会報バックナンバーVol.166/2005.04


 

レッスン概要(2002年)

■入門レッスン

○自分の寸法

 この曲は、プロを呼んでやってみても楽しめる課題だと思います。我々日本人は全体の流れをつかんでから部分をやるのですが、歌を作る場合というのは、作曲家も作詞家でもゼロから作るわけです。私が見ているのは、歌唱においても、そこでの組み立て方です。 全体を覚えて、さらっと歌ってしまうと、成り立ったかどうかなんてわからないでしょう。ところが、今みたいな曲をよく知らない状態でやっても、成り立ちそうな人もいれば、成り立たない人もいるのです。

 多くの場合は、リズムとか音の動かし方で曲を捉えられていないのです。 それは日本語がいえたとかどうかという問題ではありません。 歌は、音楽の本質的なところを取らなくてはいけないのです。いわゆる歌い手を抜かしたところでこの音楽を理解しなくてはいけないということです☆。その歌い手の代わりに自分が歌うのですから、そこは違ってもよいのです。しかし、ほとんどの人が自分の寸法を取れていないと思います。

○プロに求められるレベル

 こういうレッスンというのは、このペースで進んでいく、本当の実力というのは、この課題を2、3回歌っている間に修正できて作品になるということです。それが自分でわかるということです。 場合によっては歌詞を変えたり、テンポを変えたりして逃げなくてはいけません。ここでは逃げる方向は勧めていません。 この課題も、ことばのたたみかけの練習ではなくて、声が柔軟性をもって、音楽という作品に入っていくかどうかです。そのためには音楽のツボなり、その骨組みを知っているということです。 例え英語や中国語でやらせてみても、そこに音楽が成り立つような力をつけていくことです。歌詞を変えてやった人は、もう一度元に戻してみて、そことどう違うのかということをみてください。

 今のでも1、2割のアプローチはできているのです。やらなくてはいけないのは、3回くらい聞いてみたら修正できて、そのあとすぐ出せるように、自分の足らないところを補っていかなくてはいけないと思います。 2、3時間練習すれば誰でもそのくらいはできる、今のでできたとか、音が取れたと喜んでも仕方がない、作品としてできたかどうかというところを見てください。 もちろん一人ひとり違ってもよいのですが、単に上滑りで歌っても、音楽の構図を取っているかどうかは、聞く人が聞けばわかるのです。こういうところは、そういう部分のきっかけになるところだと思います。

○人の聞かないものを入れる

 作詞作曲の勉強も、こういうことを徹底してやっていればよいのです。人が聞いていないものをたくさん聞き、人のないものをたくさん入れておくと、それが作詞作曲の一番のベースの力になり、新鮮な感覚となります。 最近はこういう難しい曲をやると、だんだんできないからといって落ちていくのです。難しい曲というのは最初からわかっている、できの問題ではないのです。 そこで創るという姿勢をもち続け、1割でも2割でも自分のものを作っていくことが勉強なのです。単にこの曲が取れたというような、練習をしていても仕方がないのです。 できない、難しいということを毎回自分に突き付け、徹底してやっていくことが大切です。こういう曲は1年分くらいの課題はある、本当にセンスのある人であれば、4、5年は充分に使える課題です。

 できたできないの勝負ではなくて、常に自分で創っていけば、いろんな方面で勉強できることがたくさんあると思います。 こういうところでやると、人のアイデアとか発想を盗ることもできる、得たものを大切にしていくことです。最終的には自分を知っていくということになります。当然これからの可能性も大きくしていくことは、誰でもできることとしてあるのです。 今でも一回目と最後のとを比べてみると、それなりに最後は形がついてきたと思います。ただ、ほとんどの人がそれを詰めていかないのです。 今はできるとかできないよりも、たくさんの音楽に接しながら、自分はそれに対応できるかどうかということをみてください。【「そして親父は」入門 02.5.25】


■レッスン(入門以外)

○スタンス「あなたの声を聞けば」

 一緒に聞いてみましょう。他の人について何か感じることがあれば、一人一言ずついってみてください。トレーニングを三つに分けなさいということではないのですが、これでは意味がないと思います。 トレーニングというのは、人に見せられるものではないのです。それにしても、あなたが出した表現というのは、ステージでのスタンスを想定していません。たとえば、この前に家族や、高齢者、友達や同級生がいたとしたら、結婚式で歌うとしたら、今のような歌い方はしないはずです。 練習だからよいというかもしれませんが、そのスタンスというものをもっていなければ、トレーニングしても変わらないのです。

○声と音の可能性

 ミルバから勉強して欲しいことは、同じドミソという音に対しても、どれだけたくさんの可能性があるのか、正解は一つではないということです。逆にどうやっても何とでもなるということは、どんなに難しいことかということです。それをきちんと落としていかなければいけません。彼女は、こういう線をすごい速さで動かしている、これはできないと思います。 でも感覚かイメージから入るしかないのです。声で先に入れればよいのですが、それはかなり難しいことです。

○伝えられること、伝えられないこと

 たとえば、私があなたに伝えたいことというのは、こうなんだとことばで説明することによって、その大部分を落としてしまっているのです。仮にそれをことばで伝えたとしても、あなたが理解できるギリギリの速度となります。私の頭の中は数倍の速さで回転しているのですが、皆さんに合せてゆっくりいうしかないわけです。 勉強しなくてはいけないことは、そこのギャップを自分の中で感じ、それを客に対して見せていくことです。 今の皆さんがやっていることは、絵を見て、単に赤い色だなと思って、赤く塗っているだけです。本当のことでいえば、色はまだ必要がないのです。それは赤くなくてもよいし、人の形でなくてもよいのです。 ただ大切なことは、そこの中で受けたものを、実際に自分の中で咀嚼(そしゃく)する、これはこういう構図のバランスがあって、ポイントはここという捉え方ができるかということです。

○気持ちと心地よさ

 この音程をどう取ろうかとか、ことばを取ろうとするのではありません。これが古くならないのは、表現から入っているからです。相手に伝えることを前提にし、自分の気持ちを出すことを目的にしているからです。当然、音楽的な処理も、秩序立ててもいます。 でも最初に勉強して欲しいことは、ドミソという音があって音楽が始まるのではなく、どう出したときにミの音にいきたくなって、それが最後にソにいかないと、何となく落ち着かないという気持ちをもっておいた上で、ショートカットとして、この和音だとか、こうやったら音が心地よいということに入っていくのです。

○バックグラウンド

 こういう声一つの中に、世界の人が全て受け入れるものが全てあるとはいいません。この先を聞いてみたいとか、この人はどうやって生きてきたんだろうとか思いませんか。その人の考え方、行動がその人のバックグラウンドになってくるのです。みんなそれをもっているのです。ただ音楽にしたときに崩れてしまうから、それを大切にして、そこから決めて、表現を覚えていきましょう。

 鋭い感覚があたりまえになってくると、鋭くないことがはっきりと鈍いとわかってきます。環境はすごく大切です。音楽の世界は非常に厳しいものです。でもヴォーカルの世界は甘いし、ヴォーカル自身も甘いので、他のところにいっても、あまり勉強にならないよといっています。 周りにやれる人しかいなければ、やれない方がおかしいと思って、育っていきます。タレントの二世、三世がやれるのと同じです。それは悪いことではあるのですが、そういう状況に自分を置いてみたときに、何でやれるのでしょう。必要でないものを自分の中で排除していかなくてはいけません。

○総合していく

 音楽は整理された世界です。秩序のある世界です。単なる自分の気持ちだけでやればできるものではないのです。その気持ちを出し、それを整理することをトレーニングでやっておかなければ、気持ちも出せない、音もとれない、どれも出せないとなってしまいます。 イタリア語の歌を勉強するなど、ここを一つの目的のために利用するのもよいですが、それには私のレッスンはあまりふさわしくないと思います。 統合するためのトレーニングを自分に課してやっておかないと、今やっていることが、3年経っても変わらないままになりかねません。声だけが大きくなったり、長く伸ばせるようになったとしても、そのことと表現とは別だということです。自分の色を出せたかどうかという基準をもたなくてはいけません。他人のことを真似できることが、自分の上達だと思ってしまうのは、錯覚です。

 音程やことばで聞くのも大切な勉強ですが、こういう基本から勉強するときには、そういうものは全部捨てて、そこで自分の一番深いところに、聞こえないものや見えないものをきちんと捉えてください。それをヒントに自分を正せるようにすることです。また自分から出たものを認めていく。しかし、もっと覇気のあるところで出して欲しいと思います。 この人たちは、一本の線が一貫して通っているでしょう。すると、そこで体が足りないとか、感覚が鈍いという問題がはっきりと突きつけられるのです。とにかく、こういう一貫した一本の線を通した上で、レッスンもやっていかないと、今日は息だけ使ってみたとか、声だけ出してみたといっても、何もならないわけです。

 彼らの歌がうまいとかどうこうではなくて、これらの要素があり、その上に乗っていくものがあるわけです。そういうふうに思いながら、一年も経たないうちにやめる人もいるし、気持ちが変わってしまう人もいます。そうやって、夢は消えていくのです。そういうことに結びつけながら、体のことや声のこともやってください。【Aクラス 02.2.16】


■京都レッスン

○「自分の歌を歌おう」方法論の否定

 何をどう伝えるかということは迷うところです。何を教えるかとか、何を与えるかというよりも、あなた方の中で何を受けとめるのか、どういうふうにレッスンを消化するのかではなく、どう創造できるかが大切です。 音楽の友社から「自分の歌をうたおう」という本が出ます。ここ半年の講演会で話していることのまとめです。 要するに、声や歌の時代ではないからこそ、声や歌をやらなくてはいけないということを書いています。ただ、これまでのヴォーカリスト向けの本というよりは、アーティスト向けになっています。自分の歌というのをどう捉えるかということが問題です。その人の中に自分の歌がなければ、ステージに立ってみても伝わらないということです。あとは読んでもらえばよいと思います。今まであなた方に言ってきたことと同じです。

 昨日東京のオーディションをやってきました。声とか歌に入ってしまうがために、狭くなって、そこから抜け出せなくなる。学校でもどこでも、人に教えてもらおうと思った途端にダメになってしまう。こういう芸事は、盗める人しか得ることができません。当人の中で発掘されずに眠っていたものが、そのあとどういう形で出てくるかということが伴っていかなければいけない。 誰でも努力はできる、その一所懸命な姿に心を打たれる人はいる。しかし継続的なオンはしていかないと思います。こういう世界においては、どこまでオンしていくかということにしか、意味がないのです。

 今回の本で一番いいたかったことは、方法論の否定です。正解としてのやり方があるのではないということです。当人がそこに接点をきちんとつけられていることが問題なのです。その接点を付けられないことは、主として感覚や体や声の問題なので、そこを補強する。つまり、アプローチを試みていくのです☆。 ただし、その接点の先を見ておかなければ、声とか歌は40年経っても解決しないのです。世界でもそういうことを解決した歌い手は、あまりいない。そういうものがなくても、それを感じる心が開放されることによって、体が自然と正されてくるような接点をつけられていれば、歌や声という個別の問題にはならないのです。 声も歌も、一つの手段だという割り切り方をどこかにもっていないと、その中に入ってしまいます。日本人というのは真面目で、それを壊そうとしないのです。もちろん、そういうところから、何とか出口を見つけたいと思っています。

○評価 平田オリザさん

 今度平田オリザさんという演出家に来てもらいます。いきなり彼がその日は自分のところの稽古があるから、延期して欲しいといってきたのです。自分の劇団の稽古が優先というのはあたりまえのことです。人様のところを手伝うのは、余力があるからで、自分の劇団の作品で勝負している以上、そこでやれなくては、評価されないからです。 彼は劇団の座長の他にも、市民のため、大学のためにいろんなことをしています。自分のところがしっかりしているからできる。自分へのこだわりの部分を捨てて人様の世界を優先し、人のために合わせてやろうと思っても、大きな意味で人のためにもならない。他人にできることというのは限られています。自分のことをしっかりとやることが、他人のためになるのです。その接点がついているところに、きちんと足をつけておかなくてはいけないということです。

 今回のオーディション(2002.6)は、演出家とプロモーターと私の三人で見ます。そのときに何が問われるでしょうか。声や歌のうまさだけに関心を示すのではない。路上ライブは誰でもできます。プロデューサがなぜこいつはおもしろいと感じるのかというと、何か普通の人とは違うところがある、はみだしている部分があるからでしょう。そこで足を止めさせるためには、そこから普通の人にはない感覚や体が問われます。そこでの必要性の補強のためにトレーニングがあるのです。これはあたりまえの位置付けなのですが、声とか歌だけをやればよいと思っていませんか。

○ポイントを絞り込む

 自分のビデオをきちんと見て欲しい。それが一つの切り出された作品になっているのかどうかということです。自分のビデオを見て、100個チェックしてください。そうやって課題をあげていかない限り、何年経っても変わっていかないのです。ライブのときに、評価が高かった人は歌のうまさ、声のよさではないのです。歌がよかった、声が心に残ったということだけで、ステージやライブが動いているのではありません。 私がいつも気にしているのは、出口のない迷路の中に入ってしまったら、声も歌も何もならないということです。出口さえあれば、それに向かって繰り返してオンしていくことはそれほど難しいことではないからです。

 たとえば、感覚の鋭さがあれば、そこに歌を入れていくと脹らみます。そこにフレーズをつけていくので、必ずズレができるのです。みんなが1秒くらいで感じるところを、0.1秒や0.01秒くらいで到達するために、そういう細やかな感覚をもっていなくてはダメです。 よくバッティングの例でも取り上げていますが、いくら素振りだけしていてもよくはなりません。ミートポイントのところに絞り込んで、そこに最大の力が働くようにしなければいけないのです。単にボールに当てたというのを喜んでいても、試合では使えません。声でも同じことがいえます。それはトレーナーや音楽を知っている人でなくても、普通のお客さんでもわかるということです。

○バカになり切る

 つまらなくないものに、面白いものになるように、勉強してできるのかということです。それには勉強したり頭で計算したりすることを伴いますが、それだけでは所詮その程度のものしか出てこないわけです。あなたが直感的に感じたり、感覚的に入ってきたものの中から、心が表出してくるようなことを、レッスンで体験して欲しい。それはすごく創造的で、パワーのいることです。やれているのは全体でいつも1割くらいの人だと思います。そういう人はバカだからやれている。徹底して、やるからです。 頭のよい人というのは、中に閉じこもって、こうやったらこうなると考えてやっているので、そこで遅れてしまうのです。スポーツでも芸事でも、瞬間的な判断で進んでいく。頭はよく働く、でも考えている余裕はないのです。

○感覚

 そのことをスローペースでできるのがトレーニングです。もちろんレッスンをスローペースでやってはダメです。感覚の速さに対して、人間が表していくことば、声というのは、必ずズレができてくるのです。 それはあたりまえで、私が実際に考えていることは、こうやって話している速度よりも数倍速いのです。その速さで皆さんに与えたら、理解不可能でしょう。相手の心を受け入れられるところまで、こちらが調整しています。ただ、その感覚を鈍くしてしまってはダメです。 同じようなことが歌の中でもいえるのです。歌の中で相手に見せていくことが発声であったり、歌の技量になってくるのです。ですから鋭い人はどこで見るのかというと、その感覚を見るのです。技量が追いついていない部分くらいは、今の時代、音響で直せるということで大目に見ることもあるのです。その人の発想がない、その人独自の切り込み方がないとしたら、それは直しようがないという判断になるのです。

○位置づけ

 先ほどの発声トレーニングのようなものが簡単にこなされているように感じているなら、レッスンにはならないのです。「ハイ」「ララ」でも同じです。本当はその中に皆さんのトレーニングの位置付けがでてこなければ嘘です。 そこでできたことの結果はそれでよいのですが、それをどこに向けて、自分がどのプロセスを踏んでいるかということはきちんと把握しておかなくてはいけません。スポーツでも、美しいフォームの方が強いし速い、何か格好がついてきたということが上達なのです☆。

 ここでもビデオを渡しているのは、自分とそこのギャップを見て、それを埋めていくことはそんなに難しいことではないのです。そのためには客観視する力が必要になってきます。 声や音の中の世界を見るのは難しいことです。実際に歌っている姿、表情、身振り手振りというのは見て判断できるでしょう。これはよいとか、これは格好が悪いとわかるはずです。 それが計算されたように見えてしまうとつまらない。でも、実際に自分がそれを破って自由にやるとしたら、大変なことです。もちろん、それも含めてその人のアピールの仕方であり、作品です。そういうものが出てくるトレーニングを、どこかでやっておかないと、感覚も声も正されずに、リピートの繰り返しで終ってしまうのです。

○デッサンの繰り返し

 今回のオーディションでは、私が一人一人コメントをして直していきました。直してよくなるということは、こちらが繰り返しやらせることで、その人のよい線がより純粋に出てくる。それがぼやけないように輪郭が出てくればよいだけで、それ以上、無理をしないことです☆。 その輪郭をぼかすことが歌だと思っていたり、単にそれを押しつけることが歌だと思っている人は、そこの感覚から変えていかなくてはいけません。それはどこのスクールでもよく起きている勘違いです。 息を吐けば、声を出せば歌になるということはありません。最初は当人が相当強い意識で歌をコントロールし、動かそうとしない限り、声も歌もだらしなくなってしまいます。

○伝わるもの、せめぎ合い

 これは声のミスではなくて、イメージのミスです。それでは何も起きません。 周りのみんなに合わせてしまう。そこで自分の感覚を殺してしまったり、自分のイメージを小さくしてしまったら、何も出てこなくなります。これが特に日本人には非常に難しいことなのです。 今やったことをプロデューサがみても、何の練習をやっているのかがよくわからない、つまらないことをしていると思うかもしれません。そのときに今は体を作っている、声を調整しているという言い訳をしない。確かにそういうトレーニングのために、表面的にはうまく聞こえなくなる時期はあってもよい。ただし、そのプロセスにおいて、すでに伝わるものがあるのです。当人がより繊細な神経を働かせようとして、まだ体が対応できない、ならば、苦しんでいるというせめぎ合いのようなものが見られなければレッスンになりません。

○準備する

 レッスンというのはできないことをやりにくるのです。体、感覚とも準備の必要性を重ねていくのです☆。 結局、自分ができないことは何かを発見し、そのできないことに挑戦するのです。おのずと自己矛盾を起こすのです☆。 だからレッスンになる、その自己矛盾を引きうけた上で、その先のイメージを強くもっておかなくてはいけません。

○個性とは

 単純なことでいうと、オーディションで面白いと思うのは、個性のある人です。風貌からファッションまで、何か個性がある人も面白い、それを歌にしたら、さらに、おもしろい、これが最低条件です。しかし、このステップのまえに不通になってしまうという人が大半です。 ではここで問われる個性というのは何なのかというと、音や声の中で、その組み合わせで示される個性なのです。それは誰かの個性ではなく独自性のあるものなのです。

○体と心を一致させる

 二つの条件があります。 自分の中のイメージをきちんと持つということ、もう一つは自分の頭が邪魔しないということです。自分の体とか心のところで動いてきたものを、そこに一致させていくのです。 そこで自分の体や心が動いてこないとしたら、それをレッスン、トレーニングだけではなく、そういう状態を自分の中で読み込んでいかなくてはいけないのです。これが非常に難しい。 レッスンの場ですぐにその状態を作ることは、日本人にとって苦手なことです。だから、レッスンがものまねの場となる。日頃から自分を押さえることばかりをやってきているからです。歌というのは、先にイメージがあって、それが動き出すところを歌い手が拾っていかなくてはいけないのです。

 こう歌いなさいということは一つもない。少なくともこれが歌になるための条件が、このくらいはあるということを知っておく、少し具体的にやっていきます。 まず「アルディラ」の「アル」のところは音を作らないでください。 レッスンで、わざわざ人のところに行って人の経験を使うということは、皆さんが持っていないいろんなイメージを参考に、自分の世界を広げていくためでしょう。いわれたとおりにやることではないのです。いわゆる舞台のスタンスの問題と、表現をイメージすることが抜けているところに、音声や音程、リズムのことをやるのでなく、そこは自分で切り替えていかなくてはいけません。

○歌わされてはいけない、歌ってはいけない

 トレーナーや周りのペースに巻き込まれているときは、本当の練習はできていないと思った方がよい☆。 単にテンションをあげればよいということではないのです。自分のやったこと、人のやったことをきちんと聞けることが大切です。「ア」だけでやっていきましょう。「ア」 お互いに聞けばわかると思います。声だけでしょう。感覚も伴っていないし、体も伴っていません。発声練習というのは、確かにそういう部分もあるのですが、ポップスの場合は、その「ア」がイメージを伴って動いていたら、結果的にそれが歌になっていればよいのです。歌える人が、発声練習で惚れ惚れするような声を出しているわけではないのです。 それが必要ないからポップスを歌っているのでしょう。確かにより柔軟に、より自由に出せるために、声量も声域も最低限、必要なのです。しかし、そのために他のものを殺しているのであれば、練習をやらない方がよい。今度は「ア」から「ディ」のところまでを、自分の感覚でとってください。

「アルディ」

 お互いに聞いてください。そこに音楽が生じたり、歌が聞こえてくる瞬間、あるいはそういう傾向があるのかどうかということです。皆さんのイメージがまっすぐな棒みたいであれば、そうとしか出てこないのです。皆さんが感じたり、イメージした以上のものは出ません。計算したり、頭を使ったりしたらダメです。音楽というのは、大きな流れができているのですから、そこを頭で計算してしまうと、音楽を壊してしまいかねないのです。 ひとことでいうと、歌ってはいけないということです。本当は自分の中でそれが聞こえてくるまで待つしかないのです。最初は無理に入れ、無理に接点がつくようにやる。 「アルディラ」をもっと脹らませて、少し流れをつけてみましょう。自分がどう動かしたいかというデッサンを描くことです。もう一度やってみます。

○自分の歌のつくり方

 自分は一回ではデッサンができないと思ったら、それは自分のトレーニングでやっておく、そういうことが大切なのです。 たとえば「なんて青い瞳」のところでも、ほとんどの人が音に合わせるだけ、こちらは本当にどう感じているのかといいたくなるわけです。 皆さんもことばでやればできると思うのです。それを音楽的にするためには、自分のイマジネーションで補わなければいけません。 そのバックグラウンドとして、情景や感情移入をするのではなく、この「なんて」というフレーズに対して、「青い」がどう置かれ、次の「瞳」がどうくるのかということが問題なのです。そのアプローチが見えないと、その先も聞けないのです。

