会報バックナンバーVol.164 /2005.2 |
レッスン概要(2001年)
■講演会
○音声表現・舞台の基礎づくり
私がメインでやっていることは、音声で表現できる舞台の基礎づくりということです。人の心を動かす声の使い方として、歌い手というのは専門家であり、そこのわかりやすいもので伝えています。最近は例にとるフレーズを迷っています。参加者の人たちの感覚が変わってきているからです。 アンケートなどを見ても、どういうふうに世の中の耳や感覚が変わってきているのかということがわかります。講演会に関しては、いつも、参加している方のそれぞれの要望に合わせた形でセッティングしています。声優さんや役者さん、中高校生が多いときと、毎回ずいぶんと違います。 いろんな勉強の仕方があります。ここでは書くことも表現の一つだし、ことばでしゃべることも表現の一つだということで、あまり歌と分けて考えていません。歌を歌わない人も来られます。
○他人の声は他人の声
日本のアナウンサーや役者さんは、かなり声を作っています。作った形を見せて、ここは舞台だということを示しているのです。本当に他人に伝えようとしたら、あんなしゃべり方はしません。そうすると、本来それはおかしいことなのです。でも日本の場合は、そういうものが形として通用していたわけです。 たとえば、トレーナーの歌い方を一所懸命真似したとしても、いつまでたっても超せないのです。その人よりも大きくはなれません。それを作ってきた人は、自分の体を知っています。歌手でも同じです。自分の歌を知って、そう作って、客を集めてきたのです。本当であれば、それを打ち破るくらいのことをやらなくてはいけないのです。でも客が似ていることを期待するようでは、やむをえないところがあります。
○お笑いのステージに学べ
若い世代の場合は、メジャーの方向めざしてということになるのでしょうが、そうなると、客からみても、お笑いの世界の方がわかりやすいでしょう。おもしろいか、おもしろくないかという基準がはっきりしています。 ところが歌の場合は、何となく音楽にのっかってしまうと、何となく盛りあがる。それが逃げにつながりやすいのです。 お笑いの場合だと、創らない限りしらけて、誰も受け入れなくなるでしょう。 他の国というのは、歌でも音楽でも、つまらなければブーイングがきます。日本の場合は、歌う前からスタンディングオベーション、そんな国は他にありません。そういう環境ですから、自分のも判断しにくいのです。
○根づきにくい東京
特に東京は、そういう意味では地方よりもやりにくいと思います。地方だと3年やっていれば、5年休んでも誰かが覚えていてくれるのですが、東京では10年続けていても、2年休んでしまうと、客はいないし、ライブハウスはなくなってしまう。一体何をやっていたんだろうというくらいに全部消えて流れてしまいます。 東京に出てくるという人たちにも、地元でやれといっています。東京のやり方は、どうも有名人、知名度のある人に有利になっています。女優などもみんな、二十歳過ぎてから出ていった人たちは、ミスコンとかを取った人たちを例外とすれば、あとはみんな10代や、子役の頃から出ていて、そこでのコネを持っている人たちです。
日本のオーディションを見ていたら、だいたいわかると思います。歌を聞かなくても、ルックス的に見て、合格すると思ったら、だいたい合格します。そこに対してヴォイストレーニングがどのくらいの効果を及ぼすかということから考えるべきです。 まず人の目を引いて、そのあとにヴォイストレーニングなどをして、下手じゃない商品にすればよいという考えでしょう。歌なんて、うまくならなくても、まして声など磨かなくとも、合格したらただで通わしてくれます。その辺は間違えないようにしてください。
残念なことながら今の日本の場合は、20歳で、6年くらいきちんとヴォイストレーニングをやり、実力をつけてから世の中に出ていきたいと思っても、ヴォーカリストになるにも年齢制限があるのです。だから私は今出ていって、やれるだけやった方がよいといっているのです。有名になって、力が伴わなければ、トレーナーを利用すればよいわけです。また、なれないことがわかれば、そこからヴォイストレーニングの、自分にとっての本当の意味を知り、第二の道を歩んでもよいということです。現実はそうです。私は理想だけではなく、現実も見ながらやっています。
○音声表現を否定する国、日本
音声が一般の人に対し、必要性や説得力がないということ、むしろ日本が音声での表現力を否定するという国だということでは、私たちも同じなのです。 もしアルタの前で、地方から出てきた歌のすごくうまい人が歌っているのと、隣でポケビが歌っていたら、ポケビの方を見ると思います。その方が職場や家で話題にできると思ってしまうわけです。所詮、音楽というのは、大半はそうやって表向きに消費されているものなのです。しかし一方では、より深いところで、人生とか、そういうことに影響をもたらしています。どちらが優先されているかです。
○トレーニングは必要悪
トレーニングというのは、ある意味では必要悪です。本当は小さい頃からその世界をたくさん入れて、自然にできていくのが一番よいのです。それをある時期を区切って、人よりも高いレベルにまでやれるために、あるいは早くそういう体にしていくためにやるわけです。 本当のことでいえば、そのうしろにあるバックグラウンドのようなものをきちんと通して、そこで自然に動いてくることが大切なのです。そこで足らないものだけを補充していくという方がよいわけです。急ぎすぎると副作用も出てくるし、入りすぎると、そこから出られなくなってしまいます。声が大きく出ることに快感を覚えたりすると、声を出すことがストレス解消のようになってしまって、芸術とか舞台にはつながらなくなります。【講演会1 01.4.6】
○声での創造としての歌
欧米人にとっての歌というのは、演奏面で声での創造物です。自分のアイデアやイメージがあって、常に即興で作っていくものです。※ ところが日本の歌の中では、声の使い方とかその見せ方は、あまり問われていないし、考えられていないようです。根本的な価値観の違いになってくるのです。 向こうの形だけをとっている場合がほとんどです。 クリエイティブな部分は、むしろ作詞や作曲の方にいっています。音の世界の中にはなかなか入っていません。 バンドは、音についてもかなりいろんな世界を作っています。しかし、ヴォーカルのつくり出す音声の世界はそれに追いついていないように思います。 ミュージシャンとしてのヴォーカリストであれば、音楽の部分は入れておかなくてはいけません。もし皆さんの中で楽器をやっている人がいたら、その中でやっている掛け合いというのは、確実にテンポ、リズム、進行がとれる上でやっています。誰かが少しでも、外すと敏感にすぐわかるわけです。 ヴォーカルもそういうトータルな感覚を持たなくてはいけないのです。ほとんどの場合が鈍く、バンドの人たちの方が音に関しては厳しいです。 楽器の人というのは、ビジュアル面は関係なく、音の世界の中で勝負してきたからです。自分の音をどう出すかということを、そのプロセスでやっているわけです。そういう段階を経て、初めてプロとして認められるからです。
○音楽技術の進歩
マイクや音響でいろんな加工ができるようになったので、二通り考えなくてはいけなくなりました。一つはベースの部分で、歌や声のことを知り、自分の体に落としていくこと、つまり、基本としての力をつけていくことです。 もう一方で、今や声量や高い音などは、音響加工でどうにでもできるわけです。それに対するアドバイザーを得ることです。 もっと聞きたいと思う魅力がある声や使い方をもつことです。そのためのバックグラウンドをつけていくということが必要だと思います。
○日本人と欧米人の音声力の違い
たとえば、日本人に言語をリズムからフレーズとして入る感覚というのがないのです。彼らにとっては日常でもっている感覚です。 日本人が歌と思っているように、音をとって歌い上げているわけではありません。好きなようにことばをしゃべって、その人に音楽が入っていたら歌になるのです。だから自由になるのです。つまり、常に即興、創造をもとにした声なのです。 そういうふうに聞くと、歌に対するイメージが変わってくると思います。どちらがよいということではありません。トレーニングのところでは、その可能性を大きくもてるように声の器を大きくしていき、あとの使い方は自分で選べばよいわけです。
○自由な創造のための間
何よりも、今の日本人にはそれを支えるだけのテンションがない場合が多いです。今の日本でテンションと掛けあいの呼吸を、本当にクリエイティブな自由度をもっているのは、お笑いの人たちでしょう。その声と呼吸の使い方に学ぶべきです☆。 役者でも同じで、もし声を勉強したければ、声だけを学ぶというよりも、黒澤映画の三船敏郎などを見てください。当時は音響が悪かったために、一気にバーンとしゃべれなければ通用しなかったのです。 歌い手も昔は技術が悪かったから、そのぶん体に必要なものがはっきりしていたわけです。今は逆にそんなものがなくても、技術がすごくよくなっているからやれるわけです。
そういう中で声の判断をつけていくのは、至難です。 歌は、デジタル加工されたCDで聞くよりも、生のステージで聞きにいって、歌い手がマイクを離して声を出すところを見た方がわかるわけです。 他人の生の声が聞けるということは、自分のトレーニングには、もっともよい勉強になります。加工されていないからわかりやすいのです。マイクをつけてしまうと、自分の体の感覚では直接、捉えられなくなりますから、難しいです。
○一声区としてのポピュラー
外国人の歌でよく、聞いて欲しいのは、強弱の感覚で歌っているところです。高いところになったからといって、高く歌っているようには聞こえないと思います。 我々日本人が足らないとか、気づかないところは補いましょう。逆にそんなことを考えなくてもよいとか、彼らも考えていないところに関しては、練習する必要はないということです。 私は一声区という考え方です。高いところでは何かが起きるのはあたりまえです。そのときに自分で加工すればよいのです。 世界のテノール歌手の発声を目指して、それと同じくらいの声が出るようになったら、ロックのシャウトも歌えるようになるという人がいます。 しかし、そんなヴォーカルは、ポップスにはいないわけです。ただ、そこから、発声の原理を知るのはよいことです。 ほとんどの人たちは、自分の基本をきちんと固めたところの上に、そういうものが出てきたわけです。そのプロセスを踏まえることです。
○ミュージカルにおける音声表現の違い
日本のミュージカルと向こうのミュージカルとの最大の違いがそこにあります。日本のミュージカルは、原曲をもってきて、その音域をカバーするために、どうしても声楽的にしか処理できないのです。そういうノウハウの元でやっています。 しかし、「エビータ」などで、マドンナやバンディラスなどが歌っているようなのは、全く違った処理の仕方をしています。その方がロックなどではしぜんです。 この声を出すためには、こういう息をもつためには、これだけのテンションと、こういうイメージが必要だということです。実際にどれだけ出すかというのは、自分の歌の中で選べばよいことです。
○体の振動で聴く
曲や歌を家でラジカセなどで小さくかけているだけでは、体に入ってこないのです。最初にやるべきことは、許させる範囲での大音量での音楽鑑賞です。 レッスンが60分あったら、私は、50分は聞くことに使いたいのです。音をきちんとした設備のもとで体で振動として受けとめることが必要だからです。一流の歌い手の体や息を感じることが大切です。 レッスンは、それを自分の体で増幅して返すためのものです。そうして、一流の人のもつ感覚を10分の1ずつでも、入れていくのです。自分の中で、そういうことを感じていなければ、そういうふうには使えません。
ヴォイストレーニングは、トレーナーに教わるものではありません。自分の体にはそういう感覚や能力があって、それが眠っているから起こしていくと考えた方がよいのです。 声帯でも、本当は2オクターブくらい使えるのに、ほとんどの人がそこまで正しく使わずに一生が終わってしまうのです。その能力を引き出していくのです。それ以上のことは無理です。 どこまで声が出るのかと聞かれても、そういうことではないし、何の意味もないわけです。どうしてもヴォイストレーニングの問題というと、音域がないとか、声量がないということのようですが、そういうことではないのです。
○出だしの1フレーズ
プロの歌から学ぶべきことは、高いところやファルセットが出ないということではなく、出だしのところから同じレベルには全くできていないということです。そこが一番の基本のところなのです。つまり、そこまでのステージング、呼吸の問題となります。 彼らは出だしの一音目から、表現し、充分に人を惹きつけているわけです。出だしのところもできないのに、高いところ、大声量のところで魅せられるわけがないのです。なぜそういうところにばかり問題がいくのかというと、自分の判断基準が、音高があって、ことばがいえていたらよしとしてしまうからです。そんなものでは通じないわけです。
基本のトレーニングというのは、自分の原理に正しく、確実にできるようにするためにやるのです。セリーヌディオンなどのコピーをする人も、それっぽく歌っているだけに陥りがちです。 歌で聞いたものを歌で聞いてしまうと、実際に自分が歌うときは、それよりも小さく作ってしまいます。感覚というのは、ほんの小さな違いのようでも、とても大きいのです。それを大きく読みこみ、拡大しておく練習によって、小さくすることにも対応できるのです。だから練習のときは、なるべく大きく作っておく方がよいわけです。歌から歌の勉強ができないのは、そういうことです。
○声があれば、歌えるわけではない
よく「声がないから歌えない」という人がいます。では自分のビデオを声を消して見てください。プロの表情、身ぶりと比べると、そういう問題ではないことがわかります。 プロの歌は、1フレーズのなかでも彼らの表情がくるくると変わるし、体も手も思う存分に動いています。鋭いでしょう。キップがいいでしょう。 自分のを見てください。そんな表情では音色も出ないし、感情も動いてこないでしょう。だからといって、形だけ振りつけてもだめです。声や歌の形だけと同じで、体からの呼吸や生きた声を妨げます。しかし、それを練習としてやっている人が多いのです。やることはよいのですが、それは目的ではないということを知るべきです。
歌えないのは、声のせいではないのです。その音楽の世界とか、表現の世界が作られていないことが問題なのです。それが作られていたら、しぜんと人の心を動かすように働くはずです。 役者でも、現場で相手に何かを伝えたいと思ったら、そういう方向で体が動くわけです。いや、日常生活でも同じです。 ところが日本人というのは、そういうことを全くやらずにいや、むしろ抑制して生きてきたわけです。そのため、その部分はトレーニングをしなければ、動けないのです。そこが一番違うところです。
○学び方(補)
私が会報や本などで伝えるのは活字で済むような問題はそこで片付けたいからです。その上で全部読んでも、何も解決しないということを知っておいた方がよいのです。一声で一フレーズで全く素人とは違うということが、原点です。 学びにいく場所では、そこでしかできないことだけをやるために必要なのです。
○声や歌を聞かせるのではない
アーティストのビデオをたくさん見ていたら、誰でも歌がうまくなるということはあり得ません。そこで自分との接点をつけなくてはいけません。 音楽というのは、音の中に刻んでいくものです。その1秒の中に何が行われているかということを受けとめるところからです。それを少しでも自分のものとして出せれば、それが線と色、フレーズと音色つまり、あなたのデッサンとなります。 歌が難しいのではなくて、「ハーア」というところだけでも難しいわけです。何もない人がまねしても、何も出てこないということです。声が出ても、それに何ものっかっていないと伝わりません。 つまり、声や歌を聞かせるのではなくて、声や歌に何を乗せて伝えるかということがなければダメなのです。元の声や出し方が少々悪かろうが、そういうことは大したことではないのです。伝えたいというものがあって、それを声を使ってやるのです。発声や音程、リズムが問題の中心ではないわけです。
○音程、発音は後まわしでよい
音程が狂っているとか、ことばがはっきりしないといわれてしまうのは、元々、表現としてもっと飛んでくるものがないから、そんなところに聞き手の耳がいってしまうのです。プロでも英語はど下手で音程が外れていることもあるのです。それを聞かせないくらいの表現の豊かさがあるから、もつのです。(もう一つ、ここには日本人の感覚と声での処理についての問題があります。日本人特有の音程と高低アクセント=高低感覚、発音=ことばが優先してしまうことです。※)伝えたいものを伝えることを目的にしなければ、表現にはなりません。その辺が日本の音楽の目的そのものがずれているところだと思います。
○歌の効果
日本の音楽の使われ方というのは、タレントを売り出すために、人を集め、お金を稼ぐために、一番効率がよいのが歌だったからです。周りがプロであれば、その人に、何もなくても音楽CDやライブステージは作れるわけです。 それは、今も昔も変わらぬ業界の体質でもあります。もちろん、何のとりえもない人は選ばれないのでしょう。しかし、そこで選ばれるという才能をもつということは難しいことだと思います。
私も15歳くらいで、今度デビューするからという人を紹介されたりします。どこがよいのか全然わからないのですが、何年かも経たないうちに確かにタレントとしてはよくなるのです。プロデューサーはそういう目をもっていて選んでいるからです。 研究所は、どちらかというとそういうものに選ばれなかった人たちを対象にしてやってきました。となるとそれと比較にならぬくらい強い音声表現力がないといけないのです。もちろん音楽を一生のなかでどう位置づけるかは、その人の自由です。音楽を入れて出すこと。
○入っていないものは、出てこない
音楽が入っているということは、どういうことでしょう。伴奏を聞いて、その伴奏に対して自分がイメージをしっかりと重ねられることです。それに対し、音楽を出せるということは、それに自分の感覚で発案した違う線をうまくずらしていくことができるということでしょう。 こういうことは、日本の歌がまだ追いついていないところだと思います。 欧米のアイドルなどでも、歌手として成功する人には必ずこういう部分の音楽がきちんとしています。 曲をそのまま、声に変換して歌うのではなく、このズレをどううまく作るかということが、その人の音楽なのです。日本では、そういう試みさえ大してやられていないのです。創造するということが、きちんとしていません。
○強で事を起こし、弱で拾いあげる
向こうのことばの特徴は強弱の強のところに巻きこんでいきます。そのため、弱のところがほとんど聞こえなかったり、何をいっているのかわからないことがよくあります。 向こうの新譜を耳で起こすときも、発音がわからないことがあります。ところが、それを日本人が歌っているもので聞くと、全部聞き取れるのです。全部をきちんと発音するからです。 我々は、強弱というよりは、発音をとるのです。もっと、リズム律動を優先すべきです。 誰もできないところだけが、その人のオリジナリティになるのです。オリジナリティといわれるためには、それを口先で作るのではなく、その人の呼吸の中で回って、その上で独自の音色が出ていることが必要です。
○メロディ処理
ことばで「冷たい」、音階は「レミファミ」でやってみます。日本人の場合は、「レミファミ」の上に「つ・め・た・い」と置いて変換していくわけです。音程を探りながら歌っていると、聞いている方に音程をチェックされるのはあたりまえのことなのです。 それに対して私がメロディ処理というのは、普段、日本人が高低メロディで捉えているものを、できるだけ強弱で捉えていこうということです。 日本語の場合は、公式に人前でしゃべったりすると、とぎれとぎれになることが多いでしょう。日本語の得意な外国人は「オハヨゴザマス」と切れ切れでいいます。本当は伝えることが目的なのに、形式が先にきてしまうのです。
この形の練習をしていると、生の声は使えないわけです。日本のファーストフード店のアルバイトと同じで、発音を口で作っているのです。 日本では、強く太く音声で表現することが嫌われます。 そこで我々日本人は、歌は、全くかけ離れた声で歌っているわけです。それをよい面でも悪い面でも助長したのが、声楽という分野だったかもしれません。 歌は、もっと泥臭いもので決してお洒落なものではないのです。
日本人がとり入れるときに、欧米の文化、特に洋画などへの憧れと一緒に入ってきたわけです。映画の吹き替えでも、やけに気取ったいい方になるのは、日本の向こうの文化をとり入れる一つの形なのです。 舞台というのは、日常とはかけ離れた世界を作らなくてはいけないから、形から作ってしまいがちです。特に日本人は音声表現力において、弱く、それを確立しえていないのです。
○強拍に巻き込む
歌の中での彼らの言語感覚で握っているところを捉えましょう。大体は、強拍の中に巻き込まれています。強のところがつかみです。そこをつかんでフレーズの動きをつけていくのです。 役者などのせりふでも同じです。どこかで入りこんで、どこかで抜くわけです。 日本の唱歌などは、ことばの長さを等しくし、均等に音をつけていきますから、歌自体に自由がありません。
○呼吸の深さ
Jポップスでは、リズムの方にことばを動かしています。昔と違って、リズムの中にことばをつけてみたら、ことばが自由に動いていくというような、つけ方はできなくなってきています。それは呼吸でリズムを動かすことができなくなってしまっているからです。点を叩いておいたら、リヴァーブでズラすことができるからです。一見、同じように聞こえるのですが、しっかり聞くととだらしなく聞こえてしまいます。浅い息をたれ流しています。
○原理とオリジナル
日常の会話もテレビもだらしなくなると、それをいくらだらしないといっていても、受け入れられていくわけです。 それに対し研究所では何をしているのかと考えることもあります。 ここでは、音楽にもっていく前の部分で、役者の声も含めオリジナルの声を取り出せるような、呼吸と声との原理が働くところ、その基本のことをやるのです。 高低感覚でなく、フレーズでのメロディ処理をしているわけです。強弱で捉えていくということです。これが日本人にはなかなかできないことです。 音の高さが変わることによって、違うことが起きてしまうからです。彼らの中では、それを普段のことばの中で処理してしまうわけです。歌もそのままの応用です。
○基本は器づくり
フレーズは、息で支えられないといけません。簡単に見えるかもしれませんが、大変です。のどに負わせず、体に負担をかけることで、体は強くなっていきます。そういう形での循環をつけていくことです。 のどだけを鍛えようと思わず、できるだけ体の方で引き受けることです。 自分でどれが一番よいかわからないといっても、大体はわかるものです。誰かがパッとみて、おかしいと思うものはダメです。 基本のトレーニングで大切な目的は、それができたかできていないかではなくて、その上に何かが乗る器がどのくらいできていくかということです。それがどれくらい大きく変化できる可能性を広げておくかということが、基本のトレーニングでやるべきことです。 だから、状態が悪いときも、呼吸を整え、気を入れなおして、集中してやれば戻るようになるのです。
○どこにも邪魔されない声
きれいな声を出したいとか、声楽っぽく出したいと思っても、それが目標になってしまうと、必ず間違えてしまいます。部分的な操作になってしまいます。一見よさそうに見えても、本物がとなりにいたら、吹っ飛んでしまいます。 クラシックでも、一流の人たちは、うしろから声が飛んできます。そんなに簡単なものではないのです。どこにも触れていない声は、それだけ外に飛んでいるということです。そのもととなる深い声とか、声の芯というところは、日本人が日常のなかではあまり、もっていないところです。日本のトレーナーでも、大半は、のどを外させるために、上の響きにもってこさせているというのが現状だと思います。
○ことばから歌へ
イタリア語でとると、強弱がつけやすくはなります。そこで、フレーズや声を学ぶ。私のレッスンでは、さらに日本語をつけています。しかも、テンポやキイももっともよい条件のところに自由に変じさせます。※ 基本をやるということは、歌の心境になって、さらにそういう体になったところに、音楽が従うべきです。音楽の形のところに歌い上げることではないということです。 ことばでいった方が伝わるのであれば、ことばでいえばよいでしょう。その中でもっと活かせるから音楽にするということなのです。 ことばの中で7割は片付けておいて、あとの3割の部分を何倍にも音楽でとれるのであれば、はじめてメロディをつける意味があるのです。そうでなければ、ことばで語る方が伝わるのですから。
○歌への変換
ヴォーカルの才能というのは、その変換で問われます。それで3割を10割に見せられる人もいれば、1割になってしまう人もいるということです。大体やった通りにしかできないものです。 ところが人によっては、自分では3の力しか出してなくても、それを10にできる人もいるし、逆に10の力を出していても、3しか与えられない人もいるのです。 たとえば、陽水さんや清志朗さんが歌ったら、どんな曲も彼らなりの音楽に置き換えてしまうでしょう。そういうものと比べてみて、それに似ずに自分なりのタッチがどうなっているのかということで問わなくてはいけません。
○シンプルにする
ポップスにおいては、シンプルなものがよいでしょう。シンプルに捉えて歌わないと、複雑になって難しくなり、発声技術への挑戦のようになってしまいます。しぜんにみえるのが、一番です。 日本の歌い手でも、向こうのものを歌うときに、歌唱力があったり勉強した人ほど、難しく歌うのです。ところが向こうの人たちのを聞いてみると、すごく簡単に楽に歌っているわけです。吐き捨てるように歌っています。 どちらが伝わるかというと、シンプルな方が伝わるわけです。 歌から勉強できないというのは、ビブラートやシャウトもそのまま、まねてはいけないということです。体験としてやってみるのはよいのですが、それは本質ではなく、応用をさらにまねした応用だからです。
○比較して、メニュにする
聴いて欲しいのは、プロと同じことをやったときに、自分は2秒しかできないのに、相手は7秒できるとか、同じヴォリュームでやってみたら、自分のは薄っぺらいけれども、向こうのは分厚い。としたら、そこに明確な課題ができるわけです。 そのギャップをトレーニングで埋めていけばよいのです。 ヴォイストレーニングというのは、何もわからずに声を出していても、的が絞られてこないわけです。一つのメニュのなかに、それぞれの目的に合わせたいくつものメニュをつくり、それに対し、トレーニングをセットするのです。そのセッティングする力を学びにくるべきなのです。 一番大切なのは自分の声のマップを作っていくことです。それが自分で把握できないと上達しません。 こういうふうに歌うかどうかというのは、問題ではないのです。こういうフレーズから、自分が歌に使えるものをとっていけばよいのです。これは普段のレッスンでも同じです。【講演会 01.4.22】
■入門レッスン
●2001年の状況
いろいろと迷っている人もいるかもしれませんが、一つの方向性だということで聞かせました。今年も考えなくてはいけないことが多いのですが、今回のライブが久々まともだったような気がします。要は、これで吹き飛ばない人が4、5人いたというレベルです。 結局、ここ3年このレベルのところに誰もグレードを上げられなかったということです。ゲストに来てもらったり、入れ替えもしました。 6年を超えて、ここと結びついている人の書いたものをロビーに貼っています。今ある劇団の主役だった人も、熱心で、一番上の一つ手前くらいのグレードまでいっていました。私は歌も舞台もそんなに分けていないのです。
他の劇団の人とやってみたいというのであれば、それは一つの経験にはなると思います。今度のワークショップは、鴻上さんの劇団主宰ですが、他にいろんな役者さんたちが参加するようです。プロばかりではありません。しかし、かなり勘のよい人が多いです。去年はここのメンバーを連れていったのですが、今年は短い時間で私だけでやってこようと思います。そういう判断を私がしたということです。 外部の先生も必要であれば呼ぼうかと思っています。昔は20歳以下は入所できなかったのを16歳からOKにしたので、研究所自体が若返りしました。どうせならば早い方がよいのですが、こちらがうまく与えていけるのかということです。22、3歳くらいから4〜6年がもっとも伸びた。
もしかしたら、他の学校で2年くらいやって頭角を表したり、やるだけのことは全部やってから来た人の方が、ここはわかりやすい。Rが書いたものを廊下に貼っていますが、それに「ここは何も教えてくれないです。自分でとっていくだけです」と平然と書いている。 皆さんが何か求めることがあったら、考えていきたいと思っています。今、二期会のプロコースの声楽家と黒人シンガーさんに来てもらっています。これで、「教えてくれない」もないでしょうが。精神的な面と肉体的な面のことをいつも考えています。私は何よりも音楽を入れることの方が、優先すべきことだと思っています。
○鑑賞の仕方
美空ひばり名曲を、13人の歌手が歌っています。美空ひばりが、日本では別格扱いされてしまうのはどうしてでしょうか。ここにもアーティストの影響下で歌っている人と、全く違う形で歌っている人がいます、キムヨンジャ、八代亜紀さんなどは、別の解釈で自分の方にもってきて歌っています。知って欲しいことは、それに対しての自分の位置です。 自分というのはが弱いなら、自分ではなくて、この2つの入っているところから、音楽を見ていくことです。要は、将来自分が優れていくとしたら、より優れた自分だったらそう判断するだろうと思うところの音楽の部分です。
それは、美空ひばりの歌から直接受けることもできる。彼女たちの歌の中で、ここは嫌だなとか、ここはいいなと思ったら、好き嫌いではなく、優れているか優れていないということの、そのよしあしで判断していくことです。そこで音楽の原型のようなものを探りながら、そこから自分なりの寸法に合わせていくわけです。本当はそこでの会話を充分にして欲しいのです。
真似をしてはいけないというのは、表面的なところで受けようとすると、中途半端になるからです。こんなところでアップアップしていても、長くやっている人、うまい人にはかなうわけがない。そうでないスタンスのところで、彼女たちの個性が消えたときに残る音楽性とか、歴史が古かろうが新しかろうが、そこでつながるところの何か新しいものを自分がやれば、例え稚拙であっても、表現としてはより新鮮なものとして出ていくのです。 もう一つは、IYさんが日本の古い曲をカバーしているアルバムがあります。この中の古い曲を知っていたら、それを聴いてみるの、なぜ彼はその曲を取り入れたのかということです。選んだ理由があるはずです。
なぜマドンナがエビータをやろうと思ったのか、それをやることによって自分の何がより出せるのか、版権までとって、その映画をやろうと思ったのはなぜかということです。自分があの役柄を演じることによって、あの役柄を借りて、自分を表現したいというところの感覚は何かということです。 そういうものが選曲の部分からもみれます。 遊びで選曲したものもあるかもしれないし、また選曲ミスも起きています。歌の構成、テンポやアレンジを変えたりして、仕上げているものもあるし、シンプルに歌って、彼自身の感性のところで作っているものもあります。正統的なやり方ではなくても、こういう勝負の仕方もあるということです。例え古い曲であっても、今の若い人に通じるための、受け入れられる音楽の要素が入っているのです。なるべくそうやってクロスオーバーしているものを、きちんと自分の中で分けて受けとめていくことです。
○つながっているか
これはGのCDです。いろんな曲を聴いていて、何が正解で何が間違っているのかわからなくなったら、こういうシンプルなものを聴いてみればよいと思います。そういうときは、よりシンプルなものに戻ればよいわけです。そのシンプルさが示せるところまでわかっていくのが、最初の1、2年目だと思います。 よく、同じレッスンに出る必要があるのかといわれるのですが、同じレッスンを4回出た方が、違うレッスンを4回出るよりも、大切なときも多いのです。大体1回目のレッスンに出てもわからなくて、2回目から何となくわかってくるくらいだろうと思うのです。どこまで聞こえたかという世界ですから、4回聞いても1回聞いたときとあまり変わらなければ、4回別のレッスンに出た方がよいかもしれません。それは一概にいえません。また私の方では決めていません。
