに目立ちます。つくった声、磨かれた声であり、そこには確かに一つの基準と技術があります。
 日本には、その基準に基づいた声の傾向があります。出来不出来や、他人との比較が容易なのは、「日本の声楽」という共通の土俵があるからです。私が「日本の・・・」とつけるときは、世界標準というものがあるとしたら、それとは少し異なるということです。
 日本人の場合は、ほんの少数をのぞき、個性的とはいえず、ややステレオタイプ、多くの人に思い浮かべるクラシック歌手のイメージです(本来はそのように、それっぽいふしぜんな声ではないのですが)。このXタイプは、ミュージカルにおいて、貴族役などには合います。「オペラ座の怪人」e.t.c...。
 一方、Yタイプは、パワーとインパクトがあります。クラシック型に対して、ロック型といえます。それぞれにあまり似ておらず、個性なのか、くせなのか、ともかく存在感があります。中には、低音や太い声のあるタイプもいます。苦手なのは、高音処理です。シャウトでこなす人もいます。合うのはロックオペラ。それでも日本人の場合、細くかん高い声になる人が多いです。

※最近、ミュージカル俳優が私の研究所によく来るようになりました。それはかつての教え方が若い人に通じなくなったことや、演目にアフリカンリズムなど、これまでの日本の声楽の発声では似つかわしくないものが増えたため、さらに出演者に「声」においても、役者的な要素やより求められるようになったからでしょう。
 Xタイプは、「エビータ」のミュージカル版「劇団四季」、Yタイプは、映画版「エビータ」のマドンナとバンディラスのと考え、それぞれ、同じ歌を比べてみるとわかりやすいでしょう。
 さて、どうしてこのようにはっきりと二つに分かれるのでしょうか。海外のように、どちらのよさをも兼ねそろえたような人はいないのでしょうか。この分類を、もう少し他の分野に応用してみますと、
 X.アナウンサー、ナレーター、声優、コーラス、合唱団、民謡、童謡歌手……似た声、ことばの意味伝達が主
 Y.キャスター、パーソナリティ、落語家、レポーター、ゴスペル、ロック……違う声、感情の表現が主

 ポップスのヴォーカリストでも役者と声楽(音大)出身の人では大きく違います。カンツォーネとシャンソンの中でも違うし、演歌とニューミュージック、ジャズと民謡でも違います。
 ジャンル別というよりも、二つの声の目指す方向の違い、古いところでは三橋美智也と村田英雄の声の違いと考えてください。そこには民謡と浪曲の違い以上のものがあるのです。これを、内輪(室内)と外野(野外)の声といっている人もいます。
 日本の場合、この二つのパターンそれぞれに代表する声や共通する声が、どこにもあるようなことがおわかりでしょうか。(わからない人には、少し違いますが、細川たかしVS前川清など)

※かつて、舞台というのは、今ほど音響がよくありませんでしたから、プロになるということは当然、大きな声、通る声が必要でした(実際には、大きな声、通る声とは違うのですが、そう思われてもいたのです)。そのためにも、生まれもっていながらの楽器である声が大きく太いことが条件でした。
 これは共鳴によるので、生まれ持ってあごが大きい、顔が大きいのは有利だったわけです。それに加えて、声の使い方で大きくすることが問われたのです。アナウンサーも、歌手もその類にもれません。そこで歌手の多くは、声楽のレッスンを受けました。声楽家出身の人がポピュラーの黎明期を築いたのです。
 その頃のよい声は、藤山一郎、近江俊郎、淡谷のり子などといえば、おわかりでしょうか。日本では声楽出身、しかも、日本では一流どころの彼らは、むしろ声量を抑えるのに苦労したようです(ちなみに、声を大小や長短で調整するのも、日本人らしい感覚です)。これは、ポップス、特にカンツォーネやシャンソン歌手などには、継承されました。
 代表的な例をあげると、宝塚歌劇団の越路吹雪や岸洋子でしょう。今もその感覚はミュージカルに流れ込んでいます。ただ、これを語る上で、声楽の中でもみられる日本の特殊性に触れないわけにはいきません。