「じっと見つめ」

 役者のように感情を入れていくやり方もあります。でも音楽というのは一つの流れがありますから、下手にそれに逆らわなければ自然に進んでいくのです。それを活かしながら、そこの中に自分なりのちょっとしたニュアンスのズレを作っていくのです。そんなに高度なことを求めているわけではないのです。 それだけいろいろと動かせる余地、創出する可能性がそこにはあるのです。そこは皆さんが感じて、自分の「じっと見つめておくれ」という心を持ちながら、音楽の秩序を乱さないように作っていくのです。長く続けてやっていく人は、そういうところに出てくる、世界の人たちが共通して捉えているような感覚を感じて、それを自分のものとしてやることが面白いから、辞められなくなってしまう。残念ながら今の歌い手の大半は自分の歌さえ歌っていないのです。【京都(1)「アルディラ」02.2.10】

○のせられる声「ハイ、ララ」

 ポップスの世界では、私は発声練習と歌で、基本として使う声は同じに考えてよいと思っています。みて欲しいことは、今出している声自体に何か乗せられる可能性があるか、柔軟に動かせるか、応用できるかということです☆。トレーニングでは、自分ができないこととぶつかってもよいのです。 ヴォーカルのレッスンで気をつけなくてはいけないのは、部分的な目標が最終的な目標になってしまうことです。多くのことは何かのために必要なのであって、そのことがそのまま、出口ではないのです。 「アルディラ」というのをつけてみましょう。それを歌うのではなくて、それを発することで、人が自然に聞いてしまうような表現を出すことです。

 声の問題はトレーニングの中で片付けていけるのです。ところがイメージの問題というのは、その人のスタンスの問題と、その人が音楽をどういうふうに理解し、どう出したいかということが必要です。そこに自分の感性や感覚を働かせておかなければ、何も出ずに終ってしまうのです。もう一度やってみましょう。 もっと自分の体と心の動きが一致する方向に開いておくことです。皆さんのイメージは、まだ「タ・タ・タ」という三つの音に「アル・ディ・ラ」と置いて、それで声が出ていればよいとやっているのです。そこに当人が何も乗せていないから、表現にはならないのです。そして、そこにパワーを加えたら、音楽からは離れてしまうでしょう。 もう少しわかりやすくやってみます。「アルディラ」の「ア」から「ラ」につなげてみてください。「アーラ」

○ドキドキ、ワクワク

 今ここでやりたいことは、スタンスのことと、イメージ創造のことです。でも、皆さんがやっていることはソルフェージュで、音を取るための練習です☆。 レッスンや人に学ぶということは、お互いの感性を刺激したり、鋭くなるためにあるのです。その創造の努力がなかったり、感覚が鈍くなるのであれば、やらない方がよい。日本の学校はどこでもそうなってしまいがちで、その状態を破らなくてはいけません。何人かの人がたまにそういうことをやるようでは、場が成り立っていません。

 それがどういうことかということは、伝えにくいのですが、常に創造するというところにきちんと接点を持っていなくてはいけないということです。創造することは、面白いことだし、すごくドキドキ、ワクワクすることです。集中力も使えば、体力も気力も使う、そういうレッスンになっていますか。 その結果、作品がボロボロに崩れることがあっても、それはレッスンだからよいのです。でも、今のは全然作っていないでしょう。何も成していないことを恐れなくてはなりません。

○矛盾を起こす

 その辺は二つの方向でみています。一つは個人的な部分の資質で、個性そのもの、もう一つはそれを音で取り出すときのイメージや感覚、演奏技術のことです。 二番目のことは、研究所でもできる、一番目は研究所だけではできません。 たとえば、一つの絵を見たときに、「なんだ絵か」と思う人と「すごい」と感動できる人との違いみたいなものです。そこで感動して泣けるということは、自分の中での生の葛藤が始まるから泣ける、泣けるから偉いというより、それが創造する人間としてのエネルギーみたいなものです。そういうものとレッスンとは、かけ離れたものではありません。その部分が足らないと、どこかで習っている人の弱点になっているような気がします。毎日の生活で補うことです。

 本来であれば、ストリートでやって、何をどうすればよいのかわからない、わからないことがわかったという人が、好ましい☆。それを具体化するためにこういうところに来るとよい。息とか声も問題になっていない場合が多いのです。そのことが本当に突き付けられていなければ、レッスンも成り立ちません。レッスンというのは、その矛盾を起こしていく場です。その矛盾を起こすためには、自分の意志をもって鋭くやらないといけないのです。 今のようにやっていては、ただ無難なだけ、こちらはもっと元気を出しなさいというくらいしかいえません。それは本当のレッスンではないということを知っておいてください。自分の中でこうだと思っていることをやって確かめ、それでは全然ダメだということを自分の中に叩き込みにくる場所なのです。そのためには、もっと感覚のところで鋭くしておかなくてはいけないと思います。

○声よりも感覚

 音程があってことばがあるのではありません。先にイメージがあるのです。今のではスケッチブックにお星様を描いただけで、輝いてもいないし星もみえません。 何をやりたいと思っていますか。それでは星は輝かないし、人も引きつけられない。声がないからできないのではなく、イメージがないからできないのです☆。 そういうことがレッスンをやることによって鈍くなるのであれば、レッスンなんて辞めた方がよい。星を見たら何かを感じるでしょう。 誰でも感覚や感性というものを持っていないのではないのですが、それがここで取り出されていないのです。そういう創造的ではないレッスンではお互いに退屈でしょう。

 そのまま10年かけて声を鍛えていったとしても、今の感覚ではどうにもならないとしたら、どうしますか。声がよくなると多くの人は上達と思います。でも完全にあさっての方向を向いているのです。 今つかんでいる程度の感覚や体の使い方では、到底何も出てこないでしょう。皆さんにその感覚とか体がないのかといったら、あるけれども本気で使っていないのです。ストレートに入れる人にとっては、レッスンをすれば伸びていく、それを持っている人はそれを自ら出さないうちは、レッスンしても本当の意味で伸びるわけがありません。それこそが大きな問題です。

○精一杯やる

 サラリーマンでも同じでしょう。2、3割の仕事しかやらずに、おれはもっとできるといっている人は、本当にやりたいときには、もうそのくらいにしかできなくなっているのです。 それは人に動かされているからです。その人が「やればあいつくらいにはできるだろう」と思っている“あいつ”は、すでにやっている。そこに、どれだけ大きな差が日々、生じていくかがわからないから、だめなのです。 本当にやる気のある人であれば、常に10割のことをやっているでしょう。 自分ができることを今精一杯やっていないと、本当にやりたいときに、それ以上のことができないのです。トレーニングをしたり、どこかに習いに行くことで、そういう目が曇らされていくのであれば、本当に害にしかならないと思います。

○デッサン練習

「アルディラ、輝く星」「なんて、青い」

 これを何度か回していくうちに、もう少し立体感なり、生命力を出していきましょう。単に感情移入をするのではなく、そこに音楽が生じるようにやってください。 ほとんどの人のイメージが、声とことばだけのイメージなのです。リズムもフレーズもことばのニュアンスもなく、そういう感覚が感じられません。 先に「なんて」というイメージがあり、そのフレーズ上に声が乗っていくわけです。その内部の感覚を持って欲しいのです。「な・ん・て・あ・お・い」ではなくて、もっと音としての連関を強く持つようにして、やってください。体がまだ起きていない人は、少し大きめに出してもよいと思います。「なんて青い」「なんて」

 どんなニュアンスでも構わないのですが、その裏にあるいろんなものをきちんと導きださなくてはいけません。それを助けてくれるのが音楽やリズムです。 そうやって音が動いているイメージを持つ必要があると思います。たった一つの音を確実に出すことと、その次の音にどうもっていくかということ、音楽では、その音とその次の音との関係が一番大切なのです。「じっとみつめて」 まだデッサンの線が一つくらいしかないようです。それを柔軟にして欲しい、もう一つは、音楽の自然な流れの上にフレーズをうまく乗せてやることです。

○ドライブ、フォーム

「じっとみつめておくれ」「ティ、セイトゥ」

 ほとんどそんなところでやっても、何の練習にもならないでしょう。その辺のおばさんでもできます。問題は、そのフレーズの色とか、ドライブのかけ方とか動かし方。というのは、いったいどういうイメージを持っているのかということです。そのためには気もつかわなくてはいけないし、体も使わなければいけません。これができたかどうかということは、そんなに大きな問題ではないのです。今は練習です、できるだけ大きめに作ることです。「セイトゥ」

 そういう上っ張りのところでやってしまうと、歌には使えるかもしれませんが、トレーニングとしてはあまり意味がないところです。そこの部分ではいろんなことが起きます。その息の中に一つ、確実なフォームを持っておくことです。音楽というのは、その中に一つの流れがあるのです。それを自分のことばで邪魔しないことです。「ペルケ ペルケ」 何のために息を吐くのでしょうか。何のために「ハイ」をやっているのかということを、常に忘れないようにしてください。息や「ハイ」の練習ではないのです。 今日話したことは、いつも、いっていることの繰り返しです。毎回のレッスンでは、いつもそれをふまえ、できるだけ新鮮な感覚で取り組んでください。【京都(2)「アルディラ」02.2.10】

○好き嫌いをおく

 研究所にいる期間くらいは、自分が絶対にやらなかった、絶対に歌いたくないというようなものを勉強しなさいといっています。 10代くらいで入ってくると、たまたま偶然出会った音楽だけに縛られてしまっている場合もあります。 それも必然ではあるのですが、音楽の世界もいろいろあるし、さらにめざすべき自分の世界というのがあるわけです。 自分はこの曲は嫌いだけれども、自分が歌ったら映えるというものもあるのです。でもそれが本当の意味でのその人の個性とか、才能を活かせる歌です。

 日本人は、自分が昔から好きだった曲とか、小さい頃に歌っていた曲を選ぶのです。しかし、プロはそれだけでは通用しないから、自分が嫌いであっても、それをやることによって自分の魅力が出てくる曲というように、常に評価される側に立って選んでくるのです。 日本でも本当にできる人たちというのは、この曲は売れるけれど嫌い、この曲は売れないけど好きだから客のいないところでやっておこうと、分けているものです。自分が好きでやりたいと思っているものが、本当に自分の力を発揮できるものとは限りません。

○ステージの準備に学ぶ

 プロでも、落ち着いてある程度、力が安定している人は、声もそんなに変わらないのですが、より過酷な状況になったときに、アマチュアの域まで力がおちないということが大切です。 ステージは、その日の勝負ではなくて、少なくとも2、3ヶ月前から用意して、それに対しどういうふうにやるかということをつかんでいくためです。ステージの緊張感などはできるだけ日頃からイメージしておくことが大切です。そういうことはホームで練習のときからやっておかなくてはいけません。

○優れていること

 優れている人と優れていない人との違いの第一番目は、どこまで集中してやれるかということです。たくさんやっているとか長くやっているのが価値を生じるということではありません。ある一定の時間の中に、どれだけのことを深く、感じられたり、出せるかということです。これは、小説や絵を描く人も同じだと思います。 今の若い人たちの一番弱い部分は、優れている人との差を見ることができないところです。 誰でも同じにできるくらいにしか思っていないから、そこまでも伸びないのです。昔は、少しの差にどれだけの時間や神経が必要なのかということが、実感できていたのですが、今はあまりそれが感じられない人が多いのです。

○自己投資☆

 研究所の本が置いてある一室を見て、「本がこんなにたくさんあるとは知りませんでした」と驚いていた人がいたのですが、私の自宅にはその数倍はあるのです。ましてや私よりも年配の人のなかにはそれ以上の本を読んで、勉強している人もたくさんいるでしょう。そうでなければ、プロの仕事なんてできません。 そういうことが簡単にいえてしまうというのは、その程度で仕事ができたり、学者ができるくらいに思っているわけです。 こんな人がとても多くなった。たくさん本を読んだり、たくさんCDを買っていたとしても、それに適わない人もいます。 何かやれた人たちがどのくらい自己投資をしてきたかということを知って欲しいと思います。その辺がわからなくなってきているというのは、よいことではないと思います。

○感覚とイメージで切り出す

 本来、言うまでもなく音楽も創造したり、表現したりすることです。しかし、日本の音楽教育でやられていないのはイメージやアイデアを創出することです。 ですからプロとして一番必要なのは、感覚とイメージ、それからそれに対応できる体となるのです。 結局、トレーニングはその二つを両方磨くことが目的なのですが、他のことばかりやっているわけです。 歌がうまくなりたいとか、声がよくなりたいというのは、その補助にしか過ぎないのです。ところが、ほとんどのヴォイストレーニングはそれが目的になっています。 考えなくてはいけないことは、作品として切り出さない限り、人々は理解してくれないということです。私がいろんなことを考えていたとしても、それを本という形でまとめたり、人前に出て話したり実演しない限り、相手には理解されません。 そういう切り口を作らなくてはいけない。そのためにはバックグラウンドが必要になってくるから、トレーニングすべきことが出てくるのです。

○トレーニングの位置づけ

 トレーニングで一番混乱しやすいのは、本番でやることとの位置づけの違いです。それは、目的や実力のレベルによっても大きく違ってきます。 ヴォイストレーニングでは、声を使う、鍛えることだけをしっかりとやって、あとは歌の中で、歌い方のテクニックを覚えたり、高いところを出したりすることも一つの方法です。 ところが多くのヴォイストレーナーというのは、発声の中で歌でできることを全部やろうとするのです。 私はそれをやらない、というのは、声にいろんな出し方があり、何を選ぶかということは、当人の出口が決まらなければわからないからです。 なぜそれが決めつけられるのかというと、声楽家の発声をメインにするからです。声楽家というのは一つの条件があるので、ある程度そこで問われる要素というのが決まっているのです。 でもポップスの場合は、ルックスがよくて、踊れるだけでデビューできる人もいる国ですから、自分のことを知ることが先決となると思います。【京都レッスン 02.4.21】

○理想

 昔から日本のポップスの歌い方というのは、音大の声楽家出身の人がリードしてきたので、かなり声楽がかっている歌が多いでしょう。また日本語も母音中心のため、そういう歌に合わせて作られていたのです。 「ここに幸あり」という曲を使って、我々がそれをこういうふうに歌おうとすると、難しくなります。声が声楽家のように使え、息も混ぜられて、それをポップス的に処理できなければ歌えないからです。そういう意味では、例えば岸洋子さんなども、技術や歌唱力があるがゆえに、今の時代においては、そのスタイルを継承して歌っている人はほとんどいません。曲の作りそのものが、欧米のリズムをとっている形になってきたので、音色、呼吸でもっていくのが多いです。

 スティングのは、20曲続けても飽きずに聞けます。今はポリスのときのような突っ張った感じや声の伸びもなく、俳優の色気がある男が、たださりげなく歌っているだけ、でも続けて聞けるというのはそこに音楽が詰まっているということでしょう。 普通なら退屈してしまいます。別に歌詞や内容や声を聞いているわけでもない、そのステージをみさせてしまうというのは、そこにそれだけのものがあるということ、それを聞かせる力があるということです。 その安定感、その処理はどこでやっているのかというと、彼の中の呼吸、体から息で送ったところに、もう音楽が乗っているのです。

○音楽が入っていることの例 スティング

 曲自体は私にとって昔のようにおもしろくもないのですが、何曲聞いても飽きないし、最後まで聞かされてしまうのです。それが音楽が入っている、そして出せるということだと思います。 要は、音楽とその人のことばと内容と、体とが一体になっているわけです。歌わずに歌えてしまう人ほど、高い境地にいるわけです。そういう高度の表現のもつ安定度というのは、日本人はあまりもっていないような気がします。

○発声から歌をつくるな

 トレーニングと歌との関係において、トレーニングでは基本をやるだけで、高音とか長く伸ばすところは、歌から直接勉強して、自分でつくったメニュにおとすのが、一番よいのです。 なぜなら、高く出たらよいとか、長く伸びたらよいというまえに、音色のイメージにおいて決めるべきことであるからです。ところが、そのイメージがないから、他人にあわせようとしてしまいます☆。 要はトレーニングのところで、声楽のような器があれば、高音まで作り、声量も作り、それを歌に移すというやり方もできるのですが、ポップスの場合は、そんなプロセスを経ずに歌い手になった人が大半なのです☆。

 つまり、歌の中でできることはそこで全てやるべきです。そして歌の中でできないことについて、部分的な補助として、ヴォイストレーニングに落としていくのが正しい。なぜなら、発声から歌をつくるのではないからです☆。 体作りと筋力作りをやり、あとは柔軟をやっておけば、声を出さなくても、実際の歌の中でやればよいという考え方もできると思います。ピアニストとかバイオリニストが、指のスケール練習をしないでプロになれる人はいないが、ヴォーカルや役者の世界では、いきなりプロデビュすることもできる。自分の出口をどういう形でもつかということは、最初からきちんと見ておくことだと思います。

○切り出し方

 音楽を入れるというのがいったいどういうことかということをもう一度見ていきたいと思います。ピアフとKさんを使ったのは、ことばのメロディ処理の勉強のためです。シャンソンはことばの歌と思われています。でも、アズナブールもピアフもモンタンも、みんな体や声を目一杯もって、個性的なところまで音色が磨かれています。実際歌うときに、その使い方を変えているのです。 モンタンの「枯葉」などは、ジャズヴォーカルの人の方が声があると思えるくらいですが、その他の作品には体も声もあり、それをスタイルとして取り出していたのがわかります。 そういう意味では、Kさんも、ベースの部分は全部持っていながら、新しいスタイルを作った、作品の切り取り方がこういう形であったということです。それが多くの人に認められ、はまるファンもいるのですから、結果として彼女が正しいのです。それを声とか音楽で見ること自体が邪道です。ただ勉強するときには、形でなく実のベースのところをつかんだ方がよいということです。

○共通の感覚とオリジナリティ

 ハンブルクという曲は、ピアフがアルバムの中にも入っています。Kさんが歌っているものを使います。この一番はピアフの感覚がストレートに入っているのですが、二番、三番になるに従って、彼女の地が出てきます。それは音楽、ピアフの感覚から離れて、あるいは、その感覚に追いつけなくなって自分で作っているのです。 どちらがよいかというと、私の耳では一番のピアフの感覚を取っている方がすんなりと聞ける、彼女のファンにとっては、二番、三番の方が彼女の独自の世界が出ている。それを聞き分けるだけで目一杯でしょうが、最初の入りだしの部分をやってみましょう。

 ピアフもKさんも取っている共通の感覚を自分もとり、それぞれが作っているところでは、自分も作ってみましょうというのが、勉強です☆。これを3回くらい聞いて、そういうことができればよい、わからなくても自分で作っていく勉強からするべきです。そのためには聞けなくてはいけない、この中にKさんがいたら、3回聞けばできる、自分が創り出したスタイル、タッチがあるからです☆。 なぜすぐれた人は聞いたらすぐにコピーできるのかというと、捉え方が違うのです。聞いているときに、メロディを覚えようとか、音程を取ろうとか、そういうところではない部分で聞くのです。

○感覚の優先度の違い

「ハンブルグでも サンチャゴの町も 世界の港は どこでも同じさ」

 自分たちでやっていると、なんかバタバタしているなとか、スタッカートの点でとっているなということがわかると思います。最初に全体の構成を考えなくてはいけません。本当にうまい人は、最初にその配分を考え、構成を捉えながら細かいところを詰めるのです。 ところが日本人の耳では、音程をとってそこにことばを乗せていく、うまく取れなくて間違えたときに、何が間違っているかということをみる。 そこでことばを優先しているのか、リズムやテンポを優先しているのかというのでも、大きく違ってくる、その人の間違い方で、その人がどの順番に耳の中で組み立てているかということがわかるのです。歌そのものでなく、こういうバックの演奏に対して、自分はどう演奏し、どうことばを置いていくかということを考えてください。

「ハンブルクの港に 降りしきる雨は 疲れたあしけを 岸辺に運んだ」

 楽譜を音に変換したり、ことばにメロディをつけることは誰でもできることです。それをどうしたいかということと、どうすればよいのかということは違うのです☆。こうしたいと思ってやって、ここは違う、これではもたない、創造に対しての判断をしていく☆。消しゴムで消しては、何度も描き直すような作業が必要です。そのためにベースとして、こういう優秀な見本から共通のパターンを体に入れていくのです。 パッとできてしまうような人は、そういうものが入っていたり、それを取り出す訓練をしているからです。一回、二回とくり返すにつれて、よくしていかなくてはいけません。

○構成のアイデア

 たとえばこういうフレーズでも、「男は」「愛に」に対して「私は」「夢に」という対比のフレーズができています。彼女の歌い方は、12、34ではなくて、1、23、4という構成を取っています。こういう構成を真似してみるのも一つの練習方法です。 ただ、もっといろんなパターンが入っている人は、自分だったら1で切らずに23まで続けてみようとか、この場合は最初から切った方がよいかもしれないなど、そういうことがだんだんわかってくるのです。でもそれはやっていないとわかりません。自分で必ずフィードバックすることが必要です。 楽譜上では12、34と進むのに、2で切らないやり方もある、そういう初歩的な発見も含めて、いろんな人のアイデアや着想を盗んで自分のものにするのです。ただ、その通りでは使えない、そこで使えないものはどんどん捨てていかなくてはいけません。

○引っかかり

「男は誰でも愛に飢えていた 私の心は夢に満ちていた」

 今やっていることは、メロディにことばを乗せていることですが、大きな意味ではイメージすること、また残像として、描き終わった全体の絵として相手に見せるために、どうすればよいかということです☆。 結局、そのイメージを自分で作らなくてはいけない、それは歌うときに伝わるだけではなく、歌い終わったあとに相手に残っているかどうかということが大切なのです。そういう判断を、自分でやってはフィードバックしながら、練習していくことが大事だと思います。いくらきれいに歌ってみても残せなくては、何も生じません。どこかで何かの引っかかりを作らなければ、相手の心に残っていかないのです。

○パターンと選択

 トレーニングにより、3回くらい聞けば対応できるようになると思います。自分が1年経ってたら、同じようにできるためには、今何が欠けているのかということを考えてみればよいのです。 たくさん自分のパターンをもっているのは有利な条件です。でも、たくさんもっているからといって、全部を使えるわけではありません。自分がこういう課題に対して切り込むときに、どのパターンを使って、どういうやり方を取れば一番よいかということを判断する力が必要なのです☆。 そういうことを練習で繰り返していくうちに、直感的にわかってくる、それが曲のレパートリーを増やしていくことよりも、本当の意味で上達していく条件です。 最終的に自分が歌えない歌は切り捨ててもよい、練習のプロセスにおいては、自分が苦手なもの、やれないものほど自分に入っていない感覚なのですから、そういう感覚を補強していくことも大切です。

○創造する力

 ただそのためには条件があります。先ほどのKさんのような歌い方を取り入れてしまうと、逆に何をやってもこなせるようになって、どれでもやれるようになってしまう。そのために、誰でもできるパターン化=形になるのです☆。 そういうことはやらない方がよいのです。誰でもできるようなやり方を取るということは、表現やオリジナリティにおいては、一番難しいのです。 ですから、体の強さ、息の強さという年月でしか差がつかないところを最大限、ベースをつけていった方がよいというのが唯一の方法なのです。 勘が鈍ければダメ、こういう感覚の鋭さをもたなければ通用しません。世の中には彼女の真似をして歌っている人はすごくたくさんいる、でもベースの力が全然違うのです。