この前スピルバーグがこんなことを言っていました。映画の勉強をするときに、全部音声を消してみて、セリフがなくてもそれでストーリーがきちんとつながっているかということを見る☆。 皆さんの歌でいうと、伴奏を全部とってみて、それで曲が成り立っているかどうかということです。今、やっていきたいことは、たった一箇所でもよいから、そこで働きかける接点をつけていくことです。 このリズムの中でどう掛け合っているかということです。できるだけリズムと音色で聞いてみてください。なかなか体には落ちてこないものです。2年で考えていたものが、6年くらいでようやく出てくるくらいです。これはすぐれた人を見ていていえることです。そのイメージを持っておくことが一番大切です。【「ドミノ」入門 01.6.7】
■レッスン(入門以外)
○声の問題にしない
悲しい歌とかしんみりした歌だからといって、テンションを下げるのは、大きな間違いです。作品にしなくてはいけないのですから、緩やかな曲とか静かに歌う曲ほど、最低限のテンションを入れておかなくては伝わらない。 それがきちんと通っていなければ、だいたいは発声の問題になったり、声にならなくなったりという初歩的な間違いを起こしてしまいます。 それはイメージの問題です。出だしだからといって、基本的に先ほど見せた映画のテンションとか、この曲のサビのテンションと変わらないのです。そこでコミュニケートするという感覚、それを示すという部分が見えなければ、伝わらないのです。 特にこの曲は本質が見えやすい。そのまま歌っていても真実が見えやすい歌です。それを自分の方のテンションを落としてしまったら、悪い意味で声の問題になってしまいます。そこでやってしまうと、練習になりません。 あなたのは自分の中で回っているだけで、こちらに何も聞こえてこない。舞台と表現がなければ、音声は聞こえてこないのですから、そこをきちんと作らなくてはいけません。だから、先を落とせばよいという問題ではない。何が違うのかというのをもっと聞いてみることです。
テンションの問題は難しいのかもしれません。派手な課題をやったら声が乗るのに、こういう課題では全然乗らないというのは、それは明らかにイメージの間違いです。 こういう歌を歌うときには、気持ちを入れて静かに歌い出せばよいと思っているかもしれませんが、それだと声は聞こえてきても、相手には働きかけません。
○握り放り投げる
音楽にするとわかりにくいかもしれませんが、ことばでやってみると、わかると思います。 練習ですから、感情過多になって声が出なかったり、大雑把になってしまうのはよい。しかし、テンションが低い練習は、やるだけムダだと思います。 悲しい表現や寂しい表現だからといって、テンションが下がってよいということではないということです。 それを伝えるためには、余計に高いテンションが必要なのです。ほとんどの人が、一番大切な部分を握っていない。それを握っていたら、放り投げればよいだけなのです。それをそろそろ正していかなくてはいけません。 もう一度見たいとか、誰かを呼んできたいという気にはならないのは、歌い手が突き付けられるようなものを用意していないからです。伝えようとしなければ伝わりません。あなたが自然にやれば、そういうものが出るということは、ベテランでもない限りない。
今やりたいことは、たった一瞬でも一秒でもよいから、この人が考えている以上の受け止め方をして、それを出すということです。その接点を見ていって欲しいと思います。 それがわからなければ、ことばで読んでもよいと思います。それは声があるとか、ないという問題ではない。ただ声にしなくてはいけないというのは確かです。テンションの問題が大きいのです。テンションが下がってしまうと、ダラダラした声になってしまうのです。それはそろそろ直さなくてはいけません。
一本調子でダラダラとした歌になってしまうという原因は、ほとんどその人の姿勢の問題になってきます。歌をその程度に考えていて、その程度で歌っているから、ずっとそのままで直らないのです。それこそが、すごく大きな問題です。 何十年経っても変わりません。トップとの差は、体や声にしてもそんなにないが、接点のつけ方の問題と表現欲の問題です。自分の世界をきちんと示すなり、それに責任を持っているというところで、抜けているのです。新しく入ってきた人の方が、そういうものを持っている場合もあります。それぞれ気をつけてください。【「傷心」ABC 01.11.11】
○カバーアレンジ
皆さんのビデオも近々くると思いますが、何が違うかということを見てください。 例えば、V検というのは一つの基準です。基準がない人が見てしまうと、普通のお客さんです。みんながアポロの客のように厳しい評価ができれば、よい勉強になるのですが、ほとんどごまかして、それで通用してしまうようになると、場のテンション自体が低くなります。できるできないということではなくて、よいものに関しては、同じような音響の中でも、何が全く違うものとして働きかけるものということをどこかで知っておいて欲しいと思います。
Mの曲をいろんな人たちが歌っています。その影響下で歌う人と、全く違う形で歌う人がいます。両方ともプロですが、その距離を見ていくことです。そのまま比較せず、自分の中のもう一つ深いところです。自分の頭の中で考えてしまう部分、こんなのは古いとか、嫌いとかの部分を一時、とるのです。嫌いというよりも、できないとか、それは自分は苦手だとか、何か接点がかるいものほど、目標が表れる。その基準をとって欲しいということです。そういう意味では、こういうトリビュートものは参考になります。あとは彼らがその曲を選んで、どう処理したのかということです。 あるいはこのアルバムでも同じです。まず彼自身の世界があって、例えそれが人の歌であっても、自分がシンボライズしていくわけです。 だから彼がいっているとおり、こんなに世界にたくさんすばらしい曲があるのに、なぜまだ曲を作らなくてはいけないのかということです☆。その視点で見たときに、歌をどこまで自分がよく歌えるかということもだと思います。
よりよい脚本があり、よりよい作品があり、それも時代があったときの方が歌いやすいということもあります。そうやって日本の歌をどう選曲したのかを読んでみることです。その曲が好きだったということもあるし、何かの意図があったのかもしれないし、でも一番大切なのは、それをやることによって、彼の世界が変わったり、その世界をより大きくすることもできるということです。今までにはない彼を出している曲もあるし、あるいは彼の世界に持ち込んで、彼らしいアレンジをしている曲もあります。それによって音の作り方や歌い方も全部違ってきます。歌とかことばとか声で持っていっている部分と、現在の最新の技術を使っている部分があります。
○動かせる声を
こういうことをやっていると、だんだんマニアックになって、きりがなくなってしまうので、そういうときはシンプルなものに戻してよいです。大体日本の歌い手が向こうのものをやったら、そのレベルが下がるということをいっていたのですが、そうでないものもあります。例えば、これも聞いていたら癒されると思います。それはヒーリングで歌っているわけではないのですが、最終的に歌の役割はその部分だと思います。 これは、日本に持ち込まれた当時は、ペギー葉山さんが歌っていました。原曲はレシェンドリーヌという人が歌っていますが、かなり違う。音の高低差がなくて、シンプルです。日本人は、どこかに留まって音程をとっているので、そこの距離が見えますが、1オクターブが同じところで処理できるというのは、こういうことなのです。
10代のうちは声楽からでもよいと思います。例えば、上のクラスに残った人たちの唯一の共通点というのは、そのベースを持っている人たちです。私は5年前まで声にはそれしか認めませんでした。要は、きちんとした声の中で感情表現ができることです。それは、動かせるためです。動かせるというのは、そこで踏みこめないと自由にならないからです。「ドミノ」の「ド」でも相当強く出ている。その感覚が日本語自体にはありません。 ここでもその時期に中途半端で辞めてしまうと、余計にのどを壊してしまうでしょう。体でもっていくやり方では、美しくならないのも、きれいに響かないのも当たり前です。 いろんな価値観がそれぞれあるのはよいと思いますが、声を楽に使うことにおいては、そんなにおかしなことではないと思います。日本人の美意識が邪魔してしまうのです。
私がこの本を書いたときに、元ウィン国立歌劇団のオペラ歌手の人が「日本人の声は二つしかない、だから福島さんのいっているとおり、一人ひとりの声を持ちましょう」という推薦状を書いてくれました。外国人には当たり前のことが、日本の場合、他の人と揃えたがるゆえに狂うのです☆。 ロックのヴォーカリストで誰一人として同じ声の人はいない。それはベースにあるのですが、ただ、勉強していくにつれて、自分で急いでしまうから、そういうやり方があると思ってしまうのです。それを場の中でチェックしていくことです。どっちが本当に届くのか、動かせるのかということです。
○踏み込む☆
例えば、空間を動かすということはこういうことです。これはハワイアンの歌い手です。この時代の方が声を握って動かしているというより、加工がしていないのでわかりやすいのです。 だから勉強するのであれば、こういうものの方がよいと思います。男性はファルセットだけで持っていくのは難しいと思いますが、最初だけやってみましょう。 とりあえず触ってみる。それに手をかけたらぶつかってしまったというくらいでよいのです。ぶつかったというのがわかれば、勘が磨かれてきます。だから、できることは目指さなくてもよくて、同じことを隣でやってみたら、隣の人はできているとか、周りは全然できてないとか、そういうことから見ていくことです。「きれいな月が」 こういうもので練習した方が向こうの感覚もつけられると思います。ここの踏みこみによって、次の「海を照らし」というところがきちんともっていきやすくなります。
今度、劇団の人とやります。役者はそれをメロディをつけないでやるので、もう少し簡単です。 メロディがついてくると、同時にリズムをとらなくてはいけません。そこはリズムで踏みこめばよい。こういう曲は古くならない。それが決め手です。きちんと基本を守っているものというのは、どの時代もそんなに古くならないのです。原曲というのもそんなに古くなりません。
音程を気にする必要はないです。むしろ強弱の中にメロディを入れていくような感じでよいと思います。これに日本語をつけていきます。これは3拍子ですが、3拍子はすごく日本人は苦手なので、こういうものの中で覚えていってください。 それがことばになったり、そのイメージがきちんと持てたというのであれば、そこは変わっていきます。イメージをとるのが難しくて、逆に声が出たり、歌が器用に歌えてしまう人の方が、そこを素通りしていきます。
○収める修正感覚「我思い知りながら」
やりたいことと一致しないイライラの時期はあると思いますが、そんなに早く一致したらその方が嘘です。 場が成り立つというのがどういうことかというと、自分がそこでこう出したいと思ったことが出ること、そしてそれが周りに受けとめられるかということです☆。 そういう意味では、発声をやることも、声を出すことも、歌を歌うことも、それだけなら、簡単なのです。歌を場を動かすために一から勉強しようと思ったときには、一度戻すしかないのです☆。 歌でもしゃべりでも表情でもよいが、自分が何か起こしたことを、他の人がきちんと共感できるのか、それに対して認められる価値があるのかということです。マイクを使ったり、バンドをつけてやる方向もありますが、基本ということでは、自分がどういうイメージができるか、どう構築できるということです。
それでも彼女が簡単にやっていることには到底足らないところがある。その部分は体を鍛えたり、息を吐くトレーニングが必要になってくるのです。ただ、その発声技術をやったり、ことばを丁寧にやったり、歌がきれいに歌えたら何か出てくるとは思わない方がよい。自分が何かを出せる自由を確保することです。それから、それをぶつけたときに、そのあとでどう収めるかということです。今のフレーズでも問われます。何かを出したときに、それが収められないとしたら、それは自分の中の感覚で修正ができなかったのです。
○自分で作る
何回も聞かないとできないということではない。自分で自ら作りなさいということです。何を作ってもよいから、自分がこれが楽しいとか、これは自分に合っているとか、自分が確信できるものをもつことです。 誰かの歌を歌っても、誰かの歌の中で気持ちよいだけで、それは自分では確信できないと思います。もっとその人に似ている人が歌ったら、負けたとなるはずです。 でも本来であれば、自分の作ったものであれば、歌に勝ったも負けたもあるわけではない。要は、自分のものが出せたかどうかということです。早く既成概念を壊してください。それが一番の妨げになって、自分で思い込んでしまうのです。このフレーズでも、誰も言っていないのに、同じに捉えてしまうわけです。そっちの方が無難だからです。リスクを背負って、創造しなさい。
私の本を読んでも、未だに「歌う声と日常で話す声は違うはずです」ということをいってくる人がいるのですが、世界中の音楽を聞いてみればよい。そうではないものもあるが、大半のものというのは、しゃべりと歌を区別しているわけではない。しゃべりながらリズムをつけたら、ラップで歌っているといわれる。そもそも、別に同じでも違うでも、どっちでも、それは定義や考え方の違いで、どうでもよい。ラップは歌でないという人もいる。悪いけど、どうでもよい。そう考えたければ考えればよいし、それで間違っているとも言いません。
日本にいたら、勝手に自分で自己抑制していくところを、どこまで勇気をもって、打ち破っていくかということです☆。 今日ある教授に会っていたら、息子が吉本に入ったと。とてもよいことじゃないかといってきたのですが、おもしろいかおもしろくないかということだけで見られるようで、そんなに奥が深いものもない。それがおもしろいかどうかというのは、常に自分で作らなくてはいけない。全部自分が作るのです。ダメならば切り離さなくてはいけないのです。それと同じです。第一線でずっとやっている人たちは、大体こういうことをやっているわけです。
きっと彼は原曲は聞いていないと思います。ここのつなぎの部分などは、一番、魅力が出せるところだと思うのですが、もったいないです。大体日本人が向こうのものをやるときには、ことばのないところ、スキャットのところはカットします。 できないということもあるし、そういう部分は邪魔だと感じるのかもしれませんが、大体省きます。この辺はテクニックと、ごまかしと彼の世界と、その三つが入っています。ただ、ステージでやるときは仕方がない。それは目的が違うからです。でも勉強するときは、遡ってやった方がよい。
こういう流れを聞いていると、一つのフレーズを完成させていって、つないでいます。原曲の場合は、一つのフレーズを次にもっていって、それをまた次にというふうに、一番最後まで一本線を通した中で、配分している、つまり捉え方の違いがあります。シンプルに捉えようとしたら、曲の最後まで捉えた上でやっていくことが必要です。現在のものは現在のものでよいところもある。売れているものの感覚も見ておきましょう。【「ドミノ」1 01.6.7】
○フレーズのルール
よく聞き込んでいくと、一つのフレーズの中でもいろんなことをしていることがわかると思います。見えないところを見ていって欲しい。まず音をつかんでから、音を置いていかなくてはいけない。そこが見えなくてはいけません。 「トゥ」の中にも音楽を感じて、そこから音楽を始めることです。全部を上辺だけで進んでしまうと、何も起こさないままでいってしまいます。 そこに体と息を入れて欲しい。今は少し重く、暗くなってもよい。実際に歌として成り立つためには、例え音色が暗くても、重くても、その動きを伴えば成り立つのです☆。
わかりにくければ、そこを強めてみたり、弱めてみたりして、フレーズが静んだり、浮き上がったりするということを知ってください☆。トランペットとかサックスの演奏を聞いて、なぜそれはそう弾いているのだろうというところを聞いてください。 そういうものは、最初あまり音楽っぽく聞こえないかもしれませんが、何回も何回も聞いていくと、それぞれの人の整理とか、その人の感覚の部分で、きちんとしたルールを作り、見せるところはきちんと見せています。そうでなければ、歌がつまらなくなってしまいます。 声の問題というよりは、その声を扱うところの感覚です。そこでの聞き方を充分にやってください。 クラシック歌手の場合は、声を揃える位置がある程度決まっているところがある。ポップスの場合はそれが自由ですから、逆に難しい。
この流れで勉強すると、多くの人がそうであるように、この歌い手は認めにくい。声量があって、高いところが出せたり、張れたり、声を柔らかく出せることが、歌い手の条件のように思いがちだからです。 その流れを変えたということでは、革命的な歌い手と聞いていくと、勝負の土台が違う。 たとえば、ビルラ、ドミンゴやカレーラス、パヴァロッティなどは、何百万人が何百年勉強しても、そうはなれないだろうという方向でやっている。
それに対して、自分のスタンスをきちんと決めたところで音楽をやっている人もいます。ロックはまさにそういう声を叩きつけてきたでしょう。 その中でもわかりやすい曲を使う。声をどう使って、どう音楽的に奏でていくのかという法則が見えやすい。簡単そうに見えますが、こうは歌えません。 最初に聞いたときには、途切れ途切れに聞こえたり、単にぶつけているだけのように聞こえるのでしょう。よく聞いていくと、音楽をしっかりと演じている。音楽というと、きれいにつながっていくものというイメージがあります。優れた演奏を聞いてみると、みんなバサバサ切って、急な展開をしています。
○歪みの表現 千住三兄弟
NHKの朝の連ドラが千住明さんを使い、バイオリンに変わりました。千住明さんが作曲家で、真理子さんという妹がバイオリニスト、そのお兄さんが有名な画家で、「千住三兄弟」に関する本が出ています。三人ともバイオリンは小さい頃からやっていたようですが、それぞれの分野で才能を発揮しています。 明さんに招かれたデザイン会議で彼のいっていたことが印象に残りました。普通のギターの美しい曲では人の心は捉えられないから、そこに音をわざと歪ませていれるという。すると心に伝わることでした。歌というのはそれに最たるものです。都はるみさんとやったら曲がぶっとんだ。
つまり人間の声というのは歪みということです。そういうことでいうと、この歪みがあるから情感が出てくるということです。 伴奏に対して、歌は演奏、いや演じなくてはいけないということです☆。演奏というのもズレを作っていく、そこに個性とかオリジナリティなどが必要になります。その描き方のパターンの練習として、この曲をやっていきましょう。 どこを音楽にしているのかということを聞いてください。
○フレーズの感覚と切替え
最近気になるのが、自分の選曲、自分のキィの設定、呼吸の設定、そのセッティングミスです。 もっと素直に普通に歌えば、それだけでうまく歌えるだけの声や感覚はもっているのに、なぜそういう動かし方をするのかとか、なぜそこまで伸ばすのかという場合が多い。 最初に自分で作ったルールを、なぜ次のところではそのルールを壊すのか、要は、なぜ自分の音を自分でぐちゃぐちゃに濁すのかということです。 昔は声がなかったり、歌がうまくいかなかったから、へただといわれていたのです。しかし、今はそういう条件を最初から持っていたり、声があったりするのに、なぜそういう使い方をするのかと思う人が多い。そういう意味で、課題を一度洗ってみるとよい。
曲は、音楽になる条件が比較的わかりやすいものを使う。出だしの1フレーズだけでも、あなたの一時間分の練習になるはずです。 大きく四つくらいの感覚の切り替えをしないと、表現としては持たないということです。音だけを聞いてみるとブツブツと切っているように聞こえます。きちんと感覚とか体とか息で聞いてみると、すごくためて、そこでパッと切り捨て、それを拾ってうえに持ち上げて落とすというようなことをやっています。それが音楽にするということです。
音楽になっていないといわれるのは、こういうことができていないということです。 よく方法論などを求められるのですが、たとえば「誓って」というのも、自分で本当に「誓って」と思って、体や声がそう動いてくればそれでよい。 基本的なトレーニングの中においては、自分がより息を使い、きちんと体で支えられていて、瞬間的に出られるし、柔軟に変化できるということを養っていくのです。
プロがやっているように歌いなさいということではなくて、この曲で使われている感覚にまで自分が降りていったら、そうしたら、たった一音や二音でも、半オクターブでも難しくなるのです。 もう一つは、ヴォーカリストとしての音楽が入っていないということと、その出し方のルールを決めていかなくてはいけないということです。好き勝手に感情移入をしていたら歌が伝わるというものではありません。 オリジナルのフレーズというのは、感覚の鋭いものを徹底してやり、体を使い、それに反応できるようになったときに、その人から予期せぬものが出てきたり、一番よいものが選ばれて出てくることがあります。その二つは最低やっておくべきことです。「ハイ」一つ、ことば一つ言えないという人は、そこまでの勉強が足りていないということです。
トレーニングでは、いろんなトレーナーがいろんなところからアドバイスをしています。そこで、たった一つでもよいから、自分で接点がつけられるものに集中して、その世界を読み込んでいってください。そこに自分の表現を入れて、それを客観視できる力をつけていくことです。 すると、大して価値あるものはないものです。だからこそ、そういうことをきちんとベースの勉強として入れてください。
歌もメニュでも、自分で作っていかなくてはダメです。プロは、音楽の中で過度に何かを起こしています。それゆえ、いろんな流れに乗せられるし、敏感に対応できるのです。声の器楽的な使い方で、ことばがなくても、音として音楽を創り出せる、表現できるという部分こそが、大切なのです☆☆。 次は音楽につないでいきますが、自分の練習としては、ことばのことと、体のことをやってください。そして、声を前に出すということです。 体でもっていながら前に出すということは、難しいことです。その辺を整理してください。 自分のメニュを自分で作っていくことです。いろんなメニュをヒントにしながら、自分で作ってください。【「すてきなあなた」01.12.1】
○のどへの危険
練り込み、鍛錬、粘性ということで、練りこんで出していくための勉強です。やたらと力を入れたり、息だけを吐いてしまうと、のどを壊してしまいます。こういうのは諸刃の勉強法で、一人でやるのは難しいものです☆。 できなければ、息でいって、体を作っていくまでやらない。直接のどに当てることは控えるべきです。 声を少しでも動かせる人は、それが自分の体の中心の線で回っているのであれば、声のベースづくりとして、よいと思います。日本人は、あまりやらない歌い方です。
日本で教えるところで、こういうやり方はとらない。危険の方が大きいからです。 でも、これでもきちんと音楽になっている。 そういうふうに一体にしてみて、声の中心をとることを、こういう型で何回も入れていくというやり方は、その人の感覚が鈍くなければ、決して危ないやり方ではない。 体から息をきちんと吐いて、声を押し出していくのですから、正攻法です。 それをそのまま歌でやると、厳しいと思われるかもしれません。それはステージングの中で変えていってもよい。
でもどこでもパッと入らなくてはいけない、声の基本ということでは同じです。そこでイメージや感覚が必要になってきます。同じ箇所を日本語でもやってみましょう。 練習で本番以上のテンションが必要です。その気構えや、自分の心身が一致しなくてはいけない。息が乱れただけでもすぐに狂ってしまいます。その呼吸と声をきちんとコントロールしていくことです。また呼吸と声とのイメージを統一することが大切です。途中で狂って、のどに負担がきたり、息が足りなくなったら、メニュを変えるべきです。
○色気と音色
フレーズのなかで、声をより短くしたり、音を低くしたり、鋭い入り方をすることです。何事も、きちんと引きつけるからきちんと放せる。その引きつけ方が弱かったり、放し方が中途半端であれば、それは全部乱れる原因になるのです。 トレーニングの中では、目一杯引きつけて、目一杯出すということを繰り返しやっていくことです。実際のステージの中で、その動きの感覚が見えると、声の中にもちょっとした働きかけが出てくるのです。 声の色気というのが、大切です。その人の生き方、ポリシーなどもありますが、音声の世界でいえば、生来のものプラス使い方でしょう。トランペットにも色気はある。 そこにどういう呼吸が入って、その呼吸から少しずれたところに、どういう触りとして音が出たかということです。正確に弾くということと、心に働かせる演奏というのは違うのです。
これは出そうと思って出せるものではありません。繰り返している中で、自分の中に何かしらそれを置くことによって、正確に歌うことよりも伝わる要素が出てきたときに、そちらに切り替わるということです。 発声をバカ正直にやっていくと、発声が乱れたと思って、また戻してしまうのです☆。そんなにつまらなくなることはありません。 発声が乱れたところに何が出てくるのかということを、本当はきちんと握って、一本通ったルールの中に置いていくのです。それがバラバラだと一人よがりになってしまいます。それをきちんと踏まえてみると、一流の演奏から学べる感覚はとても大きいと思います。【「すてきなあなた」※B 01.12.2】
■その他
●V検個人コメント
1、2……基本的にメリハリの天地は出ていたと思いますが、そこまで天地が作れたら、横での進行軸のところでもう一工夫あってもよかった。また、前向きに出ていたことは最大の評価だと思います。 2曲目に関しては、ことばの問題で、これは全部に関係してくるのですが、ギターと音楽とことばの会話が、厳しくいうと、とれていない、誰も気付かないことかもしれませんが。バランスというより、そこでのコミュニケーション的なものです。 歌とか音楽というのは難しいもので、その人がステージができる人とか、歌える人だと思われた瞬間に、いきなり基準が高くなるのです☆。例えば、心地よいと思われたら、ちょっとしたリズムでも気になってくるし、声がきれいに出ていたら、ちょっとかすれただけでも気になるのです。 そういう意味でのことなので、そんなに気にする必要はありませんが、自分で聞いて、全体的にその辺のことがまだまだ叩けるでしょう。
3……語尾処理が気になりました。それが雑になってしまうと、歌全部が壊れてしまいます。オリジナリティは出ているし、曲も音楽に乗っかっているのはわかるのですが、そのまま、さだまさし路線にいって、その辺で引かれてしまう。彼は成り立ちますが、あなたが歌っても、ちょっと変な歌い方と思われる。それ以上のものがそこに出せるかどうかです。別に時代を気にかけることも、客の年齢層に合わせる必要もないのですが、その路線に乗ってしまうと、もたない。
4……「デイズ」のところでゆったりしすぎ、そこで音楽が止まっていました。1コーラス目にやったことと、2コーラス目でやったことが、同じスケールで保てていないので、そこからマンネリ化してしまいます。 特にこういうセリーヌディオンやマライアキャリーなどを歌う人に考えて欲しいことは、この曲をみんなが知らなかったら、客はどういうふうに反応するだろうということです☆。 美空ひばりの曲でも、他の人が歌うとその曲を知っているから聞けるという部分がある、それをとってしまったときに、果たしてその曲のよさを自分が価値づけられるかということです。 知らない人にこの曲のよさをどう伝えられただろうかということを見ていくと、全てではありませんが、彼女がやったことの小さな真似で終わっている場合が多いのです。
5……入りこんでいたし、きちんととってきていたと思うのですが、それを一度突き放して見なくてはいけません。入りこむところよりは、それを突き放して見ることが大切です。そうやって曲も自分も見ていかなくてはいけません。例えば、「恋をした」のところの「た」の処理は、そこを一つ誤ることによって、曲自体の効果を損ねてしまいます。今は効果を上げられなくてもよいのですが、損なう部分をなるべくなくしていきたいということです。そうやると、単調な繰り返しにならないと思います。ところどころでは声とか歌が飛んできていますから、その飛んできている部分に対して、逆効果を上げないように、あとは結んでいくことです。
6……基本に忠実に歌っているという感じでよいと思います。本当に基本だけの歌い方ですが、今の時期は技術をつけないで、中にたくさんのものを入れることをやって欲しい。 例えば、裏声の出し方を一つ変えるだけでも曲としてはよくなりますが、それが必ずしもあとで伸びるよさに結びつくというよりは、その場しのぎになりかねません。1、2ヶ所くらいは音楽に入れたところがありますから、自分で聞いて、それを一つの目標にしてください。
今は押しすぎたり、それを声量でもたせようとしているので、その切り替えが雑になっているのですが、逆に、音楽になっているところから曲全体が直ってくるまで待つことです。音楽に正されるまで待つべきだと思うのです☆。これが難しいのです。ほとんどの人が形から音楽の勉強をして、歌い方の勉強をするのです。中から正されるのを待てないのです☆。みんな当たり前に早くうまくなりたいわけです。そこが大きな分かれ目だと思います。
7……個性を訴えるか、音楽を聞かせるかですが、プロデューサとかがいたら、ここでやったことは練習になってしまいます。それが作品として見えるために、どういうふうにしていくかということは、常日頃から考えていかなくてはいけない。 特に大きな曲を扱うときは、そこの接点だけを見られる。それが歌えるか歌えないかということは、見られていない。向こうの人のをその通りに歌えても、どこかを薄めている。接点がつけられるということは、違うものを与えたときに、どれだけ応用できるだけのキャパシティがあるかということになるのです。下手に音楽で勝負するよりも、個性で勝負していくということも、一つのスタンスだと思います。 ここに立ってみるとライブのステージになる。たった1曲の歌の力で、本当にここがシーンと静まり返ったり、しゅんとしたり、みんなが感動して心を震わせたりということが、起きていたということです。皆さんの歌次第でそうなるということは、知っておいてください。 自分はそうではなくて、ウルフルズのように歌うとか、今日はとにかく明るく歌おうというのでもよい。その意図がどうかということです。その意図は必ずもってステージに望んで欲しいと思います。とにかく出たとこ勝負というのはダメです。
8……下のシの音というのは、あまりに低い。あなたの場合は半オクターブ上げた方がよい。ここでリズムに乗せて歌うのは難しい。2曲目に関しては、もっと向き合うことです。人によっては、自分のペースで歌っていくのもよいと思いますが、もっと客の前に出てみて、もっと客を巻き込んでいかないと、あなただけの世界になってしまいます。
9……マイクトラブルがありました。そのときにその人のスタンスとか、ステージングなどが出てきます。別の片付け方もあったと思います。自分と客とのイメージを損なわず、先で一致させていくためにどうすればよいかということです。これはステージングのことにもなってきます。実際にさらっと歌えている歌自体を、どうやって深めていくかということを研究すればよいと思います。
10……ボサノバっぽくは歌えていた。ピアニストの刻み方は、難しかったかもしれませんが、きちんとリズムが刻めて読めてきたら、うまく合うはずです。 ジルベルトなどは、風呂場で自分の声がどう反響するかということをやっていたらしいのです。ブラジルも一時アメリカのポップスに汚染されてきて、彼らがそれは違うということで人工的に生まれてきたのがボサノバです。それが今度は世界に発信された。そういうのはいつの時代でも可能だと思います。
日本でもそういうことを考えてやっている人たちはたくさんいます。音楽のイメージが入っているので、そのツボというのは知っていると思うのです。そこでやりたいこともわかるし、リズムも声の支えもあるのです。ただ、逆にそれをもっているところが見えるがために、そこで崩れているところがわかるわけです。 こちらがもっているところを気持ちよく聞こうとすると、崩れている部分が邪魔してしまうのです。ただ、もっているところはもっているのですから、そこを何回も何回も練りこんでいけばよいと思います。他の音楽はきちんととれるし、それを自分のものにもできるのですが、出すときにもっと自由に出せばよいのを、イメージの段階で、まだこうやらなくてはいけないという形になって、淘汰されていない。それが出てきたら、本物のあなたの音楽になってくると思います。
11……調子はよくなかったみたいですが、まずピアニストの伴奏を聞いたときに、最初の4フレーズくらいで調整をかけなくてはいけないと思います。リズムとかその弾き方に対して、自分がその音楽をとり入れ、その音楽の方に近づき、本当はヴォーカルが引っ張っていけばよいのですが、そこでピアニストとの接点を一回とらなくてはいけません。それを最初の4フレーズくらいでやることです。ピアノの音を聞いて、それに合わせるということでは当然遅れるのですが、自分のペースを守りながら、ピアニストはこういう方向なんだなということを見て、少しでも違和感があればそこでどうやるかということです。