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○日本の声楽の限界と日本の歌のふしぜんさ

 声楽家に対して、持つ声のイメージというのは、日本では必ずしも的を得たものではありません。海外の本場の声楽家とは、やや異なるといってもよいでしょう(最近さらに、しぜんに自分の中心の声を使うイタリアのベル・カントよりも、先生に教えられるやわらかなドイツ式リートに傾く人が多く、なおさら、ドラマチックな迫力がなくなってきました)。それが時代の要請とともに、日本人の限界を見据えた処方だったとしたら、まさにポップスと同じことが起きたわけです。
 あまり本場のものをみたことのない人は、日本人の弱く美しくやわらかい音色に対し、向こうの迫力にびっくりするかもしれません(本書は、声楽の本でないので、これ以上、イタリア、ドイツなどの違いには触れません。ただ一説には、その人の体の中心の声を伸ばすイタリアと、師のコピーを徹底するドイツの違いがあるそうです。そうであれば、日本の声楽が後者になっていくのはよくわかります。私は前者の立場をとっています)。

※たとえば、「千の風になって」を大ヒットさせた秋川雅史さんがいます。彼を日本の声楽家の代表の例とするのは異論もあるでしょうが、その歌と三大テノールの歌とを発声だけで比べてみてください。新垣勉さんや錦織健さんでもよいでしょう。ロックなども歌っていた彼のクイーンのカバーと、オリジナルを聞き比べるのもよいでしょう。
 日本の声楽家が、著しいレベルアップをしているのを、私は認めますが、昔のように国際的スターが出ないのはどうしてか、ということも念頭において読んでください。私自身がクラシックで学んだ感想では、「本物はなんとしぜんでダイナミックなのだろう」ということでした。ストレートで、ことばを言うようにして、声がビンビンにひびいています。そして、せりふ、普段の声もとてもよいのです。

※本書は、日本人の批判や欧米人の賞賛を旨とするものではありません。ちなみに、韓国、中国、ニュージーランド、フィリピンあたりもクラシック、ポピュラー問わず、すぐれたレベルの歌い手が出ています。ですから、欧米VS日本でなく、日本以外VS日本と考えています。しかし、こういう入り方をするのは、私の願う、しぜんな声の使い手があまりに日本に少ないからです。
 もちろん、イタリア人がイタリア語を使って歌うとしぜんです。少なくとも、日本人がイタリア語を学んで、欧米人になり切って歌うよりも、しぜんなのは言うまでもありません。しかし、ここで述べる「しぜん」とは、そのような現実のことばの巧拙の問題ではなく、歌におけるリアリティの成立においてということです。私には、パンクやへヴィメタの声でも、理にかなっていれば、「しぜん」といえるのです。ジャンルを問わず、一流のもつ条件は、しぜん、シンプルに尽きます。

※日本は、音(オーディオ)より、絵(ビジュアル)の世界に才能が集まっているというしかありません。

※私のこのリアリティへの思いは、日本の歌で満たされなくなりつつあります。それが顕著なミュージカルのふしぜんさに例をとります。いきなり踊り出したり、いきなり歌い出す、タモリさんがネタにしてからかってきた、わざとらしさ、ふしぜんさです。このことは日本のミュージカルだからではありません。日本は向こうのものを真似ているのです。本場とそっくりに真似ようとしてやっているのです。シミュレーションが似ているゆえに、そこで、ふしぜんさが目立つのです。
 一応、断っておきますが、これは、日本人が金髪にしたり、ドレスを着たりすることのふしぜんさではありません。日本人の作家の書いた日本を舞台に、日本人しか登場しない作品でも私は感じるのです。そこでも、たまに出ている客演の外国人の歌の方が、しぜんに思えることが少なくありません。そういえば、外国人が日本語で歌う歌の方が、高く評価されているケースが多いのではありませんか。
 日本人の場合、音程だけを歌っているような歌唱、高い声はひびかせ、スタッカート気味に歌うという、いかにも声楽もどき歌い方がそのまま表われるのです(誤解がないように言うと、クラシックでなく声楽もどきです)。このあたりになると、日本語の弱点の問題も加わってきます。
 ふしぜんに対し、しぜんとは、歌い方や発声の仕方が表立って出ないものと考えてください。つまり、音程やメロディや発声の技術などが表立って出てはいけないものに対して、ということです。それは表現やリアリティが欠けているから目立つのだと捉えるべきです。
 これは根本的には、表現、個性、構成、展開などを、芝居や歌にもちこもうとしなかった日本人のドラマツルギーのなさに由来しているのかもしれません。しかし、ルビをふって日本でだけ日本語で歌う外国人の歌の声のしぜんさ(イントネーションはおかしいのですが)には、私はいつも驚かされてきましたが、今や、それはあたりまえのように思えてきました。
 お笑い芸人をみていると、金髪に付け鼻をつけて、外国人になり切ってコントをすることがあります。へたな芸人は、日本人が合わないものをつけているのが目につきます。うまい芸人は、客に日本人か外国人かも忘れさせ、その芸に魅せられます。そういうことなのです。
 歌や声が目立つ(これもよくありませんが)ならともかく、歌い方や発声が目立つのは、決してよくありません。ところが日本の舞台では、信じられないことにそれを売りものとし、発声技術っぽいものをわざと披露していることがあります。余興ならよいのですが、どうもステージがもたないから小手先で拍手を稼ぐ、売れない芸人のサービス精神のようにみえます(またそれをブラボーと受ける客がいるのも事実です)。本場をまねするなら、このような邪道なことをも厳しくカットすべきだと思うのは、私だけでしょうか。もちろん、本場に追いつけとか、超えろとはいいたくありません。日本人に、日本で日本人が演じている以上、そこが本場であるべきだからです。