 それは二つ、体や声といった基本の力が違うということと、もう一つは、こういうスタイルを自分の作品にまで高めて変えていった、彼女のアイデアや発想やセンスです。その二つをもっていないところでいくら真似してみても、一見似ているようでいても、全く違うものなのです。 Kさんの歌い方と比べて、比較的、ピアフはこの曲を柔らかく歌っています。エラやサラと綾戸智絵さんを比べているような感じです。どれがよいということではなく、自分が勉強していくときに、どういう基準をつけながらやっていくかというためにどう選ぶかということだと思います。 常にたくさんの材料とパターンの入れてやっていくことです。ここと同じような学び方は自分でもできると思います。こういう材料を大切にして欲しいと思います。

○勉強法のヒント

 これでもいつも30曲くらいの中から選び、さらにその中の1フレーズを選んでやっている。なかなかよい材料は見つかりません。 今日のレッスンも、誰かにはすごく役に立つかもしれませんし、誰かには一時役に立ったけれども、あとではもういらなくなってしまうことかもしれません。 皆さんは、一年、二年を通したレッスンの中で、自分と接点がついたヴォーカル、ここから学べると思えたものから、自分なりの実験や修正を怠らないことです。 そこから先のことを創ることにしか、本当の意味での勉強は、できないのです。今ここでやっていることは、高校生のクラスでもできることです。

 本当の勉強というのは、自分で接点がついた部分を自分で深めていくことなのです。いつもの自分の意識を変えるだけで、学び方は全く変わってくる、そこに自分の学ぶスタイルがあるはずです。 例えばテスト勉強でも、何回も書いた方が頭に入る人と、テープで聞いた方がわかる人もいます。目で何度も読んだ方がよい人もいると思います。みんな勉強方法が違うのです。歌の勉強法もまた自分で考えていくしかないのです。【京都レッスン 02.4.21☆】

○スタンス

 オリジナリティとか歌の構成などは、本当はいくら頭で考えても仕方がないことなのです。音声を使って舞台で表現するための、根本的なスタンス。 まず一つ目は、できないということを相当自覚しないと、できるようにはならないということです☆。自分でできるつもりでいても、それは何もなってない以上、何にもならないからです。 もう一つは、今の課題ができないのは、皆さんの発声が原因でも、音域が広いからでも、キィが高いからでもないということです。この中で何が起きているのかがわかりますか。ここでいえることは、これをきちんと聞かないうちに、自分で勝手に取ってしまったらダメということ、そこを聞き取れるようになるしかないということです。

○気づき

 普通の人が100回聞けばやっと気づくことを、一回で気づいていくのがプロの耳です。そういう耳をもつためには、日頃からそういう聞き方をしていくしかありません。 もしそういうふうに聞こえていて、自分がそう出したいと思っていても、体が動かないとか、声で持っていけないということであってこそ、トレーニングで解決ができるのです。でもそこで何が起きているのかがわからないとか、どうすればよいのかが全く見当もつかないという状態であれば、何年やっても変わらないのです。

 ここでもう一度現実的なことを思い出してください。その歌い手の一曲の中に、その歌い方のノウハウは全て入っているわけです。でも今までいろんな曲を聞いてきて、自分の歌がそうはならなかったのです。 そこで歌い手の持っている感覚ほどには深く聞き取れなったということです。つまり、そういうふう聞き取る勉強をしなければ、発声トレーニングなどをどんなにやっても何にもならないということです。どんなにやりたくても、自分が見えないものは実現していきません。わからないときはわからないでもよいのです。しかし私はそれをことばにする努力をしていますから、できるだけ自分で実感できるようにしていってください。

○機敏さ、鋭さ

「目をつぶって」

 感覚というのは、こういう人のを聞いて、この程度動かしているのだろうくらいに思うのですが、実際に自分でやるときにはもっと大きくとらなくてはいけません。こういう歌い手の感覚というのは、皆さんが感じているよりももっと鋭いのです。それが舞台で使う声や人前で歌う声だとすれば、一種の鋭さ、機敏さは絶対にもっておくべきです。 気持ちよく、心地よく歌っても、絶対に眠いような声を出してはダメです。そういう声は舞台では使えません。仮にそう聞こえたとしても、それは結果としてその人が調整している声で、そんな感覚で歌っているプロなんて一人もいません。みんなそこですごい鋭い感覚で、集中してやっているのです。そこは間違わないでください。 一つずつやっていきますが、自分の好きなように動かしてみてください。

○動きをつくるために「目を」

 これは1、2音のことばの練習みたいなものです。 次はことばでやっていきましょう。いつもいっていますが、発声、表現の練習というのは、まずは一つで捉える、それがきちんと完結して次につながっていく動きがあることが大切です。その上でそれを次の流れにつなげていくのです☆。 今の「目を」の部分も、これをどうもっていけばよいかというのは自分で選べばよいのです。ここではそこで柔軟に動けるような声の使い方、体の使い方を覚えていってください。 早く決めて欲しいことはそこのイメージだけです。今皆さんが出したものであれば、そんなに声も体も必要ないと思います。今の声でも充分間に合うでしょう。 今日やっていることは、メロディ処理のところまでで、まだオリジナルのフレーズまでは入っていません。最後にはつなげたいと思っています。

 次は「目を」から「つぶって」の「て」の中で、そこで舞台が成り立つように作ってみましょう。「目を……て」 二つ問題があります。一つは気力、もう一つは集中力です。これは普通の人であればやはり目一杯高めなくてはいけないと思います。イチロー並とはいわないまでも、高校野球の球児くらいの集中力や気力は必要です。今年合宿が成り立たないのはそういうことです。 テキパキとした行動ができない、舞台の人間の意識がないのです。人前でやるということは、誰かが常に見ているということです。日頃から意識しておかなくてはいけないと思います。 「目をつぶって」というのを三つに分けると、「目を」「つぶっ」「て」に分けられます。ここのレッスンでやっていることは、その中の動きを一つに自分で常に作っていくことです。

○ズレと流れ

 「目をつぶって、走っていた、止まらないで、走っていた」を4つに分ける、このフレーズの中で、ズレとか自分の動きを作っていくわけです。そういうズレは実際の楽譜の中にはないのですが、歌い手の感覚の中に入っているのです。 聞き手の方がその歌を心地よいと感じるときは、必ず歌い手が一つのルールを新しく打ち出して、そのルールをきちんと歌い手が守るから心地よいわけです。 だから楽譜の通りに歌っているわけではないのですが、でも結果として楽譜から離れているわけではありません。その中のギリギリのところでいろんなことをやっているのです。まずはそういう部分を聞き取れるようになることです。「目をつぶって走っていた、止まらないで走っていた」

 ルールというのは、そこで気力をもって、フレーズが走っていればよいということではないのです。部分部分の完成度は必要ですが、それよりも優先させなくてはいけないのは全体の流れの方です。 今のように歌うことは誰でもできることですから、そういうことをここでやる必要はないのです。歌唱技術をやるのはよいのですが、それをやることによって、より基本のことがわかってくるためにするのです。基本のことをやらなければ、いつまでたっても解決はしないと思います。その前に自分のイメージと、優れた人のものをどういうふうに読み込むかということが必要になってきます。優れた人たちの一曲の中には、我々が一生かかってもわからないだけのノウハウがたくさん詰まっているのですが、それを聞き取れない、それを理解できない、自分に置き換えられないから進歩が止まってしまうのです。それを唯一きちんと見ていくしかありません。

○結果と目標

 歌を上達したいとか、うまくなりたいと思った時点で間違えるのだと思うのです☆。声がよく出た方がよいとか、きれいに声が通った方がよいとなるべきです。それは条件の一つなのですが、やれている人たちがそのことを第一に重視していないということはどういうことかでしょう。 今ある声でよいから、自分の感情をきちんと届けられるように使おうということに、プロの人は専念しているからです。 私は妥協するつもりはありませんが、それが舞台で一番強いということはいえます。第二に、どうせ強いのであれば、外国人にもわかるくらい声も鍛えた方がよいということです。ただ舞台においては、人それぞれでいろんな勝負があります。

 ほとんどの人が自分のオリジナリティらしき、いろんなものが出てくると、発声技術を勉強したり、テノールを勉強したりする方向に行くのです。それは非常にもったいないことだと思います。 でも結局、日本人というのは、そちらを主にしてしまうと、自分だけで考えなくてもよいから楽で安心なのです。だから10年経っても何一つできません。 自分の素のものを出したらすごい下手なのですが、通用する部分があります。今回よかったものは全部そういうものです。うまくないけれども素直だなと思えるものとか、無心でやっているなと思えるものは、伝わるのです。そうでなくて、歌をうまく歌おうとしてきた人たちはいったい何なのだろうという気がします。声がよいとか歌がうまいということは、あくまで結果であるべきで、そのことを目的にすべきではないということです。【「帰り来ぬ青春」京都 02.7.22】

○接点のつけ方

「青いシャツ着てさ 海を見てたわ」

 こういうフレーズ実習というには、大きな意味があるのです。絵の教室に行ったつもりで、好きなように描いてくださいといわれたと思ってください。でも好きなように描いているだけで上達する人というのはほとんどいないわけです。 特に音の世界というのは、絵のように向かい合いができないのです。だから難しいわけです。どちらにせよ自分がどういう切り取り方をするか、あるいはどうもっていくかということが大切です。そのためにいろんな音楽を聞き、その他にも勉強が必要になるのです。また自分とこの歌との接点を持つことが必要です。

 ここではそのやり方は自由に取らせています。今の自分の目的は何で、どこに向かってやっているのかということを、常に明確にしていくことです。 考えて欲しいことは、まずこの曲を聞いたときにどう感じたかということ、もう一つは自分なりに接点をつけて、どう切り取って出すかということです。それは、その人がどう感じたかによっても大きく違ってくるのです。聞き取っていくためには力が必要です。

 たとえば、モーツァルト風にやってみようと実際にやってみるのはよいのですが、それを人前でやっても仕方がない。それは、自分の練習でやっておくことです。この曲では比較的後半部分をきちんと持たせています。音楽に関しては、どういう気づきをもって音楽を聞いているかということが大きいと思います。 ダラッと聞こえるからといって、テンションを下げてはダメです。たとえば、役者がしぜんに演技をしているように見えても、それは高いテンションで、計算した上でやっているのです。皆さんが実際にやるときはもっと高いテンションを保っていなくてはいけません。

○飛び出す

「空を染めて燃えたよ」

 自分のキィに設定してください。彼女と同じアプローチを取る必要はありません。そこで何を起こすかということが問題です。どういう声を出すかとか、どう歌うかということは、その上で成り立つことです。最初の問題ではないのです。このフレーズを彼女の通りに真似するだけなら、あまり意味のないことです。でも、そこでベースのこと、その足らないことは学べます。 一番得て欲しいことは、体の接点と心との接点が一致して、そこから何かが飛び出すことです。そのためには音楽に素直になることでしょう。あまり飾りをつけないようにしましょう。

○目的と不足

 歌として伝わるかどうかというのは、誰にでもすぐにわかることです。マイクや伴奏をつけたら有利になる人もいると思いますが、ほとんどがその前の問題です。自分がイメージしたことに対して、体とか声が足りないということで、トレーニングする目的が見えるのです☆。まずそのイメージを持ったり、聞き込んでいく必要があります。「過ぎ行く昔よ 唇には歌があふれ」 私がメロディ処理の勉強といっているのは、ことばと音楽に乗せて音楽化させる中で、どう自分の息吹をそこに吹き込むか、感じさせるかということです。それが大切です。そういう面では丁寧に扱っています。皆さんが二色くらいで描いているところを、八色くらいで使い分けています。いろんな意味でのペース配分はしているのです。そういう部分は勉強してもらってよいのですが、それを真似してしまうと間違えてしまいます。それにはそうなるまで歌い込むしかありません。

○動き方

「目をつぶって走っていた 止まらないで走っていた」

 半オクターブくらいのところですが、四つくらいでしか捉えていないのです。もっと細かく読み込めるようになることです。詞の朗読でも同じことです。いくら「目をつぶって、走っていた、止まらないで、走っていた」と四つにいっても言えただけで、そこでは何も起きてこないのです。 皆さんの中で聞き比べてください。共通しているのは、どこではためて、どこでは少し早く入る、そういう動き方をとっているわけです。そこはミュージシャンの要素です。ヴォーカルもそういう動きを徹底して勉強していくことが大切です。楽譜の世界に命を吹き込むために、どういう動きをしているかということを聞き込むことです。 ヴォイストレーニングでも、体よりも大切なのは耳です。でもどんなに聞くことができても、それが体で支えられなければバラバラになってきます。それは待つしかありません。

○乱されない

 音が正しく取れているのはあまりいませんでしたが、聞きとりも一つの力です。他の人のを聞くこと、それに習ったり、乱されたりしないことも勉強になると思います☆。

 上達していくということは、最初は10回聞いてわからないことが、1回でわかるようになるということです。あるいは10回やってできなかったことが、一回で自分の無意識の中でできていくということです。 こんなことは、すぐにできる人たちがいるということは、知っておいてください。それは高いレベルではなく、ここの中にもいます。そういう人は声がなくて目立たなくとも、聞く人が聞けばわかるわけです。 そういうことができる条件というのは、イマジネーションの力になってくるのです。そこは役者と同じです。役者の場合はそれになりきってみることも必要でしょう。ミュージシャンの場合は、音だけで表現するということですからもっと難しいわけです。でも音の世界でも、最初はそれに入りきって、その部分から、突き放して自ら出していくという気持ちは必要だと思います☆。

○自分が創っていく世界

 声がよく出る人とか、歌がうまい人というのはたくさんいるのです。しかし本当の意味でそれが伝わるとか、やれている人たちというのは、そのことよりも、そこで自分が作っていく世界を重視しているのです☆。 その必要性がわからないと本当の声は身につかないし、体も感覚も変わっていかないと思います。でもほとんどの場合、声を得てもそれをもてあましている人たちの方がずっと多いのです。 そうであれば今活躍している人たちのように、最低限のものしかもっていなくても、それを使えるところまで使っている人の方がよいのです。 こういう突き放した見方というのが必要です。そこに埋もれていったら何もできなくなってしまいます。トレーニングでは一時、そういう状態に陥るものですから、それを恐れる必要はありません。そこは常に自分の目的と照らし合わせながらやってください。【「恋の季節」京都 02.8.11】


レッスン概要(2000年)

■入門レッスン

○一貫性

 好き嫌いはあっても、それぞれ独立したプロの要素があります。そのプロのもつルールというのは、自分の中の基準での妥協点です。 一つの作品としてみたときに、好き嫌いは別として、認めざるをえないところは、最初に示した音に対し、それを頑ななまでに守って最後までそのルールを持続させていることです。 例えば、後半でテンポがずれたり、リズムが狂ってしまったり、使わない音がどんどん出てくると、それは収集がつかなくなってしまいます。だからある決まった感覚の中で運びます。それは自分が実感できる感覚であると同時に、聴いている人間が働きかけられるところの感覚です。テンポ感も必要です。

 音楽的にいうと、ことば、メロディー、リズムと三要素になってしまいますが、それぞれが作品としてプロであるのと同時に、それを奏でる歌い手がプロであるということです。結局、そのルールをとっているかどうかということです。 だから音楽が外にあって、その人が音楽を歌っていてもそれはステージにはなりません。その人間の音楽が出てこなければいけないのです。そのところの感性とか、感覚のところに、好き嫌いではなく人々が納得せざるを得ない一貫性が通っているかどうかです。

 一流と二流の差というのは、そこにあります。この歌い手は、それほど評価されているわけではありません。ルールの弱さ、一貫性のなさで、どこかで支えきれなくなってしまったり、どこかで逃げ道を作ってしまったりしています。どこかで入りきれず、あるいはそれに気づかずにやってしまった作品というのは二流、三流となるわけです。 曲も完成すれば、完成するほど、他の人は動かせなくなってしまいます。それをちょっとでも伸ばしたら、その作品をおとしめてしまうことになってしまうからです。そのような突き詰めが必要です。 それに対し、歌い手個人の中に一つの決まりがあります。それも、どこまで通すかです。

○前衛

 最初の1フレーズを聴いてみたら、枠は決まってしまいます。人間の感覚からいって時間的にも、決まってきます。もちろん、全く違ったものをやる場合は別です。それから外れたものが前衛といわれるのです。なかなか前衛のものがスタンダードにならないというのは、その中のルールというのが了承されるのに制限がかかるのです。だからいつまでも前衛でいいわけです。1フレーズでやっているのは、そこに1曲のルールが全部示されるということです。 こうやって聴くと、のっぺりした歌い方になっています。それは、感覚の力が働いていないのか、その感覚に対して声が伴っていないのかということになってきます。

 そういう場合は、こういう作品だけではわかりませんから、他の作品を聴いてみてください。結局その歌い手の感覚の力をみていきます。ただ、曲によって働きやすいものと、働きにくいものがありますから、一概には言えません。もう一度頭のところだけやりましょう。「Automatic」 どちらがうまいのか、下手なのかということが明らかにわかるものもあります。一方で、非常にわかりにくいものもあります。そのときにみなければいけないのは、同じところはどこなんだ、違うところはどこなんだということです。 確かにことばは違います。でもメロディーは同じだし、アレンジもほぼ同じです。ただ難しい課題です。

 こういうことが完全にできれば、きっとここのトレーナーくらいの耳と力があるということです。我々の商売というのはその上から成り立つことなのですが、そういうことを聴く耳をつけていくということです。 だからきちんと入れていくということです。こういう曲があなた方に入りやすいというのは、日頃こういうものを聴いているからです。ただ逆にそれが入っているがために判断しにくいということも起きてきます。例えば、一つのリズムばかり聴いている人は、他のリズムに対しては、全く判断ができなくなってくるということもあります。その判断ができないところをできるようにしていくのが、基準をつけていくということになります。それが上達の早道です。

○制限のなかで

 音楽の組み立てというよりは、ここでいう音声の世界、表現の世界、舞台の世界において、それぞれのプロの要素があります。歌というのは応用されたものですから、そこで判断はつかないということです。CDであれば、そういう決められた中で一つの基準というものができるわけです。 何かの制限の中でしか、芸術活動というのは成り立ちません。映画であろうが、音楽であろうが同じです。全てが自分のイメージどおりにできません。何かを捨て、何かを新しく入れなければできません。

 ですからこういうものでもみてほしいところは、結局何をとったか、そして何を捨てたかということです。それが歌い手の中で、それがどういうふうに起きているかということをみてほしいわけです。 わかりやすいことでいうと、音楽での歌の要素であれば、作詞、作曲、アレンジ、これが素材です。それをピアノをつけたり、バンドをつけたり、オーケストラをつけたりすることで違ってきます。それを演奏といいます。その演奏の中でも、ヴォーカルや役者、本人がもつそれぞれの個人の部分があります。

 ヴォーカルからみると伴奏ですが、彼らからみるとヴォーカルが伴奏の場合もあるかもしれません。自分たちの音楽に彼が詞をつけているだけだという場合もあると思います。こういう場合はこちらが素材になるわけです。 作詞家の世界においても、確かに作曲のことも考えるでしょう。しかし、素材は何かからとっているのです。今までの曲からとか、自分の日記とか、今までの人生からです。

○即興性

 今日の前半のところの課題というのは、ヴォーカリストがプロとして成り立つ要素として必要なものの条件です。これが決まらないと難しいのです。それはポリシーとスタンスということです。舞台でその人がもつ、もたないということは、その時間を楽しく過ごすことだけではなくて、それが終わった後に、また聞きたくなるか、もう一度それができるか、よりそれが広がっていくかということです。

 そのときに大切なことというのは、ひとつのルールがあるということです。そのルールというのが外にあるか、内にあるかというのは、難しい問題です。 例えば、ここでやっているレッスンというのは、すぐに聴いてそこで反応して作って出すというレッスンです。どうしてやるのかというと、外にある音楽をどんなに真似てみても、コピーしてみても、それは音楽たり得ないからです。

 表現であり、舞台である以上は、私がこうやっているレッスンも、今、覚えてきたことではなくて、自分の中でずっとあったことが、たまたま今日のレッスンでその形に出てきたわけです。 要は、ミュージシャンならその人の中に音楽、詩人であればことばが入っていなければいけないということです。これがオリジナリティになっていくのです。その人間を介して、素材を入れてみたら、どう変わっていくかということで、そこでプラスアルファーされたものが、アートの部分です。作られた部分、創造された部分です。 多くの場合、創造されるというと、変わった形、新しいものとして出てきます。

○古さの罪

 私が嫌いなのは、世代の違うものを、例えば40年前の人が歌ったものを、それと同じように歌う人です。それは退屈以外の何ものでもありません。時代は変わり、世界は変わっているのに、ただ、そういうものがあったんだよということのためにやるのだったらいいのですが、それは外側のルールに支配されているのです。 そうでなければ自分があれば、必ずここで気づいて変えるということが起きてきます。

 こういうレッスンでも、皆さんに入っているものによってこの気づき方というのは違ってきます。ほとんどの日本の場合は、そこで終わっている場合が多いのです。 彼らの場合はこれをかなり自由に変えています。それをどの土俵で変えるかということが、ヴォーカルの場合はわかりにくいのです。ピアニストなら、音色、曲想だけです。でもヴォーカルの場合は、声も違うし、歌も違うし、曲も違うとなって、それぞれに定められることが多いのです。

 ですから、ここの場合は土俵を音声1つに狭めています。ある意味では、この制限を強くつけるということによって、差が分かりやすくしているわけです。 例えば、1フレーズだけ聴いてみようとか、あるいは同じスタンダードなナンバーを聴いてみようとか、そういうことによって勉強がしやすくなります。宇多田さんの曲を違う人が歌っているから、私もそこからやってみようということです。

 現在のものでは、自分たちに入っているもの自体のところを、疑うということは難しいです。それを時代も空間も突き放して、そこから考えてみたほうがいいということです。 歌や曲がよかったというならば、その人がそれを聴いて歌ったところにさかのぼってみて、そこで何が行われているか比較してみようということです。そうしたら彼女の歌がどう聞こえるかということです。 これはイメージの世界です。自分の中でそのことができていようが、できてなかろうが、この基準を高くとるということは、人間の場合できるわけです。それを高くとらない限りすぐに下がります。

 皆さんよりもちょっと慣れているクラスの人気者がきたら、場はすぐにもっていかれてしまいます。でも全国一の人気者が来たら、そっちの方が面白いとなるのです。そういうふうに相対的なものです。それを判断していく基準というのは、どこかの対極に絶対的なものを置かなくてはいけないのです。これが音楽の神様になってきたりするわけです。一流といわれる人から入っていけばいいと思います。ただ、一流といわれる人はなかなかわかりにくいのです。

