t『自分の歌を歌おう』 |
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<はじめに> |
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お | |
のど自慢では、声がきれいで、歌がうまくてチャンピオンになる人よりも、とことん歌はへたでも、自分の思いのたけだけ、ぶっちゃけたジィさん、バァちゃんの方が、おもしろい、会場を沸かせます。それは、特別賞をもらうときの方が、お客さんの心からの拍手がずっと多いということでも、わかります。私は、それが自分の歌を歌うということだと思うのです。 そういうお年寄りは、自由で、素直で、しぜんです。だから、人々に温かく受け入れられるのです。人々を楽しませ、元気づけます。歌がうまくなくとも、いや、うまくないからおもしろいともいえます。 もちろん、のど自慢はアマチュアの祭典、しかも1曲だからこそ、それでよいわけです。皆、それぞれに自分の仕事をもっています。司会者が聞く。「何をなさっているのですか?」その答を、その人が自信をもって言い切るなら、その仕事こそ、その人の歌であるからです。 私は柔道、剣道のように、六十歳の人が七十歳の人に稽古をつけにもらいに行くような声の道場を夢みています。スポーツや武術でできることが、声でできないはずはないと思います。 では、プロは? 歌にプロもアマチュアもないでしょう。人間が歌うんです。 ただ、プロをめざす人の多くは、それゆえ、誰かの歌を誰かのように、うまく歌いたいと、トレーニングに励んでいます。それは決して自分の歌ではありません。でも、この国には、そうなりたい人ばかりがいます。つまり、そこに本書で後述するような日本人の気質や風土から来た、文化的な問題が深く横たわっているのです。そして、音声表現としての限界ともなっているのです。つまりは、日本人の日常生活における音声表現の必要性のなさです。 つまり、本当に自分の歌を歌うには、まず誰よりも強く、その必要性をもつことが条件となります。 ○声や歌の問題だけではない しかし、私の立場としては、プロはやれていればよいということです。たとえ、一発屋であっても、人の心に働きかけ、伝えることができたら、そのときのその人の作品としてはよいのです。ただ、一人の人間の人生としてみるなら、続けてやれていれば、もっとよい。それを声や歌でやれていればよいというだけです。(やれるという境界は、世間と当人の意識になります。つまり、売れていることと、よいアーティストでよい作品をつくっていることとは、必ずしも一致しないからです。)願わくば、深められ、アートとなって残って欲しいと思いますが。 私の主宰する研究所では、それを確実にやるために音声で表現する舞台の基礎づくりをやっています。 歌でやれているというのは応用だから、トレーニングそのものとは違います。つまり、人の心を動かしたジイさんバアちゃんが、もっと声や歌、音楽を学んだら、もっと自分の思いが伝わるようになるということでトレーニングがあるのです。 つまり、トレーニングは、やれていない人がやれるために行なうのであり、やれるようになることが目的です。それは声や歌の上達だけをめざすものでは、決してありません。 でも、どこをみても、この分野では多くの人は学びはじめると、方向違いや空回りばかりしています。そして、基本一つ身につかずにここに来ます。なぜでしょう。それは、目的、考え方、学び方、何もかも、中途半端だからです。 いろんなことを学んでいるつもりで、目が雲ってしまう。のっぺりした顔になる、人生の裏になにもないのが、あらわにみえる姿勢になる、それどころか、なかには媚びたり、ウケを狙い、品性まで下劣になる、あるいは、おかしくなる。そういうところばかりです。 それは、トレーニング以前の考え方の間違いです。そういう人には、本来はそれを伝える方が中心にならざるをえないです。しかし、日本で行なわれている多くの指導は、逆にそれを助長してしまっています。このことは、後述します。 声や歌を磨くには、どうしても客観的基準が必要となります。私はそれを以前は音声に絞り込みました。目的を絞らずには、トレーニングが成り立たないからです。そして、その最低ラインのベースを自らの声においたのです。 ということで、この本のテーマは、今の業界がもっている問題も踏まえた上で、自分の声が本当の自分の声に、自分の歌が本当の自分の歌になるための基準とアプローチの仕方です。また、日本で歌や芝居、声を使ったり学ぶときに、もはや必ず陥ってしまうワナについても、述べていきます。 ○伝わること、伝えること 一言で言うのなら、最初から、いかに声を出すかでなく、いかに声で伝わるかということから考えることが必要だということです。声で伝わることを目的に、伝えようとするのがトレーニングでやるべきことです。伝えずして伝わるために声のトレーニングが必要ということです。 声が出ないから、声を出すのでなく、今の声では充分に伝わらないから、そこに必要があって声で伝えるということのために、トレーニングはあるのです。充分に、何が? もちろん、あなたの想い、気持ちがです。 伝わるには、自らの生きざまをぶつけなくてはなりません。それの伴わない歌や芝居は、誰も感動しません。観客の心からの拍手をもたらしません。そこには、アーティストとしての感性で生きる毎日の生活が、バックグラウンドとして必要です。 これまで、いろんなヴォーカリストや役者をみてきました。そのなかで、ほんのわずかの人が、一度だけ、私を感動させていきました。積み重ねられたトレーニングで得られた技術が、使う意識なしに発露された瞬間、つまり無心のとき、大きな世界とコンタクトでき、それで心に熱く伝わったのです。 私自身もその感覚は、これまでの生涯で二度だけ味わっています。きっと、それをいつでも自由自在に、好きにとり出せるのが、アーティストなのだと悟って、一段下がることにしました。自ら学ぶために研究所という場を設け、そこでも多くの人をみてきました。 私がその瞬間、つまり、その人の“自分の歌”をみたといえるのは、研究所でようやく10回を超えました。3000曲ほど聞くほどのなかで、1曲あるかどうかです。そのくらいに自分の歌を本当に歌うのは、難しいことなのです。いつか、軽井沢の合宿に来た歌好きのお医者さんを思い出します。「歌いたいときにね、歌がしぜんと出てくるのがいいですね」私もいつかその心境に至りたいと思っています。声がしぜんと人々の心深くに伝わっているとき、それを“歌”とよべたら、いいなと。その心の生き方や心のありさまが、声に聞こえてくる。私はそれを本当の歌とよびたいのです。 福島 英 |
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