t『自分の歌を歌おう』 |
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(4)音楽基礎論 音楽耳のつくり方、リズムと音色 | |
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欧米では、自分の思うことを自分のことばで発せられなかったら、無視されるどころか、敵意をもたれます。「フリーズ」と言われて止まらなかった日本人の留学生が即、銃で撃たれてしまった事件もありました。音声で思っていることをしっかりと発し、受け取れなくては、人と人とがコミュニケーションをとれない社会だからです。 つまり、日常の音声への感覚の厳しさが違います。彼らが相手のことばのたった一言が聞きとれなくとも聞き返すのは、それだけことばに責任をもつからでしょう。リズムも音感も同じです。 たとえば、欧米では高校生にもなったら、即座に人前で自分の考えを音声で表現できます。ことばで自分の考えを表す言語表現力こそ、動物と異なる人間の証だからです。これをスピーチ、ディスカッション、ディベートなど、教育のなかで学んでいます。つまり彼らは、日常生活のなかで音声表現の基準を得て、よいヴォイストレーニングをしてきているのです。つまり、日本における舞台のためのトレーニングが、役者の訓練が、日常でできているといえるわけです。 私たちは、それを意図的に入れていくことです。欧米人が20歳になってあたりまえに聞き取っているような音を聞きとり発せられるくらいには入れていくことです。 音声で表現する舞台ということでは、人前に立てばどこでも同じです。だから、最初から音声で表現する舞台を想定してやっていくことです。日常の声レベルでプロと感じさせること、これが原点です。 (私の場合、日本人のお客さんには、ハイテンションで声を出すと押しが強すぎるので、かなり抑えています。) ○ポップスとクラシック 目をつぶって、そのなかで何が聞こえてくるのかが音の世界です。私たちはそこで生きていませんが、音楽の世界はそういうところにあるのです。そこでは、ヴォーカルのやる全ての動きは、音声に跳ね返って集約されます。自分の気持ちが体を動かし、発声の感覚も変え、人の心に伝わる音色を生み出すのです。心の動きを体を通じ、声、ことば、歌に表わすのです。 クラシックは、発声そのものが基準です。人間が磨き抜いた声、理想の声を追求します。しかし、ポピュラーの場合は、声が小さくなったり、かすれた声になってもマイクでそのメッセージが伝われば、よいともいえます。 ○音色とリズムを中心にする さて、日本人がメロディとことば中心に歌を捉えるのに対し、外国人の多くは、音色とリズムがあれば、よしと考えます。ラップにメロディはないし、スキャットには歌詞がありません。アドリブはメロディからも自由になります。ことばを音として捉え、それ自体にメロディやリズムが入っていて、そのまま活かすという考えです。そこでは、ハーモニー感覚が主です。 ですから、そういうふうに聞こえてこない、あるいは、そういう感覚で出そうとしない限り、体からもそういう声は出てこないし、表現としても弱いものになってしまいます。 もちろん、文化やことばの違いもあるので、必ずしも強弱でもっていく歌い方ばかりがよいのではありません。 しかし、これは、ほぼ世界で共通している打楽器や感情を伴った声から発展した音楽、そしてそれを動かす人間という体の使い方の基本です。共通に人間に働きかける感覚です。それに従いつつ、そのなかで呼吸を介して自分で決めていけばよいのです。 人間の体の原理をしっかりと捉えてこそ、自分の個性、自分のもっている体の、より細かい意味で一つひとつ違うところをうまく使えるということです。口も、顔も、表現の仕方も一人ひとり違います。それで勝負できるところはどこなのかを知り、自分のオリジナルたるところを磨いていくことです。 ○ポピュラーでの高音発声の弊害 日本では「高いところは出るときもあるが、次の日は、出なかったりする」とか、「もう一つ二つ高い音を出したい」という人ばかりです。どうして、そのまえに音を動かすための声を求めないのでしょう。 研究所では、基本のなかでは高音発声はやっていません。高音というのは基本の上に出てくる応用ですから、自由度の高いポップスには決まりきった高音発声のやり方はないと思っています。