 サラヴォーンなどは、解説しても全然わからなかったという質問がきていましたが、わかるほどのものならおもしろくありません。そうしたらわかるものから聴いていくしかありません。例えば、ビートルズの自分が知っている曲をサラヴォーンが歌ったら、どうなっているんだと、そこで違うことは何だと、同じことは何なのかとそういうことです。そういうふうに比べてみてください。 ここはそういうレッスンを、ほぼ同じ素材で半年後とか、1年後とかに繰り返しています。素材が同じでも構わないのは、皆さん自体の感覚が変わったり、入っているものが違えば、それだけ気づくこととか、読み取れるものが変わってくるからです。そこですごいものが起きていたら卒業すればいいわけです。

○どうにかしたい欲求

 「待ちましょう」という歌で比べてみましょう。スタンダードナンバーで勉強できるところは何かというと、もし誰かが歌っている曲を自分が歌おうと思ったら、その曲の何かが自分に感じられたわけです。それからもう一つの要素は、それでいいなと思っているだけならばそれでいいのですが、本当は自分がどうにかしたいという何かが起きてくるわけです。☆それが本当に気づくということです。 自分のルールとか、音楽というものが、それを通じたらより表現できると、わかるのです。

 例えばシンガーソングライターがなぜ、わざわざこんな古い曲を新しく甦らせようと思うのでしょう。自分で書いた方が早いわけです。でも、その素材を使った方が自分のよい面が出やすいという場合です。 「枯葉」でも「ばら色の人生」でもスタンダードの条件は単純な曲です。歌い手によっては、よくも悪くもなります。そういうものほど、歌い手が力を出せるものというのはないのです。

 そういう意味でこれもスタンダードな曲です。これを聴いたときにあなたは何を感じ、どこが音楽になるのか、どこがその共通なルールなのかを知ることです。 このルールもいろいろとあって、音楽的なもの、表現的なもの、それから何よりも自分のルールということです。この自分のルールというのが、個と私の違いのようなものです。 こういう楽器の入り方というのにも、ヴォーカルの意志が反映されています。作曲家やアレンジャーの意志は反映されます。この曲はどういうことをいいたくて、どこにもっていきたくて、どう終わりたいのかということが曲の端々についてくるわけです。

 ここのレッスンもいろんな先生が、自分で何かに気づいて、感じていることを、皆さんに聴かせて、それを感じさせるように出すということで、やりやすいものを選別しているはずです。だから宇多田さんのを使ってやらないのは、あの中で感じ分けて出していくということは、難しいからです。差が見えにくいのです。それからあなた方が、次の作品をどの幅で置けばいいのかという土俵も狭すぎるわけです。かなり決められてしまいます。そうでなければ一人よがりのものが出てくるかです。

○どのように創るか

 こういう曲や、課題曲を聴いてみて、これを自分を通してみたら、どうすれば作品になるのか、どうすれば表現になるのか、舞台になるのかというところにポイントを置かなければいけません。そうしたら自分にあるものは何なのかというところに行きつくわけです。基本的にはそこで何を出すのかということです。 こういうものを聴いたときに、こういう感覚に慣れている人は、すぐに変え方から入っていきます。それはこの二つが入っているからです。この構成はこうであって、そこでのポイントはここだと、それをどこまで元の曲のもつオリジナル性をとってこれるかということになります。

 これを若い人達は無視してしまうのです。歴史にあんなにたくさんの曲があるということは、それぞれ違う意味での感覚の違いがあるわけです。それを充分に早く練りこんでとらなければいけないということです。 だから、出したときにそれが入っていなければいけないのです。音程やリズムを別の意味でちゃんとやっておかないといけないというのは、そういうものが入っていないと、全く成り立たなくなってしまうからです。こういう曲を聴いたときに、Aメロ、Bメロで、次にまたAメロに戻ったとか、そういう共通の了承が、歌にもあるのです。それこそが、歌の呼吸です。

 コード進行でも、おかしなコードが使われているわけでもありません。ただ、いくつか退屈させないように何らかの工夫が入っています。だからそういうベースの上に何が出ているかということを、プラスもマイナスも含めて、身につけていきます。 それが、その曲の作られ方の特徴でもあり、この歌い手は非常に淡々と歌っています。それでいて歌い手の一つのオリジナリティの発露になってくるのです。それに対して、自分はどういう立場をとるかということです。

○予測と仮想能力

 人間の優れているところは、他人のミスから自分のミスを予期することができるとか、俺がこうなったときにはこういう歌い方をするけれども、それでは全然通用しないとか、そのシミュレーションができることです。 歌というのもその繰り返しです。パッと何かを与えられたときに、自分がどこまで予測できて、その予測に対して音をきちんと置けるか、そこからどう動かしてやれるかということを瞬時にやれないといけません。即興の演奏力と同じ力でないと、音の中の世界では太刀打ちできません。

 そこで必ず仮想するわけです。その仮想の能力というのは、音楽が入っている人と、入っていない人では全然違います。基本的にはその人に何が入っているかという勝負になります。それが決まっていたら、そのことをやればいいのです。こういうレッスンは必要ありません。 それを決めていくために、自分の気づき方とか、創造とか、変わり方とか、自分が出したものの中でどれが価値があって、どれはダメなのかということをわかるために、今の段階ではいろんなことをやってみなければいけないのです。だいたいは量的に入っていない場合が多いのです。

 3曲の中でどれが好きですかということではありません。あくまでそこの差異です。結局、その人間の生きている時代や国、それから捉えるところでの入力での違い、その中での選別での違い、それから出したものの違いです。少なくとも酔っ払って歌ったわけでも、ライブで即興で歌ったわけでもなく、これは何かの狙いがあって、CDに落とし込んでいるのです。だからルールがあるのです。 もしかしたら、こんないい曲が台無しだと思う人もいるかもしれません。これは彼の中で練られたルールがあって、そのルールの中で考えるからです。それが外側のルールよりも深いところに、その内側のルールの方がきたときに、そこで初めて作品といえるのです。

○独創的とは

 だから独創的なものほど認められないのは当たり前です。外側のルールだけではわかりません。でもなぜ認められるものがあるのかというと、そこの中での一貫性があるからです。 例えば、初めに彼が弾いたギターのフレーズの方向性とか、そこでの感覚というのは最後まで一貫して通っています。途中で崩れたり、方向が違ったりはしていないのです。全てが計算されています。こちらがそこまでやるのというところ、普通の人ならばそのまえで満足してやめるんじゃないかというようなところよりも、もっと深いところの中で音が選別されて置かれているのです。声がそれぞれ違うために、音楽的な違いを出さずにすんでいるのではよくありません。

 歌の場合は、そういう基準がないというのは、おかしいのです。焼き物でも、絵でも、一流の人のものであったら、名前を見なくても一目でわかるのです。その人の色と、デッサン、線が出ているのです。

 そこでの基準が、一人よがりと何が違うのかというと、一流と三流を比べるまでもなく、詰めの完璧さです。 要は、最初にその三つを示したら、その三つに徹底的にこだわってみて、それを深めて一つにするという作業をしているのか、その三つから七つに広がってみたり、あいまいになってしまったりしていないか、ということです。声だけが流れていったり、最初はことばが前にいくのに、後のほうではことばがぞんざいに扱われていたりすると、完成度の低い作品になるのです。

 そのコンセプトで一つのものを伝えようとしているところが一致していないのです。だから、メロディー、ことば、それから自分の声を一致して一つを示すということでも大変なことなのです。 こういう人達は、それを一致させるだけでなく、一致させた上でどう動かすかということをやっています。その動かしかたの中で曲を作っているのです。

○動かないもの

 一番わかりやすいのは、コードだけを弾いて、それに合わせて歌ってみたときに、その作品がどのレベルになるのかということです。音楽が入っていたらそれができるわけです。 音の中で厳しいことをいうと、それはピアニストと、バイオリニストなどと同じ世界になってきます。日本の場合は、歌には基準がそれほど厳しくありませんから、歌えてしまったら、とりあえずそこはOKといわれるわけです。

 日本のように声を出すのも大変、歌を歌うのも大変という国が、歌というものに対して何を上達、うまいとか下手というのかということです。外国みたいに声が出るのは当たり前で、1オクターブを日常会話で使っている人たちがプロと認めるところの才能というのは何なのかを知ることです。そこでみていかなければいけません。それは全然違うわけです。 今の日本の状況というのは、テレビが主流になっています。面白い、面白くないのところで、面白く作っていかなくてはいけないのです。そこと本質的なものをみていくことは違うわけです。

 皆さんにとって、新しい曲をやっていくというのは、今の感覚にどんどんついていくというようなことかもしれません。 逆にいうと、基本のものとして、より早いものとか、より複雑なものをいれておいたら、それについていけなければおかしいわけです。その曲をやらなければそれができないというのであれば、その曲に間に合わないのです。それは一番遅いやり方になってしまうのです。 つまり、動かないものを追いかけた方がいいのです。動かないものの中で、自分が気づいているものとか、自分が変えたものというのは、将来に落ちてくる可能性があるものです。だからアーティストはそこでやっているわけです。

○フレージングの創出

「ベーラ」

 この始めのところで決まってしまうのです。だからそこまでの状態をスタートさせるということがひとつです。スタートさせてみたものがうまくいかないのはしょうがないのです。そんなに簡単なものではありません。でも、そのスタートまでがうまくいかない人は、そのスタートまでの準備をやっておくことです。「私の心に」 どれだけ聴こえていないかをまず知って欲しいのです。音の世界をとらえること、例えば今は6回くらいかけました。その前にも3回くらいかけています。Cのクラスでは、3回かけてすぐに入るのです。それで間違えないどころか、さらに先のことをやるのです。 慣れている慣れていないということもありますが、それがオーディションだったら終わりです。そのときにその表情ができなければ、その感情が入れられなければそれで終わりなのです。

 その準備状態を自分で作れない人が、歌1曲の中でそれをきちんと捉えながら、相手に与えつづけるということはできないのです。みていると簡単なのですが、それを実際にやるとどれだけ難しいのかということは、自分がやる立場になったときにわからなければだめです。わかっててもそれができなければだめです。その距離がみえなければだめなのです。 距離がみえるということは、彼らと同じ感覚にきちんと置かなければいけないのです。それが普通の人にとっては一番難しいと思います。 彼が示した音楽の規則を踏まえなければいけません。すると、「ベーラ」のあとに「わたしのー」というふうにはならないはずです。

 それを踏まえていて、それを拡大するか、もっと早く入るか、そこに必ずひとつの原型というのがあるわけです。音楽というのはそのリピートの繰り返しです。前のものをきちんと踏まえながら、そこにちょっとした変化をつけていくのです。音の世界をきちんとみてください。では、ことばでいってみましょう。「いつか私の心に」 同じように聞こえてしまいます。それをわざと違うようにやるのではなくて、それを言われたときに既に100くらいは捨ててきて、残りの3つくらいの中で選択できているかということです。それは、日頃そういう練習をしていなければ出てきません。

 音をつければ、「ミーラ、ラシドミミレレドシ」なのです。これがとれないということは、こういうものに慣れていないということもあるかもしれませんが、そういうパターンのものが入っていないのと、もうひとつは、こういう人たちの呼吸とか、声のところで感じられていないからです。【「待ちましょう」☆00.3.16】

○表現を引き受ける

「愛し合った君と僕の」

 声が出ないこととか、息ができないことでの問題は、あとで解決していかなくてはいけません。それが使えていないことが根本の問題です。しかし、まず、表現をきちんと引き受けるということをやらなくてはいけません。 こういう日常いえないセリフでも、歌の中ではいくらでもいえるのですから、それは踏まえなくてはいけません。たった一つのフレーズであっても、そこの中で練習をしない限り、何曲歌っても意味がないわけです。

 まず、あなたたちの心の状態、体の状態、呼吸の状態を用意します。少なくとも「愛し合った」といえる状態に自分で追いこまないといけません。 だから始まっていないということです。劇団でも同じことをいわれると思います。でも、劇団ではそれがいえるまで、せりふをやらされるからよいのです。歌の場合は次の課題にいってしまいますから、自分でやらなくてはいけません。自分でできることだからです。

 声を出してやらなくてもよいですが、少なくともイメージと感覚をもたなくてはいけません。確かに音もずれているし、フレーズもおかしいのですが、それ以前の問題です。 まず自分のこととして全然引き受けていないのです。そこからしかレッスンが始まらないということです。大切なことは、自分がやってみて実感をつかまない限り、お客さんも実感をつかむことはできないということです。 歌い手が自分で空々しいなと思って歌っているものに、お客が心を奪われることはないのです。

 ただ、多くの音楽の場合はいろんなごまかしがありますから、トレーニングではそのごまかしを全部取ってみる必要があるのです。取って自分がやってみたときに、少なくともその心とか、そこにもっている思いみたいなものがその声を通じて出す方向にいかないといけません。のどにきてうまくいえないというなら、それはいきすぎて、発声器官のところに力が入ってしまっているわけです。 現実の場とは実際の舞台は違いますが、そのコントロールをしていかなければいけません。イメージを音にするのにどうすればよいというときに、リズムやメロディが、もう少し突き放して歌いたいということでついてきたものに過ぎないのです。

○スタンスのとり方

 「愛し合った」の「あいし」のところをきちんと伝わるようにしてみましょう。日頃「ハイ」でやっているところで「あい」とそのまま入ればよいのです。全然違うところでやって、基本からそれてしまっているのです。基本に入っていてそれを応用するのならばよいのですが、基本に入れないでそらしているだけならば、何の練習にもなりません。

 まず「ハイ」と入ってから、そのまま「あいし」と言ってください。「ハイ、あいし」とやってください。「ハイ、あいし」 あなたがやっていることは、ことばと歌の世界には結びついてこないところです。お互いに聴いていても何かしらじらしく「ハイ」と「あい」としか聞えてこなかったと思います。それを出そうと思って、その気持ちになっても、それができないときは、イメージを声にするところのミスなのです。そのイメージや、想像力のようなものが、そこに全然ないのです。呼吸もないのです。 日常のところで話したり、ステージでやるときはそういうものがもってこれるのに、こういうトレーニングのときにそれがもってこれないというのは、完全に離れてしまっているわけです。

 離れているのは、離れている練習としてやる分には、構いません。たとえば、体は体づくりとしてやってもそれはそれでよいと思います。ただ、どこかの部分でそれはどこにいくんだということを明示してやらないと、本当に体づくりのための体や、声づくりのための声になって、ステージに反映してこなくなります。 そこのギャップは自分でも感じられたと思います。自分のがわからなければ、他の人のを聴いてみればよいのです。 「ハイ」のトレーニングになれば、次に、その「ハイ」と「あいし」を結び付けていくことです。 体と息と声を結びつけるのです。この結びつきをつけて、声のところで丁寧に、微妙ないろいろな感情を音色で出したいがために、それだけ必要な息があって、体が必要なのです。

 だから日頃、土台を鍛えておかないと何も変わらないということです。ピアニストが集中力トレーニングやイメージトレーニングしたり、よい曲を聴いたり、鍵盤上で腕を動かす練習をするのと同じです。歌の場合もそういうことが前提になります。 もうひとつ必要なことは、それを結びつけることです。いくらそういうことをやっていても、実際の曲を弾いてみないとわかりません。 それがここはV検や、L懇で組みたてられています。自分のスタンスで、それをどう使うかは自分で決めてよいのです。

 例えば、全く声がない人が感情をいれても、余計に声が出なくなるだけです。 しかし、それはそういうスタンスで勉強すればよいのです。でもある程度ステージで歌えている人が、いつまでもそういう練習をしていてもだめです。それはそれでやる、これはこれでやるということで結果としてそれが一つになることが大切です。

○動かす、生かす

 今みんなに必要なことは、メロディがついていない、リズムがついていないところに、自分のメロディ、自分のリズムを取り出して、自分の声が動きやすいところにきちんとしたメロディなり、リズムを生じさせて、それをきちんと体に入れていくことです。自分の方から動き出すことです。 そういうふうに考えて練習していってください。体とか息とかがありすぎて困ることはありません。声も使うところ以外は使わなければよいのです。そういう意味では、徹底してやるとよいと思います。

 日本人で一番難しいのはポジションの問題です。彼らはこの2オクターブの歌をこともなく歌っています。日頃、聴かないような音楽を聴いたときに取りにくいのは、それが欧米の感覚だからです。ジャズでも、日本人が歌ったものであれば、英語が聞きとりやすく写しやすいでしょう。日本人の感覚で英語を捉えて、日本人の感覚で発音をしているからです。だから、ネイティブではないわけです。 アジアやヨーロッパの英語がわかりやすいのは、同じ第2、第3外国語同士だから、基本単語と、基本文法しか使わないからです。

 そういう意味でいうと、ネイティブな感覚から勉強するということは大切なことなのですが、なかなかできないのです。例えば音域という考え方が、彼らにはないわけです。日常の会話の中で1オクターブくらいは出しているからです。そこで発音や、ことばのところにとらわれてしまう民族と、すぐに音楽に応用できる民族との差は大きなものです。 カンツォーネとかシャンソンをプロの人が勉強しに来て、引っかかっていたところは、彼らもそうやりたいのに音程とことばをとるという勉強をずっとやってきていて抜け出せなかったわけです。 プロになってからそれより優先させて音色とリズムをとれといっても難しいのです。何よりも客が求めていないからです。

 ネイティブに近づけるということではなく、皆さんは自分の感覚でやっていけばよいのです。音の世界をみる上で勉強です。 これを3回聴いてみてパッと取れるという人は、優秀だと思います。日本のプロの中でもあまりいないと思います。 3回聴いている間にこの詞に合わせていくのです。みんなこの歌詞のとおりにはやりませんでした。本当の感覚があれば、すぐにそのままできるのです。 早口ことばになって歌いにくいですから、それぞれに変えていましたね。与えた時間というのは3回聴かせただけです。1回目で吸収して、2回目で合わせて、3回目でその合わせたものをどう出すかということをするのです。その作業ができなければ3回ではできないわけです。

 歌い手は、1回や2回聴いてもできなくても300回でも3000回でも誰よりも練習して、その曲が作り、作ったあとに崩れなければよいといっていました。ただ、すぐれた人をみているうちに考え方が変わってきました。伸びた人を見てきて変わってきたのですが、3回でできない人は300回やってみてもできないということがわかってきたのです。 完全に作ったものを再現すればよいという考え方は日本的な考え方です。努力して努力して、その歌の心まで読みこんで、たくさん歌ったらその歌がよくなる、そしてよくなったら壊れない。☆ そんなことはないのです。 逆にいうと、その場のその感覚のところでできないものが、そこで作れないものがうまくいくわけがないのです。ライブは生き物だからです。

○表現を創る

 1回完成されたものというのは、常に作り変えていかない限り、同じだけの刺激というのは与えられないわけです。それだけ弱まってしまいます。歌というのは常に変化していくものです。 ということは、1回目でわかり、2回目で作れ、3回目でそれが確認できるという作業ができている人達の感覚をとっていかなければ、本当の意味での音の世界というのは比べられないということです。 ですから、上のグレードではかなり厳しくやらせています。ことばもいえなかったり、突っかかったりしています。でも彼らは、音程をとっているのではないのです。あくまで表現をとっているのです。

 だから置き方を変えてみたり、テンポを変えてみたり、自分の呼吸に合わせたりしています。自分のことをわかっているということも歌の世界のこともわかるということも必要です。それをどう変えればよいかということを、自分に降ろしてこれるということはもっと大変です。ましてや慣れない曲でやるときには、思っている以上に大変です。何とか1時間かけて、やっとフレーズでも出てくればよいというくらいだと思います。 1番から4番までどういうふうに音の世界を作っていくかということです。そういうものを勉強してみて、音の中でどう展開していくかです。いろいろな解釈の仕方があります。皆さんがきちんとトレーニングをして、そのまま歌を捉えていくと、この日本人のプロの半分とか、3分の1くらいの力で終わりかねないのです。

 大切なことは、基本の力というのは応用が利くわけです。応用というのは固めてはいけないわけです。こういうベースがあっても、そこに戻れなくなると、息が通れないから死んでしまうのです。 歌というのは、日本の場合は、形を先に作って、それを真似ていきます。けれども、そうではなくて、そこで結果としてやったら形として出てくるわけです。最初から形を狙ってやるわけではありません。 決まったものを決まった形でやるのはクラシックの世界です。その中でも優秀な指揮者というのは、その中で即興で新しいことを起こしています。それだけ独自の色を出せます。

 そのレベルが楽譜を変えないところでやられているかどうかです。 楽譜が変わってしまうのはオリジナリティとは違うわけです。歌い手の難しいのは、そこまで変えても別に何も言われないところです。大切なことは芸術は、真実なもので、客が聞いてイマジネーションが広げられるもの、あるいは何かに気づかされることを引き起こすことが狙いなのです。

 だから与える、伝えるというわけです。そうでなければ、単なる展示会にしかならないわけです。絵でも、ぱっと見てよい絵だなと思うだけです。でもそれ以上に欲しくなったり、もっと見たくなるというのは、そこに何かの訴えかけがあるのです。それを感じているのです。 ですから、確実な形まで決めてしまったら、同じところで育ったり、同じ世代の人しかそれをよいと思わないということになります。それはそれでポップスの特徴です。でも、応用できても基本がなければそこで終わってしまいます。ここでできることというのは、基本の中にある体と声と息のところで、息が声を発し、声が歌を発するところのプロセスをきちんとみるということです。 それを人様の歌でやるのではなく、人様の歌とか、自分の歌とか関係なく、そこで何が起こせ、そこの音の中でどれだけオリジナリティが出せるかということです。そこまで必要なければ、声などやる意味もないのです。

○判断力

 もうひとつはその判断力です。そういうものを必要とするものは何なのかということです。日本人の歌の中でもいろいろとあります。日本の歌い手の場合は、そのレベルになっても、周りがいい加減ですから、妥協するように曲を歌ってしまうのです。要は、創造性に欠けるようなものが多いのです。

 皆さんにもいろいろと紹介していますが、それもよいもので紹介しているからあまり気づかないだけです。一歩間違うと、とんでもないような歌になっていることもあります。例えば、向こうの歌い手と同じくらいの力で、感覚がある人でも、多くは他の曲になるとかなり見本にとれなくなります。 こういうふうに放り出されたものというのは、インパクトやパワーでもっていっている分には応用が利くのです。ところがまとめたものだと限界がみえてきてしまいます。それがよいとか悪いではありません。この人の世界が好きな人はそれでよいのです。ファンであればということです。

 つまり、基本を勉強するときに使う教材にはならないということです。日本の歌い手の場合は、それを歌によってとか、歌の中のほんの1部でしか、その基本がきちんと示せていない場合が多いのです。そこを間違わないようにしてください。学べることもたくさんあります。「モンマルトルのアパルトマンの窓辺の開く リラの花よ 愛の部屋で」 「リラの花よ」の中で何が起きているのか、「愛の部屋で」の間で何を作っているかということを聴ける耳を作っていってください。聴いたときに、ことばが飛びこんでくるかです。何をやっているのかわからないなら、聞くことです。 そのことを自分で出したときに瞬時に判断していかないと舞台には立てないのです。その中にメロディも、リズムもあります。

