会報バックナンバーVol.171/2005.09


 

レッスン概要(2000〜2003年)

■入門レッスン

○変わらぬ外国と、変わった日本の歌 

 どれがうまいかへたかということを知るのも一つの基準です。エディットピアフと同じ曲を日本人と外国人が歌っているもので比較をしてみました。最初に考えて欲しいことは、今の音楽はいろんな加工が入っていて、生の声でどんなふうに歌っているのかがわかりにくいのです。欧米に関しては、昔から今に至るまで、ここで聞いた中と外国人がもっている要素は完全に守っています。ただ若干、伝え方を変えていたり、技術的な進歩をふんで展開しているところがあります。 

 日本人の場合は、すごく変わっています。変えているというよりも、こういう歌い方であれば、昔の人の方に歩がある。というのは、それだけ体や声があるからです。それから直輸入で聞いて、それをそのまま原語で歌ってから日本語に置き換えています。そこではのどが開くし、芯のある声で捉えるようにしぜんとなるわけです。音色と子音の息の強さのところで、圧力をかけています。特に中低音のメリハリとか、高音部になったときに高い方に逃がさずに、そこでさらに拡大させていくような感じです。 

 日本人の歌の場合は、すぐに母音にもっていって、すぐにひびきに入ります。それは日本語の構造上仕方がないことです。声楽からすべてを固め、ポピュラーへ転向、しかも声の弱い10代でデビューし、形をつくり、そこで何年も歌っている。そこの部分でその時代に問われたものを優先しているのです。  その時代に問われたものはことばを丁寧にいい、ことばの中に情感を入れて歌うことです。語尾などは演歌や民謡では一つの音の中にいろんなものを感じさせるように伸ばします。 

 向こうはもっとドライです。バンと切ったらそれでよくて、そのまえの音との絡みの中でハーモニー感やコード感が出ていたらよいという楽器的な捉え方です。楽器というのは一つの中に込めるといっても限界があります。トランペットでもピアノでも、外国人と日本人では揺らし方や弾き方も違います。細かいところにこだわり、繊細に技術を見せるのに、大きな推進力とか強さというものが失われてしまいます。それは国民性、文化の違いでしょう。 

○方向違いを助長する 

 皆さんに知っておいて欲しいことは、日本で6年も10年も最高の教育を受けて、それでやれていたら別です。それがないところでそれをいくら追いかけていても仕方がない。要はやったがためにダメになってしまう部分があるのです。  本当はもっとシンプルなものです。ミュージカルや劇団をみてもよくわかるでしょう。勉強したがためにダメになった。しかし、それで通じる部分もある。日本人は技術、そういう職人芸を見たがるからです。 

 でも音楽、ロックやミュージカルでは、音の圧力、それがどういうふうに働きかけてくるかということが、本来は問われるのです。だから聞く方向の違いなのです。  その人の学ぶ方向違いというよりは、教える先生の方向違いです。一番大切なことは、自分できちんと聞きとることです。  プロの感覚というのは何なのかということを聞いて欲しいと思います。それは一音目で現れます。声が大きいとか、ハードに歌えるということではないのです。そういうタイプのヴォーカルがいるということだけであって、確かにそれがあれば、ないよりも強いと思います。なければヴォーカルではないのかというわけではありません。感覚とそこでのイマジネーションです。ここは基本を、変に逃げたりくせにもっていく歌い方をしないように、なるべくベースのものからとっていくようにしてください。 

○おかしく学ぶと、おかしくなる 

 最初はできなくてよいのです。できたらおかしいと思えばよいのです。そこで何ができないのかということを見て、そこを補っていく。3年がかりでも5年がかりでも、そこをしっかりと見ていくと、そのうちにできてくるのです。  でもほとんどの人が見ていないのです。多くは、ヴォーカルの場合は体と声が違うからといって、逃げてしまうのです。私はそういう声じゃないとか、私はそういう歌い方ではないとかいいます。そういう自己本位の世界に入ってしまうと自分でもわからなくなるのです。するとジャズやシャンソン、カンツォーネを歌い出したりするのです。しかしそれを一度突き放して、あたりまえの感覚で聞いてみたら、どう見てもおかしいと思うはずです。 

 どうして顔だけニコニコしていて、声に感情もないのに笑えるのかと思います。プロになるほど、いろんなものをつけてきます。日本の客は働きかけてくるものをどこかで補って聞いてくれています。どうしてもそこに甘えるようになってしまいます。逆にそこの関連をつけてしまうのです。元気よく出てきたら、それで客がより拍手をしてくれる、音楽を作ることとか、感じて創作することよりも、元気よく出ていくことの方に関心がいってしまうのです。 

○一つの接点から

 ここでやっていることは、一箇所でもよいから接点をつけてみましょうということです。それを一箇所でよいから、ついたら、あとはそれを4フレーズくらいにしていきます。そして1コーラスにしていけばよいのです。  一番聞いて欲しいことは、声の違いというよりは感覚の違いです。どういうふうに感覚を使っているかということです。  最初に日本人がわからないところは、どうしたらこういう声が出るのかということです。声が出るということも感覚です。その感覚で求めていたら出るようになるし、その必要性がなければ出ることもなくなります。

 「愛の讃歌」でやってみましょう。この人はこれでよいのですが、この真似をしてはいけないということです。V検だったら、この出だしで誰も聞く気にはなりません。それだけ日本の舞台というのは、甘く恵まれているのです。  最初はこう出て、最後はバンドと一緒に盛りあがったら、客はわからないから拍手するのです。小さく歌っていても、伴奏のピアノは大きく叩いています。本当はそういうものから勉強していたらおかしいと思うはずなのです。 

○線で動かす  

 「頬と頬よせて」のところで、この二つを比べると全然違う曲のようです。これをこのまま捉えればよいのです。まだできなくてもあたりまえです。最初は、線で動かすということはこういうことなのかなと、はっきりとはわからなくても、なんとなくそういう感じというものがつかめればよいと思います。子音中心とか強弱中心というのは、こういう感覚ということがわかればよいのです。

 マイクの性能がよくなったために、そのぶんの神経を別のところにまわせるということは、よいことです。しかし音色を出したり、音を動かしたりする必要がなくなったのではないはずです。それが全て高いところにエネルギーを使えるようになってしまった。そのため、昔のように中低音域でメリハリをつけたり、そこでの表現能力、ことば以上のものをイメージとして音で伝えるということはなくなってきました。  楽器的になってきたようでありながら、楽器のところの性能が弱くなって、感覚だけが向こうの表面的なものを捉えるのがうまくなったという感じがします。音楽を線でつないでいくということ、音色や子音で動かしていくものと、母音とひびきでもっていくものとはこんなに違うということを知って欲しいのです。

○まねして、おきかえるから、邪魔する 

 英語で何年歌っていても、それがカタカナに聞こえてしまう人というのは、発音が間違っているのではなくて、発音に至るまでの感覚、ほとんどは聞くところの感覚でカナで理解しています。頭のよい人ほどそのまま覚えて口から出るときにもそのまま出てくるのです。つまり自分に入っているものに置き換わってしまうのです。  歌がへたな人というのもほとんど同じで、自分に入っている自分程度のところで歌ってしまうからへたなのです。歌のうまい人は自分を捨てて、神様、音楽のすごく優れているものの神経の中でそれを処理するのです。それだけ器を大きくして、その神様みたいなものを入れていこうというのが唯一の勉強の仕方です☆。 

 だからヴォーカルスクールにいかなくてもよいわけで、唯一ためになることがあるとすれば、先生が紹介する分、大切な何かに早く会える可能性があるということです。  あまり先生に習っても意味がないのです。先生がこれはよいといって聞かせてくれるものの中から、学べる力があれば一番よいわけです。先生がいなくてもそういうものに出会える人が伸びるわけです。先生の役割は、その導きを邪魔するものをとりのぞくことなのに邪魔している人が多いのです。 

○考えるべきこと

 勉強を計画的にやっていこうとするのであれば、最初に量を聞くことです。その中でよし悪しを知っていくことです。優れているものと優れていないものを認めなくてはいけない。ステージというのは難しいもので、自分の好きな人が出ていたら歌なんて聞かなくても見るし、自分の家族が出ていたらおもしろいし、楽しい。ステージにはそういうものが入ってきます。だから逆にこういうところで、相手が見えないところで、厳しい判断ができる基準を自分の中にできるようにしていくとよいと思います。 

 早く表現から聞くくせをつけてください。この人間が音楽にしたのは、あるいは歌にしたのはなぜなんだ、作曲家がなぜこれを押したのか、歌い手がいろんな曲の中でなぜこれを選んだのか、それがわかったときには、人の曲ではなくて、自分の曲となります。歌えばなぜよいのかがわかります。  ステージをやる中で、誰が歌えたか、自分の歌った中に歌が生じたかどうかという判断力を養うのが一番ベースの部分です。

○プロセスは、確実な半オクターブから 

 日本の歌にも、いろんなパターンがあります。なぜこの歌がヒットしたのか、わからないこともあります。  この人は歌唱力も地声も、深いところでのポジションもありますから、それほど目立たないのですが、これを真似して歌ってしまうとマイクのところにキンキンときます。耳ざわりな感じなのは、支えがないままにひびかせるからです。  半オクターブから1オクターブというのは、必修だと思うのです。  彼らの場合は日常の中でそれが半オクターブはあり、歌を歌う人間だったら1オクターブあるわけですから、あと1音2音をつければよいのです。 

○本当にできるということ 

 歌い手というのは何が問われるのかというと、その動かし方が問われるのです。動かすことはでき、その中でことばも転がせ、ばっと自分の思っていることをいうこともできる。次にそれが音楽にできるかできないかということです。  ピアノを弾くことはできることと、それで音楽が奏でられるかは、次元が違うのです。早くそこに意識はもっていった方がよいと思います。  すごくうまい人で、「さよなら」というところも、自由にことばにもっていけるのです。そういうことをできるというのは大変な条件がいるのです。感覚も鋭くなければいけないし、日本のお客さんもわかっていなければいけません。しかし、そこから先へ意識をもたないと、そこにもたどりつかないのです。 【「わかっているよ」入日クラス 00.10.11】 

○正しい方法とは 

 いろんな方法論があるのですが、そういうことに頼らないで感覚の方から入れていくという唯一の正しいやり方です。そのことができないということはそこの感覚が欠けているということだから、それを身につけていくためにあるのが方法です。すごい音楽をたくさん聞いていたら、いつの間にかそうなってしまったというのがそのやり方なのです。ただそれには条件があって、耳できちんと聞こえたものが体で還元できるという流れがつけられる場合に限ります。それは日本人の中にはとても少ないわけです。

 研究所では、声楽のやり方もとり入れています。それでうまくいける人はそれでやっていけばよいのです。ほとんどの人はそれでうまくやれた気になっても、10年経って、トレーナーの10分の1くらいできればまあよいのではないかということで、違う意味で難しいのです。  ポップスのやり方も、口を大きく開けたり、のどをはずしたりというような、技巧に凝っていけば凝っていくほど、大したことにはならないのです。本当に一番大切なことというのは、感覚のところで強制しなくてはいけないということです。音をとる練習よりも、音がとれる感覚になるレッスンが必要なのです☆。 

 それがわかりにくいのです。音をとりにいくレッスンというのはわかりやすくて、あるところまではメキメキと上達します。最初はそれしかできないのです。でもそういうことをみんなやったのかというと、やらなくても入っている人たちもいるわけです。その代わり、音楽をある程度分析して聞けるということができなくてはいけません。そういうことを踏まえているのが、私のレッスンです。今日やるやり方も一つのやり方です。皆さんに正しいかどうかはわかりませんが、そこで自分が実感できるものを組み合わせてください。その時期その時期によっても違います。では一番始めは「ハイ」をやります。何も考えずに出して見てください。 

○働きかける声 

 皆さんがカメラマンだとしたら、プロになれません。ただシャッターを押して撮っただけで、何もイメージもしていません。今何を撮ったか撮れているかということもわかっていないと思います。  歌とか声の難しいところというのは、自分がそこで握らない限り、瞬間的に消えてしまうのです。あとで見ることはできません。でも相手には聞こえているのですから、それを知ったうえで乗せていかなくてはいけません。  日本人は大きな声を出すというと、高く長く出すのです。それは違うことです。大きく出すというのは、大きな声が欲しいのではなくて、体一つにしてみて声を出すというプロセスが欲しいのです。こちらが要求している大きな声というのは、強く太く、どちらかというと威嚇するような声です。説得力のある声です。働きかけのイメージにおける大きな声なのです。 

○声のマップ

 今皆さんの中には、声そのもののマップというのはないと思います。声のマップというのは何かというと、今の声がどういう位置づけなのかということです。  たとえばピッチャーだったら、ストライクだったのか、ボールなのか、ストライクだったらどういうストライクなのかということです。外角なのか、内角なのか、バッターならばフルスイングできたのか、途中で止まったのかということです。そういうことは徐々に実感できてくるのです。 

 ただ実感できてくるのですが、日常の中に舞台の場の設定ができていないから具体的につかめないのです。まず舞台ということを考え、そこでの表現ということを考えたときに、音声はどういう働きをするのかということです。  プロの人たちというのは、少し歌ってみただけでプロらしいというのが出てしまいますが、それは形で力ではないのです。MCや歌は、そこの空間を自分で把握して、その時間を変えることができるかどうかです。まずそれを習得していくために、どういう感覚が必要なのかということをやることです。誰もが歌えているように歌えて終わりということになります。 

○のどを開く

 今の「ハイ」の中で、のどを開く開かないということで見てみましょう。どこかにつっかかっていて、何か危ないと感じることは危ないのです。そのことが心地よいか悪いかということも、日常の生活で感じているままでよいのです。  呼吸の問題にもお腹の使い方にも全部に結びつくのですが、力を結果として働かせなくてはいけません。力というのはどうやったら働くかというと、力を入れたら働かなくなるのです。自分が力を入れたくても、力を入れることと、相手に力が働くことは別です。それを切り替えなくてはいけません。  力が働いている人というのはどうしているかというと、力を抜いているのです。力を抜いているのですが、全部力を抜いているわけではなくて、感覚に絞り込んでいるのです☆必要なのは、テンションと集中力で、それはこのしぼり込みのためです。それを総称して呼吸というわけです。最小限なもので最大に何かを与えるためには呼吸が必要なのです。  私がしゃべっているのも一つの呼吸です。今の「ハイ」は、大きく出ているだけで、何も相手に残さなくなります。それは力でやっているから力が働かなくなるのです。 

○構え

 一つ構えてみてください。そこで、息を準備して、そして充分待ってからやることです。その結果、自分が楽になるし、相手に与えられるものも大きくなるのです。それを姿勢、フォームといいます。中心のところで一つにとるということでは、スポーツでも踊りでも同じです。  なぜ声を大きく出すことをいっているかというと、全身が使いやすいからです。小さく弱い声で全身を使うことほど、難しいことはありません。大きな声を出すのは、体を使うことを覚えようということでやっているわけです。体をどんどん鍛えて大きな声を出そうということが目的ではありません。一番よいのは、体を使ったと思ったときに、声がともなっていることです。声を出そうとか、歌おうと思って声が出ているのは最低です。 「ハイ」 

 自分の中で肉声を捉えなくてはいけません。自分の中にある声です。かすれてしまったら探さなくてはいけません。なるべく自分が何もしていないところで出る声です。ど真ん中を知ることです。「イ」で邪魔しないことです。そこで空気が止まってしまわないようにしてください。 「ハイ、ライ」  一番のできない原因は集中力です。二番目に体の姿勢というよりは、声をつかみキープする感覚の力です。そこは歌い手だけでなく、落語家でも漫才師でも同じです。ベテランと新人との人の違いのようなものです。

 自分の呼吸を瞬時に整えなくてはいけません。目がキョロキョロとしていては出るはずがありません。そのことは非常に難しいことです。徐々に覚えていくことです。 

○のどとフォーム 

 のどを開くということは、のどが開けるわけではありません。のどに負担をかけない、のどに力をかけないということができます。単純にいうと、どこかに力を分散させたり負わせたりしない限り、のどに力が入ります。そこでの意識の中でのバランスを調整しなくてはいけません。  まずフォームが定まらなくてはいけません。それが決まるまで時間がかかります。少しやってみましょう。体の上半身を曲げてみて、息を流して「ハイ」といってみてください。息を吐いたら自然と息が入ってきます。それを待つことです。自分の一番よい姿勢というのを見つけてください。自分の首がない、頭がないというふうに考えてください。息を吐いてそのあと声にしてください。

 「ハイ(息)ハイ(声)」は息を吐き出したら声になったというくらいでよいのです。息をもっと深く吐くと、横隔膜の方にきます。その結びつきがない人は、息をどんどん吐いて頑張ってしまうのです。しかし、そこが息の支えになるところです。 

○抵抗と芯 

 皆さんはまだ息に抵抗がないと思います。そこに抵抗がないということは中心もないのです。息に抵抗があればそこに声ができてきます。声の芯ができてきます。それはひびかせているところの声ではなくて、もっと根っこのところの声です。 「ハイ」  そのときに口の中で操作しないことです。声というのはいろんなところで操作できるのです。

 できるかぎり、どこにも作らないことです。スポーツなどと同じで、やり始めというのは部分しか動かないのです。小手先でやると部分がすごく疲れるのです。その動きが腰に入って初めて深いところに力が働くようになります。  ただ呼吸というのは、初めてやることではありません。今までもやってはいるのです。ただ、今までは体を全然使わずに、やっていただけです。体の底からことばをいうことです。正しい原理で出る声というのは、自分の全身が一本に通ったという声で、今まで歌ってきた自分の声とは全く違うのです。 

○強弱アクセントによる発声 「雲が流れる空を」 

 こういう歌い方は日本人の中には感覚としてありません。こういうことを自分で何回もやって気づいていくしかないのです。これは3度です。それを単にコピーすればよいのではなく、自分がいろんなことを感じ入れていかなくてはいけないのです。それには時間がかかります。そのまえに一流のアーティストの見本の世界の中に、入っていかなくてはいけないということです。今皆さんができないことは、のどが開かないとか、あるいは声がうまく出ないとか、地声だとかいうことではありません。その舞台の世界に入っていけていないということです。それは我々日本人にとっては非常に難しいことなのです。

 だからライブを見てもらえばよいのですが、最初の一瞬のところで入れなければ、成り立ちません。頭がよい人に限って、そこに入れないのです。皆さんが問題なのは、聞こえているのですが見えていないのです。こういうものは説明しても100分の1くらいしか伝わらないのです。  この人が「雲が」と出しているところの表側を真似てしまうのです。表側を真似してしまうとそれよりも小さくしかできません。こういう人たちがやっていることというのは、一つの決まりがあって、それをふまえてきちんと音楽の舞台の場を作っているということです。それは発声器官ができていないまえに、それを求める感覚がないからできないのです☆。 

 今皆さんが入るときに「くもがー」となってしまうのは、感覚とは違うのです。表面的の楽譜の世界なのです。次に指の位置を点滅して数える電子ピアノを弾いているようなものです☆。どちらが音楽の世界かということです。その辺がわからないと入っていけないのです。それはイメージと感覚の問題です。 

○声と歌より、感覚

 声というのは6年くらい経つとそれなりに誰でもできてくるのです。でも声がある人がすべて歌えるということではないのです。むしろ感覚があれば声が出なくても歌えています。私は、その方を重視しています。  今、音楽というのは基本があって、音楽にするということは、器の部分なのです。その曲を練習するとか、発声練習を練習するとか、何千曲も練習するということではないのです。  たとえば皆さんがやったような歌い方を一万回やったとしても、私がやった1フレーズには敵わないのです。私がやったことは別に音楽の創造性をついたものではなく、単に基本です。まずここができないことには、ホームランもできないし、打ちわけもできないということです。

 こういう勉強はそれぞれの先生についてやっていけばよいと思いますが、ただそこでやれている大半は、方法論です。もっと大切なことは、優れた人たちには共通の感覚があって、その共通の感覚を盗むしかないということです。アマチュアの人とかカラオケに出る人たちはそれをやらないし、やらないどころか存在も気づかない。そうでないことをずっと守っているわけです。  歌というのはもっと単純なものです。体から出てきた呼吸で置いていけばよいのです。そういう聞き方でスタンダードなものとか、ある程度レベルの高いものを聞いて、自分の体に落としていくことです。 

 今私がやったことができるようになるためには、「ハイ」も定まらないとできないわけです。私は今は皆さんよりも深い声があるし、それをどう瞬間的に使えばよいかということを知っているからできます。それは私だけではなく、ここできちんと続けた人は、声を使え、音楽が入っている人もいます。音楽を入れていくということは、同時に感覚を入れ、こういうことを一緒に正していくということにほかならないわけです。そのためには高いテンションと柔軟な体が必要になってきます。 

 今勉強して欲しいことは、感覚の勉強です。感覚の勉強が一番難しいのです。でもこれがなければ声が出ていても仕方がありません。感覚があれば声はいくらでも補えるのです。まず音楽の柱が立っていて、そこに線路が引いてあるならば、それは自分で感じ知覚して立てていかなくてはいけないということです。歌は声を使うし、息も体も使うのです。それを使ったうえで何をのせて駆け引きするかということをこれから勉強していかなくてはいけません。 

○感覚で観る 

 二つやらなくてはいけないということです。息を吐いたり、柔軟をしたり、発声練習をしたりして周辺の基本を作っていくこと、一番大切なことは、そういうことが見えてくるような感覚です。それが聞こえてきたら歌というのはシンプルになってきます。それが見えなかったら、逆に技術が必要です。  でもそんなに難しいことをしなくても歌える人はたくさんいます。ヴォーカルというのは不思議なもので、感覚がよければやらなくてもできるのです。感覚が悪ければ何年やっても同じです。

 ここでも一番勉強して欲しいことは感覚です。その感覚に対応できる体作りをやっていくことです。よくわからなければ息吐きをやってください。そのうちに瞬時に対応できるようになってきます。でもやらなければ変わりません。常に舞台に立つということを意識してやることです。テンションが高くて、優れた人だけではありません。周りにあわせてはいけません。だから見本で聞かせているもののもつ、鋭い感覚の中に入っていくことです。そこに入っていけないと思ったら、それができないということですから、それを勉強していくことです。 【「去り行く今こそ」入門クラス 00.11.7】 

○総合力

 こういう人たちは歌だけでなく、いろんな実力をもっています。たとえばダンスでも、ダンサーの平均くらいの力はもっているわけです。その上で、絶対に他の人たちが真似できないものをもっているから、そういうところで認められていくのです。  皆さんが勉強しなくてはいけないのは、一流のものというのは、トータルに総合的に入っているということです。しかもそれがしぜんになっています。ですから、一流のものから学ぶのは難しいのです。そういうものから学べるのであれば、誰でもみるみるうまくなるのです。  なぜそれが難しいのかというと、きちんと分ける基準がないからです。

 たとえば、ここでよく使っている村上進さんの歌も、ここではフレーズの練習として、そこで音がどう動いているのかを聞いて欲しいのです。  勝負しているところが通じればプロなのです。プロになると、何も考えないでしゃべっているようにして歌います。入っているものを出す。そのために入れなくてはならないのです。その辺のことはわかりにくくて、理解できないことも多いです。

 最近は日本のものもかなり多く使うようになったのですが、逆から考え、わかりやすいからです。たとえば野口五郎さんのとサンタナを比べて聞いてみましょう。そこで何が違うのかということが一番大事です。  ポップスは何でもありなのです。ただ一つ言えることは、習得には体の原理に沿って歌う方が確実だということです。もちろん、ポップスというのは確実でなくてもよいわけです。やれている人は、最低限の要素は落としていないわけです。音やリズムを外したりはしません。普通の人の判断基準にないところで、落ちていることはたくさんあるのですが、普通の人がもっている基準の中では、必ず何らかの形でフォローをしています。 

○自分を知るとは、限界を知ること☆ 

 たとえば自分に声量がないとしたら、声量がなくても歌えるやり方はいくらでもあります。そういう前提にある思い込みをくずすことにレッスンの意味があるのです。しかしできなかったのであれば、それを一回捨ててみようということです。  他の人が16才のときにできたことを、やり方としていくら追いかけても無駄です。一番気をつけなくてはいけないことは、基本的に何が原型、オリジナルなのかを知るということです。  大体スポーツのトレーニングというのは、意味がわからなくてもやるわけです。最初に型があって、型から形を得ていくのです。急いでやると、先に形を真似してしまうのです。そうすると、その人のよいところはとれずに、悪いところだけを真似してしまいます。真似するということは、表面上のものをとって、大体の場合は、絶対にやってはいけないことをやってしまいます。本当に取らなくてはいけないものは、なかなか取れません。それはなぜかというと、元に戻れないからです。 

○骨組 

 その歌い手の歌を聞いたときには、もうその歌い手の色や雰囲気が入っているわけです。まずそれを原型に戻さなくてはいけません。その力が必要です。原型のところで動いているリズム、メロディの進行、人の心に伝わるところ、その歌い手を抜きにしたときに、何が成り立っているのかというところをみるのです☆。そこまで戻って、自分の呼吸に置き換えていくわけです。今のを聞き比べてみたときに、少しでも原曲の方が優れているとしたら、それはなぜか、どこが優れているのかということを見ていくのです。逆の場合もあります。 

 「明かりの消えた」 

 歌一曲の場合はともかく、ここのレッスンでは1フレーズをきちんと完結していくことをやっています。そのうえで、それを一曲の大きな流れにどう乗せていくかということをやっているわけです。もちろん、組み立てて一曲にすることもあります。  これも応用です。「ハイ」や「ライ」を応用した形が、歌からみると基本のフレーズになります。  つかんで欲しいのは、そこの中の感覚です。そこが変わらないと、いつまでたっても棒読みのままで、例え音が狂わなくても、声が悪くなくても、人は聞いてはしてくれません。 

○自分のステージのために

 たまたまスポットやマイクがあって、お客が準備されているところであれば、否応無しにみんな聞くかもしれません。しかしそこは知名度のある人の土俵です。有名でない人はそこまであがらなくてはいけません。そのときには、その他大勢の中から、何かを示さない限り、落ちてしまいます。それは必ずしも声の力で問われるわけではありません。歌でも表情でも、その人がそこまで何をやってきて、何を入れてきたかということは、瞬間的に表れるわけです。そういうものが何もなくても、それが出ればよいのです。舞台はそれでよいのです。 

○感覚から表現へ 

 自分の中で判断基準をつけていく。他の人を見て、自分にフィードバックして欲しいということです。入っていない感覚というのはたくさんあります。たとえば「ソソララ、ソソララ」という音がいくら取れていても、「明かりの消えた」ということとは関係ないのです。それはその人が音程感覚しかもっていないからです。自分の感覚でないものは、歌には出てきません。自分が下手だなとか、緊張感がないと思っていたら、そういう感覚が自分に入っていないからです。  ここでは、たった一声でもよいから、繰り返し繰り返しやって、それで二年間で半オクターブでよいといっています。それを聞いて、自分は、そんなことは一ヶ月でできるだろうと思っている人のほとんどが、できないのは、そこで四苦八苦しないからです。そのことが半年でできる人は体の準備と、感覚の準備があったのです。 

○主体性と主体への疑問 

 誰でも普通に、歌おうと考えなければ、そう出るのです。でも我々は日本語も感覚自体を間違って教えられてきています。悪いのは教育です。そういう教育の中で優秀だった人が使えなくて、落ちこぼれていた人が、画家とかミュージシャンとして優秀だったということは多々あります。まじめに先生に教えられたがために、ダメになっていったり、個性も全てなくなっていくというのは、ないと思います。実感で捉えていく。そのために主体である自分をも疑わなくてはいけないのです。 

○体や息が聞こえるか

 次はことばでやってみましょう。体と息と声の結びつきを自分で自覚していくことです。自分の実感のないものは、人に伝わりません。  わけがわからないうちは、大きくやるのも一つの手です。声を大きく出したり、力でやるのは危ないことですが、頭の中で考えて口が動いてわからないままでいるよりは、少なくとも体を使って、危ないというところまでいけます。それはそれで一つのやり方です。  他の人は、その人の声が聞こえてくる、意味が聞こえてくるのではなくて、その人の体が聞こえてくるか、息が聞こえてくるかというところに気をつけてください☆。 

○大きく繊細にイメージする 

 これでは、一つのセリフも与えられないと思います。なぜかというと、思いっきり振っているのか、あるいは当てようと思ってせこましくなっているのか、どちらにしろボールが前に飛ばないからです。空振りか見逃しで、でも基本のトレーニングをめざすなら、それでよいと思います。  ボールをしっかりと見ることができればよいのです。とりあえず150キロでも160キロでも、見えることが大切です。さらに見えることと体が動くことは違いますから、どこかで体と結びつくことをやらなくてはいけません。 

 そうすると、素振りを何回も何回もやって、できるだけシャープな素振りをしてみるのです。大きな素振りをしているうちに、無駄な力が抜けて、合理的になってくるのです。  ところが声の場合は、スポーツほど一つの力の働かせ方が決まっているわけではありません。次に変じる感覚が必要です。スポーツもあるレベルから以上は感覚でやっているのです。  もう一つ簡単にします。「明かり」というのは「ハイ」と同じ「アアイ」の音の流れです。難しいのは、そこで「あ」、その次に「い」を出すことです。でもできないのかというと、今まで使ってきていないだけで、体と声が一致したときにはできるのです。今わからない人は、「ハイ、明かり」とやってください。 