いえ、日本では何かそういう形があり、皆とても似てしまっていますね。 世界のヴォーカリストのハイトーンを聞いてみてください。同じ体の強さをもっていたとしても、それぞれが全然違うイメージ、発声で高音をとっています。そのなかにも多彩な音色があります。決して、クラシックの発声を応用しているわけではないでしょう。日本人よりは、よほど体を使っていて太いでしょう。繊細でパワフルでしょう。 ○声を使い分ける感覚をもつ さて、私の声を聞いても、よほど変な声を出さなければ、その使い方にも気づかないものです。日本人の場合は、ほとんど声を意識して読み込んだ経験がないからです。 欧米人は「ハロー」と言うときにその一言の中に親しみを込めたり、悪意を込めたりして伝えられます。北野武さんがハリウッドで「グッバイ」を5通りに表現し分ける練習をしたと言っていました。 同じ音のなかに、どのように感情を出したらよいのか、どのスピードで出したら、どこまで、相手にどう伝わるということを、知っているからです。それは幼い頃から教育され、すでに無意識のなかに入っているわけです。そのまま日常のせりふでさえ音声での表現世界になっているのです。そのように心と自分の体とが同時に働いてこそ、表現に使える音声になるといえます。 音楽や歌を頭で勉強するのでは限度があります。スクールで何年もやってみても、1曲どころか1フレーズ、まともに歌えるものではありません。声を響かす以外、大して何も歌えないでしょう。なぜかと言うと、声しかイメージせずにやっているからです。声も歌も、もの真似ばかりで、何一つ自分の表現というのを追及してきていないからです。部分でのトレーニングが、全体での自分の表現に結びついていないからです。表現にもっとも必要な感性、発想力、想像力、そして創造することをレッスンで磨いていないからです。 ○音楽は線の世界 読譜ができる、それはメロディやリズムを正しく声に変換しているだけです。日本人は、なぜかそういうものを目的にしたがるのです。絶対音感など、どうでもよいことにこだわるのもそういうことでしょう。 楽譜もピアノの鍵盤も、日本語も、全部、点の世界です。これらは、豊かなイマジネーションなしに音楽として表すことはできません。 音楽は、線の世界です。その線の動きと、そこにどのようにひとつの音が心に落ちていくのかというなかでつくっていくのです。 欧米のヴォーカリストは、その人自身の音色というものがあり、それをプロとしての声の使い方で展開させて伝えています。それをとり出した一つの形態が歌といわれるものにすぎません。singするというのは、声でplayすることです。 現に彼らにとってのヴォーカルの基準とは、声だけの技術でも問えることです。歌のなかでも1分間くらい、声だけをみせて、人を魅きつけるところが、よくあるでしょう。そのように確かな音声技術でもたせられることが基本です。 日本の歌には、ほとんどことばをはなれて声の音声面だけで聞かせる部分はありません。このことからも、日本の歌はことばをメロディにのせたものということがわかります。 だから、日本の歌というのは、歌っているわけです(かつては歌声にしてみせていたともいえます)。メロディを声でなぞるのです。ジャズマンのように、即興的に創造するのでなく、音程とことばをとって、こなしています。それでは、創造的な表現に耐えないのです。 ○4フレーズで半オクターブを 声には、複雑なものがたくさん含まれています。自分の声を知り、その使い方を伝わるレベルで4フレーズ使えたら、大したものです。私は日本人なら、2年間で半オクターブが扱えるようになれば相当、早いといっています。 一つひとつのフレーズが、そのまえをすべて引き受け、そのあとを予感させるものでなくてはなりません。一つにつかみ、一つで放す基本フレーズに対し、変じていくつもにみせていくのが歌といってもよいでしょう。 息に声をのせたり、おいたりして、自由に扱えるレベルに、2年くらいでは決して至りません。 ○ルールに気づく 「音楽理論をやる方がよいか」と、よく聞かれます。知っておくとよいルールは、あります。しかし、音程でも、リズムでも、楽譜そのものの世界があるわけではないのです。自分とまわりが気持ちよければ、そういうルールに一致しているのです。 なぜ多くの名曲がほぼ7つの音(スケール)でできるのでしょう。そこには、人間が感知する共通のものがあるからです。たとえば、ドの音のひびきの中に倍音が入っています。