 何よりもこういう歌の場合は呼吸になってきます。特に勉強していくほど、聴くというのと入れるというのはずいぶん違うのです。聴くのは表側で、入れるのはその中の感覚です。 そうしないと基本の部分には戻らないのです。そこで戻って再構成するのです。そこで自分のを作るのです。それはイメージの中の世界ですから、実際に出してそして確かめていかなくてはいけません。 常に考えて欲しいのは、器用にこなして歌う必要はないのです。やるべきことは、創るということと、それを確認するということです。できたらそれを修正してもう一度作り上げるという、そこのプロセスを大切にしなくてはいけません。 ここは日本の歌い手が、あまりやっていないところです。聴いて真似て歌うということはやっていますが、その中に何かを込めて、しかもそのこめ方を他の人とは違うようにすることはやっていません。

 皆さんにここでやってほしいことは、一言いったときに周りがドキッとしたり、ビクッとしたり、ああよいなと思ったり、そういうことを引き起こすことです。一言で起こせないことは、1フレーズでも起こせないのです。 歌というのはいろいろな勝負の仕方もあります。こういうふうに雰囲気でもっていく場合もあります。そういう雰囲気や、形は好きな人には通用します。ルックスがよいとか、そういう感じがするとか、シャンソンみたいな声がするとか、そういう人にはよいのですが、それ以外の人は通用しないのです。だから、トレーニングでは、やめるべきです。

○イメージとギリギリの煮詰め

「愛し合った君と僕との二十歳の頃」

 やってほしいことは、そこで何を入れるかということです。それをギリギリに出したほうが呼吸も体も働いてきます。 そうしたら今度はイメージの問題です。「あいし」で落としたり、そういう変化をつけようとしたら、その容量分のパワーが必要になってきます。 いろいろな呼吸のとり方があります。「愛し合った」で開けると「君と僕」とすぐに入れます。それは呼吸で決まってきます。その前に感覚とイメージが必要です。あとはブレイクです。全部を伸ばしていても何も聞えなくなってしまいます。プロもだいたい語尾は抜いていきますが、初心者がやると息も抜けてしまうのです。 彼らはきちんと体が入っているところでことばだけを抜くのですが、そういうことがなかなかできなくて、体も抜くようなくせがついてしまいます。そうするとパクパクするような歌い方になってしまいます。だから「愛し合った」の中でどこかを止めるのです。

 「愛しあ」で止めてもよいし「あった」でもよいのですが、そこで体も止めるといけません。息が止まってしまうと音楽も止まってしまいますから、音楽をもっと入れておかなければいけません。その攻めぎ合いだと思います。 自分で感情を入れてやっていくと、どちらかというと止まる方向にいってしまいます。だからメロディ処理のようになってきます。それはそれでよいのですが、その中にきちんと体と息が流れていないと、そこで止まってしまいます。 そんなに何通りも歌い方があるわけではないのです。お客さんがその人の歌い方がよいなと思ったり、あるいはこういういろいろな歌い方ができる人のどれかを選ぶということは、その選ばれたものというのは、そういうものがあっているわけです。音楽に合い、自分に合い、そのギリギリのところでやっているのです。

 よく何通りも歌えるという人がいますが、それは煮詰められていないのです。おかしなもので、歌い手には余裕がないと歌えないのですが、聴いている方はギリギリで歌っているのを見たいのです。 だから実際の力は余力があっても、それを全部前に出していくというような方向がないと、歌い手だけの世界になってしまいます。 そうならないためのポイントというのがあります。「愛し合った」で何かを出そうとしていると煮詰まってきますが、そこを簡単に歌えてしまったら、何も引きつけられないのです。勝手に歌っていると思われてしまいます。

 だからまずはことばなどから勉強してみてください。メロディやリズムがついたところでそれをやらなければいけないから難しいのです。それに合わせようとしてやらないことです。まずは、その息があって、それが声になって、それが歌になっていくということです。できたらそれが音楽になるということです。手を抜かないでつめてやっください。 曲は何でもよいです。向こうのオーソドックスなものや、スタンダードのジャズなどもよいと思います。【「ラボエーム」入@ 00.3.9】


■レッスン(入門以外)

○感じて鋭く動く

 音から声、声から音と両方からのアプローチがあります。実際のレッスンや舞台の中では音として進めているこの流れの中で、声を読み込んでいくことです。 例えば、普通の状態で音楽を聴いていると、悲しくなってきたり、感情が生じてきたり、笑っているうちに楽しくなってきたり、そういうこともあります。それから自分の感情から端を発していくこともあります。悲しくて声が上がってしまったり、苦しくてわめいたり、そういうふうに体が反応していくこともあります。

 器を広げるということでいえば、わかるものよりもわからないものに接しておくことです。わからないけれども、どうしても引きつけられるものがあるとしたら、わずか10秒でも1秒でもそういうものがあるとしたら、そうではないものが世の中には多いわけですから、大切にしてください。わかってしまったらおわりです。人間というのはわかりたいのですから、わからないものが永遠のテーマになってきます。

 皆さんの中でやってほしいことは、感じとることです。レッスンでもそのためにあって、感じるだけならば自分の好きなところに行って、好きな音楽を聴いていればよいのです。 こういうところに来たら、否応なしに聴かされて、それが嫌な場合も、不快な場合もあるでしょう。もっと面白いものが聴きたいと思うかもしれませんが、もしあなたに能力があるとしたら、ここから感じとることができるはずです。 レッスンでも、あなた方の想像性が豊かにあれば、たくさん学べるものがあるはずです。想像力を働かせず、あれもこれもトレーナーがやってしまうのはよくないレッスンです。

 次の段階では、受身だったものが、ポジティブになってくることです。最初は状況から与えられます。状況から与えられるというのは、動物と同じです。 それを人間は、自分のイメージで感じとり、ないものをあるもののように実在化して感じることができます。思い出して涙を流すということは動物はできません。後先のことを考えるから悩んだりするわけです。苦しければ本当はじっとしているしかありません。ですから動物の世界では、間違えることはないのです。イメージの時点で何が間違いか何が正しいのかは、難しい問題になってきます。

 次にそれをどう捉えるかという、本質の把握力ということになります。その中で何を取っていくのかということになりますが、この辺からいろいろな差が出てくるわけです。 こういう世界でやっていける人というのは、日常の生活がどうであれ、鋭さを持っていなければいけません。これを磨いていかなくてはいけません。 問題なのは、こういう舞台の世界はここから先の世界だということです。お客さんのままでは、ここまででよいのです。

○伝えるために

 立つ立場であるということは、この捉えたものをひとつのものに想像していかなくてはいけません。表現していかなくてはいけません。知恵を出して、アイデアを出して、作っていかなくてはいけません。そうやって取り出されていくわけです。それが皆さんの舞台での作品というものになります。 感覚とか、感性というのは、非常にあいまいなものです。アナログっぽいものでありながら、ある段階から、つまり、人に伝えるということを考えた時点から、何らかの論理性を帯びてくるということです☆。 どんな曲でも、ルールが通っています。これがバラバラだったら、人は非常にアンバランスになってしまいます。そうさせる音楽もありますが、それでは聴いていても消化しないのです。それを表現する立場からみることです。

 私もいつもいい加減にしゃべっているようですが、こうやって組み立てないと、伝わらないのです。みんなが組みたてる能力があれば、より多くのものを学べるのですが、それまではこちらが噛みくだかなくてはなりません。 これが次の段階になると、自分の個人の世界とか、スピリチュアルな世界になっていくわけです。歌の世界にしろ、小説でも映画でも実在ではないのです。いつもリアリティということをいいますが、それは虚構のもののなかの真実性であって、これは事実とは違うのです。それを目で見ただけでは、本当かどうかはわからないのです。

 あとは、根っこのところで、宇宙観とか、生命のレベル、感性は元々みずみずしいものです。 皆さんの中に好きとか、嫌いとかということで入ってきています。しかし、そこで動かされてはいけないということです。思いつきでやだけではなく、常にビジョンをもって、それを確実に取り出して組みたてるということです。それには、ずいぶん違う能力が必要なのです。

 もうひとつは時間や空間の感覚です。それが実質を伴っているということです。日本の場合は必ずしもそうじゃなくて、誰かの真似をした方が受け入れやすいというような、加工を好む文化があります。そうでない異端者はなかなか認められません。 今は表現するということと、生きるということが昔みたいに対立項になっていません。グリーンマイルという映画が日本では上映されています。長く生きることは辛いことだということが、一貫して流れています。生死どっちを選びますかということで、生のみを選ぶという社会においては、こういうことは難しいのかという気もします。

○最低限のこと

 今日やりたいことは声から音に、音から声にするということです。 直接ことばから入っていきます。本当は、こういうのは歌詞を覚えて、ことばは日本語でやり、感覚は曲でやる方がよいのです。皆さんの場合は分裂が起きてしまうと思いますから、ことばだけでやってみましょう。「私達は生まれ変わる 愛の力で 生まれ変わる」 こうやって私が違うところに時間を使えば使うほど、あなた方に、もったいないことになるのです。私もこういうことで人生の時間を奪われたいとは思わないのです。 決まりというのは守らないならば守らなくてもよいのですが、それは誰のためにあるのかということです。それはお互いのためにあるわけです。

 皆さんはほとんど規則を読んでないのでしょうか。何かの依頼が来たときに、それが頭に入っていることが前提でいろいろなことが進んでいきます。あなた方はそこで怒られたり、注意された経験が今までもあまりないのでしょう 無断欠席の人は、余程の事情がない限り、参加させません。そういう社会もあるのです。実際にあなた方が自分の力でやっていこうとすると、そういう社会になってきます。 お金を払ってくれるのだったら、どこの学校でもよいですよというと思います。

 しかし、自分に対する約束が守れないのです。他の人が誰も信用してくれません。 だから、私は怒ることはしません。あなた方にとっては、損なことです。こういう時間自体ももったいないのです。でも、許容しているわけではありません。 ステージでの作品ができないのはよいのですが、その前のその前提のそういう素地ができないことに関しては、厳しくしなければいけません。同じ接するのであれば、できるだけ創造する時間にあてたいので、そういうことは掲示しています。

 最低限のことしか、ここでは周辺のことに時間を費やしたくないのです。自分に配られたものはきちんと読んでおくことです。注意されなければやっていけるという世の中かもしれませんが、でももし自分が自分の世界を作っていきたいと思ったならば、それではやっていけません。やるのが当たり前だからです。きっと他にやっていない人がいるからやっていないのでしょう。そういう人はダメでしょう。 それは私も評価しません。もっと厳しく世の中では見ています。 昔は周りがやさしかったから注意してくれたのです。今はしてくれませんから、なかなか気づきません。ですから自分できちんと責任を持ってやるようにしてください。

○出してみる

「遠い月日 3001年に そのとき空は輝くだろう」

 4つのことばを、4つに分けなくてもよいのです。そういう世界が音で聞え、自分の中で読みこめると、自分の中でそれが加工されてでてくるのです。 皆さんとお約束したことは、音声の中で舞台で表現することです。あなたの中から、表情も動きも、飛んでくるものに出会わせてほしいのです。 レッスンの中ですから、何をやってもよいというのはありますが、そのときにそれができない要素がまだまだあります。 Cの授業は、これを3回聴かせてすぐにやらせています。当然慣れもありますが、そのくらいに適応していくのが一つのレベルです。皆さんの中でまだ遠慮している人がいるかもしれませんが、そんな必要はありません。自分だけ抜けて当たり前と考えてください。

 もっと基本的なトレーニングをして欲しいと思っている人もいるかもしれません。でも出口をみておかなければなりません。低いテンションでいくら鈍い感覚で練習をやっていても、10年経っても何も変わりません。 それはレースというものをみたこともない、F1に触ったことも、同乗したこともないのに、教習所に行ったらすごいレースができると、どこかで考えているのと同じくらいおかしなことです。 ここでやっているレッスンというのは、基本的なことなのです。それが体の中に入っていないと難しいことになります。だから、自分で自分を理解することが必要です。 例えば、歌のレッスンでも、発声からやっていくという先生や、始めからCDを作らせるという先生もいます。これじゃダメだろう、だから直そうというやり方もあるのです。

 結局、出してみないと、自分の中に入っているものはわからないのです。入っているか、入っていないかさえもわからないのです。そこの場でできたものしか認められないわけです。その中でもいろいろな差がありますが、それはどうでもよいのです。こういうものを聴いていくと、そのうち入ってきて、そういう感覚が磨かれてきます。そして場に出続けることで、自然と自分の中にそういう条件が用意されてきます。 そうすると気づかないうちにできてくるのです。それが一番よいのです。自分で無理にやろうとしても、それにはものすごい無理があるわけです。 そういうふうに考えてみてください。音声で表現する舞台なのですが、いつのまにか音声ではなくて、違うものを期待する人もいます。しかし、ここの場合はそれをメインに考えています。

 皆さんの考えている以上に、皆さんの音を捉える力、音を出す力というのは衰えていると思います。よいものをみればみるほど、あのくらいは2年でやれそうだと思ったり、1年くらいであのくらいにはなれると思うものです。そうでないことは先輩から学ぶとよいと思います。 一部のそのことがわかっている人ほど、距離が長くなってくることがきちんとわかっているのです。それを縮めていかなくてはいけません。ことばのもつ力とか、声のもつ力とか、音のもつ力とかを、もっと根本のところで捉えて欲しいということです。そういうことをやってきた人達が、アーティストなのです。

○テーマとドラマ「約束」 雪村いずみ

 歌い方についてよいとか、悪いとかいうのではありません。音楽的な観点とかはまた別です。子供のような声を出し技巧的にこなしている分、それでわかりやすいところと、劣えているところがあります。 でも、伝えたいことをきちんと捉えて、はっきりさせています。約束というテーマに対して、何を出すかということを構成し、自分がきちんとリードして音の世界で組み立てています。どこで焦点をもって、その焦点に対してピタッと合わせて落としていくというような、ドラマ劇の処方がきちんととれているわけです。その理論を勉強するのではなくて、自分が感じる、その能力をできたら10倍、100倍にして、あなたが創造して欲しいということです。 いろいろなものを見て、大切なことはそれから感じとることです。例えば、この曲をたった4フレーズとか、8フレーズでもやっていくと、次に聴くときは聴きやすくなります。何を言っているのかも少しもわかりやすくなります。

 それは別にレッスンの効果が出たということではなく、本来は1回聴いたときに、それだけのものが入っていなければいけなかったことが、入っていないから自分でチェックして、入っていないということを知って、もっと真剣に聴いたからです。 みんなの聴き方でも、あとでこれを全員で回しますといったら真剣に聴くのに、そうでなかったらそんなふうには聴かないでしょう。それが普通ですが、それでは困ります。何かを表現していきたいのであれば、常に真剣な立場から、音とか映画とかをみていかないと得られません。制作サイドと、それをお客さんとしてみるのとでは180度違うのです。

 簡単そうに見えることが、どんなに難しいかということを知って初めて接点がつくのです。でもそれがわかるようでいて、どのくらい違うのかがわからないのです。そこをきちんと見ていくことです。これを3回聴いて、すぐに12フレーズをいえる人と、1フレーズもできない人とでは、かなり能力の差があるのです。 それを俺は3ヶ月かけたら、少しはできるようになると思っていたら、甘いのです。そこできちんと違いを見ておかなければいけません。それより有利なことというのは何もないのです。 それが入っている人というのは、それしかできないのではなくて、それが入っていることによって、他のこともできるのです。だから応用してみて、その差をきちんと詰めていくことです。それはきちんと事実としてみていかなくてはいけません。

○生身と切りかえ

「ほらほら兄弟達 勇気を出して 死ぬことよりも難しいのは生まれ変わること」

 ここは研究所ですから、次の年に力がついて、また次の年にどんどん力がついていけばよいといっています。つまり、ある人が1年で行くところを、10年かかってでもよいということです。 自分の力をきちんと見るということをしていかなくては、上達というのは続かないのです。1年後にこの授業をやったときに、もう少し何とかなるようにしようということです。

 そこで逃げを使わないことです。そんなに急に言われてもできないとか、自分のやっている曲でないからといっても、たぶんあなたが知って、あるレベル以上のことをやっている人は、これを3回聴いたらパッとやってしまうと思います。 それだけ自分の中にある感情のようなものを、きちんと瞬時に把握して音声にするということです。自分で言ってみて空々しいなと思ったら、やはりダメでしょう。 それからそういう感情があって、イメージがせっかくあっても、それをことばで取り出したり、すぐにメロディにくっつけてみたり、音として動かすというところの柔軟性とか、方法などがなければいけません。

 音楽というのは、いろいろな逃げ方があります。確かに今までバンドでやって来たり、自分の曲をやったりしている人もいます。それをここでやってみたときに、プロの感覚と、プロの体ということをみます。そのためには、これだけでオーディションをやってよいのです。対応できなければ、他のことも対応できないというくらい、はっきりとしているということです。できないことは全然構わないのです。それがどうしたらできるようになるかということに方向をつけていくのです。 こういう課題というのは、基本的なものです。歌を歌うにも、役者や声優をやるにも基本です。だから下にうごめいている、そういう感情がない、その感情に入っていけない、こういうのは今のJポップスでは学ぶには難しいでしょう。よく聞くことです。 人間の生身のところで、どんな音声が出てくるのかとか、どんな表情があるんだとか、そういうことに敏感になることです。

 グリーンマイルは3人の死刑囚が殺されるという話を、どうしたら小説という形になり、どうしたら映画という形になるのかというお手本です。そういうことをどういうふうにその人達は組み立てているのかというようなところを勉強してください。そういうパターンがたくさん入っていたら、わけのわからないものがパッと来ても、少なくとも他の人とは全然違う程度に、頭角を表せる何かが出てくるということです。それが本当の力です。 生の部分というのがもう少し欲しいと感じます。すぐに切りかえるのは難しいとは思いますが、がんばってください。タレントも、お笑いの人も切り替えています。みんなもレッスンの場で切り替えないといけないと思います。

○世界で同じものを伝える

 次の合宿に向けて、前の合宿のものを張り出しています。全世界の歌でも、映画でも、伝えていることは、楽しい、うれしいとか、悲しいとか、怒りとかということくらいです。そんなにたくさんの種類のものがあるわけではないのです。根本的に捉えてみたら同じなのです。国を超え、人種を超えて動かすものは同じなのです。

 それがエビータという、筋書きに対して、なぜマドンナが権利を買って、やりたいといったのかです。自分自身が伝説的な人間でありながら、何で他人の役をやるのかというと、その形を使うことによって、もっと自分が演じられるということを知っているからです。歌い手もそれに近いのです。 だから美空ひばりの歌や、昔のフォークソングを入れても、その人が本当にそのことを積み上げてきているならば、表現ができるのです。その共通のものがなければ、見ている方が違和感をもちます。それをもたせるのがその人の芸の力です。

 今までにつけてきた、いろいろなレッテルとか、ものの見方とか、そういうものを全部一回はいでみて、一番もとになるようなところをきちんとつかんでください。 それを今の課題で、ことばで表した人もいますし、声で表した人もいます。少しメロディをつけて音楽にした人もいます。でもどれもすごく未完成です。自分達でやっていても、客としてみたいとは思わないと思います。それを100回でも1000回でもよいからやって、できるだけ早くよいものをとり出していきましょう。 本当は早くというのは目的ではないのです。しかし、たとえば絵の世界でも、パッとみたときに、これは10年以上かかった技術でこれを作ってみたと、それだけ、他の人がかかってもこれは作れないなという何かを出しているのです。その世界にいる人なら、この絵がどのくらいのものかということがわかる何かです。

 そういうパターンをたくさんもって欲しいのです。悲しみ、喜びのパターンとか、マニュアル的ですが、たとえば「未来に向けて」という、ひとつのことばでもよいです。「未来」ということを、本当の意味では、噛み砕いたことも、歌ったこともないと思います。そういう歌は歌ったことがあるかもしれませんが、本当の意味できちんとつめこんできていないと、応用が利かないのです。

 それを違うことばにしてみてもよいでしょう。ことばの表向きのところではなくて、それが出てきたところでの根っこの部分をたくさん入れ、それが求められたときに応じて、一番よいものが選ばれて出てくるようにすることです。 それが本当の意味でのオリジナルのフレーズです。オリジナルの声というのは、そういうものが一番つかみやすいために、柔軟に応用が利くというような意味です。その声自体がずっと悲しいというように、その声自体に性格がついてしまうと、応用が利かなくなってしまいます。だから優れたアーティストほど、器楽的な声を持ちます☆。楽器音のような声をもちます。

 日本の場合は、悲しい歌だと、悲しいようにずいぶん親切に色をつけてしまうのですが、観客の能力がもう少し高ければ、音の演奏だけでそれをわからせることができます。歌い手もそこにこだわるはずです。 いろいろな人がある人の歌を、心地が悪いといっていました。それは慣れの部分もあります。しかし、心地悪いものというのは、より真実をつきつけられるものとか、より深いものが入っていることもあるのです。

 すごいものを見てしまったら、ものすごく気持ちはよいのですが、自分が根こそぎひっくり返されたり、自分は一体何なのだろうとか、思わせられるでしょう。自分は何もなっていないなと思うことは、誰でも嫌です。そういうものとは対話したくないと思うのですが、もし上達したいのであれば、それを認めていくことで勉強が成り立っていくのです。 そうやってきちんと負けていけばよいのです。いろいろなアーティストに徹底して負けていくと、そのうち小さく勝てるようになります。きちんと負けられない人は、勝てることもないのです。俺が一番勝っていると思ったらそれでよい、つまり、もう終わりです。

○編集力

 レッスンを受けたあとに、自分なりに課題を作ってみて、それに取り組んでみて、来年に同じ課題がきたときに、今の数倍のことができるようになることです。それが伸びているということです。 それは歌が急にうまくなるとか、確実に音程がとれるとか、そんなことよりも大切なことです。そういうものがきちんと正されて、感覚が正されてきたら、よくなっていきます。苦労している、音が取れないとか、ことばがいえないとか、発音がはっきりしないという問題は解決していきます。いつのまにかできているようになります。

 発音や音程で聞かれるということは、内容がないのですから、やめた方がよいと思っています。それはそれで直していかなくてはいけないと思います。 それから自分の強みというのは何かということをきちんとみていくことです。いろいろな課題のときも、音から声に、声から音にしていくことです。ことばからメロディ、メロディからことばにしていくのでもよいのです。両方の面からみてください。 何回もそのメロディを聞いていたら感情が生じるときもあれば、感情が生じてそのメロディが浮かんでくることもあります。歌はこの増幅作用ですから、これをいったりきたりしながらよい作品を作っていくのです。 長くやったほうが得だとか、印象に残るというのはアマチュアの世界です。プロの世界は逆です。短くやって、早くひっこんで、たくさんの印象が残る方がよいのです。たくさんの相手をしてもらえるのともっとよいでしょう。