でもポップスの場合は、現場に行ってからいきなりやらなくてはいけないことも多い。そういう意味では、それで崩れないような処理の仕方を覚えていけばよい。自由曲は表情ができてきた。今日は声の状態が悪かったようですが、いつもその表情がとれるかとか、逆に声がきちんとできているときに表情が出ているかというと、どれかになってしまう。そういう気持ちになったり、入れているところから出ているものと、余計なものが同時に入ってきているから、そういうものは切り離しておいて、ステージの中では、歌の中の描写だけに専念しなくてはいけません。それを混同してしまったら、見る人が見たら丸見えになります。そうしたら、日常の表情の方がよっぽどよいということになるわけです。
12……フレーズの戻しはよいのですが、ボサノバのリズムをどう捉えるかということです。ボサノバのリズムを出して欲しいということではなく、自由曲も含めて、声もあるし、ピアノで成り立っている音の動きもあるのですが、それが実際に歌い上げたときに、どうしても少しぶつ切れになってしまう。そこがもったいない。ボサノバの方に関しては、ことばの崩れを、ピアノよりも読みできちんと直していった方がよい。1、2ヶ所フレーズで戻したところはよかった。そのよいといわれたところに、他のところのレベルを上げていくことをやれば、そんなに難しいくはないと思います。
13……最初の入り方のところで、一瞬入り損ねたなと思ったのですが、それでもたせていたので、ああこれは計算してやったのかと思えた。こういうところは本人しか知らないところです。もしかしたら本人もわからずにやっているのかもしれませんが、でもそれがわからないままいくということは、一番よい。 途中からスピードを上げていって自分の構成にしたのですが、そこからは展開して馬脚を現したなという感じになってしまいました。最初の2フレーズをああいうふうに崩したのか、崩れたのかわかりませんが、そのまま崩れずにやっているとすると、この人はやれる人なんだと思う。そこで本当にレベルの高い人であれば、ちょっとやって見せる☆。ちょっとした崩し方とか、ちょっとした何かをやる。自分はもっとできるが、この程度しか見せないと、これで充分だというところをもっているわけです。客のイマジネーションが膨らむところというのは、そういう部分なのです。
後半になると、声やギターでたたみかけていく形になりましたが、ギターがプロレベルにうまいのであれば別ですが、そうでなければ、普通は人間の声の方が強いです。そのスタンスがきちんとキープできていたら、最初の入り方で通した方が、どこかを変化させるにもやりやすかったと思います。 やれるのだけどやらないで、さりげなく歌ってしまうのが一番うまい。やれることを全部やってしまうと、2曲目ももたなくなってしまいます。そういう面でいうと、素材としておもしろかったと思いました。 もし何かヒントになるとすれば、やれるけれどもやらないというやり方もあるということです。要は、やってもやらなくても、客のイマジネーションがそこで膨らむかどうか、客と会話できるかどうかが最終的に問われているのです。 歌い手が全部やってしまったら、客のイマジネーションも出てきません。
すごく蛇道な見方ですが、1フレーズ目が50点、2フレーズ目が70点、3フレーズ目が50点だとすると、その50、70、50のつながりの部分に関しては、70点をつけられるとか、そういうふうに点数にできるものではないのですが、そういう見方をしていくことによって、一つひとつのフレーズの意味もわかってくる。ただ、その一つのフレーズが完成しているからといって、全体がよくなるということでもありません。人によって評価の仕方はあると思いますが、この出だしはよかったと思いました。
14……もし何かいうことがあれば、曲かお客さんをもっと強く引きつけて抱きしめることを考えればよいという、その感覚のところの問題です。そのスタンスをとりたくないと思えばそれでもよいです。1曲目に関してはその方がよいと思いました。2曲目は、それをやったところから、そこからどうするのかなというのを見たい。それはわかったと、でもそれで終わったら終わってしまいますから、そこからあなたの何が出せるのかということです。そうなると、一つの勝負どころになってきます。やらない方が無難だということもあるかもしれませんが、いろんな試みをやってみてもよい。
○総合コメント
ここのステージに関しては、それでバラバラになったり、限界が見えたり、グチャグチャに崩れたとしても、むしろそういう試みをやって、自分の課題を見つけていって欲しいと思います。 ここで一番目指していることというのは、歌一曲とはいわず、一瞬でもよいから、ことばでも音楽でも表情でも何かが出せれば、それをきちんと出せるために前後が支えているのあって、その一つが伝わるために、あとの効果をどうすればよいのかということです。 その一瞬というのは、前後があって出てくるわけですから、それをやることによってさらに強力になってくるわけです。
毎回ライブのあとに考えて欲しいのは、帰りに何が自分の中に残っているかということです。自分のことはさておき、誰の声が思い浮かぶのか、誰の表情が思い出せるのか、誰のことばが残っているのかです。その残っているものに対してしか、人間というのは、また来ようという気にはならない。今ここで興奮していたとしても、次の日にはもう忘れている。 こういう世界は足を運ばせないと成り立ちませんから、今日何かできたということよりも、何か残ることの方が大切です。それを音声の中でやるというのは難しいことですが、大事なことです。
1、2曲歌えるレベルのことをやるためには、ここにもう少し長くいれば、6曲歌うことになりますが、6曲というのはもっと難しい。2曲終わったときに、そこから4曲を聞くのが苦痛なのか、すごく楽しみになるのかというスタンスで今日の2曲を見てもらえば、ここの基準がどうこうではなく、やれることがやれているかという、当たり前のことが見えてくる。また頑張ってください。お疲れさまでした。【前期ライブコメント(1) 01.6.2】○ホームページ日記開設
クリスマスライブはいつも反省会なしでやっていて、前期ライブもコメントをするつもりはなかったのですが、一部を見ていたら、一人ひとりにコメントをした方がよいと思いました。私の役割としては、トレーナーが徹底的に厳しくして、私が救うというやり方をしたいのです。トレーナーに誉めてくれと頼んだわけではありません。 ここ3年くらいの評価をどういうふうに見るかということは、かなり考えなくてはいけないことだったのですが、何が必要で何がいらないのかということを、ある程度明らかにしていこうということです。それは、時代をリンクしていく。
日記のようなものをホームページに載せました。あんなことを書いてみても仕方がないのですが、巻頭言よりは、もう少し楽に伝えられるだろうということです。 その中で、失われた3年なんて書いてしまったのですが、失われていないのも、確かなのです。 例えば、リズムとか音色とかに耳がきちんと切り替わっているとか、声自体のヴォリューム感とか、音楽として、楽器として声を使っていくということであれば、別に今年とか去年で、大きく変わっていることでもないということです。あるいは3年前、5年前のレベルと今のレベルを比べても、孫色ない。
最近、多い質問は、ホームページはどこから読めばよいのか、読む順番を教えてください、そういう時代になってしまった。方法論とか、発声法とか、声といっていても仕方がない一方で、最終的にそこに戻っていって磨くしかない。 単純なことでいうと、その人の精神がどういう形をとっているかということが見えれば、歌二曲くらいはもちます☆。そういう面でいうと、一部を見たあとに二部を見たので、わかりやすかった。音楽がついたときに、その音楽に負けないかどうかというかけひきです☆。 一部というのは歌を歌っているだけですが、二部は音楽に落とす、あるいは音楽がなくても、表現の形に落とすことをやっているわけです。ここの中で一番やっていきたかったことは、基本的に入っている。それがたまたま表現をしているときに、選曲を間違えたり、キィをミスしたりして、うまく表れなった。そういう面で安心した部分もあります。
○合宿効果
今年に関しては、とにかく六年前くらいの気持ちに戻って、形にとらわれずに、中からきちんと作らなくてはいけないと感じました。合宿などもいろんな判断を迷うのです。短期的にはよくなるのに、長期的に見てよくなるのかというと、そうでもないということです。 合宿というのは大きく気づきに行くのですが、逆に気づかない方が、学ばない方が、一時的にはよくなっているという人が一方でいる。そんなことをいうと、トレーニングなどしない方がよいという話になるのかもしれませんが、それはどこに属するとか、何をやるかということではなくて、その人その人のプロセスがあるわけです。
こちらの方で、3日間でここまでということを決めていくことが、よいのか悪いのかは難しいことです。 自然にその人の中に入って、ある時期に開花していくというプロセスが見えていけばよいと思います。そこに歌を教えるとか、声を教えるということは、僕が見ている限り、他の学校もマイナスに働いている。要は、教えてもらうことで、それでわかることで、考えなくなる、試みなくなる、それを破ろうとしなくなるのです。そっちにいってしまうのです。そんなものはあるわけではないのです。
今回出たMのトリビュートアルバムは、今の第一線の人たちが歌っています。それから、Yさんが昔の歌のカバーアルバムを出しています。こういうものを聞いていると、すごくよいなとか、感覚的に優れているなと思う一面で、でもここまでなのかということがあるのです。 海外のGが新しいアルバムを出していて、それを聞いてみたら、なんだこれでよいのかと、解決してしまうのです。その部分はすごくあると思います。
イパネマの娘もどういうふうに捉えるかはいろいろとあるのですが、単純に1、2、3と分けて、最後に内的テンションを徐々にダウンしていくというやり方もある。最後のRさんが全く違うことをやっていました。でもそれもありというものなのです。そういう方法論などは、試すための一つのアプローチの仕方としてある。としても絶対にその人の作品の中核にはならないのです。中核になるのは、皆さんの歌の中で心に残っているような、何かその人の精神が形をとったところで一致していると思います。
○自分の歌
ずっと前から頼まれている「自分の歌を歌おう」という本が出ます。心に残るというのは、例えば、のど自慢のチャンピオンでなく、そこで一番笑いをとって、みんなをほっとさせ、元気にさせた、爺さん婆さんの音の外れた歌、あるいはキィも届かず、歌詞もど忘れしてしまった歌です。その方が人の心に残るということは、よいということです。審査員が、音程やリズム、あるいは今までの歌にどのくらい似ているかということで点数をつけるから、おちてしまうのです。 そういう人たちがちゃんとトレーニングをすると、もっとうまくなる。ところが、カラオケの先生についたがために、うまければうまいほど、人に伝わらなくなってしまう人が多い。そういう面で、そこを守ってくれている人が出ていることが、一番安心して見られたところです。
○個別コメント
1……語尾のもたつきや整理の仕方が気になります。こういうものを整理させた方がよいのか、音楽が整理するように導くのを待った方がよいのかという問題で、待つべきだと思うのです。それから、強引なMCで始まりましたが、物騒なことからいきなりいったので、もしかしたら今日はこのMCでずっといくのかと不安になりました。MCは難しいです。 後半と前半のMCを比べたらわかると思います。今日は、ボサノバをいつ聞くのかという話題がもし5人続いたら、出てしまおうと思ったのです。2つ半か3つくらいで切ってもらったのでよかったのですが、最後までそれでいってしまうと、どうしようかと思いました。慣れない人の恐ろしさです。客の方を置いてしまうのです。話題を出した人はよい。その次の人くらいまではよいのですが、そのあとは鈍すぎます。
2……よいところが一箇所あって、「デイズ」だけを張り上げていた。この曲はそこだけを聞かせても、よい歌だということがわかる。 そういう意味では、一つのことばの一つのところに、音楽と心と声が一致していたら、それを前に示しておいて、あとはそれをきちんと組みたてたり、それを邪魔しないようにすればよい。そこがあるだけで残るということでは、何も残らないよりはよい。
マイクスタンドの扱いが気になりました。それはステージパフォーマンスなどでやってください。
3、4……収拾のつけ方の問題で、突き出したのはよいのですが、それに対して変化をどう収めるかというようなことです。ただ、それなりに気持ちが乗っていた。だいぶセッティングがよくなってきていました。
5、6、7……計算や表面が見えないところで、一皮むければよいというのがずっと課題でした。要は、歌えるのはわかるのですが、聞かせる力は何かというところに、早く入って欲しかったわけです。それがバタバタしていたり、いろんな計算をしていたときを経て、自分のフレーズや音楽の持つものが、きちんと出ていたらよい。ただ、自由曲の一番聞きたかったところだけが、少し空回りしていたような気がしました。他のところはよかったと思いますが、この辺は好みが入ってくるかもしれません。
8……ステージングの問題です。見た目でそれが柔らかい印象を受けると、あの曲であの歌い方で完全に決まっていく。たぶんその固さなどが歌には影響していない。ステージングと結び付けたときに、損をしている。この辺の人は、声が落ちてきていました。声をきれいにしていくとか、美しく響かせての心いくということは、間がもたないから、ミックスヴォイスのようにかすれてうまく響かないときの方が、人々に届き、強いインパクトになる。 例えば、きれいに歌えたとしても、それでは何も残るものにはなりません。そう考えると、声がうまく出ないということ自体を、状態にして考えてみるということも、一つの方法だと思います。それで痛めてはいけないが、強くなっていく人もいる。プロセスもいろいろとあると思います。 Be君のは、一つの感性です。橋本龍太郎とS君とBe君は、何か通じるところがあるような気がするのですが、あまり気にしないように。
9、10……イパネマの娘の場合、音に溶け込ませたところで歌っていった方が、ピアニストの伴奏ではやりやすかったと思います。あるいはそれを離れて、音の上で掛け合うやり方でも、それでバタバタしなければよかったと思います。この曲で一番難しいところは、「Ahh」とか「Uhh」のところだと思いますが、逆に粘りとか執拗さのところをボサノバの中に感じて、それを出していくのか、そうでなければ、さっぱりとさわやかにしていくのか、どうでしょう。それは料理と同じで、食べる人の好き嫌いもあれば、やる人の好き嫌いもあって、一概にどちらがよいかというより、自分で決めていく方がよいと思います。気持ちの入れ方と展開のことと、全体の流れをどう合わせていくかということが、この辺の基本です。うまいというよりも、残るということでみていけばよい。シナトラのものを渡していたと思いますが、あれのよさとあれの悪さのようなものです。 昔イタリアの音楽がらみの旅行で、すごい歌える人がこの曲を選んだときに、声を使わないで、歌うなんてずるいと思いました。その当時は、声を出して一所懸命に歌わないものは、と思っていたのです、最初のこの曲のイメージは、これが歌えたら何でもありだという感じでした。
○修正の魅力
11……声が体の方に入ってきて、それが一致してきたという感じで、よいプロセスだと思います。修正のかけ方などは、トレーナーを彷彿させます。 修正のかけ方というのはおもしろい。ここで一番勉強したのは、何かが起きたときに、どういう修正をかけてそこをしのぐかということです。普通の人が見たら、どこを間違えたかわからないくらい、膨大なテクニックをもっています。それには一つの特性があるのでしょう。いろんな逃げ方とか、こなし方とか、あるいはそれを逆手にとって活かせることができたり、そのこと自体が歌のフレージングになっていたり、その人の個性になっていたりします。
ポップスを全部発声で見てみればよいのです。それが発声で見れないところがあって、それは発声からいうと失敗していたり、うまくいっていないところなのですが、それをプレスしているのだから、曲からみるとうまくいっているのです。そういう見方をしてみると、おもしろいのではないかと思います。 声がみんなの息とか体に溶けてきて、きれいに美しくというよりは、作品そのものの中に表れてくるのが一番よいと思います。
○判断のズレ
判断の基準をどこに置くかということは迷うこともある。私の原点に戻せば簡単なのですが、現実に世の中が必ずしもそうでない以上、それはそれで認めていかなくてはいけないということです。日本でも劇団をやっていたり、役者をやっている人たちは、すごいうまい人たちがたくさんいる。その中で聞こえてくるもの、聞こえてこないものがる。その辺は歌い手と分ける必要はないと思います。 そもそも私の中でずれがあった。判断基準は欧米に限らず、邦楽でも同じ。その声の中にきちんと置いているのに関わらず、それを日本人がやるときに、そこでアーティックなものが形成されず損ねてしまうのです。 例えば、一部で有名なロックヴォーカリストを歌い上げている人がいるのですが、空回りしている。元気なのがとりえで、好きなのはわかる。それだけということになります。そういうベースがないところに、いくら真似てみても仕方がない。
最近よく考えるのは、日本人は欧米の曲で崩れてしまうと、どうしようもなくなってしまうということです。これは若い人たちでもそうだし、有名な人たちでも結構あります。トレーナーあたりのレベルでも、逃げ方や自分の世界に溶けこんでしまうので、それは構わないのですが、そうでないところで見ると、すごく崩れている部分があります。 それに比べて、演歌などを聞いてみると、崩れたり、欠けていたりしても、結局もつのです。だから、日本人としては、演歌の世界では40点や60点でも、それなりに客は聞けるのですが、向こうのものでやってしまうと、大きくなるはず、それはやはりことばの鋭さや音色の展開が崩れてしまうと、あたふたしてしまって、曲の中では消化できなくなるのでしょう。
演歌の場合は、それがそのまま味になったり、それほど粗が目立たないのです。 ロックコーラスやゴスペルなどでも、少しリズムが早くなったりすると、全く合わなくなりますが、日本の唱歌や日本の歌を歌うときには、全員になんとなくその感覚が流れているので、そんなに崩れない。 そういうことでいうと、こういうボサノバのような曲をやるには、よい勉強になったのではないでしょうか。
○2001年
一巡してきているので、また新しい刺激を与えられることを何かやっていきたいと思います。本人の精神でマンネリは防いで欲しい。場にしろ何にしろ、やはり同じところに長年いると、違う形のイベントなども必要なのかもしれません。ゲストがくるのもよいだろうし、ここに6年以上いて、もう出ている人たちにお願いして、ここでは何をやった方がよいかというのを書いてもらっています。私自身はここで勉強したわけではないので、彼らの方がわかることもあると思うからです。そういうものからも少し材料が出せればと思っています。 今日みたいな気持ちの日を、一年のうちに何日送れるかということです。それはどこであろうが同じことなのです。そういう日を積み重ねていけば、必ず進歩していきます。その場をもっと新鮮に保つというのは大事なことで、マンネリの方が楽なのですが、それは自分の中で考えてみてください。
新鮮さを保てないくらいであれば、研究所を切り離してでも、新鮮を保つくらいの気持ちでいなくてはいけないと思います。その上で、新たな目で使ってもらえればよいのです。 もう皆さんの場合は、ここのよいところも悪いところも知っているのでしょう。とにかく20歳くらいで入ってきている人は、何も考えていない。そういう面でいうと、そういうものが宿ってきた人とか、実際に外で自分の場を作っている人を呼ぶことを考えています。 6月9日に鴻上さんのサードステージのワークショップに行きます。去年は三人を連れていきました。そうやって外の人と接していくのも、大切なことです。ヴォーカルのことというよりは、ステージパフォーマンスが中心になると思います。今日のような気持ちで、またそれぞれのステージに臨んでいってください。【前期ライブコメント(2) 01.6.2】
レッスン概要(2002年)
■レッスン(入門)
○まじめ
今の研究生の一番の問題は、真面目なことです。それがよくないはずはない。でも裏に真面目がある分にはよいのですが、それが表に出てしまったらダメでしょう。誰も真面目さを見て感動してくれる人も、拍手してくれる人もいないのです。何かができているところに、真面目なんだなということが見えるのはよいのです。その点、真面目も技術のようなものだと思います。 発表会でも、ああ、一所懸命なんだ、真面目なんだということが、ちらほら目につくのです。それは軽くいい加減にやってらあというよりも、ずっと好感が持てるのですが、人間的に、ということですから、つまりは内輪での評価にしか過ぎない。外に出たらそんなものは吹き飛んでしまいます。現実はこういうことをやっていることが偉いのではなく、それがどう出るかということしか問われない、作品本位であるべきだからです。
運動した方がよいと書いているのは、本を読む人たちを対象にしているためです。だいたい、本を読む人はあまり運動しない人が多くて、心の問題と体の問題として、ネックとなる。体が固くなりすぎたり、視野が狭くなっているので、それを開放するために書いています。 自分が集中できる状態を作るための運動でよいのです。もし息があがってしまう状態になるのであれば、やりすぎです。個人差がありますから、自分のペースに合せてやることが大切です。中には運動しない方がよい人もいます。体力をつけることも必要ですが、それは個人によっても大きく違ってきます。 最近、音楽関係に限らず、昔に会った人を回ってみようかと思っています。あっという間に死んでいく人が多くて、べコーなどはもう一回会えると思っていたのです。これは待っていられないという感じでいます。 声とか体というのは、歌い手にとっては企業秘密です。だからみんな、死ぬまでそのことはあまり話さないし、残さないのです。それらの話を聞きたいと昔から思っていたことです。
○出口
レッスンに関しては、出口をはっきりさせたい、どう使えるのかということを自分でより知っていくために、外に見えるようにしていきたいと思っています。 平田オリザさんという演出家を呼びます。彼の演劇というのは、鴻上さんや野田秀樹さんのように、ビジュアル志向でことば、リズムの動きや今のJ-POPの伏線にはないのです。淡々としていて、小津監督の「東京物語」を「東京ノート」という作品にしたこともある、小さい声の人は小さいままでよいと、そういう生き方を背負って生きてきたんだからという感じなのです。 ある面でいうと、今の音楽もそういうところがあって、あなたの声を磨いてみたり、すごく高いところが出たり、大きな声が出なくても、あなたのままで出してみてもいいよということもあるのです。 もちろん、それは何十万人に一人の割合です。
さて、なぜあんなに、間をゆっくりとっているのかということです。今は新劇でも何でも、客が持たないから、間がなくなってきているわけです。 おととい、ここを出てふるさときゃらばんのSに会いました。今は体育館で客が一時間さえ持たないというのです。寒いとか暑いとかの文句が出て、集中できないということでした。昔はそういうことはあたりまえでした。3時間くらい平気でやっていたのですが、それだけ、ぜいたくな客に対していろいろと考えなくてはいけなくなったということです。
●ライブハウス
ここも3年前にライブハウスにしようと思っていたのですが、そこで私は最初の挫折を味わいました。ここがライブハウスになっても、人がこないからです。声がよくて、歌がよかったとしても、人はそこに感じるために通ってくれなくなった、そのことを他の人に話して価値がない。テレビに出ていないその人のことは知らないから興味ない、というところで回っていたら、引っ張ってこれないからです。そのレベルでは、感動したものが広がっていくということにもならなければ、人の生き方にもあまり影響していかなくなってしまうのです。
研究所なり、ブレスヴォイス座が、私がみるに日本でトップレベルになれる人材を有していたのに、なぜ世に出ていかないのかと考えてみると、自己プロデュースを怠っているからです。私も今までそういう仕事は断ってきたわけです。ここででしゃばらなくても、世の中には器用な先生がいるからよいと思っていたのです。 ギターによるマイルス・デイビスのトリビュートアルバムが出ていて、そういうものがおもしろいです。
研究所にあるものでいうと、パブロ・カザルスの鳥の歌、ピアソラなどです。 日本も平井堅さんやゴスペラーズが真ん中に回って、ここ2、3年ですっかり変わってきたと思います。この研究所に求められる役割も大きく変わりかねません。それは、現実とどう接点をつけていくかという問題になってくるからです。 ですから、今まで現実と接点をつけられてきた人で、今も接点をつけている人たちが一番参考になるのです。たとえば、坂本龍一さんにしても、彼の音楽より、YMOのときにどう考えていたかということと、今どういう発言をしているかということに、興味があります。最近は、そういうところを見ています。
○集中
短い時間でもよいですから、集中することが大切だと思います。私も新しいことをよくやるのです。少しやっていたバスケットや水泳、または中途半端にやっていたスキーなどを比べて、そういうものから想像するのです。 たとえば、ハンマー投げの選手、この人は何が面白くてやっているのかと、幼いとき思ったけど、ある瞬間がたまらなくて一生やっているのだろうとわかってきた。それを一生やるということは、やはりそのことをすごく面白いと思った時期があることと、やっているうちに何かしら小さく感じつづけていた時期があるはずです。
○環境
外国人が全員見本になるということではありません。外国人でも声が小さい人も、声が出ない人もいる。黒人は歌がうまいといっても、下手な黒人もいるのです。それは外国人だからということではなくて、一般的なレベルにおいて、学べということです。 今の日本人の若い人よりは、声を出すということにおいて、彼らは有利な条件にあるということから学ぼうということです。 ただ、日本でも、寺小屋で朗読をしていた頃、軍隊で鍛えられていた時代というのは、出せていた。声が出なければ殴られていたこともあったのです。今の若い人たちが同じようなことをやると、次の日には声やのどに異変を起こしてしまうと思います。その辺は、言語の問題に加え、小さい頃からの環境にも関係してくると思います。
日本の場合、特に声を出す環境がなくなってきたのとともに、声を出して声を鍛えるところがなくなってきた。当然のことながら、そういうことを初等教育の中でも音声教育として受けてきた人に負けるのはあたりまえです。外国人だからよいということではなくて、日本の国語にもそういう時間がないからです。彼らはきちんと読む、話す、伝えるということを徹底してやってきている、ここの二年分くらいは終っているのです。そこの差は大きいと思います。
○息での音化「ホリディズ、オオ ホリディズ」
それを感情移入するというと変ですが、少し作り変えてみてください。 最初はそこだけで練習して欲しいと思います。ここだけで1オクターブある、その1オクターブの感覚を、一つの中に入れていく感じです。少なくともここを高低ではとっていませんから、そこの感覚から変えて欲しいと思います。単に「ディズ」だけをやってください。 真似をする必要はないのですが、それを少しずつ動かしてください。それぞれの人の出し方は違うのですが、そこで起きていることを、自分できちんと受けとめていくということです。そのことばには息が入っています。息で声を動かす感じでやってください。
そこにフレーズを一つつけてください。要は、一番簡単な形で音楽をことばに入れていくことです。 自分でいろんなイメージが取れると思います。そこに感情のこと、声のこと、そして何よりも今感じて欲しいこと、それは、呼吸とその動きの上に、声を音的に動かしているということです。そこまでのことは、このことばだけでもできるのです。 音の世界というのが表れてきます。そこに呼吸をつけて動きを作ってみましょう。そこにいろんな音色ができると思います。音色のことも自分で研究してください。ではそこに「ミレド」をつけてみましょう。○つくらない声
あまり三つの音を意識しないでください。発音よりも、音の流れをとって欲しいと思います。そこで音の流れをつかめると、歌になったときに、それをリピートするだけでできる、曲自体がシンプルに簡単になってくるのです。 もう少し三つを意識しないでください。一つの音の流れが三つに分かれているという感じでやってください。一番よくない例は、勉強した人ほど、均等にとっていくことです。それを一つにとっておいて、それを少し前にずらしたり、後にずらすだけで、二つか三つに分かれて聞こえます。 知って欲しいことは、今まで自分が作ってきた音色と、作っていない音色の区別、作っていない顔は誰も真似できない。人の作った顔とか感情を出したところというのは、デフォルメして真似できるのです。その人の素の顔は誰も真似できないのです。それが一番のオリジナルです☆。
こういうことをやればやるほど、作っていないということがどういうことかということが、その大切さが、わかるようになってくると思います。 まだ息も声も弱いときには、作らなくてはもたないかもしれません。それが強くなったときに、作っていないという原点を決して忘れず、ごまかさず、いい加減にせず、きちんと捉えていくことが大切です。それがあって応用しているのか、それがなくて応用しているのとでは、全然違ってきます☆☆。 短いところでよいから、自分の中にどんな音色があるのかということを見ることと、それを動かしてみて、一番作っていないけれども相手に伝わるところ、何もやっていないのにみんなが聞くところを見てください。
自分はすごくやっているけれども、相手は聞かないところはどこかということを考えてもよいと思います。 そういうところを見ながら、周りの人たちを見たり、プロのを聞いてみる。プロでも全部がもっているわけではありません。ただし、最低限そのポイントをきちんと踏まえている。ダメなことの拡大はやっていません。そういうことがきちんと分けられるようになると、自分の中に基準ができてくると思います。それが難しいのです。曲や詞を作った人以上の手間をかけていくことです。【入門クラス 02.1.6】
○スタンス
話なら簡単にできるのですが、レッスンではしゃべって伝わらないことをやらなくてはいけない。他の人たちがやらないことをどんどんやった方がよい。何でもチャンスです。レッスンにおいては、区別はしていません。入ってきたときに、それを飛び越えている人もいるし、2、3年いても、その人ほどできていない人もいる。こういう世界は、縦一列の評価というわけではありません。基本のことをして、だんだん高度になるという考え方はしていません。高度なこともやらなければ、基本的なことはわからないからです。
基本的なことに関しては、一方で、そんなことがどのくらい必要なのかということもあるのです。それはシステムを否定するのではない。ここには必要なものしか置いていないのですが、一番大切なことは、どのスタンスで音の世界を見ていくのかということです。 これは、その人のスタンスというものができなければ、声のことや歌のことは関係ないということです。
九州に講演にいきました。40、50歳の人までくる。プロフィールはすごい。でも、そういうことを書いている人に限って、会ってみると愕然としてしまう。それはどうしてかというと、声のことだけ、歌のことだけしかやっていなくて、それが何のためにあるのかということがない☆。今までに一度でも考えたことがあったのかと思うくらいです。まだ、全くの素人の方がよいくらいです。 結局その人の信じているものがないのに人が引きつけられるのか、その人のスタンスが見えないところに、人がイマジネーションを喚起されるのかということです。まず歌や声のことよりも、そのことをきちんと知って欲しいと思います。
○ミルバのスタンスと地力
今聞いたのは、ミルバの「谷村新司を唄う」です。よいものも悪いものもあります。皆さんが気付くように気付かせたいということです。そういうことを見るには「帰らざる日々」が一番わかりやすい、谷村さんとデュエットしている「忘れていいの」などは、ほとんど見えなくなっている。これなどは、歌っただけ。でも付け焼刃でやったときというのは面白いもので、地力を知るチャンスです☆。 ここでも急にフレーズをまわしたときに、その人の力の9割が見えるのです。本当の力があるということは応用力ですから、それが聞き取れなかったからできなかったとか、発声の状態が悪いからできなかったということではない。それを瞬時に直す術をもっているということがその人の力なのです。