順に高い方へド、ドソドミとそのドミソが三和音(メジャー)になって、物理上の音響特性に合っています。 だから、自分勝手にルールを作ってよいわけではありません。しかし、何事も洗練されると、それはしぜんと、人間のもっと昔から、ずっと受け継いだ感覚にあってくるわけです。となると、自分がやりたいことは、そのための手助けにはなっていくと思いますが、メインではないとさえ、いえるのです。 リズムもメロディもことばもレッスンで一つひとつ再発見していきましょう。自分でつくっても、素敵な曲となると、ルールにそっているでしょう。あなたが、どう感じて、どう出すかということが大切です。 音声も、コンピュータで作ることはできます。しかし、それだけで感動させることはできません。思うに、演奏とは、状況に応じ、感覚をどう独創的にずらしたかということです。伴奏に、どう距離を確保して自由にsingするかということです。 ○日本語のリズムからの切りかえ 日本語は、向こうのリズムに乗らないことばですから、今のポップスとして向こうのリズムにのせるなら、その中で読み込んでおかなくてはいけません(欧米語は話すと、すでに強弱リズムが刻まれているのです)。 そこで、発音よりもリズムを重視する感覚に切り替えましょう。ことばも高低アクセント(メロディ)よりも、強弱アクセントの感覚に切り替えないと、音楽的には不利です。 こうして、プロの感覚に対応できる、プロの体と声を作ります。より繊細に、他の人たちが気づかないくらいのものを、体に特化して使っていくのです。 あとは聞く力をつけることです。音の動きを組み込むために、自分の感覚と体を磨いていくのです。10分の1、100分の1、1000分の1と。 ○即興で問う、楽しむ 向こうでは、即興の力というのが問われます。「ワンフレーズを、自分の好きなように動かしてみなさい」という課題に対応してみましょう。サックスのように声を出し、音の世界をつくりましょう。 そこでのイメージが足りないときには、イメージを磨いていくしかありません。イメージに声が伴わないとなって始めて、声を自由に使うためのヴォイストレーニングが必要になるわけです。 ヴォイストレーニングという方法論があって、それをやっていたらどんどん歌がうまくなるのではありません。他の人から与えられただけの発声トレーニングなどは、とてもつまらないものです。やらない方がましです。あなたが退屈に思ってやっているなら、その低いテンションが感性と歌を殺します。創造的ではないからです。飽きてきたら、さっさとやめましょう。そこに何ら、深く感じとれないものと関わっても、決して伸びません。 声を楽しみ、戯れ、その心地よさを伝えましょう。 ○音楽の原理に合わせる 強拍という打点と、そこへの声の踏み込み(そのフィット感や、ずれ)を、伴奏を目安にして、どう動かしているかを聞いてみましょう。 プレーヤーの演奏というのは、必ず音楽的に成り立つように、柱をきちんと立てて踏んでいます。もちろん、優れたヴォーカリストは、そのレベルで音声処理しています。 ところが日本人の歌い手の場合は、プロでも音のつけ方がいい加減になったり、フレーズをキープできない場合が多いです。プレイヤーレベルでテンポやリズムをとれることが、基本です。そこで自ら、柱を立て、さらに飾っていくのです。 こうして原理に合っていると、同じ力を働かせるのに楽になり、自由になるのです。 バンドの伴奏、イントロを徹底して聞き、そこでの基本的な動きや応用、表現できる可能性をつかみましょう。メロディでなく、伴奏とリズムを徹底して聞いて、歌をとり出すようにしてください。 ○強いのが高くなる 原則としては、高い音に対しては、強く置いていきます。息を強く使っていくという感覚です。これには、1オクターブ、ことばで処理(シャウト)できるポジションが必要です。日常の表現と同じで、音の強いところが高くなるというわけです。 ところが今の日本の歌の場合は、ほとんど逆です。高くなるにつれて、息を吐かず、か細くなります。 向こうの歌い手が、高いところになると、マイクを離すのに反し、息を吐けないから、マイクを近づけていきます。音とひびきをはずさないために、やむをえないのでしょう。これは、音域を少しでも高めにとるための発声法として、考えるからでしょう。この不自由さを私は表現の可能性から心地悪く感じるのですが、日本人は、このようにこなされることに心地よく感じるようです。