○声を動かせるところで 

 特に日本の女性は、図太い声やかすれた声を使うと、周りから声が悪いといわれるので、どうしてもきれいに高く揃えてきました。トレーニングからみると、自分で思っているほど自分の声は高くないはずです。主としたトレーニングでは必ず声を動かせるところでやることです。  声がきれいに響いたり、発音が明瞭になるのは、次の段階です。日本の場合は、声を高めに、アナウンサーのように柔らかくいう方が無難です。しかし、無難ということは何も働きかけていないということです。日本の社会生活に似ていますね。こういう表現の世界では、外国人の女優のセリフを聞いたとおりに真似してみるとよいでしょう。今まで自分が使っていなくとも、もっと使いやすいところがたくさんあるのです。 

○体の芯、声の芯 

 今の段階で、ようやく皆さんのことばが聞こえるようになってきました。ことばが伝わるときそこに気持ちがあります。それはあまりに漠然としていますが、確かなものです。そのために体の芯、声の芯を伴っているかどうかというのは、可能性として大きな部分です。芯というと、わかりにくい概念ですが、腹の声といいましょうか。ことばがきちんといえたとしても、そこに芯がなければ説得力がない。そして他のところが働いてしまうと、伝わらなくなるということです。  次は音として動かすことを意図的にやってみましょう。「あ」と「き」を強くいってみます。強くすると「あーかりの」と伸ばしたり、高くしたりする人が多いのですが、それは別のことです。そこで「ター、ター」といっているような感じで、「あ」と「き」にアクセントをつけてみてください。

「明かりの、消えた」 

 今はみ出てしまったのか、中に入っていったのかを確認してください☆。好きなところにアクセントはつけられます。次は「あ」と「の」にしてみましょう。考えて欲しいことは、こうやって歌いなさいということではありません。声をつかまえて動かすということは、こういうことなんだということを実感するためです。「あ、の、た」と聞こえればよいでしょう。 「明かりの、消えた」  こうやってみると、さっきまで歌っていた感覚とは違ったはずです。歌はシンプルに捉えなさいといっています。まず音の世界として、楽器のように線と音色でイメージを構成して捉えることです。個人差がある上にことばつけ方や自分の呼吸の置き方によっても違ってきます。自分で選んでみてください。外国人の感覚でいうと、「りの、た」の動きで見ていくわけです。「あかりのー、きえたー」とはならないはずです。そこを踏まえてやってみてください。難しければ続けてやってもよいです。 「明かりの消えた」  もたなければいけないところは芯の部分です。最初の「ハイ」でつかむ部分です。なぜ彼らが1オクターブを全く同じ感覚で処理できるのかというと、外国人や私のように体のできていると、イメージを自分の体に置き換え正すことができるからです☆。そのときに一番足らないのは、スピードの感覚とか、体の準備をする感覚のところです。 

○体におきかえる 

 半分の人の問題は、「ハイ」を取るところまでの問題です。もう一つの問題は、その「ハイ」をどう動かすかということです。その中に「明かりの消えた」ということを、自分でコントロールしていわなくてはいけません。そのためにシンプルに捉えなくてはいけません。複雑にして歌うと、歌がバラバラになってしまいます。  トレーニングの中では自分のフォームを乱してしまうことになります。そういうものをシンプルに置き換えているのが、基本の「ハイ」とか「ララ」です。いろんな歌い方ができていても、中心で握っていなければ、きちんと元に戻すことができなくなります。  ここでは、最初の一年、二年目はあまり細かくいわないのですが、それはまだやっていないのに形を整えても仕方がないからです。最初は、やったらやった分だけ体は強くなります。しかし、五年間しっかりやった人が、その後、さらに体が強くなるかというと、そんなに変わっていくわけではありません。 

 最初はその限定を一度外すことをやっています。前よりも歌が下手になったとか、高いところが出なくなったということは、それほど気にする必要はありません。のどを壊さなければ、そういうものもやがてよくなるはずです。  でも昔いい加減にやっていてうまくいったと思っていたら、そのときよりも声量も音域がとれなくなるかもしれません。全てはきちんとしたフォームを身につけるためです。たった一つの声でもよいから、は体の中心から声を出すことを徹底して覚えていきましょう。これに一年、二年かかっても問題はないのです。 【学び方 日 00.6.14】 

■レッスン(入門以外)

○一回でこなす 

 どれだけたくさん聞き込んで、どれだけたくさん歌ったかということではありません。一回でどこまで読み込めて、次に自分がどこまでのレベルのところで出せるかということです。そのために必要なのが結果として量になるだけです。  それは他の分野でも同じです。こういう歌に関しては、スポーツのように勝敗が突きつけられません。今10回まわして10回とも同じに歌ってしまうとしたら、一生同じだということです。課題はなんでもよいのですが、もし今のJポップスの応用されたものなどで本当にやれる感覚があれば、こういう古いシンプルなものに全くついていけないということはないわけです。 

○距離 

 まず問題なのは、その距離が見えている、見えていないということです。直すにも、直す点が何なのかがわかっていないと直りません。ほとんどの場合は、むしろ、器用な人ほど感覚が直らないまま2年くらい経ってしまうのです。2年で感覚が直らなかった人を次の2年で直すということは、全くの初心者を2年間で直すよりも難しい。当人が必要性をもって学ぼうとしないものは、与えられません。ここのすべてのレッスンがそのためにあって、すべてのレッスンでそれをやっているわけです。  自分が何をやったかを全くわからないままやっているのは、悪いことではないでしょう。そこに自分の実感があればよいのです。実感があるということは、そのことと接点がもてていて、その中に入っていけているということです。そしてそこで必要な要素をもってこれるということです。  声が足らないからとか、体が足らないためにできないというときもあります。でも最近はほとんどがその問題以前です。 

○成り立ちをとる 

 何を出してみても自分に入っているものしか出てこないのです。それが音楽になっていないのは、音楽が入っていないのです。応用ができる人は、たとえ基本がなくてもそれで自分の世界を作っていくみせ方を知っています。しかしそれが通用しないとか、まだまだだということであれば、一度基本に戻さなくてはいけません。  自分の世界にもっていくまえに、きちんと成り立っているものから精一杯汲み取るということです。伴奏が安定して聞こえるということ、その9割の要素を自分が崩さなければ、それなりにもつのです。それがもたないということは、自分が崩してしまっているのです。それに気づくことです。1曲で気づかないことは1フレーズにしてみることです。 

○歌唱と音楽性 

 これだけ歌える人は今はいませんが、高いところや、声を張るところは、声のことからいうと申し分ありません。こういう声や体のところで申し分ないものが、皆さんの感覚、あるいは私よりも若い世代であれば違和感を覚えると思います。それは技術でこなしているからです。  技術というのはここは伸ばすとか、ここにはビブラートをかけるぞとか、計算で形成しています。そういうことを読み取られてしまうと退屈なのに、それを変えながら1曲やっても飽きない。それではこちらも、続けて聞こうとは思わないのです。 

 音楽性というのはそういうところにない。  音楽の一番の条件はリズムと音色なのですが、日本の場合、歌というのは特殊に声を作り、そのうえでメロディとことばの処理をしています。これもことばを丁寧に生かしそのことばが退屈しないようにいろんな技巧を加えています。もちろん悪くはないのです。ただ、結局、向こうのものを移し変え、それに単に日本語をつけた無理がみえます。  客がどういうふうに歌ったらそれをうまいと思うかにこびている。そのため、感動させたり、客が乗る歌にはなりません。  原曲はもっとシンプルに歌っています。こういう技術でみられると一番損するのは歌い手です。こういうふうに歌うほど、こうならないときにマイナスが目立ってしまいます。  それはその場で作っていないからです。昔にやったことを再現しようと思ってしまうから、その時点でアートではないのです。 

○シンプル 

 原曲はシンプルなものです。なぜ簡単なのかというと、音楽のもつ進行を素直にとっているからです。例えばブレスを長く伸ばしているところでも、日本人の歌は、ここは伸ばしているとみえるのですが、この人のはほとんどみえません。なぜ見えないのかというと、楽器の呼吸とあわせているからです。バンドでも、その呼吸の動きの中に全部をあわせていると、推進力がいらないわけです。 

 日本の場合はなぜそれができないのかというと、高いところは高い発声で、ことばはきちんといわなくてはいけないと思うからです。そこでもう音楽が壊れてしまうのです。  外国語というのは強弱リズムのことばですから、そのリズムにのっかっているだけです。それを日本語にしようとするから難しいわけです。  シンプルの方が音楽として普遍性をもつから、国も超えてしまうのです。そういうことでいうと、難しいことをやる必要はないのです。歌が難しいと思ってしまうのは、嘘っぱちなのです。歌が難しいというのは嘘です。難しいと技術しか見えなくなります。 

○聞き比べる、切り替える、入れ込む 

 こういうものをやったときには、聞き比べてどういう条件が足らないのかがわかればよいと思います。歌はその人の中に入っていたら、音程をとろうとかリズムをとろうとしなくても、よいはずでしょう。ことばさえ意識しなくてもすらすらと出てくるのです。  勉強というのは、そのことに対応するのにいかに早くできるかということをやっていくわけです。しかし、早さは一つの要素にすぎません。感覚の切り替えというのが大切なことです。感覚が切り替わったときに体が変わるということです。 

 優れたダンサーであれば、頭が反応するというより体が反応すると思いませんか。それが入っているということになるのです。それを動きとして取り出して見せていくのです。  今やって欲しいことは、音程をとりにいったり、ことばをとりにいくということではありません。自分が出してみたときに3拍子のものが出せないとしたら、それが入っていないわけですから、それを毎日聞いていれていく。すると、かなりしぜんに入っていけるようになります。 

○捉え方 

 何年もこういう曲を歌ってきた人でも、うまくならないとしたら、その中で感覚がそれ以上働かなくなってしまうからです。その限界点が早いというよりは、深くなっていく。プロはその限界を広げているのです。一回で聞き取れる量も違います。しかし、その中で何をとっていくかということになります。  こういう曲でも、どう捉えるかということで、曲が難しくなったり簡単になったりします。それを自分の方によせて、わけのわからないものでも出すしかないのです。でもそれが音楽になっていればよいわけです。 

○安定性 

 なぜプロの歌が安定していて、自分のは不安定なのかというと、その中に走るべきものが走っていないからです。テンポ感、タイム感、リズム、グルーブなどというものが本当には入っていないのです。  日本人の中でも器用な人、器用じゃない人がいます。ただプロの領域になると、できてあたりまえです。プロが向こうのプロに比べてできないところをみていく方が早いでしょう。そこに障害があるとしたら、それをどう克服するかということです。  まずなりきってきちんと入っていく。自分に何が足らないかということをみていくことです。  音をとったりことばをとるのも、慣れればできるようになるのです。しかしそれで歌になるわけではありません。  100回聞いたら何とかなるということではないのです。3回で聞きとって修正する能力がなければ、100回聞いても、ことばや音程が少しマシになるくらいです。聞き手はそこを聞いているわけではないからです。 

○たった一つのことのために 

 ここにいたら、ここでやっていることは一つだということがわかってくると思うのです。その一つのことをきちんと実感し、イメージでき、それを体で反映できるということのために、たくさんの経験と感覚が必要です。神経系統から運動、反射神経まで必要なのです。この2曲を比べるだけでも、いろんなことがわかると思います。 

 講演会で、音色とリズムでとっているという違いと、ことばとメロディでとっているという違いを示しました。楽器音というところでは、楽器の呼吸に合わせているのと、ことばの世界でイメージをまとめていくという違いがあります。どちらがよいとか悪いではありません。やりにくさをそれを助長しているのが日本語です。日本語というのは、声を作りながら出している、それを声帯にひっかけてはいけないということでひびかせたりします。私なんかはそういうのがすごく不しぜんでわざとらしくかったるく感じるのです。そのことばことばで変えなくてはいけないからです。  外国語の場合は、しゃべっているところから音楽にしていきます。声を動かせるし、そこで創作できる人は、日本人にもいます。体がない人は、音があがっていくにつれて、口で作ってしまいます。創造するよりも、歌で振り回されてしまうのです。それがみえてしまうときついです。 

○技術と芸 

 技術があっても1回目に技術がみえたら、2回目にはそれを少し変えなくてはなりません。そうなるとますます技術がみえて、音楽のリピート性が歌の効果をあげるどころかさげることになります。例えば向こうのヴォーカルのものは、エンドレスでずっとかけていても聞けるわけです☆。  それはことばを聞いているからではないからです。ことばを聞くということは物語をきくことですから、その物語がわかったら、よいということになってしまいます☆。落語家でも、へたな人だと、ストーリーがわかったらもういいやとなります。皆さんの友達でも同じです。  ところがそうならないのが、芸です。芸というのは、ストーリーがわかっているものを楽しむのです。そのときにそれをどう動かすか、そこにどう新しい感覚を出しているのかということをみるのです。そして、何回聞いてみてもやっぱりすごいというところに落ちてくるのです。 

○日本人の基準 

 日本の場合はそこまで問われていないからよいのですが、その感覚をよりシンプルにするということです。日本の審査員というのは音程を厳しくチェックしますが、リズムには甘いのです。  皆さんがやっていくときに、どちらの方が伸びるかということです。アートとして創造していくときに、つかんでいないと動かせないわけです。まずつかめることです。ピアニストでも1音や2音の中でどれだけのものをそこに感じられるかということです。バッターでも、ただ当てているのではなく、バットに乗せて運ぶというような感覚があるときに、無心にいくのでしょうか。そういうことをやるためには、楽器の世界の中で音をつかめなくてはいけません。声の場合は出ている声を動かさなくてはいけないのです。 

○技術と上達は、みせないこと 

 ほとんどみんないらない技術を覚えてしまうのです。どこかをすごく伸ばして次は一つ置いて入るとか考えてやるから、それがうまく出ているはずがないのです。日本のお客さんはそれを聞いて、プロはうまいと思うのです。飽きてくるから変えているだけです。本当は音色の展開の中で飽きさせたらだめなのです。 

 打楽器でもピアノでも、それがしぜんに動いているだけで人は聞いてくれるのです。今やったことには、メリハリがないのです。それはメリハリがつけられないのではなく、イメージの中でのメリハリを強く刻んでいないのです。でもメリハリのきかないものというのは、お客さんは聞いてくれません。  彼らがなぜ有利かというと、言語が強弱のメリハリで動いているからです。日本人が「ジェルバー、ジェルバー」といっているものを、彼らは「ヴァ、ヴァ」のところで体と息を使っているのです。だからあとのところは聞こえにくいと思います。  彼らの歌も同じで、英語でしゃべっている人のものが聞きづらいのは、強弱で動いているからです。日本人のようにそれを発音や高低で動かしているのではありません。 

○じょうずな日本人を見本にするな 

 音でとれるから日本の歌のコピーはしやすいのです。  でもコピーすると、彼女の技巧の半分の力もないのに、彼女の技術をやろうとするのですから、技術のへたさが目立ってしまいます。それは技術を身につけてはいけないのではなく、感覚をアップして技術をつけることです。技術に安易に頼ってしまうと、それしか出てこなくなってしまいます。マニュアルと同じです。ある程度はできるのですが、それ以上のものを逆に抑えてしまいます。 

 それで彼女のように大成できた人はよい。その時代にうまく生まれた人もよいのです。そうでなければ、感覚を大切にしてやってください。  今日の課題は「ロンタン」と「ジェルヴァ」です。それを自分で繰り返して、どうしたら楽器と一緒に動くのかという形で、楽器の呼吸を読み込んでみる。それだけで半分以上の問題は解決するのです。でもそれには自分が入りにいかなくてはいけません。その中に自分のものを入れて動かさなくてはいけません。1回でできるはずがないのです。 

○勉強とは?「ダンサー」

 昨日やったことが今日できていたら、2時間やればできるということです。ここにくる必要はないのです。昨日やれなかったことが一生かかってもできないから、今日もきて、明日もきて、自分でもそういう勉強をして、つないでいかないとすぐに外れてしまうのです。もともと日本人なのですから、向こうの人の感覚はもっていないのです。しぜんにやるにはかなり無理があるのです。  ただ逆に日本のレベルがそれだけ低いから、声でも歌でもいくらでも可能性があるともいえます。踊り、ダンスなどでも同じですが、レベルはあがってきました。目にみえるから比べやすいのでしょう。 

 「ダンサー」という映画では、DJが数秒ごとに曲を切り替えてダンサーがついていけるかという場面があります。それよりもヴォーカルの方がたやすく切り替えられるはずです。少なくとも体がリズムの変化に対応するよりも、声が対応する方が早い方からです。体は物理的なものですから、必ず限界があります。声も物理的なものなので限界はあるのですが、少なくとも体よりも声を動かす方が早いのです。でも超一流のダンサーよりも、きちんと声を動かせている人がどのくらいいるでしょうか、日本人は相当鈍いような気がします。ララファビアンなどのヴォーカリストはそれ以上のことをやっています。そういうものを聞いて磨いていくべきだと思います。 【「わかっているよ」2 00.10.11】 

○ドラマ化 

 後半での盛りあげ方まで完全にドラマを作っています。  その時代で応用されて、客が泣いてしまったがために、次の時代には残れなくなってしまう作品は、その人がそこで生きているわけですからそれでよいのです。問題なのは、それを見本にして次の時代を生きようとしているような人です。創作の努力がなく、他人の創造したものでやろうとしているから、歌もダメになってしまうのです。  ファドなどはまだポルトガルの街の中で生きています。その違いは何なのかということをみればよいと思います。  日本はどちらにしても根っこがないので難しいのです。 

 今さらこういうものを極めようというのは、やりたい人はよいかもしれませんが、そこでもう歌にならないということを知らなくてはいけません。客はそれを期待していないのです。かつての誰かには期待しても、あなたには期待していないということです。ましてこの技術を得るのに、10年もかかっていくのです。さらにみんなそのやり方でやっているのかというと、そうでないところで人を感動させているのです。 

○新鮮さ

 皆さんがこの曲を聞いて感じるように、古く、違うと感じる通り違うわけです。では何が新しいのか、何の違いを出さなくてはいけないのかといったときには、もう一つ戻ればよいのです。 

 もう一つ戻るということは、基本に徹底して忠実なものとすることです。すると、空間とか時代とか国も超えて、次の時代に残っていくのです。  ピアフという歌い手は、21世紀にも滅びないでしょう。日本でちょこちょこと歌っている人というのは残りません。ポピュラーですから別に構わないのですが。  今度、プレブレでビートルズをやります。彼らが何を受け継ごうとしたのかと考えるよりは、彼らが作っている中にビートルズをあて、彼らの世界がどう出るかと捉えてみましょう。別に何を歌ってもよいわけです。自分で作った曲で勝負していくばかりが能力ではありません。 

○わからない 

 わからなくてよいのです。わからないからすごいのです。すぐにわかってしまうものは大したことがありません。  英語は、若干あがってしまうところがあります。ブリティッシュロックとか、フレンチポップスは、比較的アメリカに比べて深いところに読みこんでいます。それは日常の母音のところでの深さです。ドイツ語なども深いです。アメリカでもゴスペルとかジャズとかはかなり深いのですが、それは使い方の感覚のところからのくるものです。  こういうものを真似して歌っている人は多いのですが、大体が表面だけです。うえの方のひびきのところの点だけをとっているのです。その点をとるがために、そこだけがうるさく聞こえたり、逆にキンキンひびいてしまったりします。 

 今はエコーをかけてつなげています。正しいものにあるのは芯のあるところの声です。これはクラシックでもポップスでも同じです。  ピアフから入るのは相当、無理がありますが、感覚的にとってみてください。出だしの感覚はどうなっているのかということです。学校でも、これを勉強している人ほど、口先でおかしくなっているのです。楽譜通りに「ララレレミミファファ」とは認知していないでしょう。少なくとも「ラーファー」くらいです。  日本語をつけて、日本人の歌い手を真似していくと、どんどん本当のことからそれていってしまうのです。それをレッスンだとか、上達だと思っているから、たちが悪いのです。もう一つ離れて見てみたらわかることなのです。へたな勉強して伸びない中に入るから、わからなくなってしまうのです。 

○プロの耳 「頬と頬を寄せて」 

 入れないのは仕方がないのですが、聞こえていないのは困ります。しかし、聞くことができるまでに時間がかかると思います。それはすぐれたメンバーと一緒に何かをやってみないとわからないと思います。  プロの演奏とか、やり方をみてわかるくらいであれば、それはその人の中にあるわけです。レッスンというのは、そこが難しくて、プロができることを皆さんに落とそうとすると、ほとんどが消えてしまいます。  「ララレレミミファファ」のどこをアクセントをうつとか、そういう説明をギリギリでやっても、自分が100でとっている感覚を1くらいにして伝えなくてはレッスンにならないからです。 

 プロの耳はどういうふうに捉えているのかということです。彼女らは少なくとも私と同じか私以上に聞けます。そのことがどういうことなのかということは、共同作業をやってみることによってのみ、わかるのかもしれません。その共同作業が一体どういうふうに成り立っているのかということがわからないと、違うということはわかっても、その違いが何なのかがわからないと思います。 

○100のうちの1 

 まず100回やって、その100回の中の100回目に、彼らが1回でとれることに近いものが出ればよいということです。そのための2年間、4年間なのです。  基本的に見えていないところにはいけないのです。今聞こえていないところをことばでいくら説明していても、実際はそうではないし、そうではなくとも、ことばにするとそうしかいえないのです。  それは100分の1はあたっているのですが、100分の10くらいは間違えています。いわなくても聞き取れる人はそこを聞き取っているし、わからなくても出すときにそうなっているのです。 

 今の中で「頬と頬を寄せて」というのに「ララレレミミファファ」と、ことばと音程で与えて受け取っているのは、日本的な教え方です。  それを感覚で教えてできたとするのも、その感覚から教えることもダメです。ピアニストも、それを一つひとつ認識して弾いているのではありません。音符の並びのところが自動的に線となって自分の中に入っているのです。強弱とか、リズムで捉えているというのは、皆さんの中に入っている音の高い低いというのではなく、そこの中のグルーヴとして聞こえてこなくてはいけません。 

○感触 

 本当のことでいうと、もっときちんと芯を捉えてから振りなさいということです。最初はとにかく振ってみるという時期も必要です。それを過ぎたら、まず9割をやるのでなくみる、聞くことです。100球のうち99球みて、最後の1球を合わせられるようにする方が必要だと思います。  何も見なくて振っているだけで、のどもいためます。そのうち悪いくせがついて、力づくでやり続けると直しようがないということになります。こういう世界はとても伝えるのが難しい世界です。  こういうことを繰り返しやっている中で、トレーナに伝えてもらいたいのは、何の曲でわかったのかということです。それを授業に落としているのです。自分はこういうふうに聞いていたからわかりやすかったというものを使っているのです。そういうところから一つのきっかけにしてもらえばよいと思います。 

○1を発見し、生じさせる 

 本質へのきっかけはある人にはわかりやすくても、他の人にはわからないかもしれません。今日のレッスンの中でも、10人いる中で1人くらいしかわからない場合もあると思います。2年経ってみても全然わからないという人もいると思うのです。それは自分の中で、わかるとかわからないということより、より本質的なもの、より基本のものを探る努力をしないと見えてきません。  10個のレッスンをやり、次にはその1個が10個に見えるように、自分の感覚が働かなくてはいけません。ちょっとした差に見えることがどんなに大きいのかということを聞くことです。  その違いがわかったら、その違いが一体何かということをとことん見ることです。それを自分が一番接点がもてるところでよいから、一つでも接点がつける。そしたら、それはゼロが1になったことです。それを積み重ねていけばよいのです。ゼロのままではどうしようもありません。 

○できること 

 ここではゼロを1にするのに1年かかってもよいといっているのです。たとえば一音目だけでもしっかりとできたら、次の二音目はわかりやすくなるのです。そのことに対してどう違うのかということがわかります。  レッスンではできることしかできないのですから、できるレベルにおとして、それをより深めていくしかありません。できることをより確実にできるということをやることによって、できないことが少しできることに近づくのを待つしかないのです。  音でもまず一つの音を出すことをやって、その音を確実に出すのと同時に、それを次にどうつなげるかということを、いろいろな呼吸で、いろいろなパターンで、形でやってみて、そこで音楽が宿ったとか、ことばとして通用した通用していないということを、自分できちんと見ていけばよいのではないかと思います。 

○基準の差全体をみる 

 始めは何でもよさそうに見えるし、少しできたら、どこもよいのでは、と思えるのは、スポーツなどでも同じです。ラケットにあたったらよいとか、とにかく投げればよいとか、それは基準が違うわけです。それはより、よいものを見ていたら、もっとあたりまえのこととしてわかるはずです。  歌の中でも全体が見えるということは大切なことです。全体が見えて初めて部分が見えてきます。ここでもいろいろな勉強の仕方があって、優れた人、優れてきた人、ある時に大化けしていきなりことばや音楽が聞こえるようになった人、いろいろな人をみています。そのきっかけは、ふと全体が目に入ったときにあると思います。  なるべくそういう人たちの見えた瞬間に近いようなレッスンをしようと努めています。 

○練り込み 

 こうやって皆さんに説明すると、わかりやすいレッスンになってしまいます。しかし、作るための練りこみの期間というのがもっと大切です。それは一生やらなくてはいけません。2年間でそのやり方を覚えたら、それを続けていくことです。10年で気づくことを2年でわかれば目にみえなくとも、その分成長したのです。 

○いえないもの 

 いろいろなレッスンに出続けて、何かそこには意味があるんだということを見て欲しいと思います。何か先生がいったとしたら、そこでいえないものに、意味があるということです。もどかしいですが、ことばではいえないのです。音楽を聞くしかない。聞かせても自分に観点がないとわかりません。その観点というのがレッスン1から100まで組みたてられるかといったら、なかなか組みたてられないのです。1から10くらいでせいぜいです。  逆にいうと、ここでやっているようなやり方とか、先生たちのいったことを元にして、自分でその材料を工夫してやることです。こんなことをしても仕方ないと思っても、そのことを何回も何回もやっているうちに、自分の中で実感できるようになってきます。 

○作品と方法 

 どこでもやっていることは他人のやり方に過ぎません。それ以上の自分のノウハウを作ることをやってください。作品と方法論というのはアーティストであれば一致するものです。きちんとした作品というのは、必ずきちんとした独自の方法論があって、できてきたものです。なんとなく気持ちでやってみたらよいものが出るということは絶対にありえません。  そのための材料を仕込んだり、自分の方法論を作ることです。それを方法に逃げることがいけないのです。  必ず結果を出そうと思ったら、そこに方法が必要になってきます。そうでないとしたら、バットを振ってみたらボールに当たったからうれしいといっているレベルに過ぎません。皆さんが日頃生きている中からもっと学べることがたくさんあると思います。 

○リピート感

 これも決して悪くはないのですが、音楽がリピートされるほどの感覚がないのです。ないというのは、ミュージカルとか舞台になってくるとなおさらそうですが、全体の中で動いていくだけでは、宴会と同じです。それは、内輪の人は聞いてくれるというのが前提があるからです。  日本の場合は、宴会芸から歌が生じたわけで、何かを舞台で表現しているとは違います。それが場にあっているような歌い方でもあるのです。そのためにはバックにオーケストラがついているとか、照明を含めた演出要素が必要になってきます。レッスンやトレーニングは、それを頼ってはなりません。 

○捨てる 

 技術や発声で動かそうとして勉強しているだけでは、それが捨てられないのです。そういうものが肌身にしみてくるものに優先し、日本のお客がそれを期待しているから困るのです。その実感と表現の実感というところの接点を時代時代に合わせて切り替える必要があります。昔のものをずっとやり続けるのはスタンスとしては、よいわけです。ただ、舞台で通用するというのはうしろに背負っているものがあるからです。一人でうしろに背景が出せるからこそ、世界をもってこれます。 

○ストレートな出し入れ 

 ピアフはフランスを代表する歌い手です。美空ひばりさんと、身長も同じくらいです。肺活量とか、体が大きくなければということは関係ないことです。とても小さい体で天才といわれているのですから。  歌い方の違いというのは大したことではありません。歌い方から発声らしさとか技術が切り離されたら、もっとストレートに多くのものを伝えられると思います。  舞台で応用されているものをCDで聞くというのは、はっきりいって邪道です。ビジュアルで見せているのならCDで聞くよりはビデオで見た方がよいのです。しかし、勉強する立場からは、CDでできたら生で音で聞くべきです。  こういうものもわからないままにとってみればよいのです。やはり見えないところは走れないでしょう。見えていないと動けないのです。人間というのは脳が納得してからでないと動けないわけです。脳は頭の中にあるだけではないということです。これをどう聞くかということです。 