 このふしぜんさは、映画の吹き替えやアニメの声優、子役相手の番組の声などにもみられます。アナウンサーもレポーターも、あまりしぜんには思えません。そう考えると、部下の上司へのおべっか声も、主婦の電話の話し声や、先生と話すときの声まで、嘘くさく聞こえてきます。
 それを日本人にとっての音声風土とみることもできるかもしれません。少なくとも、日本人の声の使い方や話し方に大衆に向かって話すものはなかったからです(逆に強い音声表現を使わないのが、マナーとされたのかもしれません)。私は、日本は音声表現を嫌う国なので、役者の養成所にでも行かなければ、欧米の一般レベルの音声言語表現がつかないともいってきました。日本人に欠けているもの、それは呼吸法や共鳴法ではなく、音声言語表現力なのです。これには聞く力も含まれます。

※日本には「会話」はありますが、「対話」はないと、よくいわれています。舞台やTVでは「対話」が必要です。簡単に言うと、身内では「会話」、第三者に伝えるのが「対話」です。これは日本語にはないので、つくらなくてはならなかった。日本人は、内の人には何も言わなくとも以心伝心です。外の人も、話をするときには、もう内の人になります。そして、全く外(ヨソさま)には話をしません。対話する必要性がないのです。
 一方、外国人は、身内でも対話をするのです。対話というのは、持論で論理的に説得して、相手を従わせようとするものです。コミュニケーションのあり方が全く違うのです。
 日本では、農耕生活のため、長老政治の封建的な身分制度、家族制度が背後にあり、村長、父、長男の言うことが絶対、議論の余地はありませんでした。そこでは、ものを言わなくても通じたのです。相手が異なる意見を持っていることが前提の、異民族の混合社会を主とする外国では、コミュニケーション手段として対話が中心でした。たとえ兄弟であっても、自分の思うところを説き、その論によってジャッジする教育がなされていたのです。つまり、音声言語表現力として、家庭でも学校でも、教育されていたのです。

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○日本語の音声力の弱点を、日常の言語力を鍛えて補強する

 対話においては、自分の意見を一方的にまくしたてるという場合、お腹から息を出し、強くメリハリをきかせて言い切っていかなくてはいけません。一つの持論を、それなりの長さで言い切るまで、聞き手は黙って待ちます。日本人のように、途中で投げ出しても相づちを打ってくれることはありません。そこで、おのずとお腹からの呼吸をベースとした腹からの深い胸声が中心となります。姿勢、発声、呼吸の問題もここから考えたいものです。
 少し大きな声で、強く言い切ると角の立ちかねない、大人げのない日本では、常にあいまいに語尾を濁し、うやむやにします。
 しかし、このような日本人のコミュニケーションの仕方は、見方を変えると、言語を介さない腹と腹との高度なコミュニケーションといえるのです。ただし、論をもって説得する必要がないため、言語能力は磨かれません。必要のないものは発展せず、衰えていくのです。
 そこには、日本語の特性も、日本の風土、住環境、気質も大きく影響しているのです。それゆえ、舞台のためには、外国人が日常レベルで得てきたことから学ばなくてはなりません。舞台では、対話、説得を必要とするのですから。