 長くやるのがダメではないのです。なぜ歌は3分間もやるのかというと、それで価値が出るからです。それは最低限のものです。そこで、いらないものは切っていかなければいけません。話も、ダラダラとしていたら、せっかくのよい内容もダメになってしまいます。だからといって、本質だけを一言でパッといっても、図も描かないでやるとわかりません。もっと論理的な構成をとらなくては伝わらないのです。そのギリギリのところでやることです。

 逆にいうと、伝わらないときに長くなってしまうことがあります。一言では伝わらないから、もう一言いってみるとか、同じ歌詞を何度も繰り返すとか、そういう方法もあります。ただ、そういう使われ方ではなくて、一言でいったら一つ伝わるのですが、二言でいったら三つ伝わると、だから二言にするとか、相乗的に積み重ねるべきです。 どこを選んでもよいでしょう。歌詞を変えすぎるとおかしくなる場合もありますが、メロディくらいは変えてもよいです。「愛の力で 生まれ変わる」 人数がいるときは、他の人のを聞いてみてください。

 まず、音程を変えた人はともかく、とれていない人はよいことではありません。それからこういう実験の場において、取り組むべき要素に取り組んだ方がよいと思います。ことばも、メロディも、それなりの素材があって、その同じ素材の中でどう変えられるかということです。素材自体は、ここでは悪いものは使っていないと思います。この一つのタッチなり、そういうものを参考にして、よりよくすることです。

 よりよくするということは、この人よりもうまく歌うということではありません。より自分の強みのところにもってきます。強いところは変え、弱いところは切り捨てるか、そうでなければ別のやり方をとっていけばよいと思います。 その表現をしている中で、音程がとれなければ音感を勉強するしかないし、声がうまく出てないとか、そういうことだと発声を勉強するしかないです。ただその方向として、あなた方の中で閉じているのではなくて、こういう音の世界に放り出されて、何かことを起こす方向に出てきているかどうかというのが大切なことです。

 その可能性があるのかどうかという部分で、その人の思いこみだけで余計なことをしてしまって、そこだけが目立ってしまうと、それはその人の思い違いで作品を悪くしてしまうことがあります。 歌でも、オリジナルのものをもち込めばもち込むほど、難しくなってきます。でもそれもプロセスなのです。それがよくなる方向にいく場合もあります。あるいは素材を変えてみることで違うように聞こえることもあるでしょう。違う方向にいくこともありますから、こちらの方ではダメとはいえません。

○形

「私たちは生まれ変わる 愛の力で生まれ変わる 遠い月日3001年に そのとき空は輝くだろう」

 この中で構成を考えてみてください。この「輝くだろう」というようなつけ方は、彼特有のつけ方です。「3001年」をことばにしています。ここをことばにしたかったのは、「遠い月日」に対して「3001年」ですから、どこか遠くに特別な意味合いがあるわけです。その距離で離したかったということがあると思います。 「生まれ変わる」も、同じことばを2回使うというのは、それは必ず何らかの意味があります。そういうところの動きが必要です。

 解釈というのは、いくら頭で考えていてもダメですが、私が説明するには、頭で考えてことばにするしかないから、そこで頭の世界になってしまうのです。だから、皆さんの中でそこを白紙に戻してもらって、「私たちは生まれ変わる」といいたいんだと、それをしかも「愛の力で生まれ変わるんだ」と、もっていきます。 少なくともこれをストーリーにするには、「私たち」を登場させます。「愛の力」を登場させ、それは全部伏線になってくるのです。 一つひとつのことばに対して、あなた方が新鮮に受け止めなければ、そこでいろいろなものを入れなければ、ことばの世界にも入っていけません。まして、音楽の世界というのはそれを抽象化させていますから、その要素として、ひとつの音の進行にもっと鋭くなったり、もっと感受していかないといけないと思います。

 音程を直すというのも、音程のレッスンから直すやり方もあります。私が昔、そういうものに否定的だったのは、感じたり、不快に思ったり、これは間違いだなという感覚が働かないところに、どんなに「ド、ミレド」とかやっていても、歌にはならないからです。ただ、何もない場合にそういうアプローチの仕方もあります。声のマップというのも音高ははっきりとみれます。 でも実際にその感覚がなければ、フラットして間違えているのか、シャープして間違えているのかもよくわかりません。間違えといわれたときに、どこをもう少し上げるのか、どうすればよいのかわからなくなると思います。そういう世界ではないのです。

 もともときちんと組み立てられた世界のルールがあって、そのルールを自分が許容できる柔軟性があるかどうかということです。 それがない人もいるのです。ないとダメということではありませんが、それに代わるルールが必要です。そのルールをより正すために、いろいろなこういう別のルールを勉強していくわけです。それをきちんと読みこんでおいてください。 課題は何でもよいのですが、それをどこで捉えるのかということは、難しいことなのかもしれません。みんなが捉えているのは表面に出てきたものが多いのです。だから人を動かす力にはなりません。それは何回も聞けば、あるいは何回もこういうことを繰り返せば、ある程度はよくなります。 例えば、ひとつの課題だけで、「私たちは生まれ変わる」というところだけを1時間やれば、今よりはだいぶんよくなります。でも、そこからやはり出れないのです。 そこできちんと通用する人というのは、1回目にやらせてみても、もうそこで半分から7割は完成しています。その差はわかると思います。

 そこにおける本質的なものは、音楽の世界の中で回っているもの、表現の世界の中で回っているもの、もっと鋭い感覚の中で厳しいものです。だから、それはわかれといっても無理なのですが、そこから組みたてていかないと、外側をメロディとってみても、それからことばをとってみてもできません。 いろいろな舞台でお客さんの前に出すときには形を整えなければいけませんから、そうすると形本意になってきます。そういう歌はここに2年もいれば、いろいろと聞いてきたでしょうし、それを比べてみて、何が違うのかということです。 ミルバのはきちんとした形ですが、その形は実からとっています。それに対し、何ヶ所は形だけで流しているところがあります。でもこの歌は、きちんと歌い上げているものです。

 他のものをあまり使わないのは、形だけの部分が大きいと、皆さんに違う意味での悪い影響が出てしまうからです。その辺をきちんと結びつけるようなところで判断してください。 声のこととか息のこともやりたいのですが、本当はやはり感覚を鋭くすることでしか、正しようがないのです。 音程レッスンをやる、リズムレッスンをやる、発音レッスンもやる。その中で、そういうものを全て含めて、気づいて、そのもうひとつ下の感覚がより深くなると、理想の形をとってくるのです。これは難しい課題でもあります。そこでもう少し反応できるように、1年、2年経ったときに、こういうものにすっと入れて、自分の作品として出せるために、何が必要なのかと考えると、勉強するテーマというのが明確になってくると思います。

○トレーニングの渦中

 なかなか1度で聞き取るというのは難しいのですが、聞き取れない部分というのは、自分の中に入っているものと比べてみることです。音楽でも、表現の世界でも、そこでどう振舞うことが期待されているのか、それは外からというよりも、内的な動きです。その中に入っていかないと自由に作品はでてきません。 だから、不自由な時期があってもよいと思うのです。声がもうちょっとでないと何ともならないというのも当然です。でもそこの問題よりももっと深いところで、それを選んでいかなくてはいけないのです。 深い息とか芯とかいうと、わからない人には観念論になってしまいます。そういうところを何回もやってくださいとしかいいようがありません。

 頭が働いている限り、何かをとると、何かが失われてしまいます。無駄は切っていけばよいのですが、大切なことを失ってしまう場合が多いのです。 まだ半分くらいは地に足がついていないでしょう。地に足がついている人達の中で、声のレッスンとか音程のレッスンでこれを使うのであれば、やりやすいでしょう。表現とか、舞台とか、音声のレッスンということであれば、その辺をもう少し接点をつける努力をしていかないと、一人勝手にやっていろよということになります。形に埋もれていくということは、一番止めたいことです。 なまじうまくなったがために、全然ダメになった人というのもいるのです。それはきっとわからないからです。

 前に形だけでやっていた人が、実が出てきたというパターンもあるし、前は実が出ていてきちんと伝えていた人が、何か振りをつけてみたり、顔をしてみたりして、おかしくなっていく、でも本人はその時期はそれがわからないのです。そういうときはよりよいものを聞くしかないのです。 よりよいものを聞いてみれば、自分がなんて無様によい加減な感覚でやっているのかということがわかります。振りをつけることがダメなのではなくて、でもそのことによって得られたもの失われたものは何かということです。

 ステージで振りをつけて踊って気持ちよかったというのでは観客と同じです。踊ることによって音の世界が崩れてしまったら、何の意味もありません。もっとも大切なことを失わないように気をつけてみてください。 トレーニングの時期は、右腕を動かしていたら、左腕がいい加減になってしまうし、足元に気を取られていたら、上半身がいい加減になってしまいます。それを徹底してやりつつも、自分の中で統一した感覚をもつことです。どこか部分的に力が入ってきます。

 わけのわからない課題に対して、わけのわからないものを出したときに、それが作品として成り立っていく人は、その中に音楽とか、作品がもう入っているのです。成り立たない人は、まだまだその詰め込みや、入力の部分に問題があることが多いです。その入力はあっているのですが、出力するときに間違うということで初めて、もう少し体があればとか、もう少し息が吐ければという問題が出てきます。そこに、本来ヴォイストレーニングというのがあります。トレーニングはそこから始まるのです。

 皆さんにもいろいろなやり方があります。いろいろな優先順位があるでしょう。ただあまり歪めたくはないという気がします。 こういう課題に対して、2年後にパッと対応でき、そこで他の人よりも頭角を表せるようにしましょう。別に周りと比べなくてもよいですが、よいものが出れば、絶対に何か違うなということは、誰にでもわかるわけです。そのために何が必要かということ、毎日何をすればよいかということを常に確認してください。【「3001年のプレリュード」☆00.3.25】


<Q&A特集>

Q.よいヴォーカルといっても、その具体的なイメージがつかみにくいのですが。

 真っ当なヴォーカルを聞いているからこそ、世の中で有名な人以外で、自分を引きつける要素のある歌手を見つけ、それが何かということを自ら見つけていくことです☆。あなたが聞いている人は、あなたがよさをみつけたのではなく、ポピュラーだったからではないですか。 自分がそういう感覚で受けとめて、それと同じことをやるということより、この人たちはこうやっているが、自分はこうやりたいんだというものをつかんでいかないと、自分の歌や活動には結びついていきません。それがイメージです。 いろんなものを聞いていけばよいと思います。あなたが聞いている人が、聞いていた人も聞くとよい。たぶん向こうのものをたくさん聞いていたと思います。

 自分が興味があると思う人が、自分と同じ年代のときに、何を聞いていたのかということを聞いていくのも勉強になると思います。 私は、発声練習がきれいに声を響かせるというところだけにこだわるのに疑問を感じました。現実の歌はそうでないものの方が多い。日本でも劇団の役者、落語家などは各人の持ち味の声で魅力的になってくる。そこでもっと声に落ちてくる要素があると思ったのです。 身近なところで、黒人のシンガーを見ても、高いところは柔らかく出る、低いところは太い音をもっている、そのベースの部分が日本人に欠けているということです。 声楽家でも、きちんとやっている人は、体の方の声をもっています。その辺は最初のうちにやらないと、歌の世界ができてからはできにくい。そういう接点をつけながらやっています。でもそれは人によって、それぞれ違ってきます。

Q.早口ことばの練習は、必要か。

 早口や滑舌はあまりやっていません。伝えるということを考えたときに、その感覚が入ってくるようになるべきであって、ことばの早さを求めるというのは、心とか体と離れていくからです。役者さんの学校にいった人が話すと、すぐわかる。それはあまりに作っているからです。アナウンサーでも同じです。 やるなというのではなくて、その前にやることがあるということです。 練習次第で声量が増すかということも、練習しないと変わらないとしかいえません。

Q.太い声を出そうとすると、下腹部に力を入れると、決まってのどと下あごにも力が入ってしまうのですが。

 トレーニングとしての試みとしてやるのはよい。しかし、ここまでわかっているのであれば、直していくこと。のどと下あごに力が入っていたら、どうにもならないでしょう。下腹部の力も抜きましょう。太い声も忘れましょう。 何かを操作しようとすると、何かが悪く働くものです。きっかけとしてやる分にはよいのですが、その通りにうまく出るということではないのです。

 たとえば、すごい球がきて、バットをいくら振ってみても当たらない。今度はバンドで、ゆっくり見たら、当たったとします。そのことで球が当たったと試すことはできても、そのフォームは、実際の打つことに役立つことではない。それを確かめたというだけです。 歌うときに、そういうことばかりに気がいってしまうというのは、よくない。ここでは歌は応用だといっています。応用された形を真似して、その通りやってみても、それはベストなものではないからです。自由にその人の中から出てきたものが、どのレベルであるかということで見ていかなくてはいけないのです。

Q.声量を上げようと頑張るほど、のどがからからになってくるのです。出し方が間違っているのでしょうか。

 出し方が間違っているかどうかというより、声量があがることで、のどが消耗している。こういうことが起きてくるなら、歌はともかくトレーニングでは、この方法をとらない方がよいということです。ライブならともかく、ヴォイストレーニングではやらないこと。 ここでも、どういう方法をとればよいですか、正しい方法は、と聞かれるのですが、誰もが本当に上達するたった一つの方法などないのです。 ポップスにおいては、その人の歌自体が方法論なのです。その歌い手が歌ったということが、その人の方法論になるのです。それが歌になるまでに、支える呼吸や感覚とか、筋肉などが足らないと、崩れてしまうから、それは徹底して別に磨いておくのをトレーニングといっているのです☆☆。

Q.顔の表情は、明るく柔らかくした方がよい声が出るのでしょうか。

 教科書通りに答えると、あなたのいっている通りでしょう。 ただ、顔の表情を明るくするというのも、心がそういう状態になれば、そういう表情にもなる。イメージしても、そういう声も出る。歌っているときに、そういう状態になれないことが問題です。 どんなに作り笑顔でやっても、アマチュアなら立派でも、プロならしらじらしい。体の原理からも反してしまうからです。 トレーニングのときに、いつも意識してやっていると、しぜんにそれができてくるので、やっていくとよいでしょう。

Q.声の基準と本物とは?

 声に基準をつけることはできるでしょう。50年、100年経って、あるいは世界中のどこかにいって変わってしまうようなものであれば、それは基準とはいえないということです。 声についてはそれがいえるということです。 たとえば、黒人が私の声をよいといった。それは一つの基準だということです。時代を超えて、国を超えて、人間が残してきているものが何かということです。

 できるだけそういう時代を超えて残ってきたものを材料に使っています。それを超えてきたものを体に宿らせて、そして皆さんの今の感覚で、今のお客さんに歌えば、今の歌が出てくるということです。古いものが出てくるのではないのです。 やれないのは、歌い手の声や技術でなく、感覚が鈍いからです。 何か古い、誰誰のようだと思えるのであれば、まだ自分の歌ではないということです。その辺を見ていかないと、魅力的な歌というのがどうかということもわからなくなってきます。 私も声でしか判断していなかったときは、坂本九さんや石原裕次郎さんの歌は使えなかった。

 人の心に何年も深く残っていくもの、時代を超えていくもの、その人を思い出すだけで、胸が熱くなるようなもの、そこに入っていた要素は、歌ではないのに、歌以外の何ものでもない、声そのものということです☆。そう捉えてみたら、歌も、その一要素にしかすぎないのです。だから、彼らのをコピーしても仕方ない。 その人のCDを聞くだけで、何か働きかける力があるとすれば、そういうものも入っているということです。結局、それは当人の魅力になって人をひきつけるのです。 歌や音楽を通じて自分の魅力を増幅できる人が、歌い手やミュージシャンといわれる人だと思います。

Q.完璧な基本の技術を身につけたいのですが。

 これも必要性ということです。 耳を作っていくと、それによって、感覚が変わるのとともに体が変わっていきます。 よく間違えられるのは、いくら体力づくりしようが、腕立てをしようが、オリンピックの選手には、いくら今から頑張っても絶対に敵わない。彼らに歌わせても、結構うまい。そこでもれている要素がミュージシャンの要素です。それは基本の技術と思います。 完璧は追求し続けるが、ある程度で上げていかないとなりません。文章講座に通えば大作家になれるかということです。

 ステージパフォーマンスから入るのかが有効です。まずリラックスしないと、気持ちが入らないからでしょう。外国人というのは、日頃の生活の中からそういうことをやっている、家庭の躾でも、あるいは社会に出るために、徹底して音声コミュニケーションを高めてきている。劇団の2年間くらいのトレーニング相当分は日常でやっているのです。 ところが日本人の場合はそれさえできないから技術に入れない、声に対する意識も欠けています。そういう感覚を生やしていくことが、歌というよりももっとベースのことです。

Q.低・中・高音で、全然音が違うのですが、一番出しやすい声が自分の声なのでしょうか。

 出しやすいというより、どちらが価値がもてるかということです。 とりあえず人前で価値をもってやっていくのであれば、それは自分が決めていくのではなく、受け手が決めることです。聞き手にとっての、心地よい声、よい歌です。 それは自分が好きな歌と自分が歌える歌が違うというのと同じです。 受け手は、その人が一番価値を出して、感動させてくれる歌を聞きたいのです。歌い手がその曲を好きかどうかは関係ない。そこを分けていかなくてはいけない。 自分がどちらでやりたいかということです。仲間内でやるのであれば、自分の好きなものだけをやってもよいと思います。 今、出しやすい声は、今歌うためには最適です。なのに迷っているのは、どれも気にいらないからではないでしょうか。今、出しやすい声と、本当に出しやすい声は、違うということです。

Q.外国人のトレーナーはよいのか。

 私も、同じだけ向こうでやってきた人をみると、すごい差を感じます。 外国人は、何回か呼んでやってみた。 彼らにはできるが、日本人にはできていないということがつきつけられるのならよいが、それが今の人はわからない。それで、そこからレッスンにならないのです。 日本人が留学したり、外国人トレーナーについて、ほとんど伸びない原因は、ギャップが明かなものとしてつかめないからです。その間の翻訳プログラムが必要になってきます。

 相手がそこをやってきていないでできる場合、そこでどういう教え方があるかというと、難しいのです。 私は小さい頃、ピアノをやっていて、絶対音感もあります。一つの音を聞いたら、その音に対して声を出すということは、苦労した覚えがないのです。 ところが世の中では、聴こえてくる一つの音に声を合わせるのに苦労している人がいる。そこのノウハウというのは、私よりも、そういうものを克服した人に聞いた方がよい。 そのことをこうやって克服したという人の方法は、そういう人に使える。気づいていたらできていたという人は、教えようがない。 もっとも誤りとなるのは、そうできた人が教えるために他人のノウハウや方法を受け売りする場合です。半年や1年でその人は応用できる力があるからできてしまう。でも、それを教えられた方は、ずっと下のレベルで本質は変わらない☆☆☆。いろんな人がいるので、是非が試せるのが研究所のありがたいところです。【講演会Q&A 01.5.8】

Q.息を強く吐くと、下半身に力が入ってしまうのですが。

 そのこと自体は構いません。ただ、呼吸法で混乱していけないのは、強く吐けるようにするためにやっているのではないということです。それぞれ一口に呼吸のトレーニングといっても、目的が違うということです。 たとえば、体力作りをするということで走ること、筋力づくりに腕立てをすること、調整のためにすること、実際に試合をすることは、目的が違うでしょう。 息を強く吐くことでの目的は、そのことによって呼吸に関する筋力を強くしようという場合は、足に力が入ろうが、その目的には問題はない。 息の場合は、声と違って、直接のどを痛めることはありません。しかし、ハーハーハーとやって、口の中が乾燥している状態は、声にはよくない。口内が切れることもあります。スタジオは乾燥しています。力も抜くのに越したことはない。そういうことは気をつけなくてはいけません。

Q.練習中には水を含んだ方がよいのでしょうか。

 原則としては、自分の唾液でやった方がよい。いつも水などで補強していると、それに頼ってしまう。汗をかいた分、水分補給として飲むのはよい。ただ、その状態で瞬間的に入ると、あまりよくない。声はよくでても、それを支える側の問題です。 飲み物でも、何を飲めばよいのかと聞かれます。そういうことよりも、のどを冷やさないようにするなどのケアが大切です。直感的な判断でやっていくことです。飲みすぎると、お腹がなったり動きにくくなる。 よい状態をキープするなら、休憩を取りながら、のどを休めてやることです。

Q.トレーニングと時間について。

 トレーニングでも、メニュー間の時間を充分にとる。 一回「ハイ」といったら、次の「ハイ」までに時間をあける。 トレーニングというのは、歌に求められるスピードに声がついていけないから、わざわざやるものです☆☆。 できないことを同じスピードでやっていたら雑になるのはあたりまえです。歌と同じ早さでトレーニングをやるのであれば、歌でやっていた方がよい☆☆。 歌のところではその早さに対応できないと知ることから、息を準備したり、のどの状態を整えたりするために、時間をとりながら丁寧にチェックしていくのです。

 一日の状態もよい方にそろえるとよい。一日の中でわけた方が理想的です。 人間が集中するには、せいぜい30分といわれています。1曲3分のために、きちんと準備してくることが大切です。自分の最高の状態で臨む。待たされているときも、そういう状態を保つことがトレーニングの一歩です。

Q.小声で話すときにのどに引っかかっているような気がするのですが。

 小声で話すというのは、私は大きな声で話すのと同じくらい、気も体も使っています。 普通の人は、のどを閉め、息がまわっていないからそうなるのです☆。しゃべるときに、のどに引っかけないように話そうというのはよくありません。 話すときはトレーニングとは分けて、せめてなるべくのどを休ませようと思うことです。 本当であればヴォイストレーニングの習得中には、あまり話さない方がよい☆。

 トレーニングが加わったのに、それにも関わらず、いつもと同じように友達と話し、電話で話していたら、のどが休まる時間がありません。疲れがとれず、のどの弱い人なら壊しかねません。 のどを常に使っていたらよくなるというものではありません。かなり上級の人の場合です。 皆さんにとって一番よいのは、少しでものどを休めることです。小声で話す方が大変なのです。

Q.お腹が、いろんなところがふくらんだり、ふくらむ場所が変わってくるのですが。

 目的は呼気に対し、体がいつも伴ってくるという感覚をつけ、それがしぜんに動いてくるようにすることです。 プロというのは、始める前に柔軟をやるだけで、すぐその状態に入れます。普通の人は2、3時間ほぐさないといけない。ほぐしても、それと同じ状態にはなれないわけです。ステージ前に、あるいはステージで固くなる。 一番根本のところの条件で変えていくのであれば、できるだけよい状態を一日の中でキープするということです。