○見方 

 来週はロスのユミコがきます。またB1のプレブレ座があります。よく見て欲しいのです。多くのの人は声量があるというようなところしか見ないのです。声よりも、感覚を見て欲しいのです。声域と声量はないよりもあった方がよいというだけです。感覚の中で声をどうコントロールできるかということ、いや、新たな感覚をどう作れているかということです。そこで創造して問う世界なのです。  そのときに脳の左側で捉える人と右側で捉える人と大きく違うのですが、別にどちらがよいとはいえないのです。日本人よりになってしまうのはあたりまえです。  日本語を使えばそうなることも、フランス語を使ったら変わるかもしれません。「チ・ル・ド・レ・ン」と英語の音を日本語で理解すると必ずそう出てくるのです。だから自分が出したところから自分の感覚を正していくしかないのです。  どういう感覚で歌っているのかということで聞いてみたら全然違うと思います。 

○通訳の役割と限界 

 ここの中で欧米人の感覚で歌っている人は、1割でしょう。入ってきたばかりでそうだったとしたら、海外で育ったか、両親のどちらかが外国人だということです。  たとえば今の「頬と頬を寄せて」のところも、始めの「頬」というところにアクセントがついてしまうのです。でもこれをよく聞いてみたらわかると思うのですが、ここに彼女が歌っているのは、「とーせーて」という感じです。アフタービートのところにフレーズをもって、強弱アクセントをとって入れているのです。こうやってことばで説明するのはすごく無理があります。だいたい、音楽をかけておけば、それほど多くを語るものはないのに、話すがために伝わるものが少なくなってしまうのです。でも、その語りの聞けないうちは、意味でなくニュアンスとしての通訳も必要かもしれません。 【「愛の讃歌」00.10.13】 

○ポイント 

 自分の中に音が流れていないと出てきません。レッスンではたくさんの曲を扱っています。そういうことが入っていると、ある程度、共通したポイントが定まってくるわけです。  大切なことは、このポイントというものをどう捉えるかということです。  たとえば作曲家の先生や歌の審査員などをする人たちが、さっと歌うと、声がよくないとしても、歌としてはずれていないのです。歌にはなっていないかもしれませんが、ポイントは押さえているのです。音程やリズムも狂うこともありません。そういう要素は歌い手にも最低限必要だということです。  かつて作曲家の先生というのは、歌手出身の人が多くいました。日本の場合は、早々に作詞や作曲に転向するのです。そういう意味で、ポイントが中心とされた音楽になるということがあります。 

○音楽の枠組み 

 なぜこういうものが失敗しないのかというと、失敗するところを全部避けているからです。  「アデソスィ、アデソケ、トゥバイロンターノ」とやるときに、強くしようと思っていなくても「スィ、ケ、ターノ」というところが強くなるのです。そこに音楽の枠組みがあるのです。その器をきちんととらないままやると、どんなに考えて、歌おうとしても、聞いている人に対して形を成さないわけです。  それに対し独りよがりな感情移入が入ったり、自分ではその方が気持ちがよいと思っても、そう伝わらない。つまり、それは聞いている人にとっては関係ないことです。 

○係り結び 

 声に感覚を取り出していくということでは、感覚というのは論理的なものなのです。詞も「去り行く今こそ知ったらだめ」というふうにはならないわけです。やはり「知って欲しい」とか「知ってください」だろう、というように、どの時代の人間にも共通した論理や感覚の進み方というのがあるのです。  ここを聞いていたらあとのことがわかるのです。ことばでいうと係り受けのようなことになります。そこの部分をきちんと当てるということです。この曲はABAと、色としては2色くらいしか使われていないのですが、どこを取ってみても構成に対して、ある完成度とあるテンションがあるのです。

○放り投げる

 こういうふうに切り取って聞くのは、音楽の聞き方としては邪道です。しかし、どこにでも音楽が満ち足りているのです。その人に入っている音楽がその人の声から出てくるわけです。そういうものに対応させるようなレッスンをやっているのです。  こういうものを聞いたときに、その中のどの部分を押さえなくてはいけないかに早く入っていくことです。そして、そこを放り投げることです。放り投げられなかったら、その結果を見て、まだ息が弱いとか、集中力がないとか、体とか感覚とか心の置き方を間違えたということを見るのです。他の人を見て、そこは入っているとかそういうこともわかってくるのです。 

○歌と出会う 

 誰でも歌えるのですが、歌おうと思って歌っても、それは歌にはならないのです。当人がその曲のなかで歌と出会わなくてはいけません。  皆さんはこういうところにきている。ということは、どこかでいつか、歌とは出会ってきているはずです。すごいなとか、よかったなとか、感動し泣いてきた人もいると思います。舞台では、そのときの心と体の状態を取り出さなくてはいけないのです。  練習のときにすべて出すのは難しいとは思います。しかし、少なくともその歌との出会いを少しでも早くやる方の立場からみることです。 

○突き放す 

 やっている人は突き放してはいますが、半分はそういう状態をもっているのです。観客は泣いていても、歌手は泣いて歌っているのではないのです。突き放してはいても、その心を大切にもっている。しかし、提示するためにあとの半分は切り捨てています。冷静にそのことを見ている自分がいるわけです。全部を突き放すと、今度は音楽になりません。音が音楽になるとき、あるいはことばが歌になるためには、それをまず感じなくてはいけないのです。 

○無限の出会い 

 こういう曲を聞いたときに、他の人は全然感じとれなくても、自分はここが感じたという部分をもちましょう。歌い手というのはそれを増幅して出すようなものです。  そういうふうな捉え方で、まず出会うことです。できたらこの曲に出会って欲しいと思います。5回くらいのレッスンの中で出会えたら幸いでしょう。  しかし、急ぐ必要はありません。出会いというのは結果的にそれを自分が出せたときに初めてわかるのです。出会ったときにはそれが出会いとはわからないわけです。あとで考えてみたら出会っていたというものだと思うのです。そこには無数の忘却の出会いもあります。  歌でも、自分がそういう感覚で動き出してきたときにはじめてわかるのです。それをレッスンでは同時に一瞬でやれといっているのです。聞いて、それを租借して、それですぐに勝負しろといっているのです。  それをやれるのは本当に一握りの人だけです。どこのレッスンでも同じです。そういうふうに捉えて、ここの中の本質的なものというのは何なのかということをみてください。その他のところは捨てていけばよいのです。 

○日本語での表現 

 発声だけで純粋にやるのであれば、イタリア語の方が楽で、声も出やすいです。なぜ日本語を使うのかというと、表現のためです。イタリア人がイタリア語でこういうことを歌っているものを、こういう音色に変えたのならば、自分はどういう音色で出すのかということを見ていくためです。  こういうものを聞いて全然わからないうちは、なんでこんなにかったるく歌っているのかと、思いがちです。でも自分の方がうまいと思って歌ってみると、自分の方がもっとダラダラになってしまうでしょう。それに気づいたことが優れていることです。 

○本当の実力差 

 こんなに適当に歌っていても歌になるほど、その人には徹底して音楽が入っているということです。細胞の一つひとつまで音楽が入っていて、それでやっているから、これだけ声が自由に扱える国で歌い手として認められているのです。  一見、発声が大したわけでもないし、歌としてそんなによいわけではないと思うのですが、自分がやってみてできないところに大きな差があるのです。  それは声の差とか、歌の差ではないのです。音楽の思いに対する差とか、その音楽の使い方に対する差です。それは年を経ないとわからないと思いますが、とにかく自分がやってみると難しいということをわかったら練習になると思います。 

○変化と創造 「心だけはいつまでもあなたのものよ」

 自分でやってみて、ギャップを知ればよいのです。ギャップというのは、この人と自分とのギャップということではなく、この中では何か違う変化を起こしたことが連続して聞こえているのに自分では起こせていない。そこに何か起きればよいということです。自分で起こそうと思っても簡単に起きるものではないから、そこに入っていくしかないのです。 

○人でなく音楽に入る 

 イタリア人に入っていくのではなくて、音楽としての彼の動きの中に入っていくのです。そのまえに、なぜ作曲家はそうやったのか、作詞家はなぜそうしたのかということです。そういうことを総合的に考えて、出してみます。  皆さんのフレーズには何も起きていないのです。それは声の問題ではないのです。歌になるところでやったのかもしれませんが、伝わるものが出ていません。  この中の本質的なものは何かというと、「いつまでも」の「も」のこの音色において、「あなたのものよ」というところに追い込んでいくということです。ここの駆け引きが、歌としてできていなくてはいけません。ここにあなたの歌や音楽が生じなくてはいけません。さらに生じてきたものに何かが乗らなければ、そのままで終わってしまいます。それは単に流れているだけです。 

○音楽が走る 

 でも、そんなに悪くないです。悪くないというのは、そこの中で変化できる可能性があるということです。器があったら、あるほどそれにうまくフィットしているようにはなりにくいのですが、うまくは入れなかったり、うまく出られないだけなら、とてもよいことです。そこのフィット感を自分でつけていけばよいと思います。それが音のイメージです。イメージとともに、結果としては音楽のルールです。  音楽が走っていないとすごく難しくなる、ことばも先がつまってしまいます。なぜつまってしまうかというと、体とか心のイメージが走っていないからです。それは音程がわからない、ことばがわからないというよりも大変です。音楽が走っていないからです。  その中でポイントをつかんでいけば、全部を歌う必要は全くないのです。シンプルにするためには大きくつかまなくてはダメです。音楽にも一つの流れを扱う器があります。 

○打ち込む 

 日本人というのは、拍の同じところで打つという感覚がないのです。向こうの人たちは言語がそうなので会話の中にもあります。だから、日本人はよくとんでもない崩し方をしたりするのです。大体、呼吸がもてなくなって、寸つまりになりがちです。一番はきちんとはめているのに、二番はもう聞けないほどレベルダウンするのです。  はめるべきところにきちんと打ち込むというのは、楽器の感覚というより、音楽のベースの部分です。それがテンポとリズムです。音楽はリズムから始まったといわれています。今の日本の歌はそれを抜かしたところから始まったかのようです。 ○寸法 「ゴンドラの歌」  歌というのは何百回も叩き込んで、それで歌えたらよい、そのあとに狂わなければよいから、時間がかかってもよいのでしょうが、優れている人は、これを一回でとれるのです。その力というのはそのときにどういう寸法で見て、自分の体と合わしているかということです。  音でいうと、ドからドまで1オクターブあります。そこのスケールの7音を使います。でもこういうふうに考えていくと、すごく混乱してきます。スラッとすぐに弾けるわけではありません。 

○選曲の接点 

 この歌い手はどこかでこの曲に出会ったからやっているわけです。出会っているというのでは、世界中の曲から選んできているわけです。  この中の何かがよいと思った、そして、そのよいと思ったものを自分がより引き出せる、あるいは自分のよいところをこの曲で出せると思って、接点をつけているわけです。  その接点でつけてみると、いろいろなものが見えてくると思います。その方が楽だと思います。  うしろでワルツのリズムが流れています。フレーズというのでは同じものが繰り返されているわけです。その寸法をとっていくことです。 

○発見する 

 こういうものを聞いて、どこまで同じ声が出るかとか、どこまで出せるかというようなことをやるのではありません。そこの中で音とか歌を発見することです。創造しましょう。  皆さんもここにくるまでに、どこかで歌や音楽と出会ってきたでしょう。  当然その歌い手は、そこに何かを入れていたのです。それは、そのまま、まねて受け手が感動するものとはなりません。歌い手が意図しているか、意図していないかは別として何かをやった結果、伝わったもの、生じたものがあるわけです。それは彼がこの曲を作ったり、選んで歌っている理由になるものです。  皆さんが自由曲を選ぶのは好きだからとか、慣れているからだという理由によると思いますが、そうではありません。要は、自分を通してその曲の魅力がどのくらい拡大できるかです。自分の魅力とか、自分のよいところを、その曲を歌うことによってどのくらい出せるかということを創造するわけです。 

○仕掛け☆

 曲をパッと与えて、パッととれるかどうかということは、この中の本質をとれるかどうかということなのです。歌の世界というのは、そう難しい世界ではありません。ただ、気持ちがよいかどうかというくらいです。しかし、曲のいたるところに、相手に伝えるための仕掛けのようなものがあります。  たとえばリズムやグルーブ、フレージングなどです。その器の中にすっと入れて、すっと離すと、そこでゼロになるわけです。ニュートラルな状態で舞台ができるのです。  ほとんどの人がカーブを曲がり損ねるように、そこに入り損ねるのです。頭と口先で変じた声でやってしまうのです。これが体に入っているところから本当に出るには年月のかかることです。 

 自分の歌を細切れにして聞いてみると、音楽がそこに走っていないことがわかるでしょう。音楽が流れているというのは、部分的にそれぞれが完成しているがゆえに、自分の遊べるところも決まってくるのです。  特にダウンビートのところより、アフタービートのところで差が出ます。  日本人というのはそういう感覚では勝負しません。そこで変にメロディで歌ってしまう人よりも、本質のところだけを打っている方がうまくきこえるのです。皆さんが聞くときも、そういう聞き方で聞いてみてください。 

○余地 「心だけはいつまでもあなたのものよ」 

 フレーズを出せた人は今ひとりだけです。フレーズが出せるということは、あとで動かせる余地があるということです。ほとんどの人の場合、4つが4つのまま動かないのです。  エセ役者タイプとエセ声楽タイプがいます。役者のようにいってみても、それでは音楽にならないし、声楽家のように歌っても、呼吸が全部同じでは、その人の中で心も感情も変わっていないということです。そのくらいのことなら、私でも口の中で全部できてしまうからです。神経や体がいりません。ということは、正しくはないのです。  声楽の授業は10分の1のことを確実にできるようにするためです。10分の9は教えられないことだから、10分の1でも確実にやる方がよいからです。10分の1くらいでも教えてもらえればよいと思っています。  声楽家になるのは大変です。しかし、声楽家にならなくても、伝えられることをポップスの歌い手はたくさんもっているということです。 

○方向とおとしこみ 

 たとえば、この3番目のところの発声というのは声楽の場合、許されません。もっと高いところでファルセットに似たようなものを使ったりはしますが、こんなところではこの声は、普通は使いません。  ポップスの場合は、逆にどこかで焦点をつけないと、降りてこられないのです。「アデソスィ」と「アデソケ」の連関を考えないのです。歌はそうではなくて、始めに「アデソスィ」という山を置いたら、次にはその山を踏まえて、それを同じように繰り返すか、また違う方向にいくかということです。ここをやったときにほとんど最後までのパターンが決まってしまうのです。  へたな歌い手というのは、始めと次のフレーズが方向違いになるわけです。それと同じようなことを音の世界でやってはいけないということです。「こころだけは」に対して「いつまでも」をきちんと置かないと、「あなたのものよ」と落とせなくなります。 

○予感と伏線 

 勉強すべきことは、この人と同じようにそらすようにやるのではありません。なぜ彼はそこをそうやったのかということです。その原因はそのまえにあるわけです。そこで何か変化を起こせる、きっかけやチャンスがあるということです。そういうところを読み込んで、自分だったらどうするのかというふうにみていかなくてはいけません。  音楽というのは予感させるものや伏線が常にあります。それをきちんと守ってやると心地よく聞こえるし、それを裏切ってしまうとダメです。  たった4つの中で気持ちの変化、感覚の変化があります。だからといって4色がバラバラではなく、一つの線のつながりの中に、どのようにその色合いなり、呼吸を見せられるかということをやって欲しいと思います。サビのところでしっかりと入れているから、最後の気の抜けたフレーズでも、もってしまうところがあります。 

○歌わない 

 音楽というのはおもしろいもので、気が全部入っているからといって曲が心地よく聞こえるとは限らないのです。この人がどうしてこういう曲を作ったのか、またこの曲を選んだのかというのは、何かこの曲に接点があったからでしょう。どこかが音楽になっていたり、どこかが歌になっていたわけです。  そこの部分をとってこなくてはいけないということです。さらに、それを自分で移し変えたときに、どういうふうになるかということです。  レッスンを日本語でもやっているのもそのためです。単に発声だけだったらイタリア語の方がよいのです。でも日本語を入れてみないと、そういうところの動きというのは出せません。それから自分の呼吸に変えてやるということができないと思います。  歌ってしまうと大体失敗です。せりふも歌も話も同じです。自分がのめり込んでいくほど、客は引いていきます。 

○止まる 

 今の歌い手の不幸というのはそれで怖いという思いをしたことがないことと思います。昔は、客が引くのも怖かったし、ことばが出てこなくなるのも怖くて、敏感になったことでしょう。そこまではよかったのに、日本人の気質は、神にでなく、大衆へおりていき、それでますますことばをいうようになっていくのです。  歌を聞いている人はその間を聞いているのです。歌い手は止まっているところをうまく作ってあげないといけません。自分勝手な一方的なものにならないように。 【「去り行く今こそ」FA(1)(2) 00.11.8】 

○身の丈に合っていない声は、使えない 

 ジルベールベコー、シャルルアズナブール、アダモです。どうしてこういうヴォーカリストを使うのかというと、舞台と表現と音声というなかで、音声がどう音楽になるのかという部分で弱いからです。舞台というのは、基本を勉強するときに5、3、1くらいで考えて、ほとんどの人が発声をやりたいといってくるのですが、声は歌からしてみると10分の1くらいなのです。  今の発声を聞いても、すぐに勉強になるわけではないのです。しかし、そこで共通しているものがあって、その10分の1がいかに大切かということがわかるためにやります。残りの10分の9に、すごい必要性を感じていなければ、10分の1の大切さがわからないわけです。  ところが声が10のように思っている人が多いのです。それは大きな間違いです。たとえばファッションでいうと、どんなに自己表現をして、どんなに格好よく飾り付けてみても、その人間の体に合っていなければ、ぬいぐるみにしかならないでしょう。建築でいうと、どんなに工夫して、頭でっかちな建物を作ってみても、立てている間に倒れるようなものであれば意味がありません。 

 基本ということでいうと、歌というよりも先に舞台ということを考えた方がよいと思います。自分がやってみたあとに、舞台を見てみたらどう違うのかということです。同じマイクを使ってみて、同じスピーカを使っていると、そういうことは舞台を見るのにわかりやすいと思います。  斬新なアイデアがあったら、新しいことがやれるかもしれませんが、そういうことの材料とか、素材の知識とかを全然知らずに、いくらデザインを描いてみても、それはものにはならないということです。  今やっていることは、音声の中でもこの舞台がもつところの音声です。舞台がもつということは、失敗してもそれほどひどくならないということ、つまり、ステージとしてもつということが大切なのです。それはその人の中に音楽が入っていて、完結していて、一方完結しているけれどもそこで止まっているわけではなく、次の動きを作っていくからです。そのために必要なことが舞台にはあります。それは、その人に表現があるかどうかということです。 

○一秒のなかの動きを知る 

 今まで歌というのはこういうものだと思っていたことを全部白紙にして、体と心のところに戻って、自分の体というのはどう働くのかということからみてください。  2年間でできることというのは、たった一瞬1秒でもよいから、その1秒が30秒確実にとり出せたら、世界に通用するとか、誰もが認めるというところの、その1秒は一体何なのかということを知ることです。  あとは、その実現に取り組むことです。いつか、これさえ動かせたら使えたら、自由に表現できそうだというものが感覚できるかどうかです。  だから今日は何を勉強して、明日は何を勉強して、ということではありません。それがステップアップしていかないといけません。  自分が歌ってできるようなものであれば、今までもできているのです。 

 優れた歌い手が何かを自分に叩きつけてくれるのですから、そこでは場が成り立つわけです。その場のテンションと同じ感覚の中で自分から声が出るということは、すでに自分ではないのです。その状態を意図的に出せるのがアーティストです。その中に入っていくことです。  そこで他人は他人で、俺は俺と考えてしまうと、いつもの俺になって、ほとんど退屈なものになってしまいます。それに気づいていかなくてはいけません。  レッスンというのは、今までの日常のものがパッと離れるところです。 

 日常というのは、表現活動を抑制します。日本の場合は、会社や学校でも、イマジネーションを殺して、他の人たちと同じことをするように考えていくので、自分ではこの方がよいと思っていながら、それを抑制してやっていかなくてはいけません。その習性が体にも頭にもついているわけです。  だから、すぐに開放しろといっても、なかなか開放できないのです。それはイメージの中で変えていかなくてはいけません。 

○音の線でみる 

 ここでやって欲しいことは、音の線をみることからです。歌い手の音に直接触れて、そのときに変わった感覚とか、体の使い方のところで会得していくのです。それだけで補えられないから、ヴォイストレーニングがあり、他のレッスンがあるわけです。そればかりやっても、何も出てきません。  そういうふうに思いながら、声は声で認めてください。声の使い方も大切です。それが音楽になるというのは音楽が入っていないといけません。その3つの段階があります。  「ハイララ」でも、それしか考えていないとそれしか出てきません。表現するということを知っていたら、そこにあとで何かが乗ってきそうな動かし方のベースのところが出てくるわけです。  プロの作品はある程度動かしたあとですから、動かすまえの見えないところをみることです。そこを自分なりに感じてみて、デッサンしてみることです。その線がどう見えるかというのが、その人の能力です。 

○前後を読み込んでおく 

 まずことばでやります。心と体をできるだけ働かせてみてください。  ここでやれていることは、本当に最低限の10分の1です。10分の1を聞いてみて、10分の9を自分で勉強してみてください。今何が起きているかわからなくても、どこか一つでも接点をつけられるようにしてください。歌もセリフも、象徴化されているのです。  歌詞はことばをいっているのではありません。その背後のイメージそして、その前もあとも全部引き受けています。一声、発してそのまえを全部引き受け、そのあとを全部予感させることをやっています。  そういうことを頭ではなく、できるだけ体で早め早めに対応して欲しいと思います。つなげてドラマを作っていくということをやってください。1行ずつ読んでいきましょう。正解も間違いもありません。自分の心と体が動くところまでやらなくてはいけません。 

○作品を発表する 

 できれば発表を週に1回、最低で月1回くらいやって欲しいと思います。  日本人というのは難しいもので、たとえば、月に1回発表会があって1曲が課題曲だというと、それでやることを限定されてしまう人が多いのです。そうではなくて、それは自分の日常の勉強の中での発表の場と考えるべきです。たとえば、1曲が課題曲だとすると、10曲くらいやってみることです。月に1回の発表としたら、月に4回の発表をセットしてみるのです。そういう学び方そのものとか、問いそのものを作るということを、日本の教育ではやっていません。  ギリギリで一夜漬けでやるということには、徹底してやり方をマスターしたり、しのぎ方を覚えるのですが、それはこなしていくだけの話です。作っていくこととは違います。 

 伸びていく人というのは、月に1回の舞台に対して、月に10回のものの対応ができる人だけなのです。いろんな機会を使ってください。  本当にそれが欲しいと思ったら10回見ればよいのです。やったからこなしたということではないのです。  課題も同じです。まずその人がやろうとしているのかしていないのか、そのやるということがどういうことなのかということです。少しでも試みようとして、少しでもイメージを働かせようとしていることです。それを試みたり、考えたりしたことをやったというところで終わっているのか、それともその終わった結果をきちんと引き受けていくだけのことをやっているのかです。  まず試みること、次にやること、そしてやった結果を引き受けること、そしてやった結果に修正をかけていく、ということで初めてレッスンになっていくのです。 

○結果をみる 

 皆さんの中でも、まだどうやってよいかわからないとか、本を読んだだけで精一杯の人もいると思います。そこで安心していてはダメです。その次の課題にいかなくてはいけません。  何でも、やれたことがよいのではなく、やった結果がどうなったのかということが大切なのです。歌は覚えたら誰でも歌えるのです。そうではなくて、その結果がどうだったのかということをきちんとみていかなくてはいけません。  本当のことでいえば、1回目のを修正してみて2回目にどう出せるかという力が大切なのです。厳しい人なら1回目と2回目が全然違ってきます。だらけたところでは、1回目どころか10回目になっても全然変わらないのです。トレーナーや仲間から刺激を受けていくことです。それは、舞台でも、レッスンでも同じです。 

○感情移入 

 応用というのはいろんなものがあってもよいのですが、基本を勉強するときには、体や呼吸を読んでいかないといけません。感情移入してそこに入ってしまったらダメです。感情移入しようと思ったら、日本人の場合は引きがちなのです。役者や声優の世界でも同じで、そのときはよいかもしれませんが、他の応用が全然できなくなってしまうのです。もっと体の強い力が働かなくなりますから、まえに進めなくなるのです。  周りが進めてくれるのにのるのではく、歌もセリフも、自分の呼吸で動かしていかなくてはいけません。そのために最低限の原動力というのが必要です。それは声の大きさではなく、まえに出さなくてはいけないということです。 

 感情移入をするよりもことばとかストーリが進んでいること自体の方が大切です。  日本の場合は、相手が聞くことが前提だからよいのですが、そこで体の原理から離れます。皆さんに働かせて欲しいのは、体の原理から声が出るというところです。  表現というのは、圧力とか、加速度がついていくのです。どこかのところでは急に早くなるけれども、どこかではぐんとゆっくりになるとか変化します。  表現というのは、沈黙のときに、もっとも相手は受けられます。歌でもセリフでもその沈黙を作り出さなくてはいけないのです。そのためにはどこかに踏みこまないと、そういう遊びの空間、つまり間ができないのです。 

○感じて変えていく 

 一流の歌手を見本にするのはよいのですが、見本にはならないから、見本になるように選ばないといけないということです。  なぜここが全体を使っているようなヴォーカルを始めに聞かせているのかというと、そういうヴォーカルとか、あるいは2オクターブくらい出せるヴォーカルでなければ、差がわからないからです。ヒップホップを楽に歌っている人たちのようなものをいくら聞いても、皆さんの体の細胞とか、感覚に染み込んでいかないのです。あまりに簡単に歌えたがために、自分の楽な方の感覚が働いてしまうのです。  こういう人は、皆さんよりも数倍体が強いのですが、それでも目一杯体を使っているところが感じられてきたら、皆さんの体も変わってきます。基本ということでそちらをやっているのです。こういう課題はそういう基本のベースとしての音色の部分を捉えることです。 

○一つにつかみ、一つで放す 

 歌うことではなく、歌の中にある原型の動きを捉えることです。4つに捉えた人は、これが4つに聞こえるはずです。今やることは、一つにつかんで、一つできちんと放り投げていくことです。それがよいか悪いかはわからなくても、そこで始まったとか、そこでいろんな可能性があるとか、それから右にも左にも動かせるという、その一番柔軟なところをやることが基本なのです。  基本を勉強するときには、そういう教え方はしません。やるときにまだバラバラになってもよいのです。ただそこで何か始まったなと感じさせられればよいのです。たくさんのことをやるからよいというのではなく、少しのもので多くのものを残すのです。相手に何を残すかです。 

○感情を拡大して読み込む  

 音楽になるまえに感覚を拡大することです。たとえば悲しみの歌でも、感情移入するほど小さく抑えていくのが日本人です。向こうの人は「僕は悲しいんだ、どうすればいいんだ」というような情感がその人の中に渦巻いていて、それが強く激しい音になって表われてくるのです。だからその中に入りこまないといけません。  でも音楽は激しくやるだけではありません。もっと静かに違う目的をもって、一つの音の中にそれを集約させていきます。だからといって、心とか体とかが引いてしまうといけません。  今皆さんが本当に集中して、パッととりだせて何かを起こせるというのは、本当に一音か二音なのです。ここで半オクターブを2年かかってもよいといっているのもそういう理由からです。  日本人には一曲は難しいから、4フレーズから8フレーズでもよいといっています。そういう基準を自分の中でみつけてもつことです。 

 どこまでは自分が作っている、動かしている、どこからは足を引っ張られてしまっているのか、それを知ることです。それを切らない限り、上達しません。歌は音さえとれれば、始めから成り立っているのです。  そこでの心とか体の柔軟性や動きというのは、もっと自分の中に入れていかないと、出した音が歌い出すことにはなりません。集中力を保つのは難しいことです。  それとともに、役者と違う意味の感情移入的なものが必要です。音の進行に素直についていきながら、その中にきちんと置いていくということです。 

 プロのを聞いてみると、あまりにレベルが高かったりすると、何もやっていないように聞こえるのです。そういうわけではないのです。一つひとつの音に、それぞれ違うように入れているのですが、それを意識せずにやっているのです。結果的に出ているものがそうなっていればよいのです。結果オーライの世界です。  自分が動かしたものが、あとから落ちていくことを感じながらやっていくとよいと思います。そこに自分が入っていかないといけません。  スクールで、一番ダメなところは、周りの人や先生のために、自分が出せなくなってしまうことです。それは一人ひとりが壊していかなくてはいけません。 

○自分にひびくこと 

 要は、おもしろいことをやればよいのです。おもしろいことというのは、単に笑わせることではなく、何か聞こえてきたとか、あいつはこういうふうに解釈しているとかです。あまり歌は考えなくてもよいのです。皆さんがこういうものを瞬時につかめるかということです。  わからなかったら、歌一曲でレポートを10枚書いてみるとか、小説を書いてみることです。そういう手間ひまをかけて、ことば、メロディ、歌なんでもすごく自分にひびいてくればよいのです。そういうものが自分にひびいてこない限り、あなたからそういうものが発されることはありません。 