 となると、先述したように、彼らが日常で生活しているなかでやっていることが、日本人にとっては演劇の養成所で習得すべきことだと言ってもよいでしょう。
 「外国人は20歳で20年のヴォイストレーニングをやってきている」と私は思っています。それに加えて表情トレーニング、ボディランゲージもやっています。聴音トレーニング、発声、発音、調音トレーニングもやっています。
 日本人でも難しい日本語習得において、それをやってきたと思われるかもしれません。しかし、日本語は読み書きは難しいのですが、音声は幼稚園に入るまえに両親などから教えてもらっただけではありませんか。中学校で英語を学ぶまでは、よほど方言の強い地域でなくては、日本語(共通語)の発音練習などやっていないはずです。だいたい母音もアイウエオの5つが言い分けられたらよいのですから、アだけでいくつもの発音のある国と比べても仕方ありません。認識している音の数が100くらいしかない日本と、何千もある国とでは、「耳」の力も発声の調音能力も著しく違っていて、あたりまえでしょう。
 学ぶといっても、母音「ア」の出し方ひとつ、日本では明確に決まっていないのです。それぞれにいい加減に使ってきた結果が、日本人の音声表現力の弱さになっているのです。
 聞き取ったものを、声を整え、発声する。そのことによって、「耳」とともに内部の感覚から発声発音調整器官は磨かれ、鍛えられてくるのです。これがヴォイストレーニングです。そのチェックは、相手によってなされるのですが、その相手が不在です。本来は、両親や教師がよきヴォイストレーナーであるべきともいえるのです。

※私は声楽家であれ、声優、ナレーター、アナウンサーであれ、発音や歌唱トレーニングの前に徹底した言語対話能力をつけるように強くお勧めしています。表現から考える、パフォーマンス能力、ボディランゲージなども必修です。
 なぜなら、舞台といえども、日常の経験上のテンションの高まった部分のダイジェストにすぎないからです。生活の生の感情や思いが、発声や歌唱の技術に負けてはなりません。日常の感覚と舞台が一体化してこそ、真のリアリティが出てくると思うからです。
 つまり、輸入した文化や技術ということなら、その形に足元をとられないことが大切なのです。まずは、自分の述べることばの声の力をつけて語りましょう。それで相手に伝え、伝わるようにし、相手の心を動かしましょう。それが表現の基礎です。
 これは、今の音響技術のサポートのある芝居や歌の舞台ようにはごまかせません。まわりにも自分にも、声で、はっきりと伝わる度合いがわかります。だから、トレーニングの前提になるのです。

○モノローグから始めよう

 伝わるかどうかは、第一に母国の言語で表現してみることをお勧めします。日本語であるからこそ、日本人としてわかるからです。発声ということだけでいうのなら、外国語、たとえばイタリア語から入るのもよいでしょう。声楽も、人間の声を出す原理に基づいた一つの理想の方法として使えます。しかし、表現というのなら、伝わったかどうかの判断は、母語、つまり、生活に使っていることばで行なうべきでしょう。
 もちろん、この判断は、ことばのない感嘆詞、悲鳴、怒声などにも、また音楽的演奏力、声を楽器として捉えたときのノンバーバル(非言語的)な伝達力でも、できなくはありません。しかし、ともに状況において、ごまかしが効きやすいのです。ですから、マイクなど、音響技術の補助も除きましょう。
 以前、ある有名な劇団の群読を聞いて、その声の力のなさに、情けなくなりました。基礎を学ぶのなら、沈黙した空間でのモノローグにベースをもってきた方がよいのです。そこに台詞(せりふ)一つで、声一つで表現を生じさせる。そこで感じては修正して磨いていくべきなのです。声の力とともに、それを判断し修正できる力をつけていくのです。(※群読:皆で合わせて朗読、語る芝居)