パッと日本に来てみて、パッとその曲を渡された。それは、10年、20年歌ってきた曲とは違うわけです。そういうものを元にすれば、どちらも大したものですが、その中では明らかな力の差が見えるわけです。そこにくせとか限界も見えます。 一方であまりに完璧すぎて、何が悪いのかが見えない曲もあるのです。 そこで勉強して欲しいことは、でも変わらないものがあるということです。音楽的にきつくても、もっている。ということは、スタンスが変わらないということです。ミルバがミルバを歌う以上、そのスタンスとそのイメージは変わらない。客はそこで満足できている。だから舞台に立ったときに、スタイルを示せば、もう勝ち勝負なのです。
○正すより深める
この前のクリスマスライブでも、みんなの反省評には発声のこととか、歌のこととか、音程がどうだと書いてくるのですが、審査員はそんなところは見ていない。そこで見るものがあるのかないのかということです。 みんなたった一人しか印象に残らなかったというのは、彼はスタンスとイメージが一致していたわけです。彼は昔はスタンスしかなかったのです。でも入ったときからスタンスのある人というのはどういう人かというと、そこで吸収できるバックヴォーンをもっている人です。 今日のレッスンでも大切なことは、こうやって曲をかけていること、組み合わせていること、そこであなたの何かが感じることが一番正攻法ということをどこかで知っておいてください。聞きこみの素振りだと思ってもらえばよいです。
みんな声を出すことが素振りだと思っているのですが、その前のスタンスとイメージをきちんと持つことです。その呼吸の中に入って、一流の人の体や息を感じてください。自分はそこで体や声が足らないという実感がなければ、先生にこう言われてこう歌えばよいのだろうかとやっていても、部分的な処方にしか過ぎません。西洋的な医学のようなもので、少しはましになる。しかし、今のは悪い、だからこう正すでなく、今のは浅い(だから深める、)であるべきです☆。もっと根本から正せるものは深くにあるのです。
○満点では足りないということ
皆さんのスタンスやイメージが感じられず、ほとんど声だけしか聞こえない歌になっているのです。 私は歌や声がよくなくても、イメージやスタンスがしっかりとあれば、それで面白いと感じる。なぜそれが出てこないのかというと、教えられてしまったか、歌や音楽を通じて何かを作っていく、観客に想像力をかきたてるようなことをしようとしているかとういうことです☆。 それを習ったがために無視しているとしたら、大きな間違いです。トレーニング中に一時期そうなってしまうのは仕方がないと思うのですが、そこで戻れる余地を持っているのかということは、大きな問題のような気がします。
レッスンでも同じようなことをやるのですが、できなかったのですから、それを練習してもできないのです。30点、40点のものを70点、80点にしていくのが練習だと思っていたら大間違いです。300点でも通用しない、3000点ということを考えなくてはいけません。今回の歌が自己評価で70点だったとすると、では自分の100点を疑ってみたことがあるのかということです。
本当に思う通りに音程がとれていて、声が出ていて、高いところがきれいに伸ばせたからといって、それがいかほどのものかということをいささかも疑っていないのです。その100点を最終目標に勝負しているわけです。でもその100点ができたとしても、何も起きなかったと思います。その100点は、やがてとれるようになるでしょう。でも言われることは、変わらないでしょう。そのことを考えなくてはいけません。どう歌ってもダメなのかと、どうやってもわからなくなって、みえてくるのを待つのです☆。
そのときには、もう一度白紙に戻す。自分のやるだけのことはやったということを踏まえて、そのときに何が足らないかということに気づく努力をする。 今聞いたような世界を見て、そこに共通する部分の力が働いていたかということです。それを自分で感じていたかどうかということです。結局、それを自分が歌や声で出すときに、邪魔している☆、そこで体の強さやテクニックがあり、それで初めてトレーニングが必要なのです。その矛盾や必要性を感じない人が歌ってみるのであれば、どれでもよい。3年もあれば充分です。そのことと表現とは違う。人の心に働きかけたり、音楽や絵にするということは全く別のことです。
○平田オリザさんのセミナーに向けて
彼の言っていることを私のことばでいうと、彼が徹底してやっていることは、故意、主観の削除です。作為や意図を持つなということです☆。そこで演じている役者の主観の中で、感情移入とか、心理的なものとか、その人の精神性が働いてはいけないということです。 そうすると何ができないのかというと、状態ができないのです。彼の芝居は関係性の芝居です。受けとめ手とやる側にどういう関係が成り立つかということで、そのためには徹底して嘘を排除していくわけです。 その辺は私も近い。たとえば今のミュージカルや劇で、歌い手っぽい歌い回しや、役者っぽいセリフ回しでやっているのは信じられない☆。実際にやるときは、そういう演技みたいなことはしないでしょう。こういう音楽や映像では嘘の中でやっているわけであって、その中でリアリティや現実感がないものは排除しなくてはいけないということです。
○同時代性
もう一つは、同時代性のないものの排除です。皆さんにも黒澤明さんや小津安二郎さんの映画から学んで欲しいのです。 演出家に学んで欲しいことは、同時代性があるから今できているということです。歌だけうまい人はたくさんいたし、今もいます。ただ同時代性というのは、その人がその時代に生きているということを感じて、共感して、表現したものです。それを失ったものは、なつかしみも抜いたオールディズにしかならないのです。オールディズをやったり、プレスリーを歌うのはよいのですが、今生きている人たちがその時代を生きてもいないのに、そういうものをやっても、その当時の人にかなわない。もちろん、それがその人のものとして出てくればよいのですが。
○積み重ねとリセット
今皆さんに一番言っておきたいことは、結局、リセットをきちんとし直すことをやらなくてはいけないということです。みんな芸事は積み重ねだと思っているのですが、私にいわせればどれだけリセットする力があるかということです☆。自分が描いた絵を全部消し、また新たに描くことを繰り返せる力を問うことです。 3日間の中で1つか2つくらいしか気がつかないからダメなのです。優れた人というのは、最初の10分くらいで、100個も200個も気付いている。だから直せる、完成できるのです。そのために音楽的な基礎力がどのくらい必要なのかということから学ぶのです。3回、聞いたら全部コピーできたという、美空ひばりさんを目標にしてください。その力がある人と、それを覚えるのに3日間かかる人とでは、天地の差です。そのために解釈ができてて、創造ができるスタンスが作れるということです。
音程とかリズム、英語の発音などは鍛えて欲しいのですが、それは補助的なものです。あなたのスタンスやイメージが邪魔されないために必要なものです。日本の場合は、補助的なことをやることによって、一番大切なものを邪魔しているような気がします☆。 結局、歌う人たちが、何を信じ、何にかけているのかということが、わからなくなってきているということです。
○先に導くもの
ここにあるものは、トレーナーにしろ、課題にしろ、全て叩き台です。そこからどういうふうに自分の歌たらしめるものを得ていくかということです。それは選んだ時点で入っているはずなのに、その初心を忘れずにやって欲しいと思います。特に日本の音楽や声の世界に関しては、だんだんと嘘になっていくということが多く、とても甘い気がします。 今はたくさんのものがありすぎ、それに振り回されている気がします。それぞれは必要なことなのですが、自分なりに統一感をもってやっていかなければ、バラバラのままで終りかねません。もちろん、先の先までみていたら、どんなに幅を広げてもよいのですが。
10代のうちはそれでもよいと思うのですが、20代以降は20代でやることが目標なら選んでいくことです。それはレッスンを選ぶのではなくて、その中で自分の感覚との接点を選び、まだそれがついていないものをなるべく残して欲しいということです。自分でやるようになったときには、自分の接点がつくものしかやらなくなります。 ここでは日頃聞かない音楽を聞いて、自分の知らないアーティストに触れてみるのもよい経験になるはずです。同じように他の人の表現や出てきたものを見ることができる。それは一流の人たちよりも読みやすい。 反面的に見ていきながら予感していく。そこに神経が100本あるのか、届かせる可能性があるのかということと、そういう世界の存在さえも認識しないで、声だけ出してやっていくのとは大きく違うことです。
優れたバイオリニストなどは、きっと最初にそれを導くものが入っていたはずです。声の場合も、よいものを聞かなければ、入っていかないものです。こういうものの中からとっていって欲しいと思います。 今、他の人のを聞いてみて、嘘っぽくないか、現実感があるのか、そこに同時代性があるのか、その人のスタンスやイメージがあるのかどうでしょうか。 今の谷村さんはメッセージ的にことばで持っていきます。声だけ、発声だけで持っていこうというのと似て、ことばだけで持っていこうとすると、ストレートではなくなってしまいます☆。 もう一度よく聞いてみてください。ことばを言おうとか、この発声を聞かせようとか、そういう意図はなく、ストレートに歌っているはずです。【入門レッスン 02.2.7】
○スタンス
この前のライブコメントの中で、トレーナーが、もう直すとか直さないの問題ではなく、ゼロからマイナスの方向にいっているというようなことをいっていました。それはスタンスの問題なのです。でもスタンスの問題というのは、スタンスができていない人にとっては、どうしようもない大きな問題になってきます。 それは、やり方では変えられないこともわかっている、そこをどこまで錯覚させるかということになるのです。そうやって錯覚している中で、その人に何かが起きたときに、そのあと大きく変わる可能性があるということです。
それは音声の面や歌の中でも起きる、しかしその前に、その人がそのことをやっていく中で起きないと難しい。それが起きてからここに入ってきた人もいるのですが、ほとんどの人がここで起こしたり、起こしきれないままで終っている。歌や演劇という分野の中では、一時、その人の才能を、素質みたいなものから根こそぎひっくり返して、見ていくしかない☆。 日本でこういうことが成り立つのは、日本人があまりにみんなやっていないからという理由だけで、ここで優れると通じるのではないのです。
○準備と下積み
海外の養成所は第一に、既に選ばれた人たちが集まっているのです。その中で何かが起きる人と起きない人、運がよい人とよくない人がいます。日本にはそういう機関はどこにも存在しない、そこが一番違うと思います。 そのことは思ったよりも大きな差です。彼らが何かをやるというときには、既に10年の準備ができているのです。その前に考え方とスタンスができています。要は、それに生きる覚悟と基礎ができている、日本でもそういう覚悟のある人たちはいるのですが、その10年の過ごし方が下積みということではなっていないのです。
バレエの世界などではそういうことがあると思いますが、音楽の世界では邦楽にその傾向が強いです。それを歌で教習できるのかというのは難しい問題です。その人の中にある真っ直ぐ伸びるものが真っ直ぐ伸びたときに、簡単という気もします。ところが真っ直ぐ伸びるということが難しいのです。
○プロセスと基本
何でも本気になったり、死ぬ気でやればできるのです。本気になれなかったり、死ぬまで賭けれないこともあるでしょう。スポーツか何かであれば、どちらが優れているとか、どちらが勝っているということがそれなりに比較できると思うのですが、アートは自分で客観視することはたぶんできません。 自分自身を客観視できないという理由だけで習うのではないと思います。すぐれた人の中でお互いに相互評価できれば、もう私なんていなくてもよいレベルにいくと思うのです。ただ、そこには年月がある程度必要です。
プロセスを見ることは大切なのです。日本の教育ではもっとも得にくい部分です。そのための基本の徹底です。たぶん他の分野では、日本でも並みの水準を超えていった人がたくさんいたと思うのです。ただ音の分野でも、歌がうまいというよりも、この人はさぞかし色気のある生き方してるんだろうと、そこで惹かれていくのです。実際にそういうぐちゃぐちゃな人生を送っている。でもきちんと自分のやっている世界に関しては構築していく。 ミュージシャンというのは、それを音楽でやればよい、音楽の接点についてもっていればよい。他のことがきちんとやれている上で、そのこともきちんとやるということは、難しいことだと思います。年齢がいって難しいのは、集中より、それを配分する頭が働くので、本気になれなくなることだと思います。
●勝つということ ベッカム
今の研究所はあいまいさを寛容している。本来の養成所はそうであってはいけないのですが、厳しいシステムに組み込むと、何人も残らないでしょう。もっと厳しくやってくれ、思うままにいってくれといわれても、そんなことをいっても憎まれる、こちらも別にいじめてやろうとは思っていません。 でも育った人というのは、一番泣いてきた人でしょう。それができる関係が崩れてしまうのが一番難しいところです。一緒に私にいじめられていると仲間意識ができて、よい意味でのライバル関係が成り立つ。その中での基準ができてくるのです。それが今の日本人とか、若い人たちが失ってしまったことだと思います。人よりも優れたらいけない、人を押し分けてまで勝ってはいけない、ところがそういううちに勝とうと思っても勝てなくなるのです。人に勝つのでなく自分に勝つのに、そういう気がない。ベッカムでもああやってニコニコと紳士面をしていますが、見えないところでは反則をしてもいい、自分の罪にならなければ何をしてもいいというルールの中で勝ち抜いて生きてきた人です。中国でも韓国でも同じです。日本人のやさしさから見ると残忍です。でもそれであれくらいまでできるのは、大したものと思います。 ロックも似たような部分があって、そういう意味では歌とか芸事も、同じ気質の人間がやるものです。そうなると、そういうものに呪われて生きてきたかということ、そういうものを自分の血の中に認められるかという宿命的なものになってくるのかもしれません。
○正直さ
ことばでは何をいっているかはわかりませんが、これがプロか、その辺の普通のおじさんなのかということは、誰にでもわかる。それはそれにふさわしい声をもっているというのと、その中で何をやっても客が許すだけの音楽的に安定度をもっていることです。舞台で見るということは、安定度で見るのであり、その人の作品に対する信頼性です。 あまり歌の上達とか、うまくなるようなことを考えない方がよいといっているのは、それを考えてしまうと、いかにも見せかけの形だけをとりやすいからです。なぜ昔の人たちのを使っているかというと、今の人たちよりも、もう少しその人の体とか呼吸に正直だったからです。この頃の人は、今の歌い手よりももっと音色があります。ほとんど向こうのものを真似して歌っています。この当時は声そのものは、向こうの基準で聞かれていました。
○基礎体力
日本人の歌声の理想というのは、この森山良子さんのような歌唱スタイルだと思います。驚くべきことは、こういう人たちがほとんど10代でこういう音色を持っていたということです。今の若い人でも、無理して高いところを出したり、無茶な歌い方をしなければ、それなりの音色はあると思うのです。きっと体や息が昔の人たちの方が強いということです。それが結構大きな差になっていると思います。 なぜ音大などで、体のことや腹式呼吸、発声法ばかりいっているのかは、一般的に日本人の音大生はひ弱だからです。もちろん、ポップスにもいえます。向こうの声楽家は、かなり体力がある、アスリートレベルです。やはりその差の違いはあると思います。
○自由度、シャンソンとカンツォーネ
日本の場合は、こういう部分を弱く歌わなくてはいけないと、弱めた上に無理に感情移入をして、そこで音色を作ってしまうのです。そうすると音楽のフレーズが壊れてしまうのです。でもそれでもお客さんには受けるからです。この歌い方がダメということではありません。ただ、私は歌い手自体がそこで自由になっていないと感じるわけです。 シャンソンを課題に使っているのは、音色のことと、それをどう動かしたら音楽になるのかということを知るためです。この曲の楽譜だけを見たら、音楽になりっこない、でもこういう人たちは簡単に音楽にしているでしょう。それでどうして音楽になるのかというところを勉強するのです。
カンツォーネは流れがみやすく、先に流れの方からリズムと音楽的に入りやすい。今やっているシャンソンは、その流れの前に、声の核から入ろうとしている。 「タタタタタ、タタタタタ、タタタタタ」というのを「タタータタタ、タタタータタ、タータタータタ」と置く、そういうことをいろんなパターンとして、音楽的にもって置いた上で、一つひとつの色を塗り変えている。やっていることはいつもと同じです。 今陽子さんで聞いた「帰り来ぬ青春」をイヴァザニッキとシャルル・アズナブールで聞きます。どういうふうに音楽にしているかを聞いてください。
○声の線と動き「行かないで、こんなにもあなただけを」
そこで見せるのは声の線とその動きです☆。確かに動かすのですが、それは感情移入を過剰にするという意味ではありません。あまりに感情移入をすると、流れてしまって、崩れやすくなると思います。「愛してる、あなただけ、こんなにも愛してる」 この前のライブの反省を踏まえていえば、まずステージ全体に対する集中力が全く足りません。あの中で当然舞台ができていたのは、一人だけでした。声や音声の世界よりも、まず舞台ができていたら舞台はもつのです。3部のステージとの違いを見て欲しいのです。彼らは全ての歌が優れているわけではなくとも、絶対に落とさないところがあるのです。常にこういうものを統合して出して、そこで余計なことはしていなかったでしょう。
これは「恋の季節」のカラオケです。バックの人のように歌えるうまいタイプは、たくさんいると思います。でも、ウィーン合唱団のような予定調和の世界でしょう。昔の日本のコーラスグループにはこういうのが多かったのです。 この中で見て欲しいのは、表現力の違いです。彼女の歌の安定性がどこからくるのかということ、これは価値観の違いでもありますが、仮に息が多く聞こえたとしても、そこにきちんと声の芯があるからもつのです。そこを聞いてください。【「行かないで」入@ 02.7.11】
○声より感覚
強めに入っていくのは、大きくするとか長く伸ばすということではありません。必ずそうなってしまうのですが、そうなると声で歌っていくことになります。声に頼ってしまうがために、感覚がいい加減になってしまったり、鋭くなくなってしまうとダメです☆。発声でもっていく歌というのはそういう危険性が高いのです。 いつもいっているように、そこで止まることもできれば、大きくもできるし、柔らかくもできるという変化のつけられるポジションで歌いなさいということです。そうなると1オクターブというのは大変なことでしょう。今の皆さんであれば、3音のトレーニングでもよいくらいです。
このフレーズが難しいなと思ったら「さえ」だけでもよい。その構えをみつけ、ためをとることが必要です☆。セリフでいってみると、もう少しわかりやすいと思うのです。皆さんが「足跡さえ残さないで」といったときには、それが一つの捉えられていたと思います。たとえば「こんにちは」の「は」の音の動きだけで何かのニュアンスを伝えたり、自分の気持ちを伝えたりすることはできるのです。
○かぶせかたとタッチ
難しい歌だとは思いますが、皆さんでもこういうイメージは持てると思います。歌詞の世界や読みの世界はまだわかりやすいと思うのです。しかし、リズムとか音の動かし方の世界というのは、そういう耳で聞いて作ってきた人でないと、なかなかわかりません。そういう意味では、この中にもいろんな題材があると思います。そういうものも参考にしてください。たまにそれが逆転して、声だけになったり、体を見せているだけになりがちです。それは自分自身で知っていくこと、客はしのげても自分の中では厳しくわかるようになることです。まずはそういう基準を入れていくことが必要だと思います。
「目をつぶって走っていた」に対して「止まらないで走っていた」をどうかぶせるのか、「もっと早く時は走る、足跡さえ残さないで」のところは、先ほどのように役者みたいにやるのもよい、でもあまりそれをやりすぎるとくさくなってしまいます。もう一度音楽の動きに流して、そのメロディ、その動きが、そういうことをいっているように聞こえるための聞き方をしていかないと、歌なんて到底歌えないのです。ほとんどの場合は、そういうことができないからその歌は選曲に取れないのです。普通の人はこの歌が好きとか、盛り上がり方が格好いいといって選ぶわけです。そうやって選んでしまうと、格好よさや盛り上がりの本当の意味がわからない、つまりは伝わらないのです。
たとえば「スタンドバイミー」の歌に格好よさを感じ、元気づけられたから、歌いたいといっても、その格好よさとか、何に自分は元気づけられたのかというのは歌詞以外のメロディの組み立て、リズムの動きでしょう。それを自分の体が知って組み立て変えない限り、その曲は歌えないのです。歌い上げたり、響きに乗せてしまうのは、よくありません。効果を上げるために、最終的にそういう働きかけになるのはよいのですが、その支えをとらないまま響かせて歌ってしまうと、声だけが響いて聞こえてしまいます。それでは、よっぽど声のよい人しか通用しなくなります。
今日やったようなことはタッチの練習です。そういうことがわかってレッスンを受けるのは、意味のあることでしょう。あなたに求めたいのは、こういうものをやっていく中で、自分が使える歌詞、自分が動かせる音に敏感になっていくことです。他の人が10センチで見ていることを、1センチ、1ミリで見ていける感覚を磨いていくのです。そうすると、あとから自分の体や声がそうなっていくのをその感覚が手伝ってくれます。
○イメージング
あなたが目標にしているくらいに歌を歌うのであれば、今の体とか声でも充分だということです。そんなことのために体とか声を鍛えていくのは、もったいないというよりもおかしなこと、もっとイメージの繊細さとか、いろんなアイデアとか意図があって、それをこなそうと思ったときに、今の体とか声では叶わない、だからヴォイストレーニングをするわけです。 そういう意味では、何のためにトレーニングをしたり体を鍛えるのかというと、そういう世界をより確実に伝えるためです。その条件こそ、一流のヴォーカリストはみんな持っているものなのです。
日本の場合難しいのは、本当はそういうことができるのに、ステージでは器用なやり方でやる人が多いからです。彼らもかなりのことはできるのに、深く煮つめ突き詰めない、日本のお客さんがそれ以上、望んでいないのです。 日本人は音楽の世界に聞き入るというより、目で見て楽しめる方を好みます。音楽の世界が出てきたときには、音楽的な感性が必要になってくるのです。今はできないでぐちゃぐちゃになっても構いませんから、そうやって自分のことを知っていくことです。【入門科レッスン「帰り来ぬ青春」 02.7.14】
○声と体の計算
プロの体が他の人と違うところは、声の自動計算ができるということ☆と、息をそんなに使わなくても声を出しているように見せられる技術を持っていることです。ただ、いくら皆さんより息を長く吐けるといっても、肺活量がそんなに違うわけではありません。そこでの声の調整を瞬時に、また効率的に行えるというわけです。
そういうことは、徹底してトレーニングしていく中で獲得していくしかありません。 でもそういうことが絶対に必要な人と、あまり必要でない人がいます。そこがわかりにくいのですが、たとえば役者でマイクを使わずに舞台で通用するように話そうとしたら、もっと舞台で通用するような声が必要とされます。 ところがヴォーカリストの場合は、マイクが前提です。どう声を出そうとその人の自由なのです。ですから役者や声優のヴォイストレーニングに関して、現場でそれではダメだといわれたときに、そこで自由に応用が利くような柔軟性をつけておくことが大切です。
○位置付けの把握
どんどん自分の器を広げていく時期と、自分がより使える部分だけを磨いていく時期が必要です。たぶん最初にやるべきことは体の方のトレーニングです。 結局、音を口で作っている人が大半、くせがついていても心地よく聞こえる人もいれば、それが何か胡散臭いと思われる人がいます。それはプロの世界になればもっと厳しくなります。 自分の中でその辺の区分けをしていくべきです。声が出ないという問題は、今までの使い方、感覚、体自体が足りないということです。そこを根本的にやっていかないと問題は解決していかないのです。 難しいのは、こういう強化トレーニングをやるときに、他のことが曖昧になってしまうということ、常に今何を中心にトレーニングをやっているのかという位置付けをきちんと自分で把握しておくことが必要になります。
○好き嫌いを超えたもの つのだ☆ひろ
「般若心経」、この曲では、つのだ☆ひろさんの歌い方を真似して欲しいわけではありません。この曲は彼が日頃好きに動かして、好きに歌っている曲と比べても、優れています。彼のオリジナルの部分がうまく出ているのです。彼の好き嫌いの世界を超えたものがそこに出ているのです。これは、とても大切なことです。 ここでシャンソンやカンツォーネをやっているのも、その理由が一つです。日頃やっているものでは気づかない部分が、あまりやらないものをやることによってわかることもあるのです☆。それは、とてもよい勉強の仕方です。
○カセーロの「島唄」
彼(アルゼンチン人)は、自分の歌ではこういう歌い方をしていないのですが、この曲では宮沢さんの歌をまねています。しかしベースでは、日本語のくせ、J-popのくせもとれています。外国人が日本語を聞くと、そういうふうに捉えるのでしょう。 ライブによって崩していく人が多いのですが、でもそれはそうやって動かさないとメリハリがつかないし、相手にも伝わらないからでしょう。その動かし方を最初に日本語の感覚でとってしまうと、音楽から外れていってしまうのです。これが日本の歌の難しいところです。
崩したつもりが崩れてしまう☆。向こうの曲というのはもともと外れる自由のある中で歌っています。どんなフレーズを作っても音楽は保たれるようにしているのです。 どこが応用か基本かというのは歌の場合、本当に難しいのです。たとえば、最初は楽譜通りに歌って、そのあとに楽譜から離れて歌っていくと、自分のくせに入っていくものです。それをもう一度楽譜を戻してみると、相当ずれている。それを楽譜に戻していくというのが昔の勉強法でした。今は、曲を変えてしまってもよい。ただ、それには自分の表現やタッチに対し、知っていくことが不可欠です。 出だしの部分だけをやりましょう。「でいごの咲き乱れ」
○ことばと音楽の力「恋の季節」今陽子
こういう曲で勉強して欲しいことは、ことばを越えたところの表現をどういうふうにもっていくか、そこで何を優先するかといったときに、常にことばよりも音楽をパッと取っているようなところです。 今の今陽子さんは、ことばの方を大切に歌っています。日本のオペラ歌手がポップスなどを歌うときも、最近は息とことばを大切に歌っていくようになりました。それはすごく丁寧なことで、日本人にとってはその方が伝わりやすいのでしょうが、やえもすると音楽の根本的な力を殺しかねないところもあります。それは客が選んでいくことですから、仕方がないことですが。
○独自のズレ
それから、声を出すことと正しく歌うこと、自分で歌うということの違いを見てください。声を正しく出して音程をきちんととって歌うというのは、こういうピンキーとキラーズのキラーズのような歌い方です。伴奏として正しく歌い、働きかけないのです。でも日本で歌を歌うということは、こういうイメージが強いのです。 形から入り、形であげる☆。 それに対し、彼女は自分の体の呼吸と、歌の伸びによく合ったテンポを取っています。これはなかなかできることではありません。そこで伴奏に対し、フレーズで独自のズレをつくる。優れた歌い手であれば、どのテンポであっても、そういうふうに体を合わせることはできるのかもしれませんが、この当時では直感的に、本能的な部分で合わせていたと思います。
最終的にはこの歌い方を真似するのではありません。こういう体験の中で自分の変化を読み取って、その変化を自分の体で拡張できるようにして欲しいのです。そのイメージに対して体が伴わなければ、体ができるまで待つしかありません。 でもほとんどの人の場合が、イメージをうまく作れないのです。作れないのは、その人にテンポが入っていないし、リズムやグルーヴが回っていないからです。それがなければ音楽の柱が立たないのです。
○寸法と間
この歌が安定して聞こえるのは、寸法をきちんと取っているからです☆。 普通、日本人の歌の場合、頭だけを打つとか、フレーズの語尾の方はめちゃくちゃでもよいというような感じがあります。要は、間を空けたところに音楽を作るという発想がないのです☆。それに対して、この歌は自由度を持っています。本来自由に歌うためにいろんな要素が必要になってくるのです。「恋は、わたしの恋は」
音はとれているし、声も出ている、でも、この中で起きている感覚を見て欲しいのです。それは声量や音をとっていくことではない。「恋は」が「小岩」に聞こえてしまう、そういうふうに聞こえないのは発音の問題ではないということです。「わたしの恋は」のところで何が起きているのかという部分を見てください。「わたしの恋は」 このフレーズは3音だけしか使っていません。このくらいの課題で、自分の心と体と声を一致させて、息で送り出すような練習を徹底してやればとよいのです。 誰でも声は出るし歌える、でもカラオケにならないために、自分はどのテンポで、どのキィでやるのが一番よいのかということを知っていくことです。
○放っておく
最初の二年というのは、トレーニングをやれば体も感覚もどんどん変わっていくのです。二年後にまた同じものをやってみたときに、自分の中で自然とできていればよい。今できないことを頑張ってやろうとすると、どんどんとおかしくなってしまいます。しばらく放っておいてもよい。同じものを聞いても、その人がどういうふうに聞くかというところで大きく変わってきます。とにかく聞く勉強をしっかりとしていってください。「帰り来ぬ青春」シャルル・アズナブール、今陽子、イヴァザニッキ、シャリーバッシー、ダスティン・スプリングフィールドを比べます。 シャリーバッシーという人の歌はシンプルなので、聞いていくとよい勉強になると思います。もう一度サビのところから入ってみましょう。
○慣れる「過ぎた昔よ 唇には歌が溢れ」
慣れるまでは取りにくくてギクシャクすると思いますが、続けてやっていると、そのうちパッと取れるようになります。声があるのに、うまく使えていないのです。そうでなければ、その動きに足りる声がない。いつも、その二つが最大の問題です。 自分の動かせる声をきちんと使うということがどういうことなのかということを考えてください。 「もっと聞かせてくれたら」とか、「何回もやったらできるのに」、などという人がいるのですが、それは違います。できる人は一回でできるのです。その能力を高めていくのです。
あまり急いで歌おうとはせずに、それぞれによいところがあるのです。何よりも自分の中には何があるのかということを見てください。こういうものをパッと聞いたら、パッと返せるような反射神経を磨くこと、そういうことを繰り返しやることによって、即興に強くなってください。ここでは皆さんの方向性を、こうしなさい、ああしなさいとはいいたくない、自分のことは自分で知っていくことです。体のこともわかった方がよいのですが、体はどんどん変わっていきます。体よりも先に感覚の方が磨かれていくと、必ず結果が出てくるのです。【「恋の季節」入門02.8.4】☆☆
○思考と感覚
地声のときに息が吐けていないというのは、全てイメージのことばで、人によっていろんなやり方はあると思います。皆さんに覚えておいて欲しいのは、どこかに絶対的に正しいやり方というのはなくて、感覚や思考の問題になるということです。 思考から実践に入っていくこともあるのですが、それをやったからといって、その結果を約束できない場合がほとんどです。これをやったら絶対にこうなるという人もいますが、多くの場合は、問うレベルが違う。うまくいった人が自分並みになることしか考えていない。しかも、そうならない生徒もたくさんいるということです。
○自動修正☆
たとえば、どんなにやり方で教わったとしても、それを本当に一所懸命やっていると、自動的に修正されていくように学ばなくてはいけない☆、素直になればそうなる部分が人にはあるのです。その結果、それでよくなったとしても、そのやり方をそのまま他の人に勧められるかというと、それはできないということになる。 ほとんどの場合は、方法論よりもその人間の意志の方が超えるのです。特にヴォーカルの場合はやり方なしにやって、それでみんな歌えるようになっている。 自分には何があって、何が足らないかということを知るのと同時に、自分のやり方を見つけていくということが一番大切なことだと思います。
