会報バックナンバーVol.168/2005.07


 

CONTENTS


[1]For Beginner

(1)【歌一つ】

 1.歌一つ 取り出す 本質を見る 自分のもの感じ、すぐれた音楽の世界を踏まえ自分の音の世界をつくる2.歌一つ 前に出す こもらせず、飛ばす 前に出てこそ届く、伝わる。3.歌一つ ゆだねる 出したものを 音声の世界の中でゆだねる。心も身も任せる。感じ入り、感じ出す。 ここは日本によくあるタイプの“学校=スクール”ではない。レッスンに出るのはあたりまえだが、レッスンに出ていればよいというのではない。自分のトレーニングのためにレッスンが必要。 一方的に与えられる、教えられるのでなく、いつも自分から学ぶ。 学ぶということは、場に働きかけ、与えつづける、その力を大きくつける 自分の足もとで、中軸のところまでまっすぐ深めていくこと。 自分が主人公であること。そのリスクを引き受けること。 音声をみる。1.その世界はどうか 2.自分はどうか 3.客はどうか。 研究する。予め、外にあるものを“受け身”で教えられるのでなく、“主体的”に内にあるものから生み出し、“実践”する。◎続けるということ 集中力、気力、体力が必要 続けられるということ、集中して続ける力は問われる 自分の責任と心構え、どこまでぎりぎりでやり続けられるか

(2)【三つのルール】

 1.前に出る  人の後ろに隠れない。出していくこと。  ここは冒険のできるところ。失敗もトレーニングの重要な材料。2.まねをしない  人のタッチの摸倣をしても仕方がない。  自分のプロセス。自分の伸び率で見ること。  オリジナルの存在感をもつ。3.群れない  日本人の村社会の悪い面を持ち込まない。  音声の学び方を知り、自分に対しても、人に対しても厳しく批評できること。  自分が現在できないことにも、批評・判断する耳と目を身につける。  それがもてない(客観的に聞けない)と、自分でできるようにはならない。・聞けるような耳にする量×学び方で質にする

(3)【本気になること】

 ここでのレッスンで私は、歌や声を通じて、世界や歴史、人間の表現がどのようにそれを変えてきたかまで扱っているつもりである。 プロと一般を分けるべきという声もあるが、それは養成所では自らが決めていく。 つまり、本気で取り組む人のいる世の中で、そうでない人が何かを成し得ることはない。そういう基準や、それに足る努力の結果、他人に認められていくのであり、その量や質としても、どのくらいのことが必要なのかをここは示している。しかし、その前提として、レッスンに必死に臨まなくては何事も難しかろう。

 第一に、姿勢である。声を大切にしようとしたら、ロビーや電話での声の無駄遣いなど、できなくなるだろう。そういう人には、せめてやっていこうとしている人に迷惑をかけないようにお願いしたい。やれない理由捜しと、やらなくてもよいと思わせる友だちづくりの場ではあるまい。 なぜ、学校にも弟子制にもしないかといわれるが、学校でやれるくらいなら、私は音大や専門学校でやっている。人を出すだけなら、プロダクションのめんどうをみる。弟子というのは、芸にほれこまなくてはいけないが、声は、芸ではない、その基本である。

 歌は応用であるから、基本をわからぬ歌い手は、人に与えられないし、また歌そのものが芸ではないから、そこに何をのせるかを先生がのせてあげたところで、何ともならない。そこで、どこでも(というより日本では)、先生の活躍している場や権威を借りたいという下心で近づくことになる。そして、そういう輩の腐りかけたネットワークが幅を効かすようになり、若いときに偉かった人も、それに囲まれバカ殿となる。そんな例を身近や他で、嫌というほど見てきた。 歌い手が、もっとも“歌”から離れてしまったように、アーティストが、大手によるデビューやテレビでの露出度や有名プロデューサーによる客寄せに頼るところで(もちろんそれも実力であり、それとても力がなければ続かない厳しい世界だが……)、アートたるものから離れている。 まあ、他人のことは他人事、やれている人、やっている人は、それでよい。 あなたは、ここに何を見つけにきたのだろうか。

(4)【厳しさへの道】

 レッスンでも根本的な部分ではずっと同じことをやっています。 皆さんには無理なことはいいません。初心で学び続けるということを大切にすることです。一緒に頑張りましょうといわないのは、1年経ったら、7割くらいはその気持ちをなくし、2年経ったら、9割の人が、なくす。そこで1割、10パーセントと言ったのです。 それをスクールのようにトレーナーが優しく続けさせるのは、実のところをみせなくしてしまいます。

 つまり、トレーニングに来る人の半分以上は、自分のものを持たず、人間関係にも乏しく、それは構いませんが、トレーナーを身内感覚で捉え、人とつながっている安心感や自分が何かやっているという自己満足で続けることになる。そのために、いずれものにならず、やめる。トレーナーのやれるのは、すぐやめるのを、半年や1年くらい長くずらしこむだけです。結局は、やめる。やめたら、同じなのです。ただ、その密度において、全くの無駄になることも、先に活きることもありますが。 多くの人は、同じ場では変えられません。趣味として上等であっても、それ以上をやってはいけない。そして、自ら、最初の志と違う。その道を歩んでいることさえ気づかなくなる。

 皆さんが特別に稀な人であれば別です。もちろん、どちらが勝ち組みも負け組みもありません。遅くとも、人生を振り返ったら、死ぬまでにはわかるでしょう。でも多くの人は、そこをぼやかして、日常の生活に戻っていきます。気持ちは皆さん自身のものです。少しずつ出なくなるし、いなくなる。それを、みてください。

 長くいると、慣れてくる。ステージに出ることも、しぜんにできてくる。でも本当にやっていれば、抱えてくるものが大きくなるので、どんどんと楽しくも恐くなってくる。作品に対して忠実であり、誠実であればこそ、緊張し、怖くなる。 何をもって舞台というのかということが、わかればわかるほど、舞台が大きくなる。その大きさを使えるようにしていく。その感覚をきちんと磨いていって欲しいと思います。 長くやったことと、できているということの違いがわからなくなってくると進歩しなくなるのです。長くやれば、初めての人よりもできるのはあたりまえ、そこからできていなければ、何もできていないということで見るべきです。声が出ても、本当にできているということとは全然違う。舞台の中では、そういうふうに見てください。少しでも乱れがあれば、自らやり方を考え、厳しく正すことです。

 歌が好きな気持ちはわかるし、その気持ちは本当でしょう。ただ、その表面に出てきたところの歌は違います。声がない、歌がうまくないということとは別に、今までは歌というのを、人のことばで、人の歌のように、ただ自分の声で、人が使っているように使うことが歌だと思っていた。そこから、抜け出し切れていないのです。 それを剥いでみなさい。そうすると、何もない。そこに下手とさえいえない真実があります。 その原点をきちんと捉えなければ、その上に乗っかって降りることさえできない。いろんなものの飾りをつけてみたら、1,2割のアップはできるかもしれない。でも1,2割のアップでは何ともなりません。10倍、100倍のアップにするためには、まずきちんと原点を見なくてはいけません。その手間ひまをかけることです。

 いくらスポーツをやったり、ピアノを弾いてみても、プロになれないのは、それをやる手間をプロの人の100分の1もかけないからです。それまで自分がやりやすいと思ってつけてきたくせを、とることをしないからです。その方が楽しく歌えるし、気は楽、それでうまくいって、おもしろい。文句はないけど、本当に続きはしないのです。力をつけるまでも厳しいが、さらに力をつけてからの勝負が、もっと厳しいのです。

(5)【学ぶ姿勢】

 誰しも他人の門を叩くときは、素直にやれていない自分をみつけ、やれるようになろうとしている。つまり、心も体も、吸収できる状態にある。それを素直さという。 ところが少しやり、自分でできると思ってしまうや否や、傲慢さ、プライドが顔を出す、たかだか2,3年や、4,5年でそんなになるはずがない。ただ、まわりがやっていない人だと、1,2年もやって先輩風を吹かせてしまう。そして、もっとも大切な素直さをなくす。

 だから、まわりの人も高いレベルの人は尚さら、自分のことに一所懸命だから、その人に何も言わなくなる。それをもって、やれると思う。慢心、恐るべし。 あなたの状況は、どう変わった? やれていないから、仕事もステージもこないではないか。1.[学び方]テンションのあがる場、人に接する、接し続ける。2.[力の判断]そこに接して、やれているのは自分の力ではないことを知り、自分のものとする。3.[ギャップの埋め方]自分の力になるまで、ひたり切ること。4.[時代を観る]世の中とやっていく柔軟性や応用性がないのは、今の時代に生きていないから。5.[接点をつける]自分の世界とコラボレーションすること。6.[仕事にする]仕事とは、期待以上に返せるかということ。7.[アーティスト性]こだわり、深さ。それを支える理由は、あとからついてくる。8.[選び方、やめるとき]やれているならともかく、そうでない状態で選ぶな。9.[だめになるとき]ぐちを言わないこと。すると力をつけても動けない。動けるのが、プロ。10.[今の時代]もう人材発掘の時代ではない。見いだされないのは、力がないから。11.[声の出し方]声楽にも学び、邦楽にも学ぼう。12.[今のステージ]ラップは、1.内容、メッセージ本位 2.音楽性 3.声・リズム を兼ねる。

(6)【1万分の1】

 何かを起こした人、100人に1人。 それを続けられた人、1000人に1人。 そこを破って変えられた人、1万人に1人。 そんなところでしょう。 多くの人には、100分の1からの挑戦です。わかりますか? まわりの99人が右というのに左に行く。まわりの99人がやめるのに、やめない。 それをあたりまえに思えたら、次はその10分の1、少し楽のようですが、まわりは、そこを乗り超えてきた猛者です。こうなると素質だけでなく時間を味方にすることが必要です。そして、さらにその10分の1。ここでは、一人では無理、才能のある人を味方にすることです。 軌道にのったときにも、慢心せず、得たものをすべて生かす。さらに飛躍のために、すべて捨てて、再び初心でとりくめるかということなのです。 私は今も、まだそこにいるのかもしれません。本で、講演会で、研究所で、多くの人と接してきた。未だ、世界に通じる人を一人も送り出せていない。恥ずかしいばかりである。 そのために、つくるよりこわす、築くより奪わせる、得るより失うこと、さらなる飛躍のためとはいえ、これほど大変とは思いませんでした。

(7)【いのち(全身)を使って考えること】

1.いかに学んでも、自分で考えることなくしては実践に役立たない。2.頭から足の先まで使って生きているつもりで、頭も体も大して使っていない。3.生き生きしている人と、心楽しめない人がいるが、悩むのは、どこかの機能に欠陥がある。犬猫でさえ悩まない。人間は欲があるから悩むというが、欲がなくては、進歩もない。それは、欲で悩むのでないから、欲をなくす修行はいらない。ものの考え方が間違っているからだ。頭のもつ知恵がうまく働いていない。つまり、知恵を出す機能が欠けている。 頭は知恵を出す機能があるのに働いていないわけだ。だから、ものの考え方を正すことだ。それは、頭の先だけで考えているつもりになるからである。4.自分を救うことが他人も救うこと。自分を救うとは、自分の悩みをなくすことである。5.悩みをなくすには、何かに夢中になること。たとえば、自分の仕事(=歌)に夢中になるとき、悩みは消える。なれないのは、その仕事がよくわかっていないから。仕事に興味がもてないのは、そのことの勉強が、まだまだ足りないから―。6.夢中になるほど好きなのは、いのちが喜んでいること。嫌なことは、いのちに有害だから、手を打って解消する。そのために知恵を出す。知恵は、いのちが出す。いのちに好き嫌いはなく、意識がことばで考えて、イメージするから間違う(妄想)。いのちの上に我がのっている。我がいのちを痛めている。  ゴミをとる(逸脱)と、もとの姿が現われる(現生)。いのち―仏である。 「仏道を習うというのは、自己を習うなり」 「自己を習うというのは、自己を忘れるなり」

(8)【学び方のヒント 30】

1.学び方については、もしプロを目指すのであれば、誰よりも学べていなくてはいけない。上達したければ、上達する学び方が必要だ。 この内容については、こうしてくり返さないとわからないようだし、わかってもやらないなら、変わるはずもない。やって通じなければ、学んで変わらなければいけない。2.レッスンに出ること、検定に出ること、提出物を出すこと、少なくともまわりと同じペースでは、まわりの人よりうまくならないのは、どこの世界も同じである。たくさん出ているのは、よいのではなくあたりまえで、出ない人は自らチャンスと学ぶ機会を失っている。

3.同じことのくり返しが基本である。くり返すことでより深め、確実にしていく。できないのを知ったら、その前の基本を克服しなくてはできるようにならない。

4.好き嫌いで判断する伸びない人が多い。伸びる人は嫌いなところ、つまり弱点を克服しなくてはだめということを知り、嫌いなレッスン、トレーニングを自ら望み、挑んでいく。

5.ホントウに小さなプライドで動けない人が多い。いったいあなたの何が、それほど何かを与えているのか、誰にも気にされていない存在の軽さに対し、あきれるほど大きな自尊心、これらは自信のなさの裏返しにすぎない。自信はやってきたことでしか、つかない。人に踏み込まれたくないなら、ステージなどできるわけがない。

6.大きな勘違い、他人の歌も自分の歌も、全く評価できないままでは、何年たっても何にもならない。場に出てこないのでは、どうしようもない。その耳でどうやって音楽を生み出す? 聞くことも、歌うことも、絶対量が足らない。歌うまえに聞き込み、感じ方が足りない。それでは2年いても、2ヵ月分もできないのはあたりまえだ。

7.うまくなる、ならないのまえに、自分にとって、これ以上できないところまでやっているのか。どんなにとれない時間のなかでも、このことを選び続けた結果が自信となり、顔に表われる。そうなってきているか。

8.まわりがやっていない? 私からみたら、そういうあなたも全然やれていない。だから、他人が気になるのだろう。週1、2回のサークル感覚では、何も身につかない。まず、できないというまえに、わからないというまえに、やれることをすべてやったらどうか。誰でもできることなら、どんなプロも尊敬を勝ち得ることはない。誰もができないことをやり、それがやがて誰もができないレベルでやれるようになる。

9.まずはたった2年間、誰よりも使い切った人、その一日一日を他の人の何倍を生かせた人であって欲しい。生かせないうちはすべてに積極的に顔を出し、自分を生かすためにどうすればよいかにとりくまない人に明日はない。そういう人しか残れない。残らない。残る理由も価値もない。

10.上達した気になりやすいところは多いが、上達しやすいところなどはない。他に頼るところで、すでに負けている。その負けをしっかりと捉えて勝っていくことが肝心だ。自分が吸収できないのを、力をつけて乗り越えていくのでなく、吸収しやすくしてもらおうと考えてはいけない。

11.基本はプロの感覚、プロの体、これはそんなに生やさしいものでないことに気づいたところから、スタートである。一つひとつのレッスン、ステージ、アテンダンス、提出、感想、こちらが100をのぞんで1000を返そうとする人しか伸びないのに、形だけ提出(それさえない人もいる)して、やった気になっている。なぜ、伸びようとしないのだろう。やれる機会を充分に活かさないのだろう。素朴な疑問である。

12.とにかく、ここ2、3年の、歌ではなく、トレーニング水準と意識の低下は、歌を趣味でやる人の増加のせいかとも思う。どういう目的でここを使っても構わない。しかし、もし本当に上達、本当の意味で力をつけたいのなら、しっかりと場に出て感じていくことしかない。人との間において、変わらなければ上達はしない。   1.いること   2.続けること   3.働きかけること すべてにおいて、私はプロの3倍はやろうと思い(きっと今の皆の平均レベルの数十倍になると思う)、また迷ったら出ることを自分に課してきた。ここのあるレベル以上のメンバー(総数が100人でも400人でも、いつも同じ数10〜20名だが)も、きっとそうであったと思われる。今は、私だけでなく、そういう人たちとも直接、現場で接しているのに、これ以上、どうできるのだろう。

 考えて欲しいのは、ノウハウやレッスン以前に、それにとりくむ姿勢、毎日、いや毎時間、分、秒の感覚がないのに、時間で扱う歌が身につくことはないということだ。そして、それをここで今やらなくてどこでやるのかということだ。やれている人はやったからという理由、唯一、その理由で身についた。やっても身につかないのは、自分を変えるべき場に出ないからだ。 小賢しい頭で判断し、場に出ない。(仕方がないのでリライトしておくが、生の話と会報や本は全く違うのに、現場に出ない。) いったい学ぼうとしているのは誰なのか、私なのかあなたなのか。どうも、いつも私らしい。もう一度、よく考えて欲しい。

 今の状態は、うまくなれないというより、うまくなる方がおかしいと思える。アテンダンスの字数も質も、ひどく下がった。 だいたい私が不思議に思うのは、たかだか2年間でいろんな先輩たちのステージもみられるチャンスまでおいているのに、なぜ許されたときにもみないのだろう。友人のライブに行くなとはいったが、同じ場で自分よりたくさんやった人の舞台は、次に自分のやるときの何よりの参考となるはずだ。しかも、同じ条件で、似た曲でやるのだから、自分との差を知るには一番よいはずである。

 その人の人生において、ものすごく大切な一瞬がもたらされる可能性があるのに、それさえみなくて、何もわからないから何もできない、できないことさえわからない。一度や二度でわかるはずがないし、こういうことでわかったということは、できたということだ。 レッスンもトレーニングも、よくみることが第一だ。やっている人やまわりの人もみないで何が身につくのか。上達する人は、一流の人のプレーをみて、そこからすぐれたもの、すぐれていないものを通し、すぐれているとは何か、そのためにどうすればよいのかを学べる人である。そういうステージに観客としても参加しないというのは、この世界に自らエントリーをやめていることだ。それに優先する何があるだろうか?

14.金銭的に大変なのも、時間的に大変なのもわかる。わかるというのは、あなた方がスタートラインにさえ立てない一般の人だからだ。歌や声の厳しさをスポーツくらいにも捉えられない鈍い人たちだからだ。本気でとりくむということを知らない人たちだからだ。 伸びたければ、覚悟が必要だ。うまくなれないのは、本当にそうしようとしていないからにすぎない。時間は過ぎていく。たった2年さえ生かせずに、その先があるのだろうか−うまくならなくとも、全力で学ぶ環境を活かし、自分でつくりあげる。アーティストの生活なくしてアーティストになれまい。プロのトレーニングとプロの意識なくしてプロになれまい。 ここの場は世界中のどこよりも、あなたたちには必要かつ、わかりやすい場である。一人でこの環境を手に入れようとしたら、何千万円あっても、足りないと思う。

15.ここにおいているすべてのイベントは、レッスンであり、最低限のノルマである。好き嫌いでとっているだけの人は、そのとりくみそのもので得られるもののマックスが、カルチャー教室くらいのつもりであることを知って欲しい。他のスクール、アメリカあたりでも、年間400時間はレッスンにあてている。それを4〜8年でやる。うまくならないのは、歌や声への畏敬、それをやる自分への誇りの欠如である。

16.身につかない人や、やめていく人の大半は、全く何もできないのにわかったつもりになってしまった幸せな人か、この場に出るという最低限の努力をやめたため、わからなかった人である。それは吸収できなかったと本人が言うよりも、出続ける努力をやめてしまった人だ。そんなに簡単に吸収できるものなら、日本中、皆、歌える人ばかりだ。日本では10年やっても、一般の人より悪い声をしている人ばかりではないか。 学ぶということは、それほど難しいのに―どうして、そんなに簡単に1、2年で判断してしまえるのかわからない。とにかく、理屈なしに感じていくことを続けて、身につけたければ身につくまでやればよい。わからなければ、わかるまでやればよい。できなければ、できるまでやればよい。それだけだ。

17.ここは、自由だから難しいといったが、出なくとも怒られないからといって、出ないを選ぶか、だからこそ出るを選ぶか、日々、この選択か時間が、あなたを助けるか、だめにするかの別れ道だということに、まだ気づかないのだろうか。いくら会報で、今ここでといっても、他人の青い鳥をあこがれ欲する人たちには、盗めないものだから尊いとしか言えない。 自分でつくりあげるから、すばらしい。それはここが、あなたたちからみて、どうであるかより、あなたがここに何を与えられるかということからなのだ。ここを世の中だと思って欲しい。同じことなのだから。

18.少しでも何かを気づいたら、過去の会報を月に一度でも読んで欲しい。

19.私は、これ以上やれないところまでやった。ただ、凡たるために、本当に必要なもの、欲するものは人の10倍やれば必ず手に入ることを身をもって確信した。そして、その時間を誇る。そうして変わった体や感覚が、いつも私を助けてくれる。 そして、入っていないものが決して出てこないことも知った。入れる努力が必要であるから、学ぶ環境をつくった。それは、天才たちの学び方や環境について研究して、ようやく少しずつわかってきた。

 彼らの10年を一生かけて学びつつあると思っている。また、あなたたちと出会い続けることで、もっといろんなことがわかりつつある。本当におもしろい。 1を2にする学び方を知ったら、100の器用な人も、1000の一流という人も、やがてわかってくる、超せる。そうならないとしたら、彼らがそれ以上の努力をしているという理由のためだ。 だから、自分をもってあなたたちに示す。これ以上、やれないほどにやりなさい。自分の好きなことなのだから。もっとやれたという悔いは残さないことだ。才能や素質ではなく、すべてやったかどうかだけなのだ。

20.自分との戦いである。 やれている人は、自分の生きる糧を得るために、ここにくる時間もお金も人一倍かける。私もそうだったし、今もそうだ。生じ才能っぽいことがあったために、努力せずだめになった人は、どんどん消えた。やれた人は、ここにいようと出ようと、私とよい友人だから、世の中ともやっていける。代々木がなつかしく、心のホームグラウンドとなる。地球がふるさととなる。そして、他の何事にも打ち勝っていくだろう。

21.それは、歌を選ぶということでなく、自分の人生を選ぶということであろう。歌や声を求めるのは、その一つの手段にすぎない。本当に自立する、自分の人生を自分で選び、立つための楽しみとしての試練だ。歌や声をやめたら人生が楽になることもあるまい。サラリーマンも自営業も何でもきつい。力がないからきついのなら、力をつけるしかない。 でも、自分の信じるものに生きるのは、命を輝かすためだろう。それは、業界や研究所にあるのでなく、自分の足元にある。自立していない人間が、ステージに立てるのは日本だけだが、それをチャンスと捉えるのなら、それもよい。他人に動かされるのでなく、他人を動かす人となることだ。そのために、自分を、作品をつくる手間を惜しまぬことだ。

22.「ピカソの作品はピカソ」とあった。私は、ずっと幸せだったし、今も幸せで、この人生にも出会った人にも、君らにも、感謝する。だからこそ、本当に自分の身につけていって欲しい。ここからも、学ばず学べず、何もみずにやめて欲しくはない。おまえらはこんなとこで、いつまでこんなレベルで何をチンタラやっているのだというような歌やステージをみせて、立派に卒業して欲しい。

23.そのためにレッスンに出る勇気をもつこと、2、3年まえまで上達した人たちは、少なくとも、ここのすべてに関わっていた。私とも月に5〜8回は顔を合わせていた。今は、私に代わる人もいるから、利用する気になれば、もっと学べるだろう。2年すぎて、関わらなくなるのは、本人にそれでやれる気があるのだから、ステージでやれていたらよいだろう。しかし、2年でちょこちょことしか関わらず、ここで学んだとか、ここがどうだなどと大ぼらを吹くのはやめて欲しい。 力がないのに好き嫌いでやるのは、ど素人、逃げているだけ、どこの世界もそう、力がつく人は、死中に活を求める。そんな人がどれだけ少なくなったか、私が2、3年まえまでは自分と同じかそれ以上やっていると感じる人は、このなかにも何人かいた。今は、トップグレードにしか見当たらない。感じない。おびやかされない。困ったことだ。
 アマチュアがプロよりもやらなくて、プロになれるのだろうか。今の私の方が、成り上がっていこうとするあなたたちよりも質のよい学び方ができるのは当然だが、案外、量や時間でも勝っているのでないかと思えてしまう。今も、リードを許してどうする?

24.私の方が書いている。発言もしている。アテンダンスも、CDやビデオをみるのも、今の君らより多いだろう。少なくとも昔の私は、その時期、世界の誰にも(今でこそいえるが)負けなかったとはいえないが、そういうトレーニングをやっていた。だから、不安はなかった。自分でここまでやれる以上のことはないという時期を過ごしたからだ。
 言いたいことは、こんな私程度の人間をおびやかすくらいでないと、どこにも出ていけないということだ。出ても、続かない。その基準や鏡として、私はここにくるのに、もう少ししっかりやればどうか―ということだ。

25.なぜ、うまくなりたい人が、こうもレッスンを粗末にするのか、歌や声にデリカシーがないのかが、最大の疑問である。
 今、ここでやらなければ、いつかどこかでできることはない。ということと、時間はすぐに過ぎていく、一秒一秒をキャリアにしていかない限り、人生は、あなたの無限の可能性を開花させずに終わってしまうということだ。 毎日、水をやっている人だけが、自分の花を咲かせる。ロビーの花で終わってよいのか。 トレーニングをやっているつもりで、根を枯らすのでなく、ここでいつも問いなさい。人前に出て、自分を問う、群れずに一人で問う。 もっと真剣にできない、わからない自分でなく、それを言い訳にやっていない。できるようにわかるようになろうとしない。自分を恥じること。もっと悔しがり、もっとがんばりなさい。

26.あなたが、声や歌を愛しんでいないから、そこから人に愛を与えることも、自分を祝福することもできない。

27.学び方を学びなさい。声や歌を通して、真摯なまなざしで、ステージにふさわしい自分をどう磨いていくのか、あなたの考え、感じ方、そして何よりもやってきたことが、あなたの声、歌、ステージ、そして人生をつくっていくのだから。

28.真実は、人一人ひとり違うものだから、あれこれ押しつけることはしたくない。しかし、日本人や日本語と同じように、そこに入っているがために、みえないものはみせていこうと思って、この場をおいている。あなたよりも、きっと時間もお金もなかった、能力もなかった。そんな服も着れなかったし、喫茶店にも入れなかった。それゆえ、与えられるものを得ることを知った私の人生で、与えることで何事も切り開けるものだということ、それゆえ、与えるものをもつ、努力すること、それがないときも、人の前に出る努力を怠らないことを肝に銘じておいて欲しい。

29.自分の考えがある、自分が正しい、自分のやり方がある―じゃあ、あなたのまわりがそう動いているか、あなたの思うように、まわりはともかく、あなたはできているか。できていたら、まわりは動くはずだ。当のあなたは、こうしてあげるでなく、こうして欲しいとしかいえないではないか。 個性や自分の考えのないことさえ、わからない人が増えた。世代や価値観の違う人と深く交われないからだ。ものごとを深く極められないからだ。好き嫌いだけで生きているから、体をこわす。
 人は、一人で生きているわけではない。声や歌を選ぶのは、皆と生きるということだろう。人に与えて生きる。それは、与えられることだから、同じなのだ。私がこう言い続けるのも、多くの偉大なる先人やあなたたちの先輩が与えてくれたものをたくさん預かっているからだ。あなた方にでなく、彼らに責任があるからだ。

30.とにかく、人に頼らぬこと。業界の言われるままに動く。声も音楽も何も入っていないポップスヴォーカリストの軽薄さは、そのまま自分にも通ってしまうから要注意だ。
 心を動かさず、技術の器用さを競うばかりで、おすみつきを求めて、本場から(いつまで本場というのか)出場停止をくらった日本の声楽家たちも、賞もとれぬのに、出場人数だけずば抜けてるぶざまな日本のオリンピック選手団も、皆、同じ時代、同じ日本に生きている。そこと同じような群れにならないようにしよう。 一人ひとりが誇れるだけ自分になってくれたら、私もこの研究所を誇ることができる。私にとっては、ここが足元だし、ここで聞こえる歌や声が、私の歌や声なのだから……。それが、こうして発言する理由である。ともにおたがいの命あるかぎり、今は、この研究所の命あるかぎり、励もうではないか―ね!

(9)【一般的に多い注意点】

 1.手、体の使い方、ステージング、さびとフレージング2.声、くせ声、発声上の問題、個性とは異色なり3.小さくまとまっている 流れがない4.動きのつくり方、小さすぎる インパクトなし 5.伸ばすところ、中途半端6.動き、流れをつくっていない7.雑、フレーズ弱い8.ただまとまっている9.くせ声 声のビブラートが気になる10.曲のなかに動きがない11.急ぎすぎ12.選曲と流れ13.工夫が欲しい、言っただけでおわり14.流れている 歌っているだけ あまりに簡単に終わっている15.落ち着いてしまっている 声を出しているだけ16.ブレス、呼吸に雑 息が遅い だらだらしている17.ステージ以前の問題、姿勢、声は大きくする18.選曲ミス19.自分のなかだけでまわっている20.声が整理されていない 押し出している21.無難、それだけ まっとう、前に出ているが落ち着きない22.安定度あり 声の技術もう少し 中・高音部の問題あり23.形を整える必要24.繰り返し不要、工夫欲しい 速さを再考のこと

(10)【場を最大限、活かす】

 自分一人では、音や声への判断力を磨くにもなかなかわからないものです。まして、自分のオリジナリティや表現ということは、人のまえで即興のなかで何が価値かを知るには一人ではできません。それは人前で芸になるのに足るテンションの高さが不可欠です。10人くらいでやっていくと、「あの人のは何かよい」と感じたり、「あの声はのどにかけている」とかいうのが、わかりやすいからです。 自分の声や歌は、鏡を見るようにはわからないのです。何十回も聞いているうちに、慣れてしまいます。もともと自分の感覚で出しているのですから、その粗も聞こえなくなってきます。たまにプロの歌を聞いて、自分のものは「よくない」と思っても、なぜかはわかりません。多くの人は、「優れていない」のを「違うもの」として比べて学ぼうとしません。

 一流の人の条件は、自分を高い位置から客観視してみて、誰よりも厳しい基準をもつことです。第三者的に聞くことができないと評価は成り立ちません。そこを客観的に見ずに上達はありえません。他の人達を全部厳しく評価できるようになってきたら、自分に対してもそれがどのくらい当てはまっているのか、どう変えればよいのかが、わかってくるのです。優れているものを厳しく評価することから耳を鍛えていくのです。量をこなし、正しい感覚のもとになる優れたものを入れていくのです。

 個人レッスンでは先生と一対一で、限られた課題や細かいことのチェックをするのはよいのです。発声が伸びても、それをどう歌や舞台につなげるかがわからないなら、自分に必要な発声も結局わからないということです。そのためには、言われるまま、うのみにするのでなく、そのことばをイメージとしてつかむための仕込みが必要です。それには、まず、量をたくさんこなせるグループもよいと考えられます。複数のトレーナーや他の研究生も材料にとれます。ただし、その場のテンションが低いなら、全く逆の結果となります。そこが最大の問題、両刃の剣です。つまり、各人の高度な要求と、それに見合うとにくみ姿勢が必要なのです。そうでないと、チームプレイでないヴォーカルの場合、ただの慣れ合いになりかねません。 表現の場というのは、結局、人前に立って問うわけです。「人前に出て、上がってうまくできませんでした」では困ります。グループの場合は、自分の練習を自分のステージと考え、他の人は客にするのです。まず、そこで何か人と異なるレベルのことができない限り、どこにも出ていけません。そこで、プロがきてもまねできない何を創造しているかが問われます。

 日本のアーティストでも、たとえ声の力がなくとも、「この曲を歌って」と言われたら、それなりの自分のフレーズのアレンジにできてしまうでしょう。それはやはり、自分の音楽や歌のフレーズをもっているからです。いろいろな音が入っていて、それをとり出せるのですから、普通の人ではありません。そういう経験を積めるように、勉強をするのです。 発声は、武器になるし、それに接することで、他のこともわかってくるという条件の元に有利なだけで、強い武器やたくさんの種類の武器も、その使い方を知らなければ何の意味もないのです。

 日本人の場合は即興でやっていないから、自ずと甘くなりがちです。覚えたものを正確に再現するのでなく、常にそこで感じたままにつくるレッスンが必要です。 こういうものを読み、いろいろなことを勉強していこうとまじめに思っても、やれなければ意味がないのです。やれるために何が足らないのか、これはやってみては、やれるために何が足りないのかを知ることをくり返し知っていくしかないのです。学ぶことは、たった一つ、そのことなのです。

(11)【レッスンに出る心】

 レッスンに出る心のあるとき、それはたとえうまくできなくとも、何かが支えてくれている。 レッスンに出る心のなくなったとき、それは一人でやらねばならぬ。 一人ではやれたつもりでも、人前ではやれていない。 人前とは、一人ではない。だから、レッスンが必要なのである。 レッスンに出る心をなくしたとき、人前に出る技も、すたる。 それは、しばらくは過去のレッスンに出ていた心によって支えられているだけ。 だから、レッスンに出る心、それを失わないことが、可能性を決める。 レッスンで何かを得るのは、簡単そうで難しい。 そう簡単に得られるものではない。得ているつもりのものなど、大して役立ちはしない。

 何かが人前で本当に開くものとするならば、それを咲かせるのは、レッスンに出る心でしかない。 レッスンで何とかなるものでない。 レッスンに出る心、それが何とかする。 レッスンをやめてよいのは、その心が宿ったとき。やめても、レッスンは毎日、行なわれるから。しかし、多くの人は、宿っていないのに宿ったと勘違いする。だから、やれなくなる。 やらしてもらっているのを、やれていると勘違いする。うまくいかないのは、やれていないから。やれていないことがわかり、レッスンに出る。この心がなくなったとき、その人の成長も止まり、芸の進歩は、かなわなくなる。

(12)【「一念三千」】

腰を据えてとりくむこと

 1.森を見て木を見よ 2.神は、細部に宿る 3.初心、原点に帰れ 声楽をとり入れたのは、声を強くしたり、声域、声量を増やすためではない。いかに声を細部にわたって、ていねいに扱うかの感覚を、応用して欲しいからである。 ここに入ったすべての人の原点は、私の講演会から始まったはずだ。ここで“声”をみて、それを手に入れたいと来たのではなかったのだろうか。 それが数カ月も断たないうちに、自分たちで自分たちを伸びないようにしているのは、なぜだろう。 感覚的に学ぶというのは、情緒的になるのとは、全く違う。創造に至る耐性がなければ、キャンパスライフ、カルチャーセンターとなる。つまり、同じレベルのくり返しとなる。