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〇状況という設定をはずす

 本書はトレーニングのための本ですから、トレーニングの効果が上がる方法を最優先して取り上げています。
 私は、体から息、息から声ということを考えますが、それと同時に、舞台で必要な声、それを支える息、それを支える体とも考えてもらいたいと思っています。つまり、アウトプットする必要に応じて、技術を磨くべきであり、そのためにあるのがトレーニングだからです。
 役者は、舞台で通じればよい、つまり、最低ラインさえクリアしていればよいという傾向になりがちですが、全体のレベルが低いと、あるいは他のことが優先されると、声はいつまでも後回しで、鍛えられも磨かれもしません。そこでは、声の磨かれる条件の比較的整っている人(=タイプP EX.仲代達矢)は、無理した発声や舞台でも声が鍛えられていき、その条件の整っていない人(=タイプQ EX.平幹二郎)は、いつも声をつぶしたり、荒らす人(=タイプR 声より動きを優先する点では、野田秀樹)が出てきます。鼻にかけたり、顔面だけ響かせたりして、声をマスターしたつもりになっています。トレーナーにも多いです。
 この傾向は役者だけでなく、声楽家や一般の人のなかでもみられます。ヴォイストレーニングにくる人の多くは、うまくいかないからくるので、タイプQ、Rが多いのですが、多くのトレーナーは、自分と同じタイプRにして、上達させたと思っています(特に声優、ナレーターやヴォーカルスクールに多いです)。
 これは、タイプPやタイプRのプロやトレーナーが、個別のまったく違うはずの声(という楽器)を、自分の体験だけから自分を手本に、指導するからです。声の条件が整っているかどうかも、簡単には見分けられないのですが、すごく整っている人は、大してトレーニングしていないのに、よい声、深い声、ひびく声をしていることもあるのです。

※トレーニングとして考えるのであれば、私は、少なくとも最悪の状況において、そのギリギリに耐えうる声でありたいと思っています。それゆえ、もっぱら鍛えることに重点をおきます。最低レベルを上げるために、目的レベルは最高に高めたいと考えます。そうしないと、トレーニングの目的そのものも曖昧になるからです。
 現に、作品や舞台を構成するさまざまな要素を、重要度の高い順に並べてみると、声というのは必ずしも大きなものでなくなることがあります。ビジュアル系やダンサブルなバンドにおいては、ヴォイストレーニングの重要度は、声での表現力がすべてという歌い手よりもずっとその比率が下がることになります。だからこそ、演じる個としての主体性が問われるのです。

 声はみえません。音声です。ですから、聞こえないところでは働きません。必要ありません。ですから、私はヴォイストレーニングでパントマイムの役者を引き受けたことはありません(あればおもしろいし、意味もあると思うのですが……)。私は、トレーナーとしては、音の世界の中だけで厳しく声の世界を判断します。
 ミュージカルや演劇関係者からは「舞台を歌だけ、ましてCDで判断されては困る」と言われるかもしれません。声は、役どころと状況の中で使われるからですが、表現(全体、視覚効果も含めた表現力)と、声(部分、楽器、音声)とを完全に分けて扱うべきです。「声」はヴォイストレーニングを中軸としています。表現と区別しないと、付け焼刃な指導になります。
 さらに、目にみせる方が、声や音で変化させるよりも、ビビッドに反応する日本の観客に対しては、演出家は、声よりもビジュアルの効果をとるでしょう(私も演出家の立場であったらそうするでしょう)。実際そのようにしたからこそ、ミュージカルでも、ダンスのレベルは向上したのに、声は置き去りにされてしまったのです。

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○日本人の声のための耳の力のなさ

 バレエやダンスで世界のトップクラスにいく日本人が何人もいながら、声や歌の世界では、プロと言いながら、いまだ恥ずかしいくらい世界のレベルにおいていかれているのはなぜでしょう。音響装置の発達で、音をかなりつくりこめるようにもなったこともあります。しかし、聴衆にも原因はあります。(こういうことにさえ、気づかずにいること自体がそうなのですが・・・)

 日本が声の弱小国であるのは、聴衆の聴くレベルをあげなくては、芸も育たないという一つの例ですが、アーティストがそんなことを言っては終わりです。聴衆が納得するレベルでなく、感動するレベルでやる、少なくとも、それをめざすべきなのですから(ところが、一例としてあげるなら、日本のあまりに優秀な技術陣は、それをカラオケ機器というもので表向きに解決させてしまったのです。舞台やレコーディングで使われる、世界でも最強の音響技術が、誰のどんな声をもフォローしてくれます)。
 だからこそ、ヴォイストレーニングは、現状を踏まえつつ、日本の今の舞台で問われているよりもはるかに高いレベル(ブロードウェイ、グラミー賞)を念頭に、独自のやり方を模索するべきなのです。そのように目標を高く掲げないと、歌や声というのは、逆に迷ってしまうからです。
 今のあなたの声でも、見せ方を工夫したり、つくり込みをしたら、プロの声や歌にみせることはたやすいことです。この技術(音響、照明、装飾)の発達こそが、声の地力を奪ったといえるのです(へたな人ほど、ましに聞こえてしまうカラオケを思い出してみてください)。