○やり方と基本
たとえば、他のトレーナーの説明に対して私が何もいわないとしたから、それを肯定しているのでも否定しているのでもない。それがわかりやすい人はそれでやればよい。そこでよりよい声が出たらそれでよい。それで全く実感が沸かないとしたら、違う試み方もある、それだけにとらわれる必要はないということです。 いろんな先生がいろんな方法でやっていることについて、「それはやり方がおかしいから、みんなで同じことをやりましょう」とはいわない。それぞれに自由度を与える。一人ひとりの人は本当の意味でいえば違う、ただ、共通して肺があるとか、声帯があるとか、共通していること、そこに守らなくてはいけないこともあり、それが基本ということです。 本当の基本はどういうことかというと、応用が利く自由度があるということです。どんな変化にも対応できるようにトレーニングする。トレーニングのややこしいところは、一時はそれが不自由になることもあり、それを抜けて初めて自由になるということがわかってくるのです。
○型とトレーニング 斎藤孝さん
先日、斎藤孝さんに会いました。彼がいう呼吸法というのは、3秒吸って、2秒止めて、15秒吐くというものです。その根拠は1分間に3回できるということです。でもそれが間違いなのかというとそうでもない。そうやって1分間に3回やればよいのですから、やる方は迷いがないのです☆。
それを2分間やるとよい。そんな簡単なことでよいのかという人もいるかもしれませんが、ほとんどの人たちはやり方がめんどうだと、いずれやらなくなるのです。やり方よりもやることです。仮に斎藤さんがいっている呼吸法でも、普通の人が5年か10年続けてみたら、頭もよくなるし、健康にもなります。やらない人にとってみたら、まずやることの方が大切なのです。 要するに、トレーニングというのは、このように一つの型なのです。その型というのは本来不自由なものです。それを自分一人で考えてやっていくと、こんなことをやって何になるのだろうと思って、途中で止めてしまう。
でも型として最初から決まって与えられているとわかりやすい。取り組みやすい、つづけやすい。誰かにその型を押しつけられたら、そのことはやれるという人もいる。そうやって長く、型をやっていくうちに、いろんなものが身についていくのです。 バスケットの選手で、好き勝手に動いてゴールさせてよいというのと、型を毎日やって身につけている選手とでは、どちらが勝つのかということです。バスケットの型を知らないと、どんなに考えて自由に動いてみても、実際にはそんなに動けないのです。相手にすべてブロックされる。ところが、そういうところにビボット、スライドなど型があると、自在に応用例が利くのです。自由というのはそういうことです。研究所のレッスンには、その両方が組み合わさった形であると思います。 ここでやっていることは、プロの体と声を作ることです。プロの人たちと何が違うのかというと、音楽の聞き方のレベルが全く違うのです。聞き方が変わらないのに、歌い方をどんなに直しても、自分の作品にはなりません。 こういうことは論理的に考えられるだけ考えてみればよいのです。メロディを取れない人は音程の練習が必要、リズムが取れない人はリズムのトレーニングが必要、自分の目的によって解決方法もやり方も変わってくるのです。
○何を見ているのか
歌というのは、自分が創造しなくてはいけない。そのために音楽の構成や展開、あるいは解釈を把握する力が必要になってきます。ところが、自分には何があって、何が足らないのかということを把握していないと進めない。それは音楽の知識などとは別のことです。知識が全くなくても、感覚として自分の中に入っていれば必ずよいものが出てきます。 簡単にいえば、最初の音をどう取るかということと、その音に対して次の音をどうつなげるかということです。そこに呼吸や体の支えが必要になってくるから、トレーニングが必要になる、それぞれは次元の違う問題なのです。 私がレッスンで見ているのは、その人がこのレッスンにおいて何を課題にしているのかということです。それによって全部回答が変わってくるのです☆。 この前のオーディションでも、それぞれのトレーナーに中心に見てもらう部分を変えて評価してもらいました。歌唱のこと、表現力、オリジナリティ、正確さ、リズムなどによって、それぞれの評価が違う、もちろんその中でどれか一つだけが優れていればよいということではないのです。一応どれもが人並み以上でありながら、その上でより優れたところを見つけ、そこをトレーニングで磨いていく必要があるのです。
最終的には、レッスンでこういう曲を使いながら、自分のオリジナルのフレーズを作って欲しい。そのためには自分の声のこと、曲としたときのテンポのこと、キィのことを把握しておかなくてはいけないのです。それから、音楽の作品としてのレベルも知らなくてはいけません。低いレベルにおいては、音が取れないとか、発声ができているとか、呼吸が浅いとか、解釈が弱いとか、そういうことになります。本当の問題は全くそういうところではないのです。
○聞き込む
私のレッスンというのは、好きなように描いてみましょうというところからです。確かに頭で考えなくてはいけないのですが、頭で考えていては間に合わない。日本のスクールでは音をよく聞いて合わせて歌わせる。そんなことをやっていたら、間に合いません。歌を自分で創造していくというのは、構成や展開の部分を予知する能力をつけていかなくてはいけない。そのためにやらなくてはいけないことは、もっと音楽をよく聞き込むことです。 音楽を聞き込むということは、たくさんの曲を聞けばよいということではない、たとえば、レッスンで2年間の間に50曲くらい使う、その中で自分なりにだいたい分類できるようになってきます。その分類をリズムでやる人もいれば、メロディでやる人もいるし、また自分がつかめるものとつかみにくいものでわける人もいる。たくさんのものが自分に入っていたら、自分がやるときに取り出しやすくなる。最初のうちはそういうことはできないので、とりあえず好きにやってもらってよいということです。それは真似ですが、真似もやらないよりはやった方がよいということです。 なぜここに来て自分の好きでもない曲をやるのかというと、自分の型を作るためです。人と同じ曲をやったときに、他の人と比べてみて、そこでどういう違いを出せるのか、あるいは自分にはどういうものがあるのかを知ることが大切なのです。
○感覚力のアップ
自分が優れたければ、一度自分の感覚を捨て、鋭い人の感覚になりきりなさいということです。それが持てないと、その発声が伴わないし、歌えないということです。イメージはあっても、そういうふうに体が動かない人は、集中力、筋力や反射能力が足りない、それをつけるトレーニングをしなくてはいけません。そういうふうに一つの課題に対して、自分のやり方を見つけていくのです。 たとえば、巨人の清原が打てなくなったからといって、バッティング練習はしないでしょう。それは常にやっているからです。彼は寺にこもって護摩行をやった、火をバーっと燃やしているところで汗だくになって、精神修行する。なぜああいうことをやるのかというと、より確かな集中力をつけるためです。自分の最高の力を出せる状態を作るためです。ああいう人は高校の頃から天才的にそういう状況を作れた人です。そういう人がさらにやるのは、本来の自分をきちんと出せなくなったからです。
ですから、トレーニングというのは、そういう状況を作ることが一番大切です。一を学んだら一が出てくるのではありません。一に見えなくてもそこの下の方にある1000個の要素が必要だということです。 皆さんにやって欲しいことは、頭は使わなくてもよいから瞬時に対応して、その結果どれだけ足らないのか、何が欠けているのかということを客観視していくことです。歌がうまくならないとか、声がうまく出ないというのは、表面的にみているだけ、それを支えるものの蓄積が欠けている。それは見えにくいものです。 ですから、上達するのが目に見えるというのはあまり大したことがない、音程でもリズムでも誰でもやればある程度は伸びていく。見えない部分の方がすごく大切です。そういう部分をどれくらい感じられるかということが問題です。そのためには、自分をきちんと見るということ、自分にしかできないところを持つことが大切です。これには思想が必要なのです。
日本人の場合の上達というのは、誰かのようにうまく歌いたいということですから、思想は必要ありません。仮に歌がすごく下手でも、あなただからいいといわれているところをどんどん深めていけば、誰にも評価がつけられなくなる。自分でそういう部分を作っていくことが大切だと思います。 今日は少し低音部からやっていきます。皆さんはまだポジションがないので、「ハイ」や「ガゲゴ」をやりながら、少しずつ深めていきます。こういうものがきちんと課題に落ちてくればよい。それを口の中でいっているときとそうでないときの違いを、自分で判断できるようにして欲しいと思います。【忘れな草 入門 02.10.8】
○リズム☆☆
リズムというのは、どこまで自分の骨の髄で感じられるかということです。一度体に目一杯リズムと叩きこんだら、それが出てくるまで待つしかない。 これはビギンです。こうやって名前を覚えるのも悪くない。私の本にも載っている(ヴォーカルの達人2巻)。しかし、歌ってこのリズムを出すのは、とても難しいのです。そのリズムを出せるようになるためには、そのリズムの曲を10曲も20曲も聴き込むこと、すると、共通のものが入ってくる。そこでの応用パターンと基本パターンが、発見できる。そして、それが頭の中から体の中をめぐり、自然に腰が動いてくるようになるまで待つしかないのです。 テンポや強拍がとれれば、リズムも外したりはしない。 問題なのは、サンバはサンバでなくてはいけない、タンゴはタンゴでなくてはいけない。その情感とか民族的なものをどこまで出せるかということです。難しいのは、リズムに合わせて歌うことではなくて、リズムの裏側にある動きみたいなものをどう捉えられるかということなのです。
タンゴのあの独特の甘さとかねばり気みたいなもの、ボサノヴァの乾ききった温かい感じをどう捉えて出せているかということが問題です。それは発声法とも、そこの風土とも関係してくる。日本人がそうなりがちのクラシックの発声などと全て違う。だから難しいのです。 日本人でもラップ、ヒップホップ、いろんなことをやっていますが、ネイティブにしっかり歌わなくてはいけないということはない。人工的に創り出されているリズムもあります。ただ、文化として、どこまで自分と違うものを入れられるかという問題はある。ロックでも、それを越えられるものをどうもてるかということが問題なのです。
○とっているのと入っているのは違う
それでもリズムというのは大変重要なもので、リズムを一から作っていくということは、そう簡単にできるものではありません。いまだに私もわからない。ただ多くの人をみて、リズム感がよい人の中でも、誰がその中でもっともリズムがよいのかということがわかるようになった。旋律を正しく歌えるということはベースでしかないのと同じように、単にリズムを叩けばよいということではないのです。リズムが助けてくれているところもたくさんある。それを自分なりに身につけておくことは必要だと思います。
こういう人たちは自由勝手に歌っているのです。でも、入っているリズムが音楽と一致している☆。歌である以上、自分の体とか感覚でやらなくてはいけない。音楽という形も崩していない。この二つの矛盾するものの中で選択されている。 それが体の条件もなく、感覚の条件もいい加減なまま、リズムをとってやってしまうと、カラオケの下手な人みたいになってしまう。リズムをとっているのと、入っているリズムが出てくるのは、全く違う。 ここでも最初は歌がうまくならないといっている。音楽を入れ込んでいるときというのは、意図的にやっているから、一見下手になるものです。
○トレーニングと発声
たとえば、この「月」と「光」と「太陽」の音色はどういう色かと考えてみる。単純に声で、これは赤、これは黄色とはわけられない。それをタッチや大きさで表す人もいるし、フレーズの形で表したり、厚みや太さで表す人もいる。その辺は、特にやり方があるのではありません。自分の得意な表現でやればよいのです。 思いつく限り全部、やってみましょう。 自分で歌ったときに、そこに何も入っていなければ、どこかに入れていく作業が必要です。それを情感的にやった方が冴える曲と、メロディラインを重視して大切にきれいに歌った方がよい曲などがある。できることであれば、メロディもことばもリズムも活かせればよいのですが、トレーニングのあいだはどれか一つずつでも構わないと思います。「我が祖国南の地 思いは遥か イムジン河」「しまったの 誰が」
ここがきちんとできるためには、「誰が」というイメージができないといけない。そのまえの「たの」のあとのブレスをどう置くかという準備ができなくてはいけません。こういうものを歌の練習として捉えることも必要なのかもしれません。ヴォイストレーニングがやりたいのだとしたら、これがまさに発声の練習です。そこが全くできていない。今も誰でも歌える程度に歌っているだけでしょう。ほとんど課題に降りてこないし、音もかなり不安定で音程もガタガタです。
○くせをつけない☆
他の人のを聞いていると、ここは合っているとか、そこは違っているというところがわかると思います。なぜ間違ってしまうのかというと、音楽をきちんと聞いていないからです。聞いたものを曖昧なままにしている。自分の中にあらかじめ入っている旋律が先に出てしまうから、違っていくのです。こういうことをやると、その人に基本の力があるかどうかということがすぐにわかります。 たとえば、ピアニストを選ぶときにも、私はうまくてもくせのある人は外します。ある曲はうまいかもしれませんが、くせの合うものに関してはうまく対応できても、他のものに柔軟に対応できない。そういう人はくせが邪魔してしまって、将来的にもあまり伸びていかないのです。歌も楽器の世界からみて厳しくしておくことです。
声の世界でも、新しいものを読み込む力がないということは、今までやったことで固まっているわけです。そこから発展していかないと意味がないのです。 たとえば、音程が取れない人は、そこを勉強すればできるようになる。しかし、歌うための余計なくせがたくさん入っている人は、それをまっ白にしないかぎり、よりよい発声を吸収できない。 たとえば、ジャズなどを勉強している人などに多いのですが、一見それっぽくフレーズをまわせていても、音にあてることに固まっているがために基本の勉強におりてこない。そういう人は、結構多い。そうやってフレーズを固めて不自由にしていくことが勉強だと思っている人が多いです。
○音楽と客とをつなぐ声
ここでやって欲しいことは、実際の音楽と向き合って、その中にきちんと声、イメージで入っていくということです。これは別にトレーニングとか発声法とかには関係ない。一流になった歌い手が必ず経ていることです。どこまで入っているか、どこまで入ってどこまで取り出せるかということが勝負なのです。 ですから、しっかりと聞くということがとても重要なことです。感覚を踏まえながら他の人を聞いていくと、だんだん客観的にもわかってくると思います。2、3年後に伸びていけるように、イメージと耳を鍛えていってください。あまり固めずにやってみましょう。「誰が」 この中にも7パターンくらいある。聞いていてわかると思いますが、たとえば、流れてしまう人というのは、「だれが」を三つで捉えて、その音をあてているのです。
本当に歌えている人というのは、「誰が」をバラバラではなくて一つに捉えているし、方向をイメージとしてもっています。それをバラバラに捉えていても、フレーズにはなっていかないのです。ことばが聞こえてくるとか、音質が聞こえてくるとか。 皆さんもこの短さの中ではそれぞれよいところもあります。しかし、もう半分くらい詰めなくてはいけないのです。そうでないのに、先にいって、いろんな構成をやっても、結局入れない。その短いフレーズでも、きちんと入っていたら、お客さんはそれだけで感動するのです。
たとえば、この「誰が」のフレーズをことばでやってみたらどうなるか、メロディに忠実にやったらどうなるか、リズムやインパクトを出してやってみるとどうなるか、発声として純粋にやってみたらどうなるか、そういうことを詰めていく作業が必要です。 歌というのは、きちんと伝えているところが何ヶ所かあれば、あとは伝えていないところがあってもよい。全部を伝えようとすると逆に伝えたいことが、伝わらなくなってしまいます。こういう人がうまいのは、皆さんより声がなくとも、きちんとバックの音楽と客をつなぐという役割をしている。そういうことをやっているから、そこにこの人の味が出てくるのです。
○フレーズと作品と向きあうこと
いろんな人のフレーズを聞きながら、自分に足らないところを知る。他の人のも全部聞き込めるくらいに、耳の力をつけることもできる。こういうフレーズ練習では、自分ができないことをやるのではなくて、自分ができていることを深めていくことが大切です。歌によっても、やりにくいものとやりやすいものがあると思います。まずは自分が確実にできるところを見つけて、そこをきちんとやっていく。それによって、あとのところがどれくらい曖昧かということがわかると思います。 歌から発声を学ぶということは、何も特別なことではありません。ほとんどのヴォーカリストは、音楽を聞きながら発声も学んでいるのです。そういう耳があれば、何からでも学ぶことができる。 学び方ということでは、子供の学び方と大人の学び方というのは違う。綾戸智絵さんが、ピアノでドレミファソファミレドと指の練習をするよりも、自分の好きな曲を何度も繰り返し練習した方がよいといっていました。
歌の場合は、ほとんど歌えない人はいないのですから、そこから入って、自分が苦手と思う部分があれば、基礎に戻り、練習すればよい。自分の基準がだんだん厳しくなっていけば、練習する部分は無限に出てくるはずです。 課題曲に「氷雨」と「雪国」を入れました。こういう演歌を使ったときに、その人のオリジナルが見えやすかったからです。みんなの得意なパターンが出てきやすい曲というのはたまにあります。
勉強の仕方というのは、自分がどう課題を見つけて、どう課題を絞り込んでいくかということです。それがわからなくなったら、作品と向き合いなさいといっています。発声のヒントも作曲のヒントも全て作品の中に入っているのです。そういうものが少しでも汲み取れるように、休みのあいだは自分でいろんな音楽に触れてください。スポーツの世界でも、シーズンオフのときが器づくりの勝負みたいなところがあります。どれだけたくさんの音楽に学べるかということで、よい勉強になると思います。【「イムジン河」入門 02.12.5】
○個性
昔は、声の個性というのはわかりやすかったのです。たとえば、音響などを通さなくても聞こえる声、遠くまで声が通りやすいということで使える個性といえたのです。 ところが今の声の個性というのは、マイクを通して感じていくものなので、その辺がわかりにくい。 しかし、あるオーディションで、1万人の中から10人を選ぶとき、仮に10人のプロデューサーがいたとしても、たぶんある程度は決まってくると思います。それは歌がうまいとかうまくないということではなく、声だけでもそのくらい明確にわかるものなのです。
一般的な声のよさというのは、声帯のよさに、その声の使い方や発声のよさも含まれてくる。それは時代によっても違ってくるし、プロデューサーの中での価値観でも違ってくる。生まれもって声がよいという人も確かにいます。それは一万人に一人くらいの割合で、ほとんどの人はそうではない。 もう一つは、鍛え抜かれた声のよさというのがある。これは役者のように、声を鍛えていくことによって、ある程度、求められる声になっていく。 クラシックの歌い手などは特に、声に個性があるといっても、舞台の条件が厳しいので、そこでの基準をもった上での個性なのです。パヴァロッティとドミンゴとカレーラスの声は似ているところが、その基準、そして違うところ、同じ曲を歌っても違うところが、音色、演奏形態での表現における個性です。
声の場合難しいのは、楽器の音のところから違いがあるということです。 研究所に来る人たちというのは、オーディションで選ばれた人がくるのではありません。その場合、個性というのは演奏の形態になってくる。またヴォーカルの場合は、作詞、作曲にしても、バンドにしても、いろんな形の個性のとり方がある、むしろ演奏形態の中で個性を問われる部分がそんなになくなってきている。ですから、難しいのです。 プロデューサーなどとは、よく個性的な声などという話をするのですが、そこだけでは使えない。個性的な声と個性とは違うのです。
声が誰かに似ているといえば、必ずそうなってしまう。ただ、どうせ似るのであれば、一流のレベルの人たちのもつ感覚とか、動かし方に似た方が、あとで応用が利くということなのです。最近はJ-popに憧れて入ってくる人が多い。そこで似てしまったら最後、誰からでも丸見えになってしまうということです。 他人のものを全部外してみたときに、では何が自分の声でできるのだろうと考えてみる。ほとんどの場合は、自分の歌を歌ってきているのではなく、誰かの歌を誰かのように歌えるというところに、上達の基準を置いてきているのです。
仮に桑田佳祐さんの声に似ていたとすると、その人にそういう感じの曲をもってくれば、何となくうまく歌えていると見える。それは歌の技術の基準ではなくて、その人の雰囲気とか個性の基準です。そういう意味では、誰かに似ている個性というのは、本人がいる以上、あまり意味がない。本当にオリジナルなものとか、個性のあるものというのは、皆さんが聞いてもわからない、最初は下手だと思うでしょう。でも、どの時代でも新しいものが出てきたときはそういうものです。
○元ちとせと民族の血
このまえ元ちとせさんの声のことが話題になりました。彼女の声は最初聞いたときには違和感があります。違和感があるというのは、一つの個性なのです。それが伝統芸能に裏打ちされ、民謡の世界でチャンピオンになっているくらいの力があるということは、その中で一つのルールなり、法則が回っているということです。それが理解されるかされないかというのは別の話です。でもレベルとしては、それだけのものをもっているということになる。もし偶然にそっくりな歌い方をしている人がいたとしても、その中に一貫したルールとか、方向性がなければ、たぶん人には通じない。
そういうものは一人だけでは難しい。島唄でも民謡でも、長年みんなが練って作ってきたというようなものがあれば強い。本来その部分がない音楽というのは成り立たないのです。 ボサノヴァみたいに人工的に創り出された音楽でも、その血が流れているところの上に生まれてきた音楽です。そうなってくると受け継がれたかどうかというよりも、形としては自分の血になっていくのです。血というのは、そこに住んでいるところの風土、習慣、食べ物、そして人とのコミュニティの部分でもあります。
○誰がやらせてくれる?
東京の場合は、そういうものがないから判断がしにくい。他の国の判断というのはそんなに違わないのですが、世界の中でも、東京というのは不思議なところです。日本人の判断基準が特殊なのかもしれませんが、その中でやっていくのであれば、そういう部分に合わせたり、乗らなくてはいけないところも出てくるでしょう。 今の日本の音楽というのは、子供たちの文化ではあるのですが、アニメとかゲームのように、そのまま世界に向けて出ていけるものになればよい。そういう意味では、日本は永遠にアイドル的な国なのかもしれません。
ですから、皆さんがやるときにはどういうスタンスで、どういう客を対象に、どういうことをやるかということに絞られてくる。普通の国の場合はそれが全部見えるのですが、日本人にはそこが見えないのです。普通は、歌い手になるということはどういうことかとか、どのレベルが必要だとされているかということも見えるのですが、日本の場合はなかなか難しいです。 今はだんだん変わってきました。日本の会社などでも、10代に入った大学で全部が決まってしまうところもありました。才能とはまた違った部分で動いていくのが社会だと思います。それは全ての分野を含めて、まだ実力社会にはなっていないということです。それがおもしろいような、おもしろくないような気もします。日本は島国だから仕方がないといえばそれまでですが、皆さんが実際にやっていくときにどうするかということが問題です。 自分がまっとうにやっていくためには、誰がやらせてくれるかということを考えればよい。力をつけていけば何とかなると思うのではなく、自分が力をつけることによって、自分を利用する人は誰なのかと考えてみると、そんなに難しくない。
○仕事としての確立
私も今では仕事を選んでやる年齢になりましたが、昔は何でもやりました。サラリーマンで仕事がないとか、リストラされたという人がいますが、誰よりも早く、安く、たくさんのことをやれたら、仕事というのは、いくらでもあるのです。 意地悪ないい方かもしれませんが、リストラされる人というのは、その人がいない方が会社にとっては助かるということでしょう。本当のことでいえば、会社というのは優秀な人には残ってもらいたい。ただ、そういう人が本当に能力がないのかというと、本当の能力を出さなかっただけです。 でも日本の会社の大半は、全ての能力を出せないようなシステムになっているので、仕方ないところはあります。ですから、ヴォーカルの世界も、セールスとか営業とかで、それが成り立つような世界で考えてみればわかりやすいと思います。
自分がやることで周りがみんな得するという関係が作れたら、黙っていても仕事は来るでしょう。自分がやったら周りが損するという関係になっていたら、難しいと思います。 ここを出たあともやれていく人を見てみると、基本的には歌の力ではなくて、人間関係力なのです。歌にプライドをもって、自分の声のよさで天狗にしまうと、お呼びがかからなくなります。 特に日本での仕事の関係というのは、その人とやっていきたいかどうかということなのです。本当はその人にしか置き換えがきかないようでなくてはいけない、日本の場合は置き換えがきくから困る、結局、そこまでレベルが高くないのです。
テレビ局の依頼の大半は、私が断っても他の人で代わりが務まる。その程度のものでもってくる。程度が低いと、こちらの能力を活かすような企画ではない。それは私がやる必要もない、テレビに出たい人がやればよい。 忘年会のカラオケに合わせて、一週間で歌がうまくなりたい、などというレベルのものは、ある人にとっては切実な問題かもしれませんが、テレビに出てまでそういうことをやるのは、よいこととは思いません。
○やれない人はやれない理由がある
プロデューサーが、まだ個性が足りないという。成功しているプロデューサーというのは、本当にいろんなことを踏んできている。そういう人からみると、20歳くらいの個性というのは、生まれつき以外の何にもない。そこからやっていけるように育っているかが基準なのです。その時間が日本の場合はとれない、そういう養成機関もなければ、学校も上っ面だけのカリキュラム消化で終ってしまいかねないのです。
○仕事はつくるもの
本気で勉強していけば、世の中にはそんなに勉強している人はいませんから、何でもやれるようになる。ただ、本当に勉強を続ける人、毎日しっかりとやる人がいません。 だいたい日本人というのは、先にどうなるかというビジョンをもたずに、そうなってから始めて気づくという感じです。危機感をもたずに生きています。そういうものはもっと早めに知るべきことと思います。 年々おもしろくなっていく人生がよいでしょう。何かをやらなければ、年々どんどん大変になっていく、歳をとるにつれて体も頭も動かなくなる、そのためにはそれだけのことをやっておかないといけない。 歌を歌うということに限らず、ステージでは、本当にそこまでに生きてきたその人のものが全て出てしまう、ステージにはその人の影の部分は出ませんが、それが支えているから明るい部分や華やかな部分がもつ。底がしれてしまう歌い手というのは、すぐに消えてしまいます。それは芸人でも同じことでしょう。
それはすごくわかりやすい、誰かが見てもやれると思う人はやれる、ほとんどの人は誰が見てみてもやれないと思うからやれない。大切なことは、やるのは本人ではなく、周りの人たちがやらせてくれるかどうかということです。 そういうふうに人を巻き込んでいく力をその人がつけていかないと、難しいままです。声とか歌はよくなっても、人を巻き込んでいく力がない人に、仕事がこないのはあたりまえです。 「仕事ありませんか」という相談を受けます。仕事はいくらでもある、なければつくれる。でも、頼める人と頼めない人がいる。他人の仕事をとるのでなく、自分がいることで仕事ができていく、つくれる力のある人しか残らない。
一般的に自分からとりにいく仕事というのは、おもしろくて勉強にはなりますが、仕事としては成り立たないものが多いのです。自分の勉強や趣味だからです。いくら自分がやらしてくれといっていても、相手が心から出したいと思って振ってこなければ仕方がありません。 実力のある人というのは、三方に得するように動く。それを、仕事を出せる立場の人はみている。みんなが得するから次にもつながる。音楽もビジネスも全部結びついています。自分が歌うことによってみんなが潤うことになれば、次第に成り立っていくのです。
○耳を鍛える「バルバラ」「タンゴイタリアーノ」
音楽を入れるということで、バルバラという曲をやります。難しいかもしれませんが、構成をよんでください。こういうものに慣れはあっても、その人の音楽の総和が問われるのです。勉強するときには、今聞かせた曲がどのくらいわかっているかということからです。 この構成が頭に入っていれば、次には何をやっているかということがわかる。ところが、最初は、そういうことが10回聞いてもとれないのです。 本当のことでいえば、こういうやり方で聞くのではない。自分でもっと量をこなしておけばよいのです。しかし普通の人は、カラオケで何年やったとしても、カラオケの感覚でしか接しないから、いつまでもとれないのです。 音楽家というのはそれを時間的に鍛えられた耳でやっている。この2曲は複雑な構成をしていますが、そういうこともやがて耳で捉えられるのです。 たとえば、タンゴイタリアーノという曲は、3回リズムが変わります。説明すればわかるのは、理屈でプロには感覚でわかっている。それがわかっていないのが力の差なのです。ですから、勉強するところはそういうところなのです。
○間違ってよい
迷いが出てくるのはよいのです。しかし、まずは黙々と量をやっていないから迷って、迷っているがために量がやれないなら意味がありません。 私は全然迷わなかった、それは自分ができないのですから、あとはやるだけ、そこに迷いはないのです。 ところが今の人たちというのは、きっと自分がどこかで少しは、できていると思っている。だから、間違うのを極度に恐れる。間違ってもよいのです。間違いなんかないのです。結果として行きつけばよい。それがわからないから、発声が、口の中が、お腹の使い方がどうこうと、そういうことで時が過ぎてしまうのです。 自分ができないことはできない、それほど明らかな世界です。そこをわかっていないのです。 たとえば、このクラスの中でも、同じ曲をやったときに、少しでもそこをとれている人と、どれだけ理解度が違うかということを比べてみれば、自分がどれだけ力が足りないのかということがわかる。
迷っている暇があれば練習すればよい、そこでいったりきたりしている人が多い。先生に同じ質問をして、その答えを照合して勉強するというのは一見、合理的かもしれませんが、何の意味もない、やり方も自分で信じたら、それをやるしかない、そういう入りたての時期が伸び伸びになっているような感じがします。 こういうものを聞いていたら、全部この中に答えが詰まっている。それがとれないから学ぶのでしょう。発声のことから、表現のことをやるのはよい、それは何のためにやるのかということを考えなくてはいけない。 こういう曲を聞いても心から感動しない人が、そういう歌を歌えるのかということです。能書きとか精神論ばかりをいっていても仕方がない。本当に聞く時間を大切にして欲しい。本能的に勘でやっていくしかない世界です。頭で左右されない方がよい。【「タンゴイタリアーノ」 入門 02.12.12☆】
■レッスン(入門以外)
○作ったものと創造☆
今は聞いたばかりで、まだ作るところにいっていないのですが、基本ができてから作るのではなくて、作ってみて基本が足らないと感じたら、基本が必要になって身についてくるのです。ですから、もう今のところで作らなくてはいけません。ただ、それを作ったままだと、作ったものしか出てこない。それでは人を引きつけません。作られたものと、創造というのは違います☆☆。
作ったものは、こう出してみたというだけです。それだったら、自分だけで好きに歌うとか、完全にコピーした方がよい。ここで求めていることは、曲の中にある感覚とか動きのようなものを自分で感じて、そこで新たにキャッチしたものに対して、自分の素直な呼吸や声を感覚的に乗せてやることです。そのままだったら、単に垂れ流しになってしまいます。何らか集約した形にして、そこで自分の動きがわかるようにしてください。集約することが一番難しいと思います。 最初の「だけども」だけをやってみましょう。 これが出てくるまで、この曲がどういう曲なのかどうよいのかはよくわかりません。そうやってある程度の進行や伏線を作って、ベースを固めておく、それから、まさにここからこうだという動きを出しているのです☆。