 実際の体験ではなくとも、イマジネーションの世界でよいのです。皆さんにとってはバラバラな世界のように思えるかもしれませんが、とにかくどんな無駄なことでも、どんな人生経験でも、読書でも、映画でも、見たあとに自分で編集してください。その場でバッと出していくというような頭に切り替えていくことです。たった一つの中に全部を入れていくことです。その中に全部、自分の生涯、価値観、考え方を入れていくのです。そうやらないと、大して何も出てきません。 

○人生経験から引き出す 

 歌とか芸事がよいと思うのは、どんな無駄をしていたり、どんなに辛い目にあっても、それが糧になることです。たとえ社会人としては失格でも、そのことを自分が拾いあげて、きちんと選ぶことさえできれば、歌に生きてくるということです。  現代の仕事では難しいです。セールスができないとか、電話かけがへただといっていたら、どうしようもないからです。こういうものを自分が全部引き受ければよいのです。  でも皆さんはまだバラバラなのです。そういうものは映画でも、本でもよいですが、自分が出す方向に全部を位置付けしていくことです。  皆さんはいろんなものをもっているのですが、まだ使い方がそうなっていないのです。それがたとえ役者のレベルまでできても、音楽はやはり音楽をいれなくてはいけません。映画とかも音楽と一緒に聞いていったら、たった一つの音とか、イメージとかを、どれだけ自分が感じられるかという豊かさがないと演奏家にはなれません。 

 そういうことは意図していくと、相当変わるものです。意図していかないと10年経っても100年経っても変わりません。常に音には接していきましょう。それは楽器の人たちと同じです。 

○感情を音色とフレーズにする 「今、僕は」

 日本語の勉強ではありません。「エマンテノン」は、「ノン」のところが強くなっています。日本語だと「いま」の「い」があがってしまうのです。「エマンテノン」に対して、そのまま歌詞が乗るようにしています。  皆さんがこの曲をレパートリーにするわけではないのですから、そこは使い分けておいてください。この曲を教えているのではありません。  考えなくてはいけないのは、「ハイ」の中で何か出てきそうな感じがしていても、こういう長いフレーズになると、均等に置いていってしまうくせです。  今やったことはあまり練習になっていないのです。前半の練習の方がよっぽど勉強になっています。それはまだそこに皆さん自身のものが出ていたからです。  「ハイ」とか「ラ」は一音ですから、動きも何もなくて、組み合わせでいうと、ここまでのことで歌の3分の1が終わりです。要は試みになっていないということです。試みになっていないのですから、結果も出ないし、そのままだということです。 

 一番大切なことは、デッサンにしろ、皆さん自身の感覚の線を出すのであって、その感覚が死んでいたり、あるいは人のものだったら、セリフをいっているよりも歌は動いてこないということです。その構成を自分の中でもっと自覚しなくてはいけません。  こういう人たちはもっと体が強いですから、わかりにくいかもしれませんが、皆さんが舞台で歌ったとしたら何も出てきません。そのくらいのものだったら、歌にならないということです。その程度の君ならばそれでいいんじゃないの、ということで終わってしまいます。ドラマが始まらないのです。サビにいくまえで終わってしまいます。 

 皆さんに今やって欲しいことは、一つは声のベースのところで、そこで動かせるところです。  「ハイ」で10の力が使われていたとしたら、今のフレーズでは2くらいしか使われていません。今大切なことは、10の力があったら、それを使い切るということです。  「今僕は」というところに、次の「どうすりゃいい、君はもういないのに」までを入れなければダメだということです。そうするとそのあとも聞こえてきます。だから歌っている方も楽になります。感情を音色とフレーズにするということは難しいことですが、それを音で聞きこむということをしてみてください。 【「そして今は」FA(1) 00.11.8☆】 

○ひと声、一言、一フレーズ 

 そのままにしておくと、また気づかなくなってしまうでしょう。普通に戻ったときにまた失われると思わなければいけない。2年の中で、その一瞬をつかむために来ている。  その一瞬さえ30秒キープできたら、1曲すごい曲になるというための一瞬、1フレーズ、一言、ひと声。それは普通の自分の状態では出ないから、優れた人たちが歌っているところで、体がそうなっているという幽体離脱のように自分の体に受けていくことです。  それは自分の体から出ているように思えないが、自分の体から出ている自分の声だから、自分のものなのです。アーティストはそこでやっていくものです。自分の力だけでやっていくのとはすこし違います。 

○自分が背負う

 日本人は、台詞を言うときにも歌うといったらもっとわけてしまう。その程度であったら歌にならないでしょう。どうでもすれば、となってしまう。それを起こさないために、その歌詞の裏にいろいろなイメージがあったり、いろいろな理由がある。あなたが背負わなければ、誰も背負わないのです。作詞家や訳詞家はこれを背負って書いたわけです。最低限、ひとつの中に凝縮して表現している。  それを私もあなたも知ることはできませんが、あなた方にはあなた方の世界があって、経験はなくとも、イメージの世界というものがある。そこの中にもってこなければいけない。

 それを音声で出さなければいけないというのが、次の問題です。前に出さなければいけません。ある程度、動かし方や上手さ、下手さ、というような技術的なこともあります。役者や声優になりたい人は徹底してやるべきだと思います。歌にはそれより優先する要素があるというだけの理由で、何も出てなくてよいというわけではない。  ひとつだけでやってみましょう。たとえば「今 僕はどうすりゃいい」、そのあとにいろいろと続いて「こんなに苦しい」まで背負っているわけです。  後の歌詞がわからなくても、何か自分でつくらなければいけない。これだけでわからないというのは素人の世界で、足りないものは自分のイメージで補わなければいけない。 

○働きかけの土台づくり

 相手に訴えなければいけない。訴えたところで、その訴え方の是非と、その修正がかけられます。あれはやりすぎだとか、呼吸を外しているとか正します。そこまでやられるとひいてしまうというようなことは、あとから出てくるものです。  まず、働きかけの土台にのってこなければだめです。そこに体や声や感覚、聴いていることを使っていない。それはあなた方に入っていないから仕方ないのですが、入っていなくても、少なくともあのレベルの人たちがここでレッスンをやっていて、順番がまわってきたくらいの感覚でやらなければいつまでたっても変わりません。

 練習だから失敗をしてよいわけで、ステージになると守らなければいけなくなってしまいます。ここでやれなければ、家でももっと難しくなるでしょう。ひとりでやるのならよいのかもしれませんが、それには場がわかりにくいです。  聴いている人がおもしろくならなければいけません。それは楽しくなるとか笑い出すというおもしろさではありません。何が出てくるのだろうと、空間や時間が変わったという状況をつくらなければいけない。それをつくらないから歌にならない。  音楽面では後で注意します。今は台詞の中でやってみましょう。台詞の中で声を動かすこと、日本語は使いにくいのですが、やってみましょう。

○朗読から歌へ

 朗読の中の動きや感覚を100回でも1000回でもやってみて、はまった、それた、入りはよかったが、出方がまずかった、とかいうような感覚をもつことです。  これは音楽と同じです。歌おうが喋ろうが、何かを成し得たときに、どういうふうに結果や波紋を生じるかということです。  歌でもMCをしなければいけない。この台詞をただ言えても、何も伝わらない。どう構成するかというと、自分の中でその世界を理解していかなければいけません。まず論理的な理解があります。これも音楽に置き換えてやっていきます。 

 「今 僕はどうすりゃいい」「君はもういないのに」という状況があって、「すべては消え去って 僕ひとり たったひとり」。次のところで展開するわけですが、ここまでのことで、ほとんどのことを言い切っているわけです。後は「ねぇ、誰になんて聴くのか 胸はからっぽ 教えてくれ なぜなぜこんなに苦しい」、苦しいというのもわかるけれど、よく考えたら意味はわからない。  それは今やるにはよいのです。今は入り切る、入り切らないこと、それが動く動かないということを、自分の中できちんとやってきなさいということです。 

 日本語で言うと「いまぼくは」というかたちになってしまいます。「どうすりゃいい きみはもう いないのに」、街頭演説の下手な人のようになってしまいます。そういうアクセントのつけかたは日本人はやりませんから、そのままもっていくのは難しくなります。  でも、そのポジションや動かし方の感覚に近づけなさいということです。どこで踏みこみ、どこで止めるか、どこで止めたものがどこにいくかという意味では同じだということです。「くは」「は」「もう」「に」というのは入りにくいから難しいのです。 

○転じる 

 ここにメロディがつきます。「今 僕はどうすりゃいい」、これは提示です。あまり弱々しいと相手を引き込めないので、ある程度は強く出しますね。次のところの「君はもう」では変わります。起承転結と考えると転ずるところです。ここには、心を込めたり弱くしてみたりして、強さをひくことによって相手をより引きつけてみる。「いないのに」を小さくしてしまうと、次にもっと強く出さなければいけなくなってしまうから、そこではまた、提示と同じくらいのスピードに戻しています。理屈をつけると、この人がこうやりたいだけのことで、皆が違うようにやるのはかまわないのです。 

 使っている音は「りゃ」のファを除くと、3つだけです。「君はもう」で弱くなる理由もわかります。「ド ミ」となっていたのが、次には「ド レ」となります。それだけ高いジャンプがなくなります。「いないのに」は「ミレドレミ」で終わっています。  たかだか4つのフレーズで、これがひとつと捉える場合もある。両方で捉えなければいけないと思います。これで全体と捉えつつも、全体の中に動きがある。4つと決めつけない方がよい。  今日、皆さんに言っているのは2つです。まずひとつが台詞。「今 僕は どうすりゃいい 君はもういないのに」というひとつのフレーズがある。もうひとつはコードやハーモニーの音楽的な進行です。これを一致させることをしないとだめです。自分を出すのも大切ですが、音楽を出さなければいけません。「今 僕は どうすりゃいーい 君はもーういないのに」、こういう歌い方もあるし、これをもっとリズミカルにやっていく方法もあります。しかし、基本の勉強をやるときにはやらせたくない。それはあなた方がステージで、やればよいことです。 

○音の中の感じと柱 

 基本のときには、もっと大きくもできるし小さくもできるように、ビーンとも伸ばせるしパッとも切れるというところを体で確保しておかないと、すぐに小さくなってしまうのです。  今は破綻をきたしてもよいから、思いっきりやっておかないと器自体が伸びていかない。それは一時、歌の上達と逆行する場合があります。  こうやって小まめに打てていたものが、もっと大振りで打ちなさいと言われたら当たらなくなってしまうのと同じです。体がそのフォームをとれるまで時間はかかります。練習はそのことをやっておくのです。本番になったらなるようにしかならないし、音楽を走らさなければいけない。それから出しすぎたと思ったらセーブをする。 

 やって欲しいのは、心と体をひとつにするような台詞のところ、そこに余計なものを削ぎ落としていって、音楽をつけること。それと音の流れから、音の中にそのことを感じていく。あるいは自分が考えていることを、その音の中につめていくということです。これが皆に受けていたり、日本で歌いたいという人が出て来たりするのは、日本人の感情の中にもこういうものに喚起されるものがあるからだと思います。  それとともに柱を立てていくことです。皆さんが甘いのは、間のつなぎのところです。「今 僕は」とやったときに「はぁ」と乱れてしまって、「どうすりゃい〜い」とか、何か違うことがそこで起きてしまいます。それは楽器からいうと、邪魔なことになってしまいます。ただ、その上で勢いやパワーが走っていたら、それも魅力になったりします。  無茶な動かし方になってしまうと、今度は好きな人と嫌いな人が出てきます。それはそれでよいのです。基本の勉強ではこういう教え方はできないので、握ったらこういうふうにいきたくなる人間の呼吸があるという部分に沿って線でつくることです。 

○無駄の排除 

 「どうすりゃいー」とひっぱっても音楽にならなくはないのです。それに無駄な力が入っていると喉を痛めてしまったり呼吸が止まったりして、次のところに入りにくくなります。構成を呼吸で捉えることが大切です。  「今 僕は どうすりゃいい 君はもういないのに」でひとつ、「すべては 過ぎ去って 僕ひとり たったひとり」、こういうところも伝えようと思ったら、それなりに体を使わなければなりません。音楽の中で感じながら、呼吸を一致して動かさないと、何も入ってこなくなってしまいます。  聞こえないところも見ていくことです。歌い手がやっていなくても見たらよい。ここはこうやった方がもっとよいのではないかとか、もっと伸ばしてみたらとか。 

○声の修正 

 ただ、プロの人がやっているのは、それなりの理由があります。理由がなくても、それを感覚でやって正しくなっている部分の修正がかかっています。それはある程度勉強してみればよいと思います。その上でどれを選ぶか、そして試みることです。試みる、修正の繰り返しです。  いろいろな感覚が動いて、それが音色や声になったり、ことばになったりして、ボンボンと動いている。そういう試みをたくさんやることです。試みをやったからといった満足してしまうのですが、それだけでは出て歌っているのと同じです。その試みの結果がどうだったのかを見て、修正しなければいけない。その修正がレッスンです。 

 個人レッスンでも、声を出しに来ても、それはレッスンではなく、そこでどう修正するかです。少し高くなったり、違う母音がきたりすると、違うことがおきてしまうのです。そのときに自分でどう修正するか、その修正の仕方が反れているのか、的を得ているのか、それがレッスンでやることです。  グループレッスンでも声のことというよりは、声は表現に従事するものですから、その表現自体がど真ん中にきているのか、それとも周辺でぐるぐる回っているだけなのか、お互いを見ていったらよいと思います。部分的にできている人が、必ずしも歌1曲になったときにすごい歌になるわけではありませんが、まず部分のところでそういう感覚がないと、全体も見えないです。 

○構成と見せ方 

 この歌でも誰でも歌える歌です。落語でいうと、談志さんがよくやっていますが「饅頭こわい」なんかの20分くらいのものを、こんなの40秒で言えてしまうと言って、あらすじだけパッパッと言ってしまう。要点だけをとってしまう。味気も何もないのですが、その核、構造というのがあります。  それぞれの役割があり、そこはどんな効果をねらうのか。そういうものは、こういう曲から勉強してみればよいと思います。最後に全体を流して終わりにしましょう。 「そして今は」(1番〜2番の頭)  どんな歌い手でも、ここで入ったら、また最初に戻ったことがわかりますね。ということは、そこで同じことばを言っているのではなくて、同じ呼吸に戻っているのです。そこまでは、高まったり引きつけたりして、いろいろなことをやっていたのを、またここで構成ということで再現します。 

 こことここはほとんど同じようにやっているでしょう。ところが、こことここは少し違う。こっちは少し大きく戻したけれど、こっちの方が小さくして、サビに入っていく。そういうことを自分で聞き分け、楽譜や歌詞を見て、どんどん書きこんでください。感じられるのがよいのですが、線で書くのでも何でもよいので、解釈を深くしていくことです。そうやっていくと、違う人が歌って、いいなと思ったときに、ああいうことだからいいんだなとか、ああやってしまったから台無しになったとか、そういう修正が、他人に対してはかけやすくなってきます。そうすると音楽の理解も深まってきます。 

 使った方がよいルールはたくさん入っています。そういうものは理屈で考えるよりも体で覚えます。  ここまでいってしまうと、半分は当たっているのに、半分はおかしいことを言っていることになります。そういうときは何回も繰り返し音楽を聴かせます。その中で自分で理解していって欲しい。  ドラマをつくっていって落とさないと、ひとつの歌は終わらない。多くの歌は、そのままの声、そのままの声量や音色でここまできてしまう。そうしたら最初に2行でよいということ、あるいは10曲歌っても同じではないかということになります。それぞれに違う感覚があって、いろいろな力が働いています。それは全部呼吸で決まります。だから頭でやっていては変な歌になってしまいます。全体的に受け止めながらも、部分的にこだわって、「ハイ」や息の吐く練習もしてください。お疲れさまでした。 

○認識の仕方 

 本当の力ということでいうと、楽器の人であれば、少なくとも早く完全にプレーします。1回聴いてできると思います。ピアニストでも、せいぜい3回。そのマップはどこかで必要です。それは音を一つひとつ確認してとっていくということよりは、流れをとっていくことです。  歌い手のやり方にはいろいろありますが、どうしても頭が邪魔し、喉や体も邪魔をする。それをとっていく、発声も基本的には邪魔をとっていくことですが、それには入りこむことしかなくて、皆がやっているところは、100パーセントできたとしても何もならないところです。  今できているのは10分の1とか100分の1ですが、人間は認識の仕方があります。その中で、「おー 月の光も太陽も」という認識がある。そのパターンで認識すると、次も「前と変わりとしないのにー」「なぜか私を冷たく照らすー」となる。これでは最初から歌から離れている。でも、音をとるためには必要なことです。

 たとえばこのことばを覚えるにしても一文字ずつ覚える人はいない。たとえ小学生でも「月」「光」というまとめた単語でとるし、あなた方くらいになってくると、それは対比させているなどと多角的にとれば、ことばは多少間違えたとしても文意としては違わなくなってくる。  ここは教材を使ってやっているのであって、教材を勉強することをしているのではない。その切り換えのときに、確かに音を取りにいかなければいけないし、それを入れないと全然違うメロディのところにどんなに感情を入れてもひとりよがりのものになります。そこに出たフレーズは、あなた方の中での認識の仕方の表れです。  「月の光も太陽も」が「月と光の太陽も」となる人もいれば、「月と太陽の光も」となる人もいる。どれが正しいか間違いかではなくて、その人の認識のひとつのパターンで、それがことばの場合は、ことばを練らなければいけない。 

○歌詞のイメージ

 歌詞というのは音楽においてそれほど重要性をもたない。むしろ歌詞の聞こえないところで働きかける要素が9割くらいあります。楽器は100パーセントそうです。  でもイメージはもっていなければいけない。皆さんがとらなければいけないのはイメージなのです。それが音程やリズムをパターン認識できないと、その音は全部とれない。ピアノで私が弾くと、この2つのフレーズはまったく同じですね。それは音としての動きは同じなのであって、そこに入ってくる要素というのは当然違うのです。ストーリーは進んでいかなければいけない。  次のところも「恋の喜びも」と入ってしまうと、次も「恋の悲しみも」、次に少し上がるといって「恋の苦しさも」「恋のむなしさも」となってしまうと、歌からは離れてしまうのです。そのパターンの認識をしなければいけないというのはありますが、認識の仕方の中で変えないことです。 

○歌にするところの違い 

 「タタタタタタタ…」というふうに基本を捉えるのは、上のクラスでは1回でやることです。そこにこだわってみてもあまり意味がない。1回でやることというのは、このブロックをこうつかんで、ここのブロックをパッと捉えてしまう。あとは他の要素でもってこなければいけない。  音程をとりにいくことに100パーセント力を入れてしまっていることです。だから練習にならない。  この曲を覚えることはできますが、それでなんぼということです。そういう人はたくさんいます。美空ひばりさんの曲を全部そらんじてできるのに、ちょっと経ってみたら音が外れてしまったりする。  それは認識力が弱いのとともに、ここで覚えていくということです。少なくともあてていくようなリズム、ことばというのは、表層上のことであって、10分の1あるかないかのことです。皆さんがそこに練習目標を上げてしまうと、ここのレッスンを1時間やろうと、曲を100曲やってみようが、そこの認識の早さが慣れていくだけです。 

 考えなければいけないのは、これを歌とする、音楽とするところに、何の違いがあるか。音程がとれているいない、ことばがうまく入る入らないということは、基本的な状況での力ですが、それはすぐにつくことではありません。1年後にこれをパッとやってみたときに、もう少しスムーズにできたというような結果でしか表れない。  そこにそれほどこだわれない、逆にいうと捨てていくしかない。1回目でとってみて、1時間かかってみても、もう1,2割うまくいくだけのことです。音はうまく合うかもしれない。その認識のパターンが、ことばの問題でいうと、こういうことをやっているのと同じです。 

○形は最後に 

 「こいの 喜びも こいの悲しみも」という読み方をして、次に「よろこびーも かなしみーも」とやる。これを100パターンやってもあまり意味がないでしょう。自分の心も入らないし、音やことばが動いていく実感のないところで、頭が決めつけてやっているフレーズパターンです。一番やってはいけないのは、「月の光も太陽もー 前と変わりとしないのにー なぜか私を冷たくてらすー」、これを目標にしてしまったら、きっと歌えないでしょう。でもほとんどの人がそれが目標になってしまっています。ここではそれを変えたいので変えるのですが、それが皆さんの努力した結果だとしたら、むなしいことです。 

 この歌い手はそうではないことをやっている。それはあなた方に見えていないから感覚として出てこない。ことばでも「喜び」と「悲しみ」は全然違うのに、顔の表情も感覚も、動きも、一辺倒では喜びも悲しみも出てくるわけがない。そうやって可能性を全部固めてしまって、形にしてしまったらいけません。  形は最後にとれればよい。といっても、どうすればよいのだということは難しいかもしれません。ことばからいうと「恋の喜びも 恋の悲しみも」ということをきちんと入れて、だからといって役者ではないから表情をつけて「恋の喜びも 恋の悲しみも」とやってもおかしくなってしまいます。 

 音で感じたところと結びつけておかなければいけない。「ミファファソソファファミ」、ここに「恋を喜びも」を感じなければいけない。次のところに悲しみを感じなければいけない。とても難しいことです。  自分がつくったわけでも感じてこの曲を選んだわけでもない。でも、そこのところで切り換えなければいけないということです。だからといってプラス、マイナス、プラス、マイナスと進んでいくわけでもない。結局、その上にのっていく。ある意味でいうと喜びも悲しみも同じであり、苦しさもむなしさも同じであるのだけど、そこの重点が違う。  最初に提示したものに重ね、そこから展開していくという動きがメロディやことばで表されたり、リズムで表されたり、分析するとそうなりますが、皆さんはそれをひとつで捉えなければいけない。 

○部分と中心 

 部分的要素のところで対処することと、それを統一していくこと。歌がうまくなりたいということをやるために、部分のことをやらなければいけない。だからWのレッスンや発声をやらなければいけない。でも、それぞれが中心ではないのです。  ここの部分のこういう力になるためにやっているというのを結びつけておいて、はじめて意味があります。発声は発声で専念してよいし、フレーズコピーもフレーズコピーで専念してよいのです。しかし、どこかでそれを結びつけておかないと、全部バラバラに強化しておいたら、歌ったときに全部が結びつくなどということはあり得ません。 

 最初は、声だけ、体力づくりだけということもありますが、体と声と心の結びつき、その方が大切です。  結びつきのところで、体が足りないとか集中力が足りないとか、頭が邪魔しているとか、はじめて気づくことができます。それは応用でもあり基本でもあります。私のレッスンはその結びつきのことだけ考えてもらえばよいと思います。  1時間の中でできることは、まずたくさん音楽を聴くことがひとつ、それをどう見るかです。それと今日のレッスンのように、たくさん体を動かしたり息を吐いたりして、状態を整えることです。  本当は30分くらいずつ欲しいものです。残りは、その結びつきをやってみる。やれないときはそこではできないのですから次の日にやってもいいし、家に持ち帰ってやってもいいと思います。お疲れさまでした。 

○新たによみがえらせる 

 人数がいるときのレッスンは、私がいろいろと言わなくても周りから勉強できることがあります。逆に障害になることもあります。  できるだけ原曲から聴くのがひとつです。とれない部分は周りの人から聴いた方がわかりやすい。周りに鈍い人がいたらその鈍さはとることができます。自分より鋭いものはとれない。でも、本当は原曲から読みこんで、あまり周りに左右されないようにやるのがよいと思います。  この曲は何回も使っています。何回目でも同じなのですが、最初にとりにいくときに、日本人は正しいことにこだわりますから、音程をとりにいくのです。それを100パーセントとってしまって最終目標になりかねないところがあります。そのためにここではWを外しています。  ここで言っていることは単純なことで、「ノン」でも「オ」でもその一言のところで、まず場を成り立たせるということです。できたらそこで音楽や歌や、自分の感覚を示すことです。そこのところで何人かよい人はいました。始まるな、という感じがありました。 

 結局、認識したときのパターン、自分はわからない。なぜなら自分はそうやりたくてやっているわけです。それが他の人にどう聞こえるかです。  自分をよせて聴いてみたら、「ノン つきのひかりも」といきたい人、「つきのひかりも」とやりたい人、「つきのー ひかーりもー」、これは全部パターンで、必ずそうなります。それは人間が何かをとるためには必要なことです。ことばもとるときに、小さい子であれば「つ」の次は「き」、「の」というようにやり、小学校くらいになると「月の」「光も」と区切ります。皆さんの場合は、1区切りくらいで区切る。ここの場合は、ことばではなくて、それが音の中でつながっていればよい。  「1 1 2 2」、こう捉えると、ブロックのパターンができます。これは1回でできていなければいけないことです。大切なのは、これをおさえた上でどう変化させるかということです。そうでなければ、この教材をやることになってしまいます。 

 この教材でやるべきことは、これを踏まえてみてこのパターンがきたときに、この中にある要素に自分が感覚を入れてみて、新たによみがえらせるためにどういう接点をつければよいかということです。  試みていても、大体が失敗しています。1回目で失敗するのは、全然かまわないことで、大切なのは試みることです。2や3クラスは、試みた結果を引き受けないで、試みだけで終わっている場合が非常に多いのです。 

○真の試みとは 

 ミーティングでいうと、とにかく意見をいうことだけが目標になっている。自分は何回言ったのかをカウントして喜んでいるのと同じです。大切なのは、何を成したかですから、最後に一言しか言わなかったけれど、それで決まったというのなら、その人が一番偉いわけです。そういうところに対して、試みるのがレッスンです。試みていない人もまだ半分以上いるのです。それは、音程やメロディのことではない。むしろ呼吸の中でもっていきなさいということです。  他の人の感覚は読めるけれど、それが可能性のある感覚なのか、そうでない感覚なのか、というふうに見切っていかなければいけない。だからあまり応用しすぎると、なんでそんなふうにしてしまうのか、曲のよさがだめになってしまうのにとか、この詞が生きてこなくなるなとかなってきます。 

 作品本位で考えるか、自分本位で考えるかも非常に難しいけれど、自分本位に考えた上でその作品を生かさないと、すべての作品が同じになってしまいます。  そうするとその作品によって自分を変えることが必要になってくる。でも根本的に全部が変わるわけではない。全部変えたとしても自分が出るのだから、その出方が作品によって、生かされるか死んでしまうかというのは判断しなくてはいけない。最終的にこの作品では生かされないとなれば、取り上げる必要もありません。 

 それは大曲であるのとともに、そういう意味で難しい。だから曲との相性も自分で研究しなければいけない。ある時期は非常に入りこめるけれど、二度と歌えなくなる曲とか、最初はいいと思わなくてもだんだん沁みてきて、歌いたいけれど歌えない曲とか、いろいろなものがあって、そういうものを見つけるときに、いろいろなパターンがあります。この曲から学べる人が2割くらいいればよいのではないかと思います。  自分にない感覚は新鮮に聞こえます。判断は簡単です。それが鋭いか鈍いかです。テンションが相当高くないと、鈍くなってしまいます。  もう一度やって見ましょう。2度目は非常に大切です。最初にやった感覚を覚えておいて修正していかなければいけない。まったく違う感覚を出してもかまいません。ことばが変わることやメロディが変わることはそう大きく考えないでください。 

○表現力 

 表現力は曲数や曲の長さに関係ないこと。問題なのはステージが終わって、誰の何のどこの一瞬が残ったかということです。そのための機会がたくさんあるということで、曲数が多いとか1曲の長さが8分もあるとかいうのはよいかもしれませんが、そのためにタラタラ見えてしまうのであればない方がよい。  こういうものも自分の接点の合うところを、決めて、そのことを邪魔しないフレーズを持つ。喉も体も頭も邪魔してはいけない。そうするとかなり限られてくるのです。  とにかくやってみては修正していくことです。大きく間違えては修正をかけていってください。 

○標準化 

 まず、場ということを考えていって欲しい。舞台ということを整えないと表現ということはできない。キャンパスがなければ、これは出てこない。ここの部分のあるところが音声であって、そこのどこかが何ともいえないが歌だと名づけられるくらいに考えてください。  それ以外のやり方をとっていたら、一生かかっても間に合わない。たとえば今15歳くらいで、ここで2年やった後に音大に入ってやるというのであれば、また違うやり方もあると思うし、発声のみ中心でいく方が正しいと思うのですが、日本の学び方は音大受験のところまでの学び方か、そうでなければいきなり実践というのに等しい。間がない。  それは歌にスタンダードがないというのと同じようなことで、標準化は日本人は苦手です。標準化とは、曲そのものを学ぶのではなく、その中のエッセンスのようなものをまとめて、やり方ではなく、感覚を変化させるようなものを方式のような、すべてに応用できる形として、その人のものとしてもつことです☆☆。 

 たとえば、あれは誰の作品だというのがパッとわかってしまうということはそういうことでしょう。その人の中にある。それが人類の中にもずっとあって、集約されている。それで時代や人によって応用されて出てくる。  やり方というのは絶対に結果が伴わない。いろいろなやり方を求めてあっちにいったりこっちにいったりするのですが、そんな暇があったら、やり方を捨ててしまうことです。  まず、自分に入っているものを考えなければいけない。入っていないのであれば、それを見切って、まったく初心者でやる、それだと厳しいものがありますね。音楽の初心者であるのはよいのですが、表現の初心者というのは、表現した自分の今までの経験を持ってこないと間に合わない。それから入っていないことは補うしかない。