○しぜんと不しぜん

 体や息や声を徹底してトレーニングすることの直接の目的は、パワフルで耐久力のある声をつくることです。しかし、真の目的は、すぐれたアートを生むために必要なハイレベルの、繊細でていねいな、声を完璧に扱える技術を身につけることです。そうでなければ、腹式呼吸も、発声トレーニングも不要になります。詩と曲を作れば、誰でもすぐに歌えるのですから。
 その人の日常の呼吸、声が表現に使えるレベルにならなくてはなりません。カメラやマイク、音響技術の発達において、顔や声の力の不足が補われるようになったというのは、逆をいうと、一対多に向けて大きなパワーを必要としていた個人の力や技術が、いろんな技術を使うことで、一対一のレベルでも、伝わるようになってきたということです。
 私はトレーニングでは、パワーアップを目指しています。1オクターブ半で、3分間(正味1オクターブ1分間)の歌をもたせる最低条件だからです。もう一つは、オリジナル性に裏打ちされた芸術性の獲得のためです(このために、確実な再現のための耐性が必要です)。

 たとえば、鼻声くらいの声量の歌も、扱えるようになったということなのです。日本人の歌がパワーを失ったのは、昔は向こうのパワー(プロ=日常のパワー)にあわせようとしていたのが、日本人のローパワー、ローテンションでも、作品化が可能となったということで、しぜんといえばしぜんなのですが、それなら形も半オクターブ、15秒くらいにするべきなのでしょう。

○音響技術に埋もれた声

 大きな声が第一条件として必要だった役者などに、音響技術は別の可能性を与えてくれました。つまり、大きな声が出なくてもよい。トレーニングで大きな声にしなくても、よいということです。
 声は届かないと、伝えられませんから、どんなに声がよくて味があっても、舞台では、届くことが第一条件だったのです。
 大きな声というのは、誤解されやすい表現です。必ずしも大きな声が遠くまで聞こえるわけではないからです。
 ですから、私は、通る声を目的にしています。つまり、ヴォイストレーニングを通じて、得るものは「通る声」であるということです。これもまた、どんなに弱く小さくとも、大きなイメージ、表現力を使ったコントロールされた声というハイレベルな技術には、違いありません。
 もちろん、そこには伝える声、そして伝わる声というのを含んでください。伝えようとしてトレーニングしているうちに、伝わるようになってくるというのが理想かもしれません。
 とはいえ、大きく声が出るのは、楽器としての物理的特性からみると、出ないよりもずっとよいことなので、トレーニングの結果の一つになります。どんなによい歌も、せりふも、目をつぶって心にひびいてくるなら、それは胸にひびく、鼓膜にひびく音波のいたすところです。そこから、空気中を伝わる振動を効果よくつくっておき(発声と共鳴)、それに表現をのせるというのは、変わりないからです。そのための体づくり(声づくり)がヴォイストレーニングなのです。

<音色>

1高い声−2低い声/3明るい声−4暗い声/5細い声−6太い声/7軽い声−8重い声/9柔らかい声−10硬い声/
11やさしい声−12きつい声/13ひびく声−14こもった声/15上品な声−16下品な声/17ていねいな声−18荒っぽい声/19澄んだ声−20くすんだ声//22深い声−21浅い声/23濁りのない声−24濁った声/25息もれ声/28黄色い声29キンキン声 30かん高い声 31ど太い声 32ドスのきいた声/さわやかな声−不快な声/頭のてっぺんから出る声−地の底から出る声 38芯の通った声−39芯のない声/40生き生きとした声−41死んだような声/42鋭い声−43鈍い声/44のびのある声−45のびのない声/(46飛翔する声)−47押しつぶした声//
(その他の特徴)
48すがすがしい声 49まろやかな声 50張りのある声//51かすれる声 52なめらかな声 53割れた声 54ねばっこい声/55鼻につまった声−56鼻にかかった声−57鼻に抜けた声/58はつらつとした声−59震える声 60しゃがれ声 61甘えた声 62あたたかみのある声 63どっしりとした声 64朗々とした声/65ボソボソした声 66重厚な声 68/老けた声−69若々しい声/70円熟した声−67キャピキャピした声//71ゆったりした声−72ヒステリックな声 74おだやかな声 75つやのある声 76セクシーな声 77ハスキーな声 78蚊のなくような声 79えいえい声 80おろおろ声//81金切り声 82きいきい声 83とがった声 84甲声/85玉の声 86甘い声 87かわいい声/88パワフルな声 89迫力のある声 90元気な声//91含み声//92美しい声 93きれいな声//94われ声(割れた) 95ガラガラ声/96くぐもり声 97塩辛声/98湿り声 99洒落声 100なまめいた声 101うわずった声 102沈んだ声 103忍び声 104なまり声 105いきみ声 107ねぶり声 108つまった声109動悸(張)声 110どら声/111透明感のある声