 しゃべっているときとかせりふを読むときに、そういう状態がすぐできるとしたら、トレーニングをやる必要がない。ほとんどの場合は無理です。 しゃべることによって体を使わなくなったり、声を出すことによって息を回らなくなるのです☆☆。 まず歌うときに、呼吸を入れてなくてはいけないというイメージを持つことです。ただそういうものをいくら見ても、なかなか自分の体には落ちてきませんから、そこでの接点をつけていくことが必要です。そのためにトレーニングがあるのです。 要は、声がうまくいかないのを声で調節するのではなく、体で調整するしかないのです。 普通の声を出すのは平気でも、どこかの個所で瞬時に取り出すときには、体そのものの力でなく、力をつけた体の器が必要です☆。

 一流のヴォーカルは、そこでの切り替えが早いです。深いところから瞬間的に上の方で出していきます。それは発声でやっているのではなく、もうその器があって、見えない声が出てくるのです☆☆☆。 その器を大きくしているから、その中でパッと上の方で響かせたり、体の方に落としたり自在にできるのです。「巨人の星」のオズマの見えないスイングのようなものです☆。 私もしゃべっているときはときにできるのですが、2オクターブでは難しい。 日本人の場合は、全て見える声で歌う、歌うということが、そういうイメージだからです。だから声のよい人、響きのある人が有利なのです。でも、名演奏家は楽器でなく、奏法で問われるのです☆☆。それも発声からやらなくてはいけないので、手間ひまがかかってしまうのです。

Q.何をいっているのかをはっきりさせた方がよいのですか、ことばをしっかりとしゃべった方がよいのですか。

 発音練習は滑舌などと同じで、調音されたものをさらに相手にわかりやすくするためにやるのです。基本的には、何をいっているかは、重視した方がよいと思います。その上で、あまりに聞こえにくければ、きちんといわなくてはいけません。ことばの発音から区切っていくのはよくない。 たとえば、「ハ・ガ・キ」のように、日本語の発音練習はほとんど区切っていきます。すると「葉書」とは伝わりにくくなる。ことばはそのものが飛んでこなくても、そのニュアンスでだいたいはわかるものです。その前後の関係からもだいたいわかります。歌の歌詞でも、前後の流れの中からわかればよいのです。はっきりいうことよりも、結果として伝わることが大切だと思います。

Q.喜怒哀楽の表情が難しいのですが。

 怒りとか悲しみなどはその中に入っていけば案外とやさしいのですが、喜と楽というのは難しいです。徹底して怒ってみたり、悲しくて泣いたりすると、そのあとというのはニュートラルな状態になる。おのずと心が開けて笑顔になれたり、柔らかくなったりします。地獄から天国に直行するようなものです。 いきなり天使の微笑みをしなさいといってもできない。すごく泣いたあとには、そういう笑顔がパッと出る。 そういうふうに、まず負の感情表現をやっておいた方がよいと思います。力づくで作っていくのではなく、その反作用で解放感を出すのです☆。 怒りとか悲しみが簡単なのは、力でも近いことができるからです。しかし真の悲しみは、微妙なニュアンスの表現となります。

 喜びとか楽しみというのは、お客さんがそれを見て、ああ楽しんでいるなといったことが伝わることが大切です。やる方が解放されていなければ伝わりません。 曲もどこかで悲しいところとか、何かを否定する部分がありますが、そのあとに曲想が変わって、喜びや歓喜の部分が出てきます。音楽的にもそういう構成を追求してみればよい。すべては、メリハリとバランスです。 コメディとか、劇、映画などでもよい。役者は専門家ですから、喜びの表情、楽しい表情を出さないで伝えるということも知っています。歌い手の場合は、音がついていますから別の意味で、その分やさしいところも、難しいところもあると思います。

Q.コントロールされた感情とコントロールされない感情とは。

 練習のときにはコントロールできない感情でも、器は大きく作っておく方に方向づけておくとよいでしょう。舞台になると、コントロールしなくては、作品が乱れてしまいます。 その人が悲しいこと、喜んでいることを客は見たいのではない、その気持ちが伝わって始めて、価値が出てくる。そこでコントロールされていないと、歌がだらしなくなってしまいます。 歌もダイジェストの作品です。映画のシーンと同じで、泣かせるといっても、それを永遠と10分も続けてよいのかというと、誰もついていけない。他人は感情移入できなくなって、飽きてしまいます。 そこまで泣かすかというところの、その少し前で終わるというような計算が、プロには働いています。でも難しいです。それはそのお客によっても変わってくることです。最終的には監督や演出家のレベルでの判断になってきます。

Q.関西弁が使えた方がよいですか。

 学ぶのであれば、何でもよい。関西弁、広島弁、博多弁の方が、つっこみとボケなどもあるし、声の多様性ということでは豊かでしょう。汚いところもよい。表現が強いし、柔らかいです。そういう感覚は勉強になるでしょう。 音声をストレートに出すところは南の方です。東北などは表現ということから考えると、やや内に入り、もの言わないで伝える術といえます。関西弁は思ったことをパッと声に出しやすい言語と思います。

Q.ハングリーと表現の欠如について。

 たとえば、今の人たちというのは、芸事でも何でも、人よりも苦労して、人よりも努力して何かを成し得るとか、立ちあがる、ロッキーみたいなものに自分がなろうとしない、そういうものは他人のをみて二次的に味わう、大したことでなくても、ある程度のところまでいくということが理想になっているのでしょうか。

 生き方とか芸事ということになれば、それが今の音楽、今のプロデュースになってくる。ファンあってのものですから、それはそれでよい。そこに私が関わるかどうかは、私の行動の結果として決まっていきます。 今の状況も変わってきています。音楽を死ぬ気でやっているという人はいるでしょう。昔は死ぬ気も何も、それをやらなければ生きていけない。そのことをやることが、人生や社会からのエスケープにもならない、今は会社と両立させている人もいる。音楽をやっているから、こいつはダメという落印を押されることもありません。

 つまり、アウトロー意識、ハングリー意識、コンプレックスがエネルギーにならない。世間に対して抵抗したり、何かをいったりという必要性もなくなってきている。 表現というのは、こういう大人は嫌だ、こんな政治は許せないというようなことがあれば、否応無しに出てくる、その思いを昇華するメディアです。 他の国にはそれがあって、国が豊かだといっても、街を歩くたびに「ちくしょー」と思ったり、こんなことするなと思っていたりすると歌詞が湧いてくる。

 日本の場合の問題はもっとたくさんある。根深いため、逆に気付かなければ、気付かないでそれで過ごしていれる。ラッシュ一つでも特殊なこと、もっと怒ればよいのに、その状態を寛容しているので、表には出てきません。それと全く無関係に誰か昔の曲を自分に心地よく歌うことが、歌と思っている。とんでもない。 そういう面で、表現ということでいうと、日本の音楽においてはあまり実現されていない。マンガ、お笑い、ゲーム、アニメの方が、何を伝えたいかというようなことを世の中をきちんと見て、勉強してやっている。もちろん、個人個人の問題です。

Q.歌を疑うとは。

 会社も研究所も、いつ無くなるかわからない。人も必ず、死ぬ。永遠のものなんてあり得ない。だから自分が生きている間は、そういうものを受け継いで、伝えたり出したりし、あとは次の世代に任せる。 歌うこと自体ももっと疑ってみないとダメだと思うのです。歌しかないなどと、歌というのはすごく便利なことばです。歌っていったい何なのかということが歌で語る、そうでないと歌とか音楽が逃げになってしまいます。

 やれていった人、世の中に認められた人というのは、音楽がやれたとか、歌がやれたではない。創造し、表現してきた。そのバックをきちんともっている。そうでないと、あとでよくなっていかない、つづかない。誰でも一所懸命歌ったらそれでよいというなら、本人とまわりの人はそれでよいのです。そう考えていると、当人が満足できても、それ以上のものにはなりません。 よいイメージをレベルアップしていって、うまく取り出していくことが一番大切です。 あなたが聞いているような人は個性がある、どんなにケチをつけられようが、俺は俺だということでやっている人でしょう。それに代わる何かを自分がもてばよい。 あまり歌がうまくなるとか、声がどうこうということで判断する必要はない。

 本田美奈子さんなども、日本では評価されませんでしたが、時代のおかげでしょうか。タイムリーに出てくれば、もっといろんな形で脚光を浴びたような人が、日本の場合は、そういうものをきちんと評価する人たちがいないから、埋もれてしまいます。 そうでなくてもずっとやれる人に学ぶことです。今はテレビの露出度によるところが大きい。 自分の声の研究をやるためにここを使い、ここの使えるところをやればよい。 それぞれのトレーナーの考え方とか、優先順位がバラバラです。限定した方がよいのかということは、いつも考えていますが、私はバラバラの方がよいという考えなのです。 本当に能力のある人は、決められたらつまらないと思うからです。その能力を見極める段階の人にとってみたら、これに集中しなさい、結果を出すのが、幸せです。もっと悩むことです。【カンセリQ&A 01.4.25】

Q.外国人がよいのですか。

 別に外国人がよいということではないのですが、音声や音楽の基準が厳しくあるということは、知っておいてよい。どこの国でも歌には厳しい。日本で歌といわれているものは、やや形にとらわれている。ただ歌の定義というのは、それぞれに持っていてよいし、言及しても意味のないことだと思います。あなた自身が、きちんともつことが大切だということです。

Q.お手本とするのに、よい声の人やうまいヴォーカリストは誰ですか。

 本物の歌や本物の声といって、日本のアーティストをけなしているのではありません。やれている人はそれでよい。すべて、オーライです。 トレーニングというなら、プロの人やプロとしてやりたいという人が来たときに、どういう考えのもと、何を材料に与えた方がよいかということで見ています。 やれている人のをそのまま与えても、それではやれない。B'zと同じに歌えてもB'zにはなれません。誰かに似ていれば似ているほど、声はかかりません。

 ここで与えている、歌がうまい人や声がよいといわれる人の歌は、キャリアや知名度よりもそこから学びやすい、気づきやすいものとしてです。一つの材料として選んでいます。実際のレッスンでいろんな人に与えたときに、よい材料だと思っていたものが空回りしたり、大して期待しなかったものがよかったりする。そういう経験と結果の蓄積から、直観的に材料をコーディネートしてきました。 私のレッスンは即興です。材料は想定していますが、そこに誰がくるか、何が出るかということによって、変わっていきます。よい声、うまいヴォーカリストは、あなたが見つけ、気づき、そこから学んでいってください。気づき方も個性だからです。

Q.コミュニケーションをとる上で、ことばは重要な役割ですが、歌で表現する場合、ことばよりも気持ちの方が大切だと思うのですが。

 本当に気持ちと感情を入れていくと、ことば、いや声はつまって出なくなります。でも、私は歌として伝えます。弱って死にそうでも、オペラでは堂々と歌い上げます。現実と表現世界の違いを知ってください。そこで最低限支えるものがなければいけないということで、発声や基本のトレーニングを考えた方がよいと思います☆。

 たとえば、実習で本当に気持ちを込めていってくださいというと、大きな声ではいえなくなります☆。でもそれでは舞台では伝わらない。歌の中でも、音楽という大きな動きが出てこなくなります。その難しさを解決するためにトレーニングをやるのです。(今は、音響技術で、かなりカバーできるため、考え方も大きく変わりました。) ことばが聞こえなくとも、高度なレベルでは、声が演奏していたら歌は充分に伝わります。楽器としてのレベルで声を扱えたらもちます。でもそれだけなら、楽器でやる方がすぐれている。ことばか気持ちかでなく、総合してどういう世界をあなたが出すかです。ちなみに、人間の声、そしてことばは、何よりも人の心に働きかける。このことが、本人が作品や表現としての基準や判断を適確にすることを、著しく難しくしています☆。

Q.音程や音感を正しく身につけるためには、どうしたらよいのですか。よい歌やよい声をたくさん聞いて、体で覚えることから始めた方がよいのでしょうか。

 たくさん聞くことが基本です。もっと先をいくのであれば、自分でどんどん創っていくというやり方もあります。 もともと最初から音程とか音感があるということより、一つの声を出してみたら、その中にオクターブ上のところで共鳴する音があって、またその上にさらに共鳴していくという、倍音の関係があって、それを人間が感知して、結果として、およそ7つのスケールで表せるようになったのです。 そういうふうに捉えて、それに対して耳が働き、声の修正能力が磨かれたらよいということです。

 トレーニングとか、勉強というのは、それを短縮するためにやります。しかし、そこで多くの人が落としてしまうものもある。たとえば、コーユルブンゲンをやって、それが4度、7度と離れているというのは、ピアノの平均律に合わせて音をとれるようにしていくのです。本当の音楽、歌でいうと、もっと基本がある。 何を歌ってみても、心地よく相手に伝わるものというのは、1オクターブ12音の音を全部使っているのではない、たかだかその7つの音の組み合わせなのです。リズムも同じです。

 つまり、その前にもっと基本の人間の間に働く感覚がある、そこで修正できる人は、楽典も理論もやる必要はありません。楽譜の読めないヴォーカリストは、ポピュラーにはあたりまえ、クラシックにもいます。耳で覚えるわけです。 ただほとんどの人は耳で入れ、声で修正されないから、楽譜でみたり、ピアノで弾いてみる方がわかりやすい。コーユルブンゲンなども、学び方の方法の一つに過ぎないのです。 本当に優れていたら、耳で聞いて、歌っていたら全部できてしまう。そういう耳をもち、それを調整できる能力をつけることの方が大切です。 かなりの個人差があります。学校になるとそういうやり方がとれないから、同じように教本でやっているのです。

Q.練習時間はどのくらいやった方がよいですか。

 声ということでいえば、自分の体がきちんと動いている状態がとれれば、そこでやっていることがトレーニングと考えてよいでしょう。歌というのではなく、人に伝えていくために声を使っている時間なら練習、かつステージです。発声では、歌の練習というより、まず声の出やすい状態を作ること、体の調子を整えるということの方が大切です。 かなりベテランになるほど、声を出すよりも聞くことが中心になってきます。プロは、よく聞き、アマチュアはよく出すのです。 最初は、発声や、リズム、音程練習も、量と種類にこだわるとよいでしょう。作詞の勉強だったらたくさん書くことが練習です。

 プロになってくると、自分のたった一つの価値あるものを見出すために、10時間聴いたり、あるいは音のないところで、静かに瞑想を5時間やる☆。自分が精神的に、心の持ち方で一番高い状態にできれば、あとはしぜんに体が動いてくる。それまでに練り込まれているからです。ケイスバイケースです。プロのステージをみたり、映画や本にふれるのも、とても大切な練習です。 プロの中にも、声を出すのは消耗するという考えの人もいます。私のように話しているのがトレーニングになる人もいる。人それぞれによって違ってくることだと思います。 そこまで声のことにはこだわらないプロもいます。あるフォーク歌手などは、お酒を飲んでいようが、寝起きだからといっても、しゃべる程度に歌っている。つまり、どれが練習だともいえないから、ヴォーカルは困る。

Q.ステージでやっていたら、うまくなるのではないか。

 私が分けているのは、舞台やステージにおいては、伝えることがメインということです。声のよさとか歌のうまさよりも、そちらが重視される。ステージをやることによって、発声の原理としては必ずしも正しいとはいえないことが起きる。その状態が続くと声にはよくありません。それをどこかで戻すということでレッスンやトレーニングをやらなくてはいけません☆。 フォームが乱れてヒットが続いているという状態ですから、あとで悪くなる。それを戻すために基本トレーニングがあるのです。

Q.ステージのまえに。

 声楽家のようにきれいに声を出そうとすると、規則正しい生活、8〜10時間の睡眠、栄養価の高い食事、毎日に最高の声が出るようにコンディションをセットしなくてはいけません。 ポップスや劇団の場合は、そんな理想をいっていても難しい。声そのもののよさよりは、伝わるところに重きを置いて、コンスタントに点数を稼いでいかなくてはいけません。その人の段階によっても様々だと思います。タフで強い声がのぞまれます。

Q.日によって声が出方が違うような気がするのですが。

 一つは本当に声が違っている場合、もう一つは自分の受けとめ方の問題で、他の人が聞いてみたら同じなのに、自分の感覚で違うという場合です。 いろんな理由があると思います。睡眠不足や、食べる時間やその日の体調によっても、声は違います。 若いうちは、練習と関係なくバイオリズムのようなもので、左右されるときもあります。 声は体や気持ちと結びついているから、さらに複雑です。 たとえば、風邪を引きそうになると、声が出てくる人もいる。悲しいことやショックなことがあると、発声の機能は問題なくても、声さえ出なくなる人もいます。そのくらい、声は精神や心と密接に関係しているので、自分自身を知って、気分もコントロールしていくしかないです。

 自分の生活によって、自分の声が出やすいのはどういう時間帯か、何をした後か、そういうペースをつかんでおくことです。長くやることによって、だんだんわかってきます。 ヴォイストレーニングでも、悪い状態になったときに、どうやればよいかが自分でわかって変えられることが大切です。よいときは誰でもよいのです。最初は何も考えていないので声は出る、しかし、ちょっとしたことでガタガタと崩れてしまう。気分の問題も多いのです。

Q.のどをこわしたくない。

 のどを壊さないようにというのは正論ですが、私は一度くらい少々、壊すという経験から学んでもよいと思います。それによって、それを避けるための直感が磨かれるのならという条件付きですが。 大切なことは、テンションの高いところで練習すること、集中力が落ちたらやめることです。スポーツでも、試合中には大事故は起きない。ケガしないギリギリで避けている。高度に、神経が働いているからです。ケガをしたりするのは、そのあと、テンションが下がってからです。 ですから、あまり他人に判断を任せないこと、勘を鋭くして、本当に危ないことは自分で阻止するものです。

Q.ジョー・コッカーみたいな歌い方をすると、のどが痛くなるのですが。

 彼に限らず、プロの感覚はいろいろと参考になると思いますが、歌い方自体は、真似しない方がよい。声を押しつけたりひずませたりしてやると、押しつけですから、長くやっていくと、音域が狭くなり、声の柔軟性にも欠けてきます。ただ、人によって違うので、一概にはいえません。声が落ちついて歌いやすくなるとか好きな音色になるという人もいます。しかし、それでよしとする判断は、難しいです。声もつぶした方が歌いやすいというのも、間違いではないのですが、お勧めしません。 トレーナは、そういう歌い方を禁じるでしょう。それでもあなたがやっていくのは自由です。もしあなたの直感の方が鋭ければ、そういう声が使えるようになるかもしれません。 あなたがそうするのはよいとはいえないが、やったらダメということではないということです。やってみないとわからないのです。その人の歌のスタイルとの問題もある。その人の目的によって大きく違ってきます。

 さらに年齢によって変わってくるということもあります。ただ、若いと声帯が落ちついていませんから、そういう使い方は勧められません。今は基本的な歌い方をやっておいて、30代以降になってから、そういう歌い方をした方が、まだよいでしょう。外国人は日本人より成長が10年くらい早いと思っておけばよい。向こうの人たちが20歳でできたことは、我々は30歳くらいまでかけて鍛えていけば、体や声は近づくというくらいです。 早くからそういう歌い方ばかりしていると、のどをつぶしてしまう可能性が大きい。 発声のための楽器は人間のなかで最後にできてくる。声を使って、歌やことばにしていくというのは、大人になってからのことです。あわてずにとり組んでください。 彼はのどが痛くなってはいない、あなたは痛い、ならばよくないということです。【講演会Q&A 01.6.10】

Q.音程、音感をつけるためのソルフェージュのようなトレーニングは、呼吸法をマスターしてからやるべきでしょうか。

 これは、なかなか一致しないものだから、わけています。音程の練習のときは音程を考え、リズムのときはリズムのことを考えるようにしています。 体を使って、深い呼吸でやると考えていると、リズムも音程もとれなくなってしまう。中途半端に全部をやってしまうと、のどにも悪いし、どれも中途半端に身につかないことになりかねません。トレーニングは、部分を強化するものです。 呼吸を身についたらというにも、どこまで、めざすかということによります。半年や1年で、呼吸法ができたら次は発声法をやって、それができたら歌をといっても、呼吸だけでも一生の問題なのです。ここでもプロで何年もきている人たちがいます。呼吸法が充分できていると思っていないからやっているわけです。つまり、歌に結びついた呼吸を得るのは、たやすいことではありません☆。その人がどのレベルで考えていくかという問題になります。

Q.友達や、授業で話すときに声がかすれやすいのですが、声を鍛えたり、発声をよくするためにはどうすればよいのでしょうか。

 声そのものと声の使い方の問題があります。例えば、最初は体から声を出している人は、口先でしゃべっている人よりも早く疲れるし、かすれるでしょう。 そのときに何を目的にトレーニングするかということが大切です。 日常の会話の中で、声をコントロールするのであれば、アナウンサーのような勉強の方がよいと思います。中途半端に体や息を使わずに、声立てをしっかりとする。それで効率よく、相手に伝えることができます。そこにマイクを使えば、のども壊れないし、疲れないわけです。そういう意味で、声の使い方から勉強するという方法もあります。

 例えば、しっかりと出そうとすると、その分、必ず負担とリスクがきます。アイドルのように、体を使わないで歌っている人に比べれば、のども声も疲れる。しかし、やがて鍛えられて、のどもタフになります※(これはのどが弱く、タフな声が出さないトレーナーには、否定されることですが☆)。何を目的にするかというところで、やり方は違ってきます。まずは、トレーニングで声を変換することからです。

Q.日常から声のことを意識した方がよいのでしょうか。

 意識した方がよいとは思います。意識することによって、聞こえ方が違ってくるからです。 ただ、自分が話すときに、体から声を出そうと、トレーニングのことを日常レベルで捉えるのは無理だと思います。 日常生活の中のテンションに、舞台のテンションをもち込むと、日本では、異常になるからです。 友達との長時間のおしゃべりなどで、のどをロスするなということです。 特にトレーニングをし始めたときなどは、それで疲れるうえに、普段通りにしゃべっていると、声が休まらず、壊しかねません。ヴォイストレーニングをやった上で、それまでと同じ日常の生活をしてしまうと、のどに負担がくるからです。 私は講演会でも、かなり声量をおとしています。伝わるからです。外国に行くと、もっと強くなります。そうして生きること自体をトレーニングと考えていす。

Q.練習で気をつけることは何ですか。

 一般的な日本人の会話の中で、国際レベルにテンションを上げるときというのは、かなりパワフルなケンカのときぐらいでしょう。外国人の場合は、日常の中にも入っています。本当に彼らはそういう音声の世界の中で生きているのです。それは文化、風土の違いです。 テンションが大切です。ダラダラと試合をやっていたら、骨折したり、ケガ人が相当出るはずです。現実には滅多に起きなくて、気絶しても水をぶっかけられたらすぐに起き上がる。それだけテンションが高くて、致命傷になるところをギリギリに避けているからです。 歌や声の世界でも、そのギリギリのところまでやって、ギリギリで壊すことを避けてきた人しか、あるレベル以上には伸びません☆。自分でやってきた人は、そのことを知っているのです。そういうことを、トレーニングの中で知っていくと、よいと思います。