○肉声 

 結局、自分の呼吸や肉体において表現しようという、一番大切なことを置いてきてしまっているのです。そういうことでも普通の人は10年かかると思います。でも、10年かかった後の結果が絶対に出ないから、よっぽど器用な人の方ができてしまいます。そこは方向性の問題です。  まず自分がことばを発するときに肉声にして欲しいこととそこに呼吸を入れて欲しいということです。皆さんの中でも少し聞こえてきたという人は、必ずその人の呼吸がコントロールしている。声そのものがコントロールしているのではないのです。呼吸がコントロールするには、そこには喜怒哀楽も必要ですが、ここは役者の学校ではありませんから、喜びと言われてワーッと、悲しみと言われてグスンと、そういう切り換えをやれというのではありません。もっと突き放したところで音楽は成り立たせていかなければならないでしょう。 

○舞台感覚からみる 

 自分の感覚を元にして、歌は声にして出す。感覚が覚えていないことには、心とか体とかまでは言いませんが、出てきません。しっかりとベクトルが定まっている人は上に跳ねていたり下にいっていたりしても、そこはすべて感覚で統御されて動いている。それが自由に動くために基本の勉強が必要なのです。移し変えのデッサンなら、こういう感覚は必要ないわけです。  ひとつは台詞の面、これは比較的わかりやすい。展開やどういうものが入っているかがわかります。そのことが目的でレッスンをするのにもかかわらず、気づいたというところで外してしまう。わかったら試みて、その後に修正をかけなければいけない。ものにするなり定着させるなりしなければならない。  音楽を聴いていて、わかってきたなら試みて、修正していく。ほとんどの人は試みるところで終わってしまう。あるいは試みさえ出てこない。試みずに、そこでやってみたということで満足してしまう。その結果を受けていかない。  だから舞台から考えた方がよい。舞台というのは、試みないと成り立たないし、結果を受けないと次の舞台がこない。表現、音声という意味です。 

 「今 僕はどうすりゃいい 君はもういないのに」「すべて消え去って 僕ひとり たったひとり」、これでサビの方にいきます。意味を考えるとわからないときは、象徴されているということくらいでよいと思います。読みから入ってみましょう。ひとり一行ずつまわしていってください。  音楽で動かすことはもっと難しいのですが、台詞でも動かさなければだめですね。声は出ているし聞こえてもくるし、やろうとしていることはわかるのですが、体とことばと呼吸が入っていない。少し入っている人は、少し聞こえてくる。けれどその状況を自分でもっと変えられなければだめでしょう。レッスンの状況に、課題がきた、それをこなしておこうというのでは、歌もそうなってしまいます。それではこの歌詞が聞こえてこないでしょう。  今、他の人が何を言ったのか、何を歌ったのか、何を代弁したのか、どんな世界を描いたのか、どこの感覚が動いたのか、わからないでしょう。日本語として意味くらいはわかるかもしれません。ということは成り立っていません。  感情移入する必要はありませんが、そこの中で動ける心と体のポジションを得ておかないと、声は動いてきません。 

○頭を切って反応する 

 部分的に直していくと、他の先生にも言われていると思うのですが、どんどんと頭でっかちになってしまう。頭を切らなければいけない。こういうものもそうです。今皆さんがやろうとしていることは音をとりにいっているのです。だから音を間違えてしまうのです。  もちろんそれはどこかでやらなければいけないことです。たとえば、今のがとれないということは歌えないということに等しいです。ただ絶対条件ではない。たまたまこういうことをやって、うまく反応することに対して、その部分が欠けています。プロがここに来てパッとやっても、あなた方と同じ程度になる人も、日本の場合はいなくはない。 

 最初にやって欲しいことは、音程がとれる方がよいけれど、その認識に関しては、1回か2回でとってしまい、とれないときはとれないのだから、それ以上そこにこだわっても仕方ない。ことばが入らなければことばを変えてもよい。  ただ、題材があるということはひとつのパターンがあるわけですから、このパターンということを踏まえていけば、そんなに難しくならないはずなのです。たとえば「ノン」、発声でいうのであれば「ノーン つきのひかりも」と声を聴かせればよいのです。しかし、実際は「ノン 月の光も太陽も」という自分の心や感覚が動いていかないと、音も動いていきません。要は人の絵をそのままうつし変えることになってしまいます。 

 だからこの絵を見て表面をうつすのではなくて、この絵のモチーフになるもの、この絵の中にある心みたいなものをうつし変えないと、教材のレッスンになってしまうということです。  教材を使ったレッスンにはならない。そこの部分は、次の時間に全部直せるかというと、それは無理なことです。  2年かかって、変わっていくというのでもかまいませんが、私がここで扱っている教材の目的は、そういう設定です。あなた方もそういう設定で使わないと、これをレパートリーにする人は誰もいないです。日本人でもいい曲だと思ったり歌いたいと思う人はいるかもしれないけれど、選ぶかどうかはまた別の条件ですし、自分のいいものが出せるかどうかにもよります。 

○パターンと展開 

 基本的に、他者に対する判断をつけつつ、場を経験して欲しい。前のレッスンで「つきのひかりもたいようもー」と歌う人がいて、これがあなたの10年後の完成形ですか、と言って、そんなところまでできればいいと言われてしまったから、すごく困ったのですが、これは方向が違うのです。  それはうつし変え、単なるコピーであって、どこにも創造力も舞台も表現も、何も働いていない。ただ声を聴かせることがメインとか、声量をつけたいとか、部分的目的が主眼目的となっている人は、その人の勝手です。  ただ、そこでやってしまうと上には上がいます。10代くらいでコンクールなどを通っている。声楽家の方が絶対的に強いです。  まず、自分の音をこういう人たちは生み出しています。確かに皆さんの方が条件は厳しいです。課題のようにやっています。スタジオでレコーディングというのなら、皆さんもそういう気になるのでしょう。 

 でも、それは場でチェンジしていかなければいけない。入るまでに10秒も考えられてしまったら困ります。制御の中でやっていかなければならないのですが、そこの中でまず音を動かすこと、音を生み出して動き出させて、それでドラマを生じさせるのです。そこまでいかないから、動き出させておさめるということをやらなければいけない。 

 だから「つきのひかりもたいようもー まえとかわりーは しないーの にー」などと出てしまうというのは、動き出していないからです。その動きのところが、自分の頭で「イチ、ニ、サン、ハイ、やりなさい」と言われて「ノーン」という感じです。そうなっているのは準備ができていない。それは時間がないのではなく、切り換えができないということです。  次になってくるともっと複雑になってきます。ことばもヒントです。「ラ」でやった方がよいのではないかと思う人もいますが、逆に非常に難しくなります。ことばで言った方がまだ動きがつかみやすいということです。  自分の定型パターンをある種覚えていって、それは音をパッとつかむためにはよいのですが、その定型パターンというのは応用された感覚だから、そこに固執してしまうと柔軟性がなくなってしまいます。自分の頭が解釈してしまう。  「つきのひかりもー」というのと同じです。これは体もついてきていなし、口先と頭だけがやってしまっていることなのです。歌1曲が全部もたなくなってしまうということです。そこの場そこの場で勝負しようとしてくるからです。

 よく入りこんでつかまなければいけないけれど、絶対につき離せと言っています。こういう歌い手でも放り投げて、自分なんて関係ないところで歌っている。それを後生大事に、この距離だけでやっていると、50センチ前を見て運転しているようになってしまいます。  全体はある程度見なければいけません。単純にいうと、1回聴いたときに「A−B−A」とパターンで読みこんでしまって、全体だと思って自分でやってみたところ、そのパターンでいくとこの曲は無理があるなとか、このリズムなら自分の今まで入っていない感覚だから1回壊そうとか思う。でも壊してもそこで残ります。

○変化と流れ 

 音楽は感性のところで進んでいきます。ことばでも同じだと思います。ことばにこだわっていくと「月の光も」とくるのに、なぜ次は「太陽の光」とこないんだとか、「月と太陽の光」と言うのが本当ではないかとかなってきますが、そんな問題ではない。音楽でもそういう問題ではない。いろいろな変化がそこで起きていく。どこまで、もう流れているものにのっとって、それを生かしつつ自分の体や呼吸と違うものは外した方がいいし、自分の方が主で、その呼吸を持っていくのであれば、この音楽や歌やことばの中で生かせるものは最大限生かす。後のだめなものは捨てていくしかない。その判断と修正が難しいです。

 非常に鋭い人であれば、何もできなくなってしまいます。頭が良くても勘がよすぎてもできなくなってしまう。判断してしまうと中止というのが働いて、イメージが湧かないと次に進めない。  でも2通りいると思います。それでとにかく押し切って試行錯誤でやっていく人と、そこで止めては修正する人。イメージが湧かないと進めないというのも能力だと思います。 

 一番悪いのは、イメージも感覚もなく最後まで歌い切れてしまってできたと言っている人です。ステージではよいのですが、こういう場ではある程度自分で判断していかなければいけない部分もあります。その辺はまかせます。  「恋の喜びも 恋の悲しみも 恋の苦しさも 恋のむなしさも」のところは音をとるのが難しいので、先に音だけやりましょう。「ミファソファミ ミファソファミ」「ファソラソファ ファソラソファ」、考えてみれば簡単ですね。でもこうは歌っていない。今言ったのが、「1 1 2 2」のパターンです。表情がことばによって変わるほどでなくてもよいのですが、何かが動き出しているのは捉えないといけません。  大きく分けると「1 2 3」の構成になっています。最初があって、展開、そしてサビです。だから動きをきちんとまとめていかなければいけないということです。もう一度頭から聴いてみましょう。「A B C」を捉えてください。 

○くみたてて通すこと

 最後はずっとテーマだけ歌いつづけて二度とかえってくることはありません。AとBのところは本当に最初のところ、それをまとめて最初のことばの部分と考えてよいですね。導入の部分です。後は一回もおりてきません。今やるのは、その導入の部分です。  本当はこれを皆さんに歌詞を渡したら、自分で作曲してやってみる。それをやった後に「ミファソ ミファソ」、次に「ファソラ ファソラ」、これだけです。 

 こうやって教えてしまうと、どこかでその音をきめなくてはならなくなってしまう。ところが「ミミファソソファミ」とやってもよいし「ミファソソファミミ」とやってもよい。日本語はきめなくてはいけないから、それをやってしまうとどの音に対してどの音というのが決まってしまうのです。ところが外国語の場合はそれを動かせますから、自由度がある。だから日本人には「ミーファソファミ ミーファソファミ」、こういうメロディに対しての歌い方というのは想像がつかないと思います。こういうところは向こうに学んで欲しい。  メロディで私たちは進めてしまうからいけないのであって、彼らはことばのもっているリズムでいきます。聴いて音程をとれと言っても、ほとんどの人にはわからないわけです。わかる必要もないのです。彼らはそういう勉強をしていない。ことばを言っていて、そこのところに音がついているだけです。形から入るのではなく、自分の動きから入って欲しいということです。もう一回やりましょう。 

 さっき「1 1 2 2」のように言いましたが、「1 2 3 4」になると苦しいですね。それから1の中でも「恋の」に対して「喜びも」というフレーズがあるのに対して、次に「恋の悲しみも」とやってしまうと、これは反しますね。こういうものを教えられないというのは、反してもよい人がいる。10人にひとりくらい、そのことが味になる人もいる。  だから全部を否定しないし、こういう勉強をしているのは自分しかできないことをやるためにやっているわけです。こうやりなさいとか、これが共通なのだとか、そういう教え方は私はしません。ルールに沿って楽になるところは楽にしておいて、その上で表現する。 

 成り立っていないのは、1に対して2が上にのっていっていない。そうすると次に「すべてはかなたに」といかない。全体を歌い上げる必要はありませんが、動きをつくれというのはそういうことです。「こいの」の「こ」と「むなしさも」が終わった時点が同じ高さであったら意味がないわけです。音も半音でも高くなっています。  日本人にとっての半音はたいした高さではないけれど、彼らにとってみたら、音の高さにかぎらず盛り上がっていくところは盛り上がっていく。それから音が離れていても、盛り上がらないところは盛り上がらないで、きちんとおさえられる。だから1オクターブに対して、音の高さ低さを出さないこともできれば、たった半音の中でもそこにボリューム感を入れていくことはできるのです。

 それが音の高さにかかわらず、声を扱うということです。「恋の喜びも 恋の悲しみも」をまずひとつに捉え、それに対して「恋の苦しさも 恋のむなしさも」を置いていくというのがまずベース、その上で「恋の喜び」と「恋の悲しみ」を対比する。それと「恋の」に対して「喜びを」、「恋の」に対して「悲しみも」、その「恋の」を変えてはいけないということではありませんが、どこかでブロック、ことばで見ても「恋」が4つと認識できますね。そういう認識を音楽の中でもけじめとして大切なことです。それがボロボロと崩れてしまうと、音楽としても何を言っているのかわからないし、どこにいくのかもわからなくなってしまいます。そういうリピートをきちんと繰り返してください。もう一度やってみましょう。ことばから音楽に入って、流れを捉えてください。 

○呼吸をみせる連鎖性 

 レッスンの中で問うているのは、完成させることではありません。こういくのか、ああいくのか、どこにいくのかと楽しませてくれることです。  そういうのを可能性というのであって、それをつないでいけばよい。マイナスのことをなるべく出さないことです。ゼロだけでつないでいって、たまによいことを1とか3とかくれていてくれたら、もしかしたら次には10出るのかとも思います。   

 自分の頭のところからつくっていくと呼吸が働かない。今もひとり二人、呼吸が見えた人がいます。呼吸が見えると、後は声の使い方が悪いことに集中せよという感じです。  声も伸ばしていけばよいのですが、それはあくまで使える感覚があって、こう使いたいと思うことに対して、声や息が伴わないから発声の勉強をするのです。その感覚がないところにどんなに声の練習をしていても仕方ない。それは声を出してみないとわからないことはわからないのです。 

 もうひとつは、私が話している間にそういう感覚や聴き方ができてくると思うのですが、たとえば「恋の喜びも」の「恋の」のところだと、「オー」と入っていましたね。わからなくなったら戻ればよいのです。「ター」、こういう感じで入った、そうしたら「恋の喜びも」とやって、こういう感じ方になるのかということです。  その前によほどのリズムや伴奏の変化がなければいけない。でもそういった大きなことは起きていませんね。そのまま起承で受け継いでいるのです。ということは、「オー」とか「ノン」と言ったところと同じくらいの「恋の」、連鎖性があります。  こういう解釈をすると押しつけのようになりますが、でもその感覚で人は聴いていくのです。 

 だから知っている曲を聴くのと知らない曲を聴くのとでは、全然感覚が違うのですが、こういうレッスンの場合は、客はこの曲を知らないのだと思ったときに間違いを起こさなければよいわけです。  音程が外れても間違いにはなりません。要はその曲が本質的に進んでいればよいのであって、そこで装飾されている音を落としたからといってどうということはない。ただ、絶対におとしてはいけない音というのがあります。最後の音を落としたらだめでしょう。 

○感覚の展開 

 「オー」と入るときは、ここで呼吸をとっています。その後「オー 月の光」とこの呼吸の中でいくわけです。そうするとここでも同じことで、その呼吸がここにもあるわけです。この呼吸がここで変わらないかぎり、ここだって変わらない。それを呼吸を変えないで、いきなり頭で違うことをやろうとするから離れてしまうのです。呼吸が動かすところです。「ミファソファミ ミファソファミ」と「ファソラソファ ファソラソファ」というところは、その前の呼吸の動きや体の動きが全部違うのです。だから展開していくのです。 

 日本人が難しいのは、それをロケットの発射のように3段、5段と展開していかなければいけないからです。私たちができるのは、せいぜい1段か2段ですから、その使う箇所、本当はこういうところで使っていたら無理ですが、練習です。 「恋の喜びも 恋の悲しみも 恋の」  この3つめの「恋の」にいくときは、それだけ早く呼吸を入れなければいけない。それが皆さんは同じように吸っていると、急いで入ろうとしても声だけがまわってしまうことになってしまいます。これはひとつのやり方であって、このとおりにやりなさいと言っているわけではありません。ただ、今やって欲しいことは部分的なところでも感覚は動くということです。  その動かし方が自分で小さくつくっていってもだめです。だから頭でつくっているところは限界があります。頭でイメージはしなければなりませんが、体にまかせなければいけない。体にまかせてみた結果を、また感覚が判断するのだと思います。 

 最後にもう一回やってみましょう。前半か後半のどちらかをやってください。他の人はどう聞こえるかを聴いてください。ここは持っている、ここはマイナスだ、ここはニュートラルだ、ここはオンだというように、オンが一回でもでればよいと思います。 「ノン 月の光も太陽も…」or「恋の喜びも 恋の悲しみも…」  人の感覚を間違っているとはいえないのですが、そんなことをやっても意味がないというのをテープを聴いて判断していかないとならない。たくさんのことをやって、これが最期の一作だというのなら、こちらも判断できるかもしれない。もしかしたら、それがどんでん返しになっていくかもしれない。

 むしろ今の日本の音楽業界は、ベースと共通の感覚を何も見ないところで個性を見つけているし、そういうところが次の世代へつながっている。言えることは、共通としてくくれる部分があって、それに対しては自分の呼吸が合っていないのであれば、合わせていく努力は必要です。

 レッスンは気づいていくところですから、自分の作品にこれをどう引き寄せるかということより、本当はあなた方の感覚に合うようにメロディやことばを変えて自分の作品にしてしまえばよいのです。  ただここでやる基本のところは、その感覚よりも世界で通じてきた方の作品を認めていこうというかたちの中で、そこに寄せてみたらどう自分の感覚が変化するのかということです。  常に2つのことを考えなければいけない。自分の作品でやっていこうというのなら、それでやっていけばよいのです。人の作品を練習している暇はないのです。  でもその感覚を磨くために人のものを使うのは、非常に有効な手段です。リズムでも、ひとつのリズムしかやってきていないと、そのリズムさえ深まらなくなってしまいます。他のリズムをやることで、そのリズムをより理解することはできます。新しく感じられることもできる。 

 そこの判断をこういうもので、歌詞でも「苦しみ」がいいというのと「苦しさ」がいいというのと、徹底してこだわっていかなければいけない。それを音や声、その下の呼吸の世界に感じられるか、見つけられるかということだと思います。この作品が作品として聴いてみたときに成り立っているというのは、ヴォーカリストの力以外にもいろいろな力があります。このヴォーカリストがこの曲をピアノで弾いてみたら、いいのか悪いのかわからないものを生かしているから、その生かしたところに入れた感覚のところから勉強してみることが必要です。 

○大きな動き 

 自分でいろいろなことをやるのはいいのですが、一つひとつ実感していくことです。それから、それを認めつつも、そうでないということも他の人から勉強してください。常に自分のものに自信をもってやるのとともに、全部確実に間違っているのではないかという疑いの目ももっていかなければ勉強になっていきません。両方必要です。  結果的にあなた方の感覚で動くのですから、これをやるわけではないし、歌えようが歌えまいが、使い方を間違えないようにしてください。ただ利用した方がいい動きとか、そこに入っていったら楽になる感覚とか、しぜんに呼吸をとりやすいようにこういう曲を使っています。  今ヒットしている曲でやるより、こういうものの方がやっているうちに、呼吸や感覚がもっと楽になる感覚があると思います。ひとつの大きな動きが見えやすいものです。 

 クラシックも表面で捉えなければ、そんなに間違いはないです。こういうものも表面で捉えてしまいがちです。自分の体や呼吸で受け取るまえにまわしてしまうのです。だからしっかり受け止めていることにならないし、本質を見ているということでもないでしょう。それをそっくりやることが目的ではなく、本当はそれをまったく違うようにやることが目的です。  でも、違うようにというのが難しい。まったく違うようにやったら全部壊れてしまうし、なんの意味もない。自分でも家にもち帰ってやってみてください。音や進行を変えてもいいし、アレンジを変えてもよい。ことばを「喜び 嬉しさ」のように楽しいことばに変えてもよい。そういう努力は大切です。 

 最初はことばでやればよいと思います。音がわかってきたら音を変えてみたりリズムやテンポを変えてみてもよい。そうやって一つひとつ受け止めていく。その中で自分を知っていかなければいけない。自分がこういうものを受け取ったときに、パッとやってみてこうやれば作品になるけれど、こういうテンポにすると全然作品にならないとか、こういうふうに切り換えたら何とか持つけれど、こうやると失敗してしまうとか、そうやってはじめて自由曲などが選ばれてきます。お疲れさまでした。 

○今までのスタンスを壊す 

 最初の3ヶ月は研究所のオリエンテーションのようなものなのです。だからと言っていい加減に過ごしてしまうと2年間もあっという間に終わってしまいます。ここでやって欲しいことは、学び方に間違いも正しいもありませんが、仮に10年同じだけの努力と時間をかけたときにまったく何も出てこないとか、10年もやっていない人に勝てないというのであれば、正しく学べていないというより意味のない学び方でもったいないことです。  そうすると1時間目からこれでは困るわけです。音楽や歌に入るための8割は、我々日本人の学び方の考え方やスタンスのとり方にあります。それを壊さなければいけないのです。だからと言って役者の世界のように、寝っころがって笑い転げて、そこからぐちゃぐちゃにしろということもできない。なぜかというと、そこで感情移入をしてしまうと、今度は音楽に入っていく時間がなくなってしまいます。でも、音楽がない人の場合は、そのくらい大げさにやっていった方が、私はわかりやすいと思うのです。

「月の光も太陽も」(ことばで)

 さっきよりは聞こえるようになりました。短くなったので自分の力が集約して使えるようになった。でも、全然聞こえてこない。頭で考えて課題を理解し、頭が体に命令しているかぎり方法でやるというかたちになっています。本当はそれとまったく反対の体験をして欲しいのですが、それはことばからもっていくというやり方では、ある程度限度があります。  考えて欲しいのは、音楽というものが当初からあったのではなくて、せいぜいリズムのようなもの、雨音が定期的にひびいているのが心地よいというようなことから始まっているわけです。そういうものを全部無視してしまうのですが、こういうことばも皆さんの日常会話の中で使うものではないのですが、まずここに入っていかないと呼吸が動き出さない。肉声が動き出さない。そういうものが動き出した後に、歌という形をとるかとらないかというのは、誰かが決めることであって、自分の中では同じように受け止めておいてもらえばよい。 

○だめに学ぶこと 

 ここで見ていって欲しいものは、最初の1,2年は周りがやっていることは全部間違っていると思ってもらってよい。それを過ぎていくと参考になる人が出てくるのですが、だめなのですが、そちらの方が参考になるのです。なぜかというと、鋭い人の感覚は、同じ鋭さを持っていないと入っていけないわけです。ところが自分よりも鈍い人や同じ程度に鈍い人の感覚はよくわかる。だからこういうものを聴かせた後にまわしていくと、必ず周りと同じ感覚や呼吸になります。 

 コーラスや劇団であれば、それも大切なことなのですが、ここは周りと違うことをやりたくて入ってきていると思っていますから、そうなったときにはその呼吸を切らなければだめです。  一番見本にして欲しいのは、こういうものです。今はことばですから、これがない。むしろ、そこで何を起こすかということをきちんと考えて欲しい。そうすると必ず、ことばと呼吸を使うはずです。  日常で「おかあさん」と言っても、本当にそのことに対象をもち、意味をもち、伝えかける必然性をもつ。そこから舞台という場の必要性をレッスンの中でやる。これは難しいことで、いつもこちらが合宿などに連れていって設定してしまうのですが、レッスンそのものが場の設定にならないと、それで終わってしまう。 

 今日の入門のレッスンの時も同じことをやったのですが、あなたは10年経っても「つきのひかりもたいようもー」、こういうことをやりたいのか、そうしたらそのくらいできればいいと言われてがっくりしたのですが、それは何ができていないのかというと、声やリズムや音程ではなく、場ができていない。 

 たとえば「なぜか」ということばの受け止め方、一回音の世界に落としたい。自分の体が単に発するところの音のことです。今、ことばからやっているのは、ことばの中で息や声、もっと難しいことでいうと通じたか通じていないか、そこに何かを生み出したか生み出していないかを判断していこうということです。グループレッスンでも周りの人が観客というくらいに感じて、そこの部分に対して与えられたのかだめだったのかという駆け引き、提示する、判断する、そして修正する。判断した結果、そこでストップをかけてしまう場合もあります。それを自分の中で見ていこうというのが一番大切なことで、そうでないと人の基準で訳がわからなくなってしまいます。最初は自分のやっていることがわからないから、人のやっていることを少し思ってくれたらよいと思います。 


○働く力とイメージ認識 「ノン」

 いきなりこれに日本語をつけるのは、全然聞こえないのに無理だと思いますが、そのままイタリア語でとるのも難しい。本当はイタリア語でとってみればよいのですが、肉声や呼吸というのは、イタリアに住んでそのことばを聞いているのではありませんから、こういう形にしていく。ところが日本の歌や舞台の場合は、「つきのひかりも」というように、つくり上げてきたものが入ってきている。それを原点に戻すのが大変なことなのです。自分の世界の方に持っていくことです。  「ノン」だけをやってみましょう。自分の世界をつくろうと思うと、確かに10秒くらいたってからそのタイミングで入ればよいのですが、グループレッスンの進行上と、1秒や5秒で切り換えられないものが10秒たったら切り換えられるものでもありません。なるだけ間合いをあけずに、ただ前の人の呼吸は一回切ったつもりでやってみてください。 

 さっきのことばをまわすのでも、前の人と同じようになりやすいのです。それが鋭ければよい。慣性で同じようにまわる。でもそれが鈍ければ、自分できちんと切り換えていかなければいけない。目的は音を生じさせることです。それを音楽にまでしなくてもよいですが、場としてつくる。私がまねしたものがだめだというのは、そこの中に呼吸や感覚が入れないようにしているからです。入っているかいないかは今は問わない。今は入りそうだという可能性が出てくればよい。後で動き出しそうなものが自分の中で提示できていればよいということです。

「ノン」  それが単に「ノーン」ではいけないということです。そのことが自分の感覚で鋭くなってくるほど、自分の出していることばに対して要求が出てくるはずです。感覚があって声があるし、声が出せてそれを聴いて感覚で修正していく。最初の2年間のレッスンというのは、こういうことばかりなのです。その先が歌えるとか歌えないとかいう話ではなくて、そこで「ノン」とやったときに、自分の感覚が鈍ければそこで「ノーーーン」となったりする。そんなふうになるはずがないと言っていながら、結構ステージで起こっているのです。それを自分で同時にわかるようにしていくことです。  ひとつはそれに働く力というのがあって、よい例というのは準備ができていて自分のイメージがはっきりしていることです。これで自分の意図しないことが起きる。起きそうだなと思っていると、もう起きてしまうのです。そこで違うやり方でおさめるというやり方をとる。こういうことを歌い手は歌の中で全部やっているのです。役者でもやっている。そういうふうなことがあるのがまずひとつ。それから、これの連なりであるということです。 

 たとえばことばを覚えるときに「つ」の次は「き」、「き」の次は「の」というふうに覚える人はいません。小学生でも「月の」「光も」というように動詞や形容詞で覚えていきますね。凝ってくると、これは「月の光」ときたら「太陽の光」とくるべきではないか、「月と太陽の光」の方がよいのではないかとかなりますが、そこにはいかない。それは作詞家の世界であって、我々はここからくるイメージでとる。そのイメージのとり方のときに、ほとんどの人がフレーズコピーをしようとすると、100パーセント音程にいってしまうのです。 

 今までそういうふうに音楽を勉強してきたからで、それは無理のないことなのですが、たとえばこれを聴いたとき、「ジャジャジャジャジャジャ」となっているけれど、それだったら自分の「月の光も太陽も」というのがつかないでしょう。だから、どうやるかというと「ド ドレミミレレドドシシラド」と一回認識するわけです。それで初めて「つきのひかりもたいようも」となるわけです。これをやめて欲しい、ということは認識の仕方がほとんどの日本人にとってみたらなくなるということです。だから難しいし、カンツォーネで聴いてみて日本語をつけろ、そうすると認識の仕方はどうなるかというと、「月の光も太陽も」という表現の横の方につけて欲しい。これは日本語の場合は無茶な話なのです。日本語でそこまで息を使ったり体を動かして表現するということは、役者でもないかぎりやらないわけです。でもそこのところで、それをひとつ出してみて、そこに音程が狂ってもことばが違ってもよいから、ひとつその線を走らせていく。表現をきちんと舞台のところにぶつけていくところから、最終的に聴いてみたら音楽や歌になっているなというふうに捉えてみてください。それとともに歌への認識が出てきますから、他の人がどう認識しているのかも見てください。 