<声の解説>
えいえい声・・・力を入れるときの「えいえい」という掛け声。えいごえ。
おろおろ声・・・取り乱して出す泣きそうな声
きいきい声・・・女性や子どもの鋭く甲高い声。黄色い声。
玉の声・・・玉のようにきれいな声。美しい色つやのよい声。
含み声・・・口の中でこもっているように聞こえる声。
くぐもり声・・・口の中にこもってはっきりしない声。
湿り声・・・泣いたり悲しんだりしているときの沈んだ声。
胴間(どうま)(張)声・・・調子はずれの太く濁った下品な声。胴張り声。
洒落(しゃれ)声・・・洗練され、粋な声  

※(『スーパー大辞林』(三省堂)より)

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○先生やトレーナーを見本にすることの限界

 日本では先生を手本に、真似していきます。そうしている限り、その先生を越せないことが多いのです。先生というのも、日本では先に生まれてやったというのに過ぎないことも多いのです。特に、海外へ習えの時代の日本では、先に向こうに行って取り入れた人が、リーダーになります(プロデュース型のリーダー)。しかも日本では、それを上手に真似ることのできる人がとりたてられ、先生と違うものを生み出す人は、無視されたり、敵意をもたれがちです。
 そういうリーダーがやるべきことは模範でなく、踏み石であるべきです。私などは、その役割としてやってきたつもりです。ところが、それを勝手にまつりあげ、模範としてしまう。そして、自分たちがそれを越せなければ、それは間違っているとこき下ろす。
 見本のまま真似ていくという、依存方向から始めるのは、声に関しては、注意しなくてはならないところです。

 トレーナーはそもそも自分の表現のためのサポーターにすぎません。その能力、才能を自らが使い切ろうとして、レッスンにのぞまなくては何ともならないのです。日本の家元制は、このような日本人にとっては、地位と秩序と集金手段を得るために便利なものでした。いわば既得権の継承方式です。師匠のまわりに集まり、裸の王様化現象がはじまるのです。そういう分野はやがて衰退していきます。(人数が多いときは、素質や才能のある者もいるので、わかりにくいのです。)

 声については、一人ひとり楽器が違います。持って生まれたものですし、育ってきた環境も違います。さらに表現したいことも違うはずです。先生といわれるトレーナーの声(発声)は叩き台や参考になっても、自分の目的としてあるものではないと考えてください。

 トップスターを真似る方法は、あるレベルまで育てるには早いやり方です。しかし、周囲の人が気をつけてあげないと、大切なものを落としてしまいます。若きアーティストの芽を抜いてしまいかねません。そのようなことが、音大など、実際に至るところで行なわれてきました。
 舞台も同じです。もっとも欲しい固定客を得たところから、今度はそういう観客の固定した評価でしかみられなくなります。観客を質よりも数で評価する日本では、やはりバラエティ化するのです(アメリカもその傾向はありますが、そこでは徹底した実力主義、個人主義、スタッフやプロデューサーのレベルの高さが、それを救っています)。
 どこかに正解があると考え、自ら創造する努力をせず、トレーナーめぐりをしている人もあとを絶ちません。
 習い事のプロセスで、“守破離”というトレーニングからの自立がうまくなされないで、守だけで固まってしまうわけです(ただ一つ、歌舞伎だけには、かぶくこと、つまり、古くから今の世まで、世界に例のないくらい革新者を出しているのを、私は日本人の希望としてみています。落語も持ち直しています。声については、邦楽、謡には、確かな基礎がありますが、このままでは、先に述べたことの代表例になりかねません。)