 きっと、ここの場は、皆からみて、しんどいものなのだろう。でも、こうして世の中の大きな流れと自分の足元の細かい動きを結びつけなくては、何ら、生じまい。声楽、ヴォイストレーニング、歌、トレーナー、CDは、材料にすぎないのに、その“木”しかみていないで、つべこべ言う人が増えた。 遊びでも勉強でも、ライブでもトレーニングでも何でもよいが、中途半端は何にもならない。それを自ら選んでいる人が多いように思う。 そこですごいなと思わせる努力なくして、何かが成し得ることはない。 本質、核をみること。どうしてそんなに周辺や外野の声、しかも何ら大したことをやったことのない人たちの声に動かされるのか、私は知りたい。そういう世間によい顔をしている間に、ひたすらやっている人は力をつけていくのに。 自立するというのは、孤独に耐え、創作していくことである。

(13)【学ぶために大切なこと】

 他の人は、いろんなことを教えてくれる。才能や能力を、そこから補っていく。 素直に耳を傾け、いろいろと枝葉のついたことばから、幹を見分ける。 今の、いや未来の自分にとって、大切な幹を、きちんと見分ける。 才能や能力、素質がいくらあっても、うまくいかない人の多くは、人の言葉で右往左往している。自分の能力を持て余し、使い方を間違っている。どうでもよいことに踊り、大切なことを忘れてしまう。 本当の実力とは、実力のある人を動かせること、そこでの本気での関係づくりだけが、明日をつくる。 多くの人が、自分より多少、上で比較的、手の届きそうなところにいる人物には、妬みをもちやすい。しかし、事実は事実として、自分より何らかのことを、わずかでも多く成し遂げている人物には「何か凄いところがあるから、そこにいる」と考えることが大切だ。 これまで、ここで、あるいは他のところで、ぐちしか言わない人をみて、私は、声や歌のまえに、もっと大切なことを伝える必要を感じてきた。

 本気でこうやって欲しいということがあるなら、聞いてみたい。 私を使える人は使えばよいし、使えない人は離れればよい。こちらが頼んで使って欲しいというのではない。私はこうやって生きてきたし、こうやって生きていく。ここでやるのは、ここを必要とする人がいるからであり、そういう人がいなければ、いつやめてもよい。気力、体力がもたなくなれば、いずれ退くことになる。それまでは、一所懸命伝えて残したい。 ここで少数のやり抜いた人を見習えばよい。もったいないことだ。 自分だけが正しいと思っているうちは、大切なことは学べないし、世の中でやっていけない。

 最近、私は外国で、ようやくGood Voiceと呼ばれることが多くなった。 反面、日本では、ややテンション不足、いや刺激不足なのか、年に1、2度、酷評をもらうこともある。そこで、素直に反省はしてみるのだが……。 ただ、どうも今の日本人は、思ったことを何の根拠もなく、自分の思うまま言えばよいと思っているような気がする。一人よがりな意見よりも、そこでの状況の把握力のなさに失望することが、たびたびある。私でなくとも、誰もがそういう人を、人生の開けていかない人、成長できない人と思うだけである。事実、そうであろう。だから、ぐちになる。ぐち集団になる。 しかし、ここに入ったからには、そういう人にはしたくない。ここも、そういうところにしたくない。 何事からも学べ、自分の名前で発言し行動できる人にしたい。

(14)【地道にまっすぐ進めていく】

 世の中には器用な人もいれば、不器用な人もいます。しかし、私が長年見て、今も残っていたり、いろんなステージをやっている人は、とにかく最終的には人がどうであれ、マイペースというか、ブルドーザーのように、とにかくまっすぐに進んでいるのです。それが唯一、モノになる条件だと思います。 世の中との接点になってくると、また違う要素も入ってきます。その辺はどう加味していけばよいのかということは、次の問題です。しかし、このこともいつも伝えているつもりです。まずは、ここで、接点をつけましょう。

(15)【へたに徹せよ】

 うまくなろうとするな、徹したものが通じる

 世の中には、よい声、音量・声域のある人は、少なくない(研究所にも多い)。しかし、それをかなり有利な条件とする歌において、そうではない大半の人よりも評価されていないとしたら、よくよく考え直さなくてはいけない。 つまり、そういう人は、声に自信をもっているから、ますますそれをめざそうと、三流声楽家もどきの道を歩みはじめる。もったいないことだ。声そのものがオリジナリティのように思われている日本でも、よい声でなくよい歌で評価される。今の日本のライブで、クラシックもどきの声で歌っているヴォーカリストがいるだろうか?(言うまでもないが、声楽を正しく学ぶことを否定しているのではない。また、日本を、今をも超えようとしては欲しいが。)せっかくの才能や素質があっても、自分をみようとせず、みられないために、生涯の大切な時期を方向違いの努 力に費やすのは、もったいないことだ。が、本人の選ぶ本人の人生である。なぜ、世界や時代や歴史や古典から時事問題に学ばなくてはいけないのかは、歌もまた、人間に対していくものだからである。今、ここに(日本に)いる人に、歌うものだからである。 ということで、評価特集である。他人の経験を自らのものとしてどこまで活かすかというのは、学び方のポイントである。

(16)【世の中で認められる】

 何かを与えて、与え続けて認められてはじめて、求められるようになる。どうやってやればよいんでしょうと言われるけど、やらしてもらえるようになってしか、やれないのだから、それが人の世なのだから、そこまで与え続ける辛抱をする。 他人に権利ばかり主張せず、自分の義務を努める。それは、すぐにできること、最初はそれしかできないのだから。今できることを精一杯やる。この精一杯のレベルの差なのだ。 あたりまえのことを、あたりまえにやる。 やりたいことをやりたいっていっても、やらせてくれない、やらせたいと思わせるだけのことをした人だけが、やれる。・自分の知らないことに口を出すのに、避けること。・何でも知ることは幸せなことでもない。・判断できる能力がないなら、判断しないという判断も必要だ。・知識を使うのはよいが、その権利、参加する権利があるのかどうかについて、考えること。・常に前提にあるものを疑うこと。本物を観る感性を磨き、新鮮な眼と柔らかい心で生きること。

(17)【好き嫌いと芸】

Q.客の好むことをやるのか、自分の思うべきことをやるのか。A.これはレベルによって違うことと思います。ハイレベルな段階では、仕事を受けてやるというクリエイターと、自らその世界をつくり出すアーティストとの違いのようなものがあるでしょう。 仕事というのは、発注される相手がいて金銭が伴うので、ビジネスと捉える向きもありますが、アーティストでも、その世界に自らしか住んでいなければ、作品として成立しがたいから、分けられるものではありません。

 金で買えない価値を、その作品(ライブなども含め)に求める人がたくさんいるから金を払う。つまり与えられる価値より安いと思う(あるいは値がつけられない)のですから、ビジネスとして成立するのです。 CDを出したり、ライブをやりたいなら、多くはそこを抜きには語れません。むしろ価値が足らない分、自腹を切ると考えてもよいでしょう。 にも関わらず、金にならず人と変わったことをやるからアーティストだなどと思う人に限って、大して高くないレベルに甘んじることが多いものです。 ビジネスになっていたり、アーティストが豊かになることを堕しているように捉える人がいます。それは(多くの場合)、やれない人のねたみやそねみでしかありません。

 確かに百万枚売れた人の作品の質の悪さを、10万枚売った人は10分の1くらい、文句を言ってもよいかもしれませんが、そういう人は、言わないでしょう。量と質とは別のものですが、千枚も売れない人がとやかくいうのは、何もやっていない、つまりわかっていないからです。 成り立っていること、売れること、即ち多くの客のいることは、いないことよりも何かがあるのです。 つまり、自分の思うべきことは、一人の客さえいなくてはやれない。もちろん、この一人の客は身内以外(親戚や同僚、先生や生徒以外)のことです。 次に、客の好むようにやっていては、客の嗜好という二番煎じになりますが、その方がやりやすいし、少し早くうまくいく。ただ、大きく広がることも長く続くこともないでしょう。つまり、オンリーワンである芸としての深みこそが問題なのです。

 私は好き嫌いと、芸の優劣の問題を分けることにしています。たとえば、先生やスクールに対して、好き嫌いでやっている人は、先生が嫌いになったり、仲間が辞めると、自分も辞めます。しかし、優劣でみている人は、好き嫌いに関わらず、何からも、少しでも学ぼうとし続けます。ちょっとしたことが、すべて人生の岐路なのです。 同様に、ある時期、好きになった分、反動で嫌いになもなるのです。これもトレーナーや場への依頼心から生じるのです。アンチになるのもファンの裏返しということで、私は同じだと思っています。何やかんや言ってこだわっている限り、自立していないのです。 自立した人間から、さらに自立した作品は本来はそんなもので動かされてはいけないのに、9割方(つまり、あなたも)そこで動くのです。 つまり、やれる人ほど嫌われ、敵も多く、それゆえ、客の好みでなく、自分の思うべきことをやっていることが立証されるのです。そこに、それを本当に好むお客が現われるからです。


[2]First Class

(18)【この頃思うこと】

1.ポジション 誰でも入れるところにいること自体が落ちこぼれ。それがわからなくなるところは、よくない。ただ来ているところ、ましてお金を払ってくる権利を得たところでは、いるだけでは何ら得られない。学ぶべきことは、内容でなく、意欲と自分の売り方である。2.批判より実践 どこでも、友達ができると、先生批判が出てくる。自分が大したことないことを棚にあげる。そんなことをやっている暇があれば、一つくらい上に顔出すこと。自分の未知の将来より、先人の実績に頭を下げること、少なくても自ら10年やって、さらに実績を残した上で、他人のことは問うこと。そのときやれている人は、自分を問い、やれていない人は、まだ他人を問う。

 やれる人は、どこでも100人いて、1人、2人くらい。そしたら、このままでは自分がやれていないことを知ること。 素質ある人の才能が発揮されぬまま、本人はやれるつもり、やれてるつもり、やっているつもりになってしまう。そんな本質もみえないようになっていくなら、何のための勉強だろうか。3.群れ始めることで自己肯定する これは、逆手にとれば、学校やサークル運営の秘訣なのでしょう。私などは、ここはそうしたくなかったのに、来る人たちがそうしてしまう。ちょっと長くいたら、小坊主(いわゆる茶坊主)になる。世に出て行けず、そこで偉ぶる。4.場 私は、自分の他のあらゆる才能を総動員して、稼いだものを誰よりもすべてつぎ込んだ。結果、とても自分の勉強にも経験にもなった。会報には、生徒のものまで打ち込んできた。ここは、研究所なのである。 私がビジネスをやるなら、こんな効率の悪いところに旗など立てない。多くの企業家にも私はアドバイスしているが、そのくらいの能力はあるつもりだが(だから経営者として有能というと、別問題である)、それゆえ、あえてこの場は分けている。つまり、ここは私のライフワークの場なのである。 それにしても、なぜ多くの人は、自分の器でしかみられないを知り、拡げないのだろう。 レッスン代などは、消費物でない。少なくとも、自分の財布でなく、自分への付加価値、それに相手の時間価値から算出すべきであろう。時間を費やすからって、時給いくらってものではない。5.引導渡し 多くの人が自分の夢をあきらめるのを、人のよいトレーナーに導いてもらいたがっているように思う。トレーナーの人柄などに右往左往する。そうでなければ、なぜ、そこでもっと真剣な作品の価値や、イメージや音楽のレベルや方向性をめぐっての創造のやりとりがないのだろうか。 声だけに、歌だけに、音楽だけに凝っても、その先に何をなすかがないのにどうしようもない(もちろん、それの試行が許され、チャンスとなる時期としても、研究所はあるが)。

(19)【続けるべきか?】

Q.疲れている、やる気がが起きない、行く気にならない、やりたくない、他の人のようにできない、自分だけへただ、全くできていない、うまくならない、歌もレッスンもトレーニングも嫌い、でもやめたくない。どうすればよいのでしょうか。

A.やめたくないなら、やめなければよいのです。自分の歩んだ道を、人は戻っていくのです。少ししか歩まねば、すぐに戻れます。そこで寝ころんでも、休んでいても、自由です。 でも、時間は流れ、年齢は、とっていくのです。若さは、失われていきます。しかしそれは、もっと大きなものを得るためです。魅力的に年齢をとりたいと思います。人に対し、何か与えられる人になりたいと思います。誰にも何もできず、皆に足手まといな年寄りになるのは嫌です。

 どこに戻っても、人は、また歩まなくてはならないのです。ステージや歌について、まわりと比べるのは、自分を知るためで、自分がだめだから、あきらめるためではありません。自分は死ぬまで自分で、あきらめてもついてまわるものです。だめなのは、どうすればよいのか、知るためです。どんな人も、より高いレベルからみたら、だめだったから自分を知り、超えていったのです。そこで踏みとどまったのです。動けるまで待ったのです。そして、動いたのです。 他人と比べる必要はありません。多くのやれているつもりの人は、他人のものに乗っかって、やっているつもりになっているだけです。10年も立たないで、やれなくなります。そのまえに、やらなくなります。

 何もないことのわかったあなたは、これから自分でそれを知り、つくっていくことができるから、彼らよりもずっと先にいっているのです。 まわりの人にわかるところまで力をつけることは、大変です。だから価値があります。自分を生きるから、大変なのです。 あなたは、あなたでよいのです。その体や心をいつくしんでください。そしたら、きっと、せっかく生まれてきた自分の体も心も声も大切にしてあげなくては、と思います。そこに何かが始まります。あなたの心臓も呼吸も、あなたがどんなに疲れていても、やる気にならなくても、一刻も止まらず、あなたをいつも支えているのです。

 始まるまでは、長いのです。いつ始まるかは、人それぞれです。でも、もうあなたは始めているのです。生まれたときから、ただ生きているということも始めたということも、自分でつかまなければ、ないのと同じなのです。 こういうときは、第一線でやっている人や、そういう人や作品のビデオをみていればよいのです。たくさん歩んだら戻れなくなります。戻りたくなくなります。歩んだあとに、自分の道ができていくのです。だから、のろくともゆっくりでも、自分の足で歩まなくてはいけないのです。誰でも今、いるところから、出発するしかないのです。やめたくない心に、頭や心がついていくのに、手間どっているのです。

 自分が思っている自分は、デッサン力のないあなたが、昔、描いたへたな絵のようで、いやだ嫌いだと、わめいています。そんなことばにとらわれるのでなく、自分の内なる声、ことば、心、体の叫びを、しっかりと聴きましょう。あなたは、すばらしいあなたになりたがっている。だから、なりましょうよ。

(20)【スランプと中だるみ】

○スランプ「最近、スランプで……」

 大体、世に一つとして何も示せていない人が、スランプなどということばを使ってはいけない。それは、実力を認められた人が、他人から言われるべきことばである。「調子が悪い」といっても、必死にトレーニングをしているときに調子のよいなどということは、それほどあるまい。まして舞台に対しては、最善の準備をするようにしても、最悪の状態も少なからずある。 たとえば、私も3回に2回は不調なものである。最低の状態において、一人前にやれなくては所詮、どこにも通用しようがないのである。それゆえ、長く第一線にいる人とは、大して力の差がないと思えても、思いのほか、差は大きいことを知ることが必要だ。

 うまくいかない人のおよその要因は、ただの中だるみである。それは、全く力のない人よりも、やや力をまわりから認められかけはじめた頃に多くなる。 見分け方は簡単である。最初の1年の心づもりよりも、志が大きくなり、可能性が大きくなったかどうか、それによって求められる、大変なレッスンをしているかどうかである。中だるみは、具体的には、ここでは次のようなことで現れる。  1.レッスンやイベントに出なくなる  2.アテンダンスシートを出さない  3.ステージに新鮮さが感じられない つまり、単に他の人より、長く生き長くやったということで、勘違いのキャリアとなり、知らずとおごっているのである。誰も認めてもいないのに、自ら卒業もしくは放棄してしまう。 道というのは、上達するに従い厳しくなり、さらに努力を要する。力とは、より過酷な条件において問われるようになってくるから、日頃よりそういう毎日に備えなくてはやっていけるはずがない。そのステップをあがらないように自ら、そのようにしてしまうのは、その方が楽だからだろう。自分よりもやれる人よりも、やれない人のなかで一定の評価を得て安心していては、外に認められるわけがない。たかが養成所などでは、段突に抜きん出ていて当然というのでなくては困る。

 自分の初心、初年度のことばを裏切り、へ理屈と思い込みで、いつ知れず、そのほか大勢のギャラリー、つまり学べない人となるのである。それなのに心の中では、「私は成長したし自分が正しく、思ったようにやれている」と思っているから、悲しい。こうして、また新たな才能や個性がそこで命運を絶たれてしまうからだ。つまり、精神的な自殺である。やがて本人の作品がそれを裏切っているのにさえ、気づけなくなる。

 そういう人をみるにつけ、「へたでも一所懸命やっていた、それゆえ悩み苦しんでいた。あなたの方がずっと魅力的だったし、好きだったよ」と言いたくなるが、そうなってから言っても仕方あるまい。「子供は皆天才、20歳過ぎればただの大人」と言われるのは、近づくほどに、のぼるほどにいろんな知識や情報が入り、それにまどわされず、本質を求め続けるのが大変なことであるからだ。最初のレッスンは、先生がセットできるものだが、世の中を広く知り、たくさんのすぐれたものも入れていくにつれ、自己が確立していかないと、それを何にも使えなくなっていく。

 ただ退屈をまぎらわすためにすぎなかった表現ゆえに、その希求が乏しくなるにつれ、何の必然性も、それを現わす才能もないことに気づいていく。大切なのは生活であり、舞台ではないとわかる。そして、表現が退屈になる。そういう人は、1.やれていたのが、いかにその場や他人のおかげなのかがわかっていない  2.自分本位のマニアックな追求の限界を知らない 結局、ものごとの本質追求よりも、まわりの見方や思惑の方が大切であり、形や甘い情に流される方が好きなのである。そうでないようになるために、ここに来たのではなかったか。「ここに入った年のアテンダンスシートに勝てるか」と聞きたい。そのときよりも、書いていないことを許しているのは、いったい何なのだろう。誰なのだろう。 他人のことばを自分のものとして、そのままに使い、しかもそのことがわからない。そんなもので通じていると思い、やれているから、始末が悪い。「そんなことなら、あなたでなくても言えるし、やれるじゃない」と、その事実をつきつけることから始めなくてはいけない。にせの宝の地図を大事に持っているから、どうしたらいいものか。早く、へたに気づき、何もないという現実からスタートしなくては、きっとこれまでと同じになるはずだ。

 残念だが、今までそんなことで、ごまかせるほど甘いところで長い時間すごしてきた(あるいは、そういう生き方に誰も関与せずにこられたほど、他に表現してこなかった)のだから、本当に自分を白紙にする努力をしないと、ここでも同じ轍(わだち)を踏む。 自分でもこの程度でよいのと思うレベルで生きて、そのレベルの作品をつくりたいなら、そういう退屈に耐えうる仲間を求めるしかない。つまり、消費行為にすぎないカラオケの世界である。だから、そういう人々は、すぐに若くなくなり、活動も続かない。頭ばかりがでかくなり、何一つ人前に示せない。まわりは自分のポリシーでなく他人の思惑で動き、それにさえ気づかぬ鈍さに閉口しているのに、少しも変えようとしない。 それを心地よく思わぬ真のアーティストは、すぐれたアーティストのなかでさえ孤独なものなのである。

(21)【海水浴客か漁師か】

 アンケートをみると、早く資料が欲しかったとか、説明の仕方や段取りが悪いとか、場所や食事がどうこういってくるので参考となる。思いもよらぬ気づきや、意外な発見もできる。 アンケートなので言いたいことをいうのはよいし、細かい点で言ってもらえることは、ありがたい。これからも、よろしくお願いしたい。 ところが、うっかりしていると、私もプロの仕事として(など考えたこともないが)、どこまで顧客サービスに努めるか、など、ここ3年は日々、一般の社会人の仕事の悩みで悩んでいる。これも、きっとありがたいことなのだろう。  つまり、細かいことが、もっとも大切なことについて、書かれていない。だからどうしたのか、どう行動したのか、どうそれが跳ね返ったのか、さもなければ2泊3日の観光旅行のアンケートとなる。 それではまるで、海水浴で人を集め、漁師をやらせようとしているのかという気がしてくる。 直すべきことは直そうと思う。正しいことは正しい。しかし、こちらが配慮する分、なぜか皆の気づきの力が落ちてしまう気がするという言い訳が、言い訳にならないようで困っている。たまに放り出してみて、うまくいかないかと思うが、やはり何から何までみないと、やらないと、思わぬ目にあう。スリッパを直しておくと、それはあたりまえと思うし、放っておくと、乱れていて、それをあたりまえと思う。いつも観光客―。 いきつくところ、音声で表現する舞台において、快ければ、他は本当はどうでもよいと思っている。 海底には、もっと大きな魚がいたのではなかったのだろうか。くやしがってくれよ、おい。 海水浴を楽しんでたら、大きな魚がとれたというわけにいかない。しかし、漁師の船に乗って、食べさせてもらって、見ているだけでは、もったいない。 ここは、釣ったものを食べさせるのでなく、釣り方を伝えるところでありたい。どこでも、どんな条件下でも、タフにやれる力をつけてもらいたい。 観光客は気まぐれだ。気分のよいときしかこない。漁師は、嵐のきそうな日でも、じっと海をみつめている。命をかけて出て行くから、真剣にならざるをえない。 自分が釣った魚だからこそ、ひとしお旨いから、そのために毎日、自ら、とり組むのではないか―。旨いから、人に買ってもらって喜んでもらって、ずっとがんばれるのではないか。 海に出ていくのも、今晩、食べるものがないからというのと、人々の喜ぶ顔をみたいというのでは、士気も違ってこよう。 私の釣りの結果はここのところ、さえていない。 漁場を変えなくてはいけないのか。 エサを変えなくてはいけないのか。 どこの海にも、おいしい魚はいるはずなのに―。 自戒を込めて。私も反省したい。

(22)【やめるということ】

 1)やめたくなるときは、やり始めて   3日   30日   3ヵ月   3年 といわれる。だから3年から差がつく。何の分野でもやりとげた人でそう思っていない人はいない。   しかし、ここではなぜか、1年半ピークのジンクスがあるようだ。他の世界では、1年生が2年生になっただけなのに。2)やめる理由とその対処法  やめたくなる理由は、さまざまだ。   1.自分の表現欲の減退   2.声の獲得の必要性の消減   3.居場所や評価への不満   4.目的の消滅   5.他への転身   声一つでも、そこからあらゆることは学べ、得られる。声ほど身近にあり、どこでも必要とされ、生涯においてあなたの印象や実力を決めていくものはないのに。   やめてもよい理由は、たぶん、ただ一つ。もっと、人生をかけていくに値する大きなものが現われ、そこで力を発揮するのに専念したくてたまらなくなり、両立が不可能となったとき。それまで、少なくとも一度は選んだものだから、モノにするまで続けたらよいのに……と思う。それでも、体で声をつかむこと、それで人に働きかけるようになれることの価値は、決して小さなものではないはずだ。3)いつのまにか三流をめざしてしまう人の成りゆき   1.結果としてやれていない   2.人に表現できていない   3.難しいことば、他人のことばばかり使うようになる4)始めたときの自分に負けている   初めてのモノローグや初年度に会報へ書いた自分のことばを、自ら裏切っている。   でも、人は今の自分やその考えを肯定したがるものだ。どうしてやれなくなるのか。それは、それを正す人がいないから、あるいはそれに耳を傾けられない、つまり慢心があるからである。その結果、やれていないという現実を知るべきである。   そういう人は、場に出なくなる。一人でやれていると思い、せっかく正されてきた感覚さえ失ってしまう。   自信と慢心とは、全く違う。それは、何年かたって自分の声や歌を正せる自分に戻れない限り、一生わからない。でも、それも幸せな選択かもしれないが……。何年たっても、身内以外、誰も認めてくれないところで早く知るべきことであるのだが。

(23)【やめるとき】 こういうところで多くの人と接していても、その人がやめるときに、はじめてその人の内面や本音がわかるということが度々ある。その大半は、文面などによることになるのだが、いつも返答に窮してしまう。ということは、それまでの私の言ってきたことを少しでも気にとめていれば、それは私に出すべきことでなく、自分を納得させるための方便にすぎないことだからである。 そして、ときに、その人にというより、その人のようになりそうな他の大勢に対して警告するために、このような文を書くはめとなる。それを当人に渡すことは、まれである。 せめて、今世の別れのときくらいは、笑顔とまではいかなくとも、自分でその苦味を飲み込んだ方がよいからである。相手のためを思って、厳しいことを言って、恨まれてでも本人が発起してくれるならよいが、そうでなければ、何も言わない方がよいとなる。

 所詮、わからず、気づかずの人、慢心している人、自分が正しいとしか思っていない人は、そこで何を言ってもわからないからである。10年たって、どれだけやれたかみたらわかるといっても、10年たった頃には、当人はそんなことさえ忘れているからである。 別れ際というのは、その人の真価の、そして将来性や可能性までみえてしまう瞬間である。しかし、ここに来たときの心や思いさえも、忘れてしまって、それゆえ出会いもせず別れもせず、というのも、さみしいことである。そして、また他のところを他の人のまわりを、さすらう。一人よがりの一人相撲の正義に酔いしれて。何もできず、何も残さず……。 アマチュアのなかではなく、プロに認められるその基準というのは、声や歌だけではないのである。謙虚さがなければ、忍耐力も伴わず、いかなる行動力も実を結ばないのである。

(24)【不安と情報】

 最近、「不安なんです。どうすれば……」って、よく聞かれる。将来のこと、自分がどうなるかってこと。 でも、誰でも、いつでも不安だと思う。やっているほど、やれているほど、大きなステージを与えられるから、不安とは、縁が切れない。でも、あなたは、しくじったから失敗したからって、どれだけの人に迷惑をかけるのかい? 大半は、自分に対してだけで、すむでしょう。 巨人軍、工藤公康選手が、こんなことを言っていた。「常に不安だから練習して、いろいろ考える。不安で寝れないから、夜中に起きて練習する。今の若い人は口で言っても、体は反応していないのでないか。体に出てこない、やっている態度に表われなくては、不安でなくて過信になる。」

 彼は巨人でのデビュー戦、二戦と、満点のような内容だったが、でも、中日戦は60点、阪神戦は40点と自己評価し、「自分のピッチングではなかった」と言った。「力で押すから、紙一重、1年もたない」 37歳で147km/hの最高球速をマスターした人間のことばである。 プロのスポーツ選手をみて感心するのは、スランプとかいっても、何日か、長くとも何週間で直してしまうことだ。それだけ自分のことやそういうときのやり方を知っている。つまり、そこまでやれて、プロ。 私も不安だけど、やるべきことをいつもやり、何かが起きたら精一杯、対処して乗り超え、そして自信にしてきた。そうして生きてきたから、不安だから楽しいって言える。 ほとんどの人が、いや、プロほどそういう心や体のこと、黙ってがんばっている。本当に健康なら、こんなこと、やっていない。だから、できる。

 一人ひとりの人生には、いろんなことがある。やっていない人には、想像もつかないことが、もっともっとある。少しでもやれた人は、それを克服してきている。だから、少しでもやれている人を認めてあげるべきだし、それをあれこれ言う暇がありゃ、自分のことをやるってこと。(少しでもって言ったって、たった2、3年でできるようなことじゃないよ。最低5、6年は必要だよね。)その心を支えるものとして、音楽や芸術もある。 でも、大したことのやれていない私ごときが言うことではないが、言わせてもらえば、弱いからこそできるんであって、強けりゃ、何もできない。 だから、好戦的でしょ、強い奴って。認められないとか自分の方ができるとか、あの人がどうだとかこうだとか―自分のことが、ちゃんとできていないから、その分、口出す余裕がある。強いから、鈍い。

 強い人、そう、このおかしな世の中でちゃんとできる、上司に言われたまま、理不尽なことに耐えられるなんて、何て強いのでしょう。右から左に移した石を、左から右に移す、それに耐えられる人は強い。これは、うらやむべき能力。でも、そのパワーは他人でなく、本当は自分に向けるべきなんだ。そしたら、もっと自由に大きく好きに生きていけるのに。そういう人は、才能も実力も、私なんかよりもずっとあるのに、自分に集中しないから、それで終わってしまう。だから頭にきて、あれこれ言うんだよ。他人が許せないんだね。 この情報過剰の時代、力にも糧にもならない情報を追いかけて、一生おわる人が増えていくようで、イヤだね。情報が多ければ人間、何もできないんだよ。正しく人を読む力をつける、これしかないのに。私は信頼ある人の一言、それだけを信じて生きてきたし、今も本当に少ない正しくもののみられる人の情報からだけ、人を正しく読む力を学んでいる。 使えない人が情報をもつくらい、本人のためにならないことないでしょう。ただ、いっときの安心を求めて、いつも無意味な不安になるだけでしょ。違う?

 才能とか実力っていうけど、プロセスと結果をみることだよ。その人が何を生涯かけて成し得たか。成そうとしているのか。いい加減な情報ほど、人を誤らせ、腐らし、大切な時間を奪うものはない。P.S. もう一つ、「不安」へのヒントを。横尾忠則さんのインタビューより。 モノを考えないことの大切さ。迷うのは考え過ぎた結果、とらわれないこと、ほどほどを過ぎると執着になる。対象と距離をとること。しかし、一方で身体で体験し、不可知の世界をみることは大切。 今の人は、出ていこうとしない。ガードが固く、ガードがあるうちは、世界をみられない。みんなが恐怖感をもちすぎ、第三者の視点ばかり気にしている。どんどん世界が見えなくなる。自立からは、ほど遠い。 不透明なものに蓋をせず、それを吐き出すのが、芸術。人間性をとると、芸術が犠牲になってしまうこともある。 今という瞬間を生きていること。芸術は描くことが目的なのに、戦略になっている。 捨て身になってしか、挑戦もありえない。

(25)【すごく不思議なこと】

 自分がやりたくてやっているんだろ  誰かに頼まれてやっているんじゃないだろ  これじゃだめだと思うからやるんだろ  すぐれるためにやるんだろ  私たちも私たちを必要とする人がいるからオープンにしている  共に求めているのは、今のあなたではない あなたも日本の高校生の能力があれば、どこかの国なら、かなり優秀な仕事につける。カメラをもっていけばその日からカメラマンもできるかもしれない。 たとえ、プロといっても、大半は相対的な力量の差で成り立つ。それを、唯一無比の絶対的なところにもっていって、はじめてアーティストとなる。

(26)【気づくということと批判すること】

 トップメンバーだった人の学び方をみると、皆、声や歌に関しては、何よりも本質に気づく力にすぐれていることがわかる。素質や才能なんか、3歳からやっているという人でもなければ、人間さほど変わらない。 そして、次に大切なのは、実力とは、生きていくなかで、どう聞いてきたか、どう気づいてきたか、どう行動してきたかである。人生は、そのくり返しである。 たとえば、感謝の気持ち、これは自分で気づかなきゃ、どんなに「おれはおまえのためにこんなにやってる」なんて言われても、起きないだろう。私にもお世辞、お追従する人、批判を言う人もいる。 しかし、彼らのを読むと、そのどちらでもないことがわかる。自分のことばで、私や研究所でなく自分を語っている。だから、説得力がある。ここで何かを成せた(成している)から、それなりのものである(もちろん、この先はわからない)。 でも、あなたにそれだけのことばが吐けるだろうか。

 世の中には、人のあげ足どりによってしか、自己主張できない、かわいそうな人も多い。いやな仕事が終わって、その腹いせに、自分のことを棚にあげて、少なくともその人の数倍やってきた人をおとしめる。GWや休日にも、そんなことに精を出す悲しい人生を選んでいる。その時間を、なぜ自分の力をつけることに使わないのだろうか。 「主張は嫉妬心に宿る」という、ことばを聞いたことがある。批判は少なくとも実名でやることだ。その責任とリスクをとらぬ人のことばは、それだけのものである。 往々にして、それは、批判が批判をなしていない稚拙な文章や考え方の偏りであるから、とりあげることもできない。感情的に人をおとしめることで、優越感を感じたいという自己欲に過ぎないからである。それを通じて、向上しようという姿勢がない者の発言は、批判にさえなりえない。他人のことより自分の力をつけることに専念すべきではなかろうか。

(27)【けんかする相手を間違えるな】

 世の中には、いろんな人、いろんな考えがある。 何を成したかでみよ。 顔のみえぬ老人を相手にするな。 同じ程度に卑しく生きたいなら別だが……。 顔を出して殴られ叩かれることを恐れるな。 それが若いあなたに、もっとも必要だ。 研究所なんていう、幻想を早く破って欲しい。 研究所の一員っていえる、何を成した。 少し、そこにいた人たち同士が、研究所を語っているありさまは、こっけいである。 私についても同じだ。私が研究所を語るのは、あなたたちとの接点だからであって、それ以上の意味はない。 研究所を語るな。自分を語れ。語れる力をつけよ。 研究所の一員でなく、あなたが研究所に価値を与えよ。そしたら、研究所などと言わなくなる。そして、研究所という幻想でなく、同じ時代や世の中を生きる人に与えることを知ることだ。

 何もなせないのに、語るな。ステージで語れ、生き様で語れ。何を成したかで語れ。 なぜ、そんなに理解されたいのだろう。 そういうおべっかで安心して、傷つかず、一人ちやほやされたいから? 表現の世界では何ら示せないのに、理解されようというところにも無理がある。 自分が深めていって、それを理解するやつが出るまで待てばよい。 やれている人が、理解させる努力をやめるのは、人生は理解できる奴に出会い、濃い時間を過ごすためにも、短すぎることを知るからだろう。 必要な人脈は、やるべきことをやっていたら、できる。やらずにぐちっていたら、逃げていく。ぐち仲間とのぐち人生となる。