変に変えてのせてしまうのです。 もちろん、音の高さと、体や息の強さは、比例しません。息や体を使わなくとも、声色で高くも低くもできます。それは、トレーニングと実際との違いです。まずは、1オクターブもあれば充分、音域でなく音色を求めてください。ただ、世界のヴォーカリストはこの条件で1オクターブ以上とれています。 ○感覚を増幅する、まとめないこと 音の世界というのは見えません。そのため、プロの歌い手をそのままコピーすると、その世界が小さくなります。それは役者の世界でも同じです。 たとえば、私が手を0.3秒で20センチ動かしたのを、あなたが同じように真似すると、10センチくらいの動きになるか、そこで1秒くらいの時間がかかります。なのに、同じことがやれているつもりになるのです。目でみえるもの、たとえばダンスやスポーツなら、鏡でみればわかるから、上達するのです。しかし、音は時間軸での動きですから、見えません。 だから、トレーニングでは、相手がやったことを自分がやるときには、2、3倍の大きさの動きを感覚としてもたなくてはいけないのです。すると結果として2倍以上の早さでやることになります。それではじめて、しぜんに相手がやった動きに近いことができるわけです。 100%の力で表現することがすべてではないのですが、練習の中では、常に100%以上のつもりで大きめにやっていくことを、どこかで徹底して意識してください。 感覚を拡大して読みこむことと、そこでの練習を重ねなくてはいけません。 そこがトレーニングと、実際の歌との違うところです。つまり、やがてはしぜんでやれることを目的に、不しぜんなトレーニングをするのです。 その全部が体の中に入って、初めてしぜんな状態で動けるのです。200の力をつけて、はじめて100の力でしぜんにやれるわけです。トレーニングとは100の力を200の力にしていくことだからです。 歌を真似るのは、感覚的には100を50にする練習をしているようなものです。だから、早くまとまり上達するのですが、それ以上の域には、いけなくなります。日本で器用なヴォーカリストが皆、声の壁にあたり、技巧に陥るのは、そのためです。 ○作詞作曲の力がつく ヴォーカリストは、もはや歌うことについての演奏の専業家でなく、総合プロデュース業となりつつあります。先述したように、作詞、作曲、アレンジなどの力も問われています。しかし私は当初から、ヴォーカルのレッスンには、作詞作曲の能力も基本技術として入っていると思っています。 もちろん、これは曲をコードからつくったり、詞を添削して仕上げていくのとは違います。歌という声での作品づくりの中でやっていくことです。 そこで、レッスンでは古今東西のすぐれたアーティストの歌唱から、曲も詞も学ばせます。どうして、一つの表現の世界が成り立っているのかを、みるためです。 外国のスクールでは、スタンダード曲による学習を徹底してやっています。他人の歌を自分なりに歌って、どう自分の世界を築くかを学ぶのです。そっくりに歌わせようとする日本とは、大違いです。 歌でそれをどう見せるかということには、音声だけでなく音響から詞の語感やメロディもすべてが関わるからです。ともかく、トータル的なプロデュース感覚を同時に学ぶことです。 きちんと歌える人は、作詞作曲の能力もあります。構成・編集の能力がなくては、自分の歌を自分なりに歌うということはできないからです。 外国のスクールでは、ポピュラー史などで、歴史や社会的背景、その歌の影響までをかなり大きなテーマとして学ばせています。 ○音程は意識しない 好きな歌を好きに歌うときには、音程など意識しないはずです。気持ちよく歌っていたらとれているのに、変に意識したら狂ってしまうでしょう。ということは、音程を意識してはいけないのです。 音程が狂うのは、その人の中に基本的な音のマップや、音の流れという感覚が入っていないことが主な原因です。そちらを補うことです。 練習の仕方としては、きちんと曲の流れを聞いて音楽を捉えていくということです。しかし大半は、意図的に音に注意するために、楽譜で音程練習がなされています。この場合、フラットしないように、顔面にひびかせ、高めにあてていく方法が安易にとられています。しかし、これは、音が高くても出にくいという発声の問題で、音程、音感の問題ではありません。 もちろん、間違えたことに気づかないという人にとっては、それを確認しながらやるということも大切です。