○変化の可能性と全体の動き 

 体、息、感覚があり声がある。多くの人は声やメロディのところにいってしまうのですが、それが一回目できちんとできなかったときに何が足りないかです。それを今日中に補うことは、基本的なことであればあるほど難しいです。体でも息でも1年で紙でいうと5ミリ違うか違わないかというくらいなものです。ただ、その中でもいろいろな取り方を見てください。  息も体も使っていなければ、これは「つきのひかりもたいようも」、こうなります。これでもまだよい方で、「つきのひかりもたいようも」となります。これはこれで、ここの部分においては間違いはないのです。ただ歌にはなっていかなくなっていきます。これをどう捉えるかは非常に難しいことです。 

 今まで、高低で音を動かすことに慣れてきたし、ことばで動かすといっても本当の意味で動かしてきたことはない。「月の光も」、たとえば息が浅くて、そこでハー、「月の光も」とこのくらいで入っていくと「つきのひかりも」、これ以上何とも動かなくなります。これでテンポが違っているわけでもない。  それを基本的なトレーニングをもっとしたり、体をつくっておきなさいというのは、そこの部分がもっと単純に入ってくるようになってきます。さっきことばを読んだ、そうしたら「月の光も」となって、さっきのテンポの「つきのひかりも」というように置くこともできるようになってくる。これはこれで歌にはなりません。音楽も気持ちも入っていない。ただ、そこからいろいろと変えていかれる可能性のベースにはなっていきます。それを急には無理だから、短いところからやっていきます。 「オー 月の光も太陽も 前と変わりはしないのに」  

○次の流れを優先する

 「恋の喜びも 恋の悲しみも 恋の苦しさも 恋のむなしさも」 

 いろいろなことを考えてはいけないのですが、踏まえていなければならないことは、「恋の喜びも 恋の悲しみも」、これでひとつでありながら2つであるし、「恋の喜びも」、これもひとつでありながら2つである。ひとつであり部分部分というのは、感覚が違うのです。  でも、戻さなければいけないところ、たとえば「恋の」の「こ」のところだとそんなに違わない。「恋の喜び」に対して「恋の悲しみ」が並列に置かれてしまうから同じだということが誰にでもわかるわけです。次のところは半音上がってしまうのだから、その少しの変化にどれだけ大きく自分で解釈が必要ですが、頭で考えるのではなくて、もっていけるかということです。 

 それから全体の動きです。次に「すべては彼方に」にいくなということが入っていたら、そこのところで終わってはいけない。だから突き放して歌っていかなければいけないのです。  その中に入っていくだけではだめで、次の流れを踏まえていかなければいけない。だから音にあまり左右されないようにしてください。そうでないと、歌っていってしまうことになってしまう。  自分が歌ったな、歌になっているなというところで、足元をとられているのではないかという判断は必要です。自分のやったことを肯定することは必要ですが、肯定できればできるほど、まったく違うのではないかという疑問をどこかで持っていないと難しい。 

 ここだけで決められるわけではありませんが、その中にルールをもっていないとだめです。オーディションのときに音程やリズムが違うと、はじめてその曲を聴いた人に言われてしまうというのは、鋭さ鈍さの問題です。ピアニストはここはこうなるべきだというところでつかんでいるのに、音が外れたというのは、歌い手の方が修正しきれていないのです。  どちらが先を走っているかということでいうと、本当はヴォーカルの方が先を走っていなければいけない。そうするとどんなに音程やことばが狂っていても、聴いている人間は全然気づかなかったということに本来はなるはずです。その修正をどういうふうにかけていくかということは大切です。なるべくシンプルに捉えなければいけないというのも、そういう理由にあります。 

○提示とストーリー 

 最初のところをやってみましょう。ここは半オクターブの分、結構難しいのです。  このくらいの人数がいたら、先生はいらなくて自分たちで判断していけばよい。そのときになるべくシンプルにするために、よりテンションを高めて体を使う、息を使う、その力がないがためにいろいろな乱れが出てくるということをどこかで思っていればよい。それから解釈ミス、これは上のクラスにいくと多くなるのですが、あなた方の中にも少し見られます。  一番シンプルに考えると「ノン」、これが「ノーン」と出るのだから、「ノーン」を踏まえておいて、そこに「月の光も」とならなければいけないのに、「つきのひーかりも たーいようもー」などとやってしまったら、これはだめですね。だめというよりは、大回りをしてしまうことになってしまいます。 

 皆が認知したり感覚しているとおりに出てきます。皆さんが他の人の感覚に入り切れないとしたら、そこの部分にはそういうものが邪魔しているのです。「つきのひーかりも たーいようもー まえとかーわりはしーないのにー」、この辺はまだ表現しているから鈍いなとか間違ったなとか、修正できるのですが、一番困るのはテンションそのものが低い場合、「月の光も 太陽も 前と変わりはしないのに」、友達でないかぎり聴けないという状況に追いこんではだめです。  だから自分がリーダーシップをとって、提示し続けなければいけない。上のクラスでも「恋の喜びも」の辺で集中力が落ちてしまうのです。結局、最初に入ったテンションよりも高まっていかなければいけないわけでしょう。そういう判断を自分でつけていくことです。  それから声で歌わないことです。「つきのひかりも たいようも」と言われても、こちらも何の言いようもないのです。ことばもはっきりしているし声もあるし、でも呼吸がないでしょう。それから動きがない。さっきの「ノン」とか「月の光も」とか、「恋の喜びも」というところは、マンガでいうとコマ割りのところです。そのコマ割りがしっかりしていないのに、書いていったらストーリーになるということはありません。それを見なければいけない。 

 ひとつのストーリーが入ってきた、「限りなき世界」だからそれをイメージして歌えといっても、そんな高尚なところまでやっているのではない。音楽としての最低限の条件を備えたところで、声を使っていく。でも音楽は今は入っていなくてもよい、体と声で動かせるところで、ここは自分の予想に反して動かなかったとか、案外うまくいってしまったとか、そういう駆け引きをレッスンの中できちんとやっていき、他の人のもそれで判断し、自分もそうなっているのではということを疑って、正していく、それが人数がいる、こういう場でやれることです。これはいいなとか、ここはこうすればよかったということは、ひとりで静かにトレーニングするしかないのです。だからもちかえってきてください。 

○アドリブとリカバー 

 最初のフレーズは「ドレミレドシラド」です。「恋の喜びも」からは「ミファソファミ ファソラソファ」、このくらいなら覚えられるでしょう。嫌だったらメロディを変えてしまえばよい。レッスンの前にやっておけばよいことは、「月の光も太陽も〜なぜか私を冷たく照らす」、「恋の喜びも〜恋のむなしさも」これをアドリブで歌って、その後にこれを聴いてみて、こちらから優れたところをとってみましょうというのが、一番よい。自分で歌をつくっていかなければいけない。楽譜で見て私が弾くと、「ミミファファソソファファミ ミミファファソソファファミ ファファソソララソソファ ファファソソララソソファ」、ここに想いを、歌い手が歌にしていく。当然舞台ではピアニストも、そういう感性や技術をもっていなければいけないが、練習としてはそうです。  楽譜はそんなものですから、楽譜を見たときにこういうイメージが思い浮かぶかどうか、別にこれでなくてもよいのですが、イメージを何百パターンももっている人と、自分の思いこみだけで歌ってレパートリーばかりを増やしている人とでは違う。 

 美空ひばりを全部歌える人が、1曲歌ってみたら音程を外してしまっていることはよくあるのです。なぜかというと、その曲その曲で音程を合わせてきている。音感を直していない、あるいは歌の全体的な捉え方や部分的な役割を認識していないと、そういうことは何回も起きてしまうのです。だから続けて歌っていないと、すぐに力が落ちてしまう。でも本当はそんなことはない。身についたというのは、たまにやったとしても、その感覚が、最初はよくわからないから、楽譜やことばで書いたりしてみて、また1年後にパッとふられたときに、皆さんの中でも力の差はありますが、力のある人は声のところで引っ張れたり息で動かして圧力を加えたりしてみせていくのです。でもその部分には、まだ雑なところがあります。 

 外国語がよいのは、「月の光も太陽も」、こんなところで「もー」とやっても通用してしまう。日本語は「前を変わりはしないのに」、「のに」ときちんとやらなければいけないのに、向こうの感覚だと「の にー」、そこに「you」や「me」がくるから、そこに置けるのです。  だから向こうの歌はリ・カバーがしやすいのです。日本語は全部くっつけてやっていくので、そこで間をとって失敗したと思ったら、次に大きく入れかえるなどしないとならない。だから大体足元をとられてしまう。それを裏切っていってください。 

 そんなところを踏まえながら、感覚の勉強はどうやっていくのか、この歌の中からそういう要素を選び、今日の曲でわからなかったら次の曲、10曲に1曲くらいはフィットする曲があればよいし、後はこんなパターンもあるのだということをどこかに入れておいてもらえば、いろいろなリズムやフレージングや、歌い手から、自分のとれるところからとっていって、とれないところは来年にまわしていけばよいと思います。  全部を理解しようとしなくてよい。わからなくて普通です。全部わかってしまった方が困るのです。それに足りない要素は、他のレッスンも受けてください。半音上がったところでどれだけ違ってくるのか、音の上下ではなくて、自分のイメージで捉えていってください。お疲れさまでした。 

○即時修正、強さとスピード

 この前から舞台と表現ということで分けて言っています。たとえば「ノン」、これがひとつ流れるというのは、そこに舞台ができるわけです。つくらなければいけない。「つきのひかりもたいようも」というのでは音をとっているだけで、表現をしようと思ったらそこに息や体が必要になってくるのです。「月の光も」と言おうとしたら、体が必要になってきますね。歌も同じで、そこのプロセスをとばして「つきのひかりも」とやるのであれば、表を聴いているだけになってしまいます。表を聴いているとテンションが低く聞こえると思います。ただ、2オクターブの歌で、最初は一番低いところまで下げています。それとともにあまり歌ってしまったら、後にいかなくなるということで、その辺を踏まえてください。  ただ、皆さんが練習するときには、一緒にテンションも下げてはいけない。ことばで言ってみましょう。言うときには、ひとつのコツ、ルールがあって、それは呼吸で動かしていくこと、はまったところ、はまっていないところ、はみ出たところ、それを即時修正していくことです。 

 表現と舞台は少し違うところがあって、舞台である以上、どんなに気持ちが入っていても、たとえば「前と変わりはしないのに(強) なぜか私を冷たく照らす(弱)」、こういうものは成り立たない。それは呼吸や体の動きが止まるからです。全体の中ではどこか一部分は許されるかもしれませんが、ピアニストがこうやって弾くのと同じで、ここまではやらないでしょう。どんなに小さくやったとしても、体の動きを犠牲にしてまで小さくはできない。音として伝えるのに、強さはいるし、スピードは必要なのです。 

 それがなくなると単に鈍いとかだらだらしているとかになってしまう。それが舞台を成り立たせる最低の要素ですし、その上に表現がなるのですから、なるべくシンプルに放り出さなければいけないところは当然あります。  それとともに自分の中の変化、「つきのひかりも たいようも まえとかわりはしないのに なぜかわたしをつめたくてらす」、これは感覚のミスです。舞台で成り立っているかもしれないけれど、少なくともそこの上に音楽がのっていたり、そこの上に人の心が動いたりすることはありません。今やっていって欲しいことは「ノン」と出したものの上にオンしていくこと、それを修正していくことです。感覚を開いていくことです。 

○正し方の基準 

 自分が何をやったのかを見ていなければ、正しようがない。それとともに、そこが肯定されている場合もあるので、こちらも否定しようがないところがある。  歌というのは個人の歌なのだから、あなた方が好きに歌ってしまえばよい。でも、オーディションの基準やお客さんが聴いた上手下手の基準も成り立たないということになってしまう。それは人の歌を使って、この土俵でやっているからでしょうが、それに対して感覚を対応させるのとともに、中に読みこんでいくことが必要です。 

 最後の方ではガタガタになっているのですが、そこの部分は前のところから読み込みのところで「なぜか私を冷たく照らす」という、数字で羅列していくような感覚が先に働いてしまっている。それを直さないと、「なぜか私を冷たくてら〜す」というのが悪いのかと言われたら、それはそれでいってしまったのですから、音は正せるので音程の矯正の勉強になってしまうのですが、その「なぜか」ではないということです。 

 そういうふうに歌ってしまうと、それ以上、修正の仕様がない。実際の歌になったとき、「なぜかわたしを」というところでやろうが、それは歌になってしまったから、よいか悪いかの判断ですが、こういう基本のトレーニングの判断というのは、そのことに対してより柔軟になってより神経が働いていく、あるいは神経が働いているのに、息や声が伴っていないところが突きつけられているかというのが大切です。  だから「てら〜す」と歌ってしまったら、これは直しようがないということよりも、そういうふうにとってしまう感覚、歌としては認められることもありますが、基本のトレーニングでそれをやってしまうと、100回やってみたら喉が痛くなったりポジションが違ってしまったり、いろいろと変わってくる。今、皆さんにとって欲しいところは、「なぜか」であれば「ラララ」、こういう線がある。「ララララララララララララララ」、このフレーズの一番基本の線は壊してはいけないということです。「月の光も太陽も」、その次に「前と変わりはしないのに」があって、「なぜか私を冷たく照らす」、これが同じ線だったら歌は成り立たない。そのまま永遠に続くと、何番まであるのかということになってしまう。そうではなくて、「なぜか」のところで何かが違うわけです。そういうところをメロディよりも汲んで欲しいということです。 

○応用して絞り込む感受性 

 いろいろ考えてやる分にはよいのですが、頭で考えてやると不正解になってしまいます。歌は頭で考えて歌えるものではありません。  ひどいのはよいのです。それは音楽が伴うまで待っていたら、呼吸と体が伴っている人がひどいと思うわけで、そうでない人はひどいとも思わないで、とんでこないのです。  不快なのは、音感が鈍いとかリズムがとれていないとか、応用に対しての感受性がないということですが、2年もやればかなり鍛えられます。それでよいのです。もともと音楽や、自分のつくってきた音の動かし方というのがないからひどくなってしまうわけで、そのひどさをきちんと受け止めていけば、直っていく。 

 だから練習としては今のでよいのです。そこを見つめないで違う形を借りて、自分でない呼吸でやろうとすると、最初はうまくいってしまうし、1年くらいは上達しているように見えるかも知れませんが、そこから先はいけなくなってしまいます。今、間違えてはいけないのは、下手になってかまわないのだから、自分の中に何があるのか、あるいは空っぽならばそれでもよいのです。それを見ていく方に早くやってしまう。 

 V検でも言うのですが、まともに歌ってみたら下手なのがあたりまえで、うまく歌えてしまうのはどこかおかしいと思った方がよい。うまいというのは徹底してうまいというのしかない。中途半端にうまいというのは、限界を示していることになるのです。そういうことでいうと、今のようにとれなかったとか失敗したとかでよいから、それを100回やってみて100回捨てることです。それを何回も繰り返すことです。そうするとある瞬間何かが生まれる。音楽や自分の心が生まれる、そうしたら今度はそれを大切にする。どの課題でそれが生まれてくるのかはわかりませんが、レッスンの一番の目的はそこが一致することです。 

 だから今は大振りしていてよいのです。シャープに絞り込めと言われるかもしれませんが、大振りしてみないことには、自分の体がわからないし、自分のイメージも頭の中に入っているものも、体験も死んでしまっていて、それで「月の光も太陽も」などとまともに見てこなかったら、人のものを借りるしかない。そういうところで音に接していき、何が足りないかを感じていたらそれは入ってくる。 

 レッスンの中では全力でやってみても統制できない、大振りでやってみて30センチもずれている、それをすぐに戻していくよりも、大振りしたものがすべて同じところにいくようにしなければいけない。どのくらい反れるのか振ってみなければわからないというのが今の段階です。だから思いきり振ってみればよいのです。こうやったら右手が痛くなるとか、こうやると次の日に頭がボーっとするとか、結果を次の日にきちんと受けていって、その中でどこかは表現や音楽に結びつく。そうしないと自分のものにならない。歌は人のものを組み合わせてつくるのですが、結局自分の主体性がどこにあるのか。さっきのクラスはああいうレッスンでよいと思いますが、あなた方はなるべく他の人がおもしろいとか、メチャクチャだけどステージに声をかけられたら行ってみたいと思われることが先です。』 【「そして今は」「限りなき世界」00.11.10】 

○ジャンルはない 

 次々にいろいろな曲がきます。これは慣れていくしかありません。演歌を歌っている人に、いきなりゴスペルやジャズを歌ってみろといっても、パターンが入っていない。アドリブやフェイクをやってみてと言っても、無理な話です。  ただ、ここで使っているものは、そんなに無理な話ではありません。逆にジャズやゴスペルであろうが、ロックであろうが、むしろベースの部分に必ず入っている要素です。それに対応できないときに、何が弱いのかを自分で見ていかなければいけない。  表現と結びついていくことなので、あまり細かく注意はしていきません。自分の表現が出ないと仕方ないし、そちらの方が大切なことです。ただ、音感や音程の問題はどこかで徹底して見ていかないと、このくらいの音程をとれない耳であれば、今のプロで歌っているJポップスの人達よりも、明らかに落ちています。それならば、そこを徹底的にトレーニングしてやっていかなければいけません。 

○音程を正す 

 日本語でやる場合は音程に厳しいです。それはおろそかにすると変わりません。何年も歌っているような人でも音はよく外します。わからなければよいのですが、客にわかるということは、音楽のルールから反れた外し方をしているわけです。ということは、音程が外れたとか正しく歌えなかったということではなくて、音楽がその人の中に入っていないということです。その修正機能をきちんとつけていくトレーニングをしていないということです。 

 今、ここのレッスンにおいては出来る出来ないではなくて、新しいものがきたらその都度対応してみて、難しかったと感じるのであれば、課題が難しかったのではなく、自分のその部分に対する神経がない。その音程に対して弱いとか、その運び方に対して、まだ対応できていないということです。それができなければいけないということではありませんが、やれる人はできるのです。

 たとえば、昨日の4クラスでは2曲をやっています。全部終わっています。人数も8人で、まわすのに皆の倍かかるのですが、1回か2回聴いたところでパターンを認識してしまえば、それほど外れない。一概に人数で比べられませんが、そういうところの力は、あって損するものではありませんから、つけていくべきだと思います。たまにこういう授業の中でやらなくてもよいことをやりますが、ベースの部分でできないことは対応していかなければいけない。  ただ、今の段階でできないことをどうこう思う必要はありません。それは入っていないだけですから、たくさん入れていけばよい。たくさん慣れていけばよいという話です。でも、あまりにも周りの人に比べて落ちていると感じるのであれば、Wの授業やCDでの音程練習でもよいのですが、音を認識することを厳しくやっていかないといけない。 

 狂ったのがわかるのは、まだよい方なのです。どこが狂っているかわからないとしたら、それは音大の受験生にでも、狂っているよと言われてしまいます。そのレベルでは、表現活動は成り立ちません。  歌い手は自由だから、私もなるべく自由に教えたいのですが、ピアノのミスタッチが素人でもわかるように、歌の中でもそういうミスタッチがおきることは避けていかなければなりません。それを見ていく練習をしてください。音大くらいの判定基準はもって欲しいと思います。お疲れさまでした。 

○古典に学ぶ 

 反戦歌というジャンルがあります。当然、音楽に生きていることにかかわったときに、戦争があったからです。戦争がなかった時代というのは、めずらしく日本で続いているだけであって、これからどうなるかよくわかりませんが、相変わらず世界では、こういうことが行われている。  研究所で勉強することはいろいろあります。思想や考え方まで勉強しろということではありませんが、ひとつの窓として使ってもらったときに、声が技術力としては、たとえば強い声や大きな声を出そうと思っても、マイクや音響の進歩によってだんだんいらなくなってしまう。高い声を出したいというのも、自分でキィを音響機器で上げていけばよい。ポップスは細心の技術を使っていけばよいのですし、そうすると、そんなところに時間を割くよりも、そこの感覚を勉強することと、その感覚を使って、何をするかというところをやっていかなければいけない。 

 落語家でも漫才の分野の人でもそうですが、古典を勉強することは、一番よいことです。たとえば、このことはもう古くなったからといって、もう10年経っても古くはならないのです。ところが今年流行っているものは、10年どころか、来年になったら古い、5年経ったらもっと古くなってしまいます。そうすると、30年50年経つと、これでもパリでいったら、死んでいる歌にはなりますが、そこの中で得たものが、いろいろな形で使える。 

 音楽の場合、できるだけ曲から教えていこうというのは、ここで古典朗読をやっても仕方がないからです。そこの中にあるリズム、ことば、歌のつくり方というのは、本質的な人達は捉えて生かしてきているし、その線上に音楽は成り立ってきています。そういう残っている曲というのは、その時代に影響を与えてきた曲であり、その時代においては非常に新鮮であった。その「新鮮だった」ということが、非常に大切なことです。今の曲を真似てやってみても、今の曲のようにはなるけれども、新鮮にはならない、ということは、その時代に出たところの新しいところのイメージというのは、今聴いてみたら古いのかもしれませんが、どこかに入っているわけです。  それは何かを嫌っている。それとともにわかりやすいということがあります。新しいということは、新しいという形をボンと出したのだから、この後はこういうような曲ばかりがあったとしても、その後にできた曲で、いろいろ加工されたものに比べたら、最初は新しいことが見えるところだけしか出していないわけです。そうすると、こんな単純なものになってしまうのです。 

○世界の歴史に学ぶ 

 イヴ・モンタンも、「枯葉」で大ヒットを出していますが、基本的にこういうポジショニングや声をもっているし、限界ももっている。これは1952年の曲です。フランスは何をやっていた頃でしょう。アルジェリアの植民地闘争の頃でしょう。いろいろなところが独立して、アジアがどんどん独立していった頃に、インドシナやカンボジアの戦争に巻き込まれる前、アフリカも60年代には解放運動に向かいます。  彼らにとってみた戦争というのは、日常茶飯事のことです。第2次世界大戦が終わったから、戦争が終わったというのは、日本だけの話なのです。  戦争歌や反戦歌を歌って欲しいということではなく、そういうところに伝わっていった音楽、我々がこれを聴いても拍手をするわけにはいかないと思いますが、そういうところから自分なりの思想をつくっていくことです。  私は考え方や思想を押しつけたくない。ただ、いろいろな時代のいろいろなものがあるということが、歌の中にも入っていたし、むしろそういうところが歌われてきたということを捉えていてもらった方が、単純にいうと勉強になるということです。 

 芸事が芸になっていくとか、人々に働きかけていくこととか、人の心に残していくようなノウハウというのは、全部、古典の中につまっています。  それをどこかの一部分だけを応用して、いろいろな歌がつくられているから、その応用されたものでやれてしまう人は、バンドのキャラクターや歌声のよさやルックスなどに混ざってしまって、非常にわかりにくい。  私たちが取り上げようとするこういう曲は、いろいろな実験ができる。一回限りで授業から消えてしまった歌もありますが、こうやって半年や1年おきに使っている曲というのがあります。昔はこの曲をずいぶん使っていました。そういうものがだんだんわからなくなってきているから、使えなくなってきています。でも、一番大切なのは、勉強するのであれば古典、それは応用度が広いということと、基準がはっきりついていくからです。歌声の基準ではありません。歌になるかならないかということが一目でわかってしまうというようなところの基準です。 

○曲との接点をつける 

 それから簡単そうに見えて、やってみたら非常に難しいというのは、基本がわかりやすい。難しそうに見えて、やってみたら簡単だったというのは、勉強ができない。  ここの場所を考えたときに、いろいろな意味で何回も繰り返し使っていって欲しい曲であります。何かというと、人にどのように働きかけるかというところから、歌や声が出てきて、その後に手入れされた形です。だから整理し、修正し、最終的な形をとったときにピタッと短歌のように決まりきっている。ここで切ったらニュアンスが違うし、一字外せないというように、もう動かせないというようなものを勉強していった方がよいのです。なかなかそういう歌がない。だから課題曲などを選ぶのにも、苦労します。最近の課題曲というのは、そういうベースから外れてきていますが、こういう曲ばかり課題曲でやらせていたら、また気持ちが入らないと、入っていけないからです。 

 展開をよく見ていってください。彼らが悲しみを伝えたりするときには、声に媚びるようなことはしません。でもその中に充分込める。  最初の2年くらいにわかって欲しいことは、こういう曲に対して接点がつくことです。パッと聴いてしまったら、なんだこの曲は、嫌な曲だから終わって、早く次の曲になればいいな、という中で、どれだけ踏みとどまれるかというのは、非常に大きな力だと思います。それは時代とか国とか関係ない。たぶん私は他の国に行っても、こういう授業をやると思います。そこで成り立たなければ仕方がないと思います。 

 それは非常に難しいことです。わかるわからないというところに、価値観もありますが、人間である以上、深く踏みこんでいったら、わからなければいけないものもあります。それを感じられるかというところです。こういう授業でも、皆さんがやるよりは、この曲を1時間聴いていたら勉強になるということが、まず第一です。  それから、それを歌や音と叩きこむのではなく、こういうものがよいのは、もっとベーシックな部分を刺激するからです。そこのところで、本当は音の中で捉えればよいのです。ことばがついて、ことばもひどいことばではなく、いろいろな意味でよく考えられたものです。そうするとそのことばから考えてもらってもよい。 

 それでも難しいのであれば、この「ごらん 夏の日の空が見つめている 遠く地の果てに死にゆく若者 これが悲しい世の定めか」、このことばは使わないし、戦争のことは歌わないかもしれないけれど、歌の中で人の心を捉えていったり、何かをきちんと残していくものは、必ずこういう構成がとられているということです。  漫画でも歌でも、皆そうなのです。そこでドラマを起こして終わらせて、そこでバンと終わらせては人の心に残らないから、しっかりおさめる部分もあって、本当に無駄がないのです。  イヴ・モンタンの「枯葉」のように、こうやって全部聴いてみないとわからないわけで、フランス人はこういう歌い方でよかったんだろうなということも、いくつかの作品を見てみるとわかる。やっぱりライブになったりその人間に直に会ったりしたら、違ってくるのだろうということがいろいろと出てきます。うまい人はたくさん出てきますけれど、残る人はあまりいません。 

○感覚の必要性 

 声の勉強をするというよりも、声そのものに関しては、確かに感覚に対応できなければいけないのですが、マイクが発達してスピーカーが発達してきました。研究所では、時代の流れを逆のことをやっていこうということではありません。  その時代で、誰の声でも使えるようになって、どんな出し方でも出せるようになって、すると、さらに感覚が必要になります☆☆。その感覚を磨くのにピアノで磨く人もいるのと同じく、声で磨く方が早いのではないかということで、声でやります。声の方が自在が効きます。

 ピアノで磨こうとしたら、第一線の感覚のところで磨かないといけないから、難しい。自分から離れた木でできたもので、音が鳴る打楽器の複雑な10通りの組み合わせを全部キープして、思うままに弾こうというのは、10年程度やっただけでは全然ものにならない。だから小さい頃から徹底してやって10年でそう、なれた人はよいのですが、せいぜい他の人に比べてうまい、ピアニストから見たら下手だというようなところにとまります。  バレエみたいなもので、どんなにストリートでうまくても、クラシックバレエを徹底してやった人が、本気になってポップスの分野でストリートで踊ったら、負けてしまう。そういうことに値する一番ベースのところは何かということになったときに、その曲の基本のところで勉強することが大切です。 

○カリキュラム 

 昔はほとんどの人が、私の個人レッスンを受けて3年くらい徹底した。6年以上やっている人もいます。個人レッスンをやったくらいのことはグループで全部やっています。その必要性もあるなら個人対応にしようと思っています。1時間の中で、精神的なことや曲の中から学べることを徹底して学んだ上で、個別に見なければいけない。関西はそれがうまくいっているのかわかりませんが、1時間やって15分見るという形でやっています。東京も、全員、VPつけてみて、3ヶ月に1回程度のカウンセリングを復活しました。 

 そこでやっていることとグループでやっていることがどのくらい違うのかというと、個人のときは逃げられないから、ピアノやレッスンのメニューの中の形を押しつけられ、その中で深まる人もいる、という感じはします。私はグループレッスンの方が、よほど深いことをやっていると思うのです。勝手に修正がきいていく。  個人レッスンはその人に合わせて、ピアノが変わるから、その変わったところにその人の感覚が変える必要性を感じたり、ここでよいと思ったのにだめだったのだというような判断が働いてきたら、そこからがレッスンでしょう。個人レッスンは、よいときには繰り返す、それから全然だめなときも繰り返す。だから繰り返されているときは、よいときか悪いときか、どちらかなのです。そのくらいは本人もわかるわけです。そうでなければ上にいったり下にいったりしているだけです。1年以上経っている個人レッスンは、口をはさみません。それよりはグループレッスンの方が丁寧にやっていると思っていますので、よいところを生かしてください。 

 私はグループの方が、あなた方に価値を与えられるような気がします。それは音楽の根本的な部分を入れる、歴史や舞台をつくる歌です。  その人が接点をつかんだときに、こちら側がもう少ししつこくセットをしておかないと、本人が離してしまう。難しいことなのだという気がします。それは、まだイメージが流れていないことにあり、あなた方もそうだと思います。一番つかんだときよりは、浅いところでやっています。ポジションの問題ではなく、精神的な問題だと思います。その分、衰えてしまったり、歌いこなしがうまくなってしまったりしていますが、それが一番危ない。その程度の歌いこなしであれば、よくないカラオケ教室になりかねません。 