(28)【アディクションとコーディペンデンシィ】

 ―今の時代、舞台や歌へ依存している人は、とても多いと思う。観客でなく、舞台側の人間に、癒しが求められている。昔のように自己存在や証明や自己実現のための葛藤ではなく、そこでほめられ認められ、心地よいために依存する。狭い世界で、他にそんなところがないから、そこから抜けられなくなる。自ら創り出すどころか、本気で求めて捜しさえしない。 日本の多くの音楽は、統一教会やオーム真理教と同じような構造になりがちである。つまり、歌や舞台をやる人の満足が、客のそれを上回っている。共有化でなく個性化においてしか、本当の成長は起こらない。個性化の徹底のみが、人を巻き込み、おのずと共有化に行き着くのに、そのプロセスを経ないで形を求める。今や、何事も未熟な状態に留まる人が多いのは、これを逆行させられるように、つまり共有化で個性が出るように思っているからである。(参考)

○「悩む代わりにアディクションに走ってしまうのが依存症です。昔は心に葛藤があると、その悩みがノイローゼという形で現われた。不眠になったり、食べ物が喉を通らなかったり、何らかの身体症状が出たわけです。ところが、依存症の患者は、酒を飲む、買い物をする、たくさん食べる、ギャンブルをする、ドラッグをする……といった形で、悩みを正面から受け止めず、何らかの行動で解消しようとする。それは精神的な成長からの逃避なんです」((永野潔(東京都清新医学総合研究所主任研究員))

○精神的な悩みと戦い、それを克服して人間は「精神的な成長」を遂げる。この常識論を、心理学者のC・G・ユングは「個性化」と名づけて、自分の心理学の重要な概念にした。ユングによれば、人の意識が無意識と出会うとき、その人は精神的に極めて不安定な状態にさらされ、人生上の大切な決断を迫られる。その葛藤に打ち勝つことで無意識のある部分が意識化され、その人は新しい意識を獲得する。これがユングのいう個性化=成長の概念だ。

○ユングの考え方に従えば、依存症の輪郭がかなり、はっきりしてくる。依存症患者は、「現実の日常生活では味わえない達成感を、たとえその場限りの刹那的なものでも、とにかく感じたいと願ってアディクションに走る」(永野)(平野勝巳著)

(29)【初心忘れるべからず】

 どうも心配である。いや、それを通り越して、好きになさいとしか言いようがないのかもしれない。講演では、感覚と体からの声づくりからと歌っているのに、どのくらいやっているのだろう。 やっていることは、どうでもよいこと、知識に迷ったり、声を壊したり、やる気をなくしたり、休んだり、まだ入り口のまえでうろついている。それはよい。問題は、それなのに本人は、きっとマイペースに知識や技術を少しずつ得ている錯覚におかれていることだ。それが困る。それでは3年たっても何の差にもならないと言っている。でも、聞く耳もないということが、わからない。

 実験の場というのに、創造のための実験の許される場ということで、どれだけの真剣さなのか。ここは耳学問のノウハウや正誤問題の答え合わせをするところではない。なのに、皆、同じように考え、同じように動くようになっていく。つまり、鈍くなっていく。 たった1音の処理さえできていないのに、声づくりをやっているつもり。表現を試行することを疎かにしているのに、感覚づくりをやっているつもり。つもりか本当かは、3年、5年たつと明らかになっていくこと。世の中、現実は甘くない。 せめてここにいるうちは、最初に決めた3つだけは、守ったらどうだろうか。  1.レッスンに出席すること  2.V検に出ること  3.アテンダンス、レポートを出すこと 自分が必要とされる最低量に対して、どの程度やれているかもわからないのだろうか。 「自分の考え」というものやらで自分を甘やかして、何の力がつくのだろうか。 入るまえにみえていたことが、入ることでみえなくなることはよくある。しかし、いつもスタンスと直観を、入るまえに戻って整えなおして欲しい。ゼロから先にいくために。

(30)【変じゃないか】

 キャンパスライフから、生まれるものはない。 やれない人の集団に入ると、やれなくなる。 本質を見誤ると、あらめ方向にいく。 いくら基準や材料を与えるにも、それをくり返しオンして磨かない人には、消化不良、いや口にも届かない。 だいたい100人が入ったら、100人ともやっていけると考えること自体、こういう世界を甘くみて、バカにしていることではないか。 うまい人は、入ったときの器用さのまま。 鈍い人は、入ったときの鈍さのまま。 何かを変えに、ここに来たのではなかったのか。 巷のスクールに行くと、「あたしの歌を見て、見て」、というコドモが多い。 だからといって、見て、見て、というものさえない人が、いいわけではないが。 それで何か、ほめてもらい、1つ2つ直してもらうのがレッスンだと思っている。 少しやった人なら、誰でもできるもの、トレーナーの真似でも、もっともっとうまくできるものに、全く価値のないのを知らない。 自分がやったものだから価値があると思って疑わない。それはもっともだ。 私のつくった焼きものや料理だって、それのないところでは役立つだろう。 その分をわきまえていれば、問題はない。そういう人に限って、どこを直せばプロになれるかなどといわれるから、困る。

 歌や声をいくら直しても無理だ。その感覚を深めなければ、チャンスさえ訪れない。あなたより、声もよく歌もうまい人は、どれだけいると思っているのだろうか。こんな狭い代々木にだって、何百人ときっといるじゃないか。 その面構え、気構えを直しなさい。 そんな恥ずべき質問をする神経を直しなさい。 どこに売るべき作品があるのかを、示しなさい。 何をもって示するのかを考えなさい。 そういう考え方、生き方、人との接し方を直しなさい。 プロは、まわりの人を巻き込む力のある人だ。技術や技量ではない。才能、作品、人なのだ。 プロはプロが認め、プロにしてくれるのであって、自分でなろうとするものではない。だから、あなたの才能、作品、人となり、情熱を示しなさい。

 見て見てレッスンは、トレーナーをトレーナーでなく、フレンドリーな友だち、少し自分より優れた友だちさえつくれない人が、お金でその時間を買いとっているだけであり、そして勇気づけられ、ほめられ認められ、そのアーティック気分に代価を払う。 変じゃないか。君がプロになれる人なら、そうでなくとも、お金を払っても会いたいと思わせるものなのだから。プロデューサーもトレーナーも、君にお金を払ってまで会うことを楽しみにするんじゃないかい。

(31)【「見て見て」からの脱却】

 以下、余談。もう時効だから話してもよいだろうが、「福島先生にみてもらいたいから、来たのに」と、私が海外出張でV検に来たときに休んだら(このときは、その週に休むのは、一ヵ月前から時間割に記載してあったのだが)、それを口実に辞めた人がいた。たまたま野口さんの講座で、運悪く?私の海外での活動の話が出たためらしいが、もしその理由が、私が高熱で倒れたり、交通事故なら、よかったのだろうか。私は風邪などで休むのは、他人にはともかく、自分ではこの上なくバカなこととしか思わないが。

 もちろん、何回かは、私は見るべきだと思っている。しかし、半年に1度みればわかる。V検でなくレッスンでもわかるし、談志さんではないが聞かずとも、気構えなどでも、すでにわかるようになっているつもりだ。 というのも、辞めたあとにきたとても長い手紙でわかったのだが、この方は、その日のために、いかに仕事を切り上げ、発表の時間に間に合わせるかに、神業的な運転をしたかを長々と書き連ね、さらに勢い余ってか、トレーナーへの文句まで連ねていた。トレーナーは、私が任せている以上、それを信用しないのは、私を信用しないのと同じなのだし、私をたてて、そのためにトレーナーを理不尽に言う人は、所詮、誰ともそうやっているのだと思われるだけなのに。

 意地でやっていたなら、さっさと辞めりゃよかっただろう。世の中でまじめに自分の仕事をやるのはよい。ここに来るのに、いくらかかるとか何時間かかるというのは、全てにおいて当人の事情だ。偉いわけでも、こちらが気遣うべきことでもない。はじめからそう言えば、入らないでくださいといったのに、それを隠して入ったなら、隠し通せば、まだここまで醜悪ではなかったろうに。 こういうまじめさは、まわりだけでなく自分をも不幸にする。がんばるほどに、うまくいかなくなる。同情はするが。 トレーナーを辞めさせればとか、そんなのは勝手なことをしたら言われずとも辞めてもらうだけで、何を言ってようが、生徒全員にそう言われても、関係ない。 ともかく、私が手を抜いていると思われ、それに自分の努力が引き合わないとみた。なら、辞めるべきだ。

 「私を見て見て」で来られているから、それゆえ、いつも同じステージだ。何を言っても曲だけが変わって、あとは変わらない。この意味がわかるだろうか。仕事でなければ、私だけでなく誰もみない。 それがわからない限り、カラオケ自己流の歌から脱しえない。年に1回、あるいは3年に1回でも充分、ビデオで同じだと確認し、まえの私のコメントをみたらよい。変わるなら、そこからしかない。(それにしても、どうして多くの人は、自分のやった熱意をもって、そのまま伝わるべきだとか、相手がきちんと必ず対応してくれるものと信じているのだろう。その選択は、相手の方にすべてある。)

 この文章も同じ。辞めた人は、見なくて済む。つらく思わなくて済む。それは私の冷たさであり、やさしさである。これを読んで何かを感じた人に役立つかもしれない。だから、あなたの長い手紙とここへの情熱を、ここにいる人の糧になるところまでも吸い上げる努力をした。 どこでもいえることだが、あなたが必要でここに来ているのであり、私が必要でここに呼んでいるのではない。あなたは自分の必要とされる場所で生きればよいのであり、ここがそうでなければ、そうなる努力をするのも、辞めるのも、よい。そういうことがわからないなら、辞めてみればよい。というような人が、多くなった。

(32)【語れる立場】

 黙れとまでは言わないけど、語れる立場になって語れよ 他からここに来ると、よくわかると言われる。また逆に、他のトレーナーのところに行くとよくわかった、などとも、たまに言われる。そういう感想文には、あきあきしてる。別にあたしはわからせたくてやっているんではない。わからなくても、やがて力となって出ればいい。「何がわかったの? トレーニング??」なんて、やぼなことは聞かないが。少なくとも、声や歌を聞いて、「えっ、どうしてそんなに変わったの?」ってこちらが聞いたら、教えてくださいな。

 絶対的なやり方を信じ、それを疑うことなく誰にでも押しつけ、高い音にひっぱりあげたり、声をやたら大きくしたり、ピッチに当てたり、リズムにはずれないようにしたり、そんなにもわかりやすい目的に専念すると、目的そのものがズレているという頭さえもたなくなる。 それで、いったいどんな声、いやどんな歌になったの? それでどこでやれてるの? 誰があなたの歌を聞きたいって、身内や友人以外の人が本気で思うようになったの? ヒット曲とか紅白なんて言わないが、少しは有名とは言わないが、歌とか声とかの仕事を頼まれる立場くらいになったら、ものを言えば……、ということである。

 レッスン現場レポートなんかのように、マスコミが学校からお金もらってやるようなことをお金払ってやって、うさ晴らしているだけの人生、あたしゃ、そういう人に答えるのも仕事の一つかと思って、あと、ホントに少しだけこうやっているけど、うん、こうして本仕事のあいまにうさ晴らしているけど、自分が情けないところからくる文句や怒りや憎しみでは、何も変わらない。どこにでも行って、いろいろと学んでくれ。と、迷うのがよくよく好きな人が、この世にゃこんなに多いのかと思う。道を究めるのに、迷ってる暇などあるものか。あなたの目的は、いったい何だったの?

 足元みないで、結局、自分のない人は、いつまでもあこがれの他人になろうとして、なれなくてあきらめる。自分しかない人は、ここにいても他のところにいても、自分ではよく学べましたと言って何一つ、やる前と大きなところでは変わらない。英語の発音クリニックにでも行った方がよかったのではないか。 もう「トレーニング」がわかりましたって言わないで欲しい。「ヴォイストレーニング」って分野で、「ボクササイズ」のようにできあがって、エグザスのように会員の全国大会が開けるわよ、となりかねない。トレーニング名人とか、マニュアル博士とかはいらない。

 トレーニングは、目的のためにやる、人生か世の中にどう対するかのあなたの姿勢が、歌に、ステージに出てくる。そこで、多くの人の心を動かして欲しい。 今、ヴォイストレーニングに来る人は、そのものが目的? なら、誰か「『ヴォイストレーニング』トレーニング」を書かなくちゃって。「ヴォーカルの学び方」より「ヴォイストレーニングの学び方」が必要なのよね。いいの、それで。不幸よ。 受験勉強くそくらえってロックやってたのが、予備校に合格するための受験勉強みたいなヴォイストレーニングやるなんて。語らずにやれよと。また語ってしまうあたし。黙って、モクモクと自分の仕事やっている人って、格好よいよね。沈黙しよう。自分を深く見つめよう。 求める心の強さが、全てなのだよ。

(33)【空気を変えよ】

 最近の日本は、やはり特殊で偏っている。いつの時代も、そういわれるものだが、ここ10年ほどのように、愛や夢やポリシーのない状況は史上まれなことではないか。それは、次代を啓示してきた音楽業界にもいえる。そして、日本と音楽、表現をしようとしているところにクロスしているところのあなたにもいえる。私にもいえる。 そういうときは、自分を知る―それがスタートだ。あたりまえのなかにいて、その特殊性と偏向性のみえぬことが最大の問題だ。空気の汚れに気づかなくては、それを駆除できない。自分の汚れも同じ。突き放してみるしかない。あかにまみれて、あかを落とす。 どう生きてもよいが、ここで学ぶ人には学べるようにさせたいと思い、ヒントを与えている。 ステージでは空気を変えよ、動かせといっても、空気のみえぬ人に、それはムリだ。歌は、空気をとりこみ、それを吐いてつくる。呼吸で動かす。 なぜ、自分が格好つけてやったステージをVTRでみて、かわいくもない赤ん坊のじゃれている姿やガキのケンカと同じことがわからないのだろう。同じ画面で同じ音量ですぐれたアーティストをみていないのか―。自分かわいさは、芸にならない。

 それとも、歌も声も、自分の個性とやら好みだけの一人よがりのなかで、何かをつくりあげているつもりなのか―。勘の鈍さ、基準のなさ、感性のなさ、それをよしとする風潮―妥協といい加減さ、気分だけの実体も実力もない自己アピール、芸術や表現とやらのカケラもみられぬ、甘ったれた生活。絵を描けば、「誰でもピカソ」? それでもやれてしまう、村や身内のなかで、やれてきたから、自分で自分のをみてよいと思えば、変わることも上達することもない―。どうしたら、人並みで人のまえにしゃしゃり出て、いばったり自慢したりしゃべったり、そこまで卑屈に情けないことができるのだろう。ここは、キャンパスのコンパではない。身内の集まりではない。誰も絵を描かないから、描いているあなたは画家というのか。ここでは、皆、歌っている。だから、歌い手か? すぐれたものを表現したいがゆえに、トレーニングをするのではないか。

[3]Second Class

(34)【“プレBV座の現状”】

 99.8.10―Simple & powerへの原点回帰を 研究所の抱える問題は、プレBV座に集約される。つまり、毎年、2〜3名は、あがっていた出演者が、ここのところ、あまり変わらない。つまり、やめる人が少なくなったので、支えられているものの、いつもほぼ同じである。だからといって、プレのレベルも全く上がっていない。つまり、各人のキャリアからいうと、落ちているということである。 プレが、L懇など他のイベントと大きく異なるのは、研究生とはいえ、客から料金をとっていることである。現実にそこに足を運ぶ客は料金を払っている。そこに立つもの、立とうとするものに、どれだけ、その自覚があるのだろうか。 今のままでは、ただ自分たちよりキャリアがないとか年齢が低いために、あるいは研究生が明日を夢みて学べるものを盗みにくるために、レッスンの延長として出ている客がいるために、ステージが成り立っているにすぎないともいえる。 アーティストであるのに、熱烈なファンもつかない。客を動かせないのは、すべて、客が悪いのでなく、ステージ、歌、出演者、プロデューサーの側の責任である。 そこで、そんなステージをするのが、おかしいのである。客がブーイングしようが、途中退出しようが、自由であるが、ここは守られている場である。 それは、他の日本のステージと同じく、甘えにつながりやすい。ともかく、明日もまた来たい、友人をたくさん誘ってみせたいと思うようなものには、なっていない。客が楽しめない、心を奪われない、何かに触れたり、気づかない、そんなふうに客が育たないステージなら、やらぬ方がよい。 ときに心打つ歌も聞こえるし、そこにいると、その人の心に伝わる歌もある。しかし、技術や発声だけの歌が、つまらない内輪で評価されても、そこでしか通じないと同じく、キャリアや年齢が、慣れや歳月によって伝わるのは、やはりサークルのイベントにすぎないといえる。どうしてたった2年たったくらいで、皆パワーダウンするのだろう。志のないステージは、不毛である。

 問われるのは、いつも今、そしてこれから何をつくっていくのか―に秘められたパワーであろう。 出演者は、ステージと客に、感謝する心をたてまえでなく本心でもって臨んで欲しい。客としての役割に甘んじているレッスン生も、生の音楽を生身の人間から聞くのはどういうことかを学んで欲しい。 プレBV座は、V検やL懇と同じであってはならない。 内容もなくディスコよりひどい騒音、ガラ声に、音の世界もなく盛り上がるお客の勝手し放題、バンドにそえもののヴォーカリストのライブの多いなか、恵まれたこの聖域が、それゆえ閉ざされたサークルにならぬよう、我々はすこぶる警戒をし、厳しく自省しなくてはいけない。 次回より、しばらくは、もっとシンプルにスポット一つで作品を浮き出させていきたい。装飾もやめる。レッスン場を人一人の力でおもしろくできずにライブというのも、おこがましいからだ。

(35)【事実と真実】

※ 一昔前、アーティストは己の体内からの溢れるエネルギーの表出と、それに形を与える感性の表現で道を切り拓き、素晴らしい作品を創ってきた。そのカオスが、後に文化やアートと呼ばれる源流となった。 今は、人間本来のもつ、この大きなエネルギーを使わないで、文明の利器に頼っている。 その渦中にいると、そのことさえ、わからなくなる。 第一、歌や発声に正しいやり方とか正しい声といった正解などはない。声楽は、発表の舞台や内容からベルカントという唱法を編み出し、そのための基準をつくったが、これもそれを成し得た人たちに正しいものが宿っているだけである。それぞれの民族や音楽によって、唱法も発声もすべて異なる。

 その人の真実は、その人のなかにおいて磨かれるしかなく、それに気づかず、それを練り出す努力なくして、他人を納得させるものは出ない。 何事も成し得ず、自己満足で終わるのは、歌のなかで創り上げた幻想に、他人のノウハウを収集し、他人の歌らしく歌うことをめざす人たちである。 私の講演後、アンケートでみる限りにおいては、そこで起こった事実をきちんとみることのできる人は、決して少なくない。なのに研究所に入ると、他人依存症になるのだろうか、最低限のこともやらぬところで、頭のなかだけの憶測、推測、妄想、伝聞事で、左右される。なぜ、腰を据え、地に足をつけて、紙を一枚一枚重ねるようなトレーニングをできなくなるのか、不思議である。頭で考えて、できなかったことをやりにきたのに、頭ばかりを使ってどうなるのだろう。

 この世界は、そんなに簡単にできてしまうほどちっぽけなものなのだと思っているのだろうか。 事実は、トレーニングという現場の中にある。すべては、そこから拾うしかない。確かなことは目でみて、手で触れるものにしかないが、声や歌の世界は、それができないので、レッスンの場がある。 自分なりに対策を先行させるのも、反省をするのもよいが、その場で起きた現実の事象に対し、本質を見抜いていくことを怠っていないだろうか。多くのすぐれた音楽や歌、アーティストやヴォーカリストを対象として研究し、自分と同じ時代に今、生きている出席者を研究し、そして自分を研究していく。これは、自分の世界をつくるために、誰もに課せられた必要条件である。 そして、そこでは、他人や自分の失敗こそが、最高の宝なのである。その失敗を共有することが、こういうところに来る最大のメリットなのである。きちんと負けなくては、勝つことはできないのである。

 野性的、原始的、本能的ともいえる大きな力を発揮する必要もなく、今の日本は日常生活も仕事も営まれている。だからといって、トレーニングのプロセスで自分の能力をそういう力を通してフルに発揮すること、無我夢中にとりくむこと、その充実感、爽快感を味合わずにして、どんなステージが生まれるのだろう。 イメージし、実行し、結果を出す。その一仕事を一貫してやり遂げる。その自己完結に向けての研ぎ澄まされ抜いたところに、詰めに詰めたところにしか、他人に本当に受け止められるものは出てこない。それゆえ、歌、舞台、表現は、生きることそのものといわれるのである。 いろんなことが起きている。何が起きるかわからない。だからこそ、自分がしっかりし、自分の力をつけ、すべてに対応していかなくてはいけないのである。

 何も起きず、予定通りに事が進み、そして声がよくなり、歌がうまくなる。としても、私はそのような歌を聞きたいとは思うまい。何ら、感動することもあるまい。 大半の人は、自分の人生でそのようなことをめざしているのだろうか。 何が起きるかわからないところに、常に学べること、気づくことがある。疑問がわき、課題がもちあがり、それをとりくめる自分ができてくる。その結果の表現において、とことんストイックかつハングリーな闇から漏れてきた光明をみるのが、アーティストの作品というものであろう。 何が起きるのかをみること、そこからすべてははじまる。

 どうしてよくならないのか。それは、たくさんのことが起きているなかで、何も起きていないと思い込み、頭のなかだけであれこれと考えているからである。  最近の質問は、頭だけから、まるで他人事のように発されている。体から、心から、自ら肉声をもって聞えてこない。だから、答えようがない。 私は、頭で考え口先で答えたくない。じっくりとあなたの声が出てくるまで、黙って聞くことに耐えている。 あなたこそ、それをしなくてはいけないというのに。

(36)【少しの勇気】

 専門の力をつけるのに10の努力がいるとしたら、人とやっていくのにも10の努力がいる。両方の力を合わせて、本当の実力という。 努力は、しんぼうでもよい。後者は人とやっていく努力、前者はそれに流されず専門の力をつける努力、そしていつ知れず一致して、区切れなくなるもの。そしたら、うまくいく。 ここの研究所でやっているのは、実力をつける10へのプロセスの平均2,3ステップというところだろうか。 私は今、研究に1日平均8時間をあてている。この環境を得るのに15年かかった。

 しかし、15年まえも8〜12時間働いて、8〜10時間あてていた。休日は、なかった。やりたいことをやるのに、時間と金が必要だった。人と会うにも、今のように電話一本とはいかなかった。 ようやく、ライブも映画も旅行も、人と出会うことも、同じものとなった。努力、しんぼうって、突き抜けると楽しいものと、今、ようやくいえる。 そのために、どれだけ一見楽しく、実はつまらないものを思い切って捨ててきたか。その勇気だけは、少し人と違ったと思う。そうして、他の人が、他人のことを語っている暇に、自分のことを語れるように力をつけてきたのだから。

(37)【世の中でやっていくということ】

 世の中は、声も歌も必要としていない。 新しいもの、伝わるもの、心動かされるもの、そしてそれをやれる作品を、それを支える才能を、それをやれる人間を、いつも求めている。 あなたの身近な人は、あなたの声を、話を、聞きたい、としても、それは親近感であって、本当の歌の力でない。 へたな歌を聞きたいのではない。聞いてもらえたら、よくよく感謝することだ。 本当に感謝されるなら、歌えばよい。月に1度なら、それは歌ではない、イベントだ。 親しいか暇だからか、あなたに会いたいだけだ。 本当に歌えて聞かせているというなら、一晩中、そして翌日も歌ってあげなさい。 それでも飽きないもの、それでも求められるものを、歌という。 身内を集めてやれても、自己満足にしかならない。それは悪いことではないが、そうして時は、人生は、もっと大きなチャンスをあなたから奪う。 それにかけた時間と情熱が違う。それだけなのに、それが、多くの人には難しい。

(38)【一人で動くこと】

 やれない人同士出やるのは、一人でやるよりも結果として難しい。だから、まず一人で動くことだ。 そうでなければ、もっと大きな力が助けてくれないからだ。 たとえば、この研究所に友だちと連れだってくる、そのことで私はもう、その人と関わる気はなくなる。何事も、その人が真剣に本気なら、一人で動くということを知っているからだ。

(39)【リスタートを】

 それにしても、コドモばかりで、日本は、研究所は、大丈夫なのだろうか。 素質や才能があるのに、学び方を知らなくてもったいない、としばらくそのことばかり述べてきた。 自分の才能をもったいなくしてしまうほどに、自意識のみ過剰で(これは若者の特権かつ必要なものであるからよいとして)、鈍い。 やらせてあげているのに、やってあげているとでも思っているのだろうか。こうなると、甘えるにも程がある。力があるというのは、仕事がくるということ、くれぐれも勘違いしないことだ。(コミュニケーションをとれずに、自己PRもできずに、どう自分を評価させていくのだろう。さらに、そういう力をどうやって磨いていくのだろう。山の中にこもっていたら、武蔵は後世にその存在を知られることはなかった、いやその力もつかなかった。) 素質とか才能も他人と磨かれなくては、存在しないのだから、そんなことも言うのは、これでよすことにしたい。やれていない実状があるなら、それをきちんとみつめることから、リスタートすべきだと思う。

(40)【成功して欲しい】

 成功するには、いろんな条件が必要である。 それは、甘いところにつかったままでは、決してわからない。 だから、私は皆に成功して欲しいと思う。 そうすれば、いろんなことがわかってくるからだ。 どれだけ、少しでも優れたことを成すことが大変なのか。それを続けることが大変なのか。 そしてその上で、世の中の動きやまわりの人の心もわかってくる。 当初は誰でも人の力でやれているのを、自分の力だと思う。 だから、やれなくなる。 でも、そうなるまでわからない。その経験が、若い頃にあるのと、ないのとでは、全く違う。 目先の利、目先の成功。 誰だって、誰かの積み上げたものにのっかったら一時は、やれる。 でも、そこで知らずに慢心し、自分の力だとか、貢献しているなど思うと、勝手なことをしだす。信用や信頼は、取り戻せない。サラリーマンの多くが、自分しかできないと思っている仕事が、すぐに後任の人がやれるということで、ショックを受けるという。 世の中、その人しかできないことでやっていたら、いつも引っ張りダコなのだ。学べないことの恐ろしさは、そこにある。

 みかけの成功と真の成功は、違う。まずは、一人でどれだけの力があるかということをつきつけてくる状況に、身をおくことだ。 どんなに声や歌を身につけても(というより、これは本人の努力によってのみ可能なのであるから、一人、コツコツやるしかない)、それをどう使うかという考え方や創造性のないところには、どんな活動も成立しない。 V塾では、耳というトレーナーの要素に見合う力は育っていると思う。しかしそれだけでは、そこでやっていたことでしか活動できないということになりがちだ。そうであってならないことを、私はレッスンや会報などで伝えてきた。 しかし、きっとわからぬまま、終わってしまうような気もする。それが、グループの難点である。だからすぐれた人は、場や師を大切にするのである。(参考)「楽器づくりで演奏やらず、調整のみ」  

○もっと自分に自信を持ちましょう。僕は一時期、球種を増やそうかと悩んだことがあったんです。でも、そのとき、工藤さん(公康・巨人軍投手)に「球種を増やすのは年を取ってからでもできる。今は自分の持っている球のレベルを一段上げたほうがいい」とアドバイスされました。そう言われて気づいたんです。確かに自分のストレートは、まだ最高のレベルなわけではない。今まで持ってない物を身につけるより、自分が持っているモノに磨きをかけたほうが簡単でしょう。無理に新しい物を身につけようとせずに、自分が持っているモノを磨くことを常に考えています。(上原浩治)(BIG tomorrow 0401)

(41)【声での生の話の大切さ】

 漫画家などを志望する人にも、背景などを描きたがる人が多いそうだ。しかし絵がどんなに描けても、人間が描けないと通用しない。 読者という相手への気配りがないと、コマ一つでもうまくフォーカスしたり展開させたりできない。 自分がよければよい、自分が楽しく、つらくないのがよいというのでは、プロになれない。 プロは、情熱と奉仕、自分を捨ててでも人に尽くさないと、人には伝わらない。プロは、言うなればお金を払っている人をすっきりさせるのだから。

 ところが、そこまでやらなくとも食える甘い土俵があるから育たない、大成しないともいえる。 若いのが有利といわれるのは、どのくらい大変なのかわからないうちに、情熱でやれるからであろう。これが経験によって、まわりも先も、ややみえてくると、つらい。やれるのと、よりよくやり続けるのとの問題に直面する。多くのプロは、自分の苦労を知っているから、他の人にはプロになることは勧めない。 そこでは客観的に、冷静に比較する力が必要だ。多くは自分でOKだが、他人がみたらだめ。だからやれない。これが逆転してはじめて、プロである。 そこで、魅力、光るもの、つまり才能が出てくるか。そういう人や話に接して、テンションを保つ。生の話を生で聞くことの貴重さを知ることが大切である。 ヴォイストレーニングもプロの歌い手をめざすなら、三流の漫画家につくような愚をおかさないことであろう。

(42)【福島英の感性論】

○人の喜ぶ顔をみることを楽しみにしよう

 歌手も芸人も、あなたしだいでどこでもなれる。 どうありたいか、そのためにどうすればよいか。 そして今、どう実行するかだけなのだ。 自分を正当化しても、それによりかかるのは、やめよう。 うまくいかないのが当然と思い込んでいたら、うまくいくはずがない。うまくいくのがあたりまえと思えたらよいわけで、そう思えるまで行動するしかない。

○感性は感じたまま行動するのではない

 疲れたから休み、嫌だからやめる。 それは、疲れたこと嫌なことを受け入れても、そのままに流されるのでなく、それを対象化して問いとして捉え、どう解決すべきかを論理化する。つまり、自分の内面の感覚したものを対象化してみて、もっともよい行動にまで高めることである。自分の眼で見えるものは事実であるが、感性が磨かれるとそれさえも受け入れた後、疑い内面の真実を直接よみ出していく。それがリアリティである。よく混同されるのは、感性の深さの違いを念頭におかないからである。

○すべては自分の責任とする

 分析する人は、過去のどこがわるかったということで考え、怒ったり悩んだりして苦しむ。ところが、感性にすべて自分に起因することをわからせる。そして、自分の悪いことを認める。だまされたら、だまされるところが自分にあった。世の中、人のせいにしない。 素直なら、嫌いなことをやることができる。めんどうで苦手なこと、自分のできないこと、足らないことを認めるのは、素直だからで、その弱点があなたがうまくできない原因となっている。まわりの人のことばを素直に聞く、そしたらいざとなれば、まわりも助けてくれる。人間関係がうまくいかない、ものごとがうまくいかない人は、感性がまだ鈍いのである。 ゴルフでバンカーに入り「もし」とか「でも」「あのときにこうだったら」という人は、それがうまくいかなかったのでなく、下手だからそうなる。 そういっているうちは、素直でないから、学べないし、また失敗する。 未来を考えての苦しさであれば、大したことない。過去に執着しないことである。

○論理の限界を知っておく

 短絡的で表面的な効果、論理で説明していくから、それで説明できることしか信じなくなる。だから、表面的につじつまをあわせたことは、すぐにひっかかるし、論理で証明できない多くの大切なことは、認めなくなる。 年長者や祖先も、うやまう。礼儀、家族、国を愛するなどということは、理屈なしに感じるべきことである。

(43)【真善美、その本質を観る】

正しいこと―自分の考え、真哉?

 自分は評価されているとの、せいぜい一方のみからの情報で、事実や本人に聞かず正しもせず、身近で入ってくる人の話だけですべて判断する。そこで自分の考えが正しいと思い、それゆえ芸道も仕事も人間関係もうまくいかないのに、自分の頭で決めて行動し、自分が変わろうともしない。よいこと―自分がよいと思うこと、善哉? 小さなプライド、大きな思いあがり、自分は、いつも、安全なところにいて、人をけしかけるだけ、決してリスクを背負わない。負うにも、動いてくれる人も動かす糧もない。慎重で思慮深く、頭がよいから、結果がみえるから、何一つなせない。まわりを見下したまま、文句を言って人生が終わる。いい人で弱い人のふりをし、それに甘える。きれいなこと―清潔なこと、美哉?