Q.声の訓練に毎日、必ずやらなくてはいけないことはありますか。

 声ということよりも、全体的なことを24時間考えていても、実際に声を出す時間としては、2時間、正味30分くらいが限度と思います。

Q.想像力をつけるためにはどうすればよいですか。

 詞を書き、曲も作りましょう。音楽の分野にどっぷりつかる。そして、そこから抜けようと、もがくことで、できていく。そこに、決まったやり方というのはない。いつも、時代にアンテナを張っているかどうかということです。 今日から詞を毎日10編書いてみましょう。高校生でもできます。続けるのは大変です。2年続けていくと、7000篇、その中でよいものを100個選びなさい。そこで、ベスト10が選べるようになります。そうすると、他のすぐれた作品をも研究するようになり、何がすぐれているかを知るでしょう。 自分の好き嫌いとともに客観的判断力もつきます。そうして、自分なりの判断ができてくるのです。そうやることによって、他の人の詞が、どうよいのか、どう悪いのかがわかってきます。

 カルチャー教室にいって、週に一個ずつ作っていても2年で、せいぜい100個くらい。そのくらいならば、私は3日で書けます。 レベル、質ということで、どうでしょうか。そういう中でしか、想像力というのはつかないわけです。 ヴォイストレーニングでも同じです。あなたが7000個もっている中の10個を選んで、先生からアドバイスをもらうのです。今日10個つくって、アドバイスをもらうのとでは、まったく違うレベルでしょう。やるだけ、やっておいて、初めて練習になるし、その先生の才能が使えるということです。 国語の先生に見てもらえば、この文法がおかしいとか、ここの漢字が間違っているとか、そういうことで学べるわけです。しかし、そのことと創造とは全く違います。だから、やる、創るしかないのです。

Q.歌うときに、何に一番気をつければよいですか。

 ステージングです。ヴォイストレーニングも、ヴォーカルのトレーニングも歌うための補助で歌そのものではありません。歌は、ライブパフォーマンスです。ステージングがうまくなってきたら、舞台が成り立つのです。それで初めて歌がうまくなるのです。ヴォイストレーニングや歌を勉強したから、歌がうまくなるわけではないのです。

Q.黒人はなぜうまいのか。

 彼らの世界では、10歳くらいで歌がすごいうまいといわれた人以外は、プロになろうなど思えないからです。マドンナやマイケルジャクソンは、子供しか聞かない音楽、そういう雰囲気の中で育って、彼らの音楽的環境の中で回っているからです。

Q.ヴォイストレーニングでプロになれるか。

 トレーニングを受ける人たちの誤りの一つは、自分は声が出ないからうまく歌えないと思っていることです。それは、楽器さえきちんと調律してあれば、誰でも演奏はプロレベルになるといっているようなものです。いくら楽器が高価で素晴らしくても、それを演奏できなくては、何にもならないのです。 ピアニストがピアノから音楽を生み出せるのは、彼らが優れた演奏パターンを入れて、そこから自分の音づくりをしてきたからです。それぞれどういう効果をもつ音や組み合わせかということを知った上で、創造しているからです。それを歌でもやっていくのです。

Q.よい声を作るためには、普段どういうことに気をつけたらよいですか。普段から人とたくさん話をした方がよいのでしょうか。

 全く話さない人の場合は、話した方がよいと思います。 振りつけや、踊りを真似しても仕方がないといっても、初心者の段階では、振りつけをやってみることも、音楽に合わせて踊ってみることもよい経験でしょう。 プロのレベルがどうこうというのでなく、そのレベルのことさえやっていなければ、一つずつ自分でやって見た方がよいと思います。それが何が本当に必要かを知るためのきっかけになります。

Q.ヴォイストレーニングの本を読む意味は?

 本もレッスンも同じです。 徹底して声に関するものに接して、そのうえで、さらにやっていくのだと知ればよいのです。徹底して学ぶための情報をレッスンで与えています。 自分で考えるといっても、曖昧なことしか考えられないでしょう。本を暗記するほど読んで、初めて、知識も理屈も捨てられるのです。純粋に声の世界とか、歌の世界の中に入ることです。 ところが、そうでない人は、レッスンを受けても、トレーナーの一言一言に迷ってしまうのです。 発声が悪いと、トレーナーがことばでいうことは、全てではありません。ことばで伝えられることは、最初にことばとして渡しておけばよい。

Q.練習時間は30分くらいでよいのですか。

 練習というなら、10時間やってもダメなものはダメだし、1分しかやらなくても、よいものはよいということです。 本当にプロであれば、そこで最高の調整ができるのです。うまく歌える人が、うまく歌えないときに、調整すると元に戻る。 清原は不振といっても、普段の力に戻ればよい。しかし、それはさらにポジティブにやらなくてはキープできない。昨日までできることを繰り返すだけならば、リピートでしかないのです。 例えば、その人の中に音楽が動いていない、そのことさえ、大変だという人は、トレーニングで繰り返すことによって、あるレベルまでのことは、日常化していくのです。 しかし、レッスンは、できていないことに気づくためにやるのです。そこではまず、それだけのテンション、声の使い方、鋭い感覚を求めます。 それが上達ではなく、最低限の条件を作っておくということです。 スポーツ選手であれば、毎日朝のランニングをやるとか、柔軟体操をするようなものです。そのことで野球がうまくなるわけではない。練習はそこからオンしなくてはいけないのです。

 日本では、ここまで終わってしまう人がほとんどです。声を出して歌っておわり、それは自己満足です。 オンするということは、30分のレッスンのうち29分間、できるようなことは、いつもできることだから、やる必要はないということです。わずか1分の中で、自分がやれない何かができたら、それがはじめて課題としてレッスンになるのです。 そんな状態は1年のうちで何回も起きません。 プロと同じ感覚を一瞬でも捉えられたら、そのあとの4年、6年の明確な目標ができるといっています。そのためにレッスンとトレーニングがあるのです。 そうでないレベルでは、いくら繰り返していても、奇跡的にうまくなるということはありません。いうならば、自分の中での大化けや大間違いが起きなくてはいけないのです。

 年齢をとっている人ほど、不自由になるのは、頭で考え、まとめるからです。今までの自分ではない何かが出てこなくてはいけません。 レッスンというのは、それを促すことが目的です。自分で気付くためにあるのです。 レッスンでよい声が出ることは、よくあります。それを確実にするために、トレーニングが必要です。 自分で気付けないから他人のところにいくのです。本当に上達しようとしたときには、人の経験を使うしかないのです。それには、自分の器がどれくらいあるかということになります。

Q.ロックと声楽との発声の違いは?

 ロックヴォーカルと声楽の発声というのは、発声面だけでなく、条件や見せ方も大きく違います。 声楽の場合はポップスと比べて限定条件があります。まず、原調でやらなくてはいけません。オーケストラを抜ける声量が必要です。そのため、日本人には、声域声量の獲得が大きな試練となります。 オペラを中心に、声楽はその役割にふさわしい声というのが、あります。 日本のミュージカルは、基本的に声楽を取り入れています。 エビータなどをみると、マドンナとバンデラスがやっている版(映画でみられる)と劇団四季とは、全く違います。日本では、声楽の影響を受けています。

 声楽のオーディションと同じです。つまり声楽が使えないものに対してのノウハウを、まだもっていないということです。 アフリカンリズムにのる演目になると、声をつぶしかねません。 声楽というのも、一つの技術です。日本の場合、向こうのそのままのものをもってくる面では限界があるような気がします。でもそれは、お客さんがそういうものを求めているからでしょう。声の技術を見たいとも思っているのです。 そこではビジュアルの世界ということでは成り立っていると思います。 作品をブロードウェイのと比べて見ます。その中で何が違うかということがわからないと、どうやってトレーニングしていけばよいかという、現実の課題に落ちてこないからです。

Q.才能と努力のバランスとは。

 100篇も詞を作っていない人が、何千詞篇も詞を作っている人に対して、才能を問えないでしょう。それは結果として問われる条件と基準が違うのです。 歌の場合も、自分で出して、直してという、プロセスを経なければ、到底そんなよい作品にはなりません。 確かに、たまに天才のような人が出てきます。 研究所に関しては、天才を見つけるために置いているのではありません。今の日本なら15、16歳くらいで、すぐれていたら、そのままデビューして、売れてしまう。それと比べてみても仕方がない。自分は自分のやり方をどうとっていくかということです。

 そうすると、やれた人はやれただけのことをやっているという、あたりまえのことが前提となるのです。一定の時間量さえこなしていない人が、自分はああいうふうにできないといっても、それは才能のところの勝負ではないと思います。 はっきりといえることは、できた人は、できていない人の数十倍以上、やっているということです。たぶん何十倍もやっています。それは話をしてもらうだけでもわかります。私がわからない分野に関しても、彼らは5時間でも10時間でも話せます。そういうことを入れてきたのが、レッスンやトレーニングの時期なのです。できるだけ時間をかけずに上達していこうというのは理想です。しかし時間をかけている人の方が強いです。

Q.ほかのスクールのトレーナーはだめなのか。

 他の学校にいってからここに来る人もたくさんいます。 誰でも同じように伸びますといわれてやっても、それが終わったときに、他の人と同じなのでしょう。みんなトレーナーと同じような歌い方になって、その癖がついてしまいます。私はそういうことを望みません。 それは必ずしも先生が悪いのではありません。トレーナー自身はよくとも、あなたがその人の形をとってしまうとうまくいかないからです。 歌や声などは、一人ひとりが違わなければ意味がありません。

 トレーニングをやったこと、発声を勉強したことは、微塵も感じさせないステージをやれるようにいっています。他の人とは絶対に似ていないことをやりなさいといっています。レッスンしていても、そうならないように気をつけています。 ただ、声楽などは、条件を踏まえて、ある程度似てくるものです。日本のミュージカルも発声の正解をもっているから、よくありません。 世界の音楽、歌には、たった一つの発声の正解なんてないのです。ただ、その声の深さ、扱い方に、それが芸として成り立つという厳しい基準はあるのです。

Q.声の出し方と正しい発声を知りたいのですが。

 正しい発声ということは、ことばで説明すると簡単なのですが、すぐにはやれないでしょう。ここはその習得だけを目指しているのではありません。いろんな見本を見せ、そこであなたは瞬時にどれが正しいか、正しくないかがわかるようになると思います。考えなくてはいけないほど難しいことではないのです。でもあなたの基準が甘ければ、どれも正しくみえるでしょう。

Q.どんな練習すれば上達しますか。 自分がきちんと目的をもって、セッティングをすることです。練習をすることによって、上達する自分のやり方を見つけることが、ポイントです。上達には、自分の体の状態の知覚と感覚の問題が深く関係するからです。方法こそが、歌ともいえます。 歌や発声の勉強は補強手段です。それを完璧にしたいならば、歌や声のことまで降りていってやることです。そうでなければ、違う策を考える。何でもありです。 ほとんどの人が歌をうまくなりたいとか、声がよくなりたいと思っています。

 しかし、ステージをやりたいとか、ライブの中でもっとみんなに喜んでもらいたいというのが、目的でしょう。 もちろん、そうでない人もいます。ボクササイズのようにヒットさせて、汗を流していたら気持ちがよいとか、声を出していると日頃のストレスが発散できると。それだったらカラオケ教室の方がよいでしょう。要は、あなたが何を、どうやっていくかということを自分で考えることから、はじまるのです。

Q.普段の生活で気をつけることは何ですか。

 モチベートです。モチベートがかからなくなったら終わる。 私は、ここでは人が待っているという最低限の義務になって、助けられています。 次に声がかすれたり、出にくくなったり、いろんな問題が起きたときに、それをどういうふうに見ていくかということです。 のどを痛めるのにも、いろんな原因があります。それを一つずつ見てつぶしていくことです。自分のことを知ることが第一です。

 声の使い方で、一人でやっているなら、声をつぶしても仕方ない。しかし、そのときに実際何が起きたのか、何が自分の中の問題だったのかということを知らなくてはなりません。 トレーニングやレッスンとの接点をきちんとつけなければ、意味ないということです。同じことの繰り返しになります。 発声の方法でも、やり方によっては、のどに直接負担をかけることを避けることはできると思います。部分的に力が入っているものを、全体的に支えていくのです。

Q.楽器と一緒に歌うときに、楽器とズレたり、噛み合わなかったりすることが多いのです。呼吸の長さを保つためにはどうすればよいですか。

 原語でやっているのであれば、原語の読み込みをリズム中心にします。 日本語でやると、違う問題が出てきます。 第一は、原語そのものを発するところの深さの問題です。それがリズムで打てるように声を出せているかということです。 日本人の場合は、自分の体や呼吸とは違うところでリズムを作り、あてる場合が多いです。だから、エアロビなどで声を使っていると、のどを痛める人が多いのです。 本来であれば、体を使っているし、呼吸も循環しているのです。声はしだいに使いやすくなるはずです。外国人などのインストラクターなどは、とてもよい声をしています。

 リズムトレーニングは、打楽器と合わせていくのが、一番よい入り方だと思います。ピアノなども、本当は打楽器と考え、体でリズムを捉えながら、そのときの気持ちの安定性を覚えて、そのまま声のことに入るのがよいでしょう。その方がまっすぐ立ったまま発声練習をやるよりは、よい練習になります。特に太鼓は、おすすめです。長さでなく、間隔(テンポ、リズム)でとることです。

Q.グルーブと呼吸について。

 ネイティブなものの勉強の仕方として、グルーヴやフィーリングの問題になってくると、何度も何度も繰り返して聞くということからです。 特に日本人に入っていない3拍子系のもの、ファド、ワルツ、ジャバの音楽、またアコーディオンのような楽器の呼吸のようなものは効果的です。 同じ曲を徹底して聞くわけです。それでもどこまで捉えられているかということは、難しい問題です。

 今の日本の音楽そのものが、向こうのものを基本にしている以上、それを日本人の感覚ではどう受けとめてきたか、そしてどう出して働きかけるかというのは、知っておくべきです。客へのみせ方も問題になってきます。 オリジナルのものをそのままやればよいという時代も終わりつつあります。 最近はそれを違う形に落としてきている人が出てきました。 料理の世界と同じで、どこまで本物ということにこだわるかということと、日本人の味覚とか感覚にどう合わせてアレンジするかという二面からの問題だと思います。

Q.声が打楽器に負けてしまうので、声量ももっと上げ、声域ももっと広げたいのですが。

 そのときもかなり広い音域の中で、自在に声を使っています。ただ、それを教える術があるのかということは難しい問題です。 音域、声量のことでいえば、いろんな見本をみせます。 要は、日本人がネックにしている発声ポイントを外していくということが基本です。そこが外れたら、あとでやりながら調整していきましょう。

Q.歌っている人で、首や額に青筋が立つ人は、あれで正しいのですか。

 その人の体型、体質も関係してきます。正しいかは、他人の判断することはないと思います。その歌自体がよくなければ、それはよくないということです。見た目でそのことがマイナスに働くのであれば、それは直すことと思います。その関係によると思います。

Q.猫背で歌っているのは正しいのでしょうか。

 そういう個人的な問題については、他人は関係のないことです。あなたがすごく猫背で歌い、そうやらないと何か引っかかるというのであれば、問題になります。いろんな人がいろんな歌い方をしていても、それは自由であって、自由です。 ギターを弾けば、猫背になります。そのときに何を基準でとるかということです。前提としては、一番よい条件を考えてみます。それより勝るものがあれば、猫背でもよい。ただ、そのことが何かを妨げているのであれば、白紙から正しましょう。

Q.大声を出しにくいところでの練習方法はありますか。

 大声を出すことが練習ではありません。声が一番よい状態で出るような状況を整えることです。自分の体や感覚を調整することが練習です。 ただ、全く大声が出ない人よりは、大きな声が出る方が、何らか原理が働いているということもあります。可能性としてはよい面もあると思います。 大声を出してやってみるのはよいのですが、それ自体が練習ではないということです。ただ、大きく器を作っておくという意味では、練習では大きなイメージをもってやるということです。

Q.歌声がこもっている場合はどうすればよいですか。

 これはマイクを調整するだけで直る場合もあります。しかし、大体は、自分の気を飛ばしていない場合が多いです。内側に入って自己陶酔の世界を作ったりすると、そういうふうに聞こえることが多いです。客に表現を声にのせて、飛ばすことです。(→)

Q.魅力的な声を出すために、自分の器を広げたいのですが。

 あなたが魅力的なためにどう何の器をどう広げたいのかということです。結論はそう生きるしかないと思います。 ヴォイストレーニングをやらなくても、そう生きていたら声はそうなり、歌に働いてくるのです。そうなっていても、まだ声が弱いとか、体が足りないと思うからこそ、トレーニングをする必要があるのです。 決して、全ての人がヴォイストレーニングをやっていたわけではありません。 マヘリアジャクソンが歌で伝えるのも、キング牧師が説教で伝えるのも、同じことだと思うのです。 日本で一番まともなヴォイストレーニングをやっているのは、お坊さんかもしれません。声明などを聞いてみてください。お寺は環境もよいし、信心というか、何か宿すものをもっている人が長年、やります。 声の器を広げていくということは、そういったことを応用できる基本をもつということです。

Q.声のことや歌のことは、毎日のように、レッスンに出向いて何時間も練習して初めて身につくものなのでしょうか。

 山にこもってトレーニングしても、声は身につくかもしれません。 私は、舞台というのは人前でやっていくもので、その経験の場を必要とすると思います。 レッスンをしているのは、働きかけを試み、何かを伝えたところから、声をフィードバックさせていかないと伝わらないからです。 山の中で自分だけで大きな声が出たと思っても、それが人に対して伝わる形態になっていくかということは、まったく別の問題です。それもその人の感受性によるので、何ともいえません。毎日どこに出向いて何時間練習していても、何も身についていない人もいるでしょう。

Q.正しく学びたい。間違いなく教えてくれるトレーナーを紹介して欲しい。

 レッスンは、間違っているところを修正する場として利用するというよりは、もっとより高いものに気付いて、その方に自分の体なり感覚をもっていくべきに思います。こういう世界は、間違ったとか、正しいというような、そんなレベルの問題で終わるものではないのです。 発声から見ると間違えていても、そこでその人の世界が成り立つような可能性が感じられるとしたら、私は、待ちます。少しくらいズレていても、そのまま大切なものをつかむまでやらせます。小さな頭の計算で、その人のもっと大きな世界が出てくるのを妨げないようにするのです。 クラシックからは、何かの基準で見ることはできますが、ポップスに関しては、そんなものはないのです。

 今まで出なかった声が出てきたり、誰もやったことがない声が出ていたら、それはそれで大したことです。そういうことをあまり声や歌だけで判断したくないというのが、私の考えです。番よいのは、トレーナーの言う通りに全部やれということでしょう。しかし、昔の芸人のように、他人の人生まで全部、責任もてるかということです。この分野に関しては、声も感覚も個人的に違ってくるものです。だから、いつも半分はわからないということを前提にしています。 だから、つくっていくのです。 私は、知ったかぶりのトレーナーや、教えたがり屋の人は採用しません。すぐに何でも直したりすぐに注意したりするトレーナーは、一見よいように見えて、当人の感覚を鈍く他人依存にしてしまうからです。

Q.今司会をやっています。昔からお腹から声が出ないのですが、自分の中ではもっとよい声が見つけられるのではないかと思っているのですが。

 アナウンサーやナレーションの人も来ます。 お客さんに対応して、日本の場合、特に、高くやわらかい声が求められています。日本のキャスターの中で一番声が低い人でも、CNNのなかでは一番高いということです。 日本のアナウンサーは、自分の表現を出して伝えるのでなく、上から与えられたものを読む。個性が入るとよくないようです。 外国人というのは、新聞でもニュースでも、そのまま信用していません。その人の表情とか、声などを見て、その人の言っていることは本当だとか、上から言われたとおりに言っているだけだとか、音声や表情に対して、厳しくみます。そういうことを個人で判断する力があるのです。それに対応できる高度な音声表現力のある人だけが、キャスターとなれる。

 日本人のように、テレビや新聞にに出ていることは、正しいというような甘い判断はしていません。 自分で何も判断できないという人に対して、日本のプロの司会者、アナウンサーというのは、高めの声で、やさしい言い方を求められています。 そういう文化風土の中では、あまり個性の強い表現は望まれません。歌や芝居になると比較的自由ですが、それでも日本の場合はそういう声の方が好まれるようです。【講演会 01.6.25】


■一般の方からの質問に対する回答

Q.僕はB'zの稲葉さんの声がすごいなと思っているのですが、話している声と歌っている声の高さがまったく違う気がするのですが歌っている声は地声ですか?裏声なのですか?福島英さんの『ヴォーカルの達人』には普段話している声が地声と書いてありました。

A.地声と裏声の定義が人により違います。 私は、仮声帯というところだけを使う発声を、裏声という意味で使っています。(というより、私はことばとしては、女性に裏声、男性はファルセットとしか使わないので、この設問自体成立しません。) 話し声は、話し声くらいで、男性でピアノのまん中のドより、1オクターブ下のドからミ(高い人でソ)のあたり、歌唱は、さらにそのソから1オクターブ上くらいまで使います。歌い手の声が地声か裏声かは、男性の高声は声帯振動を伴うことが多いため、微妙なところです。そういう声を出したいのだと思いますが、これを区分しても大した意味はありません。

Q.プロの方のレッスンは一日何時間ぐらいどのようなことをするのですか?プロの一日の過ごし方を教えていただきたいのですが。宜しくお願いします。

A.ご質問の件について、大変申し訳ありませんが、プロという対象では、一般的に答えられることではありません。一人ひとりまったく違うので、お答えいたしかねますので、ご了承ください。

Q.「トレーニング45」(P122)の1(「声がみるみるよくなる本」(中経出版)」の、「唇を閉じて、パ・バ・マを発音します」とはどのようにするのでしょうか。

A.パ、バ、マは、唇を閉じてから、開口時に唇を使って発する音です。閉じたままでなく、閉じてからということです。唇をきちんと閉じきれずに発する人がいるために、あえて、「閉じて」と加えたので、わかりにくければ、「唇を閉じて」を消してください。音にしても、しなくてもかまいません。

Q.私は合唱をしていますが、年に何回か半日歌いっぱなし、という日があります。必ず咽喉が荒れてそこから風邪の菌が入り、寝込むことになって困っています。そのような日に咽喉をプロテクトするいい方法はあるでしょうか。今日も寝込んでいるところです。

A.1.うがいよりも、外出から帰ったら手を洗うこと。2.早めに、風邪薬を飲むこと。3.喉を乾燥させないこと(飲料や糖分のない飴など)。4.マスク着用のこと。 歌ったら風邪をひくわけではありません。体力や集中力、食事、睡眠、すべてが関わっています。自分の生活を知って、なぜ風邪をひくのか分析してみてください。