 関西のレッスンを見ていても、器用な人はパッとぬけてしまう。それでやれてしまうくらいなら、最初から研究所へ来る意味もありません。それをどうやればよいのか、グループレッスンを数多くもっていて、かえって伝わらなくなっているのではないかと思います。だから来年はそのセッティングを考えていきます。人数が少なくなっていくのは喜ばしいことですが、そこで質が高まっていかなければ悲しいことになってしまいます。  あなた方もそれをどう利用するか、どう利用したいかということを言ってください。どこかで踏みこまないと難しいと思います。最初に「アデュー」をやってみましょう。 

○表現を支える感覚 

 大切なのは表現です。表現したときに「せめてあの日を」というようになる人がいますが、それは呼吸が乱れてしまうので、「せめて」に対して「せめて あの日を」、音的には同じです。  だから変えてはいけない、けれど心の部分では「せめて」という気持ちと「あの日を」という気持ちが大きく違う。そこに「思い出して」がくる。ことばの処理ではなくて、「おもいだして」「おもーいだーしーて」、音楽の処理にしていかなければならない。それはつくらなければいけなくて、難しいことです。 

 4クラスの人のように、音楽パターンで覚えてしまうと、今度は応用がきかなくなってしまいます。心が働かなくなってしまいます。私はそれが不満です。「心が入っていない、愛がない」と言いました。だからといって心を入れようといっても無理で、それは新鮮な感覚をそこに入れるしかありません。つくってきた感覚を出しているから、ああいうふうになってしまいます。  「せめて」に対して「あの日を」「思い出して」というところ、「寂しい」ということと「心を」「なぐさめましょう」、全部違うのです。そこの感覚を取り出せないとしたら、音楽としては失敗なのです。これをつくってしまうと、音楽や呼吸、舞台から外れてしまいます。舞台の上でやらなければいけないから、それが難しいわけです。 

 そうすると、最初はしかたないから、「せめてあの日を思い出して」、動くところで声をとって、「寂しい心をなぐさめましょう」とやる。でも、歌うときには、自分の感覚の中の「寂しい」や「心」を取り出す。  いろいろとやっていると、テンポが外れてきたりするから、それをギリギリで調節するわけです。直線的にもっていったら、全部そうなってしまいます。「なぐさめましょう」のところでも、「タタタタ―タタター」、下がったなと思ったら、その動きを利用できるわけです。  音楽のもとに入っている動き、それを感知して自分の感覚を増幅する。増幅できない、マイナスになるというところは切ってしまえばよい。「なぐさめましょう」と歌うのであれば、「なぐさめ ま しょう」と歌うとか「なぐさめ ましょう」とするとか、感覚が出るようにして、感覚が鈍くなるようなところは逆に切ってしまうという形でやった方がよいと思います。 

○否定の力 

 接点がつかないのが普通の感覚だと思います。でも考えてみれば、プロならさっきのピアノの伴奏はどうだったかと聞いて、ピアノは弾けないかもしれないけれど、たとえば、ジャンジャンというようなところやマーチのところはとれるわけです。そういう部分のひとつの共通の感覚があって、研究所でもレッスンや歌ったりする前に、こういうものをどのくらい叩きこんでいるかということにあると思います。  なぜ古典を使うかというと、これは生き方にも言えますが、皆を、否定する権威が弱まっているからです。親でも先生でもあなたが殴りかかろうと思う権威さえいない。  そうすると、自分の表現する形態が出てこない。新しいものが生まれるには、否定するものがそこに存在していた方がよい。それに対して何が出せるかということが必要になってきます。研究所もそういう場所でありたいと思っていますが、なかなか難しい。   

 形式などは最終的にとられるものです。日本の歌い手は誇張してしまったり、悲しいときに泣いてしまったり、手を上げてしまったりするのですが、音声の働きを無視していることが多いです。そこで力が働かないから踊り出してしまったり、バックに戦争の映像を浮かべてみたりしなければならない。そういう効果があってもよいのですが、本来ならば、それを音の中で感じさせなければいけない。  感じさせなければいけない役割のあなた方が、どこまで感じられるかというのは、最大の勉強です。  こういうレッスンになると人が減ってしまうのですが、大切なのは、こういうことを一層二層と体に積み重ねていかないと、どんなにレッスンの中でフレーズをまわしたり声を出したりしても、何も変わっていかない。入っていないものは出てこないということは、そういうことなのです。 

 わずか短い時間の中で、どういうものを積み重ねていくかということで、それが一人ひとり違っていてくれなければ困るわけです。勉強というのは、人と違うことをやれるがためにやるわけです。それが同じ受け止め方をして同じ出し方をしているときには、勉強にも芸にもならない。ただ、その根本のところに共通するものがある。それは世界として見ても、時代や空間や言語が違っても伝わる。でも伝わっていない人に伝わっているというのを、どういうふうに勉強させるかというのは難しいことです。  何回も何回も聴いてみて、この部分は伝わりそうだというところを見つけておく。そして2,3年経ってみて、伝わったということがわかるようになってくればよい。クラシックでも、最初から感動したという人は、よほど恵まれた人であって、何回か聴いてくるときに、自分の心と同じ状態に捉えられるのです。歌もそういうふうに学んでもらえばよいと思います。 

○音程の問題 

 カラオケの人たちがいると、大体、音程の問題が上がります。音程をとりにいこうとするから、音程を間違うということです。あなたが得意な歌や何回も聴いている歌を、音程をとろうとして歌うことができますか、絶対歌えないですね。ということは、入っているか入っていないかということなのです。あなた方が、こういう歌でできないのはかまわないけれど、パッととったときに、この歌を知らない若者でもできる人がいるということは、逆にその人たちが持っているような感覚の応用性や仕込みがないということです。 

 大抵の人はできませんが、研究所のあるレベル以上の人はすぐにできてしまいます。それは訓練されて、予想がすぐにたつということと、自分で線が通せるということです。それを音や聞こえている線で通そうとしたら、全体がわかないから、何回聴いてもまだ間違えたりするのです。  それは最初からの入り方が違う。今、一番やってほしいことは、そういうものを積み重ねてほしい。できないかもしれないけれど、何回も聴いてみたりレッスンに出てみたりして、わからないところで修正できてくる能力の方を獲得するべきです。 

○スタンダード 

 これが「枯葉」という曲です。ジャズのナンバーからサラ・ヴォ―ンなどを聴いて、原曲は誰なんだろうと調べて、イブ・モンタンを聴きました。今の皆さんがどう聴くのかはわかりませんが、こういうファルセットもあるということで、そのまま投げ出した覚えがあります。 

○古典 

 こういう曲や反戦歌を使うのは、その時代にエポックとして出てきたということは、そこに新鮮な感覚が入っているからです。それは原型として入っているのです。それ以前のアンチテーゼに対して新しいものが打ち出されたから、それが非常に目立つかたちになっている。  それをよいと思った人が、いろいろと変えていったり、似たような曲を作っていくので、どんどん薄まってきたり、よりわかりやすくなっていく。  その時代の人にはわかりやすくなっていくのですが、逆に時代を超えてみたときには、わかりにくくなってしまうのです。  だから古典のような作品をやらなければいけないのは、今の作品を追いかけてみても、来年になったら古くなり10年経ったら死んでしまうものがほとんどです。ところが、40,50年前の作品は、私が若かったときでさえ古いのです。だから今のあなた達が聴いても、それは古さとしてあるものです。それは10年経っても変わらない古さがあり、だから意味があるものなのです。 

 たとえば、研究所に来て、一番勉強して欲しいことは、声に関しては、高い声や声量を出したいといっても機材でやってしまえばよいことです。そんなもので差はつきません。  それが使えなくてもできなくでもやれている人は、感覚が鋭いのと、どういうふうに時代を切り取るかというところです。そういう勉強をしなければなりません。それを音や声の中でやるのか、それとも形式でやるのかということになると思います。 

 古典を勉強していったら、結局その中に、今応用されているすべてもものが入っているわけです。今のイベントを見なくても、昔の祭りを見ていたら、人が集まるにはこういう要素があってということが、きちんと分析できるのであれば、イベントというのは単に今の時代の形態をとっているにすぎない。新しいアイディアなどでも同じことです☆。 

○世界の窓 

 研究所を世界へのひとつの窓としてみて、自分だったら絶対にやらないような作品に触れて欲しい。私もこういうものを1年に1回か2回はやりますが、どうしてもやらぜるをえない。というのは、他のどんな流行っている作品を使うよりもわかりやすい部分がある。私はいろいろな歌を知っていますが、その中で伝えやすい部分がある。こういうレッスンに人が来なくて困っていることは、わからないことは自分に必要がないのだろうと思っていることです。 

 でも今の時代に生きていて、今の人がすぐにわかってしまうようなことほど価値のないことはないわけです。わからないことに気づいていくとか、何かを蓄積していくとかいう努力を放り出してしまっている。こういう曲でも、皆が歌ったり音をとって勉強するよりは、とにかくずっと聴きこむことをやって終わり、それで2年間、終わりというのが、本当は一番よいことなのです。  でもそれだと、あまりにも人が来なくなるし、こちらも手を抜いていると思われかねないので、その中でもう少しわかりやすくしてしまうのですが、逆にわかりやすくよいレッスンだったといわれるようなものは、あまり意味がない。その後ろに意味がなくわからないレッスンがたくさんあって、はじめて意味があるんだろうと思っています。 

○リズム、メロディ、詞の一致 

 ここでは価値観やポリシーを押しつけようとは思いません。ただ歌が人に伝わるときにどういう要素を汲んでいて伝わったのか、言いたいことやあったことをどういうふうに詞にまとめたか、これはどんな時代も変わらないし、むしろその原形を勉強した方がわかりやすい。リズムもそうです。  こういう曲に行進のリズムが入っているのは、戦争の雰囲気を出そうということで考えられている。だから音の世界で風景を描写してごらんと言ったときに、そういうべースのリズムの中に歌い手が入っていって創り出している。そういう材料パターンをたくさん入れておけばよいと思います。 

 今の歌に対して、私もコメントを出さなければいけない。基本的にはそこに戻って考えてみれば、そこの中の誰の役割をその人はやっているということを見ていけば、正確に答えられます。  今の歌い手を100人聴いてみて、それを分類しろといっても無理です。ところが30年前の歌手を100人聴いておいて、今の100人を分類しろと言われたら、この人はきっとこの人の役割をしているんだという置き換えができます。それとともに広くみることができます。 

 今の人たちを否定するのではなくて、私には理解できないけれど、この人はきっとあの時代のこの人の役割になっているんだなと思います。だから私は、今の歌い手などは肯定的に捉えています。2番選手が許せないだけで、そこの中に出てきている感覚は、それぞれ新しい感覚で出てきたものは、こういうものも同じです。だから皆さんのイマジネーションがそこまで入れるかどうかという問題になってきます。 

 今度は音で聴いてみましょう。この歌詞は比較的よくできています。なぜイタリア語フランス語でやってしまうのかというと、日本語の歌詞が比較的しっかりしている。それはどうしてかというと、英語の曲は日本人も英語で歌ってきたのだから、日本語をつけてもろくなものがない。  英語を聴いている人もそれがなんとなくわかります。ところが、イタリア語フランス語になってしまうと、それがわからないから、日本語で歌うわけです。そうすると洗練されていき、悪い歌詞は捨てられていきます。歌詞ばかりで聴いても仕方ないのですが、この歌手は歌詞を、こういう音に置き換えているのだということを聴いてください。 

○声楽家の限界 

 声楽の人が、なぜポップスが歌えないのかというと、こういう感覚のリズムの欠如、それから声楽は全部を声にしなければいけないから、声が壊れたところはとれていないことが多い。イタリア語やドイツ語からきたものなので、本当は違うのです。あえて母音のところを強調させていくのが声楽です。遠くまで聞こえなければならないし、どんなに「Kiss」というような無声音を強調しても、客には聞こえないわけです。

 声楽という土俵に対して、ポップスはもっと真ん中をやっていると思います。声楽の方が特化した世界だと思います。ポピュラーの真ん中とは、その人が真ん中なのだから、どこというのは決まらなくなってしまいます。 

 ところが声楽の世界というのは真ん中がわかりますね。テノールはこういう役割の登場人物がオペラに出てくるのだから、二枚目、バスはこういう役割というのがあって、声質も決まってきます。それから音をそこまでとらなければいけない。大劇作家の作品ですから、それを下げて上演するというようなことも、考えればよいのですが、マイクや音響設備も変わってきたとはいえ、生声を聴かせたいということでの芸術であります。 

 ポップスはもっと自由に声を使えます。声を通じて、その感覚を磨くことが大切です。こういう中でも、この歌をどう歌えるかというちっぽけなことではなくて、こういう歌の中に入っている精神やそこから人々の心に訴えかけるものをどのようにパッキングしていて、どういうかたちで抽出してきているかというやり方だと思います。そういうパターンを音の中でたくさん入れていくことが目的です。  皆さんの中に通じなくても、私がこれだけ説明しているのは、本当はだめなことで、それを何回も聴いている中で皆が発見していかなければならない。10個にひとつくらいのレッスンでそれを見つけてくれたらよいのですが、なかなか難しい時代になっていると思います。 

 私は迷う必要がない。自分の才能や能力とは関係なしに、世界中に作品として成り立っていた中に、あったものをとれるかとれないかというのは、その人の能力です。だから楽しいことをやっているのですがどうでしょう。  簡単そうに歌っているなと思って拡大して何度も聴いてみたら、結構大変そうだなとか、心を込めて体を動かして歌っているなというものがあるはずです。そうでなければ歌にはならない。そういうことを何回も聴いている間に、自然に入ってきて声が出るようになってくる感覚が一番大切なことです。 

○創唱とコピー 

 「エビ―タ」をやったりすると、その時代背景を読みこむ。でも大切なのは、その時代に死んでしまった作品をいくら拾いあげても仕方がない。まして日本にいて、向こうですごかったというのを他の人に伝えたいというのなら、すごいものを見なければいけない。でも人間は感動したものをやりたいものですから、そうなったときに、「エビ―タ」でもマドンナはこういうふうに生かした、アメリカでそれでヒットした。そこでアメリカ人の感性にふれるために彼女は何をしたか。自分の感性にふれるところをやったのです。自分にふれながら他の人にもふれる部分はどういうつくり方をしているのかということを見ていくわけです。

 1952年にフランスがどうであって、その頃にどういう戦争をしていて、これは2次大戦が終わってから植民地運動が始まることのこういう歌だというのは、評論家がやればよい話です。あなた方がやらなければいけないことは、この中に古いと思われている要素の中から、でもその時代を動かした新しい要素の中の原形が入っていて、そういう新鮮さはどこから聞こえるのだろうということです。 

 確かに古いのです。でも、この歌がよいとか、ヒットしたとかいうことで、他の作品がつくられていくのです。そうしたら最初の歌は、応用されていない部分のことが突きつけられるわけですから、勉強しようと思ったらできるのです☆☆。そのときに2つ考えなければいけないのは、他の優れたアーティストがこれから感化されたということは、感化されない自分の方が鈍いのだろうなと、それがわからないくらいに自分には理解力がないのだろうということです。それをわかろうとするのもひとつの勉強です。  原曲を聴いてみて、感動したかというと、これで名前が通っている、やっぱり役者なのかなということです。もうひとつ考えたのが、「枯葉」だから枯れる頃でないとこの曲の味がわからないのかというのを思いました。それからシャンソンだから、語りの内容を原詞で読まないとわからないのかな、原詞はやはりよいのです。別れてもあなたも魅力は変わらないというようなことです。訳詞と全然違うのです。 

 日本で訳された「枯葉」も、アメリカのものも皆でハッピーというようなとんでもない「枯葉」ですが、この曲がヒットしたのは基本的には音の並びなのです。ジャズの演奏家が言葉がよいからととるわけではないし、詞がよいからでもない。  歌の中にあるフレーズにこういうコードをつけたら面白いとか、こういう魅力を出せるとか、それはよくわかりません。だから音の世界の中で入っていけばよいと思います。  2人の歌い手がいたときに、比べてみたら、そこで変わっていないものは、その歌い手や国が共通してもっているものです。モンタンのはもう少しストレートでわかりやすい。逆にいうと大変な歌い方をしています。 

○芸と色  

 昔、談志さんが、「三億円の犯人がなぜ捕まったのかというと、最近生活が地味になったからばれた」という、そういうのが芸だと彼は言うのです。普通は派手になってばれるのですが、その逆説をいっているのです。それを壊して出てくるポップスのようなものは、彼に言わせると「わけのわからないうちに捕まってしまった」ということ、それよりいい正解というのはそういうものなんだ、でも言われてみたら、そういうこともあるでしょう。  パッと聴いてみたら全然わからないのですが、何回も聴いてみてなぜ私はそう感じてしまったり、私が感じるということは落語ファンはもっとわかるのです。そういうひとつの論理や置き方があって、こういうふうに歌えるかなと思って歌ってみても、実際はならないのです。ならないということはこういうふうにならないのだから、自分の色を出すしかないのです。その色を出して欲しいと思います。 

 ここの中の盛り上げ方なり次にパッと落としこむなり、そのうまさに評価の基準があって、下手なヴォーカルは乱れるのにやはりさすがだなという見方をしているのだから、そういうふうにホールで聴いていると思ってみたら、やはりうまいのだろうなという、そういった捉え方が必要です。  後に残るか残らないか、なぜ彼らが聴けるのかという部分のところだと思います。それは自分たちに歌を聴いてみたときに、気持ちよいとかいうことではなく、それを貫いて問うてくる何かがあるかということです。それでなくては、一回聴いたらもう終わりです。 

 我々が思っているより、その基準がはっきりしているということです。これしかありえないというところまでやっている。そうでなければよい作品にはなりません。これを一時間の中でつくるのは、無理な話です。よく聴いてみて判別できるようになってください。最後に好きなところを歌って終わりにしましょう。  こう考えてみると、まともに歌うと非常に大変になってしまう。それこそ自分のものをどう使うのかということとともに、ポイントをきちんと絞り込まなければいけない。その感覚をすぐにとろうと思ったら、確かに一時間では難しいのですが、でも一時間どころか5分で聴いて5分でやってしまう人もいる。そこは甘くなってはいけない。  歌い上げてしまうと、どうしても歌の中で負けてしまいます。それをはっきりさせて、自分のところをどのように接点をつけるか、それによって呼吸のコントロール、配分、ことばの練りこみ、それから実際にどう動かしていうかということが必要になってきます。  それは状況によっても変わります。ただ、何回もやっている中で、このフレーズというピタッと定まったものを出していく勉強をしなければいけない。それをつくることがレッスンになれば一番よいと思います。 

 とりあえず、声の高さや声量は関係ないのだから、ギリギリのところで表現して、それで100個でもつくって、99個捨てて、ひとつのことがこれだとはまったところから勉強になる。そのはまったものを少しずらしたり、何かを加えてみたらどうなるかということです。自分の頭だけで考えてはだめで、今足りないのは、これを聴きこむ回数です。  まず、それを徹底して入れないことには、音楽は進んでくれない。逆にいうと代替ができるわけで、これがなかったとして、今までマーチやこういうリズムのものをたくさん聴いていたとしたら、そのものが入っていくでしょう。 

○職人気質 

 元々入っていないものは、出てこないから入れていくしかない。この歌詞の内容を言えというわけではありませんが、これが歌として音楽として成り立つためにどういうことが必要かということを最大限に取りだし、後のものは捨てていかなければいけない。自分に対して厳しく、ここはたらっとしているとかテンションが落ちたということを即に切らなければいけません。そのまま歌っていても誰かに通じるだろうというところでやってしまうから、甘くなってしまう。歳とともにいい加減な歌い方になってしまいます。そこに職人技、感覚が必要な気がします。  声が出るようになったり、歌えるようになってくると、だんだんのっかってくるのです。声を高くしたければ、機械で高くすればよいし、音量を上げたければマイクですればよい。そういう世の中だから、磨くことは感覚しかない。それから自分のもっているものをどういうふうに見せていくかという使い方です。 

 そういうものを聴くのに、今のJ-POPSよりは、この頃の曲を聴いていた方が、自分とのギャップのところで同じように歌いたいのならそうすればよいし、違うふうに歌いたいのであればそうすればよい。そういう勉強もできる。それを応用して、変な癖をつけているものに合わせてやろうと思ったら、何が正解で何がだめなのかわからなくなり、勉強にならない。  落語でも噺のおもしろいものを開発しようとかネタのおもしろいものをつくろうとしても無理で、誰かがやった古典と同じことを徹底してやる。それをやったときに足りないことが、9割を支えているといってよいと思います。

 あとは、曲を変えてみることです。その中で勉強することがとても大切です。「ガマの油」の中で舞台を勉強した上で、この歌をやるといったら、それは応用にもなってくる。そこの中でもたないものを、この歌でもつかといったら、難しい。  勉強の土台をどこに置くかというのは、ここでは2年、4年、6年、皆さんが歌っているものが向こうの歌であれば、それこそ感覚の切り換えができているようでいて、ほとんどできていない。できていたらこういうものがすぐにコピーできてしまう。そういうふうに見てもらえばよい。非常に難しいことです。  そうでなければ原語のまま聴いていって、歌うのもひとつの勉強法だと思います。その方が声が出やすくなるように思います。 

○つくられていくような呼吸

 「どんなに 深く」、こういう呼吸が見えて、「どんなに深く」が消えてしまうでしょう。ただ、それで「どんなに深く愛したとて」と単調になってしまったら、何も言えなくなってしまいます。ことばから取るのは、声のきっかけをとったり体を使うということで考えておかなければならないことです。全部やってしまうと台詞になってしまいます。役者はそういうやり方をします。そういうのは私は嫌いです。音楽を裏切ってしまうからです。

 音楽からいうのであれば、「どんなに深く愛したとて」というのがあれば、「どんなに 深く 愛したとて」、入れていかなければだめです。基本的には、それを伝えることが目的であって、その伝えるための部分的なことをここの空間でやるのはかまわないし、それが歌にならなくてもかまいません。そうではなくて、「どんなに深く愛したとて あてにはならぬ人の心」とやるのであれば、早口ことばと同じことです。それは喉にもよくないし、中途半端になってしまいます。それを支えようとしているのが、体で当人がとらない限り、体は動いてきません。そのうち表現をしようと思うようになると、体も動くようになってきます。だから台詞から入るのも、ひとつの方法と思います。

 「アデュー 忘れないで」というのも「忘れないで」といったら、どこかに「わすれ ないで」とか「わすれ ないで」とか、何か動きがそこに出てくるでしょう。それを生かすために音楽がついているのであって、それを無視したところに「わーすーれーなーいでー」などとやっても、これだと長短だけの勝負になってしまいます。

 「アデューーー わーす れなーいでーー」、呼吸が止まってしまうでしょう。そこで客は引いてしまう。引いてしまうのだけど、それが技術だと思って聴く客も日本には多いからだめなのです。  大切なことは、そこのところでつくるのではなくて、つくられていくような呼吸を流しておくことです。レッスンの中では完成させろということは言っていません。  歌い手でも歌っているわけではなく、それを伝えるために体や息を使っているわけです。そこの呼吸と一致させていくことをやっていかないと、表層だけで動きが見えなくなってしまいます。舞台というところの5つくらいの枠があって、表現には3枠くらいあって、音声というのは、そこからいうと1くらいのものです。舞台の呼吸があり、その呼吸が表現に使われていることが前提であって、その上で音楽が助けてくれる部分はありますが、ここの場合はアカペラでやっていきます。

○動かし方の余地 

 イベット・ジローというヴォーカリストは、80歳でCDを出していました。日本語でやっていくと開いていきますから、最初から「出て行く船を送る私」というようになってしまいます。そうならないようにどういうふうにしていくかというところで、曲を聴いてみて、歌詞を書いて、やっていきましょう。  少しややこしいところもありますが、題材的にはこういうものです。  最初は「出て行く船を送る私 悲しいつらい別れだけれども 涙を隠して笑顔で送る別れ 泣いちゃいけないもの」というのが、ひとつのブロックとしてあります。それから「アデュー 忘れないで アデュー 思い出して どんなに深く愛したとて あてにはならぬ人の心」で下に下がります。それから「アデュー 泣いたとても アデュー 帰るじゃなし せめてあなたを思いだし 悲しい心をなぐさめましょう」、これがテーマ詩、サビの部分です。「離れていたとて」から、展開部です。そして「心のともしび」、この後はノンブレスでいっています。いきたい人はそうすればよいと思います。「アデュー 忘れられない」、ここは違うメロディのつけ方をしています。当時の訳詞はうまいですね。

 ここで「忘れないで」として、ここでは「忘れられない」としている。高めているようなところがあります。ある程度わかった方がわかりやすいと思います。「アデュー」というのは、「アディオ」、まだ「アリヴェデルチ」や「チャオ」というような意味で、かなり強く使う場合もあります。永遠の別れというようなときもあります。「チャオ」というのも「こんにちは」の意味だけではなく、「バイバイ」というような意味で使います。  そして、「あなたの声は今も消えず」と、私が今言った、かったるい部分はよほどうまくやっていかないと歌にならなくなってしまいます。だから歌になりやすいところから少しずつやっていきましょう。動かし方をよく聴いてみてください。  音をとっていて等間隔に並べていくのではなく、これなんかは正にそうなりやすい曲なので、よく聴いて、そこに動き、圧力、踏みこみ、離し、その動かし方の余地をつくっていくことです。動かし方は失敗してもよい。そこを聞こえているところの中から、きちんと見ていくことと、その見た感覚の中で、自分の呼吸です。

 さきほど2,3クラスでもやってみたら、「アデューー わすれなーいでー」、この発声自体、全然悪くはないのですが、そのままであれば動きようがなくなってしまいます。きれいな声で聞こえてきたなとか、メロディがいいなあとかいうことで、あまり歌い手の力ではない。それを最終的に選ぶのはかまいませんが、一番ベーシックの部分であれば、そうではないだろう、やっていることは、もう少しいろいろと踏みこんで、自分が動かす余地をつくっているかという観点で聴いてもらえばよいと思います。  いろいろな歌い方があります。ある程度、焦点を自分で絞り込んでいかなければいけないときに、まず流れでとらなければいけない、それから動かせないというのは、その焦点の絞り込みが甘い。発声でもそうですが、広がってしまいます。  いろいろなところが鳴り出してきて、それもひとつの表現形態なので、応用のところでやってはいけないことではありません。

○大化けへの呼吸 

 「どこがだめなのですか」と言われましたが、それはもしかすると大化けするかもしれないから、だめと言う。けれどいつもそれで、化けなければ困るわけです。間違いが起きてしまうのは、まずひとつが甘いところで「離れていたとて 心はひとつ」というように、浅い息で体に入れない、テンションを高めない、そうなるといろいろなところが部分的に動いてきます。  これはあまり喉を傷つけないようでいながら、何回も2時間も3時間もやっていたらどうなるかというと、いろいろなところが疲れてきたり、喉に負担がかかってきたりします。だから体の原理から、外れているところです。 

 それからもうひとつは、ことばのところで「心はひとつ」、音を正確にとっても、日本語はこのようになってしまします。「こ・こ・ろ・は・ひ・と・つ」と一つひとつをアタックしていくようになる。だから難しいのです。「心」と言いたいし、「ひとつ」と言いたいのだけれども、そうやると「タタタタタタタ」となっている。それをイメージの中で「タタタタタタタ」というのを、どう捉えるか。このフレーズをどう捉えるかということになってきます。  本当はそのフレーズの線が取れていたら、発声の問題はポップスの場合は、それほど起きてこないものです。のっかってしまうのが一番まずいです。「離れていたとてー ここーろはひーとつー」というようになってしまうと、自分の心や呼吸と離れたところで、コピーしてしまうことになってしまいます。  次のところも同じところから変化していきます。たとえば、これを音でとってみたら、「愛しい面影は」、同じところで平面的に距離をとっていくのですが、よく聴いてみると、そうではなくて、そこの呼吸を変えていますね。

○執着心と、離すこと 

 ことばの処理、メロディの処理、リズムの処理、声の処理、いろいろなやり方があります。大きくわけると、ことばで言っている部分とサビの部分との2つです。それからリズムが全部逆になります。「りにはなごりのはな」となります。全部、後です。  こういうものは一番よいでしょう。こういう曲は好きで使っているわけではなく、基本がわかりやすい。たとえば、ひとつの歌を歌い上げるというときに、与えられた歌を歌っていても、歌にならないし、歌のベースや歌詞のベースとはどういうことなのかといういうとき、「ごらん、夏の青空が見つめてる」に対して、「遠く地の果てに 死にゆく若者を」を対比させていく。これが、ことばでもメロディの中でも対比している。そこからいきなりパッと止まってみて、「これが人の世の悲しい定めか」に追いこんでいく。 