 父母の代で教科書に載ったものにしか頼れず、信じられず、知識の受け売りしかできない。身近な他人の自慢しかできない。 せいぜい、いろんなところに逃げまどっていることを、自分の前進、転身と捉える。 いつも美しいものは危険で、前衛的である。虎穴に入らずんば虎児を得ず。 こういう人が増えたのは、きっと皆と一緒でないと損、ずるい、人より動くと損と思い、権利ばかり主張する輩の教育を受けたからでしょう。まわりの人と無駄口、叩くひまがあったら、、自分の力をつけること。 ここにきたのは、実力主義のなかで自分の力を宿して生きていくということを選んだのでしょう。しかしそれは本来、他人から頼まれなくてもやること、ここ20年の日本だけの特異な現象のどまんなかにいて、みえなかっただけ。一人ひとり違うのだからこそ、単に違う行動をとるのでなく、そこでの状況や価値観を踏まえ、自分がプラスαする。

 Yumikoに、セミナーのあとに1時間ほど話を聞く。「質問って、一人も手をあげないの!」 こうしていつもチャンスを皆で平等に分けあって、つぶしてしまう。せめて、せっかく来てくれたYumikoの立場を考え、ウェルカムクエスチョンでもできなかったのだろうか。しゃしゃり出る勇気と、仕切る当事者意識の欠如。そこで彼女へ強く自分のアピールをする努力さえしない、無駄無用の行動しない頭のよさ、反応して楽しみを生じさせられない感覚の鈍さ―。「皆、覇気が足らないの」すべては、その一言に要約される。覇気を出すにも、正しくよく清く生きている人には、至難のことだ。間違いを恐れず、もっと強く出ればよいのに、汚れにまみれて欲しい。本当の間違いとは、踏み出せないこと。 それで本当によいの―ずっとこのままでよいの。

 「10年たって考えてみよ。」というのを今考えられるイマジネーションのある人だけが、自らの人生を切り拓ける。 “ここ”で“今”、見過ごすなら、人生でいつか何かがみつかることもあるまいに。 一芸に、人生を貫けた人は、人の話に耳を傾け、本質を観て、行動した。ピッチャーをやりたいのに、キャッチャーに向くといわれたら?王貞治がピッチャーからバッターに転向しなかったら? 声や歌がよくなっても、一生、何もやれない。だから……その問いからスタートすべきだろう。

(44)【人生の醍醐味】

 昔、世話になった社長が、このまえ亡くなった。彼の一つ上の先輩で、芥川賞候補に何度かなった人が言うには、「彼は、サラリーマンなら大手会社の部長にもなれなかった。そのくらいしか度量も能力もなかった。しかし、小さいながら会社をつくり、何十億の売り上げと、何十人の従業員をもつ社長を務めた。能力があっても、何一つできねえ奴の多いなか、そうでないのに、最大限に発揮し、好きに生きた奴は、本意だったんじゃねえか、短い人生だったが」 私もそう思う。

 口先だけで、やってねえ奴にゃわからない、人生の醍醐味っていうのがあるんだよ。それを味わうには、まず、そういう奴らから離れることだ、見分け方は簡単だよ。そういう奴らは、寄ってくるからね。情報にふりまわされるためにね。そして、よくて、運び手でおしまい。 どちらかというと、誰もが離れようとする人に、しがみついていくこと。自分を成長させたければね。 私は、若いとき、とても運がよかった。まわりは皆、運のよい人ばかりだったからね。 寄っていったんじゃないよ、私が、うまくいかなきゃおかしいっていうほどに、いつも一人で打ち込んでいたからだよ。誰もまわりにゃ、寄せつけなかったから、それなりの人だけが寄ってきた。小さなことばかりに運や気を使わず、ためとけよ。

(45)【機転〜プラスαの行動のコツ】

 芸ごとの世界で機転が利くかどうかは、とても大切なことです。 「よく気がつくな」「気が利くねえ」「気持ちいいね」「気遣いがいいね」などと言われたら、あなたはとても嬉しくなるでしょう。「機転が利いているね」というのも、最高のほめことばの一つです。 逆に、「鈍いね」「鈍感だよ」「気が利かねえな」と言われたら、ショックではありませんか。 どうしてかというと、能力や頭の出来、不出来よりも、そこには大切なものが問われているからです。 機転が利くというのは、私なりに一言でいうと、誰もがやらないことを、すっとやること、そこでプラスαの価値が出ることです。しかしこれは、仕事や勉強のように、本や教室、職場で覚えたらよいというわけにはいかないから、難しいのです。だからこそ、価値がある。

 機転のきかせ方は、うまい人ほど、さりげなくやるので、まわりの人はそのときにすぐ気づかないこともあります。ぱっと気づき、さっとやる。その分、真似したり、学びにくい。その配慮がどういう意図で、どうしてなされるか、みえないからです。 つまり、機転の利かせ方は、うまい人ほど、さりげなくやるので、まわりの人はそのときにすぐ気づかないこともあります。ぱっと気づき、さっとやる。あとで「あの人がやってくれたんだ」とわかる。でしゃばらず、奥ゆかしく控えめのようでいて、機敏に勘の冴えた行動をする。 その分、真似したり、学びにくい。その配慮がどういう意図で、いつやられたのか、どうしてなされるか、必ずしも見えないからです。

 でも、そうしてその人の心や人間性が出るからこそ、機転というのは評価される。見る人が見ると、とても信頼に値する行動と受け取られるのです。そこでは知識よりも、状況に応じて処する知恵と、まわりの人の気持ちを推しはかる感性が求められるからです。本当の頭のよさ、世の中でやっていくための器量が、はかれます。 しかし、あなたが本気になれば学べないものではありません。 次のようなことに気をつけてみましょう。1.相手の立場になる。(例)暑い日に冷たいお茶、お手ふき。ありがたいですね。ドアをさっと開ける。2.危急の際に備える。(例)自分の具合の悪いとき、あらかじめマニュアルをつくっておく。よいガツアーイドやセクレタリーなら、きっと、先手先手を打っているはずです。一人ひとりに配慮しつつ、万一の際に備えています。3.見返りを求めない。奉仕の心をもつ。いつもギブアンドギブを心がける。4.常識をわきまえる。5.必要に応じて確認する。報連相(報告・連絡・相談)を怠らない。6.きびきび行動する。 時には機転を利かそうとしてしたことが、相手の気にさわる場合もあります。つまり、先を読んだことが早とちりになったり、相手のためにしたことが誰かに迷惑をかけてしまうこともあるのです。なぜなら、プラスαの行動は、余計なことと紙一重のことともいえるからです。

 気づかなくともやらなくとも、非難されることではない。気づいてやったからといって、必ずしもよい結果になるか自信をもてないことも多い。誰もがためらうとき、さっと、あとから考えると結果としてよかったと思えることをやるには、よほど勇気がいります(だからこそ、日ごろからしっかりとまわりの人や状況を把握しておかなくてはいけないのです)。 買い物ついでに、他の人のものも買う。非常の際の備えもしておく。訪問ついでに次回の用意もする。資料を1,2部、余分につくっておく。こういうことも、よかれと思ってやったのに、場合によっては時間や経費の無駄遣いになってしまうこともあります。それどころか、相手によっては、ときにはほめられたり、けなされたり、同じことをやっても全く別の評価を受けることもあります。

 社会のなかでは、自分一人で判断できることばかりではありません。まわりの人へのきめ細かい配慮なしに、機転は利かせられません。 そこに慣習やこれまでの経緯といった多くの情報、経験が必要となります。ということで最後に一言、機転を利かせた行動であるほど、そのまえに一言、誰かに確かめることが必要なのかどうかは、よく考えてみてください。(ある雑誌からの依頼原稿 福島英)「○そもそも、自分らしさっていうのは、人のもっていない自分のいいところなの。 人の嫌がることを率先してやるとか、困っている人を助けてあげるとか、そういうことが求められるの、自分らしさには。 でも今の若い人たちが、自分らしさは自分勝手とか自分中心だと勘違いしているようね。人と違ったことをして、それは人が見て眉をひそめるようなことでも自分らしさよって言うのは、間違っていると思う。 ファッションだってね、自分が何を着るか考えるとき、今日の相手はどんなものを着てくるかしら、どこに行くのかしら、じゃあそれにあわせようって、うまいおしゃれを考えられる人が自分らしさがあるのよ。

 自分らしさってね、人にあまり知られずに発揮して、誰かの役に立たなければ、それは何の「らしさ」でもないの。―タレントなんか見ても、自分らしい何かをもってる人は少なくなったわね。その人しか持っていなくて、見てるとみんなの心が癒されたり、心の底から笑えたり、そういうことがその人らしさなのよ。 そんな本当の自分らしさは、もう今の日本人にはないのかもしれない。大人がそうだから、若い人は仕方ないかもね。 でも、単に変わっていることと自分らしさは、まったく違うものだということを、あなたにもちゃんとわかって欲しいと思います。(「自分の『らしさ』をわかって」ピーコさん(ティーンズメール)朝日新聞'03.7.9)

(46)【感謝と反省】

 このところ、これまでの10年をみて、これからの10年を考えている。と言いつつ、もう3年、考えてきた。次の10年で、残りの30年が決まるのだから、3年考えても長すぎることはないと思うことにしている。私の人生の前半は、本当に目まぐるしかったから、この3年は、天の与えてくれた休息と思うことにしている。世界の半分、日本の半分をまわり、いろいろと学べた。 さて、今の私のまわりには、やれる人とやれない人が半々くらいにいる。一人でプロで食べられる人とそうでない人、ということだ。20年前は、まわりはやれる人ばかりだったから、これはよくないことかもしれないが、それだけ年をとったのだろう。やれない自分を、やれるように、まわりの人がしてくれたのだから、もう少し、ここで恩返ししようかと思っている。

 しかし、もっともたちの悪いというか、かわいそうなのは、やれないのにやれているつもりになっている人である。 サラリーマンの大半は、年収300万円くらいの実力で、その2,3倍も、もらってきたのだから、リストラにおびえる。そこで自分の力を客観視し、それだけ仕事のチャンスや人をくれる会社に感謝し、早く本当の力をつけようと努力していたら、誰も見捨てやしない。今の時代、必ずヘッドハンティングされるようになる。決して行き場に困ることにならない。

 私なら、食べさせてもらえ、仕事のチャンスをもらえたなどというのなら、どこにでも、誰にでも大いに感謝する。必ずきちんとお返ししようと思う。そうして生きてきたから、したいことだけに専念しつつある。もう、仕事はいらないし、これからも仕事に困ることは多分ないと思う。 それをサラリーマンは、愚痴を言い、仲間とつるみ、そのあげく仕事も私物化し、やめさせられるハメとなる。そういう人は、救いようがない。慢心しているうちは、何もわからない。悲しいことである。どこでも、力がつくかどうかは、すべて自分の責任である。もう一つ、大切なことは、実力はあっても、義を欠くと、誰にも仕事はもらえなくなる。これがわからない人も多くなった。

 会社とても、誰かがそこまで寝ずの努力、食べずの努力で築いてきたのである。3倍働いた人に、支えられてきた。それを食いつぶすのに、文句を言っている自分の情けなさへの反省というのは、ないのだろうか。多くの人は、そういうことに気づかなくなる。 私は何かを成し遂げた人とのつきあいが多いから、こういうあたりまえのことに早く気づけた。健康で若いのにやらない人の愚痴には、違和感しかもたない。 誰に支えられてそこにいるのか、誰が助けてくれたからそうできたのか。誰のおかげで食べられてきたのか。それがわからないなら、一人でやってみることだ。2〜3年はうまくいっても、問題はその後だ。 今の世の中では、30代にもなって、どこからも声がかからないのは、すべて負け組といわれる。これまでやれなかったのを、反省せずに、何をやってもうまくいくことはない。そこで己の分を知り、今おかれたところで精一杯の努力と感謝と恩返しをしたらどうだろうか。

(47)【本筋】

 才能があっても権利意識が強く、テイクしか求めない人は、いらぬ苦労をする。これは悪口ではない。アーティストとして生きていくことに、わがままはつきものだからだ。ただし才能を本筋を違え吹っかけていては、若さゆえのチャンスはなくなり、やがては安価で叩かれるハメになる。そんな人を、たくさんみてきた。自分より上の者が自分をどう見ているかという視点を持てる人が少なくなった。 芸能界でもそれが第一線級の人物の力となると、アーティストはt.A.T.u.のように、ステージキャンセルなどするのは、今のテレビ局嫌いの私には痛快だが、やられた方は、たまらない(これも、その人物の仕掛けであるのだろうが)。 私も誰もと同じく短い人生、全世界の人と死ぬまでつきあえっこない。

 相手がメリットを感じたら、ここにいればよいし、そうでなければ、去ればよいと思っている。こちらのメリットやデメリットは今さら感じないが、研究所では、研究生のメリットは考えざるをえない。だから、いろんな面で信頼し、サポートしてきた。 この時世、そういったことを知らず、自分一人でやれているように感じ、場も時も疎かにする人が増えた。 誰でも最初はよいものだ。一所懸命やる。しかし年月が経てば、よほどの人以外は惰性に流される。 皆さんの仕事先でもわかるだろう。そして、その他大勢に、自ら志願していく。マナーも失い、喧嘩の相手まで間違う。

 一人でやれている人は、多くの人に支えられている。どんなに表面的には理不尽にみえても、そこには自分の知らないこと、やっていないことがある。 そんなことさえわからず、愚痴っていては、自分の人生の可能性も価値もメリットも仕事も、去っていく。 世の中の多くの人は、変わるものである。多くは、丸い方へ、そして凡庸な方に変わる。私もそのことはよくわかった。皆が好き勝手にしていては、世の中、成り立たないから、そうなっている。 私にしかできないことまでを求めている人は、今の日本にはいないのかもしれない。 だから、後世の誰かのために、残そうと思う。

 できることなら、覚えておくとよい。自分よりやった人、器の大きい人は、そこまでやっていない自分にはわからないということ。人は自分の器でしか判断できない。 今の自分が何をやれているかを知り、それよりも少しでもやれた人には、まだまだ多くの学ぶべきことがあるということ。それをみずに、1,2年しかみえない勝負をするから、皆、結局敗れる。 本筋を違える人とやって、うまくいく試しはない。義を欠く人とは、やってあげたくとも、やれない。 しかし、アーティストなら、そういうわがままもあってもよいと思う。だからこそ、貫き通して欲しいとも思っている。情けが仇になっても、その人の世界が開けていくならば、私は本望ではある。

(48)【人の使い方、人の学び方】

 世の中をみていると、人の使い方がへたになったなと思う。たとえば私にでも、15分や30分、話して、本当に有意義なレベルで時間を使える生徒が少なくなった。話を聞いていると、話し以前に、この大切な時間に、この人はこんなつまらない、どうでもよいことにこだわって、自分の人生も私の時間も無駄にしている人だなと思うことが少なくない。 初めて会う人は、欲もあれば期待もあるからだろう。こちらの時間をもとても尊んでくれる。わずか10分や15分でも大変に喜んでくれる。そのために遠方から来た人には、こちらも感謝したくなる。それは最低限のマナーなのだろう。

 ところが仲間意識なのか、サークル意識なのか、親や学校の先生がフレンドリー感覚で接しているからか、そういう形でのコミュニケーションしかとれない人が増えた。 つまり、他人の価値や他人から多くを学ぶことを知らない人たちだ。どんな縁をも、小縁にしかできない人に、大した未来はない。 そういう人は、自ら思うなかでは一所懸命やっている。そして自らいるところの中くらいでは、成果も出ている。 でも、大きくは認められないから、常に不満分子となっている。私程度の人間がみても、そういう考えや処し方できて、今の状態なのだから、それを改めなくては、ずっとそのままというのは自明なのであるのだが。長く生きるほど、それを変えるのは難しくなる。

 そういう人をかばってあげていると、本人もそのことに気づかず、自分より力のない人に何やかんや、ちやほやされて、小さなプライドを捨てられなくなるから、それで人生は終わってしまう。 いつかきっとと、本人ばかりが思っていて、決してかなうことはない。かばってあげる人の善意が、芸事では最大の弊害となることも珍しくない。 逆にいえば、人生は本当に自分の思う通りに生きていけるものである。 私も多くの人に助けられ、支えてもらい、世に出してもらってきた。 それは、考え方や生き方を学び、変えたからである。10代の頃の処し方では、今も何一つやれてなかったと思う。 声が弱く、あまりよくはなかった。それは、自分がそういう考え、生活をしてきたから、そうなったと思ったとき、私は声を変えることで人生を変えようとした。つまり、できない自分を認めたのだ。

 それからは、力をつけることに専念した。なるほど、声に仕事はこない。感覚に対してのみ、仕事は成立する。 だからこそ、助けてあげようと研究所をつくった。 だが、結局、どんな組織も、つくるとサークル化して、群れて、皆、同じ程度になっていく。 そう、自分の才能を個性を、すべての人がもっているのに、磨かれず、認められずに終わる。なぜなら声よりも、考え方がずっと大切なのである。 いつもそうでない考え、そうでない処し方をしろといっているのに、とても残念なことである。 私のレッスンも今年は半減した。同じ15分で皆の10倍、100倍も私から得ている人もいる。もちろん私でなくてもよい、他人をしっかりと使うことをできなくて、何ができるのか。 人から学ぶということを、まずは学んではどうだろうか。

(49)【道の開ける人、道の閉ざされる人】

 これまでも再三、述べてきたが、誰でも才能はある。そして、実力のついた人もいる。しかし、そもそも実力とは世の中でやれることではないか。 先日も、研究所をそこそこでやめた人が、雇って欲しいとメールをよこした。元生徒を雇うのは、外部の人よりもいろいろ気を遣うものであるが、力になりたいとは思った。しかし、その理由が、自分は他の生徒より力があるからというので、驚いた。 人を教えるのだから、力があることは理由でなく、最低限の条件である。それが、生徒と比べるレベルでは、心もとない。私にしてみては、20歳になったから任せてくれ、といわれているのに等しい。

 雇用は約束できないが一度会いに来たらどうかと返答したが、案の定、なしのつぶてである。そんなものなのである。 そういう人に、人を預けるわけにはいかない。少しでも自らの足を汚して汗にまみれ、他人とやっていこうという考えがないのである。スタジオでトレーニングすることは、立派でも何でもなく、恵まれているだけである。 若さゆえとはいえ、きっとその才能も実力も、もう一度生まれ変わるようなことがないかわり、その人が世の中で求められることはないだろうと思う。もったいないことだ。 また一人なら、少しはまともに考えられるものを、できないもの同士が集まると、自分たちを肯定し、世の中でやっている人への悪口、そねみ、ねたみのはけ口になり、さらにタチが悪くなる。

 誰でも自分は肯定したいし、肯定してもらいたい。でも、それだけでよいのか。だから、これまで道が開けなかったのだとは、思わないのだろうか。 歌も仕事も、世の中の人間相手なのだということを、どこかで忘れている。きっと、音楽をやっているから偉いと思っているのだろうか……? 仮に、そういう偉い人がいたとしたら、それは、音楽を通して、多くの人に働きかけた人だから……。つまり、音楽でなく、その表現活動へのほめことばである。それは何も音楽に限ったことではない。

 こういう錯覚のなか、つまり、世の中を知らず、かつ創造力不足でやれないという事実を見ずして、歩み出すことはできない。 その人がやれているのは、やれている理由がある。というのと同じく、やれていないのはやれない理由があるのである。実力があるのに、仲間がいるのに、うんぬん、自分で自分を肯定しているものを一度、疑ったらどうだろう。というのも、第一線でやっているアーティストたちこそ、それを毎日やっているのにほかならない。そうでないから、世の中に遅れ、求められず、仕事も成り立たなくなる。

 自分はできていると思っている人ほど、変われないものだ。今、食べられていない、いい年齢をして世の中に求められていない現状に、何か自省したり、考えを改めたりする必要を感じないのだろうか。 10代ならともかく、世の中を学ぼうとせず、どうして世の中に問えるのかと思う。 つまり、こういう人は、10代に経なくてはいけない葛藤を、ずっと経ないまま、そうなった。それゆえの無知であれば、これは相当、心を入れかえなくてはいけない。

 学べなかった年月は、いくつものチャンスを、無視してきた、いや気づかなかったということである。そのため、年齢をいくと、世の中もなかなか受け入れてくれなくなるのである。 私が世の中ではないのは言うまでもないが、少なくとも、私は多くのできる人、やれる人をいろんな世界で身近でみてきた。そして、何人かとは、とても深い関わりをもってやってきた。年を経るに従って、そういう人がまわりに増えてくる。それだけ年をとったということであるが、少しは相手に受け入れられる実力(世の中に対しての実績ということ)が、ほんの少しは認められるようになってきたからであろう。

 しかし、生きていたら、学んでいたら、どこでも何かをやっていたら、そうなっていくのはあたりまえなのであるから、それは、不思議でも偉いのでもない。 できる人、やれる人がまわりにいるということは、その人の可能性と直結しているものなのである。 でも私よりずっと、優れた才能や実力をもつサラリーマンやアーティストなんかも、仕事やお金に苦労している。つまり、あたりまえのことをあたりまえにできる人が、いかに世の中少ないかということである。私のみるところ、3%くらいであろうか。 そういや、研究所でも1000人いたとして、何ら関係のあるのは30人くらいとも思えるから、案外とそんなものなのだと思う。 私はV塾で30%くらいを試みたつもりだったが、やはり3%だった……。と、自分の無力さを反省するとともに、それぞれの卒業後の健闘を願うだけである。

(50)【才能と処世術】

 この年齢になってみると、けっこう昔つきあっていた人は出世しているなと思う。ここのところは、私も最少に露出を控えていたけど、それまでは、ずいぶん偉い人に会ってもらっていたんだなと思ったりもする。 そのなかには、大化けして脚光を浴びるようになった人もいる。もちろん、その数倍のそうでない人にも囲まれているけど、人を選ぶというのは大変なことだとつくづく思う。それで、自分の人生も決まってしまう。 実力というのは、世に見いだされてはじめて才能となる。もちろん力もないのに、世の中が求め、実力のつく人もいる。才能の開く人もいる。それも力である。 うまいのとやっていけるのは別だと日頃からいっているが、どうも、どの分野も、端からみて、やっていけないのがあたりまえなのに、やっていけるつもりの人も多い。

 その大半は、世の中に問うていないから、わからない。だから、好き勝手、文句も言っていられる。それを昔は、サラリーマン根性といった。 成人して仕事をもつと、それは世の中、つまり実社会に入ることになるが、アーティストの仕事とは、自分の客そのものをつくり出すことなのだから、実社会に受け入れられる年齢に達しても、全く別のことである。 名指しで仕事がきて、それで食べられて一人前、仕事を選べてようやくプロといえる。 どちらにしろ、そこが世の中との接点となる。(会社を中心とした実社会では、それがごまかされ、わからない人が多い。アーティストの世界は、それがはっきりしているというだけで、本当は同じことである。) ところがよい年齢をして、そういうことがわからない人が多い。だから、やれない。

 自分の言うことを聞いてくれる人から、離れられない。つまり、親離れできない、他人依存症を現場にまで持ち込み、その感覚に麻痺してしまう。 人間、長く生きて、やれないと、他人の悪口や愚痴しか言わなくなる。それを聞いてくれるように思える人と、離れられない。その安心感が、本来の才能を押し潰す。その程度の才能は、磨きに磨かないと何ともならないが。大半がそうではないか。だから、自分で変われない。 私は、やれない人といるより、やれている人と会う方が、ずっと楽しいと思う。やれている人が仕事や元気をくれる。やっていける人は、やっていけているのに、あたかもこれではやっていけないと、まわりの人に左右されない。常に自分に厳しい。そこが好きだ。

 私は、多くのやれている人をみて、ものごとへの処し方を学んだ。だから、他人へも、安易にエサを与えない。不快に思われようと、こうして本音で述べている。 魚を与えるよりも、釣りの仕方をみせること。 ただ多くの人は、魚をくれないと文句を言うようになる。魚を与えてもらったことさえ、忘れる。 そういう人とは、私はやれない。やりたくもない。何も自分で考えず、変えようとせず、文句だけ胸の内に込めたり、まわりに吐きちらしている人と接しても、つまらない。他人のことしかしゃべれない人は、悲しいと思う。 しかし、いつの世も、どこにおかれてもごく少数だが、誰からも釣りを学べる人はいるのが、嬉しい。 アーティスト顔したサラリーマンは、サラリーマンらしいサラリーマンより、タチが悪い。

 自分で変えようとせず、何も新しくやろうとしない人は、自らの才能、つまり実力や処世術をも放棄しているということも気づかない。 何事も、しっかりと働いたら、必ずみる人はみてくれる。そうして、一歩退がって実績をつくり、大きく売り込むことで、世の中をくどいていく。 それなのに、私が俺がと、自利のためにだけ動くのなら、見離される。すると、またどこかで処世していくのだろうが、同じことをくり返すハメになる。 もし、そういうことがわからなければ、やれている人に聞いたらよいと思う。本当に自分がどうなのかは、まわりのやれていない人にはわからない。

 やれていく人は、まわりにやれている人がいるから、学び、変われる。そういう人に、頭を下げ、教えを請えばよい。やれない人はまわりがやれない人ばかりだから、学べず、変われない。頭だけが、高くなる。 こういうことは、声や歌のことを学ぶよりも、ずっと大切なことだ。そうでなかった人は、年をとるほどに変わるのは難しい。若いときに学ばなくては、人生、大して変わらない。年をとると、自分の正当化を中心にものをみていることで、さらにチャンスを失う。でも、万人に一人くらい、変われる人もいる。 ここが、そういうことも含めて学べる場になっていてくれたら嬉しく思う。しかし、学ばず、変わらず、やれないのも、必ずしも悪い人生とは、いえない。そこが、人生のおもしろいところだ。

(51)【学べる頭と学べない頭】

 よく、大縁、中縁、小縁といわれる。本当に人間の真価をみるには、事が起こってみるとよくわかる。多くの人は保身を考え、自分がそうであったにも関わらず、今はそうでないと言い張る。 小さな正義感にかられ、大義を失うことに気づかない。 一つのことをどうみるか、苦境にどう対処するかが、その人の本当の価値といえる。人生は、その積み重ねだからだ。そこで、よくわかる。学べる。 誰でも自分の尺度でしかものをみないし、考えられない。自分が変わらない人は、他人が変わることさえわからない。

 自分は変わる以上に相手も変わる。 もしかすると自分がそう変わるのを相手はあらかじめ知っていて、その器の中で遊ばさせているだけかもしれない。 それなのに、自分が自分の運命を決めていると思いたがっている。 現実は、まわりの大人がそれを知って手伝っているだけなのに。 サラリーマンを「やめてやりましたよ、あの会社」なんて啖呵を切る。そう言わなくてはやっていられないのだから、そうするのは仕方ない。人間は、そんなに強くない。見栄を張り、たとえ負け惜しみでも、自己肯定しなくてはやっていられない。 しかし本当に有能なら、本当に学べてやれた人なら、おだやかに退き、「あれはよい会社でしたよ」っていう。 こういうことばほど大したことのない会社でその人が、ずば抜けて有能だったことを表わすことばはない。 そこを、みる人はみている。 そしてその人のそういう考え方や行動を欲する。そんなところで、その人の価値、そして将来は決まってくる。

 私なども見ているつもりだが、多くの人は悲しい方向に答えを出す。かつてはもう少し、嬉しい深いものを見い出すことが多かったのだが。 人生の裏や人間の本音がよめない人が多くなった。少なくとも、自分よりもすぐれた人が理不尽なことをしていたら、こう考えることだ。それはきっと、裏がある。そうまでして、自分のことを見てくれているとか、誰かをかばっているなどと……。 そのような無言の美徳もなくなった。 おしゃべり、悪口ばかりで、いざ、ことが自分に及ぶとびくびくした人間ばかりになった。 腰をすえた方が、人生も人間もおもしろい。どうして、そうでない人に、人生が拓かれていこうか。己のなす表現に耐えうるだろうか。

(52)【あなたしだい】

「歌手にも芸人にも、あなたしだいでどこでもいつでもなれる」 誰でも、思った通りにいく人生の思いを妨げるのは、自分の思いである。あなたの今の考えが、あなたを制限している。あなたのまわりから入ってしまったままの浅い考えより、あなたのなかにもっと純粋で深く美しい思いがあるのに、当のあなたがみえていない。みようとしていない。<キツネに会い、自分のバラの花を見つけよう。> どうありたいか、そのためにどうすればよいか。 そして常に、今、どう実行するかだけなのだ。 自分を正当化するのはよいが、それによりかかるのは、やめることだ。 うまくいかないのが当然と思い込んでいたら、うまくいくはずがない。

 うまくいくのがあたりまえと思えたらそうなる。そう思えるまで行動するしかない。ところが、行動よりも頭でそれをすましてしまうのが、最近、特に多い。バカになり切らなくて動けない。 私が思うに、最近、若い人の読む本や若い人に受ける考え方が、これと全く逆のことが多い。そのため、音声にとって、日本人がかかえている見えない問題と同じように、表現や舞台にも、それがあなたにおおいかぶさっているということである。 でもそれで本当に、現実は、誰でも平等? 差別はない? 夢は通う? 思いのまま、生きられる? 自分の力がなくて、人を助けられる? いつでも? 誰でも? ―あなたが力をつけたら、たった一つのほほえみ、ことばで、そうでない人の何時間のスピーチより、多くのものを与えられ、幸せにし、感謝される人になるのだよ。それがアーティストの生き方の創り上げるものではないか?

(53)【音の世界への気づき(気づきのヒント)】

 音、耳は無防備、音から栄養をとり出す体験によって、感覚は磨かれます。目を閉じて聞きましょう。次に開けて聞きます。目の開閉による違いを意識しましょう。限界の音を聞いてみましょう。動物の声を聞いてみましょう。犬になりましょう。 ライオンの唸り声には、その胸郭と肺、内臓すべてがみえます。そこで、「オレの存在をおまえに伝える」と言いました。聞える音を50、書き出してみましょう。音に入り、出ること ラジオ、テレビ、CD、練習、騒音、不快な音、次に聴く音に、生命がかかっています。

 音そのものを聞いてから、組み合わせていきましょう。外国語も虚心に、ことばの向こうにある意味を捉えましょう。 自分の話し声とその呼吸を聞きましょう。音楽は、目的をもってつくられます。聴くことを学ばなくてはいけません。聴くことを学ぶのは、忍耐もいります。そして、分別のある聴き手になりましょう。 目を閉じ、額をリラックスさせます。 弦の音を聞きましょう。音は集団的であり、かつ私的で個人的なものです。音が時間をかけて空間に消えていく感覚を捉えましょう。 共鳴の現象を感じましょう。人生と調和していると感じさせてくれるまで。音は、周期的振動、等間隔で振動します。すべての物質は、固有の振動数をもち、美の追求をするのです。

(54)【伸びない人の理由】をつぶそう

 伸びない人の理由とは、1.現実の問題から逃げる。本人にその自覚がない。2.弱者の論理、逃げ込む場をもつ。それを大事にかかえている。3.結果的に、まわりの同情と憐愍(れんびん)を求める。すでにそれで支えられているのを知らない。4.鈍い。まわりもあきらめ、表向きしか関わっていない。それなのに本人は、うまくいっていると思っている。5.きちんと負けない。きちんと勝てない。6.自分に対して甘い人間、よってくる人間のみと関わる。それは、もっと甘い人たちだ。そのなかで、やれているつもりになる。7.連絡を絶つ。前に出なくなる。そのための自己弁護の理屈をこねあげる。8.悩んで落ち込むことにひたる。9.がんばっているつもり、一所懸命やっているつもりで、結果を許す。10.他にも自分にも甘い。自分に甘いから、他にも言えない。11.おどおどしている。自信なさげである。12.すぐに他人の思惑や考えに影響される。13.自分がない。14.覚悟がない。自分を放り出せない。一点を見据えない。つまり、正しい現状認識ができていないのである。

(55)【歌の習いごとブーム】

 「まあ、いいか―しら?」

 昔は、歌にもそれぞれの夢のため、愛を捨てた、故郷を捨てた、そんなテーマも多かった。今の歌には、ロマンも志もなくなった。身近ななかでの閉じた幸せ感で、クローズしている。 もっと大きな愛のために戦わずに、どこに表現があるのかと思う。なぜ、それを歌いあげなくてはいけないのかと思う。 豊かさが、人間をこうまでだめにするとは思いたくもないが、多くの、これまでの歌や歌に命かけて生きた人に失礼な程度にしか歌を考えられないうちは、歌えまい。 歌を習いたいという風潮、ブームらしい。そう習いたいわけだ。 創ること、生きることなくして、習うことには何の意味があろう。それは、あなたの歌が空っぽであることで、証明されてしまう。うまくなりたいなら、一から学ぶことしかない。いや、一を学ぶことだ。まずは、空っぽと満タンの違いから、学んだらどうだろうか。 あなたの歌は、つまらない。あなたの歌は、あなたを裏切っている。それは、あなたが歌を裏切っているからなのだ。

 あなたは、あなたの歌をつまらないとは思っていない。だから、いつまでも、そのままだ。 それは、あなたという人間がつまらないのではなく、あなたの歌がつまらないということ。―を学ぶとは、そういうことだ。「あなたはやがて知るだろう―か」 その態度、その行動、自分の激情さえ抑えられぬ人が、どうして声を扱えよう。それが空回り、フカしたまま、人生を終えてしまうこと―。それは誰一人、認められない。だって、ここでさえ目の前の人をくどけず、立ち去るのだから―。 情熱とわがまま、素直と卑屈、自信とうぬぼれ、気まぐれと傲慢、勇気と向こう見ず、やる気とひとりよがり、自分の考えと自分勝手、相手にしないのは相手が大人だから。相手にされていないのを、相手にしないと強がっているだけの情けなさ。本当の若さとただのバカ、いつか、わかる日がくるだろうか。「幼さからの―脱却」 考えた方がよいから、述べておきたい。何か事が起こるとすぐ切れる。それが、若さの特権ならよい。

 しかし、どこでも、世の中理不尽だ、サラリーマンでも、だからやめてやる、では何も問題は解決しない。正攻法をとったらどうか。たった一度の人生なのだから。 それは、そこで見返して、やれる力をつけることなのだ。仕事だって生活だって、世は理不尽なことであふれている。だから、あなたが問われる。 そこでの考え方、行動で、まわりはその人を判断する。そのつみ重ねが人生。

 ―ここをだめにするも、ここでだめになるも、ここのせいではなくあなたしだい。これは、どの世界、どこでも同じだ。 それにしても、できていないし、考えが足らない。その“程度の低さ”をアピールするのは、なぜなのだろう。今ではない過去のことや、他の権威や、実ってもいない“努力”を、なぜ誇れるのだろう。 それが、あなたの、しつけと育った環境の問題で、気づけないなら、ここで学んで欲しいものだ。そうでないと、何事もうまくいかずに10年たってしまうことを断言しておく。 歌うことがあり、歌わなければならない。それは何か。「60人」一人前が60人になれば、動く、動いても大丈夫、ここは400人でも、まだ半人前で10数人

(56)【気づきのヒント】

 1.時空を超える 音楽が世代を切ったのは、対話を拒絶し、内での会話「自分たちだけに通じる」「わかる人だけ、聞け」ということからです。アーティストも、聴き手も、そこで、CDをヘッドホンで聞くような、クローズされたもので満足しているのです。ありきたりの恋と、はげましという癒し、自己弁護という自分の気持ちの代弁で、愛が世代も自分を突き抜けないから、他へも、働きかけないのです。2.現在のJ-POPS ハイテク、複雑化、ことばのらない分を、音やリズムでカバーしているといえます。 ことばの幼稚化で、聞いて感動する日本語が不在なのが大きいのです。3.大人 すごい=凄味こそが、大人ということ。 かっこよいのは、若さでしかない。なのに「今より よくならない」と考えるのが不幸なことです。

 だから、待てない、切る、結論を急ぐ。人は、存在していて認められるのです。その凄さでやっていくものなのに―。4.対話性 個人に訴えること。全体でなく、一人ひとりから変えること。民主主義はプロセス(手続き)と忍耐力の集まりです。加担(エンゲージメン)すること。関わりをもたないのは、逃げなのです。海外へ音楽へ?現実の社会、風土、人間と絡む。それが、“今”を生きることなのです。5.伝達性 聴くより歌うこと、歌わせる音楽が必要です。美空ひばりの歌は皆、歌った、届いた、聴いた人がまた歌うのです。それが、スタンダード。