私が声を握らせようとしているのは、そのためです。そのときは全部意識が中にいってしまいがちです。何のために握らせるのかというと、放り投げられるためです。その放すところが気持ちよいのです。 タレントや単に歌がうまい人たちは、放しているところだけで歌っていても、持つのです。つかんでいるだけよりも、放しているだけの方が持つのです。ただ、耳には一本調子でつまらなくなってくる。どこかで握ったり放したりして、その動きを出していくことです。 スポーツをやっているとわかると思いますが、原則として表面上は止まっていないと新しい動きは出せません。こういうものも同じで、「タタタタ」と聞こえたとしても、そこを聞くのではなくて、その前と後を聞いて、そこは自分で作っていくのです。
○接点のつけ方、可能性と柔軟性「だけども、そんなに」
これをことばで入っていった方がよいと思う人はそれでもよい。リズムと音色のところでの課題です。いったいどれがよいかわからないという人は、音だけでつけてください。「タンタンタンタン」のところを「タタター」と捉えるのか、「タンタタ」で捉えるのかでも大きく違ってきます。そこで走ってしまうのではなく、もっとためてください☆。
そのときに体や息が柔軟にならないとしたら、今の体が足らないか、またはイメージと感覚の結びつきが弱いかのどちらかです。その両方の補強をして欲しいのです。そのようにして、ある程度自分の接点がつくところで練習をやってください。 野球の場合、いきなり160キロで打とうにも打てないから、とりあえず90キロでやってみる。でもいくら90キロで練習しても160キロは絶対打てないから、160キロを見て、あたらなくともバットだけを振ってみるとか、そういう段階ごとにいろんな接点のつけ方をやるわけです。
音楽の場合、難しいのは、こんなのは歌えるといったら誰でも歌えてしまうことです。どこに課題を持つのかということが難しい。だから、やったところではやれるのですが、やっていないところで自分の体が動くように、どうするかというふうに考えるのです☆。そのために声を深くするということがあるのです。 たとえば「ラララ」というのを全部歌ってしまうと、お客さんには全部見えてしまう、それを深く出してやると、少し見えにくくなります☆。そういうところが、その人の奥深さとか、魅力、可能性で見えてくるのです。 あなたの今とるべき基準は、可能性と柔軟性を出していくことです。声で力で固めていくことではないのです。ただ、一時、それが体を鍛えたり、息を吐くトレーニングになっているのであれば、それはそれで見ています。今でも細かい注意はたくさんしたいのですが、大筋がより優先されます。 その前に、あなたが何をもって創造といっているのかということです。自分の世界に対して、全て自由なテクニックや、技術や声や体があったときに、自分がどう描きたいのかというところに入らなくてはいけないと思います。
そのために私のレッスンに関しては、そのフレーズがコピーできなくてもよいし、音程やリズムが取れなくてもよい、音楽にならなくてもよい、ですが、自分はこれから得たものを使って、自分の世界としてこう示していきたいというものを明確にもって欲しいのです。それがなければ、どんなに歌や声がよくなったとしても、その人の世界は築かれてないのです。
○見えないところ、わけのわからないところ
それはできるだけ最初からやるべきだと思います。デッサンする人も、文章を書く人も、内容は技術と同時に起きてくることで、ベースができたときには、何かしらできていくのが、理想だと思います。 あなたが一番魅力的なあなたらしいことが大切です。あなたが一番良い顔で、一番気持ちのよい声を出しているところで、そこに音楽が降りてきたら、ある程度成り立つはずです。それに対して、もっとクラシック的にとか、もっと体を使ってとか、そういうことはいいません。ただ、もしもっと柔軟に音楽が動くように、可能性や奥行きを出すためには、体の強さといった、そういう基本的条件が問われてきます。 それは見えない部分で、点数のつかない90点のところです☆。 一般的なレッスンでやれるところは、残り10点のところの優劣です。それは音程やリズムが取れるというところです。本来、トレーニングではその90点をどう作っていくかということが大切なのです。普通の生活とか環境から音楽をどう降ろしていくかという部分です。
だから、わけのわからないことをやっているのが一番よいのです。やれている人は一時わけのわからないことをやっているのです。だからみんながわからなかったり、明らかに変にみえていても、そこに何かを本当に自信をもって、自分が実感を捉えてやっているのであれば、大切にして欲しいと思います。それは壊したくない。それを壊しているのが日本人です。 こういう絵の世界でも何でも、わけがわからなくて面白い、自分が引かれるものがあれば、それは何か自分の中に引かれるものがあるからです。もしかしたら来年はつまらなくなるかもしれませんが、それはそれだけ成長したのかもしれない。あるいはさぼって勘が鈍ったのかもしれません。その辺は難しい問題ですが、とにかく創るということを周辺に入れてください。あくまでも評価するのは相手です。自分だけが気持ちよくても仕方がありません。
今出している声の中で、曇っているところ、まだ少し迷っているところ、はっきりしていないところ、作りすぎのところがあります。そういう部分はレッスンでこそ、省きたいということです。それはトレーニングの中で、はぎとっておいて欲しいということです。この2曲から入れて欲しいのは、音楽と接点のつけ方です。
たとえば一流のプロでも、声や歌い方は、みている分の勉強になるかもしれませんが、ほとんど学べないと思います。隣にいて教えてもらっても、やはり学べないでしょう。彼から学べるものは、彼の身動きとか動作、それをパッとやろうとするときの発想とかアイデア、1時間の中でみんなをどう動かすのかという演出の部分の方でしょう。やれてもいないのにやれた気になって、判断力が鈍るなら、参加しない方がよいくらいだいです。彼に本当に入っているものは見えませんし、仮に皆さんが全く同じことができても、大して通じないということです。もし、そうであればビデオを見ていたら、歌がうまくなる☆☆。そんなことはありません。やはりその接点のつけ方をどうするかということが、一番の学び方だと思います。
○見せすぎない、切り捨てる
シルヴィバルタンでやるのは、ミッシェルポルナレフはやや形になってしまっているからです。夏木マリさんのも同じで、かえってわかりにくいのです。近づくことはできるのですが、同じにできたからといって、仕方がないからです。その辺も見て使っているので、他のレッスンでも参考にしてください。 皆さんにとっては、ここではバラバラのことをやっているように見えるかもしれませんが、たった一つのことを伝えようとしている。どこかに正解があるわけではありません。自分の中でそれぞれ接点をつけていくということです。今日のことと他のレッスンでいっていたことは、どういう絡みがあるのかという接点は、自分でつけていく努力をしてください。いつも私がいっていくことではないと思います。自分で静かにコツコツと、そういうものを感じながらやっていってください。「愛する」
こういう場合に見て欲しいところは、どこが不透明になっていたり、未整理だったり作りすぎていたり、見せすぎているかということです。今は音響があるのですから、そんなに見せてもらわなくてもよい、逆にどこを切り捨てているかということが問題です☆☆。下手なところ、乱れているところも切り捨ててください。 彼等の言語は強弱のリズムで、音楽としてのベースを保っているのです。音楽を妨げないように、そういう処理をしている。日本語の場合、その辺でどこをとるかということは難しいのですが、そこでのチェックをきちんとやってください。
フレーズを短くしたら正解に近くなる、短いから柔軟性も出てくるし、自分の声の楽なところで動かせるわけです。ただ、それをコントロール不可能なところで歌うと完全にダメです。しかし、歌の場合はかなりいい加減な使い方だったり、違うところを響かせてみても、それが味になってきちんと収められたら、それはそれで構わないのです。秩序ということで、余計なことをやらずに、なるべくシンプルに取り出しながら応用していくことをやっていきましょう。【※@クラス 02.1.6】
○迷いとミス
昔はこのようなものを聞かせる中で、深い踏み込みをして、息を深くとっていたり、ことばを深く捉えていたりしていました。それが日本人にはできないということで、「ハイ」などをやっているうちに、そのことができるようになってきた。すぐには曲には結びつかなかったかもしれませんが、ここに来ていた人の目的がはっきりしていたのです。だから身についた。
ところが今はいろんな歌い方が世の中にあって、迷わざるをえないのでしょう。 でも私からみると、世界で一流のことをやっていた人は共通したものを持っている。一声出しただけでも、そこで聞こえてくる基本とかベースは、紛れもなくあるということです。それに対して、何をそんなに迷うのでしょう。迷うのは学校に行ったための迷い、習ったがための迷いです。それはよくない☆。 特にトレーニングのときは、一番ベースのところでやらなくてはいけない。皆さんを見ても、自分の中で自己矛盾を起こしている。それは研究所のやり方や基準でもなければ、声楽のやり方、ポップスのやり方でもない。共通しているというところを、もっと深いところできちんととらないから、いい加減なことが起きてしまうのです。
このミスは、ほとんどスタンスとイメージのミスです。発声や音声や解釈の問題ではありません。それで70点できたといったとしても、自分の思っている100点はどうなのかということです。仮にその100点ができていたとしても、それは舞台や表現の世界とは全く違うところの目標としか思えない。自分が思ったやり方でやったがために、あまりうまくできなかったというのも、通用しないということで、もう一度振り返らなくてはいけないと思います。
○一流のアーティストとセンサー
何でもそうなのですが、一年やったら初めての人よりも歌えて、二年経ったら、一年いる人よりも二倍うまくできたり、よりうまくなるということとは明らかに違います。研究所で見ていても、入ってきたときからうまい人はうまいし、四年経ってもうまくない人はうまくないのです。いつまでも許しているわけではありませんが、本人が気付くまで待つしかない。 そこで体がこう使われていたり、これを自分がやるにはもっと下げなくてはダメだとか、いうことの前提となる認識が体の中に起こっていないのです☆。それがないのにどんなに発声をやったり、勉強してみてもダメです。トレーナーが代わりにやると、トレーナーの練習になります。こういうものは個人のものですから、個人の中に入っていないと何ともならないのです。
オーディションでも、声や歌を見ているのではないのです。皆さんの頭が邪魔している。確かに感覚、勘がいります。気配りもでき、そういう神経はあると思いますが、そのことと音楽的な才能とは違います。でもそれも音楽を取り入れる一つの要素です。 ある時期徹底してミルバに没頭して、そこで自分を捨てる、自分を捨てたから自分がなくなるというのでなく、共鳴してより正されるものがあるわけです。 常に考えて欲しいことは、歌い手の世界ではみんながヴォイストレーニングをやったり、音楽の教育を受けてきたのではない。道端で歌っていても、何か知らないけれどもセンサーがよくて、歌がうまくなった人が世の中に受け入れられてきたということです。 どんなに高等な音楽教育を受けたからといって、世の人が受け入れてくれるということにはなりません。勉強も同じです。選ばれた人といってしまえばそれまでですが、みんな優れた歌い手を聞いていたということです。それをどの深さで聞いていたかが、勝負の一番ベースです。そうすると、そんなに迷わないはずです。
○接点と創造の原点 岡本太郎
一番大切なことは、接点をつけなくてはいけないということです。自分を客観視できなければ、他の人たちを見ていくことが必要です。一番根本的な問題としては、何を信じて、何にかけているのかということです。 それはここの考え方や、やり方を信じなさいとはいうことではありません。そこで何を信じているのか、何にかけているのかということが、ことばや音楽の中に出てくるのです。それが出てこなければ、他の人がそれに引っ張られることはありません。
そういう部分が、その人のスタンスであり、イメージ、表現なのです。それにはそういう毎日を送っていなければ不可能です。そういうことに接点をつけていくべきでしょう。他の分野の人たちは、自分の分野以外のものをたくさん勉強しているのですが、日本の音大生や歌い手の場合は、発声だけをやって、曲だけを覚えればよいとか、他の分野に比べると創造ということを全く考えていません。ましてやこんなところで、音大のあとを追っていくようなことをしていたらダメだと思います。 こういう世界はそんなに難しいことではないのですが、情熱がいります。学ぶことによって目が曇らされるのであれば、それは学ばない方がよい。それが自分のよさを壊しかねません。 どこのやり方とか、どういう考え方ではなくて、もっとストレートに自分で深く感じる能力をつけていくことです。
岡本太郎さんが初めて縄文土器を見たときにボロボロと泣いて、心底感動したそうですが、それが創造の原点なのです。きっと普通の人はそこまで泣けないでしょう。そこまで感じられない。美術界の人は、そんなものは価値がないとまでいっていたのです。でもそれは大きな間違いでした。たとえば同じものを見たときに、相手は泣けるけれども、こちらは泣けないとしたら、そうしたら相手の方がそういうものに対する才能があるということです。
皆さんも歌を聞いて感動したり、泣いたりした経験はあると思うのです。そこに原点を置かないところに、どんなに発声や歌をやっていっても、意味がない。でも日本人の場合、勉強してしまうとそうなってしまう。そこを気をつけないと、せっかくの素質を見誤ってしまうことになると思います。
だいたい、どこでも残る人よりも、入ってすぐに辞める人、あるいはあなた方の方が才能はあると思うのです。でも残念なのは、入ってきても接点がつけられない、それを待てない、あるいは接点がつけられたに関わらず、外に出ると流してしまうのです。それは自分でシステム化できていないからです。大きな意味で上達していくということを汲めないのです。日本の場合は、そこに出るために、余計に汚したり、いろんな脚色をしなくてはいけなくなっています。そういうところもきちんと見ていかないといけないと思います。
きっと信じていたと思うのです。それはここを信じるということではなくて、他に情報がなかったからでしょう。とにかく自分が聞いたものを材料にして、そこから得られるものを徹底してやった。 ところが今はいろんな歌い方があるなとか、いろんな声の出し方があると、そういうところの表面まねで迷ってしまうのでしょう。でも本質的なものはそんなに変わらないのです。たまに手を抜いている人もいますが、世界で認められてやっている人は、きちんと体や息が回っている、そこから声を紡ぎ出すときに、いろんなイメージを与えてくれます。
○ポイント、切りとり、焦点
歌も歌われているわけではない。まず歌を歌おうと思ったところで間違ってしまうのです。接点のつけ方をやってみたいと思います。 皆さんの歌は発声技術がないわけではない。スタンスがないのとイメージがないのです。全員が同じレベルではないですが、接点を「アル」だけでもよいですから、つけてみてください。「アル」 体の問題というよりは、イメージの問題です。「ア」で出したイメージを邪魔しないでやることです。それは自分の呼吸でやらなくてはいけなくて、それを体でキープしなくてはいけません。ここは日本人にポジションがないので、非常にやりにくいところです。
バッティングでも、どこかにポイントを持たなくてはいけない、仮に声を見失っても、そのポイントをとっていなくては、全体がボヤケてしまう。フレーズには必ず中心があるわけですから、そこを気をつけてやってみてください。自分の息以上に歌にしないことです。「なんてあおい」 この辺は二年間くらいの教材になります。きちんと聞き込んで欲しいのです。フレーズから正していって欲しい。全部を体で持とうとするとすごく大変になるのですが☆、その息の流れとか、その息の送り方なしには、音楽は進まない、ということを覚えておいてください。いくらメロディ通りに歌えたとしても、それを歌った瞬間に、お客とは関係ない世界になってしまいます。
この曲はフレーズがきちんと回っている歌です。イタリア語でやると声が出しやすいはずです。その中で自分はどこを引きつけるのか、どこを盛り上げたいのかということが出てくると思うのです。それが出てこなければ、音楽にならないと思います。 ピアノなどでも同じように、それが弾けるか、弾けないかのところでやっているのですが、それは自分の価値であって、他人に問えない。例えピアノが弾けなくても、ここはもっとこうやりたいとか、もう少し間合いを取るとか、そういうことが出てくればよいのです。
それが今できないのは、曲の切り込み方が甘いのと、焦点がボケているからです。自分は声量がないからとか、高いところが出ないからそういう動きでない。自分が意識して運んでいたらもっと出てくる。音楽的な理解の不足です。そこの音を自分の感覚や感情に置き換え、きちんと相手に伝えようとする執拗さみたいなものがいります。これをもう一度教材として使うと、よい1オクターブの発声練習になると思います。これがしっかりと歌えれば、1オクターブ半くらいの曲は歌えるようになります。 復習が大切ですから、考えて捉え直してみてください。100点ではなくて、1000点や10000点ということはどういうことなのか、あるいは曲の世界で何が起きているのかということ、その接点を1フレーズでも1音でもよいからつけていくことです。 それが二年で一回でもできれば、そのあとの四年、六年は上達します。そこまでいくのが大変というよりは、みんなそこを見ないでどんどん進めていくのです。そこを気をつけてください。【※Aレッスン 02.2.7】
○結晶化
こういう曲はオリジナルフレーズの勉強として使っています。それは骨格が見えやすいからです。日頃の体作りや息作りをしっかりやっている中で、こういう曲をパッとやったときに、それがどう動いていくかということをみるためです。そこで自分なりのフレーズとして出てくるために、たくさんのリズムとたくさんのメロディ、たくさんのことばを入れておくのです。そのためにはJ-popよりも、世界のいろんな曲を入れた方がよい、入っていないものは出てきません。 それをあまり急がないのは、その組み合せがいずれ皆さんの中で結晶してくるまで待つしかないからです☆。ただし、そのためにはよいパターンがたくさん入っていないといけない。歌い手は音楽家です。左に行くのか右に行くのか、ここで止まるのか、5メートル先で止まるのか、そういうことを曲の中で全部自分で決めなくてはいけないのです。それをすべて自分でやろうとすると一人よがりの歌になってしまうのです。でもその人の中に優れたパターンがたくさん入っていたら、それを正してくれるのです。
○伝えるために
オリジナリティというのは、その曲、作品、それを歌った人を尊敬すること。それがよい曲であればもう成り立っているのですから、それを邪魔している自分の感覚を直さなくてはいけないのです。そこに矛盾を起こしても、それをきちんと見て正していくことが大切なのです。 歌って伝えるということよりも、伝えるためにどう歌うのかということを勉強しなくてはいけない。声が出たら何とかなるということではない。伝わるために声をどう使うのかというところから入っていくべきです。 こういう人の歌は、伝えるという形も実も同時にもっているでしょう。そういう部分を真似するのではない。優れた歌い手でもよい部分も悪い部分もあります。そういうところから勉強していくことです。
感覚と実際の声がうまく一致しなかったり、イメージどおりにいかなかったり、あるいはイメージどおりにはいったけれども、メリハリとして流れてしまったということもあると思います。その辺は自分の感覚で調整していくことです。徐々に、声を出さなくても伝わるところは引いてみたり、より出した方が伝わる場合は、もう少しメリハリをつけてみるとか考えてください。 フレーズのピークをどこにもってくるかということでもずいぶんと変わってきます。それは考えてやるのではなく、その音楽の流れの中でスムーズにできるようにするのです。結局、伝えようと思ってやっていく中で、そのことが自然とできるまでは、自分で何度も調整して練習する。それが自分のトレーニングになると思います。
○つくり方
声でもっていこうとか、ことばでもっていこうとか、音程やリズムをとってやろうとか、そういうふうに考えてしまうと、音楽が流れなくなってしまいます。もう音楽の背景も線もすでにあるのです。そこに歌い手は少し色づけするくらいで充分なのです。 歌い手が作れるところというのは、出だし、ちょっとした移行の部分です。サビのところで作ってもそれほど効果がないのです。 日本人の感覚は、どうしてもまず音の単音をとって、それに一つずつことばをつけていこうとするのですが、そこから支離滅裂になってしまいます。ヒントはこういう歌い手の感覚にあるので、それを見ていくことです。 どこで流れを作るか、どこでその起点を作るかということは、計算しなくてはいけないと思います。どんなに小さなところでも、体とか息が動いていれば、結果としてそれが短くなったり、長く伸びてしまっても、そこにこだわる必要はないのです。 ここでは短い時間の中での感覚の切り替えの練習をしたいと思います。歌い手は役者以上に感覚の切り替えが必要です。1フレーズ目の感覚で、1曲の中にずっと浸っていることはできないのです。【「ギターよ静かに」AB 02.3.24】○日本の歌と声「ここに幸あり」
私が小さい頃は、日本の歌でうまいと思うのはこういう歌でした。歌謡レッスンではこういうものを目指して歌えるようになるために、発声をやり、きれいに歌えるようにしなさいと教えていたのです。日本語の歌はメロディとことばの世界なのです。 メロディをつけようとするとことばがいいにくくなって、ことばとメロディが反していく、そこに発声が必要だったのです。たとえばこの「嵐も吹けば」の「ふ」というところでも、日本語が浅いので、「ふ」の音を出すためのポジションを作らなくてはいけないのです。そこが外国語と大きく違う部分です。外国語の場合は、全て同じところで発せられるので簡単です。そこを日本語的にメロディ処理するためには、高度なテクニックが必要になってきます。「女の道よ なぜ険し」
フレーズの作り方をよく聞いてみてください。「おんな」の「おん」でかなりの圧力をかけておかないと、上にはいけない。声楽家やM.Aさんなどは、極端なビブラートをつけてメロディ処理をしています。それは日本語がリズムによってフレーズになりにくいので、そこをビブラートでカバーしているのです☆。
ここでことばの世界や声の世界を飛び抜けて、それが一つの世界として出てきています。一見難しそうに思えますが、ここが曲の中で一番やりやすい部分です。ここは何らかの表現を出せるところです。自分で自由に作れるはずです。次できちんと収まるかどうかということが、歌を知っているかどうかのポイントです。ことばや声でやろうとしないで、自分の感覚でやってみてください。「君を頼り 私は生きる」
こういうところで自分の音色とか、体のフレーズを出していかないと、一生趣味のママさんコーラスレベルで終ってしまいます。確かにこういう美しい声で、きれいな歌い方をやろうとしたら、体も必要、感覚も鋭くなければいけません。しかしなぜ今これを使っているのかということを理解してください。ここではアンチテーゼ的に使っています。なぜこういうことが起きるのかということを考えてみてください。 「ここに幸あり」の「こ」から「こ」に対する働きかけは、日本ではあたりまえですが、他の国ではこういうフレーズは作りません。この歌い方がダメということではなくて、こういうふうに歌うのは難しいことだということです。
○フレーズ感覚
フレーズの感覚で取るのと、皆さんがやっているように、音を取ってそこにことばを入れるというのは、やり方が違うのです。彼女は体が強いから、ここで踏み込めるのです。ここで何が起きているのかを知らなければ、この歌い方の真似をして終ってしまいかねません。メロディとことばをいったい化させてフレーズにするためには、それだけ体が必要なのだということを、自分の体に覚えさせなくてはいけないのです。そうしないと、表面的に声だけで歌ってしまうことになります。それをやるのであれば、声楽家にやってもらえばよいのです。でも絶対、これに適わないと思います。彼女はもっと違うことをやって表現しているでしょう。カラオケにも入っています。自分で勉強してみてください。「狭いながらも楽しい我が家」
こういう曲は、日本のことばと向こうのリズムとの問題を、こういう歌い方で凌いでいたという典型例です。彼女はスタッカート気味に歌っています。音に当てていくだけの歌い方というのは、そこにその人の音色もフレーズが作れなくなる、もちろん今はマイクでカバーできるのでそんなに目立たないのですが、誰でもできるわけですから、その人の個性が出なくなってしまうのです。なぜポップスの歌い手は、声楽家のように声が出なくても、あんなに人の心を打つのかというところから考えてもらえばよいと思います。
○歌いあげない
これはとても広い音域のある曲ですが、彼の歌ではそう聞こえないと思います。ギターをつまびくように歌っているでしょう。ジャズでもシャンソンでも、日本人が思っているほどそんなに歌っていないのです。 歌いあげなくてはいけないのは、体や声がないからです☆。それがないと自由度がなく、歌が窮屈になってしまいます☆。 我々の歌の場合は、悲しいところは悲しく、うれしいところはうれしく表現するのですが、こういう人の場合は、音色を変えずに、そのタッチで見せていきます。「あなたの目に星は光り」 音程を取ろうとすると、コード感がなくなって、一音ずつがバラバラになってしまいますので、もっと大雑把にとってよいと思います。「心酔わす花の香りよ 心溶かす甘い夜よ」
あまり音程にとらわれないで、組み立て方をやることです。作曲家と同じレベルでやりましょう。ことばから入るということもできます。ここの場合は、もっとニュアンス的な部分を取ってください。 踏み込みと音色を大切にしていけば、あとはいろんなことが起きてもよい。「あ・な・た・だ・け・に」というふうに取っていくと、全部を取っていかなくてはいけません。もっとフレーズ感で捉える練習をしてください。ある時期大きく作ってみたり、声を大きく出していくのが必要なときもあります。それは小さく繊細に使えるためにやっていくことです。今はこういうものを聞いたときに、一音一音で取らずに、流れで聞けるようにしてください。
○自分の歌に変じる「虹のように 消える月日」「ステキな恋に巡り会うと」
組み立ても構図を取っておけば、全部を歌わなくても、そこだけで伝わるのです。ここではプロの体や感覚、あるいはそういう感性的なものを磨きなさいといっています。たとえば、見て欲しいのは、そこのアイデアなのです。ここの落とし方でも、いろんな落とし方があります。皆さんはそういうものをたくさん聞いている。そのことを自分がやりたいに関わらず、声が足りなかったり、体が足りないから、こういうところに来ているならよい。でも、もっと自分の中でどういうふうにやりたいのかを試みなくてはダメです。 フレーズのオリジナリティというのはそういうことです。プロの歌い手たちは、そういうことを徹底して知っているのです。 2、3年目に向けてやって欲しいことは、自分のオリジナルのフレーズを作っていくことです。それが頭の計算だけとか、体が伴ってなくて声だけとならないためには、自分の呼吸なり、自分の表現を知っておかなくてはいけません。
この一曲全部を勉強しなさいということではなく、皆さんの感覚が鋭ければ、そう変じます。 「好きな恋に巡り会うと」ところだけでも勉強できるはずです。こういうレッスンにおいては、他の人のフレーズを見ることができるわけです。あれはどう聞いてもおかしいとか、あの人のは伝わったとか、そうして、聞ける耳を作っていくことが大切です。 トムウェイツなども、声がよいとか、歌がうまいというわけではないでしょう。でも人の心の琴線に触れる音色やニュアンスをもっている。発声をしようとか、声を出そうと考えていたら、自分の気持ちが隠れてしまいがちです。例えピッチが悪かろうが声が割れようが、その人のもっと大事な部分が出ていればよいと思います。今日はそういう部分が少しでも聞けたのでよかったと思います。そういうところを失わないように日頃から練習してみてください。【日本の歌 @ 02.4】
○イメージの絞り込み
こういうレッスンやEi塾をやっている中で、自分の聞こえ方が変わってくる。イメージしたことのあいまいさなのか、それを声で出せないところの間違いなのかということです。明らかにその両方とも違っている場合もあります。イメージは正しいけれども声が追いついていかないというところがトレーニングになります☆。 ですから、常に評価する目とか、耳を鍛えるトレーニングをしていかなくてはいけないわけです。 Ei塾などでやっているようなことも、そこで聞こえたものが次の1時間では、違うように聞こえなければ、自分の歌も変わることはありません。声の響きの問題とかビブラートの問題とか、練り込みの問題なども、結果的に結果がよければそれでよいわけです。こうやって聞いている中で、そこで何が起きているかを自分の中でわかるようになることが第一です。
○責めぎ合い「誰も、誰も知らない」
こういうところでは、自分で何をやっているのかがわからないと思います。いつまでたっても呼吸法とか発声とか、なぜそういう問題になるのかというと、その間を見ていないからです。声だけを見ていても、体や呼吸は変わっていきません。出だしの「誰も」から全身で構えて入っていると、そこで動かそうとしたときには体の方から動いてくるのです。それはイメージの問題と体の問題と思います。 優れた歌い手というのは、自分で歌っているのに、退屈してくるのだと思います。だから、創造する。「明日があるさ」とか「マック・ザ・ナイフ」などは、同じメロディの繰り返しです。そこで何か変えなければもたなくなる。そういうところに敏感になれば、そこで何かを起こして、それを結果的に収められるようになる。自分の練習では、そういう責めぎ合いをやっておくべきです。 出だしの「誰も」の部分を、10回くらい繰り返して、そこから歌が始まるくらいの完全さを求める時期があってもよいでしょう。【とりくみ AB 02.6.13】
○方法論の消費者「行かないで」(パトリック・ヌジュ)
この前もパリ祭というのがありました。これは日本だけ、石井好子さんがプロデュースしています。パリ際にはこの方が出ています。昔はこういうものを聞いても何とも思わなかったのですが、今になってみれば、聞き方がわからなかったのかもしれません。歌はこれで全てなのです。 皆さんのそれぞれの好みも違えば、やりたいことも違う中で、授業で何を伝えていくべきかというのは難しい問題です。それを補うためにEi塾などをおいているのですが、でも一番足らないのは本人の目的がはっきりしないことです。今はそれをはっきりさせるために、3年くらいかかってもよいという気がしています。
いろんな方法論が世の中をにぎあわせています。たくさん選ぶ特権があるのは、よいことです。しかし私は、これ以上方法論を出しても仕方がないという気がします。方法論は、それを使うことによって早くできるようにしようということです。そこで、そのことを深くできるようにしようとか、自分の表現の世界をより確実につかもうという考えにおちています。これは日本の悪いところだと思います。
たとえばバルバラのような歌い手が10代の頃に日本にいたら、たぶん日本のヴォイストレーナーからはその歌い方を否定されると思います。そうすると個性が一つ消えてしまう、その辺は昔から危惧してきたことですが、今はそれが逆になっているような感じがします。個性的っぽければ何でもよい、ではないでしょう。 この前、シンポジウムのとき、ある先輩が以前のスタジオに移る際に「建物が立派になったことで何か失われるものがあるんじゃないかと心配した」といっていたのです。スタジオが立派になったり、よい先生がたくさんいるからと、必ずしもよくなりません。 本来、何かを勉強したいという人にとっては、そんなことはどうでもよいことでしょう。いや、よいことのはずです。今は学びたいという皆さんの考え方が消費者的になってきている。要は、自分がやりたいというよりも、やっている人をみにくるお客さんのようなのです。
○表現の原点