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○それぞれの発声法について

 日本では、ジャンルごとに何かしら、それっぽい発声の仕方、歌い方があります。憧れのスターを真似るのは仕方ないのですが、スターの歌い方は、真似た時点で失敗です。真似ることができるなどという自体、そもそも嘘だからです。
 しかし、マイクやエコーがつくと、その方がうまくみえて受けがよいので、多くの人、特に器用で優秀な人ほど、真の技術とごまかしとを勘違いしてしまいます。この国では、それでプロになれるからです。
 演歌やシャンソン、ゴスペルも、演歌らしい歌い方、シャンソンらしい歌い方、ゴスペルらしい歌い方、他のものもみんな、○○らしさが出て、パワーが落ちました。ロックも同じです。
 真似はすぐに飽きられるのです。そもそもは、歌にジャンルが出てくることがおかしいのです。真似るのは、盗んで自分のものにするためなので、感覚的な部分までを大きく読み込まなくては意味がないのです。
 たとえば、好きな歌手の、好きな歌だけを毎日、カラオケボックスで歌っていたら、プロになれるでしょうか。多くの人は、それでは無理とわかっています。真似は、学ぶことの基本ですから、それ自体を否定するわけではありません。ただ、楽器と違って、一人ひとりが別々に持つ声では、不安定要素(方法、プロセス、目的が本人に見合うのか)が大きいから、気をつけなければならないのです。
 一流の歌手や役者、それを育てたトレーナー、その方法やマニュアルでさえ、もしあなたが、自分の声に合っているかどうかを考えたとき、必ずしもベストのものとはいえないケースもあります。つまり、試行錯誤を繰り返し、自分自身で判断し、決める力をつけるために、人に就いて学ぶ、と考えた方がよいと私は思うのです。

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○クラシックとは、オリジナルの体の使い方と考える

 それでも、声楽はやはり違うだけのものがあると思われます。クラシック特有の高い声や大きく太い声、ひびく声は、確かに声楽をやって初めて身につくものでしょう。ただ、残念なことに、日本人の場合、声楽で身につけた声が演奏に使えていない、演奏と別のところでまわっていることが少なくないのです。残念ですが、それが現状でしょう。
 私の考えるクラシックは、声楽そのものを指すのではなく、その中で声だけを、もっともうまく体から使えるようにしたもの、その人の体を楽器として音声を奏でたときの「使い方」というものです。ですから、これは声楽に限ったことではなく、あらゆる歌や声のベースになると考えています。
 「クラシックとポップスは、歌い方が違うのか」という、よくある質問にもはっきりお答えできます。違うのか同じなのかというにも、そもそもどのくらいの差を「違う」とするのか、「同じ」とはどこまで等しければよいのかさえ、はっきりしないのに、言えることではありませんね。
 日本人は、正誤問題が好きで、白黒をつけたがります。ただ、世の中のほとんどのことはグレーゾーン、程度の問題なのです。このことを、アートをやっていく人は、まず叩き込んでおいて欲しいものです。

※本書で説くブレスヴォイストレーニングは、声楽でなく、ここでいう意味でのクラシックなのです。出力の仕方によって、オペラでも演歌でもロックでもポップスでも応用できる、そういう基礎的な声づくりのことです。
 たとえていうと、クラシックバレエの基礎レッスンは、どういうダンスにも有効だということです。バレリーナは、すぐにはラップを踊れないかもしれません。しかし、他の若者たちと同時に、ラップを習い始めたとしたら、誰よりも有利な体と感覚をもっているでしょう。それを私はプロの体とよびます(「昴」(曽田正人作)という漫画の最初のあたりを読んでみてください)。同じような意味で、プロの声というものがあり、プロの体があるということです。それを認めるところからが、スタートです。
 どんな声でも、心を込めて使えば通じるというトレーナーとは、私は立場を異にします。そういう人たちでも、まれに伝える表現をしうることがあるのは認めます。しかし、私が求めるのは、百発百中。そして、百回に一回ほどは魔法か奇跡が、声によってもたらされるレベルです。

 この基礎となる声は、最終的には、自分の豊かなイメージにそって、丁寧に繊細に扱える声ということになります。その条件として、体でコントロールできていることになります。動かない体は、最初は邪魔しますが、やがて動くようになると、声を支えます。この辺は他の分野と全く同じです。器を大きくするためにトレーニングがあるのです。
 呼吸、発声、レガート、調音などは、その支えとしてあります。まして、発音、ビブラート、声域、声量、ミックスヴォイスなどは、その応用、もしくは派生したところにあるのです。トレーニングにおけるこうした位置づけを、忘れないでください。

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