 聞いてパワーをもらう、元気になるのでなく、自分のパワーを感じ、まわりに伝えていく、そのきっかけにする。きっかけになるのが、一流とよばれるのです。6.自由 「立ち上がれ」といっても、その立ち方、プロセスの問題 群れとして待っている、「どっちでも決めた人に従う」という客は、洗脳されたに等しいのです。最初から、立って何が聞えても、踊ってしまいます。この自由は、与えられたもの、獲得されたものではありません。短絡的、ファシズムの生まれる土壌なのです。 「○○のために死ねるか」でなく、「○○のために生きられるか」と問うと、いろんなことが導き出せます。7.普遍性 誰に伝えるかという具体的イメージの必要です。特定性が必要、誰かに対して、というもの、それが聞く人に共有されるのです。だから、隣りの恋人ではなく、あり得るべき理想の恋人を歌うのが、歌でした。名曲“枯葉”の原訳「あなたと別れても あなたの魅力は変わらない」

(57)【めざすもの】

「プロとアマチュアについて」への補足

 会報に述べているのは、一般論ではなく、トレーニングをする人を対象としている(ただし、先生とかトレーナーという名称は、研究所をさしているわけではない)。 それゆえ、巷でプロでやっている人やアマチュアの人の活動を批判しているものではありません。 (仮に私などが批判していようがしていまいが、独自にやっている人には関係あるまい)。 トレーニングの時期、このように考える方がトレーニングにはプラスだという、アドバイスである。 拙書では、スポーツをやるにも、オリンピックをめざした方が効果的というように、目標を高くもつことの意味を述べている。 それは、さまざまなアーティストと接することのできた私の視点からのアドバイスである。

 アマチュアを批判しているのではない。何よりも、いわゆる“プロ”を嫌い、ブレスヴォイストレーニング研究所を、プロ中のプロとしてのアマチュアの集う場所として設けた私なのだから。 少なくとも、アイドル、タレントを重宝したり、今のJ-popシーンにかけ離れたことをアマチュアとやってきた。 (現在、プロとしてくる人も多くなってきたが、私はここでは、彼らも一人の無名のアマチュアとして、扱っているつもりである)。 プロになりたいと思っている人は、ここを出たら、そうしなさいということで述べている。 アマチュアというのは、なるというものじゃない。 ここでプロというのは、人前で作品としての最高の価値を与える。そこに努力目標をおきなさいということ。つまり、客がどう思おうが、スキひとつない完璧なステージを努力目標にすべきだと言いたいのである。

(58)【やれない理由とやれる理由】

 やめない以上、失敗はない。 ただし、運のよい人とつきあうこと。まわりを見渡したら、自分の将来の可能性は、はっきりとわかるはずだ。 景気が悪いという人は、景気の悪い人がまわりにいるから、そう言う。すると、自分のとこも景気悪くなる、先も開けなくなる。自分構造不況、悪循環である。 今の日本、GDPはプラスなのに、史上最高に倒産も失業者も多い。つまり、大きな勝ち組がたくさんいるということである。とてもうまくやれているところがたくさんあり、うまくやっている人もたくさんいる。そこに入ればおのずとやれる。それは、景気がどうこう言っている間にやるべきことをやっているか、いないかの違いであろう。

 効果があがらない、うまくいかないと言う人は、まわりがそういう人ばかりいるから、そこになじんでいく。類は友をよぶ。そこから抜け出すために、自分の志や行動が第一なのである。研究所でもしっかりやっている人はそうでない人と群れないだけである。だめな人は、合っていない、向いてないとばかり言って、やらない。あるいは、少しばかりで、やった気になる。半年や一年程度、精一杯やって切り拓ける世界が、どこにあるのだろう。 目的をもって学んでいない。いろんな本や先生やノウハウばかりたくさん集めている。その結果、迷ってこなせなくなる。自分の歴史は自分がつくるものである。 いろんな材料を処理して創意工夫して、一つの世界つくる。 客観的にどうなのかでなく☆、主体的にどうするかなのに、他のせいにして、自分の努力、放棄している。

(59)【やれる人とやれない人】

 やれない人は、やれない人といつまでも、やれないまま、やれなくなる。 やれる人は、やれる人とやっている。やれる人のなかで認められようと、努力する。 やれる人はやれる人とやるからやれる。 何一つとして、自分の力だけでやれるものなどない。しかし、相手に、この人とならやれる、やりたいと思われなければ、やれようもない。 私はやれる人をつくりたかったが、やれる人はやれる人とやっている。やれない人がやれない人とやれなくなるために、ここがあるなら、私もやれなくなるから、やめなくてはいけない。 私がやれない人とやるのは簡単だが、やれない人をやれる人にするのは、やれる人とやるよりも難しい。だからやりがいがある。しかし、同じ力の使い方として考えるなら、少しでもやれる人、やろうとしている人に使うべきであろう。やれない人は、やれることをやらずに、やれないもののせいにする。やれる人は、やれることをやって、人のせいやもののせいにはしない。

●「僕は弟子たちにやる気を起こさせるように心がけました。自分はできるんだといって手本をみせるのが一番いけない。それでは創意が死んでしまいます。それぞれ個性がある。それを、まず大木に仕上げてから余分な枝を落とす。はじめから枝を落としたら盆栽になってしまいます。変だなと思っても、我慢して見守り、後で本人が納得したうえで切ってやる。」(伊福部 昭氏(作曲家))

●談志は、弟子に稽古つけない。 「昔は稽古しかなかった。今は、CDもある。その気になりゃ、一人で学べる」 「よくなったかどうかは、みれば10秒でわかる」 「何かすれば、必ずリスク伴う。何もしない奴には伴わない」(立川談志氏)―私の尊敬する、この二人の最近の発言である。稽古もつけないのに、他のどこの師匠よりも弟子が活躍している談志師匠。その現実に学ぶ。リスクがないって、何もしてないってこと。本当、顔つきが変わってきて、やれる、そういう毎日が、どこにあるのかと思う。

(60)【人につくということ】

 自分の才能を自分で読みとるな。世界や人間を、もっと知っている人がいる。 自分をみてもらう。適性を判断してもらう。 知識のみの虫となるな。 自分でやるほど、人というのは固めて、脳の回路をステレオタイプ化する。 同じ人とやるな。同じ回路になると、サビつく。 同じことで成功するためにも、違うことをやる。 自分にふさわしいこと、やるべきことを知ることだ。


[4]Thrid Class

(61)【天職】

 汝自身を知れ。 虎穴に入らずんば孤児を得ず。 リスクをとること。

(62)【ショートカット】

 回路とは、早く習得するのにはよい。慣れると、ショートカットできて同じように使えるようになる。でも、そう使っていると、抜けられなくなる。人の回路を使ったり真似していると、自分の新たな回路が構築できない。人も芸も同じである。 研究所も同じ、サビついたら、マンネリになっていたら、初心に戻ること。それが大切。 10年ごとに仕事を変える。何をやっていようが、やれる人はやれる。領域などは、関係ない。

(63)【判断力を養え】

 長岡平太郎は休学し、己の選んだ分野で成功するかどうかの判断をすための研究に、1年を使う。西洋のを、日本人ができるか。一生を賭けるに値するかを研究した。そして、イタリアの三大発明も、中国、アジアで可能となったと知り、そこから生涯を賭ける確信を得た。 君は、あと20年後の自分の姿をみているだろうか。それをみていたら、今少し、先行く人を敬いはしても、あなどることなど、決してできまい。

(64)【他人のことばに、トル】

『苦悩する落語』(春風亭小朝・著)トル (「 」の題は、福島英)

「客トル」 だいたい、お世辞のいい方に限って、会そのものよりも後の飲み会が楽しみだったりするわけで、こういう人は自分の人生がうまくいってない、そのウップンを売れている噺家にぶつけているだけなのです。「オレはあいつが嫌いなんだ。アンタの方がよっぽどうまいよ」「あの人は最近ダメだね。アンタもああなんないようにがんばんなよ」 こんなことを言いながら、心のどこかで売れていない芸人に対して優越感を持ち、自分をなぐさめているのです。 もちろんなかには本当にいいお客様もいます。ただ、自分に自信がない時はどうしても、もののわからないお客様の言った一言に救いを求めたくなってしまうものなのです。そして、いつしかそのお客さんと飲むことが何よりも楽しみとなり……あとは言わなくてもわかるでしょう。 お客様の意見というのは、こちらがよほどしっかりしていない限り、聞かない方がいいかもしれません。刀で斬られるのもイヤですが、紙で切った傷も、あとあとまで妙にズキズキすることがありますから。

「コンクールトル」 独演会も軌道に乗り、仕事も入りはじめると、なんとなく余裕ができて自分の力だめしがしたくなります。最も安直なのがコンクールを受けてみることで、私もNHKの新人落語コンクールにチャレンジしてみました。 このコンクールが始まった頃、多くの若手はコンクールというものを勘違いしていたようです。 俺はまわりから評判がいい、自分でも結構うまいと思っている、だから通るだろう。この考え方は、とんでもない間違いです。 コンクールというのは短い時間でいかに自分の魅力をアピールするかという場であって、日頃の精進を察してもらう場ではありません。持ちネタが百席を越え、席亭に可愛がられている人よりも、たとえ三席しかできなくたって決められた時間内で審査員の心をつかんだ者が勝つ。それがコンクールのおもしろいところであり、恐ろしいところでもあるのです。 ただし、最近のコンクールを見ていると、派手さだけでなんとか選ばれようとしている人が多すぎるような気がします。……………………(中略)〈コンクールは自分のためより贔屓のため〉これを標語にしたいくらいです。

「群れトル」 落語界の体質はあいかわらずです。おたがいそれほど仲がよくないのに、まとまっていないと淋しいから、とりあえず一緒にいる。 それぞれの噺家に同業者の親友がいったい何人いるのでしょう。名前と実力のある人ほどおりません。(好きだけど嫌い、嫌いだけど少し好き)くらいの感覚で仲間と付き合っているわけです。 そして、普段はまとまりが悪いクセに〈共通の敵をみつけると結束する〉、このときのパワーだけは呆れるほどです。(中略)
 人の悪口を言うのは、まず自分たちが動いてからではないでしょうか。 そして、共通の敵をみつけると結束する体質は、談志師匠や円楽師匠に対してだけではありません。自分よりおいしい目をみている人間すべてが〈敵〉になってしまいます。

「受けトル」 大切なのはお客様の心がどれだけ揺れたかということです。もしも、笑わせることにそれほどこだわるのであれば、落語以外のフィールドに移る方がよいと思います。 ウケることばかり考えて、他の大事なものをすべてぶち壊すということは落語の場合、よくあることなのですから。十ある落語の魅力のうち、八まで犠牲にして笑いをとっても、それは勝利ではありません。要は、笑わせる手段としてなぜ自分が落語を選んでいるのかということです。

 現在の落語界を見ていると、〈自分に欠けているものを正当化するための言い争い〉が、あまりにも目立ちます。さほどウケない人は、あんなことまでしてウケたくないと言い、自分がへただと思っている人は、くやしかったら笑わせてみろと挑発するわけです。そんなことを言っている場合でしょうか。どっちにしたって世間からは相手にされてないのですから。 落語がほかの芸能と戦うためには、今までのように自分のこしらえた作品を評価してもらうという姿勢ではなく、各々の縁者が観客の心を少しでも揺らそうとする積極的なアプローチが必要です。「古典トル」 古典を選ばなかった理由が、何かあるはずなのです。ところが、私にはそれがまったく伝わってきません。新作落語の可能性は無限だと思います。それなのに皆さん、その入り口で立ち止まっている。自作自演に必ずしもこだわる必要はないのです。 新作落語を古典派の人たちより説得力をもって語ればよいのですから。

 ただし、気をつけなくてはいけないのは、演技にことばが奉仕してしまったり、あまりにも未完成な会話を演技でフォローする作品が目立つ点です。ここを改めていかないと、後世に残る作品はできません。 指揮者のヴォルフガング・サヴァリッシュが、とてもわかりやすく解説している文章がありますから、それをご紹介しましょう。「今日では、一度国際コンクールに入賞すると、もうすべてをマスターしたような気持ちになるようです。 20年代に個性の強い、多くのすぐれた指揮者が生まれたのはどうしてでしょう? 当時はまだレコードがなく、手本とすべきものがなかったためではないでしょうか。

 指揮者は誰彼を問わず、自分で総譜から学んでいかざるを得なかったのです。自分の目を、耳を鍛えなければなりませんでした。「春の祭典」は、総譜から勉強する他はなかったのです。 何が重要なのか、どう響くのか? 何が自然と聴こえるのか、何を凝集させるべきか、というように。 そして今日では、総譜をてっとり早く知るために、テープレコーダーやレコードを使うようになっています。 カラヤン、バーンスタイン、アパドが熱狂的にコピーされています。そして、独自の解釈をしようなどとは思わなくなります。」 志ん生、文楽、円生という名人の師匠方は、円楽師匠のレコードを聴いて学ぶことはありませんでした。 ときには他人のことばをトル

(65)【ワークショップと開放】

 だいたいの場合は、“自分が声が出ない状態を自分で作っている”のを開放していくのが、巷でやられているヴォイストレーニングです。もっと楽しくやろうと、みんなでワイワイやり、そのうち気持ちが開放されていく、だから楽しいし、うまく声が出たような実感がある。これは、ワークショップです。主として今は、劇団の人が劇団以外でアマチュア向けにやっているものであり、演劇ファンを広め、また演劇へのガイダンスとしての役割を狙いとしています。 そんなもので本試合に通用するはずはないのですが、すべては参加した一般の方の満足度で問われる以上、そこへのサービスがトレーナーの役割となります。

 体が固くなっているよりは開放されている方がよいということは、確かです。そういう調整トレーニングがプロのノウハウから降りてきているのは、一般の人にはよい状態を自分一人ではとり出せないからです。しかし、プロがやっている調整トレーニングというのは、元の状態になれば通用する力のある人たちにしか通用しないのです。そのことをわかって一般の人に教えているのが、ワークショップなのです。 しかし、最近のプロ(もしくは、そのレベルの人)には、自らの歌や発声はできても、そのプロセスの把握ができず、素人も自分と同じやり方でやればすぐできると、本気で思う人も少なくないのです。こればかりは、いろんなタイプの人を世界中、長期でみた経験がなくてはわからないことでしょう。一人でやれている人ほど、自分のプロセスの把握もできていない人が多いのです。

(66)【肝心のこと】

 イチローが、俺のように打てば5割打てるよと子供に教えても無理なのと同じ、本当に自分が努力して得たことを教えたら、安易に他人はすぐできるようになるような勘違いを善意でしてしまう。それだけに、始末が悪いのです。 たとえば、清原選手はスランプになっても、心身をリラックスして、鍛え直して元の状態に戻せば、プロとして通用するわけです。でも、それは、そこまで何年もかかって、筋肉も勘もイメージも全部作ってきたという条件がなければ、そういうことはできません。その条件(主として感覚と心身のコントロール)の全くない人が、トレーニングをやれば、即、プロの世界で通用するというのは大きな間違いです。しかし、ヴォイストレーニングの中では、そういう錯覚があたりまえのように行なわれているのです。

 また、トレーナーも歌ったり、声を出したり、自分のコンサートによんだりという時間ばかりが中心でも、その人と共に過ごすことで力がついていくような気になる人が多くなりました。ゴスペルブームにのって歌を始めた人が講演にもよくいらっしゃる。その先生のやられていることは、その人個人の実績なのです。それを習っている人に自慢されても、仕方ありません。要は、そういう人についているのに、プロとしての一声、一フレーズ、そして個人の作品のできがどうかという肝心のことが深まっていないのです。

(67)【本当に身になるようにするために】

 私も20年やってきて、まわりをみると、学生のときに、歌がうまかった人、その業界で活躍した人、音楽が好きだった人は、みんな辞めてしまっている。そうではない人がプロになったり、ずっと続けているのです。何が違ったのだろうかと考えます。 器用でうまかったのに、すぐに音楽や歌を辞めてしまう人もいます。 最初のきっかけはあったから、ここに入ったのに、そのきっかけの小さな連動が続かなかった。 そのなかには、トレーナーに依存した結果、認められなかったための反動もあります。そこでコーチングのように、とにかく何でも認めていく教え方が、日本では一般化しつつあります。

 依存の代償として賞賛を求めるのは、子供です。自分の作品はできている。なのに、それが評価されないから、基準がおかしい。他のまわりの人やトレーナーがおかしいと思う。オーディション後にもよくあることです。それは、単なる一人よがり、うぬぼれです。 それをまわりやトレーナー自身が助長していると、困ってしまうのです。私でなく、当人が困るべきなのですが、困らないから、困るということです。 レッスンという、自らの欠点を補うところが、そこから目をそむけ、自己PRの場と化してしまう。 ワークショップは素人の場なのに、芸や作品でなくテンションだけでやれた気になってしまう。いえ、ならせてしまう。 私自身も、出張先の一日公開レッスンなどではそういう形でやります。それこそ、そこでトレーナーに求められる腕のみせどころだからです。でも、なぜ、ここで皆の機嫌を伺ったりしないのかは、それでどうなるかを知っているからです。

 鑑賞が一番大切だといっているのは、すぐれたアーティストとの自分とのコラボレーションしかありません。その連動の動きの中で、自分の歌やトレーニングが自ずと身になっていくからです。トレーニングをやって、歌の練習をやっていたらうまくなるということはあっても、すごくなることはありません☆。 あくまでやらない人たちよりやれるようになるだけで、もっとやっている人たちの世界の中では、ほとんど比較にもならないのです☆。 唯一、誰も気づかぬレベルでの感覚の鋭敏化しかありません。つまりわかりやすいレッスンで、皆がわかったというものほど真の力をつけるには程遠く、何になるのかわからない。本当に自分が成長しないとわからないレベルで身体下に潜在して蓄積されていく感覚こそが、本気に求められるものなのです。

(68)【呼吸がすべて】

 たとえば、私がタップダンスを一生懸命、3,4年続けてやったとしても、向こうで一年やった人にはかなわないでしょう。それは、向こうの人たちは、その感覚を実際に会得しながらやっているからです。イチローでも中田でも、一流になった人の考え方、感じ方は、見事に一致するのです。 それはどの分野においても同じです。そうすると、スポーツとか芸事のジャンルの差ではなくて、その人間の考え方、学び方、それ以前にどういう感受性を持っているか、一言で言うなら、そのことと自分が生きていく呼吸を、どういうふうにみていったかということです。すべては、呼吸なのです。 同じ練習でも、どこに重点を置いていたかという違いです。全員がプロにならない、あるいは優れていないところにいる以上、そんなレベルでのレッスンでは、同じ考え、同じ意見を言うような群れを構成していくことこそ、恐れなくてはなりません。

(69)【創造と真の自発性】

 マイルスデイビスは、とにかく音楽をやっていないときは一人で絵を描いていたといいます。創造以外のことに時間を費やすことを考えないで生きていた、その生み出す力、源泉から彼の音楽が出てくるし、それが人に働きかける音や絵になってくるのです。他人のコピーにいくら、たけても、本当にその人にふさわしい仕事など来ません。 だから、研究所でもそういうバックボーンがなければ、もたなくてはダメだといっています。無理に音楽や歌をやっても、そういうものにしようと義務でやっても得られないのです。 好きでやっても、楽しくやっても、それだけでは、ものにならない。接点がついているようでいても、ついていないのです。その中に生きて創っていくこととはずいぶん違うということです。

 もちろん、10代なら、それも経験です。私は一時、よくないと思っても、本人がそれに気づくことを願い、長い眼でみています。人間、学べない時期には、何を言ってもだめなのです。ただし、もっと学べている人がいることは、知っておくべきと思います。
 スポーツ、旅行なども、それ自体を通し、音楽や歌と見えてくる感覚になることが大切だと思います。運動はやった方がよいといっているのですが、その感覚が鈍くなる分には、やめた方がよいとさえいえます。トレーニングも同じではありませんか。

(70)【感情移入と限界】

 感情移入の練習というのは、感情的な生活をするのが一番よいともいえるでしょう。本来感情移入のレッスンがあるということがおかしなことでしょう。日常のところで感情移入の度合いが10しかないから、レッスンで15のことをやるというのはわかるのです。しかし、それは劇団のやり方です。すごく無理なやり方です。駅前で大声を出していたら度胸がつくというようなもので、ある程度まで通じることが、逆に限界をつくってしまう。それは他人に知らずと用意され、強制されたものにしか過ぎないからです。自分で、自分を知らず、そのままいくというのが、大問題です。ところが、やはり長くやっていると、そこで自ら気づき、鋭くなってくる確率は高くなります。こういう切り替えの感覚の大切さは、これまでも再三、述べました。守破離、飛躍するには型の深化がいるから、トレーニングをするのです。

 本来は自分の呼吸、細やかな感情の動きから入っていくべきだと思います。一番よいのは、何でもよいから、そういうものを体験することです。日頃から映画を見てボロボロと泣く。そういうところで日本人は押さえてしまうのですが、そこから変えていくべきでしょう。 しかし、それはレッスンでやることではないのです。レッスンは外に出すのでなく、内なるものを磨くのです。それが自ずと外に出るまで待つのです。成果を急ぐことで、こうして、多くの才能や素質が人並みに凡庸になってしまうのは、嘆かわしいことです。それも、その人の選んだ人生です。私はこういうことで伝える以上に、口は出しません。自ら気づかなければ、フォローもできないからです。(02.1.6レッスンより)

(71)【実力と教わる力】

○中級の教えたがりは、いっぺんにいくつも教える。上級者は、教えない。直すことは100もあるから、そのうち、もっとも一つを教える。それも、相手がそのレベルにきたら。そのタイミングがとても大切なのを知っているからだ。聞いてきても教えない。聞けるときに教える。教えてくれる先輩は便利なようでいて、その人の芸は止まり、結局、教えることで自己否定しているだけ。もちろん、その後輩も、そこで止まる。

【中谷彰宏】

 力をつけて、それをどう世の中に伝えるかというよりも、世の中に伝えるために、どう力をつけるかと考えた方がよい。しかし日本人は、力は力として、別にあるように思っている。そのため、世でやれている人を素直に認めない。私が言うなら、世でやれていることが実力であり、世でやれていないのに実力などない。 よくプロのヴォーカリストが、トレーニングにあれこれ言うのを聞く。しかしその多くは、自分の歌に対してプロであっても、人に対して教えることにかけては、ど素人で、自分の見聞きしたものを受け売りにしているに過ぎないことが多い。1回なら参考になっても、何回か重ねると、すぐにボロが出る。呼吸や発声を付け焼き刃的にやっているだけで、自分の思いつき、もしくは、やってもいないことをやらせているようだ。

 その多くは、すでに少しでも先人の業績や書物にあたれば、ほんの入口にすぎないことがわかるのに、自分のみが正しいというような人が少なくない。 あんたの歌はあんたにとっては正しいかもしれないし、そう思ってもよい。でも、他の人には正しいとは限らない。まして、自分のプロセスの分析や、やったこととその効果は、決して客観視しえないものだ。人を教えるのに、ほとんど経験も教えたあとの結果も見届けることなく、断言しないで欲しい。 とはいえ、自分一人だけの思いつきを自信たっぷりにやることにおいてのみ、歌は成立するところもあるだけに、それでやれた人ほど、その真実を本人が知るのは容易ではない。

 歌のうまいあんたは、歌のうまくない人を教えるのに、もっとも不適とさえ言える。 ところが、これまでもよく言及してきたが、うまくなりたいという人が頼ってくるのだから、そこで効率と絶対的な正解を求められる。それゆえ、こういう人が評判を得る。伝えるべきことは、ほとんど無駄になるものから、ほんのわずかの輝く石を取り出すための情熱と、やる気の持続なのに。P.S. ちょっとうまくいかないと「おかしいのではないか」と思って心配する人が少なくない。練習してないのにやれるわけがないということを、わかっていない。(トレーナーの報告より)

(72)【真の創造を】

 「稽古は強かれ、情識はなかれとなり」(稽古はたゆまなく行ない、我意のとりこになって、よい意見を無視するようなことはするな) 「日本という島国根性、村社会では、やっている人をいい気になっていると、がんばった人、がんばっている人の裏や、その後にできたスキを突くことを生きがいとする。」 やれた人をひきずりおろし、皆一緒なのにと平均化する、ねたみと嫉妬の思考の村社会。 他者の否定によってしか、自己を主張できない自己肯定のための群れがはびこる。 よいところをみることでなく、悪いところを揚げ足をとり、へつろう。どっぷりとそこにつかると、みえたものもみえなくなる。 左から右へ、うつしているだけの人が、一人で何もやれぬ人が、大口を叩く。そのことさえ、やれない人がそういう人に巻き込まれ、だめになっていく。

 あなたは、何を創った。そして、創っている? 真に創造するとは、自分の世界をもつ。それは、どういうことだろうか。 私は、自分の名において、自分の仕事をすること、他の誰にも替えようもない役割を荷なうこと、死して何を残すか、伝えるかだと思う。参考語録「あなたはどうして、そう弾きたいの ことばで語ってごらん」(アイザック・スターリンのレッスンより 諏訪内晶子)「日本の音楽家は、『先生の言われた通り』としか答えない。 なぜそう弾くか、ことばで説明できる人は少ない。聴衆も情緒的で語ることができない」(三枝成彰氏)「一流であるには、強者に対して、妬みでなく尊敬で接することが大切だ」(野村監督)

(73)【学び方のヒント 堺屋太一氏に学ぶ】

○学校と養成所との違い

 「教法は射人摂化の最大事である。これを誤れば、あたら学人をして生涯邪道に迷妄たらしむる、師家たる者この罪に過ぎたる罪なきを自覚し、自戒厳重たらざるべからず。 先ず第一に射を学ばんとする人の心相(清濁、深浅、高下、強弱、音冷、智情、得失、広狭等)を透察し、毫末(ごうまつ)も過(あやま)たざるに到って、初めてこれに従っての教法を確立するのである。故に射形射様の一人も同じき者はない。しかもいちいちその人に応じて範を示すも、また私に似た者は一人もない。それぞれその個性の表現射であるが故である。 もっとも武道芸道を問わず、何れの道でも、弟子は師に酷似するのが通例で、しかもその長を取る者は、雨夜の星の如く稀で、悉(ことごと)く悪癖を相承するのである。似易いからである。総じて形の伴うものは、その形に於てその人の真個性を存分に表現した形でなくてはならぬ。それを顕出して来るのが真の師たるの資格を具えた者である。故に射形射様が師に似たる弟子を持つ師は、未だ人の個性を透察でき得ない人で、しかもこれを表現さしめ得ない、人の師たる資格なき人であると自知せねばならぬのである。」

 現在、これほど透明で自在な指導の出来得る武道の指導者は、果たして何人いるであろうか。私も胸の痛みを覚えざるを得ない。そしてもちろん、このことは武道のみにとどまらない。教育一般においても無責任な単なる放任か、過剰干渉や押しつけになりがちなのが現状であろう。 本来、教育とか指導ということは、生徒や弟子に考える材料を与え、考え方の偏りを指摘し、あとは各自の個性を伸ばしながら人間そのものを深く見つめ、社会のあり方について本気で考えるように導きさえすればいいのではないだろうか。(甲野善紀氏)「高齢化大好機」(堺屋太一氏)によると、習い事は、次のように対象によって性格を異にする。日本の音楽スクールは、だいたい高齢者向けの態度と同じ。そこでプロが育つわけないのである。向こうでは、自分の力をつけることが最優先なのに、日本では群れて才能をつぶす。そうならないためには、大変なことなのだ。

(74)【変化のとき】

 レッスンは、身体感覚への気づき それで何が思い浮かぶか、そして自分が他のいろんなものとどう結びつけられるか、そのきっかけを与えるのが、レッスンだと思います。つまり、レッスンのレベルは、メニュやノウハウでなく、受け手の能力、感受性に、全面的によるのです。トレーナーのことばは、そのためのきっかけ、必要悪です。 たとえば、今日の課題をみんなで一緒に読んでみるのは、それぞれでやった方がよくできることです。私は、研究所ではそこでしかできないことをやるようにしています。自分でできることは自分でやるべきだからです。

 自分でやるべきことをやってあげるのは、もっと大切なものを失うことになります。レッスンのレベルが、ここのレッスンでなく、とりくみのレッスンとなる。それも必要と思ってもみましたが、一度そこに下げると、戻らない。ずっと自主性、主体性、ポジティブに読み込む力を抑えてしまう。しかも、教えてもらうのがレッスンだと思わせてしまう。これは最大の誤りです。しかし、そういうトレーナーやレッスンが、日本では求められる、そういう精神性もよくわかってきました☆☆☆。 そして、わからないよりはわかるように、やめて来なくなるよりは続けさせるように、あたりまえですがそうならざるをえない。つまりトレーナーは、仕事としては、私の考える理想などよりも現実、将来の可能性よりも現在の相手の求めるところに応じなくてはならないから、そうなる。つまり、そういう意味で職務に忠実で有能なトレーナーほど、客として相手に満足してもらうことはできる。しかし、人は育てられないとなります。教え方がていねいで、評判のよい歌い手などについて伸びないのも、だいたいはそのためです。

 自分は苦労させたから楽させたい。だから、ノウハウやマニュアルを与えて、ショートカットさせようとします。その苦労(それも真剣ゆえに楽しめるもの)の醍醐味を伝えない。一人一途に、自分の声や歌の研究に没頭する。その忍耐こそ、ステージの華やかさの代償であるのです。もちろん、忍耐のみに至福を求めるのは、大きな過ちなのですが。ともかく、結果のみ、熱意や金銭で、あたかも技術が渡せるかのように思わせる。 それは、本当に伸びるには間違いです。そういうトレーナーに限って、相手のことを考え、手とり足とり教えていると思い込んでいく。その自己満足で、人は育ちません。だから、無能な子分がたくさんできる。日本ではそれを人望のようにあがめるから、尚さら両者とも何も疑問をもたなくなる。

 金も時間も必要条件にはならないのです。時間は才能の不足を補ってくれるし、お金は時間の不足を補う面はあります。 厳しいレベルでのトレーニングが本来、1パーセントの人に10年経てしか本当の効果があがらなかったのを、10パーセントの人に5年であげられる、そのためにやるべきものであったとしたら、その本質を誤って、みせることとなる(もちろん100パーセントの人に、平均点より少し上にという効果をもって、上達というような低レベルの成果をここでは問わないとして)。

 ヴォーカルの場合、効果や目標そのものがあいまいなことが迷いのなかで無駄な日々を送ることになりやすい。そこで、本音を言わず、というより、当人同士が共によい関係性の維持のために、本質や事実や真実に目が曇っていく。トレーナーとの心地よいコミュニケーションで少しずつ大切な時間が失われる。やがて自分の才能がないという理由を自覚して、誰かの応援団として人生を送るに至る。つまり、一巡して元に戻っただけなのである。それはまさに、多くのトレーナーの小体験をしたということになる。 そうでない人は、トレーニングをやめ、現実に立ち還ってバンド活動をやるでしょう。しかし、そもそもその厳しい現実のために日々のトレーニングが欠かせぬはずなのに、おかしなことです。

 身内だけのまえで歌っていれば、何か成している錯覚のなかで、時は流れる。あこがれの人が歌で偉大だったから、自分も歌っていることが偉いとでも思っているのでは、同じ逃げの構図となる。 さらにもっとも大きな誤りとなるのは、ある程度、できた人が教えるために他人のノウハウや方法を受け売りする場合です。半年や1年の試行にも関わらず、その人は応用できる力があるからできてしまう。でも、それを教えられた方は、ずっと下のレベルであるから、さらに未消化で、いつまでも本質は変わらない。長くやるに従って、ヴォイストレーニング、発声コレクターとなる☆。基本のつくりを忘れ、応用の応用をやっているから、尚さらそうなる。トレーナー自身、自分の程度に、いやその半分もできたら上出来という姿勢になってしまうのです。

(75)【習得することと、創ること】

 世の中、いろんなレッスンがあっても、習得する方が楽なので、そちらを選びがちです。 つまり、先生が手とり足とり教えてくれる。誰もが誰もと同じところまでいく。それが教わることだと、私たち日本人は思っています。 しかし、私は自分の経験から、「習得したくてきたのだ、創るのは自分でやる」というのは、今の時代、正しいとは思えません(巷に本もCDもあふれんばかりにあるのに、です)。 「創りにきたのだ、習得は自分でやる」、それが私のレッスンとトレーニングとの関係でありたいと思っています。 習得には目的が必要です。そのために気づきを与えているのがレッスンです。 習得は、レッスンが1ヵ月に4時間でも10時間でも、そんな程度でできるものではありません。一日も欠かさず、トレーニングする。つまり自分の時間を使い、芸を血肉にしていくしかないのです。 創ろうとすると、何がそのために必要なのかがわかってきます。それによって、習得できるのです。

 創造という出口のないところでの習得は、自己満足、自己本位、自己陶酔、それゆえ、世に出られないことになるのです。 なぜ世に出られないのかなどと昔でいうと、たわけたことを聞く人も増えました。簡単です。誰にも、受け入れられないから、出られないのです。 そういうと、客を受け入れようと、また逆の努力をする。しかし、客が受け入れられるだけのものを示すことが、先決です。 音楽や歌は、これまで述べてきたように、力のないタレントで人を集めたり、稼いだりするのに、安易に使われてきました。健康のためや友だちづくりのため、コミュニケーションの媒体として、これほど使うのが楽、つまりごまかしやすいものはないからです。多くの音楽に親しむ人が、同じように効用を求めています。

 表現の創造の厳しさに、多くの日本人は本能的に目をそらし、習得に満足する方向にいきます。 音楽は楽しいもの、楽しむもの、確かにそうです。だから私も関わっています。 しかし、プロにとっては、同時に厳しいものなのです。表現が、その名に足るとしたら、我が身を粉にして練り上げるものだからです。創造とは、渾身の力を振り絞ってやる。だから、人の心を打つのです。 習得したら、創れるのではなく、創るのに習得が必要となるのです。いつまで習得しようとしているの? いったい何を? まずは、創ろうよ。何を習得するのかを知るために! と思うのですが、いかがですか。