Ei塾では、ドリアン助川さんの原点でもあるアウシュビッツ、島唄を作った宮沢さんの原点、沖縄のひめゆりの塔に触れた。彼らには、そういう原点があり、それをどういう形で表現するかという目的がある。どこの学校にも行かずに自分で活動をやってきた人です。 ですから本来、スクールや研究所に頼ることがよくないのです。でも使うのであれば、そこで何をするのかということを明確にしていくことです。
たとえば、バルバラを見てああいうふうに歌ってみたいと思っても、単に歌真似をするだけではダメです。自分のステージのイメージをどこまでしっかりと作れるかということが大切になってきます。そこの創造性です。 ところが多くの人が研究所の方法論を教えてもらえば、何とかなるんじゃないかと思っているのです。そんな考え方では何ともならないということです。
ここの財産というのは、勘がよくて器用で、高いところも出れば大きな声も出るような人がいることではありません。自分のオリジナリティがわかっている人、どことだったら音楽と接点がつくか、自分がどういう世界を出せば、人に価値を与えられるかということをわかっている、それは自分にしかできない世界でないと勝負できないということを、充分知っている人のいることでありたい。
○自分の武器
素人全盛の時代では、基本的なことをやったり、体から作っていると、歌はそう簡単にはうまくいかなくなる。それが基本です。もし2年だけで上達しようと思ったら、もっと早く上達するやり方がある。でもそれが限界となります。また、そのくらいのことはもう10代でできている人も、既にやっている人たちもいる。 研究所に入ってくると一時、わからなくなってしまう。それはよいのです。ここにいるのも辞めるのも自由、どこかに答えがあると思って出てやればやるほどわかった気になるだけ、こういう世界はごまかされやすくて、余計に本質は見えにくくなるのです。
ここで伸びた人というのは、自分でいろんなことを徹底してやった。そして、自分とは接点がつかない、自分では実感できないからと、ここに来て自分の器を壊していたのです。それまでの自分のものを壊してみなければ、本当の自分の個性も自分の武器もわからないからです。
○やれるためには
世の中は正当のものだけが全てではない。特にこういう世界では、常識を壊し、普通の人とは逆のことをやってきた人しか残らないと思います。でもそれがわからないのであれば、こういうところには習いに来ない方がマシだということです。それをわからせるためにEi塾を置いているのです。もちろん、なかなか伝わらないようです。最近は「昴」という漫画など、そういうもので少しでもわかればよいだろうということで紹介しています。
たとえば、部活動などでもその中で本気でやろうという奴がいたら、周りで適当にやろうという奴は辞めざるをえない、ところが本気でやろうとする奴が辞める、この国ではそうなるから、人材が教育で育たない。人間の世界は“関係”ですから仕方ないのですが、本末転倒する。自分の好きなことでやってしまうと、いつか自分はやれると思っていながら、いつまでたってもやれないことになってしまいます。 今の若い人たちにいっておきたいのは、皆さんが普通に考えて正しいと判断したことが、自分のためにならないようなシステムに既に組み込まれていると思った方がよいということです☆。 たとえば、中国とか韓国の若者に会うと、日本人との違いがよくわかる。彼らは自分の好きなことを24時間やっています。そうでないあなたは絶対に適いません。それは仕方がない。豊かな国に生まれてしまったがための不幸です。ただ、そういうなかにも日本にも1%から5%くらいの人材はいる。ただ音楽の世界から、遠ざかっていっているのが残念だと思います。
思考、方法自体を変えていかないとダメです。そういうところが物事を人に習いに学校に行った人の弱い部分だと思います。1から2を作るより、ゼロから1を生じさせる方が大変なのであって、ゼロから1を生じさせることを知っているのがアーティストでしょう。ましてそれは誰かが教えてくれるものではないのです。
○出口をみる
歌もスポーツなどと同じです。体を鍛えている時期には、プレーは必ず下手になります。声のことを真剣にやっているときは、歌が歌えない場合もあるのです。でもその前に、自分が今までうまいと思っていたものを、本当にそうなのかと、もう一度見直さなくてはいけないと思います。一時、歌が下手になったといっても、そこで判断してしまうからいけないのです。まず歌がうまいということがどういうことかという定義が必要です。 皆さんがやりたいのはステージや舞台でしょう。歌だけがうまくなっても仕方がないということをわかっておかなくてはいけないと思います。研究所を出ても、音を当てていく発声とか、きれいに歌う発声や、元の歌い方に戻ってしまう場合が多い。それではあまりに意味がないということでしょう。
今は中学生や高校生の頃に私の本を読んできます。ここが入口のように考えている人が多いのですが、ここは出口の前に作りたいわけです。入口として入ってきたつもりで、そこはまだ入口のまえです。そこで、あとからどうしたらよいのか迷っても仕方ありません。はっきりとさせなくてはいけないことは、自分で自分のことを引き受けるというあたりまえのことです。 先ほどの見せた二人というのは、発声として評価されるのではなく、歌い方が雑だったり、声が息だらけでも、その線で何を描き出すかというところで勝負していたでしょう。
○見本とアドバイス
間違えてはいけないのは、最初から声がよかった人、あるいは日常の中をそういう感性で生きていた人がやったことを、自分がそういうふうに生きていないのに、どんなにそれをやりたいと思ってやってもやれない、その作品は見本にはならないということです。J-popでも、発声なんて大したことがなくやれている、でもやれているからよいのです。あなたが人前でやろうと思うのであれば、そういうふうに考えた方がよいと思います。
私が今わかることは、自分よりも優れた人が見ていることを信じて、そういうアドバイスに素直に従って叩き込んでよかったということです。あなたがどんなに自分を客観的に見たつもりでも、そういう人の方が見えているのです。ただ誰もそれを示して、責任をとるだけのところまでできないから難しいのです。 今、私は自分が動かしていこうなんて考えていません。要は人を動かせる人を動かせる力をもっていればよいと思っています。私がいろいろと他で体験したものを皆さんにも還元できればよいと思っています。
○イメージと成り立ち
今皆さんにやって欲しいことは、「ミミファミミ」を一つにつかんでイメージして出すということです。こういう基本の勉強のときには、イメージすることに流されてしまうと崩れてしまう、最低限の声量は必要です。 基本のことをやるときには、できるだけ大きく作ってください。大きく出せないと小さくすることができなくなります。 レッスンというのは、気づかせるためにやっていくわけです。少しずつこういう形を与えてやってみます。ただその形が一番よいというわけではありません。
ここで聞かせるヴォーカルというのは、こういうタッチもあるという一つの例にしか過ぎないということです。これが合う人も合わない人もいると思います。合う人はどんどん聞きこんでいけばよい、合わないと思う人は、そこに距離をおいてもよい。それは自分が決めていくことです。 どんどん慣れてくると、何となく声が流れてしまいます。ここに息が流れていたら表現になるのですが、息が流れていないと表現にはならないのです。そこで自分のイメージができたかどうか、そのイメージに対して声が伴っていたかどうか、あるいはそれが人に伝わる価値のあるものなのかどうかを、自分で客観視しなくてはいけないのです。
そのためには音楽をたくさん入れておかなくてはいけません。そうやって客観視能力をつけることです。歌えている人というのは、知らないうちにこういうことをやっているのです。次はそれをどこまで厳しく見ていくかという問題になります。 日本からは本当にこういう歌がなくなってしまいました。アメリカなどにもよい歌がたくさんあるのですが、どうしてこういう曲を使うのかというと、自分が成り立っていないということがはっきりとわかるからです。自分が触れてきていないもの、嫌いなものとか苦手なものから勉強する方が、逆に自分を知る一つのきっかけになることが多いのです。 皆さんもここでいろんなことができるのですが、まだまだ雑で、イメージ、つまり出口がいい加減なのです。こういう練習では、何かを決めてやってみたり、自分で意識してやってみることが大切です。【とりくみ ※@ 02.7.11☆】
○練り込み、落とし込み
シャリ・バッシーは、余計なことは一切していない。ヴォーカルに必要な要素をとてもよくわかっていて、そのままに出している歌い手です。 たぶん日本人もその世代に人は、こういうふうに歌いたかったのではないかと思います。しかし、なかなか見えないところに素晴しい力を持っている人です。深い声をもち、自由な練り込みができます。決して声を離しません。ところどころ声楽的に声量でもっていっている部分もあるので、そこは抜きにして考えてみましょう。
私が題材にするのは、つのだ☆ひろさんの作品“般若心経”です。余計な飾りをつけていないのです。彼のフィーリングとか、こういうものが自分の音楽であるべきだと思っていることは、いつも余分、こう歌えるのだから日頃からこう歌ってくれると、私はファンになれるのですが…。もちろん、日本のお客さんの感覚に合わせなくてはいけないという部分もあるでしょう。今日はどこで声を運んでいるかというところを聞いてみてください。 作詞作曲の力で聞かせることと、ヴォーカリストの聞かせる力というのは違うのです。しかし、日本人の歌い手は、こういう練り込みとか落とし込みを歌でやらない。
フレーズの練習というのは、その練習をやっているうちに、いろんな変化が自分の中で起きて、それを受けて変じていくことです。 私は他の多くのトレーナーと違って、ビブラートの練習も、声量の拡大も高音の発声の練習もしないでよいといっています。その分、音楽を本質的につかんで、どう出したいのかということはきちんと決めなくてはいけないと思います。 柱が立っていなかったり、テンポ感がないとか、グルーヴが回っていないというところに、音楽は乗っていきません。それは私だけの価値観ではないのですが、あまりにそうではない音楽が多いのでわかりにくくなってきたのです。
○音の波とのサーフィン「恋の季節」
よく聞くと、「わたしの」の「し」のところとか「の」のところ以外は何もやっていない。何もやっていないのになぜ成り立つのかというと、音楽の波に完全に乗っているからです。 音楽というのは、バンドとかコーラスが波を作ってくれている。歌はそこに自分の感覚で若干強調したり、落とし込んだり、メリハリをつける。つまり、声で音の波に対してサーフィンするのです☆。 そこでは、兼ね合いが一番大切です☆。 歌というのは、第一に自分の体と心のテンポが合っていないといけないわけです。 彼女はこのテンポをとっています。それに対し、自分はどのテンポでやっていくかを考えましょう。 難しいのは、体も感覚も日々変わっていきます。ある程度安定するまでは、いつも感覚が違う。その修正や微調整をその都度やっていかなくてはいけないのです。
○構図と描写
自分の音楽の構図を作るということ、絵を描くということが大切です。 美空ひばりさんなどは、セリフ一つにしても、うしろに伴奏が流れていて、そこで瞬間的に一番よいところで入る。それは才能というよりは、そういう世界の中で他の人が見えないものを深く見ているからです。直感的に入らなくてはいけないところでは、絶対に遅れません。 「悲しい酒」のような曲では、語りの部分も秀逸でしょう。そういう力が、こういう歌の中では問われてきます。 ための部分とか、それを待っての入り方のようなものは、楽譜上には書いていないのです。でもそれをもっているから、伝わるのです。声量や声域の差ではないのです。音楽的な理解と解釈と創造、つまり構図の描き方と、そのイメージのレベルの問題です。それを勉強しないと、どんなに声があってもそれを使えないのです。それが入っていないのであれば、それを入れるしかありません。
○素地
いつも決めつけるのが早いようです。たとえば、最初はこういうのを聞いても全くわからないので、聞くだけ聞いたら、何も考えないでそのまま出す。そこでは、自分に入ってきた線を邪魔しないように出すということがベースです。その中には当然フレーズの流れ、グルーヴがあります。そこにいろんなものが必要になってきます。 声があって、それをしゃべるように使えるレベルの人は別ですが、ほとんどの場合は、力で無駄に歌い上げたり、長短をつけてしまうのです。
あまり先に感情移入をしすぎてしまうとダメです。音楽の大きな動きを外したところで、細かいことばかりをやってはいけません。だいたい、大きな声を張り上げて歌うことが表現していることだと思いがちです。 しかし聞く人はそこに何が描かれているかを見るのです。次に、描かれているものを見てもらおうとするような絵では、疲れてきますから、それが飛びこんでこなくてはいけません。そうすると、相手に飛びこんでいくような部分をどう出していくかということが必要になってくるのです。みんなその他のところばかりをやりたがるのです。
プロは、適当にやっているようでいて、きちんと音楽的な部分を踏んでいるのです。こういう場でやるときにも、常に相手に対して自分のものがどう働きかけているのかということを見ていかなくてはいけません。この部分は、歌もバックのギターもすごく切り込んでいるでしょう。こういうのは適当ではなく、そこでの兼ね合いを計算しつくしているのです。その計算が見えてしまうのではなく、自然の流れの中でうまくやっています。そういうところを聞けるようにして、自分の中にそういう素地を増やしていくことが大切です☆。【「帰り来ぬ青春」@ 02.8.4】
○スタンダードから学ぶ
かつては最初はイタリア語から入って、それを英語に直し、そのあと日本語で歌うというやり方をとっていました。 アメリカは、ヨーロッパの音楽や黒人のものをいろいろとアレンジして作り上げるのですが、音楽になるポイントを二、三箇所つかんだら、あとはどうでもよい、かなり変えてしまうのです。映画でストーリーを変えて、最後をハッピーエンドにするようなものです。ただ、どんなにいろんなアレンジをしていても、最後は歌い手の呼吸に戻して、それを音楽が追いかけるような感じにしています。 こういう曲を使って勉強する意味は、一度やったからわかることを伝えるためです。決して珍しい曲から選んでいるのではなく、世界的にスタンダードで基準に合うからです。スタンダードとは、いろんな国の人たちが聴いて、これを歌いたいと思ったり、これはいい曲と聴いてきたものです。
そのときに考えて欲しいのは、この人は何でも歌えるのに、なぜこの曲を選んだのだろうということです。それはこの曲のどこかに自分が脹らませられる可能性、自分の演奏のできる可能性を見出しているからです。 そう考えてみると、単にわかりやすい歌ではない。その歌をどういうふうにその人が表現しているかという、その可能性を見る。 歌い手は曲に込めているから、曲を聞けばわかるはずなのに、普通に聴いていてもわからない。
楽譜を勉強したり、同じ曲を歌っているいろんなヴォーカリストを聴いて、その違いを勉強してみましょう。 ここはより音楽的にしようとか、こうやるともっと格好よくなるというのは、むしろアメリカ的なやり方です。だからといって歌を壊しているわけではありません。それはよりは音楽にするため、よりグローバルスタンダードにするためのやり方だと思います。
○パッケージ化
音楽が全部パッケージ化されて、歌い手がそれについていっているようなのは日本人くらいです。日頃のコミュニケーションの中で、呼吸で伝えるとか、息で伝わるというベースがないこともあるのです。
○想像力の作品
ヴォーカリストといっても、彼のなかの作曲家とアレンジャーが作っています。多くのヴォーカリストというのは、そこまで歌唱での信念とか歌うものをもっていない、だいたいの場合はいわれるままになって、それがそのまま音楽の結果に出ているのです。今はほとんどプロダクションとかプロデューサーがやっています。 要するに何が問われるのかというと、歌えているか歌えていないかということではなくて、そこの中で誰が一番想像力を駆使して、作品としてのレベルで作り上げているのかということです。それがないとその人の作品になりません。そのためにどういうふうな勉強が必要なのかということを、もう一度考えて欲しいと思います。 最高のレッスンは、CDをかけているだけです。こういう人が歌うのを聴く方がよっぽど勉強になるのです。ことばでの橋渡しもあまりしない方がよいのですが、気づけないと勉強になりませんから、最低限のことだけ、いっています。
○よい作品とは
なかなかCDでよいものがない。美空ひばりさんの歌なども、CDよりもNHKのテレビで歌っているものの方がよいと私は思う。 これは比較的よい、ハードにギリギリのところで歌っているからです。この当時はあまり日本の伴奏者のリズムがよくなく、テンションもかなり違うような気がします。どちらかというとリズムよりもメロディックな感じです。向こうのものほどのテンションもありません。今のレコーディングでは何回もとり直せる。それに対し、この時代、有名な楽団でやるときにはテイクワンでやります。それがよい緊張感を生んで、よい作品ができるのではないかと思います。
○低音の魅力
低音の魅力ということが、昔はいわれました。ただそれは低音がよいというよりも低音で歌っているようにみえるだけで、実際には高い音も出しています。かつては五木ひろしの上のファで高音といわれていました。今では誰でもその辺で歌っています。上のソ、ラも普通になってきました。でも人間の体がそんなに急に変わるわけではない、技術の進歩と趣向の問題でしょう。 そういう意味では、この当時の歌い手というのは、声だけで聴かせている、よい声というのがあたりまえだったわけです。この人は、音大の方からタンゴの方に移られ、アルゼンチンタンゴを日本に普及させました。その当時コンチネンタルタンゴもあったのですが、日本人にはアルゼンチンタンゴの方が合っていたようです。「黒猫のタンゴ」も流行りました。日本のタンゴというとこういうものになります。
○バックグラウンド、叫ぶ詩人の会「東京聖夜」
これは合宿では、せりふの題材として使っていました。研究生の方が声はしっかりしていた。ただ、何をもって上達や、その人ができていくかということになると、彼より声があっても、その声を使うバックグラウンドとか精神的なもの、あるいは気持ちのようなものがなければ、かなわない。その使い道がないと声の伸びも止まってしまいます。たとえばオペラのように基準があれば、日本人はそれを追いかけるのですが、そうでなければ、ほとんどもてあましてしまうのではないかという気がします。 今から思えば、ドリアンさんがこういうものを書き、それを読み上げているところに、誰かが声として読めたとしても、模倣で何の価値にもならないわけです。
○声がなくてもやれるだけのもの
未だにヴォイストレーニングだけをやっていれば何とかなると思っている人が多いのですが、ヴォイストレーニングというのは、本当に10分の1のことであって、全体とともに残りの10分の9をはっきりさせていかなければ、10分の1にもならないと思います。 ところが多くの人は、声を全てのように思っている、つまり自分に声さえあれば出てくるべき内容があると思っているのです。確かに声と他のものは相互作用していくものではあるのですが、声がなくてもやれるだけのものがなければ、どんなに声があってもダメという時代だと思います。
○歌わされない、本質を観る
長渕剛「静かなるアフガン」 長渕さんの曲を使うのは難しい、なるべく彼に影響されないでやってみること。この曲のどこが優れているかということではない。ことばでもっていって、なるべく歌い上げないようにしている。 何をもって歌なのかということになれば、歌わされないで自分自身で歌うことが歌だと思います☆。 そういう意味ではドリアンさんの語りも歌なのです。そこに自分なりの脹らませ方、味のつけ方が必要なのです。狙ってやるとやらしいですが、これだけ正直なことを正直に歌うのも難しいと思います。
発声とかヴォイストレーニングをやりにきたのに、なぜこんなことが必要なんだと思う人もいるかもしれません。本当に自分の声を正していきたければ、本質をみることです。自分で詞を作るのは大変でも、こういうものを使って、自分で直しながら歌っていくことをやって欲しい。そうすると、だいたい自分の中に通じるものなどいくつもなくて、そう何通りも歌えるわけではないことがわかるはずです☆。
○自分で作ってみること
とにかく自分が作る方に回れば、他の人がどう作っているか、どう歌っているかということが少しは見えてくるのです。ここではたくさん聞きなさいといっています。聞いて分からないならば、とにかく作ってみることです。そういう構成が自分の入ってくると、ここでは落とさなくてはいけない、ここからは盛り上げなくてはいけないということがわかって、プロがやっていることをやっている立場から捉えられるようになってくるのです。 最近は歌から入らずに、最初は詞を朗読をさせてみたり、歌詞を読ませています。歌では判断が難しいからです。何でもよいから即興で作ってみることが大切です。 誰かの作った曲をそのまま歌うということは、スポーツでいえばすでに負け勝負です。そこには駆け引きも勘を磨くこともありえません。【基本☆ 02.10.3】
○方法でなく、オリジナリティ
方法論というのは各論、つまり個別なものです。一番簡単なのは、一度その感覚に入り込んで、それが蓄積するのを待つ。そのためにはすごく時間がかかる、どの先生のやり方がよいとか悪いということではなく、それに合う人もいれば合わない場合もあるということです。ただ結果的には、どれを使おうがそれをどのレベルで使うかということであって、自分がそれをどう感じたり、気付いたりするかという度合いの違いになってくるのです。
よくレッスンでわからないといわれる。そんなに簡単にわかりたいのであれば、みんながわかるようなレッスンをします。でもみんなが簡単にわかるということは、全員がわかるレベル、そこが最低限になる。でもそれは決して自分の感覚が深まっていることでもなければ、何かが得られているものでもありません。そこで誰も得られぬ気付きを得ることが一番大切なのです。 できればクリスマスライブなどで、彼らの違いをみる。4人もいるのに上手下手よりも、その中でそれぞれのオリジナリティが違うということを感じるでしょう。どこまでいったらそのことにあなた方が納得するでしょう。たぶん最初から五秒もかからないと思います。それがオーディションでいうと、合格のラインなのです。
これは忘れないで欲しいのですが、ここのオーディションでの600点というのは、他の学校に行っても、わんさといるということです。トレーニングをせずに20歳にも満たない人の中にも、そんな人はたくさんいるのです。ですから、そこまででよい成績が出せていないことは忘れない方がよい。 習い方でなく、そこまでのところというのは、テンションの高さとステージの見せ方でできる部分です。そういう意味では、彼らと同じステージで、同じセッティングで、同じ音響で、自分との違いを見てください。
お客さんが暗い、お客さんの乗りが悪いなどという人がいたのですが、それは明らかに間違っています。今のコンサートは最初から観客参加型になっています。歌うまえにのっていてくれる。そういうところに出られる人はそれでよいのですが、そのための力は、全員がシラッとしている観客の前で、歌でみんなの心を一つにし、面白いなと思わせ、お客を動かしてきた経験によるのです。
○曲の行きたがるところへ
最近はいろんなレッスンを置いて、焦点がボケて散漫になっているのでしょうか。 一番大切な部分のことをやってみようと思います。頭でわかろうとするから無理なので、そんなに簡単にわかるはずがない、こちらもわかっていないものを、そんなに簡単にはわかるものではない。 要するに、曲がどちらに行きたがっているのかをよくよく聞くことです。そこで下りたがっているのか、飛躍したがっているのかということを捉えなくてはいけません。そういう意味では、こういうふうに単純に歌っている人の方が、単純に捉えられてよい。
あとは間の問題です。ことばで「許すといっておくれ」からやってみましょう。 音楽の基本構造としての柱をきちんと捉えておけば、そこの他のところはそんなにしっかり取る必要はない、動かしてはいけないところを動かしてしまったり、動かしてもよいところをそのまま歌ってしまうから、何も出せなくなってしまう。このフレーズが短いと思わないこと、ここでもあなた次第でいろいろなことはできる。 テーマの「変わらぬ愛よ」のところ以外は、全部同じ構成を取っています。その中でどういうふうに置いていくかということが問題で、それはそれぞれの人の感覚によるものです。私が外から説明することはできません。全く同じメロディで「誰にも渡したくない、何にも変えられない」のところをやってみます。
○デッサン力
なるべくシンプルで歌わないようにといっている。基本的な動きを作ったあとは、そんなに動かす必要はない。最初に型を取るのは、あとから自由度を得るためです。その型を楽譜から取るのか、リズムから取るのかはそれぞれの解釈による。ただ、歌い手がフレーズを動かしている部分は、その人の好みで、そこは真似する必要はない。真似をしてしまうと、自分の呼吸とずれてきます。そこだけ歌わされることになります。 次は別の曲でやっていきます。「朝露の中に消えた」 昔は「冷たい」とか「イェリスィ」を使ってやっていました。頭の中で「き」と「え」と「た」をどこの音符で置こうかと考えてしまうとダメです。それを外さないと動いてこないのです。そのためには、こういうデッサンの作業を何回もやっていく。人のデッサンをたくさん聞いていくことも大切です。
次は「消えた」だけをやってみましょう。そこは日本語でなくてもよいです。「サッセーラ」「消えた」 こういう部分が一番基本です。ここの2年間で「セレーナ」の4フレーズの半オクターブをきちんと出せたら、それは100人に1人もいないくらい大変なことといってきました。要はいくら絵ばかりを描いていても、デッサンの練習をしなければイメージができない。もう一つは、何でも描けといわれれば誰でも何かは出せる、そこに音楽やことばが乗ってきたり、情感が乗って、人に働きかけられるものが必要です。それを力でやっても、計算してみてもダメということがわかって、そのうちに体の知っている部分で心をもってやらなくてはいけないという結論になるのです。
○分析の限界
最近は理論書とか解説書とかがたくさん出ていて一見、便利なのですが、何でもビデオを分析したらうまくなるわけではない。確かにビデオを分析するのはよいが、あくまで参考程度で、いくら真似しても絶対に無理なのです。体が感覚として覚えていないものをいくら理論や理屈でやっても、自分の体に落ちてこないからです。ただ、一つのやり方と試みるのはよいし、使わないよりも使ってみた方がよいと思っておいてください。 ここにはいろんな先生がいて、たくさんの教材がある、材料としてはいくらでもある方がよい。ただ、その中から皆さんがどれか一つを選んで、その一つのものを100も200も自分自身で深めていかないと、何にもならない。10個の材料を10通りに使ってみるだけでは、そこから何も得られてこない。
感覚は勉強するにも、受け取る方の準備ができていなければ、何も伝わらないのです。そのために自分の体のこと、感覚のことを知らなくてはいけません。プロのアーティストでも、その人に入っているアーティストによってもずいぶんと違います。彼らが学べるのは自分のことをよく知っているからです。 たとえば、声がなくてもタッチやデッサン力に優れていたり、センスやリズム感があれば歌は成り立つ。特に今のラップなどは普通の人の声と違いがない。それをどう使うかはその人のステージングに対する考え方によります。
○経験の蓄積、リズム
ただ、ここのレッスンの材料に関しては、誰もが蓄積されていくようなもの、あえて皆さんが後に動きを作りやすいものを選んでいます。これはわかりにくいものですが、長くやっている人、深いところでやれている人はどこかで気付いたもの、頭で気付くものではないから難しいのです。そこを間違えてしまうと、絵を誰よりも描いたのに全然うまくならないということになってしまいます。 絵を描いているうちにデッサンがよくなってくる人もいるように、ステージで発表をやっているうちに感覚が正されていく人もいます。基本的には発表でもレッスンでも、個人で責任を持つということが大切です。そこで雰囲気が共有されていると、かえって鈍い感覚の中に入っていくことになります。メンバーの中によほど優れた人がいないと、成立しないからトレーナーがいる。リズムを作るということと、感じるということと、単にリズムを叩くということが全く違うように、その中にはいろんな段階があるということです。
この曲を使ってやりたいことは、日本人のリズムというものを逆に考えてみること。たとえば、頭から1234と取るのではなくて、4123、4123で入るということをやっていきたい。エメラルドの「エ」から入るのではなく、その前に入っておく。最初は違和感があるかもしれません。しかし、慣れてしまえばその方が歌いやすくなります。そういうふうにやろうとすれば、そういうふうに聞こえてくる。「恋の夢を見つけたのよ あなたの腕の中で エメラルドのステキな海を知ったの」
○チャンスと見方
今はあくまで感覚の勉強ということで、ここはノンブレスでとか、ここは切ってみてくださいといいました。本当はそのあとにどういうデッサンがここに回っていたかということをつぐことが大事です☆。 他の授業でも同じことがいえるのですが、そこで少し接点がついたと思うところをそのあとやって何かを得る、そういう部分はチャンスなのですから、きちんと埋めていくことです。理屈で考えても、歌というのは一秒、二秒の積み重ねなのです。最初の一秒二秒が持っていないところに、あとでどんなものを乗せてもダメです。 最終的にはいろんなやり方も、方法論もある。しかし、1アーティストの優れた部分の感覚を自分の中に叩きこんでいって、その感覚が勝手に動き出すところまで待つしかない。最初から整理してしまうと凡庸なものしかできない。最初は好き勝手に、自由にやってもらってよいが、前に出すことと、内なる自分の中の世界を見ていくことは、きちんとつなげておかなくてはいけない。あとはそのイメージが体に特化されて、自分の無意識の中に出てくるまでのプロセスを経ていくしかありません。これは時間がかかることです。
全員がわかったこととか、みんなが知っていることは、ほとんど自分自身の武器にはなりません。世の中には器用な人、歌える人がたくさんいます。ただ、そのステージを繰り返し見ることができるのか、他の人たちに働きかける要素があるのかという部分を見ていくことが必要です。そこでプロと自分との違いを感じてください。このなかでは、そんなに差はないのです。声もそんなに変わりません。ただ、できる人は音楽の整理の仕方の部分で、いろんなパターンを持っているのです。それに対して、ほとんどの人はワンパターンです。観客はステージを統合されたものとして見ます。そういう部分を見てください。【ガラスの部屋 @ 02.11.8】
○フレージング
最初、まだ聞いてもわからないうちは、音の変化を注意しながら聞いてください。音の世界が見えていなくても、結果的にできていればよい。優れている人は、みんなそれ以上のものは見ていると思ってよい。「サッセーラ」 この中にも三つくらいのポイントがある。その一つでも取れていたら自信にしていけばよい。それが単に大・大・大になったり、大・小・大にしかないということであれば、それは捉え方の違いです。 何が違うのかというと、音を耳で聞いてその音を出そうとして、間違えてしまうのです。聞くのはイメージであって、イメージを出そうとしたらこの音になっているというふうにやりたい。皆さんの方が彼よりも歌いすぎている、よけいに鈍く、粗を見せて下手になっている。その辺を比べて聞いてください。
この最後の「ラ」を外した感覚とか、「ラ」が創り出した動き、あるいはその離し方の鮮やかさみたいなものが相手に伝わる。そのためにその前の「サセ」があるのです。もう一度やってみましょう。「サッセーラ」 先ほどよりもよくなってきたと思います。こういうことを繰り返していくと、50点くらいは取れると思います。このフレーズで、この声を取ろうと思うのと、大きさとか速さ、さらにここのイメージを取ろうと思うのとでは全然違ってくるのです。 イメージを取るというのは一番伝えにくい。どんなに自分はこういうイメージでやったといっても、それが共有されなくては意味がありません。皆さんはここに来るまでにもたくさんの音楽を聞いてきたでしょう。ある程度は入っている。ただ、空回り、ふかしすぎたりしている部分があります。それを自分でわかっていけばよい。
○デッサンと味
この人の歌唱力は、たとえば、フレーズの中の二つの音の離し方のところに、少しためを置いておく、そこに全部共通した彼独自の残し方がある。この曲はそこで勝負している感じがあります。またそういう部分が生かされやすい曲だともいえるでしょう。 こういう歌い方を適当な歌い方だと見ればそうなのですが、ただデッサンの描き方がしっかりしている、色のつけ方がすごくきわどい、感情移入のこととか自分が歌を動かしていくという部分を勉強するにはよい材料です。 歌い手が最初にあたる問題、自分で歌っているつもりでいても、楽譜を歌っていたり、歌わされていたり、声が届いたとか、歌詞がうまくいえたとか、感情移入ができたとか、単にそういうことにおわることです。これは誰かのまな板で踊っている鯉のようなものなのです。