譜面を暗記して何度も練習したり、CDで聞いて、くり返すのも、レッスンでチェックしてもらうのもよいでしょう。でも、これは対処療法に過ぎないのです。 音程を歌っていると、観客も音程を聞きます。だから、音程を外した瞬間にわかるのです。 ところが優れた歌い手は、音程を意識しないで音楽の流れのなかでこなしています。その感覚が必要です。 次に発声については、太く音色豊かな声を使えるようになれば、そこに音程など聞こえてこないはずです。 音程というのは、音と音との間のインターバルです。音色や、悲しい表現などではフラットしてしまうこともあります。しかし、それで間違えということではないのです。 (よく、音程と音高(ピッチ)を混同して使っている人がいます。) ○正確さは、表現のためにある 歌い手は音程を正確に歌うのではなく、音の動きの中で自分を表現するわけです。そのために、自分のもっている呼吸とルールをつかみ、使うのです。そのルールで説得できたら、人は心地よく聞くし、それが破綻してしまったら、音痴と聞くわけです。 要は、聞き手と歌い手のどちらの中に深い基準があるかということでしょう。プロでも音高や音程だけ聞くと、外していることもあります。多くの人がそれに気づくことがなければ、不快に思わないなら、そこで音程ミスの問題は起きていないのです。つまり、音を扱うのに、雑であってはいけないということなのです。 その人の中にその歌や音楽が入っていて、あとは楽器と同じで、自分がすべてを描けるという状態にしておくのが理想です。練習のプロセスではいろんな試みがあってもよいでしょう。 私自身は、長期的にみて、口を大きくあけたり、前にひびかして音にあわすことは、不しぜんなくせを助長すると思っています。 ○音程、発音(滑舌)は後まわしでよい 音程が狂っているとか、ことばがはっきりしないといわれてしまうのは、元々、表現としてもっと飛んでくるものがないから、そんなところに聞き手の耳がいってしまうのです。プロでも英語の発音は、ど下手で、音も外れていることもあるのです。それよりも、個性の輝きや表現の豊かさがあれば、もつのです。 もう一つ、ここには日本人の感覚と声での処理についての問題があります。日本人特有の日本語からきた感覚が、音程=高低アクセント=高低感覚、発音=ことば=母音共鳴が優先してしまうことです。つまり、息と音色でなく、音にすべて変ずる言語の発声が音高に敏感になるのです。(その証拠に、欧米人の歌唱の音程は、コピーしにくいでしょう) 伝えたいものをメリハリをつけて伝えることを目的にしなければ、表現にはなりません。私は、息や声を扱えないうちに、あまり口先での調音に頼るべきでないと思います。そのことが、体の動きを制限するからです。 ○入っていないものは、出てこない ところで、音楽が入っているということは、どういうことでしょう。たとえば、プロの伴奏に対して自分のイメージをしっかりと重ねられることです。それに対し、音楽を出せるということは、それに自分の感覚で発案した違う線をずらして、うまくみせていくことができるということでしょう。 こういうことは、日本の歌では、まだまだ追いついていないところだと思います。 欧米では、歌い手は必ずこういう部分での音楽づくりをきちんとしています。 曲をそのまま、声に変換して歌うのではなく、自分の描きたいイメージを出すために、このズレをどううまく作るかということが、その人の音楽だからです。(しかも、そのズレを、ことば、音程でなく、リズム、フレーズ感でつくっているのです) 日本では、美空ひばりさんなど、一部の歌い手をのぞくと、歌を使って創造するという試みさえ大してやられていないような気がします。声や歌は聞こえても、その人の心や息づかい、感性が伝わってきません。伴奏に乗せているだけで、sing、playしていないのです。 ○真に学ぶべきことについて 入っていないものは、出てこない。でも、その反対に彼ら(欧米人)が入れてないものは、今さら練習しなくてもよいということです。 たとえば強弱リズムで動いているということは、メロディ、音程、発音は二義的なものだということです。 歌というのは、ことばとメロディの世界で成り立っているようですが、実のところ、音色とリズムで音楽になるのです。ラップやスキャットをやってみましょう。 