(76)【アマチュアとプロ プロの余芸】

 たとえば、何か一芸に秀でている人は、だいたい素人離れした分野を2つや3つもっています、それはアマチュアのトップレベルなどよりも、ずっと専門性が高いことが多いのです。現実に70年、80年とやり続けて生きている人もいるのですから。 人間の可能性、いや人間の能力は、無限です。 私が30年とりくんだといっても、何か一芸を成しえた人がその経験をもって30年以上、やっていたら、かなわないとも思うのです。だから、私などは、あまりスペシャリストということを掲げません。 今にはじまったことではありませんが、一人の人間が一つのことに賭けたら、どのくらいのことができるのかを知らずに、一端をとりあげてうんぬん言うのが素人です。そのために自らは学べないのです。

 そういう人は、肩書きや身分でしか判断できません。簡単に他人を先生と祭り上げたり批判したりします。そうでなく、本質、つまり実績でみる。その実績とは何かを考える。まず、そこからスタートでしょう。 少し学んで、わかったつもりであれこれいって、その論や場や人を見切る人がいるのは、残念なことです。もちろん本人は、自分の意志で、さらなる発展のためにそう決めるのですが、私などがみていると、見切っているつもりで見切られている。いまだ、クリエイティブな世界と無縁の向こう岸にいる。その世界にせっかくアプローチしていたのに、すでに背を向けているということが、ほとんどです。そして、せっかくの才能が、そこで磨かれなくなる。

 しかしそれは、普通に生きるための分相応という処世術でもあって、そちらからみると、アーティストはそもそも異常なのですから、こうしてとやかく言うことではありますまい。 毎日、8時間、他人のために働くのと、それを全く自由に使った上で、もう8時間やっている人の20年の差は、ケタ外れに大きいものです。まして、現場で働く人は、仕事も勉強も一体です。 私なども、働くといっても、レッスンもライブも取材も執筆も他人と会うのも、すべて自分の専門分野の実践や実力アップの時間となります。つまり、学び方と表現の仕方を知っていると、常に、どこでも、インプットとアウトプットの場として活かせるのです。その、ごく一端をHPなどでお伝えしています。

 その上、国内外を動き、他に複数のトレーナーも使い、その経験までくみとり、やってきました。プロや第一線で活躍している人と現場で学び続けている。となると、単に学生の頃の経験だけで、初心者相手に一人で自己流でやっているトレーナーとは、その人には想像できない差がついてくるのは、あたりまえでしょう。 私のレッスンでは、その一部を残しただけでも、会報200冊(本で300冊相当?)近くになっています。もちろん、こういったものは残らないものの方がずっと多い。茶碗一つで人間国宝になる人もいる。しかし、そこでは一つのレッスンのため、想像を絶する経験としての時間が費やされているのです。 しかし、学ぶという習慣さえがあれば、アマチュアの人でも8時間、働いた上での+α×10年で、専門家になれるチャンスはあるともいえます。


[5]Fourth Class

(77)【トレーナー論 プロとアマチュア】

 今さら言うまでもないが、トレーニングは自分でやることが基本である。 自分でノートをつけ、それを提出してもよいし、しなくてもよい。ただ、トレーナーとの、よりよい関係を築くのなら、毎回やったこととその結果を伝えた方がよいとは思わないのだろうか。 トレーニングはやれば効果があがるのにやっていないから不安になるのはあたりまえである。レッスンの回数が多いか少ないかでなく、自主トレーニングの日数、時間、質の問題である。それが少ないから不安になる。 たとえば月2〜8回のレッスンを16回にしてみても、それは自分で通うことでの自己満足、安心感を欲しているにすぎないというのでは仕方がない。 談志が新弟子をすべて破門にし、円楽が若竹座を閉じたように、これと並べるのもおこがましいが、自分を伸ばすべき場でやっていることだけでやれる錯覚をするなら、やらない方がよい。

 私はV塾では、合宿もライブもオーディションもイベントもL懇(演奏会)も中止した。このなかで自己満足しているのでなく、外へ活動をするために、ここに通って欲しいからである。 ここでの必要性を感じて当初はやらせてみたくてやった。おもしろくもあり、ためになった。 しかし、それが、つまらないばかりか、準備不足などで形だけになったら、やめざるをえない。必要なものは生じ、そうでないものは消える。私が主人公でない場では、あなたという主人公が出てこないなら終幕である。 他人が全てセットしている場でやって力をつけるのはよい。しかし、それでやれた気、あるいはそのまま外でもやれる気になっているような勘違いは、防ぐ方がよい。客が仲間内しかいないなら、その活動は早晩やれなくなる。その時間や手間がもったいない。そこに1、2度の経験で学べる人と、何度も同じこと、つまりこれはレベルが下がることになることが多いが、それに甘んずる人との違いがでてくる。

 声や歌だけがあっても、やれないと、私ほど以前から正直に言っている者もいないと思う。 やりたいのかどうかを常に問い、どうやりたいのか、それにはどうしなくてはいけないのか。きちんと学べばやれるのである。なのに、他人より少々すぐれたくらいで慢心し、学ぶことを怠れば、やれないのはあたりまえである。なのに、どこかでいつかやれる気でいる。 人間、自己肯定したいものだから、そこにそれを支える理屈がつく。まして、仲間が無責任に迎合してくれたら、余計に問題の本質は遠のく。こうなると、誰かにぶち破ってもらわない限り、変われない。 やる気になれば誰でもやれる。ただ、本気で考え実行しようとしないなら、なにごとも遂げられない。 でも私からみると、自らが気づかない、ということが、多くは慢心からなのである。そんな声や歌が、人の支持を得ることも、深まることもない。

 まあ、多くの人はそこまでもいかない。つまり、学び方と毎日のトレーニングをきちんとしていない。 とにかくせっかくここにいるのだから、その間に大きく変わって欲しい。そのために来たのであれば、だが。 何事も月に2,3回、顔を出しただけでなんとかなるとは思わないでしょう。その通りである。 常に毎日のようにレポートを目一杯、提出して学び続けている人がいることを、忘れないように。それが偉くもない。あたりまえ、最低限のことなのだから。それをやらない言い訳をつくったところで、あなたは入ったときより可能性を失っているのである。P.S. 当研究所は、2000年くらいまでは、ほぼ年中無休で、月に20〜30時間、通う人は珍しくなかった。つまり、全日制であった。 新しい人は上のクラスの人のキャリアを認められず、上のクラスは以前やっていただけの勉強もしない。こうして場はくずれていく。

(78)【トレーナーに関するQ&A】

Q.私のついているトレーナーは、どうも頼りないので、やめようかと思うのですが。新しいトレーナーのところで歌ったところ、個性的だとほめられました。

A.前についていたトレーナーを批判する。これを、私はやりません。 それは、ここでも長く多くのトレーナーと一緒にやってきたからです。トレーナーのやり方も、相手との相性など、簡単に判断できない問題があるからです。 研究所では、私がすべてをやってしまったのなら、意味がないので、かなりの部分、任せるようにしてきました。そのための批判も、甘んじて受けています。声楽家にも、ずいぶん会いました。今も毎年、何十人か面接しています。また現実に、多くの人が、他のトレーナーについてやってきたあとに、ここに来ています。 他を辞めて、新しくトレーナーにつく人は、自分の正当化を求めています。少しはわかっていると思えるようなトレーナーに、これまでのやり方を確かめにやってきます。

 そこで、トレーナーがその人の不満に合意したら、つまり、一緒に前のトレーナーのやり方を批判したら、信用を得て、さいさきのよいスタートが切れます。 しかし、考えようによっては何とも情けないことでしょう。大切なのは、そこでまったくゼロから始めるのでなく、それまではなぜだめだったのかの厳しい反省でしょう。それを当人はできないから、トレーナーが指摘するのはよい。ただ、それはやり方ではなく、当人の判断の仕方、学び方など、トータルにみて、どこに問題があるのかということについてなのです。そこを離れるなら、トレーナーや、やり方のせいでなく、すべては当人の問題として捉えるべきなのです。そうでなければ、最初だけよくても、また同じ轍を踏むことになります。トレーナーを、二転三転としている人は、特に注意することです。 トレーナーにしたら、自分のやり方や評価の仕方と違うから、他のトレーニングが気に入らないというのはわかります。 だからといって、私の立場からいうと、どこでも学ぶべきものはあり、学ぶ力をつけることこそが、もっとも大切な能力です。学んだことより学ぶ力をつけることこそが、養成所の役割だからです。

 概して辞めた人が言うことは、大して信用なりません。なぜなら、そこでうまく吸収して伸びた人もいただろうに、それができなかった人だからです。 やってきた経験が本当にどう生かされるかというのは、どんなことも、あとにならなくてはわかりません。 表向き間違いのようでも、必ずしも否定できません。 むしろ、何事であれ、一所懸命やる、そして次の場でも今まで一所懸命やったものをどう生かせるのかの方が大切です。そうしないと、ただの無駄になります。安いから、わかりやすいから、がよいとは限りません。生かすも殺すも自分次第なのです。 私などからみると、辞めた人が言うことを一方的に信じるトレーナーは、勉強不足です。ただ多くは、自らの生計のために、生徒が欲しいから迎合する。生徒の主人になりたいからです。それに気づかない人は、生徒として隷属したいのでしょうか。トレーナーでなく、アートに仕えるべきではありませんか。

 気分よくやれることと、実力のつくことは、全く違います。 トレーナーのせいにしている限り、あなたは、甘く、優しいトレーナーを見つけて、そこでほめられ、結果、自己満足に終わります。 これは、何年かたてば、世の中でやれていかないという事実で、わかるはずです。あるいは、慣れ親しんで、そういう判断さえしなくなる。もしくは、それまでにやめてしまっているでしょう。  やめた人より、やれた人。  入った人より、続けている人。  やっている人より、その実力。 とにかく、プロをめざすのなら、100人どころか1000人で1人しかやれていかない世界に、たぶんその他99%でしかない自分や、そうであった人の考えを、もち込まないことです。 それが、あなたが、そのなかですぐれた1パーセントになるために、もっとも改めるべきこと、何よりも大切な考え方なのです。

●Q.東京にはよい先生がたくさんいるのではないかと思います。よい先生を確かめたいと思っているのですが、どうすればよいですか。また、どういう生徒がよいのでしょうか?

○日本の教育現場

 私も十代のときに、全国の先生を探し回りました。その結果、クラシックの方に行くしかなかった。今も、そう変わりないと思います。ポップスでもやっている人の人数が増えただけのように思えます。 私がアドバイスできることは、 一生、信じるに足りる声とは、そう簡単にめぐりあえない。めぐりあっても、それは自分のものでないなら、意味はない。第一に、あまり教わろうと思わない方がよい。ということです。 欧米には優れたヴォイストレーナーがいます。 しかし日本人がそれについていけるかということになると、きちんとしたレッスンさえ成り立っていないのが現状です。 私も、これまでに何人かのすぐれた外国人にもトレーニングを受け、海外の、日本人のいっている学校もたくさん見てきました。ここでも外国人を含め、何人かをトレーナーとして使ってきました。 日本教育の中では、他の国に比べて、音声表現に対する耳、発声器官のコントロール能力がない。そこを見ずして、はじめるので、多くの場合、うわべは上達しても、とことん不毛です。 第一に多くの音を聞き分ける耳を持っていない。トレーナーの声を聞いてください。よくて歌だけでしょう。大半は、話し声も普通の人と変わらないでしょう。

 日本人の音声に対しての意識がいかに低いかということがわかります。すぐれたトレーナーの声は、惚れ惚れするものです。欧米のトレーナーの声を機会があれば聞かせたいと思っています。 だいたい20歳前後のときというのは、何もわからないのが、可能性です。だから、一途に突っ走れる。ただ、今の日本人の場合は、芸事の経験や、そういうものにとりくむ基本の考え方がありませんから、そのままでは難しい。まずは、目的と、そのプロセスをはっきりさせていきましょう。 こういう世界は独学がベースです。どんな先生についても、24時間一緒にいるのではありません。 信じる分には、効果は出ます。だから、とことん迷っても、決めたら、相手を信じ切った方がよい。 私は、最初から一方的に信じてくる人は、どちらかというと敬遠します。信じるということは、効果を出すための条件ですが、責任を相手に任せているだけの依存症に陥らせることも多いからです☆。創造や表現が目的なら、これはよくない。

(79)【作品でみる】

 私は、生徒を見るときには人間としての性格や行動でなく、その人の舞台の可能性、テンション、才能と作品で見ます。その人がどういう人であっても、ステージでの作品が素晴らしければよい。創造力や発声として信じられるかというところでみているのです。 その才能や素質があればよい。それを日本では一緒にしてしまうから、おかしくなってしまいます(もちろんそういうことをできる人は、神経も細かく、気遣いにも人一倍、たけているものですが)。 まずは、アーティストとしての評価を第一義とするのです。それが、私などには求められている役割だと思うのです。トレーナーにはただの先輩、友人となることが少なくない。 作品づくりを経て、舞台で一流でやれるために磨かれてゆく。

 目的は、よい作品を残していくことです。そこに永遠の命を持たせる。 そこにすごいものが出ていたら、そのことで認める。そのことだけは、私はやってきたつもりです。 ここでも、いろいろと苦い経験もたくさんありました。しかし、多くの先達が歩んだ道などからみると、私などは苦労も足りないでしょう。 勝手に期待して先生を祭りあげて、大した努力もせず、効果がでなければ、すぐに見切る。また、他の先生について、小手先の上達に喜ぶ。そのうち、またその先生のどこかを散々けなして、他の先生へうつる。それでは実力でなく、先生歴しか増えない。そういう権威づけを誇りたいなら、“声楽界”にでも入ればよい。もちろんそこでも、やってはいけないでしょう。早く、自分で何かやりなさいということでしょう。

(80)【依存心】

 人に期待するということは、第一に自分にその見返りが欲しいということです。自分にも同じだけ期待して欲しいということになる。しかし、それには自分の力をつけなくてはいけません。そしたら黙っていてもそうなるのでしょう。 日本では、先生といわれる人ほど、力がなくて、こびてくる人を大事に、そして重宝にする。先生のいうことをハイハイと聞く人の方が使いやすいからです。 そこで人間的にはよくても、それだけで、生涯一人立ちできない人ばかりがたむろするようになる。そのため、どこも場が、創造の場としてはダメになってしまうのです。 日本においては、多くの場合が、アマチュアはやりはじめが一番まし(プロはデビュー時が最高)にさえ思います。これは何を意味するのでしょうか。普通は続けることでよくなるのに、トレーニングに入り込むことで、あまりにみえなくなってしまうのは、なぜでしょう。

 つまり、歌という才能の世界では、先生でなく自分の力ですべてやっていく。自ら創作したものでの実力勝負いうことを理解していないのでしょう。(この問題だけのために、私はずっと日録を公開しています) それは、あたかも親切なトレーナーをみつけて、ゆっくりと自分の才能のなさに気づかぬように夢をあきらめさせてもらうプロセスをとっているかのように思えます☆☆。 もっとも大切なことに気づきたくないから、皆、気づかないふりをして、そのうち考えなくなる。いつしれず、トレーナーのファンクラブの一員となる。 つまりトレーナーは、その人のために教えているつもりで、それゆえ結果として引導を渡すことになっているのです。それなら、会ったときに、最初にきちんと断ってあげた方がよいでしょう。

(81)【生計をたてるためのトレーナー業】

 多くの人は、根本的なものが何も変わらず、今の自分の線上でオンしていくと思うことの甘さが、まったくわかっていません。昔なら、先生といわれる人は、そういう人に革新を強いた。そして、厳しくやれないなら、あきらめなさいと言ってあげた。 そうならないのは、生徒の月謝にトレーナーの生活、あるいはトレーナー自身のアーティスト活動が、生徒という名の客に依存している現実があります。

 ポップス界においても、音大の卒業生や先生たちが陥ったような悪しき構造をとっているのです。 先生が先生としての地位を守るために家元制のように形骸化する。それに気づかないなら、やる資格はありませんが、そういうことを求める人が多いので、なぜか成り立つようです。 音楽は、すばらしいし、楽しい。などと言わないで、そういうレベルにしぜんとなるだけのレベルで音楽をやってくれたらよいのに、アマチュアという名で音楽をやっていることに甘えているのです。

 日本の場合は、先生にも、才能よりもコミュニケーション力の方を期待されます。つまり、学校というサービス業になりつつある。 しかし、こんなことは、批判する意味もないし、人それぞれの人生だから、そうしている人には何も申しません。 ただ、他のアートと違い、人が集まっていれば、成り立ったかのような印象を与えてしまう歌には、よほど厳しい姿勢で望まないと、本当の意味で成り立っていきません。その結果、メロディに歌詞をつけただけの、過去の歌唱をうつしただけの、まね上手の歌手が、いかに多いのでしょうか。 私は、どんなに頭にくることだらけの場におかれても、何も言われても、その人の才能とその人の天分を信じているし、そこから出るものを誰よりも買います。

 もっと自分のもって生まれたものを、充分に生かしなさいと。自分の力をつけるために、来ている。ならば、自分の力で材料を切って、自ら組み立ててやっていかなくてはいけない。 強くなればマナーが身につき、マナーが身につけば強くなる。そのことがわかれば、誰よりもしぜんにマナーが身につくはずなのですが、マナーをよくすることが目的になってしまう。それでは、アーティックなことはできません。 トレーナーは、その役割において、ペースメーカーならまだしも、生活上のカウンセラーではありません。より高い目標とのギャップを明確にし、常に試練を強いる、本人の実力を曇らせず写しだし、内なる息=精神化したものに気づき宿るのを待つ、そこに導く存在といえましょう。

(82)【群れる日本での才能つぶし】

 先生と人間関係がうまくいっているから、何となくやっていけると思う依存症の人は、日本では意外に多いことにびっくりします。 特に、HPや著書などにひかれてくる人は、その傾向があります。 最初はともかく、そういう人の居続けるのを許してしまうと、能力のある人材が去ってしまいます。そこで日本の組織はどこでもダメになってしまうのを、私は見てきました。しかし、自分のやったことは自分に帰する。私が見ているのは、何もやらない百人より、自らやる一人です。 私がやれてきたのは、何人かの、その分野のプロに、重宝されてきたからです。 だから、一般の人にもそのように使えるところまで、100人の1人になりなさいというので、V塾をおいた。だからこちらのレベルは下げないできました(ただ、あまりに塾生が一般化したため、トップ層へ最高レベルでのアドバイスができなかったこと、次層がそれに反発したという、どこでも起こる構造を許したことが悔やまれます)。

 それが使えなければ、他で学べばよいでしょう。他のトレーナーについてもよいと思っています。すべて、その人の人生は、その人の判断の結果として、あるのです。 ところが日本人というのは、自分がやれないと相手のレベルを引き下げようとする。トレーナーの才能を充分に引き出してこそ、よいレッスンとなる。あまりにレベルが低い人しか見たことのないトレーナーは、誰にも同じものを与えられると思っているが、そうでない。 トレーナーの才能を使える人が、多くを得るのです。それを低いところで使う人は、もったいないことです(レッスンは長時間で安い方がよいとかいうのも、その形だけの表われの一つです)。

 日本では、できない人の口ほどこわいものはない。だから、先生方も、無難に取り巻きにしてしまう。まして、プロ歌手としての活動があると、生徒は第一のお客だから、生徒に言いたいことも言えない。厳しく言うと、やめてしまうし、うらまれる。言いたいことを言う以上、反発をくらってあたりまえです。 ぶつかり合いから新しいものは生まれるものでしょう。仏さまのような先生とやらは、こと習い事では、薬にも毒にもならない。 アーティックに殉じるなら、他の人からよい人と思われることなどあきらめなくてはいけません。実績と結果だけで問わなくてはいけません。そんな覚悟のある人はほとんどいない。 だから、本気で取り組む人は、必ずやれる。世の中で100パーセント、認められます。やれないのは、やれた人に比べ、そういう努力が全く足らないという理由にすぎないからです。

 才能の世界の下では、どこでもできない人のねたみ、そねみ、そしりでネットワークされています。そういう人との関わりを絶つのは、難しい。長くやることが、そうなることなら、これももったいないことです。 アマチュアで人前でやる人は、誰もが集団のなかで仲良くせざるをえない。頭数としての客を欲しいからです。 先輩などが教えているときは、これが顕著になります。自分の歌と客をつくらなくてはいけない。そこでは、生徒がその時期、もっとも確実に、あたま数を見込めるファンなのです。先生への義理立てに加え、声や歌やステージの勉強になるからです。 そうして、本人の本当の才能と純粋な情熱が弱まっていくのをみるのは、悲しいことです。とはいえ、気づかないのが幸せなのかもしれません。

(83)【再び、プロとは】

 人に寄っていく人は、そうしている限り、自分の力では何もできない。これは、どこでも人が集まるところに、必ずある光景です。 誰でも、まわりとうまくやっていきたい、悪くいわれたくないなどと思うのは、あたりまえでしょう。 そのため、もう一歩踏み出せないその人のよさが、その人がそれまでやれなかった要因なのです。もとより、それを打ち破ってまで、多くの人を説き伏せるものがないからともいえます。 場のなかでの歌は、場を破れない。だから、場を超えて、第三者である人が集まってくることはない。この身内の場を突き放し、第三者の客を得る力こそが、プロのプロたるゆえんなのですから。

 そこを乗り越えるためには、プロということについて、自らいろいろと学ぶことです。どこでも、そこにいることが目的になってしまってはいけないと思います。自分がいるところが、ライブとなるようにしましょう。 プロとは、自分の才能の発揮できるための才能のある人と場を得られる人です。人間、一人では何事も大したことはできません。 本当に好きなことを好きなようにやるからこそ、プロになる。めのために仕事として、こなせるプロのレベルを超えなくてはいけません。 プロをやり続けるには、実績を残すことが必要です。それは人に対して働きかけることであり、その対価が、仕事としての収入となる。 サラリーマンでも10年続けたら、ギターでも歌でもうまくなります。アマチュアゆえにお金に縛られない。でも、自分の才能をより高いステージで発揮するには、才能のある人との出会いと、本当の意味での場が不可欠なのです。

 世の中、お金があっても何もできない人もいます。つまり、場を得てはじめて、才能は磨かれる。そこでプロは逃げ場がないゆえ、有利ともいえるのです。集まった人の数、人の思い以上に、作品をもって返さなければ成り立たないからです。 アマチュアが純粋に音楽を愛せるなどという人が多くなりました。その大半は、いくら本気のつもりでも、つもりだけで、カラオケを一人で歌っているのにすぎません。だから,うまいと言われても他人を感動させられません。感動させたら、人は必ず集まってきます。

 プロの価値は、人に対する創造活動にあるのです。その過酷な自らとの戦いを避け、対価以上の仕事をしないと成立しないプロという世界を垣間見ているだけでは、つまらないでしょう。 まさに、それは低いレベルのプロをプロといって、さげすさんでいるのにすぎないのです。 それは同時に、生活のなかに本当に音楽を取り入れ、音楽とともに暮している“プロ”中の“プロ”として、お金をとっていない“アマチュア”の人々への侮辱にもなりかねません。

(84)【トレーニングで本当にやるべきこと】

 ある劇団の主役の方と話した。  1.とことん地味なことをやること。  2.今すぐ必要なことと正反対のことをやること。  3.すぐに効果の表われないことをやること。 つまり、本当にやるべきことは、付け焼き刃でできないこと、時間がたっぷりかかることをやるというのだ。たとえばダンサーなら、クラシックバレエや日本舞踊をやることである。タップをやるときにタップの練習をするのはあたりまえのこと、すべて現場のことは現場でやれるようにする。それだけでは続けられないのが、プロの世界なのである。

[6]Fifth Class

(85)【リハーサル】

 いつまでリハーサルをやっているのだろう。歌や表現の舞台にリハーサルはあっても人生にリハーサルはない。いつも、今も、一度限りの本番!歌や表現の舞台にリハーサルを求めるなトレーニングにリハーサルを求めるな人生にリハーサルはないいつも、今が本番!!いつも、今が……一人よがりのもの理解されておわるもの聞いて、ただ流されるもの二度と聞きたいと思わないもの、鈍いもの、雑なもの心を動かさないもの、何ら働きかけないもの魅力的でないもの、輝かないものおもしろくないもの、退屈でつまらないものといったことと……何か、違うことをやるだけでよいのに―そうするためにやるべきこととしてやっているのだろうか

(86)【詩10篇】

 「再会」おてんとさまにいつどこであっても天国で会ってもまっすぐ顔をみて笑ってすごせるような今日を過ごそうそういう街に―そういう人になろう[あなた]自分のやっていることが小さくみえるほどあなたが一所懸命生きているのが嬉しい「魂」人に伝えつづけていたら伝わるそれは形ではなく、魂魂に形がないのが、その証拠だいずれ、魂だけになる日のために僕はこの魂を形にしてみよう―「最高のものに触れること」その造形と誕生絵をうつすことに専念するのは、考えたストーリーを生かすため、そこに登場した人物が、生命を得て、自ら動き出す。あとは、それを写しとめるだけでよい。「迷い」入ってから迷っている?迷うのは自分やるしかない、声も迷うでしょう人も迷うでしょう、自分も迷うでしょう声も歌も音楽も定まるものです あなたさえ定まれば―「ALL」すべてわたすのです 切り売りしない レッスンも、すべてです 一回完結、一回ですべて「違う!」違う、だから、表現する。「選ぶ」うまくなる人には、うまくなる必要があるやれる人には、やれる必要がある うまくなってやれる人と、 やってうまくなる人がいる うまくないのにやれる人もいるし、 うまいのにやれない人もいる やれるのにうまくない人、 やれないのにうまい人何がうまいのか、何がやれるのか何を選ぶのか、何が優先するのかあなたの人生で「いつかは」やがてそなるいつかはくるか?やれていない。それを多くの人は、年齢やキャリアの違いのように思う。そして、「いつかは」と省みる。しかし「いつかは」決して、来ない。認められるのは、あとかも知れないがやっているのは、今、なのです。20才でもその一日をどう創造するかなのです。長く生きたからって、よい作品がつくれますか。よい人脈ができますか。それはすべて今日、何をなしたかの実績につくものです。「歌」一夜づけでストーリーも芸でもない文化祭レベルの歌は、やめる

(87)【唄ありて】

 唄ありて喜びあり 唄ありて涙を流す 我が生けるのをただ唄にのみ知るただ、こうしか生きられなかった、これ以上もこれ以下もなかった、そんな人生だったのです。ひとすじの道生きて来て あかあかと いのちのはてに燃ゆる夕焼け昭和62年 秋 淡谷のり子心の耳心の音心の声心の歌

(88)【1チャンス、1プレー、1トライ】

 久々にテレビでラグビーをみた。 自分のゴール近くのピンチで、相手のボールを奪い、そのままゴールにつっ走った選手がいた。その走っている表情に、僕の左眼からツゥーと一筋、そしてゴール後の観客の大拍手に、右眼からツゥーと一筋の涙が頬をつたった。 1チャンスを1プレーで1トライ、それは彼の生涯に、確かに生を刻んだステージだった。 この、あるチャンスに、あるプレーをみて、僕は自分のトライを考えてみた。 あなたは……?

(89)【それで充分】

 私の紹介した、アーティストを見に行く人がいる 歌を覚えている人がいる。私の本で、 やり始めた人がいる 教えている人がいる。私のところで、 舞台を経験した人がいる 先生に出会えた人がいる 友人をつくった人がいる。 感動した人がいる。 何かを得た人がいる。 何かを気づいた人がいる。 何かに怒った人がいる。 何かに笑った人がいる。 何かに泣いた人がいる。それで充分。そんなものだ。ありがとう。

(90)【Last】

 ここには一握りだが、自分の歌を歌える人がいた歌おうとする人がいる人の絵をまねして、売っている人ばかりの世の中で、これは大変なことかもしれない私は彼らを誇る彼らとともにいることを幸せに思うその作品が真実である限りにおいて

(91)【メジャー論】

Q.直接、声で世の中に問わないのは、なぜですか。A.人は夢に生きるものです。大農園だとか大工場だとか、はたまたディズニーランドとか、誰かが夢みて、誰かが創り出してきた。あなたの夢は何ですか。一生かけてやりたいことは何ですか。 で、こういうことを自分の畑さえ耕していない人に言われても答えようがない。少なくとも、私自身のことなら、これでもメジャーすぎるし、自分の力不足を省みず、世の中に問いすぎていると思っている。この畑も広すぎて、充分に鍬が入っていない。なのに過大な評価を求めることは、真摯に求める人には、はったりになり、知名度は、若くしてそうなりたい人には、見違えやすい権威となる(それを逆手にビジネスにとる相変わらず“古い”やり方をとっているところもあるが。

 自分より、やれているのは、その人が自分よりやっているから、今日も自分よりやっているし、やっている日を続けるためにやってきたし、その人が自分の歳のときも自分よりやっていたし、やれていたから、だから、やっていく人は、やれるかどうかで悩む間もないのです)。そのために虚構を作ってまで真実をみさせるような二度手間を、私は望まないだけです。 真実から目をそむける人は戯れたがる、集を頼むから、それは少し小賢しい人間なら、好きにコントロールできる。しかしそれは、奴隷を欲し偽りの神になることを願うことに等しいでしょう。私は一人の人間でいたいし、何よりも自分自身の忠実な下僕でありたいと思う。 何事にも、時の流れ、時の利がある。動きたくなれば人は動く。世の中をリードするより、世の中が追いつくまで、随分、歩みをゆっくりしているつもりです。 新幹線の旅は、鈍行よりも豊かですか。なら、まず、あなたが越していきなさい。第一に、メジャーになって? なろうとしてなれるのでなく、結果としてそうなる人もいるというものではないでしょうか。

(92)【あり方、あり様】

 なぜ、声ができたのかといわれた。そもそもあたしゃ、できたとかできていないとか思っちゃいないからだと思う。歌い手なんかになるのに、やり方があるとは思わない。だって、やり方がわからないのに、なれている人もいるでしょ―。どうしてって思わない? 声も同じ。何をもってできているというのだろうか。 事実と現実をみて、“感じる”ことだけ―表に現われた現象としての歌(作品)と、その本質である表現と、表現の本質である想い、あり方。 歌い手も声のでる人も、あたしのなかにはいないの。 本や先生の教え通りにいくわけない……。だから、現実。それが現実。 そんなことをずっと言っているのに、まだそんなところで苦しんでる。 なぜ、10年も20年もトレーニングが続けられるかというと、そういう感覚になっているからで、そうあるからで、そうあれば、そうありたいように行動するでしょう。それが結果として、トレーニングというわけ。トレーニングじゃないから続くの。そしたら、そういう力が働くようになるわ。 あたしは、あなたのことを全く知らないから、とても正しくわかるわけ。

 あなたを知ったというのは、やり方でありマニュアルでしょう。あなたはすぐに知ってもらえるなんて思っているのだから……。自分をずいぶん限定して生きているんだわ。立派な社会人になれた? 今のあなたのわからないあなたが出てこないと、誰も魅きつけられないって。 発声や理論や方法をやるなってこと。だから、おかしくなる。なっているでしょう。人とこの空間を共有し、楽しい時間に変えたいって思っている? 当のあなたが拒んでいるじゃない。歌や声で認められたいって、そんなやり方でいいの? だから、こうなんだよ―。 開かれたかしら? あなたの心? そういうあなたが、あなたから離れないと、どんなやり方も、やり方だから、うまくいかないの。あり方が、とっても大事。でも、そうあれないから、トレーニングするの。わかった? わからない、そういうものなの。

(93)【願いはかなう】

 私、願ったんだ。神様、人生すべてをかけて、声を手に入れますって。そして、自分の体を実験台にした。声が弱かったから、なかなか変わっていかなかった。 何度、思ったことかね、神様なんていねえ、生涯掛けての負けかなって。でも、いいって。できるまで、やってみようって。 でもね、最後は、こうまで思った。ここまでやっていて、どうにもならないなら、人間の限界だから、人間には不可能ってことか。 でも、現実には、世界中に、すごい声の人はたくさんいたんだね。そういうテープ聞いては、自分は選ばれなかったのか、なんて思う日も、たくさんあったよ。

 そして、こう考えた。自分は不器用だから、人の10倍やって、ようやく人並みを超せるって。すると少しずつ、ほんとうに少しずつ変わってきたんだ。 そう、今から思うと、人間の限界に挑んで、世界のどんな人よりもやった。そのつもりだけど、前人未到の記録をつくったわけでもなく、声に恵まれている外国人なら、もっているくらいの声なんだから、もっと大きな気持ちでやりゃよかったんだよね。そういう声が出るようになるのが、あたりまえだって。

 私の声は、鍛えなきゃ、絶対にこうはならなかった。それを知っている。トレーニングの賜物。あの仲代達也さんも、若い頃、何回、声を壊したかわからないって言っていた。だから、声がよくならないって人には、それだけやっていないっていうしかない。今の人には、私の10分の1でもやったら、私以上になりそうなのに、それだけにとり組むのが難しいっていうのも、わかるんだよね。やれないじゃなくて、まだ本気でやっていない。 王貞治いわく、「うまくできないってことは、まだ努力が足らないことなんだ」 誰よりもやった人だけに言えることばだよね。つまり、「神は自ら助くるものを助く」、なんてすてきなことばでしょう。

(94)【唯一の理由】

 私は十代で、死ぬことを考えていたから、二十代で、人生をもてあましていた。そして、ほぼ、あらゆることをやり尽くしたが、運転、麻雀、酒、煙草、パチンコ、競馬、ギャンブル、いわゆるほかの人があたりまえに覚えた楽しみとは無縁の無頼漢だった。 最高のステージは、19歳と23歳。その世界がみえたのは19歳、限界を知ったのは23歳。そのため本気で世界に旅に出た。 ここにいる人が30歳くらいからやろうとしていることを、二十歳で終えた私は、もっと早くそれを終えてきた人に多く出会い、世界の幅を知った。もちろん世界の高さと深さは、未だよくわからない。それが、今生きている唯一の理由だと思う。