歌でも台詞でも、自分が主体的になって、ここはこう動かしたい、こう切りたいという意志が出てきたときに、必ずうまくいかなくなります。それは、自分が押さえ、動かせていない、つまり、自分の扱えるものと違うからです。そこで初めてその人のずれやその人の味が出てくる。そういうパターンをたくさん入れていくと、自然に出せるようになる。まずはたくさん入れなくてはいけません。最初は入れながらデッサンしていく練習が必要なのです。「二度と帰らぬ」 こういう課題になると、誰かはピントが外れているけれども、誰かはだんだん近づいてきたということがわかるでしょう。他の人の出したものがとても勉強になるのです。本来息とか体、音感やリズムの必要性というのは、こういうものをやってみたときに、自分の思うようにできないというところから生まれてくる、その上でCDを聞いて、優れた人の歌を聞いていくと、そういう感覚が少しは自然に入ってくるようになります。
○レッスンの成立
普通は、最初は意識して聞かないと、優れた人間があたりまえのように聞いて、それを理解もせず認識もせずに体に入れて、しぜんにやれていくことを詰められないのです。そういうものを才能、センスや経験と呼ぶ。で、その捉え方を学ぶのが、レッスンです☆。 彼は最後のフレーズの離し方を詰めています。それが逆にうまく働いています。そこが音楽の面白い部分です。フレーズはしっかりとしていなくてはいけないのですが、ところどころのこういう癖とか、乱れた部分が出てくることは、決してポップスの歌にとってマイナスにはならないのです。前のところをつけてもどちらでもよいですが、もう一度やってみましょう。
「ケボレカ ステムジカ サッセーラ」
イタリア語もカタカナに聞こえてきます。それがよくない。「想い出を沈めて」のところをやります。イメージを明確にして、フレーズの役割を自分なりに解釈してください。考えてやるよりも、単純にやっている人の方が伝わるところがあります。感じたイメージの方を優先させてみてください。「川よ」から「何を求めて」に入る前のところまでをやってみましょう。「流れていく川よ」「ケトュビダービー」 レッスンが成り立つというのはこういうことをいうのです。今年でいうと私のレッスンでもわずか三回目くらいです。要は、それがよいとか悪いということではなくて、自分がある程度デッサンできて、他の人のデッサンも見れることが成り立つということです。結果として大切なことは、今出したものが作品なのではなくて、作品の第一歩なんだということです。そこを間違えてはいけません。 考えて欲しいのは、これはどう変えられる可能性があるのか、これをどうしたいのかということです。それをやらなければレッスンの意味がないのです。場が成り立っていれば、他の人のもいろんなヒントになります。
○動き出す
歌というのは本当にこの繰り返しなのです。先ほどからやっているようなフレーズが歌の中で一箇所か二箇所出ていれば、あとはつないでいくだけでだいたい成り立つのです。ところが歌一曲、それがどこにも出ていないということです。その部分がなければ、どんなに正確に歌ったとしても、何も伝わらないのです。 これが最初の一歩、今ここでやったことを詰めていくことが大切です。これを忘れてしまったらステップアップはできません。ここまでのことというのは前提なのです。今はお互いのデッサンらしいものが出てきているくらい、まだデッサンまではいっていないところです。
たとえば、今日の始めにやった「サッセーラ」だけでもよい。そういうことを一時間ずっとやってみる。「ハイ」とか「ララ」でもよいのですが、そこからの動きが皆さんの中で起きてこなければダメです。今日のレッスンは、めずらしいことに全員1、あるいは2のステップに乗っていました。ただその1と2のところを、10にするためには自分はどうすればよいかということを考えて欲しいのです。 イメージで作るのです。それをやることによって自分の勉強にもなるし、他の人の勉強にもなるのです。勉強とは働きかけです。それを一つ聞くだけで、その人の持っているものや才能、その人のベースに入っているものまで、全部わかるようになります。そこが一番大切なことです。
○レッスンで感動させる
レッスンに来るときには、周りの人を感動させたいと思って来てもらうと一番よいと思います。こういうアーティストの力を借りながら、というのもそういう意味です。これをそのまま真似していくとのどを壊しかねません。徹底的に欠けているものは声ではなくて、自分の思いとイメージ、またこの曲をどうやりたいかということ、そこに強いものがあれば、声なんてあとからついてくるのです。若い人の歌にはそれさえあれば成り立ちます。お客さんも歌に技術を求めているわけではありません。「流れていくケトゥビダビー」 イメージを持っている人というのは強い。それはいろんなアイデアを持っているのと同じです。5パターンでも10パターンでも全部違うようにやっても、その人がやれば全部正解になってしまう。ただ、基本的にはどれかを選んで一つの歌い方でやる、ミルバあたりでは、本当に外さずに歌う、そのどちらを取るのかは別だと思います。「孤独な心が」一流の人というのは一流の優れた歌を聞いて、こういうことだけをやっていた。自分がどれだけできているかということは見えにくいから、周りの人を通して、鏡のように自分の悪いところやできていない部分を見つけることも必要です。その上で、自分がより優れたいと思うのであれば、イメージとそれに対応できる体が必要です。それには自分よりも優れている人たちの感覚を入れて、そこで判断していくしかありません。だいたいの人にいえることは、優れた歌もたくさん聞いて、周りにも結構優れた人はいるのにできないなら、自分との接点がつけられていないのです。
○瞬時の判断力
こういうレッスンで身につけて欲しいのは、こういうものをパッとふられたときに、自分はイタリア語でやった方がよいのか、日本語でやった方がよいのか、ここで切った方がよいのか、まだ続けた方がよいのかということを、瞬時に判断できること。どんなときでも、自分の最大の力を発揮できる形にして出すことが大事です。そのための編集の仕方や切り取り方を考えなくてはいけない。キィの設定やテンポ設定についても同じです。
とにかく今日のレッスンでやったことを、もう一度自分なりに詰めてください。たった一箇所でも深い感覚になってみると、他の所がどれだけ浅いかがわかります。それだけでも聞き直してみると違ってきます。そういうことを繰り返していくことです。 あまり上達しない人というのは、自分がすごく強いのです☆。こういう世界においての鋭いか鈍いかということでいうと、鈍い部分の方が強い。自分でありたいというところにいるから、なかなか舞台にはならない。
問題は、今日やったようなことをそこから詰めていけるかどうかということです。ほとんどの人が大雑把なままなのです。もし皆さんが外で勉強するのであれば、すごく音にうるさいギターリストとか、リズムにうるさいドラムと一緒にやる。すると自分にもそういう判断力がついてくるかもしれません。楽器の世界は音に厳しいのに、ヴォーカルに対しては音の世界にうるさくいわないので全然伸びないのです。詰めていく作業は自分一人でもできることです。それぞれでやってください。【ガラスの部屋☆ AB 02.11.21】
○内容とフレーズ
歌唱する場合には、常に二つのことをやる。一つは音楽なりその歌の内容面のこと、もう一つは自分のフレーズのことです。これはよくいっていますが、音楽的にやろうとすると自分が抜けてしまい、自分を出そうとすると、音楽的にならなくなる。それを最終的には自分に音楽が入ってくるまで待つしかない。その中でも、どちらを優先してやらなくてはいけないかという判断力をその折々でつけていってください。それは一人ひとり違うことだからです。 本来は自分に入っている音楽が自分のものであればそれでよい。しかし、音楽というのは一つの論理的な構造の上に成り立っている。そこでずらした部分として自分のものがあればよい。ところが、歌をそれでやっていくと難しくなってしまう。自分のメッセージや自分の声でやっている部分を、どのくらい音楽と合わせられるかという形でやっていく方が早い。
○音楽と呼吸
音楽的なところに呼吸を合わせるというのは、高いレベルからいうとダメですが、普通の練習のレベルで見ていくと、音楽に呼吸を合わせて何が悪いということになるのです。もちろん、自分の呼吸で出したものが、すでに音楽になっているというのが一番よい。 もちろんアンサンブルなど人と何かをやっていく上においては、合わせるところから勉強していくというのも一つの方法です。 たとえば、ドラムを練習するときも、自分自身で完成させてから人と合わせるのが本当は筋です。ただ、最初は上手な人と合わせながらやっていくと、あるところまでは早いのです。ただ、人のものに入れば入ったほど、あとでそこから出るという作業をしなくてはいけません。音楽の場合は、そこをわかっていない人が多いのです。
○まねする力とできる力
アマチュアのトップくらいのレベルというのは、どれだけ優れた人に合わせられるかということです。日本人というのはそこまでには優れた才能を発揮します。クラシックのコンクールなどでも、優秀です。 ところがそのあと表現力、オリジナリティがないといわれる。そして、どこにも活躍する場がなくなってしまう。最初に手本を壊すという頭があって、それを真似するのはよい、しかしそれを真似するのがゴールだと思ってしまうから、間違えてしまいます。
そういう意味でいうと、ここのレッスンはそのどちらかでやってくださいということではありません。音楽の基礎を入れるということが目的なら、それでよい。音楽になっていないものには自分の表現なんて乗らない。 路上でやっている人たちは、やるだけやって自分の表現が音楽になるまで待つ。 このレッスンでは、どちらの要素が強いのかをお互いに見ていったり、各自で判断していくことが大切だと思います。 よく何がわからないのか、何ができていないのかが判れば、一人前だといわれますが、そうするとできないことをやらなくなるからです。自分に合った選曲やテンポ、キィを選べるようになることも重要なことです。
○刻む「我が祖国南の地」
今は表現つけをするのではなく、刻むところできちんと刻むことが大切です。「地」でいろんなことをやってしまうと、次のところには飛べなくなります。ビブラートが悪いわけではないが、ビブラートを適当につけてしまうと、そこでぼかすことになり、次の動きが出てこなくなるのです。 次の「想い」のイメージがあって、そのためにはその音で少し押さえなくてはいけない、そういうところを聞いてみてください。「地」をもう一度取ってみましょう。
「地」から次の「お」に間に合わせるためには、「地」といったあとに、その位置に「お」がいっていなくてはいけません。それが早ければ早いほど「地」を余計に取ることができます。「地」を長く伸ばしたら、次の呼吸は短くなる。「地」を早く切ってしまえば、そこに間が取れるのです。次をゆっくり取りすぎると、そこのテンションが下がってしまう。ですから、その前のタメ、支え、準備が必要で、そこでだらしなくなってはダメです。
○柱「想いは遥か」
音楽の構成とか柱を立てる、たとえば次の「イムジン」までに、そこに入れる準備をしておかなくてはいけないということです。それが崩れています。それは配分の問題でもあるし、最初の構成の立て方の問題もある。見せるべきところは、その呼吸とか感覚の部分で、「イムジン」の部分がもたついてしまうと、フレーズ自体がもたなくなります。歌う部分は本当に少しでよいのです。 全部を歌おうとすると、余計に重苦しくなったり、聞き苦しくなったりします。そのために上昇感とか浮遊感が必要になるのです。それは聞いている人にどう感じさせるかという問題になって、そのためには本人たちがデッサンをしなくてはいけません。
○特化する「イムジン河」
こうやって人のフレーズをたくさん聞きながら、自分の判断を養っていくことは大切です。歌がうまくなることというのは、声が出てくることではない。人になぜああやるんだろうとか、そういうことを感じさせないことをやれればよい。それには、自分のできるところで価値をつけるしかない。できないところをやたらと出しているようではダメなのです。オンするということは、自分のできるところをより特化して出していくことです。 こういう人でも、プロの歌唱です。皆さんよりも声はなくとも、声があるとか声量があるという感じは、プロの力とそんなに関係ありません。 ヴォイストレーニングや発声が間違えやすいのは、そこにどっぷり浸かってしまうからです。そこから考えてしまうのです。それよりも現実の歌唱から考えるべきです。自分よりも声がなかったり、トレーニングをやったことがない人でも歌えている、つまり自分の武器をもてあましていることになるのです。武器というのは必要があるところまで大きく使えれば、あとは小さくした方がよい。次は二番の歌詞で同じところをやってみます。「誰が祖国を二つに分けてしまったの 誰が祖国を」
こういうフレーズでは、どこに自分の想いを入れていくかということを決める。声量がなくても、音域がなくてもできることです。かえって全部を歌い上げるよりも、きちんと聞かせることができる。彼は「イムジン」のところでも、それぞれ色の見せ方で歌い分けています。その辺は自分を知っていればどうやってもよいわけです。
○色づけ「故郷いつまでも忘れはしない 誰が」
たとえば、一番と二番の歌詞によって、入り方が違ったりすることはあると思います。そういうときは別に他のことばを使っても構わないと思います。この歌を練習しているのではなく、この歌を使って自分のものを取り出す練習をしているのです☆。 今のフレーズみたいなものを、自分できちんと完成させていけばよい。こういう曲を陽水さん、ミスチルの桜井さんが歌ったら、きっとこうなるなというのは、簡単に思い描けると思います。それに対して自分の色はどんな色だろうと、それを見つけていって欲しいのです。
それからこういうことばというのは、何十年経ってもそんなに古くならないと思います。そのときにこの曲の作りからみて、「忘れはしない」を強くすることは間違えということではないのです。そこまでは押さえておいて、次の「誰が」を強くすることもできる。その辺に関しては、どれが正解かではない。その人のスタンスの取り方と、その人の歌唱力、声のあるなし、あるいはテンポやアレンジの問題です。結局、そうやって総合的に曲を作っていく作業をして欲しいのです。
○正解ともたせ方
ですから、この曲の一行だけでもよい。仮にその一行を道端で歌ったときに、お客さんが振り返って自分の歌に聞き入る、そのためには、どうすればよいのかということです。そのときにパッとできるように、ここでいろんなパターンを勉強したり、音楽の動かし方を身につけている。最終的には自分がやりたいようにやったものが正解になれば一番よい。 あまり不正解ばかりを出していてもよくない。他の人たちからのよいところは取る、ここでは他の人の悪い部分もたくさん見ることができます。そこは同じにやらないように気をつけることができる。 自分だけで好き勝手にやっている人は、優れたものと自分との差が判らない。自分ではうまいと思ってやっている。でも本当はそういう部分が一番自分の勉強になるのです。それは何も歌唱力とか実力ではない。少し向きを変えてみたり、少し伸ばし方や切り方を変えるだけでもかなり救われるからです。ましてポップスはマイクが使えます。
お客さんに対しながらやっている人は、たとえ正攻法ではないやり方であれ、外側からの刺激を受けながら、そういうところに自分たちで歩み出しているのです。正攻法をきちんと歩んでは欲しいのですが、仮にそういうものがなかったとしても、歌というものを一曲もたせるためのやり方というのは、いくらでもあるということです。ただ、いろんなものをつまみ食いしても、それは人のもので、カラオケを真似しているようなことになります。でもある意味では、100人の本当によいところだけを取ったら、それは強いと思います。
そういう意味でいえば、プロの人というのは、ギリギリお客さんとの接点を取るような、反射神経的な回避ができる人たちです。たとえば、基本からやっていなくても、レースに出たら絶対に事故を起こさないとか、反射的な動きができるわけです。それはあるときはマイクを離したり、かぶせたり、あるいはバンドに預けたり、そういうことも含めて、相手にどう聞こえるかのところから、プロとして恥かしくないような収め方ができる。これもアマチュアの歌とは違います。そういうところは勉強して、何かのためにはなると思います。 バンドのメンバーは嫌がるかもしれませんが、こういう曲をバンドのロックアレンジでやってみると、結構面白いかもしれません。ただ、ロックとかラップの中でやられていることというのは、ごまかしになっている部分が多いのです。
それをもともと歌っている人の感覚でやっているので、その10分1くらいしかできていなくても、バンドがしっかりしていると、よく聞こえるのです。 それよりも、こういう曲をやってみたり、ピアノ一本でこの歌をどう歌えるかということが、本当の基本の勉強になります。そういうふうに突きつけられないと直るものも直らないのです。今はカラオケでも、コーラスとか拍手とかいろんな機能がついていますから、そういうものを利用して自分なりに勉強してみてください。【イムジン河 A 02.12.8】
○迷わない、迷えない
普段からスポーツなどをやって、全身で受けとめることを体験しておけば、体で捉えたということが少しはわかる。そういうところがあった上で頭で考えてもよい。仮に迷ったとしても、空手でいくかスキーでいくかみたいなこと、そういうところで迷っても仕方がないのです。その辺がずれてしまうと、こういうところで勉強していく部分を間違ってしまうと思います。 今はこれを聞きとる力が欠けているのか、あるいは完璧に聞きとれたにも関わらず体がついていかないのか、ということを自分で見ていってください。歌というのは、そこで相当なかけひきがなされている、それを読みとれなくてはいけない。 「ウンタンゴ」から「イタリアーノ」までをやってみましょう。
「ウンタンゴ イタリアーノ」
ほとんどの場合、テープをシビアに聞いていけばすでに「ウン」のところに問題があるのがわかる。その音色であれば人は聞かない、その固い動かし方ではダメだ、それをどのレベルに設定するかによっても違ってきます。そうやって課題をやっていけば、できないということはわかっても、迷うということはない。 同じ型があるとすれば、ミルバはこうしたかったというのがわかってくる。曲を捉えなさいというと、日本人の場合は必ず音程をとりにいくのです。そういうことは気にしない。彼女は全体をどういうイメージでまとめたのかということ、まずは、そのイメージをとってみるという練習が必要だと思います。 「風よ運んでおくれ」のところは全音で2音だけしかありませんから、誰でもとれるのに歌えない。「風よ運んでおくれ」 それをどうやれば音楽として成り立つものにできるかということです。 今はまだよいが、1、2年くらい経ったときにも、あと10回聞かないとわからない、1日中聞かないとわからないとならないために、今からどれだけ聞きとっていかなくてはいけないかということです。 そこで能力が必要です。 J-popの人は、声と技術がなくとも、感覚や音楽を捉える耳は優れています。そうでないと、あれだけのテンポについていけません。外国人には、なぜそんなに体の生理と合わないところで歌っているんだとなるのですが、それは今の音楽業界の事情、さまざまな事情が関係しているのです。
○本質とは
2年では何も身につかなくとも、5、6年で身につくこともある。昔は声がなければやれなかった。器用に10代で有名になれた人以外は、声が他の人と違わなければやっていけなかった、今はそんなことは全然ありません。声がそんなによくなくても、きちんと自分の作品をもてばやっていくことはできるのです。 そういう意味でも、今日聞かせたバルバラは何年もかけて使える題材です。ミルバのこの曲も5年やっても片づくものではないと思います。
よく発声で迷っているという人がいるのですが、これを聞いたら自分が全然できていないことがわかるでしょう。 やっているうちにわからなくなったとか、うまくいかなくなったという場合ですが、それはそこまでに評価されたキャリアがあれば別ですが、だいたい本筋に入っていない、プロ野球に入ってもいない人が、たまたま打てたとか、打てなかったということで悩む必要はない、本質的な問題とは全く違う。
それくらい今の人たちというのは、何に対しても中途半端、つまり歌だけの完璧主義なのかもしれません。そういうところから創造物、表現なんて出てくるはずがない。 そうなるとミスをなくすという歌い方になって、ヴォーカル教室のようになってしまいます。ここではそれは防ぎたい。このまえのオーディションでも、何かみんな同じに見えるといわれていた。それは、みんなが同じ価値観をもって、同じような発声をしようとしているからです。 その原因は、いらない情報ばかりが多すぎ、その情報を全部集めることが勉強だとでも思っている人が多い。本来情報は使っては捨てていかなくてはいけないのです。自分が自分で自信をもてるように、勉強していけばよいのに困ったことです。
○レベルアップ
私の書庫にもたくさん本があります。ほとんど誰かに対して使うだけのものです。自分のためというよりも、人に語るときにあまりに自分勝手なことばの使い方ではいけないから置いている。プロというのはそういう責任が伴うのです。 その間にいる人は何でもいう。そういうことをいうためには、きちんと裏付けを勉強をしていないと本来は発言できないのに、平気で思い込みでやる。そういう区別がつかない人が増えて、混乱している。 群れたらいけないということではない。誰がいっていることが正しいのかわからなくなったら、作品に聞いてみればよい。その作品が、わかりにくくなってきただけで、あのくらい歌える人たちは日本の中にもたくさんいる。今後はその辺のことを整理したいと思っています。
一番聞いて身につけていってほしいのは、音楽を聞く耳、音楽的な動きの捉え方です。そういうことに関しては、私が語る必要もない、より優れた演奏家から学んで欲しい。 迷ったり悩むこと自体はよいのです。ただ、そのレベルがどこかという問題です。意味のないところで時間を費やしたらどうしようもないということです。 ここもいろんな人がいる。そのことはよいはずなのに、ここ数年はそれがよい方向に向いていない。 フレーズでも、自分でうまくできたと思うまえに、何か実感ができないなという、その実感の足らなさみたいなものをずっと持ちつづければ、上達していくのです☆。
これからの音楽業界のこと、業界内部のことを聞くのは、音楽ファンの質問です。自分がモノを作っていくような人の質問ではないのです。そういうものに集まる人はそういう傾向が強いのはわかりますが、ヴォーカルをやる人ならそういうことは聞かない。音楽評論家になりたい人、音楽をやろうかと後ろの方で思っている人が聞くことです。その辺はプロデューサーにもわかったと思います。
○時間の使い方
要は、同じ時間をどこに割くかということが問題です。時間を割くべきところというのは無駄にみえるところです。一回聞いたら覚えられるという人に、それを100回、あるいは1000回聞かせることは、一見すごく無駄なことです。でもそこから学ぶ、最終的には自分がそこでつかんだものでしか勝負できないからです。 量をやるためには時間が必要です。時間をかけないとできない。もちろん時間をかけたからといって、何かができていくということではない。だいたいの場合は、時間を消費している場合の方が多い。創造していく作業というのは、無駄な時間を繰り返さなくてはいけない。
あまり人に教わることに頼らない方がよいと思います。私もいろんな人に教わってきましたが、いろんな意味で全て役立ちました。ですから、そうして人のまえに出るということが本当に大切なことだと思います。それは音楽をやっている人だけではなく、いろんな人と出会う、そこから、どれだけ学べるかということです。
あとはそれをどこまで広げるか、狭めるかということになります。それはおもしろいものです。一つの世界が決まっているなら、10年間は全くその世界のことだけでよい。でも、全部の分野に関わりながら、そこから刺激を受けている人もいます。それは時間の使い方によっても、時期によっても違ってくることと思います。一人で積み重ねた時間しか本当の価値にはならないというのは確かです。自分なりにやってみてください。【「タンゴイタリアーノ」@ 02.12.12】
○聞き込む
野口さんの長唄世界というのはわかりやすい。師匠と同じにやってみてできない、自分ができないとわかる。そうしたら、より注意深く聞く、よりそこに近づきたいと読み込む。 ポップスの世界でも、自分ができないということがわかれば、わかるまで聞く、感じられないと思ったら感じられるまで待つ。 最近のいろんな質問が、迷っているのは、迷うようなことを問いとして発するからです。問われなければ、やるしかなく、迷いもなくなるのに、どうでもよいことを問うから迷うのです☆。こういうものはやり方ではないのです。
普通はやってもすぐにはできないのです。このイヴモンタンの呼吸に合わせようとする、全て自分の呼吸で作ってやろうとすると、歌が全くもたなくなります。それがわかれば学ぶしかない、ほとんどの場合はそういうこととは関係のないことで止まっている。その状態が自分に宿ってくるまではできない。だからやるしかない、そういうときにやれるのは、音楽を聞き込むことです。 音楽を入れるということで学ぶのなら、それを聞けていないということを知ったり、心や体の部分がいかに働いていないのかということを知るためです。イマジネーションの世界と、そのイメージに対して自分の体がついていっていない、そういうことを知るためにトレーニングがあるのに、イマジネーションがない人にとってみたら、トレーニングが余計なことになる。
最近のアテンダンスを見ていても、トレーナーのことば尻で混乱している、その混乱が収まったら、次はどういう混乱を引き起こすかみたいなパターンになっている、それで学んで習得しているのは頭だけです。 そんなことは本来どうでもよいことでしょう。みんな誰にも教わらずに歌い手になっているのです。ことばに翻弄される必要はないのです。
○音楽を入れるための曲
「バルバラ」と「タンゴイタリアーノ」の二曲、音楽を入れるためにはこういう曲がよい。 声は大きくも出るし、音域もとれるし、歌もうまい、でも、何かその人の歌ではないと感じてしまう場合に、比較的よい勉強になる。両方とも難しい曲なので、自分ができないということがわかりやすいと思います。「ラララ ランララ ラン ラララララララ ランラララン」 一つ目には、正確に音楽を捉えるということ。たぶん今とれなかった部分は、あと30回聞いたら正されてくると思うのです。それを早めるのも一つの力です。音の中の構図というのは、パッと聞けばつかめる、それはあとから気づいてくることですが、音楽というのは、論理的な構造でできている。しかし頭でつかんだり論理でつかむわけではなく、感覚でつかむのです。 自分が作る立場になったときに、どこは変えてはいけないが、どこは変えた方がよいかということを確認するのによい。
たとえば、ここではAとBの構図がみえます。「ランラララン」がA、「ラララララララ」がB、A+B+A、次にB、そのあとに「ランララ ランララ ラン」というCのパターンになるわけです。これを応用と捉えるか、新しいパターンとして捉えるかということになります。そういうことは音楽をやっていれば見えてくる。そういった骨組みがあった上で変えているものは、音楽を壊さないのですが、そこを無視してしまうと、何でも変えればよいとなって、だめにしてしまいます。
ここに2、3年いたら、比較的こういうことには鋭くなってくると思います。その辺がなかなかわかってもらえない。若いプロにやらせてもほとんどできない。それはそういうことを全くやっていないからです。こういうことはできた方がよいというよりも、できなくてはおかしい。耳から入ってくる音の感覚に対して、どう演奏できるかということが問題なのです。音楽の基礎だけではありません。音に関して、先ほどのバイオリンが出していたような、官能的な演奏を声でもできるようにということです。そういうふうに聞いてみると、この曲の中でもいろんなことをやっているのです。 一回目に構成が聞ければ、二回目にはプロが何を作っているかということが見てとれます。ここの中でもかなりためを作って歌っている。これは引っかかっているのではなく、さわりの部分です。
○生殺の行方
声を殺している部分と流している部分があって、それは音楽の動きの中で決めているのです。そういうヒントというのは、バイオリンや前奏の部分を聞いてみると、音楽の動かし方における勉強になると思います。ただ、ミルバ自身は自分のフレーズをもっていて、それによせて処理しています。そのままやろうと思えばかなり難しいと思います。 初心者の人は最後の「イタリアーノ」のところで、こんなに伸ばせないということから気づいてみましょう。皆さんの場合は、自分のできるところでの演奏力の差をみてください。こういう曲は、あるところはリズムで踏みこみ、あるところは流れに乗って軽やかにというように、一つの音楽の流れに乗りながらもエッジを立てて進んでいくような感じが必要です☆。
きっと音楽家というのはみんなそういう感覚をもっていると思います。ヴォーカリストも本来はそういう感覚をもっているのですが、自分の歌になったときに、なかなかうまくいかない。最初の「ウンタンゴイタリアーノ」のところも、そうなると、パワー、焦点、バランスどれかが崩れてしまう。 最近、何か歌を歌う人ではなく、学問として歌を勉強したい人ではないかと思うことも少なくない。最終的にやれている人というのは何をやっていたのかというと、聞くことです。聞く部分が違うのです。次にその音をどう受けとめて、それをどう作るかという問題にいくのです。最初の聞きとりの部分で才能がなければ、何も上に乗っていかないのです。
ここでやっていることは、音楽でも歌でも自分が表現することに対して、足らない部分を身につけていくことです。自分ができる部分とできない部分がわかっていれば、やる上でそんなに迷うことはない。 自分ができていないということをわからせるために、よく聞きなさいといっている。 J-popの人も本当にたくさんのものを聞いている。鋭い感覚をもっています。声のベースが伴わないだけ。昔のプロと比べても、そういう体におろした声の聞きこみの部分がかなり少ないのではないかと思います。そのプロセスを経ない人が、たくさんの本を読んでみても、体に落ちてこないと思うのです。
昔のレッスンでは、私はこういうコメントも何もいいませんでした。曲をかけて、回していただけです。それできちんと成り立っていたのは、それぞれがきちんと真摯に音楽を感じ、創ることに向き合っていたからです。そうするとしぜんと創造の場ができるのです。そこで自分が作るということが大切です。そのためには音楽のベースが降りてくるような勉強をしなくてはいけません。【「タンゴイタリアーノ」B 02.12.12】
<報告(投稿より)>
★2年間にわたり、グループコースを数カ月、そのあと個人コースにきりかえ、たくさんのことを教えていただき、本当にありがとうございました。自分が歌、声について悩んでいたことが、この研究所が実践していることとピッタリあてはまり、自分が求めていたことはこれだ!!と思いました。遠方でなかなか来ることができず残念でしたが、毎回、自分の声を客観的にみることができたり、音を聴く、一曲の歌に何がつまっているかなど、新しい感覚がたくさん広がりました。実際に劇団での舞台もやっていたので、声を壊すことも何回もあり、レッスンで思うようにできなかったり、通えなかったりしたこともありましたが、毎回たくさんの刺激をいただきました。ブレスヴォイスとの出会いの中で得たものが、これからの私の舞台人生に、きっと支えとなるものになると思っています。(109)
★珍しいマガジンですね。声がうまく発音ができない、声質が悪い、イントネーションが悪い、2拍子も3拍子も悪い私です。そんな私が、貴マガジンを読むのもおかしな話ですが、なぜ興味を感じたかと申しますと、素人ビデオですが、どうしても自らがナレーションをしなくてはならず、藁をもすがる思いで読んでおります。しかしメールを拝読していますと、私のようなものは対象外だと言いますか、問題外と感じております。でも何かヒントが一つでもあれば嬉しいです。自分で分析するに、声帯にむくみがあるようです。朝は少しだけましですが、だんだん声がなまってき、大きな声が出せなくなってきます。お喋りは嫌いではないのですが、声が出なくつい無口になってしまいます。綺麗な声、イントネーションの美しい声は魅力的ですね。綺麗なミュージックをバックに聞く、美しい声はしびれてしまいます。(Hさん(メルマガ読者))