音声の世界で、歌に声を使うのであれば、声を音楽のレベルで処理できるようにすればよいということです。トランペットの世界のように思えばよいです。声での器楽的処理が、世界の歌のレベルです。 ○強で事を起こし、弱で拾いあげる 向こうのことばの特徴は強弱の強のところに巻き込むことです。そのため、弱のところがほとんど聞こえなかったり、何をいっているのかわからないことがよくあります。英語の歌を耳で起こすにも、発音がわからないことがよくあります。ところが、それを日本人が歌っているもので聞くと、とてもよく聞き取れます。全部をきちんと発音しているからです。これが、ひどくなると、“カタカナ英語”となります。 日本人は、強弱というよりは、発声のひびきや発音という音になっているところだけをとるのですが、もっと、声にならない息も含めて、リズム律動を優先すべきなのです。 真のオリジナリティは、口先で作るのではなく、その人の呼吸の上で独自の音色が出ていることが必要だからです。 ○リズム感は、相対感覚を利用する 速いスピードについていこうとしたら、滑舌や口を早く動かさなくてはいけないといわれます。しかし、これもそのまえの感覚の問題です。速いテンポの音楽を聞き慣れて、ゆっくりと聞こえるまで感覚を磨くこと、同時に、それを体にいれること、そして声や発声器官がそれに伴って調整されていくというように、イメージの方からきちんと作っていくのです。 リズムの弱い人は、テンポの速い曲をたくさん聞きましょう。速い曲に慣れたら、普段の曲はゆっくりに聞こえ、そのなかの動きがよくみえてきます。このように、相対感覚の差を利用するのです。そして、さまざまなリズムパターンの曲、いろんなテンポの曲を聞くのです。 リズムのつくり方、ずらし方などは、複雑かつ鋭利なフラメンコなどが格好の題材でしょう。 ○欧米と日本との比較 ○日本人の非創造的環境 日本の歌い手が、それなりに優れていたときもあるのです。しかし、それを壊そうとか、それを最低限にして乗り越えていこうという考え方を、この国ではしないのです。まわりが大御所に祭りあげ、先生にしてしまうからです。その形を真似て、そのしたにつこうという人たちが集まって、群れます。自分の芸も、それなりに保てるし、年相応に貫禄もつきますが、それで一代で終わってしまいます。 それを残そうと、家元制などを作ってしまうと、他のものを許さなくなります。流派などができて、ことば尻や解釈の違いなど、くだらぬところで方法論の否定ごっこなどしています。よいところをお互いに学びあって、よりよいものを創り上げる努力でもしたらよいのにと思います。 本来こういったものは、個人を離れた基準をスタンダードとしてきちんとしなくてはいけないと思います。 発展する分野では、新しいものを作ることで、まえのものを否定していくわけです。日本の場合は、どこかでやられているものを、もちこんで加工しているだけです。欧米の方法論などの紹介や盲目的な信仰だけで、スタンダードになりえていません。 私は、日本に真のアーティストは起業家くらいしかいないのかと思ったことがあります。要は、人と異なる新たなことをやることに、その人の存在の意味があるのですが、この国において、そのことは、いろいろと周りの人の信頼とか、期待を裏切っていくことになりかねませんから、やりにくいのでしょう。しかし、その逆境を受けてやってきたアーティストも、この国にはいます。彼らの生き方、考え方から、多くを学びたいものです。 (そのために、私のHPには、いろんな人の言動を紹介しています。) ○マックスとミニマム 感覚というのは、ほんの小さな違いのようでも、とても大きいのです。それを大きく読みこみ、拡大しておく練習が必要です。それによって、小さくすることにも対応できるのです。 練習のときは、なるべく大きく作っておくことです。歌から歌の基本の勉強ができないのは、そういうことです。 ということで、練習を段階で分けると二つあります。最初は最大で最大を出していくのです。しかし、ある段階からは、最小で最大を出していくことをやっていかなくてはいけません。 基本に忠実に統一していくのと、その上で自由に冒険し、変化に富ましていくこと、それはトレーニングと歌との違いでもあります。トレーニングのなかでも、器づくりと使い方については、どこかで切り替えなくてはいけないのです。 なお、弱い声、低い声での表現こそ、もっとも高いテンションと高度な技術力(柔軟さ、体)が必要です。 |