(95)【カウンセリング】

 Q―幸せになりたいから……。A―幸せは、足元深くにしかありません。まだ、他にあると思っているのですか。Q―他の人より歌が好きでなかった。A―他と比べるものでなく  あなたのなかで他のものより、  何か少しでもひかれたのなら、  それが大事でしょう。Q―ステージが恐い。A―自分が傷つくことを恐れては  傷ついた人の前で歌えません。Q―トレーニングがきつい。A―この苦しみは、自分に何を得させるための苦  しみなのでしょう。  自分の苦しみは、ぜいたくな苦しみです。Q―もう少しあとでがんばりたい。力がついてか  ら発表したい。A―以前、私はスポーツは年齢制限があり、  歌は一生などいっていたが  何にでも終わりがあるから、煮詰まる。  あと などない。  すべてのものは  今しかない。

[7]SIxth Class

(96)【成り立つ場のために】

特別講座の意図

 自分の創作力を応用してみて、自らの実力を客観的に確認する、それが合宿の目的である。創造活動において、音声を使う実践発表の場として、もっとも舞台に近い、その合宿をやめた。そのいきさつは、すでに述べた。V検では一人で完結すればよいが、合宿では人の力を使う力も問われる。ということは、大変なようでもあるが一人で一曲完結できる力はなくとも、1フレーズ、通用させられるなら、他の人と組み合わせて、もたせることができる。そこで成り立つということに対して、自分の本当の地力を知ることと、それをどう選択して出すかということがつきつけられる。 私は、歌や芝居も、人とともにやっていくものである以上、集団の場で経験を積むのは当然のことと思う。それが、もっとも、皆に欠けていることだからである。力がなくとも、まわりに認めさせる力の方が優先される。その構えがなくなった。

 そこで合宿の代わりに、歌唱に至る音声、表現、舞台の基本のチェックを個人別に応用において行ない、接点をつけてみることにした。つまり一つの声、せりふ、フレーズ、歌を、あらゆる面から指導してみることにした。そうでないと、昨年のようにオーディションで合格者が出なかったり、プロとしての最低レベルの可能性を求める合宿の再開が、不可能のように思われるからである。“歌を教えてみる”のである。 きっと、これはときたま、やる個人レッスン以上に好評であると思うし、これまで“?”だった多くの人には、とてもわかりやすいものになると思う。歌について、何十ヵ所もの指摘と直し方と、こうすべきだというやり方を伝えることこそ、きっと今、ここに来る多くの人が、レッスンに望むことらしいからである。それは、毎時間やっているのだが、気づけないなら、こうして10倍の時間を連続してかけて、拡大してみようというわけだ。

 歌唱指導は、必要悪だが、悪のまえに必要とせざるをえない状況になったともいえる。 ここ1、2年、体と心と音のうち、一つ二つを伴って動ける人をみるのは難しくなった。それとともに、以前から、うぬぼれ、自己陶酔、自己流の人は、確かにヴォーカルの特長でもあるから、少なからずいたが、多くは、レッスンのなかで正されてきた。だいたいは、正しに来たのだから、たくさん出ていると、しぜんとそうなったものだった。 しかし今は、音程やリズムが狂おうと、まったくキィの合わないところでも、何回も同じことばかりやる。あまりレッスンに出ないこともあり、それに気づいて正すことが、みられないまま何ヵ月も過ぎていく。 まわりはできていないのに自分はできていると思っているのか、まわりも自分もできているのに、なぜ進まないのだろうと思っているのだろうか。やっていることイコール、やれていること、やれるようになっていくこととは、全く違う。

 それは、今や、どの場でも20人に1人くらい、素直に歌っている人がいると、それで引き立ってしまうくらいである。 できる人は注意しなくても修正するし、できない人は注意しても修正できないからこういっても、どうしもようもない世界である。だから、できるところをやるようにとセットしているのがレッスンなのに、なおかつ自分勝手にやりたいようにやっているだけに思える。いったいそれをかたくなに疑わぬところにある、根拠となる感覚や考えや経験、自信?とは何なのだろうか。 のど自慢でカネ一つの人でさえそうだから、少しまわりよりもできた気、やった気になっている人、少し高い声や大きな声の出る人は、さらに始末が悪い。こうなると、まわりの、できていないことが、その人があたかもできているかのごとく、裏づけていくかのように、勘違いを助長する。 とはいえ、文章では伝わらないから、アポロシアター、日本ならブルーノートにでも行ってライブをみて来て欲しい。

 なんというかサッカーでいうと「俺はこう蹴りたいんです」とか「こうやったら、前にゴールに入ったんです」とかいう感じのままである。「20本シュートするから悪いところあったら指摘してください」とでも言いたいのかもしれない。でも、それは1本で充分わかることだし、少なくとも個性や個人差や志向のレベルの問題ではない。ましてトレーニングの方法論や、やり方に負うものではない。これでは、レッスンになりようがない。 それだけ、大きな錯覚、いや幻覚から目を覚まし、現実に向けるため、いったいどうやればよいのかというのを、このままでは直りそうもない人のためにも、特別講座としてみる。こういう機会に、積極的に臨んで欲しい。

 とにかく、ただ待つだけでは誰も上がってこないようだから。すべて、言ってから待つのも、一つの現実対応であると思うことにした。 研究所のレッスンに接点のついていない人、どこが悪いのかわからない人、わかっていてもできない人(というのは、本当はちっともわかっていないということだが)、転機を得たい人の参加を望みたい。一度、壊れてもらえば、よりよい修復も可能だからである(もちろん、すでに会報や本に言い尽くしているように、すぐれたものを知らずして判断はつかないし、すぐれたものを入れずして、すぐれたものは出せない)。

(97)【オリエンテーション(2000年の改革)】

 これからの心構えを話します。表面的にいろいろと複雑であっても、根本というのは全く、変わっていないのです。そこにどういう考え方があり、その延長上にそういうふうになってきたのかというのを説明します。 オリエンテーションでは、研究所のカリキュラムと連続性と関連性をつけました。 連続性というのは、今は何年もいる人もいます。 私が個人でやっていた頃は、個人レッスンが中心だったので、人数の面の限界もあり、2年が上限でした。要は、2年経ったら自分ひとりでできるところまでやるということでやっていました。

 今、2年経って更新する人が3分の1くらいいます。ということは、すでに4年制とか6年制ということも考えなくてはいけない状況があるということです。入ってくるときに4年でも6年でもやるという人もいます。また、2年であっても、時期により、実力や伸び方で、違ってきます。そういうことに関する連続性から考えるということです。 ただ、基本的な考え方としては、2年でできるところまではやって、それで新たな課題に対し、続けるべきです。4年、6年と、より厳しくなるように2年単位でしっかりと区切っていかないといけないと思います。2年で何かがわかったら、それでまた2年やるというように、何かそこで発見やステップアップがあればよいのです。 もう一つの関連性というのは、基本レッスンに音楽的な要素がのっています。また、リズムや音感・音程、読譜などは、Wで補っています。ここで、声や歌を始めたという人もいるからです。

 かつては、20歳以下というのは入れませんでした。今は15歳からきています。30代はあたりまえ、40代の人も珍しいわけではありません。その辺も、大きく変わってきています。そこでレッスンの相互の関連性をもっとつけるように考えた方がよいということです。 私の考え方では、テキストを配る。本であれ、音源であれ材料は全て渡して、見せてしまうところからスタートします。それを全部やらなくても、よいのですが、ともあれ自分が使えるようにしていくのが、レッスンということです。

 レッスンの考え方も、あるものだけをトレーナーが全て見せていくということです。ここは私の本を読んで、遠方から来る人も多く、そのため、月に1、2回、出ている人と、専門学校のように毎日のように通っている人がいます。それもあってレッスンは、一回完結制で行わざるをえず、クラス分けがあっても連続性や関連性がつけにくかったのです。しかし、だからこそ、自分で考え、盗る力がつくわけです。その人に得る力があれば、青天井、そういう場にしたかったのです。

 カルチャー教室というのは逆の方法をとっています。各ステップをおいて、1ステップが終わったら、次には2ステップに進むという方法です。初心者や一般の人が、たしなむにはその方がわかりやすいし、何よりも、先生がやりやすいのです。 ここの場合は、声帯のこととかを黒板に書いて説明する時間があるのであれば、そういう間によい音楽を聴いて、体に入れる方の時間を大切にしています。声帯などはリアルに見られるビデオで見た方がよい。ここで先生が前に立ってやらなくて済むことは、他に任せてしまおうということです。ここでしかやれないものにこそ、時間をさくべきだと思うからです。 だからWのなかった時期には、音感、リズム感をやりたい人は、自分でやるか、カラオケ教室やスクールでやって、こちらにきてくださいといっていたときもあるのです。

 汲みとる力があれば、私ほど、音感やリズム感についてレッスン中に高度に身につく方法を全てとっているトレーナーはいないはずです。 それでも、多くの人が目先の誰でもみえる効果を求め、みえないうちに自分を根本で上達させる源泉をくむことをしなくなってきたのです。 ともあれ、現実をみると、個別アドバイスも必要となってきています。 そこでトレーナーのレッスンの間での関連もつけています。 私のレッスンでは、講演会と同じく、音楽を聴かせて、フレーズをまわす音楽を聴くことを、自分で鑑賞して、譜面でのチェック、英語を直して、それでレッスンに臨んでもらったら、もう少し、レッスン内で聴く時間や歌をキャッチする時間を減らすことができると思います。しかし、それがよいことかどうかは難しいことです。

 2年制というので、専門学校みたいに始めに年払いで頂いて、好きなだけ使ってよいとやればよいのですが、ここにこられる方は、働いている方や学生さん、劇団の人や声優さんなど、他のところにも通っている人、それから遠方からこられる人がいますから、時間的、そして経済的負担を各人の裁量に委ね、抑えられるようにするためです。

 システムが複雑になってきたのは、入る人に足らないところが増え、補っていったからです。 ここは、コストをパンフレット制作や広告費などにもほとんどまわさず、皆さんに渡すもの、レッスンや素材を通じて全て、還元していこうとしています。会報やHP作成や、研究に、かなり出費しています。利用しないから割高に感じるのです。 オリエンには、連続してキャンセルした人は受けつけないことにしています。そういうときに入っても、2、3ヶ月でこなくなってしまうからです。 2、3ヶ月や、半年でやめると、お互いに損で、事務にも、先生方にも負担だけがかかってしまいます。何よりもその人自身に時間面、金銭面でもっと得られたのに、大きな無駄になる。だから2年で、ならして、しっかりと使ってもらいたいのです。 しかし、敷居を低くすると、レッスン以外にやることが増えてきます。

 他のスクールと料金の比較で入ってくる人も増える。電話で聞いて、わかった気になる人も、ここには不要です。スクール事業としてはそれもサービスですが、コストに跳ね返ってくるのです。 だから本当は昔みたいに、わけがわからないけれども入ってしまったら、そこではそうなっているのだからと入りきって浸ってみるしかないのが、一番よいのです。始めはわからなくとも理不尽でも騙されたとでも思っても、とにかくやるのです。そこで自分で何とかできない人は、所詮、どこにいっても通じません。 要は、カリキュラムとか、システムの問題ではないのです。そういうものに振り回されてしまうと、本当にやりたいことがお互いにできなくなってしまいます。 今回の改革は、伸び悩んでいる人に対して新しいアプローチをとっていかなくてはいけないと思ったからです。 たとえば、個人対応を多めにつけていく。もちろん、人間のなかで自分で何ができるかを知ることが大切です。

 音程でもリズムでも、基本的な注意は個別に受けた方がよいのですが、横からこうやれ、ああやれ、といわれていくと、全体の感覚もなく、自信もないまま、何かいわれたとおりにやっていたらよいというふうになってしまいがちです。そこが日本人の一番弱いところです。 プロでさえ、そのために、せっかくの技術が表現に結びつかないのです。最初から依存体質を植えつけてしまうからです。本来は全く逆のことをやっていかなくてはいけないのでしょう。 誰もこなくても、たった一人でも、ここは自分のためにあるというくらいに主体的にのぞまないとだめなのです。ところが、日本人というのは、少ないと、自分もやめた方がよいかなと思ってしまうのです。それをまず断ち切らなくていけないです。 何ごとも自分の実感が大切です。声のこととか、やっていく歌のこと、音楽に対して得ていかなくてはいけないことのために、1年くらい捨てても惜しくはないのです。

 皆さんの中にはいろいろと入っているのですが、本当に入っていたら出てくるはずです。出てこないとしたら、それがしっかりと結びついていないということです。その部分はトレーニングでできます。 しかし、それが入っていない場合は、入れるしかないのです。また、いらないもの、よけいな者を抱えているのを、思い切って捨てなければなりません。 プロでやっている人たちとミーティングをしても、彼らはやはり、いろいろなことを知っていて、たくさんしゃべれる。それを自分は何もわからないとなったときに、別にわからなくてもよいのですが、知っている人の方がいろんな応用ができるのは、あたりまえなのでしょう。

 ここで自分がやりたいと思った人、プロで活動してきた人ほど、ここに入るというところで、一回そこまでやってきたことを捨てて、それで新たに、大きく吸収できる器をつくって欲しいものです。 こういう歌は絶対に歌いたくないというものも反面教師にしながら、まずその器をできるだけ広げていくということです。要は、限界を一回なくしてしまうというのが大切です。そこには、何よりも、生き方、考え方、価値観が問われます。磨くべきものは、そちらの方なのです。

 限界というのはどこかできます。声にも、歌にもきます。やれることも、やれないことも自分でわかってきます。 やりたいこと、やりたくないことで批判するのではなく、まず、たった一つでよいから、他の人にはできないけど、自分ならできるという部分を作っていかないといけません。それなのに、最近の最大の問題は、自分がいかにできていないかを全くわかっていない、実感できていないことです。 この辺のことは、本当は話すまでもなく基本的なことなのですが、なかなか自分で自分のことがわからないのです。人間、自分の本当にやりたいことはなかなかわからないものです。

 まして表現したいことというのは、わからないのです。表現したいことがあると思ってきていても、そのことが本当に表現したかったのかどうかもわからなくなるのです。これは仕方ないのです。最後までわからないのです。わかったときにはもうやる必要はないのです。 よく私は、結果オーライといっていますが、表現したときにわかるのです。やれていたら、すべてはよいのです。 だから出し続けるしかないのです。レッスンも出続け、トレーニングもやり続けるのです。それをやり続けたときに何が出てくるかを楽しみましょう。そのときに出てきたものがよければ、それが自分に入っているものだと思って認めていくことです。

 ですから、日本の学校教育やスクールのように知識本位で得ていく世界とはずいぶん違います。頭で考えていたら、本当に能力の3%で終わってしまう世界です。今日は一番頭を使わなくてはいけない日かもしれません。それは、明日から感覚と体を使うためです。 ここでやるのはレッスンから、トレーニングに戻しているというふうにみてもらえばよいと思います。基本というのは、どの時代であれ、どの国であれ、変わらず、通じるものです。空間と時間を超えていくところにあるものです。応用というのは、その時代その時代で、自分の足元がついているところをベースにしながら、人に伝えていったり、動かしていくことです。両方をみていかなくてはいけません。 こうやって、皆さんのことを考えて、改革することは、とてもよくないことはわかっています。全てはレッスンのなかでの改革にとどめるべきで、本当は皆さんに対してより、アートに対し、忠実でなくてはいけないからです。

 しかし、レッスンに出ない人には、出るようにしないと、そのことさえ伝わりません。うまくいかないのも違うのも、レッスンやカリキュラム、システムの問題でなく、あなたの問題なのです。 迷ったら、出続ける勇気をもってください。足を止めるから、迷うのです。すぐれた人たちのアート、ことば、生き方にふれ、自ら、そういう人にたった一人でもよいから、認められるようになるべき毎日を精進してください。まず、ここで、あなたの表現をぶつけてください。

(98)【“天使にもっとも近い悪魔たち”】

 プレBV座 Vol.25 観覧 愛が足りない、心が足りない。こう思えるということは、愛や心の領域に触れつつあるからだろう。難しかったのは、自業自得、音楽がステージを支えて初めて、本当の問題が突きつけられる。世の中には、悪ぶる奴、正義感ぶる奴ばかりだけど、本当に人の心を慰めてくれるのは、悪魔の顔したものばかり、悪魔に必要な天使の心、天使に必要な悪魔の愛、わかっている輩には“ただ進め”、わからない輩には“ただ励め”。 悪魔が耳もとでささやく。その仮面をはぎな、醜い顔と、さもしい心をみせな、すべて脱ぎ去ったとき、人は天使に祝福される。それが本当の顔だよ、それが真実の心だよ。誰もが入口でためらい、ひきかえすところをただ進んだもの、勇気をもちリスクを抱えてただ歩んだものだけが、天国に近づける。 歌には愛。声には心。

(99)【ヴォイス塾の行方?(1)】

 私は、サークル活動をするために、そういうレベル設定のもと、ヴォイス塾をつくったわけではない。 音楽的感性は磨かれず、声も発声そのものも音楽性も、一向に変わらぬとしたら、耳年増になり、どこかの知識や依存心が強くなり、仲間内で能書きたれるほど、年だけとっただけではないか。 しかるに、主体性、創意、集中力を欠くこの“集団”では、どこかの学校と同じ、コミュニケーション本位、一人ひとりは、何らそこに可能性を見出せぬものとなりつつある。打ても、ひびかぬ。誰かを頼らねば何もやれぬ。ということは、頼んでもやれない。そのまま、誰からも頼まれることもなくなろう。

 何かをめざしているつもりの人には悪いが、あと3年、5年もたって、いくらなんでもそれなりの年齢になったら、わかるのではないか。 年々、鈍くなり、気迫せまってくるような人は、稀有。何がその温床となっているのだろう。 入って、最初の2,3ヵ月の人に負けているということは、多くの人が入所したときの自分に負けているということ。入所したときにやっていたことさえ、やっていないのだから。そうして過ごした先輩をみれば、自分の行く末もわかる、というものだろうに。

(100)【ヴォイス塾の行方?(2)】

○ヴォイス塾の現状分析

 ヴォイス塾から、ピシッとした感じがなくなって久しい。 サークルのような雰囲気で、いまや外国どころか日本の大したことのない養成所の、それにも劣りかねない。 最低でも、月に1度は、生の舞台を観てきて欲しい。 多くの人は、誰かのように誰かの歌を歌いたいだけではないか。それなら、巷の音楽スクールやゴスペルコーラスにでも行った方が本当に楽しいし得るものも大きいはずだ。 もう一度、「自分の歌を歌おう」を読んで欲しい。いや、その前に会報や私の日誌を日課にして欲しい。なぜ、そういうものを出しているのか、少し考えて欲しい。 久々にニューヨークへ行く。ほんとは、ニュージーランドに招かれているのだが、無理を言って、無理に寄るハメになった。私も、そうやって、鈍らぬ努力をしている。 やれない奴はやれない思考で、やれる奴はやれる思考をもっている。これがこの研究所で悪い意味で確認したことである。 どこでも、這いつくばってでも、やっていく奴だけが、自分の世界を創る。

(101)【手本を求めよう】

 なぜ、二十歳なのに二十五歳なのに三十歳なのに、何の焦りもないんだろう。世の中に出ていった人は、本当に徹底した勉強をしたのに(たとえ日本ではそれが即、現場、であったとしても)。1日1,2時間もやっていない人が、10時間以上ずっと何年もやっている人に、かないっこないのはあたりまえ。そのための環境をつくることの大切さを、どれだけ言ってきただろう。 幸い研究所と学校の講座と企業の研修以外、今、私は私以上にやれている人としかつきあいがない。それが、今の私も将来の私も保証する。なぜ、自分の力を伸ばそうと最大の努力をしないのだろう。 たった一つのことをやるには、多くの人が関わる。そういう配慮やマナーさえ、高校生なみになっているのではないか。他のプロやプロになろうとしているところであたりまえに感じるピーンと張り詰めた空気がない。集中、テンションのためには、私の本によると、ここは舞台にとってよくないところとなる。

 外国でも劇団でもプロとして、いやプロになろうとして日夜努力している人を見て欲しい。今の研究所に手本はないから、ブルーノートでもライブハウスでもよい。あるいは、流通、飲食店チェーンで客商売をやっている人でもよい。 と、続けてぐちを述べても、期待を抱いている人に悪いし、そうでない多くの人は、私がどうやろうと考えようと、それぞれには関係なさそうだから、以下は関係ある人だけ読んでくれたらよい。

(102)【ヴォイス塾の目的】

 ヴォイス塾は、日本人の入っていないこと、足らないこと、補うべきことの感覚と体づくりのために設けた。それがトレーニングできる材料と基準の場として、V検もレッスンもおいている。仮に他人のようにうまくならなくとも、それに気づき、トレーニングにより少しずつ感覚や体が内から、決して外からではない☆、正されるよう、厳選した音源やフレーズを使っている。わけのわからぬ音、歌、表現からトータルとして音感、リズム、音声、タイミングを得て、自分のデッサンができるように下地を得ていく。それには、反復しかない。 一回のレッスンで、何がわかろうか。わからない音を個別に(ピッチや長さといった音符でなく)あてるのでなく、すべての流れで認識し、聴き込む。深く。そして同時に、否応なしに自分のフレーズとして切り出さざるをえない厳しい状況下で声に出し、フィードバックする。直接、優れたアーティストのオリジナルのフレーズで、正していく。そこで音の世界をみていき、感性と音楽観を養う。他人の発声、表現、舞台をも比較し、反面教師とする。そのなかで、勉強の仕方を身につけていく。

 私が媒介し一流のプロの感覚を余すことなく(といっても、そのわずか一部だが)伝えるようにしている。 それなのに、まるで教習所とレースゲームしかやっていないで、レーサーの道を歩んでいるつもりの人がいる。目覚めて現実を直視したら、やれていないとわかる。そして、やめる。実感と充実感がないのだろう。そもそも人前に体一つで価値として出せるものが、人並みの感覚でやれると考える方がおかしい。 一つのレッスンは、瞬間であり、永遠、そこで掴まなければ、次はないくらい貴重なものだ。それでも、いくつものレッスンからたった一つ、つかめるかどうかであろう。自分が自分でない、それゆえ、自分のオリジナルであって、多くの人にも通じる普遍性をも勝ちうる。それを垣間見れるのは、本当にわずかな瞬間である。

(103)【ヴォイス塾の使い方】

 私は、二十代で聴く力と音声として使える声を、三十代で話す力と書く力を得た。歌というのは、いまだにわからない。わからないことかが多くなることが、学ぶということだと思っている。ただ、歌うということは、リスクを考えず行動することだと思っている。ここのように他人のリスクをしょいこめなければ、研究所を閉じるしかないと思う。理想と感謝で続けていることがよくなければ、現実としてゼロに戻るまでである。 私自身、十五年前、十年前、五年前に戻って今一度、ここの在り方を直視してみたい。

 それとともに、改革案を示したい。とりくみ方と、ヴォイス塾のカリキュラムを合わせて欲しい。1.1回1回のレッスンをきちんと復習し、トレーニングすること(アテンダンス、R鑑賞レポート、会報投稿)2.1ヵ月の学習を復習し、翌月の指針を決める(月末報告、会報、バックナンバー、HP、申請表)3.世の中での接点や時代、市場をつかむ。発表の経験を積む(V検、レポート、英日記、Ei塾)4.個別の問題、弱点補強、技術、基礎を高める(VP、WP、カウンセリング、pf、特別、R(初))5.先達、一流、プロ、アーティストに学ぶ(R、R特別) 環境が人を育てる。これは、環境を変えることはもとより、同じ環境でも自分の姿勢いかんで大きく変わる。捉え方によって、天国にも地獄にも不毛の地にもなる。さらに、志を立てたその気持ちを、どれだけ維持できるか、その覚悟、一度しかない人生で、常に何を優先するか、毎日が、一つひとつが岐路なのである。それが時とともに褪せて、他の人と同じになっていくものであり、それがその人の才能の限りなのである。 人の世で努力しても報いられぬものはいくらでもあるし、そのことで人生の価値が変わるわけではない。自分の才能を見切るのも、大切なことである。

(104)【V検評】

 本や講演会で述べたこと、それがここを卒業するときにできるか。半オクターブの4フレーズでわからせること。このV検では一人もいなかったし、そこに出ていない人にも一人もいるとは見えない。イメージや構成も、トレーナーの見本をみてできるくらいなら、CDでもビデオでも学んでできるようになっている。そのギャップを埋める、まねするのでなく、感じ盗り、創ることで、抜ける。 イメージづくりのために、レッスン、会報、視聴VTR、現実のために自分のステージとVTR、アテンダンス、月末報告、V検申請票を見返す。 レッスンでは、一声とフレーズ、トレーニングでは感覚と体、息、声づくり、その結びつき、つまり、オリジナルの声とオリジナルのフレーズづくりを、と言っている1.曲が全く入っていない。大きく入っていない。

少なくとも昔、私のレッスンに出ていた人は、2年間で40曲のカンツォーネ、シャンソンほかは、きちんと暗誦できるくらいには入っていた。応用できるための基本パターンとその感覚が、あまりにもない。  どれだけくり返し聞いているだろうか。  自分でノートをとって分析しているだろうか。2.声が大きくつかめていない。たった1フレーズを、たった一言を、パッとつかんで、しっかりした声で前に出せていない。声が大きく動かせていない。そのイメージをもっていない。「ハイ」の基本練習が、できていない。3.発声のポジションが、日本語の浅いところから変わっていない。 とにかく初心に戻ってレッスンに食いつき、会報や本ももう一度、熟読したらどうだろうか。

(105)【つぶす、つぶれる?】(研究所)

 私のことばが悪いのだが、研究所をつぶさないで欲しいなどと、最近、投書をいただいた。 研究所としては、ヴォイス塾の募集をやめたというだけで、何ら変わりはない。あるとしたら、すべては研究生の活用度においてである。人数が多いことや設備があることを、はた目には気にするものなのだろうが、人数が減ろうと、設備がなかろうと、本筋とは関係ない。というか、逆のような気がする。場は一人の人間が生きていれば、どうでもできる。形にとらわれる心の方が悲しい。300人の居候よりも、1人の研究生がいれば、それでよい。

 研究所で研究がきちんとなされていないなら、その名は、はずした方がよいと考えることもある。とはいえ、会報というのも研究結果の所産ともいえる。研究所外や後世に、その結果を遺すためという観点では、研究所といってもよいのではないかと思う。ここをやめたあとも、100名以上の方が会報を読んでくださっている。 まあ、人生、あなたの今日の小さな判断と行動の積み重ねで築かれていく。人生を切り拓くのも邪魔するのも、自分の感情しだいである。

(106)【やるべきこと】(合宿アンケートのメールへの返答:合宿に代えて)

―これは、かつての合宿でのアンケートにつけられた、参加者の手紙への返答として、その当時、書いたまま、反省会で口答で伝えたので、使わなかったものです。今読むと、大切なことが述べられていたので、公開します。また、いつか合宿がやれる日がくるとよいですね― いつもやるべきことは、2つあります。内容づくりと実演です。そして何事も常に時間や空間という制約があります。「貴班のプロセスは、全く作品のレベルになく、私の知る限り、一刻も早く内容づくりよりも実演の練習による内容固めに入らなくては間に合わない状況に思えました。貴兄が手紙で語った行動は、まして私のコメントに納得とはいえ、そこまで当事者が傍観している態度は、せっかくの機会を半分、無駄にしたことになります。

 自己表現のためにこそ、私情を切ることは、初歩的なルールです。ただそれも、その人の考え、行動として、自由です。初めての合宿体験から、気づいてもらえばよいことと思います。 参加者は、常に優先度を問われます。無駄な試みも許されるときと、そうでないときがあります。無駄が明らかなのに試すのは、時間だけでなくプロセスの間違いですから、カットせざるを得ません。 それは合宿で、ではなく、日常、生きているなかでやっておくべきことです。私自身の考えでは、あれ以上の内容づくりは、個々の能力的に不可能な状況だったように思われます。

 私がみたときにも、何ら作品も演じる力もなく、時間が過ぎていました。これは、トレーナーの方針の差ではありません。内容そのものは、トレーナーであろうが班長であろうが、誰でもよいから、本質を捉えられる人間がやればよい。大切なのは、作品へ仕上げるプロセスに入って内容を創ることです。 創るのは、声や体で示していくのであり、頭やことばでは何ら進みません。示されたいくつかの核があってはじめて、トレーナーも距離をおけるのです。」「最近の傾向は、ほぼ全般に自分の能力への過信と客観的判断力のなさ、それを含めて甘えです。 これは、合宿の課題のレベルアップ、ひいては本人の上達を妨げている要因です。それゆえ、初心者中心に合わせたあれだけゆとりのあるスケジュールにしたのですが(プロなら、トータル3時間で仕上げるレベルでの問題です)。 夜のトレーニングをはじめ、私も合宿で、はじめて花火など他班の人との交流時間もなくなり、トレーナーとともに手助けせざるを得ない状況にまでなっていたのです。

 そのレベルは、あそこで言ったとおり、一般の人並みから何一つ秀でていなかったからです。町内の人とやれることを一所懸命、合意を得ながらやってみるだけの機会提供は、私の思う合宿のめざすものと根本的に異なります。 つまり、私たちも、他班にさくべき時間を全てとられるくらい、大変な状況だったことは、気づいて欲しいのです。それは、仕事として責任としてというなら、私たちの義務なのですが、私たちがそうしないで済めば、その方がよいのに、そうせざるを得なかったのが、なぜなのかを省みて欲しいのです。」「創作というのは、話し合えばよいものが出てくるのではないのです。多くの場合、その結果、救いようもなく、悪くなります。よいものを出すためには、動いて決めていくしかないのです。すぐれた判断力で切りとるしかないのです。結果的に、そうだったことは、わかったでしょう。 私には、今回はすでにあのおじさんの一声しか心に残っていません。それも、年内に消えるでしょう。昨年までの10回は、それぞれにいくつかの声、歌が今もありありと浮かびます。結局、どこかの中学生レベルのお遊戯になりかねなかった合宿だった、そこでもっとどうすべきだったのか、そういう客観的分析を徹底的にしてこそ、次回があるのです。」

【一日一言集(2002.2〜2005.3)】

福島英のひとことアドバイス

(1)全力を尽くそうよ、また一年たって思わないように。情報に振り回されるな、自分のことをしっかりやろう。直観力を磨こう。勘のないうちは勝負できないもの、勘を磨こう。舞台からものごとをみよう。少しの差に3年はかかる。差が見えるのに5年、差がつくのに10年。少しのすぐれたところに大いに学ぼう。夢みる力こそ、支える力だ。誰だって忙しい、大変だし、苦労している。だから何?あたりまえのことじゃん。人の前に立ちたきゃ、それだけのことを毎日、自分に課さなきゃね。弱音は吐いてもいいから、行動をしよう。疲れたら休め、休んだら歩め。でも、本当に疲れるまでは休むな。休むから疲れる。本屋を師としよう。ビデオ屋を友としよう。CD屋を恋人としよう。やっている奴に学べ、やらない奴に学べ。あたりまえのことを、あたりまえにやろう。あたりまえのことを、あたりまえにはできない。頼るべきは自分、やる力をもて。そして頼られてこそ、やれる力がつく。ときにゆっくりと視野を広くしよう。パッション、アウトプットのために、インプットする。映画に人生を学ぼうよ。痛みも苦しみも涙の味も、残らず味わおう。静けさに音楽は宿る。せめて、このときだけは、心のなかを平穏にしなさい。心の声を聞こう。どう、ありたいの、どう、したいの。悪口は言うな、信じるな、人に流すな。君の人生が そうなりたくなければ。弱くあれ、そしたら強くなれる。強がるから、弱さに負けるんだよ。異なる見方をし、違う行動をしよう。いつも、これから。どこでも、今から。気難しい人を離すな、気安い人に甘えるな。何を見てる、どう見てる。でも本当に、どう観えるか。うまくいっているなら、それでよい。いっていないなら、それもよし。

(2)立ち止まり、悩み、そしてまた前に進もう。自分の少し高まるところを、高まると思える人を失うな。すべてを欲すると、何をも失う。 一つを極めればすべてが入る。うまくいかなきゃ、自分か、自分の考え方か、自分の行動が悪い。人の心をつかんだら、幸せだよね。目のまえの一人から、すべては始まる。相手じゃなくて、相手との関係なんだ。お金も大切、時間も大切、あなたも大切。つまづくのは注意信号、転んだら赤信号、次は。旅は、いつでも心が自在なら行けるもの。海も空も、地球も宇宙も、あなたのなかにある。そっとささやいてみよう、あなたの歌をあなたの声で。二歩歩いて、一歩さがる。夢みたら、現実についている二本の足を動かすことから。空は、果てしないようだけど、鳥は自由なようだけど、そうみえるだけ。イメージして、創造しているかい。人生の目的は、先でなく今にある。今日すべきことを明日してもよい。でも、昨日すべきことなら、今してしまおう。やったら、みる。みたら、やることを考える。孤独を知らずして、人の情けもわからない。やれた人は、その分、何倍つらい思いをしているから、やれた。やれるとこまでやったあとは、一息がうまい。人間、何でもできるってことを、人間に学ぶこと。君のみているものがみえぬ人がいるように、君もみえていないことがあるんだよ。安易に信じてから疑うくらいなら、徹底して疑い、そして絶対的に信じよ。一所懸命が楽しい。楽しもう。バカな一途さ。やったら、みえる。みえたら、さらにやれる。

(3)考え、行動し、振り返ろう。何かが決まるまでやってみよ。続けよう。チャンスにはのってみよう。すべて、出てみよう。孤独が自分を育てる。イマジネーションは、無限だ。誰と何が違うか、まだ同じじゃないか。誰でもできることじゃないことを、めざそう。天を仰いで、地を歩む。のぼるほど高くなる天かな、ありがたや。予習、復習、実行。紙一枚一枚の積み重ねで、厚くなる。そしるな、ねたむな、うらやむな。吐いたことばは、はねかえる。表現を恐れるな。出せないことを、恐れよ。人は人、自分は自分。今日は、今日。いつかは、晴れる。やれないことが、やれるようになる。いつも足元から。今、一歩、もう一歩、あと一歩。もっとやってるやつがいる。世界は広い。今もやってるやつがいる。力をつけてこそ、楽しい、人生。苦しいって、楽しい、我が身。生きるって、楽しい、人間。何でもあれば、あったでよい。雨も雪も嵐も、あってこそ。いつまでも、こうじゃないさ。夢みて、もっと夢みよう。正しいだけが、正しいんじゃない。すべては、自分しだい。他人のせいにするな。あと何年、生きるんだい、あなたとして。あと、どうして生きるんだい、どこまで。

(4)今、生きるって、どういうこと。ときには、旅に出よう。映画で、泣いてみよう。植物や木に、話しかけてみよう。夜空をみてみよう。川の流れに、思いをはせよう。夕日を見に行こう。春は春らしく、夏は夏らしく過ごしてみる。依存心が強まることで、成長・上達は止まる。自分の足もとをみるしかないのに、人の顔ばかりみていないか。最初から器用だった人に、あなたの不器用は直せない。どうしてみんな同じ顔、同じ声になりたくなるのだろう。人と違っているから間違え?それが間違えだよ。気にしすぎるな。人はそんなに、あなたを見てくれていないよ。弱いからこそ強くなれる。強くあれる人ほど、深く傷ついてきたのだから。あなたはあなたでよいじゃないか。ぼくはぼく、あたしもあたしだもの。ぐちはこぼしてもいいけど、こぼしている自分が嫌なら、次の日からは、やめよう。あなたに悪口言う人は、あなたの悪口も言っている。そういう付き合いは、最低の人生をもたらす。気づかないうちに、なりたくない自分になるものだから、いつも抵抗していなきゃ。流されていると楽だから、気づかなくなる。今このときもやっている奴がいる。そいつをライバルにしよう。上をみなくても、前をみていたら、すべてみえてくるんだ。うしろをみるのも大切だ。それは、前に進むために大切だ。じっと止まってみるのも大切だ。それは、前に進むために大切だ。

(5)よくも悪くも、語られてこそ、あなたがあなたなのだから。他人のことを語ってばかりの人になるな。自分のことを語れなくなるから。自分の人生を語れるだけの経験、体験をしよう。大人になれば、年齢は、ほんとうに関係ないもの。考え方と行動と学び方が、人生を決める。欲はもっと大きくもつとよい。大きくもつからこそ、やれることが限られてくる。限られたなかで精一杯、やるのが、生きること。いつも明日はないと思え。今日を本当に生きたら、明日はいらない。

(6)いつも昨日はないものと思え。今日を生きたら昨日が残る。今を生きたら、将来がくる。今を生きたら、過去が残る。夢みる能力が、才能だ。夢み続ける能力が、努力だ。夢をあきらめたら、目がさめる。さめた目では、夢は見られない。すべての意味は、自分で見出すものだ。まだ、誰かみたいになろうとしていない?足元をみなくては、進んでいても変われない。一人の時間を大切にしよう。自分の人生を守ろう。あなたのようにして、どれだけの人が間違っていっただろう。どうして自分は違うといえる。その根拠から、つくろう。どうして自分だけは違うの? 同じことしかできないのに。1、2年のつきあいなど、そで触れる縁のようなもの。人の名で自分を価値づける人は、やがて去りゆく。自分の力でやることを忘れるな。誰とつき合えるかで、すべては決まる。群れるな、さわぐな、しゃべるな。沈黙が必要だ。死者から学べ、歴史から学べ。行間を読め、音間を聞け。予知せよ、そして期待させよ。太陽にあたりすぎるな。月夜に冷やしすぎるな。疲れは、ぶっとばして、体の声を聞け。伝説を読め、偉人に学べ。そして、心の声を聞け。時計をみるな、時間を感じよ。ここは、私の聖域だ。決して、譲れないものだ。戦いに生き、勝つために何が必要か。いつも、すべてはここから始まる。今から、自分から。ここは、私の宇宙だ。時間も場も、すでに与えられている。すべては、どこまでまわりがみれるか、先がみえるか。

(7)優先すべきことは、何だ。今日、今年、あなたの人生で。明日、死すとも可なり、で今日を生き抜く。信念を貫く、それはどれほどのものか。歓迎したら、歓迎される。でも、それだけ。オープンマインドとは違う。誰でも同じだ。でも、違うだろ。甘えは人のためにも、自分のためにもならない。どこでも同じだ。でも、自分で変えなきゃ、居場所はできない。誰に祈る、神に、いや自分に。神に歓ばれるまで、やったのか。みえないところをみる力が、大切だ。人と違うことに専心しよう。人のやる通りにやるのでは、追いつけない。悪縁は、あなたの将来を無にする。でも、気づく人は、まれだ。気休め、心休め、安易な憩いは、老けさせる。妖しさ、色気、そこに何がある。あるものすべて使って、そこから、自覚から。やることすべてやって、そのときの、自覚から。いつも、もっとやれると思っていないか。理解されるまで、やるだけ、やれるまで、力をつけるまで。他人より、でなく、自分より、だろ。真の勝利とは何かを、問おう。イメージとことばを混同するな。正しいものは、ない。正しいと思うだけだ。だけど真実は、みえないところにある。自覚なくして、変革はない。人生も変わらない。憎悪にも暴力にも、屈しない信念をもとう。夢をくって、現実に出すこと。日々の行動だけが、すべてを変える。過去や先人への感謝を忘れるな。悪い情報を追いかけ、自分を腐らせるひがみ根性を捨てよう。ものごとも人も、よいこと、よい兆候、よい面をみよう。もまれないと磨かれない。

(8)つらく苦しいのは、未熟だから。見返り、交換条件を求めなさんな。人に期待しなきゃ、不満もなくなる。強さを利用するな。勝たずとも、立てる、こだわる。美学をもち、美意識を磨こう。強くあればこそ、弱きを助けられる。一体感が悩みも迷いも打ち消す。素直でないと、入れない。一流や存在感のあるものは、癒さない。疲れたい気持ちが、癒しを求めるんだよ。一時逃ればかりでは、何もつくれない、壊せない、残せない。偉い人のまわりにいても、偉いわけじゃない。年月はキャリアである。続かない人よりは、でも。どこまで深めるか。すべての極意はそこにある。なぜ、事実を確かめようとしないのか。なぜ、本質をみないのか。なぜ、うまくいかない自分を信じられるのか。なぜ、いつも同じことをくり返しているのか。なぜ、そんなことしか、口に出せないのか。迷ったままでも、全力ですすもう。答えを与えてくれる人には、用心せよ。正しいことなど、ありゃしない。なのに……。感動もしないのに、どうしてそうできるの。顔みりゃ、声聞けば、すべてわかる。浅いか深いかわからないと、おぼれる。深いのを浅くしかみない人を、頼るな。命短し、恋せよ、男児。ほんとに。命重し。それがわかる危険なら、恐れるな。命ある限り、命を感じよう、命を与えよう。あなたが生みたいのは何? どんな作品? 

(9)あなたの一所懸命でさえ、そうみえるのかも。何もわかってないのに、やらないのは、わからないことがわからないから。芸術にゃ、宗教も、哲学も、政治も必要。その薄っぺらい顔、浅い声をみよ。空よりも広い宇宙は、みえないけど聞こえるはず。宇宙はいつも、あなたのなかにあるのに。すべてはまわるのでなく、らせん、つまり戻らず、さまよう。やりたいようにやるために、待たせておく。待たせたら、それだけのものは、返してあげよ。一人でやるために、人の助けがいる。恩知らずして、道は開けない。学んで固くなった頭は、ぶち割るしかない。まねている人をまねたがるほど、まねしたいのか。本気になれない。それが最大の問題だ。人とともに、チャンスも将来も去りゆく。10年先は、みられなくとも、みなくては、そうなれない。人のためにとやっているのは、たちが悪い。やらない理由探しの一生で、いいの?憎しみは、愛より発する。ライバルをもつこと。外見も中身の反映。どちらかでやれよ。どんな経験からも学べる人となれ。一心不乱にやっている、それが前提。いつも、もうひとふんばり。故郷をなくした強さ、なくした弱さ。心にもて、故郷を。あなたの故郷は、どこだろう。バカンスは心を空っぽに。しがみつく、こだわる、そして生きる。終わったことで始めよう。近く大きくみえるものを、遠くからみよう。遠くから小さくみえるのを、近くで大きくみよう。過ぎていったのは、何だろう。

(10)今が忍耐のしどころ、試されているとき。よい面からものごとをみよう。考えても仕方のないことを考えない。考えるべきことを考えよう。だから、だめなんじゃないか。でもいいんだ。でも。なるようにしかならないこともある。でももう一歩、つっこんでみよう。でももう少し、待ってみよう。でも今一度、信じてみよう。夢みる力を育てよう。大切なものを大切にしよう。ものごとは反対側からみよう。人は、よいところをみよう。人を決めつけないようにしよう。自分を決めつけないようにしよう。情報や話は疑ってかかること。誰にでも立場がある。誰でも得するように動いている。それは誰の得になるのかから、裏が読める。先のことから今を考えよう。みえない他の人のことから、目のまえの人のことを考えよう。やれないというだけ、やっていないじゃないか。今やっていることが、将来を決める。今日、充分に生きたか、闘ったか、傷ついたか。弱いからこそ、強くなれる。傷つく心のあることに、感謝しよう。言えないのは苦しいけど、言わないで耐えよう。美徳、ポリシー、信念をはずすな。その行動は、ごまかしだ、逃げだ。人に頼るな。自分に頼れ。それで無理なら、神様がいる。反省しよう、明日のため。自分のため。恩知らずは、大成しない。

(11)知ったのは、知り合えたのは、誰のおかげだろう。天に、人に、唾すると、自分に返ってくる。本音で言うな、本音で生きよ。迷ったら、書店へ行こう。落ち込んだら、山へ行こう。さびしいときは、海へ行こう。怒りの納まらないときは、病院のロビーへ行こう。悲しいときは、ジムへ行こう。行き詰まったら、散歩に行こう。不運が続いたら、寺へ参ろう。不安になったら、練習しよう。本当に疲れたら、軽井沢へ行こう。力尽きたら、素直に休もう。調子が悪いなら、おいしいものを食べよう。人恋しいときは、TUTAYAへ行こう。人間関係に行き詰まったら、日記をつけよう。何もしていないなら、画集をみよう。何もしたくなくなったら、水族館に行こう。何か一つやりとげたら、街に出てコーヒーを飲もう。何か一つ、うまくいかなければ、植物園に一人で行こう。生きる気力が失せたなら、動物園に行こう。大切な人を失ったなら、部屋の整理をしよう。悲しくて怒りで胸で張り裂けそうなら、フロ場のカビをおとそう。人の死を見送ったなら、砂時計をみよう。やる気のないときは、まん画を読もう。パワーがありあまっているなら、古典を読もう。自分の人生を考えたいなら、映画をみに行こう。将来が心配なら、歴史書をひもとこう。自分のことを知りたくなったら、SFか、ミステリーを。自分のエネルギーに点火したければ、漫才をみよう。落ち込んだときは、カニを食べよう。

(12)お金がなくなったら、ブックオフへ行こう。孤独で仕方ないときは、ネットカフェへ行こう。死にたくなったら、富士山を見に行こう。人生にメリハリがないと思えば、博物館へ行こう。自分の人生が雑だと思えば、久保田一竹美術館へ行こう。本当に何もかも、やになったら、オホーツク海の流氷をみに行こう。寒いのもめんどうなのも、やになったら、沖縄が待ってるぜ。本物はシンプル、偽物は複雑。あなたは……? 孤をみつめよ。独りに耐えよ。孤独の意味と意義を知ろう。朝に考え、昼動き、夜に考え、朝動く。病いは気から。元気は気の元。すべては気から。自分の心は、使うときには定めよ。つきあい悪き人を、友とせよ。厳しき人を、師とせよ。明るい人を、パートナーとせよ。媚びない人を、部下とせよ。他人は、あなたの鏡である。1日10分、読書と作文をしよう。裏を、行間を読もう。政治を知らずして、人も、ものも動かない。経済を知らずして、生計は、家は、納められない。数式を知らずして、美は語れない。語る必要のないのが、善である。真は、真であるほど、人は近寄らない。体の知、身体知は考えるより先に動く。自らの限界を悟って、はじめて人がわかる。いつまで机の上で線をひいているのだろう。本を捨て街に出て、本を持って街から帰ろう。

(13)安易にくっついたものは、安易に離れる。いや、くっつきさえもしていない。共に闘った者、闘い続けた者にしか、人生は分かてない。酒やたばこに逃げないことで、3倍は、よくなる。本や映画や人間を、糧としなさい。本屋や映画館で、人生は開けるものだ。部屋の模様がえをしよう。心のなかも一新しよう。窓を開けて、空気を入れ換えよう。暖気より、冷気を入れよう。胸一杯、腹一杯、よい空気をとり込もう。臭いものには、心のフタをしよう。鏡をみよう。にっこりほほえもう。顔をほぐそう、頬をゆるめよう。あごを動かそう、よく噛んで食べよう。歯を点検しよう。虫歯を治そう。風邪になるまえに、風邪薬を飲もう。よく眠ろう。眠れないときは体を使おう、頭を使おう。医者の言うことを聴こう。心の医者、精神の医者も。人が見るように見ないこと。おもてを見るな、裏を見よう。誰が動かしているかを見よう。自分が何を成したかを見よう。自戒せよ。もっとやっている人がいる。うぬぼれるな。これしかできないのか。苦しめ。そうでなくては、わからない。悲しめ。そうでなくては、伝わらない。怒れ。そうでなくては、強くなれない。心から悲しみ、苦しみ、怒れ。すべて終えたのち、ほほえもう。誰も助けてくれない。あてにするな。誰も見てくれない。それが常だ。つまり、まだまだやっていないということにすぎない。やれてない現実を直視せよ。足らない足らない、何もかも足らない。

(14)やっていない。やっている気になるな。やれていない。やっていないからだ。で、やりつくしたら、一服せよ。うまいぞ。七難八苦、挑んでいるか。何事も徹底せよ。やめることはやるな。体験学習は、体験にしかすぎない。沈むだけ沈む。底を蹴って上がるために。客観視せよ。自分より、人が正しい。自己を厳しく見つめよ。他人のことはどうでもよい。他人を軽んじる態度で、君は軽んじられている。自分のまわりの群れをみれば、自分の事もわかる。絶対に正しいことなど、どこにもない。パフォーマンスに興じるな。実態を見抜け。だましているようで、だまされているんだ、共犯者。続けるには、努力しかない。世に出たいのなら、出られるルールを学べ。あたりまえのことができていないことを知れ。1プラス1が、2ではだめだ、3にしよう。でも多くの人は、1プラス1を、1以下にしている。人と会うのは、会いたいからだ。会うのが勇気のいる人に会おう。よい人生をつくるためのステップアップは、自分からだ。少しでも高い自分、よい自分を大切にしよう。好き嫌いで動いているうちは、子供である。人の優れているところのみを学べばよい。そろそろ、けなして生きる人生とさよならしたら?あいつはあいつ、君は君なんだ。暖気より、冷気を入れよう。心地よく疲れよう。さよならだけが人生という人の、さみしさ。こんにちはだけが人生という人の、浅はかさ。いただきますだけが人生という人の、いやしさ。

(15)ごちそうさまだけが人生という人の、がめつさ。おはようだけが人生という人の、カラ元気さ。いらっしゃいませだけが人生という人の、もの腰の低さ。お疲れさまだけが人生という人の、やったぜ一杯。おやすみなさいだけが人生という人の、Zzz。ごめんなさいだけが人生という人の、めめしさ。あなたにとって、○○だけが人生っていえるものは、何だろう。心地よく疲れよう。1日10分が、1週間で60分だ。1日10分が、1ヵ月で300分、5時間だ。1日10分が、1年で60時間だ。1日10分が、10年で600時間だ。1日10分が、10年で1日8時間として75日分にもなる。1日10分も、10年で15冊かける。1時間に5枚原稿を書くと、1日40枚、10日で本2冊。毎日8時間は書けないけど、10分なら書ける。明確な目標を掲げよう。目標があってこそ、やる気がでる。やる気がでれば、心が動く、足が動く。足が動けば、行動が伴う。口に出して、目標を公言しよう。紙に書いて、目標を貼っておこう。いつも、同時に声を出し、心に念じよう。1日10分、余分にがんばろう。人より、たった一つ、余分にがんばろう。人より10分、早くとりかかろう。人より10分、遅く離れよう。人より、一つ余分に考えよう。人より、一つ余分に動こう。人より、一つ余分にきれいにしよう。人より、一つ余分に読もう。

(16)夢みるのはよいことだが、実現するには毎日、何をするかだ。道筋がみえたら、歩めばよい。歩まないと道はみえない。果たして道があるのだろうか。道などない。ただ、ユートピアがあるような、夢のような感じを追い求める。決してよい夢ばかりはみないものだ。求める。それだけが人生なのだろう。求められないときの苦しさに比べたら、求める苦しさなぞ。続けられないことの情けなさに比べたら、続ける苦しさなぞ。できないということができるということを、バックアップしている。できるということが、できないということを気づかせない。だから、師と書物を大切にしなくてはいけない。師とは、先に成しえているライバル。書とは、その痕跡。どのレベルに読み込むかが、その人の力となる。その力をつけるために、学ばなくてはいけない。学んで力をつけるのでなく、その力をつけることを学ぶこと。見えない世界を見ること。聞こえない世界を聞くこと。予感に形を与えることが、アートだ。風邪になるまえに、薬を飲もう。自分のことを自分が一番知っているのではない。他人に聞いて、自分のことを知ろう。一言かけないために、信用をなくす。誰に助けられて、生まれたのか。誰に助けられて、生きてきたのか。誰に助けられて、生きていけるのか。十年先の自分を、イメージしよう。五年先の自分を、絵にしてみよう。三年先の自分を、決めてみよう。一年先の自分を、書いてみよう。これまで何を成し、成しえたか、振り返ってみよう。これから何を成しえるのか、思いはせてみよう。二十年先の自分を、真剣に思い描いてみよう。やるまえに、やることをみることだ。やっているときに、やったことをみることだ。

(17)やったことをやらなければ、どうなったか考えてみよう。やらなかったことをやっていれば、どうなったか考えてみよう。運がよいというのが、才能の一つだ。人に恵まれるというのが、才能の一つだ。一つが悪いからと、すべて悪いというのは子供だ。一つがよいからと、すべてよいというのも子供だ。何事も、よい面と悪い面がある。何事も、よくも悪くもみれる。何人にも、よい面と悪い面がある。同じ人を憎む人もいれば、愛する人もいる。どんな人も、見方によって、よい人にも悪い人にも変わる。自分に得するように人をみられる人は、人に恵まれる。自分に損するように人をみる人は、人に恵まれない。どうなるかではない、どうするかだ。いつも、誰かにみられていると、意識しよう。いつも、誰かだったらどうするか、考えよう。いつも、自分だったらどうするか、考えよう。いつも、あの人ならどうしたか、考えてみよう。あの人のつもりになって、演じてみよう。あの人のつもりになって、話してみよう。あの人のつもりになって、食べてみよう。テレビの漫才のボケ役をやってみよう。テレビの漫才のツッコミ役をやってみよう。落語家のあとをついて、やってみよう。映画の主人公のせりふを、やってみよう。映画の主人公の身のこなしを、まねてみよう。映画の主人公のファッションを、研究しよう。

(18)プロの歌い手の振り付けを100、覚えよう。プロの歌い手のステージングを100、覚えよう。プロの歌い手のMCを100、覚えよう。プロの歌い手の曲のまえのスタイルをまねてみよう。プロの歌い手の曲の出だしをまねてみよう。プロの歌い手の曲のサビまえをまねてみよう。プロの歌い手の曲のサビをまねてみよう。プロの歌い手の曲の間奏のときをまねてみよう。プロの歌い手の曲のエンディングをまねてみよう。プロの歌い手の曲が終わったあとをまねてみよう。ショートコントを覚えてやってみよう。正座して、短い噺をやってみよう。ラップのコピーをしてみよう。ニューミュージックのコピーをしてみよう。フォークのコピーをしてみよう。演歌のコピーをしてみよう。浪曲のコピーをしてみよう。民謡のコピーをしてみよう。都々逸のコピーをしてみよう。長唄のコピーをしてみよう。今日から毎日、詩を一編、書き写そう。自分の一言をつくってみよう。ことばを机の前に貼って、唱えよう。毎日10回、目標を唱えよう。毎日10回、目標を書き写そう。眠るまえに、自分の夢を思い浮かべよう。眠るまえに、今日あったことを感謝しよう。眠るまえに、今日会った人に感謝しよう。眠るまえに、今日気づいたことを書き留めよう。

(19)1年前にあったことを思い出そう。1年前に会った人を思い出そう。1年前にやったことを思い出そう。3年前にあったことを思い出そう。3年前に会った人を思い出そう。3年前にやったことを思い出そう。5年前にあったことを思い出そう。5年前に会った人を思い出そう。5年前にやったことを思い出そう。10年前にあったことを思い出そう。10年前に会った人を思い出そう。10年前にやったことを思い出そう。去年、はじめてやったことは何だろう。去年、はじめてみたことは何だろう。去年、はじめて行ったところはどこだろう。去年、読んだ本で、もっともよかったのは何だろう。去年、見た映画で、もっともよかったのは何だろう。去年、はじめて見たライブで、もっともよかったのは何だろう。去年、はじめて見たTVで、もっともよかったのは何だろう。この5年間で、はじめてやったことは何だろう。この5年間で、はじめてみたことは何だろう。この5年間で、はじめて行ったところはどこだろう。この5年間で、読んだ本で、もっともよかったのは何だろう。この5年間で、見た映画で、もっともよかったのは何だろう。この5年間で、見たライブで、もっともよかったのは何だろう。この5年間で、見たTVで、もっともよかったのは何だろう。これからやりたいことは何だろう。これからみたいことは何だろう。これから行きたいところはどこだろう。これから読みたい本は何だろう。これから見たい映画は何だろう。これから見たいライブは何だろう。

(20)オリジナリティのために考えよう。誰もがすでにもっているものがある。もっているものを価値づけることを考えよう。自分が考え出したものが、オリジナリティである。誰かが考え出したものは、その人そのものだ。その人のものでないものに、どう変えるかである。変えても他の人ができるならやらない。自分だけのものは、何なのだろう。他人にできないが自分のできることって何だろう。自分だけがやりたいものは、何なのだろう。他人がやらないが自分のやれることって何なのだろう。自分だけがすぐれたものは何だろう。他人がすぐれていても、自分がもっとすぐれるものは。自分が誰にも負けずに好きなものは何だろう。他人が好きでも、自分の方がもっと好きなものは。自分が誰よりも時間をかけて得たものは、何だろう。他人が今やっていても、いずれ自分が超えられるものは何だろう。自分が誰よりも集中できるものは何だろう。他人が集中するよりも、もっと集中できるものは何だろう。自分が誰よりも愛せるものは何だろう。他人が愛していたとしてもかなわないほど、自分の愛せるものは何だろう。自分が誰よりも賭けることができるものは何だろう。他人が賭けていても、もっと自分が賭けることができるものは何だろう。自分が自分の中で一番、賭けることのできるものは何だろう。自分が自分の中で一番、愛せるものは何だろう。自分が自分の中で一番、集中できるものは何だろう。自分が自分の中で一番、好きなものは何だろう。自分が自分の中で一番、すぐれているものは何だろう。自分が自分の中で一番、やりたいものは何だろう。自分が自分の中で一番、できるものは何だろう。自分が自分の中で一番、自分らしいものは何だろう。

(21)死んだらおわり、死ぬまでがんばろう。生まれてきたからには、生き抜こう。生きて生きて生きて死にたいね。生きるも死ぬも紙一重、だからこそ生きることさ。死んだらしゃべれない、けど伝えられるものもある。自分でおわる人生も、それはそれでよい。死んでいった人に学ぼう。死んでいった人を敬おう。死んでいった人の志を継ごう。死は美しいが、まだ美しく生きてはいない。生は醜いが、美しく死ぬことはできる。生死も一夜の夢、夢に生きよう。あすになれば、少し忘れるさ、だから眠ろう。自分勝手でいいじゃないか、だから人を悪くは言うな。今の自分を認めよう。そうありたくなくても、そうあっても、大して変わらない。地面に足をつけて歩こう。地面に背をつけて休もう。地面に顔をつけて感じよう。地面に耳をつけて聞いてみよう。空に向かって手をのばそう。空に向かって背すじをのばそう。空に向かって顔をあげよう。空に向かってふんばろう。悲しみの向こうをみつめよう。怒りの向こうに早く行こう。苦しみの向こうに夢をみよう。楽しみの向こうに未来がある。

(22)いつもより少し顔を下げよう。いつもよりずっと顔を下げよう。いつもよりじっとみてみよう。そして、目をつぶろう。いつも、手をあわせよう。いつも、願いをかけよう。そして、心を失うな。いつも、気をひきしめよう。いつも、気合いを入れよう。そして、気を抜いてみよう。いつもより、少し耳を傾けよう。いつもより、じっと聴いてみよう。そして、静かに考えよう。いつもより、少し元気にいよう。いつもより、ずっと張り切ってみよう。そして、ゆっくりと眠ろう。いつもより、深く腰掛けよう。いつもより、長く座ってみよう。そして、そのとき立ち上がろう。いつも、ミーハーでいよう。いつも、皆の集まるところへ行こう。そして、一人最後に帰ろう。いつも、最初にやろう。そして、それを続けよう。いつまでも、別れを惜しもう。いつまでも、その別れを忘れるな。そして、感謝しよう。いつも、そのことを思い出そう。いつも、くじけずにがんばろう。そして、そのことを忘れてしまえ。今もそのことを大切にしよう。今も、そのときのようにがんばろう。そして、そのことを身につけよう。いつも、恐れるな、逃げるな。いつも、勇気を出し、ふんばろう。そして、それを自分のものにしよう。

(23)何かにあこがれてみよう。何かにひたってみよう。何かに感動してみよう。何かに感じ入ってみよう。何かを近くでみてみよう。何かに驚いてみよう。何かに泣いてみよう。何かに怒ってみよう。駅で、ことばを探してみよう。電車で、人の服を見てみよう。街で、人の顔を眺めてみよう。ホームで待つ人の理由を考えよう。路上を歩く人の後姿をキャッチしよう。交差点で、すれ違う人を数えよう。コンビニで、隣の人の買い物かごをのぞこう。コンビニの兄ちゃんの機嫌を見取ろう。チャイムを三度、鳴らそう。玄関を掃除しよう。キッチンのすみずみのゴミをとろう。流し台の水道の音を調節しよう。包丁の尖る角度を求めよう。換気扇の音と対話しよう。風呂のシャワーの流れを変えてみよう。風呂のお湯を熱くしよう。

(24)口を固くしめよう。一日、心を閉ざそう。体の各パーツをながめよう。顔の色を変えてみよう。肌の色を映してみよう。体の毛を探索しよう。瞳の奥をみつめよう。眉毛を動かしてみよう。髪を切りに行こう。爪を少し切ろう。息を深く吐こう。息を長く吐こう。息を細く吐こう。息を吐き切って、ゆっくり吸おう。息を手に吹きかけよう。パンツのつくりを知ろう。シャツの着方を考えよう。靴下の履き方を変えよう。靴の紐をしっかりと結ぼう。出かける前に、靴を磨こう。Tシャツのメーカーをあててみよう。シャツの文字を読んでみよう。サンダルの色をチェックしよう。(25)海の色を思い浮かべよう。空の青さを感じてみよう。川の流れに身をよせよう。草の音に耳をたてよう。土の匂いをかいでみよう。太陽の熱を手にとろう。月の光に涙しよう。星の向こうへ想いをはせよう。

(26)本質だけに目を向けよ。なぜそう言われるか、その意図をみよ。なぜそう思うのか、その真意をみよ。なぜそうみえるのか、その根拠をみよ。なぜそう言えるのか、その目的をみよ。なぜそう考えるのか、その思考をみよ。なぜそうしたいのか、その欲をみよ。なぜそうありたいのか、その姿をみよ。なぜそうするのか、その思いをみよ。なぜそうしないのか、そのわだかまりをみよ。なぜそうしているのか、その意をみよ。なぜそうしたいのか、その感情をみよ。なぜそうしようとするのか、その理由をみよ。なぜそうみえたのか、そのゆがみをみよ。なぜそう思ったのか、その要因をみよ。なぜそう言ったのか、その心をみよ。なぜそう考えたのか、その本音をみよ。なぜそうあったのか、その育ちをみよ。

(27)うまくいった理由を考えよう。うまくいかなかった理由を考えよう。誰が言っているのか、考えよう。何のために言っているのか、考えよう。それで何のメリットがあるのか、考えよう。それにどのくらい時間がかかるのか、考えよう。それにどのくらいお金がかかるのか、考えよう。それにどのくらい心がかかるのか、考えよう。それにどのくらい疲れるのか、考えよう。それがいつまで続くのか、考えよう。それで何になるのか考えよう。それで何が残るのか考えよう。

(28)それがあと10年でどうなるか、考えよう。表と裏、さらにその間をみよ。そのとき、どうしたのか思い出そう。そのとき、どうしてそうなったのか、考えよう。そのとき、どうすればよかったのか、考えよう。そのとき、そうしていたらどうなったのか、考えよう。そのとき、そうしなっかたらどうなったのか、考えよう。そのとき、どうできたのか、考えよう。そのとき、どうしてできなかったのか、考えよう。そのとき、どう思ったのか、考えよう。そのとき、どうしてそう思ったのか、考えよう。そのとき、それしかなかったのか、考えよう。そのとき、もしかしてそうできたことを、考えよう。そのとき、そうできたのにしなかったのはなぜか、考えよう。そのとき、そうできなかったのはなぜか、考えよう。そのとき、そう考えた人がいたか、考えよう。そのとき、そうした人がいたか、考えよう。そのとき、そうした人は誰か、考えよう。そのとき、そうした人はなぜしたか、考えよう。そのとき、そうできなかった人はなぜか、考えよう。そのとき、皆はどう考えるか、考えよう。そのとき、自分も皆と同じように考えるか、考えよう。そのとき、自分は皆と違うように考えるか、考えよう。そのとき、自分は何を違うように考えるか、考えよう。そのとき、自分はどうして違うように考えるか、考えよう。そのとき、自分は考えた通りに行動するか、考えよう。そのとき、自分が考えた通りに行動できなければ、どうしてか考えよう。そのとき、自分が考えていたのに行動できていないことを、考えよう。そのとき、自分が行動できない理由を、考えよう。そのとき、その理由がどう解決するか、考えよう。そのとき、自分が半年後に死ぬならどうするか、本気で考えよう。

(29)自然の美しさをめでよう。自然の変化をめでよう。自然の不思議をめでよう。自然の強さをめでよう。自然の大らかさをめでよう。自然の勢いにならおう。自然の流れにまかせよう。自然の味をいつくしもう。自然というふるさとに戻ろう。自然の児となってみよう。自然体をとろう。自分の自然について考えよう。自然な生き方とは何だろう。自然な食べ物とは何だろう。自然なスタイルとは何だろう。自然な住まいとは何だろう。自然な着こなしとは何だろう。自然な食べ方とは何だろう。自然な体の動きとは何だろう。自然な呼吸とは何だろう。自然な栄養とは何だろう。自然な気持ちとは何だろう。自然な気分とは何だろう。自然な心がけとは何だろう。自然な歩き方をしてみよう。自然な感覚で生きてみよう。自然な流れで生きてみよう。自然な輩と交わろう。自然体になろう。

(30)うぬぼれは、人生の浪費をもたらす。一人ひとりの力が集まると、バカ力となる。バカ力が本質を覆い、真実を曲げる。喜びも悲しみも、学ぶことが大きい。耳さえ傾ければ、自然がすべてを語ってくれる。人間がやろうと思うことの大半は、神の意志に反する。ときに人間は、人間を捨て、神となる。人を神にするのは人であり、それが間違いのもと。攻めるにも守りがいる。守るのに攻めがいる。退屈嫌いの、退屈には、大きな意味がある。仕事好きの、家族好きの、趣味好きの人生も好き。小魚は、誰もが釣れるところにいるが、大物は、いない。タイでエビを釣る時代がきた。今より明日か、明日より今か。今のよさと、明日のよくなさより、今の悪さと明日のよさ。笑いは、涙のあとに。喜びは、悲しみのあとに。涙に、悲しみに、浸ろう。孤独に、苦しみに、耐えよう。芽が出るには、土の中にいないと。花が咲くには、茎が支えないと。荒地のトマトは、おいしいという。急がず、焦らず、コツコツと。将来像を明確にイメージしよう。思いついたことは、すぐにメモしよう。メモしたことは、早めに片づけよう。ゆっくりが、必要なときもある。どこにいっても、何をしても、最初はおもしろい。次に大変になる。山へ登ろう、心に息を入れよう。川に行こう、目を洗いに。海に行こう、波のリズムに身をゆだね。湖に行こう、自分の姿を写しに。寺に行こう、心の声を聴きに。高いところへ登ろう、人間社会が、おもちゃにみえる。人ごみに混じろう、ごみの一粒になろう。ホームレスを敬おう、そのうしろに、人生がある。野菜をみよう、顔にみえてくるまで。魚市場に行こう、神の手を感じよう。果物を手にとろう、その甘美なる味わい。深煎りコーヒーを味わおう、あなたの舌を感じよう。その衣服の手ざわりを、あなたの指を、感じよう。電車のなかの誰かの声を聞こう、あなたの耳が働いている。駅の匂いをかごう、あなたの鼻に入ってくる。街の空気を吸おう、全身で。人のぬくもり、人の冷たさ。ペン先をみつめよう、あなたの思想が形となる。ほほえんでみよう。それだけでは、うすらさみしい。熱い眼をしてみよう。それだけでは、やはりむなしい。全身を鏡に写してみよう、それだけでは、ただ気色悪い。見知らぬ人に声をかけよう。それだけでは、きっと気持ち悪い。でも、どこかに救いがある。自分の姿かっこうに。でも、どこかに救いがある。自分の心に。でも、どこかに救いがある。自分の思いに。一所懸命やりなさい。誰かが認めてくれるまで。本当に一所懸命やれたら、誰か認めてくれる。誰も認めなきゃ、僕が認めてあげる。でも、本当に一所懸命かい?ものほしげな顔を、やめなさい。でも、本当に一所懸命かい?媚びたり、演じたりしなさるな。でも、本当に一所懸命かい?受けをねらったり、計算したりしなさるな。だから、誰かが“てきとうに”認めても、僕は認められないんだ。認めるという責任は、一生にかかることなんだよ。