 今、入ってくる人達でも、結構、声があったり歌えたりしているのですが、長く授業に出ないと、それから周りを見て、自分の中でできてしまうと思ってしまうのでしょう。それだと何もならない。  あなた方を見ていても、ある時期のあるときは、接点の高いところ、接点だから別に歌になっていなくてもよいわけで、そこを詰めていったら、よい歌になっていたり大きな歌に化けられるというところがあるのですが、安易に離してしまう。そこを握っていること。たとえば、ここを出ていってだめになってしまったと聞くと、あれを離したな、というのがわかる。ここの中でも3年くらいいて離していくというのがわかります。 

 離してしまっている。でもそれでごまかせてしまえるレベルであれば、それでよいのでしょう。きちんと捉えているということへの執着心がだんだんなくなっている。  新しい曲をやっているのがだめなのかと思って、また古い曲を取り上げます。何回も繰り返していた曲に、もう一度入ってみようと思います。 「ミレド ラドレ」を覚えておいてください。あとは同じ音です。「寂しい心をなぐさめましょう」、「ましょう」が下がります。4つの音で構成されていて、最後の「ましょう」だけ下がります。 

 この中の動きで、どこに言葉をつけるとか変えるとかいうことはかまいません。こういう基本的な構成が入らないのに、頭で考えてしまうから難しくなってしまうのです。こういうことにこだわりたいという人は、コードや和声を勉強すればよいわけです。  それがなくても、「レーミレドーラドレ―」で終わると思う人はいないわけです。当然「ミレドーラソドー」、これで終わります。勉強しなくても、音楽に入っているわけです。それを誰かに語りたいとか、共通のルールとして説明したいときにコードを使うと説明がしやすいというだけです。本当はその前に捉えていなければなりません。  ここだけやってみましょう。あなた方の中にあっても、すぐに取り出せないから、それを取り出せるような勉強をするしかない。息を吐くことも体を柔軟にしておくこともそうです。 

 舞台が呼吸です。それから表現というのは、この場合、音楽が声などの実質を伴うわけで、そこに自分を入れていかなければなりません。だから舞台というものに音楽が入っている場合は、それはそれでよいと思います。  「せめてあの日を思い出して 寂しい心をなぐさめましょう」ということをまずつかんでくる。たとえば、定型の中にリズムや呼吸は入っています。  スタンスにしても、私の場合は人前に立ったら、そのスタンスをとらなければならない。「せめて あの日を」などと言っていたら、何も成り立たない。だから、「せめてあの日を思い出して 寂しい心をなぐさめましょう」というあたりまえのことを出す。そこのところでまず舞台です。 

○神経をたくさん通わせる 

 あくまで声を動かせるところにもってこないと、感覚がどんなに動いていたりイメージがあっても、それを取り出せません。目一杯、手を伸ばした位置でピアノを弾いてしまうようなものです。自分が一番動かせるところでやらなければいけない。動かせなかったら、自分の体を寄せてでも、自分の神経の通せるところでやるべきです。  こういうレッスンでは、1本しか神経の通っていないところを、5本や10本、100本くらい通らせるためのレッスンです。何が弾けたかということは、ここですぐに問うているのではありません。そういう扱いをしなければならない。そのためには声のとれるところでやることが必要です。 

 ことばや音程を間違えるなということは、ここでは言っていません。言っていないけれど、どんなに狂ってもよいのかというとそういう話ではない。そうしたら表現を出せということです。表現が出るかわりに、若干乱れてもよいというだけです。神経がそれだけ通っていたら、音は乱れないはずです。  こういうところにもヒントがあります。「どんなに深く愛したとて」に対して、「あてにはならぬ人の心」で上がっていきます。というところは、こっち側にいきたいという方向が働くわけです。そうしたら歌の場合は、ここを構成すればよいわけでしょう。  「どんなに深く」、ここは同じにとるか、あるいは「深く」でもっと入れる人もいると思います。  基本的には、ここで上がりたかったけれど上がれなかったということで、次のところで上がる。だからこの動きは、ここで予期されている、これが構成、あるいは形式ということです。「愛したとて」に対して、「あてにはならぬ人の心」が離れていくということです。その構成が違ってくるということです。

 「忘れないで」に対して「思い出して」が大きくなるのか小さくなるのか、この場合は小さくなります。それは音程差や音の長さ、それからヴォーカルでいうと声の大きさでも変わってきます。楽譜を見るだけでも、同じ型でも、こちらは高い音をとっていたりとか、こちらは全音符をとっているとかいうことで比べても、こちらの方が大きな表現だということは誰でもわかる。それは聴いたときにわからなければいけません。 「どんなに深く あーいしーたとて」、こうなってきたときに、どの声を使うかというのは、自分の中で起きてくる声でよい。もう置くところに置いたら、あとは離してしまってよい。「こころー」で、どこが響こうが、それはあとで修正すればよいことで、動きを出すことの方が大切です。下手にそこで拡大してしまうと、自分の鈍さや下手さを強調してしまうことになってしまいます。

 もっというのであれば、ここにくるまでに勝負しておかなければなりません。イメージでとれと言うと、大体の人が引っ込んでしまう。呼吸を使っていかないと体が動かないから、結局つくらなければいけなくなってしまいます。そうしたら、全部つくらなければいけなくなってしまうので、それも大変なのです。  最小限で最大のものを発揮する。今は最大で最大のものを発揮する、1年目はそれでよいと思います。レベルが上になってきたら、その動きを利用して、省エネにしなければいけない。フレーズをまわすということは、全部を強く言っていたら、どこかで疲れてしまいます。  フォームというのは、必ずどこかで強く使うけれど、その分どこかでより長く休めることが必要です。そうでないと、動きがフォームから離れて、壊れてしまいます。そういうものを生かしてやってください。そこから何が出てくるかというのは、逆の問題です。「どんなに深く」と入れた後に、「愛したとて」を歌わないで歌の部分をもってきます。

○歌い分けについて 

 「枯葉」は、シナトラからプレスリーまで歌うし、ジャズのナンバーにも入っています。声を出しているようなときに、このようなものを聴いても、この弱々しい歌は何だ、とよくわからないでしょう。  反戦歌を特集をしました。逆に、ああいうふうに歌える人は、そういうポジションがあるんだ、こう歌えば、歌うことができる。もちろん、「枯葉」と反戦歌は歌っていることが違います。「枯葉」なのに棘のあるような歌になってはいけない。日本人の歌い方は、声の中で歌をつくらないので、ワンパターンになってしまいます。  日本語のつけ方で、何回も注意しているのは、「えりには なごりのはなー」、これが日本語です。ついているのは全て逆です「えりには なごりの はな」、こちらにつきます。「げんちに むか(k)う へいし(s)」、ここは音にならなくてよいのです。子音の中でとれるということは、息でとれていればよい。そういう聴き方をしてください。 

 サビから入りましょう。最初が、「ごらん」という意味です。 こういうものは音だけ聴いていると、フランス語を日本語に置き換えなければならないので、難しくなってきます。1,2回でとれる人は何を聴いているのかというと、音の構成、必ずこう行くのだという感覚のところと、息の部分です。自分で半分は答えを持っていなければいけないし、後の半分はこの音の中で自分はこう行きたいけれど、むこうはこう行っているというところは、自分で修正しなければいけない。そこはとても難しいことです。  一流の人というのは、本気で歌ったら本気で歌えてしまうのだという部分の条件を見せてくれます。今のような「枯葉」を歌った人間が、こんなふうに歌っています。それは反戦歌だから、このように変えているのです。 

○古典の定型パターン 

 難しい曲だと思って歌ってみたら、歌えるなというのは何も勉強にならない。逆に、聴いてみたら簡単で、なんでこんな曲が課題になるのかというものを歌ってみたら、全然歌えない、歯もたたないというものが、一番大切なものが入っているのです。  落語家でも古典の落語を徹底して勉強するのはなぜかというと、そこに定型パターンが入っているのです。この曲でも「ごらん 若者が戦に出ていく」、日本語が古くてもすたれているわけでもない。もっとよい日本語もつくでしょうが、そういう戦に対して「かわいい恋人に心を残して」ということがあって、次のサビの「ごらん 青空が見つめている」と今度は青空の視点から来るわけです。

 それに対して「遠く地の果てに 死にゆく若者」を置いてみると、そこに死をいうものを対照させている。言葉だけを聞いてみても、こういう追いこみ方だということがわかります。そして結論をもってきて、「これが人の世の悲しい定め 恋の誓いなどはかないものさ」と言ってしまうと、投げているようだけれど、それをとおして反戦歌ということになるのです。最後に「戦地に向かう兵士…」ときて、そこで終わってしまえばよいのだろうけれど、人の心に残るためにもうひとつ同じフレーズを繰り返します。  最後に「幸せもの 幸せもの」、皮肉を込めて、賛美しているようでいて、戦争はこんなひどいものだということを言っているのです。それはことばの世界です。  詩人として考えてみたら、もっと詩だけで完結することができるけれど、逆に完結していたら、歌い上げる必要がなくなるし音楽をつける必要もなくなります。原詞はもっとしっかりしているのです。  逆に今のようなことを、音の世界で見ていって欲しいということです。それを声の世界、音の世界に置くようにしていくことです。

 そうすると日本人のように悲しいから悲しく歌ってみたり、死にに行くから死にに行くような顔をしてみたりはしないのです。純粋にその音の中に、演奏家としてタッチを乱さない中に気持ちを込める。文化の違いもありますが、聴いてみると何も感情を込めていないではないかと思ってしまいますが、そんな歌であったら、詞に厳しい国の国民がそれでヒットすることにはならないのです。そこに含まれているものを原形として見ていくことを考えてもらえばよいと思います。  日本の反戦歌というのは、学生運動の頃までで、もう終わっていると思います。歴史にさかのぼって、1952年のフランスはどうなっていたのか、二次大戦が終わって、すぐにいろいろな地での解放運動が始まりました。インドやインドシナ、それからカンボジアの内戦に入っていく前です。60年代になると、アフリカあたりが植民地解放をはじめた頃です。どんどん世界中に兵隊を出していた頃でしょう。

○音楽的に成り立つリズムと音程 

 最初の1,2年目に関しては、リズムの感覚です。私は高度なリズムトレーニングをやっているつもりなのです。「えりには なごりのはなー」、これが日本語です。ついているのは全て逆です「えりには なごりの はな」、こちらにつきます。  日本語を当てはめてしまうと、大抵がそこにつかなくなってしまうのです。だから子音にしないと歌いにくくなる。その息のところに必ずしも音がこないというのが外国語です。だからフランス語で聴いたものを、フランス語で歌うのは簡単なのですが、日本語で「ごらん」と歌うのはとても難しくなってしまいます。「ごらん」と言っても、日本人には通じなくなってしまいます。

 だから、ここでは歌の勉強をしません。歌を教えるとなると「ごらーん」と歌うしかないし、それによって気持ちが離れてしまいます。そういうことで難しくなるのですが、私の最終的な考え方は言葉を捨てたところで、音楽が成り立っているかというところでみます。その上でことばが聞こえるのであれば、それはそれでよいということです。  何を言っているのかわからなくても、音楽的に成り立って、そのことばが聞こえたらプラスαで、その前に成り立っているかいないかというところを見ないと、歌う意味がないわけで、そうでなければ詩で朗読していればよいわけです。「ごらん わかものが いくさに でていく」というのも、逆についてきます。歌い入れなければいけないところも、大体一致することが多いです。

 サビのところを聴いてみましょう。その音の中に、さっき言ったような想いを入れてみてください。悲痛な想いが入るわけです。  音程をとりにいこうとするから、音程を間違うということです。あなたが得意な歌や何回も聴いている歌を、音程をとろうとして歌うことができますか、絶対歌えないですね。ということは、音感が入っているか入っていないかということなのです。その感覚にならないことが問題なので、歌でも全部そうです。  その感覚にはいろいろな使い分けがあるし、得手不得手もあります。この作品から勉強できる人は、ここから最大限とればよいし、これでは無理な人はあきらめて、何年後にまた使ってみることにして、他の作品をとればよい。大切なのは、人への働きかけをやっていくために、どんな条件が入っているかということです。

○古いものと新しいもの 

 自分で歌ってみたときに、何だかわからないけれど、青空や死がパッと見えてきたら、よいくらいに考えてください。  今やっている作業というのは、一本くらいしか神経が通っていなくて調整できなかったり歌えなかったりしているところに、10本20本もとりあえず神経を出していくような作業です。それが出てこないと、さっきの音程の話のようにうまくは歌えないわけです。  それとともに、こういう人たちのとっている感覚を少しずつ入れていくことです。今歌っている歌は、ほとんどが欧米のリズム調で入っていて、見えないところの部分のリズムやグルーブ感や置き方が全部入っています。むしろこういうものを勉強した方が、J‐POPSは歌えるようになるはずです。 

 ここでは古典で、1952年の曲をやってみようと思います。よくなぜそういう曲を使うのかと言われるのですが、基本的に上達に行き詰まったら、古典に戻るのが芸事の常識です。基準が行き詰まっているのだから、基準を磨くしかないのです。だから私も、いろいろなところに行ってみて、古いものしか知らないのですが、一番新しいものに対して判断していかなければ時代についていくことができません。そういう中で、この研究所をどうするかというのも難しい問題なのですが、今流行っているような曲は、来年になったら古くなってしまいます。では1952年の曲が2000年で古くなるかというと、もうとことん古くなっているのだからこれ以上古くなりようがありません。この古さはもう変わらないでしょう。私の頃でもう古かったのです。 

 そうしたら、なぜそれが残っているのか。その作品に感化される人間がいて、感化される作品をつくって、それにまた感化された人間がつくっていくというように受け継がれているものがある。ここで精神や価値観を与えようとはしないのですが、判断力は磨かなければいけない。どういうふうにするか、単純にいうと100人のJ-POPSの歌い手を聴いてみて、それを分類できるかというと無理な話です。ところが世界の有数なヴォーカリストを100人聴いてみて、今のJ-POPSを分類しろと言われたら、それは可能になるかもしれない。  要は、昔のこの役割にあたるヴォーカルは、今のこの人ではないか、とか自分ではさっぱりよさがわからなくても、もしかしたらあの時代のあのヴォーカルの役割を果たしたのではないかという置き換えが可能になります。そういう意味でいうと、落語でもそうです。ひとつの勉強方法はその時代に入ってしまうというやり方があります。 

○わからないまま入れる 

 パッと聴いてみたときに、淡々と歌っています。でも実績、ヒットや売れ行きではなく、伝わっている部分をみていけばわかります。  最近、私の講演で難しくてよくわからなかったという人もいるのですが、ということは簡単でわかりやすい方がよかったのかということになります。当然お金を払ってわかろうと思ってくるのですから、わからないのはこちらの責任なのですが、そこで全部わかったといわれるようなものが果たしてよいものかといわれると、難しい問題なのです。  最近の人はわかろうと思っているのがだめなので、わからないまま入ってくることにしか価値がないくらいに思ってしまった方がよいと思います☆。  こういうレッスンでもそうで、私が解説している時間は無駄であって、本当はこれを繰り返し聴いて、できなくてもそれが体の中に一層二層と積まれていることが大切なことです。  古典というのはそのためにやるわけです。こういうところの勉強でも、J‐POPSや私の好みの歌もやらない。私個人でも4時間もレッスンをするのはつらいような歌をやるのは、伝えやすいからです。そこの中に短歌や俳句と同じように、変えられない原形が入っているからです。  お笑いなどと同じく、置き換えができる。その中のパターンをいくつか入れておいたら、すべてに応用がきく。 

 この歌でも、「ごらん 若者を 戦に出ていく かわいい恋人に 心を残して」、この歌詞のいい加減さは、だからこそ曲が生きてくるというふうに見てもらえばよい。詞が完璧であれば、そのままでよいのです。フランスでは韻を踏んでいますが、日本語でも「ごらん」と、一応韻を踏んでいます。「夏の日の 青空が 見つめている」、「夏の日」「青空」、そこに視点を移して、そこから「見つめている」という見方があって、そこに「遠く地の果て」が「青空」に対比して出て、そこに「死にゆく若者」を構図として置くわけです。絵や詩でもそうですが、ドラマが形式化して整わないといけない。だからこの訳詞のように「これが人の世の悲しい定めか」などと言う必要はないのです。「恋の誓いなど儚いものさ」、それに変わる言葉の方がよいのですが、歌についているくらいであれば嫌味にはならないと思います。そしてまた戻る。「戦地に向かう兵士」、そこでまだ終わらないで、最後には「戦地に向かう兵士 名残の花にもあせて 死なずに帰れたら そいつは幸せ者 幸せ者 幸せ者 ただそれだけで幸せ者…」、「ただそれだけ」という言葉は効いているのです。 

 作詞家であれば、これを読んで意味がわかり、何を残したいのか、どういうかたちでもっていくのかを考える。基本というのはそういうことなのです。ここに置いたものが最後にはこう効いてくるなとか、ここでこういこうとしていることはこういう理由があってということがきちんと構成されていて、これができた。それが固まっているから、他の人たちが使えるわけです。  今の時代に「幸せ者」とか「兵士」というのがよいのかどうかは別です。今となっては死語となってわからない部分もあると思いますが、そうなってくると落語と同じで、置き換えをしていけばよい。  安易なのは「若者 若者」と使ってしまうようなところです。若者はともかく、年寄りはどうなんだということで、そんなことだけでももっと違う方向もあると思います。 

 でも、当然、若い人が命を失っていく、かわいい恋人に心を残す、そういう中でどう捉えていくかということは、詞の中でも勉強できる。詞の中よりは、音の運びを勉強してほしいということで、こういう曲を使っています。  単純にいうと「A-A-B-A」ですね。その構成や形式が見えない人が、今の段階で得意としているものをコピーして持ってきてしまうと、聴いている客にとっては、しまりがない、どこで終わるのか、とか混乱が起きてしまいます。意味は後からついてきてよいのですが、歌い手が捉えておくことは大切です。もう一度、どう歌っているかを読みながらやっていきます。 

○テンションとリズム配置 

 「ディ ボ ラー」、そんな感じでいってしまいますね。日本語を使うとすごく難しくなってしまいます。「パルティ」と言っていたら「ごらん」と言えてしまいます。「ごぉらーん」と言っていたら歌にならなくなってしまいますね。一番よいのは、聴いている間に感覚が変わってくることです。本当はフランス語で歌ってみて日本語をつけていくのがよいと思います。  たとえば日本語というのは、聴いてみると逆に「えりには なごりの はな」となっています。音にならない部分があるのは、リズムとグルーブをとってしまうと、そこには子音しか来ていないからです。  日本語は母音の響かしているところで音をとっていきます。だからそこに固定されてしまうので、覚えやすいでしょう。  日本人の英語を聞いてみたら、わかりやすいというのもそうです。拍の中心に音を置いていくのが日本語です。母音を強調して出していかないと聞こえなくなってしまうからです。「キッス」を「キ(k)ッス(S)」などと発音していたら、観客に届かなくなってしまう。そこのところのものを、響かせるところに置いている。だから「ディ ボ ラー」のような歌い方はできないわけです。アクセントのところに息がきてしまっているから、難しい。 

 だから私たちが日本語できれいに歌おうとすると、「出かーける そのーむねーにはー」のように、ビブラートの中に感情表現をしていかなければいけなくなってしまうのです。それは違うものになってしまう。  でも、客がそういうものを期待していた時代、といいますか、そういう耳しかなかったときにはそう歌うのが正解だった。すべてが後につくようになっていますが、本当に強めなければいけないところだけが頭のところにつくようになっています。そういうことを勉強しているうちに、「ごらん 若者が」とか「かわいいーこいびとにー」というふうになってしまうと、メロディと一緒に言葉が動いてしまう。だから点をとっていてそれをつないでいるような歌になる。こういうフレーズで動かないわけです。だからそういう感覚を勉強してほしいと思います。 

 皆さんに勉強してほしいのは、大声量で歌い始めたらそれが普通になってしまい、それ以上のものが出なくなる。日本人のように声量の世界だけでやってしまうと、最初は非常に小さく押さえて後で大きくするというふうになりますが、小さいから伝わらなくて大きいと伝わるというふうに、日本人は単純に考えてしまいますが、それは関係ない。  その人間のテンションで左右されるわけです。そのテンションとリズムの配置のようなものをきちんと変えていかなければいけない。どこでピークにするか、そこに全力投球をして、後は抜くわけではありません。その流れの中でやっていくわけです。  だから「ご」に力を入れてしまうと「ご らん」というふうになってしまいます。そうすると「らん」のところに「ごらん」、その中に入れておけばよい。「わかものが」もそうで、「が」で入れる人もいますが、そういうフレーズを踏んだ上でリズム処理していく。それから音楽でも全部言う必要はない。流れの中にある程度のせていくことです。 

○フレーズ間の関係 

 こうやって聴いてみると、巧みな揺らし方をしています。基本的にこういうブロックで捉えている感じで、ここでやったことをこちらで拡大しているというようにして、形式ができてくる。その辺が難しいところだと思います。  聴いている方は考えなくてよいので、つくることを考えてください。  考えたらよいのは、夏の日とか青ということで、そんなことで出てきたら最高だと思います。  「ごらん」のところが難しいので、捨ててしまうしかないかもしれませんね。その「ごらん」とやってしまったフレーズに全部がのっかってきてしまいます。「ごらーん」とやったら「夏の日のー あーおぞらがー」というふうにどうしてもなってしまいますね。そうすると全体の動きがなくなってしまう。次のフレーズにいくような音の圧力のかけ方が難しくなってしまいますね。 「死ににゆく」というのは、日本語で最悪に難しい言葉ですね。とりあえずそこだけ勉強してみましょう。さっきの半音と違って全音が使われています。ほとんど半音が使われている中で全音上がるので、意味が大きいと思えばよいと思います。「死ににゆく」の「く」の音が上がるわけです。 

 同じ10の力を持っていたときに、どういう音の置き方にするのか、彼らの場合は「ごらん なつのひのー あおぞらがー 見つめてるー」となってしまうと、「とおく」と言うのも大変になってしまう。ブレスとは違うのですが、基本的には「ごらん 夏の日の ∨ 青空が 見つめてる」です。より大切なところの音、あるいは息に集約している。 

 それだけ凝縮してしまうから、逆にいうと凝縮したところをどこに置くかというのが自由になるのです。それに対して、日本語の悪いところは「ごらーん なつのひのー」というようになって、基本をやるというと「み・つ・め・て・るー」とやりなさいと言われたりする。「とおーく ちーのはーてにー しににゆくー」などとなってしまうと、「ゆ」とか「く」とかの音程のミスから全部チェックされてしまう。そうしたらこんな歌は歌えないということになってしまいます。 

 でも、そうは歌っていないのです。音程やことばをとろうと思ってしまうから、外国人のような歌い方ができなくなってしまいます。彼らがそういう感覚をとっていないのなら、その感覚の中に入っていってその感覚をとろうとする。そういうことをやっているのが声楽家ですが、声楽家はその中で母音を選んでしまう。母音を選ばないと響かないし、音の高さを選ばないと仕方ない。  ポップスはそれが自由なのだから、自分でそれが広がってきたと思ったら、その線がたらーっとしてきたと思ったら、ある種切ってしまった方がよいかもしれません。切るということは、そこで吐き切ってしまうわけだから、また生き返ることができるのです。だから役者の歌い方もひとつのやり方だと思います。 

 「ごらん なつのひの あおぞらが みつめてる」、でもこれでは4つに聞こえてしまう。この4つの関係をどうするかというのは、4つの中のそれぞれの関係で置いてやるのではなくて、その前後のフレーズや「あおぞらが みつめてる」なのか「あおぞらが みつめてる」なのか、自分の歌いたいところのピークをよりはっきりさせろということになります。  「遠く」にするのか、「地の果てに」にするのか、でも基本的に音からいうと「死ににゆく」の「く」のところなのです。ここが最高音になっています。これをいくら歌詞を見ていてもわからないわけですから、それを聴いてみたときに当然日本語は壊れてしまいます。それはそれでよい。  とりあえず日本語は音として覚えやすいために置いているということです。それから感情移入も「青空」と言った方が、「ブルースカイ」と言うのと違ってきます。 

○かけひき

 自分でできるできないということは別に聴きこんで欲しいのは、彼らがどのくらいの感覚でとっているのかということです。「ハッ」とやっているのか「ハー」とやっているのか、普通にたらたらとやっているところは、どこにもないはずです。  アマチュアの人はそこを全部伸ばしてしまうのです。テンションを弱くしてしまう。プロの場合はその弱いところを嫌います。それはお客さんを飽きさせることになるからです。  この歌もたらたらと歌っているようですが、部分的に切って聴いてみると、全部のところにインパクトを入れています。あるいは入っていないと思っても、次のところにその2倍くらいは入れています。そういうかけひきの中で、確実に動かしている。 

 だから音を発するというのでなく、発した音がどういうふうに伝わるかというところでやっていくことです。その音色を最終的に、生み出します。偉いから評価するわけではありませんが、この人間ではここにしか勝負を追いこむことができないというところに、追いこんでいるというのがあります。「見つめてる」のところでああいう音色を出している。人によってイメージは違うと思いますが、音の中の芸になるところです。 「しににゆく わかものを」と喉がしまってしまうのは、日本語の響きのところを追ってしまうからです。ほとんどの人がそうだと思います。この歌詞ではできない。そうしたら、変えてもよいのですが、それよりはことばの処理を「NNゆく」というように目立たないようにすればよいと思います。そんなことを考えてみてください。 【「アデュー」00.11.18/「兵隊が戦争に行くとき」00.11.22】

○構成 

 これをどういうふうに捉えていくかという問題です。やっていかなくてはいけないことは、構成です。アダモは少々、違うようにやっています。こういうところの構成を自分で動かさなくてはいけません。このAとBをどこで分けるかとか、どこまではみ出ることが許されるかということと、それから何を残すかということです。それを聞いている中でイメージしていくことです。  基本的には「幼い」と「探しに」のところだけに、ピークをもってきて、あとは平坦です。「二人は馬車に乗り」と同じ入り方にならず、ことばのところで崩れています。最後も「奏でる」がきちんと決まらないから、「ミュージシャン」がアマチュアっぽくなっています。 

 「明日」の「あ」のポジションと、「うえの」の「う」のポジションはどちらも日本語にはないところです。フランス語のもっているところです。だから日本語に聞こえません。  「月の空から」この辺から慌しくなってきます。言語とは違うみたいです。しかし、もっているということは、それなりに整理しているのです。変に伸ばさないできちんと切っています。最後のところをやっておきましょう。 【「明日月の上で」FA(2)00.12.14】 

○接点のつけ方 

 課題は簡単なものではありません。その接点のつけ方が問題です。練習ができるところでやらなくてはいけません。接点をつけるということがわからないままでは、また来年のオーディションで同じことをいわれてしまうと思います。  多くの人がやってはいけないことばかりをやって、やらなくてはいけないことをやらないということになるのです。たくさんのレッスンに出ることも一つの解決方法なのですが、それを同じレベルでこなしていては、何も変わりません。それでは、新しい曲をやっただけになってしまいます。そうならないように、レッスンでは、なるべくたくさんのポイントを指摘したり、絞り込んだりしているわけです。 

○アーティストの点数

 たとえばこの前のオーディションというのは、一位と二位の差がある、それだけの差を感じさせるものが一体何かということです。それは音程でも声量でも声でもないのです。どれだけ声や歌を使って、自分の世界を自在に表現しているかというところです。そこでの技能点と美術点をみるわけです。それがアーティストの点数というものです。  規定どおりの円を単に回ってみたというだけであれば、芸術点はゼロです。何かをやっただけで、半分の点はとれるわけです。そこからの差はかなり大きいわけです。自分でそのセッティングをしなくてはいけません。 

○ボロをみる 

 この曲をアマリア・ロドリゲスから直接とります。取れないということがわかっているのです。4、5回聞いてやると、すごくボロが出るのです。でもそのボロの出方がどういう出方をしているかということです。  上のクラスでは、少なくとも、その歌がどこにいこうかという原点のところはとっているわけです。この歌を大きく4つに分けるとしたら、3つ目の後半のところのブレスコントロールの配分が違って頭でっかちになっています。この曲は3番目と4番目の後ろの方に重点がきますから、前の方もきちんと覚えていなければ、それにつられてしまって、重くなりやすいのです。本当は1番目と2番目の切り替えをしなくてはいけません。 

 ただ、そこを1週間で直していったらよくなるというような原点の部分を出すことです。早くできる、遅くできるに関わらず、その原点を出してから、そこから練りこまなくてはいけません。良くも悪くも、今出しているところだけであれば、この曲は誰にもわからない伝わらない歌となります。  ただ、そこから変えられる可能性がある、そこまで神経と声が入っているという方が必要なのです。音楽の後ろにある背景はすべて取れています。だから、柱が立つし、間もとれるし、リズムも取れるわけです。その全体像が見えているのです。それを見ていかないと接点がつきません。 

○応用で鮮度 

 2番目の人は、日本語からではなく、外国語の方から感覚をとっています。重点の置き方が正しくなりました。要は、音楽が走っているピークのところに近いところにことばを置いています。その微調整をやっているわけです。こちらの方を聞いてしまうと、次の人はやりにくくなるでしょう。前の二人が後ろを重くしたがために、呼吸配分がうまくいかなかったことを感じたのかどうか、それはわかりません。しかし頭のところにテンションをもってきています。後の人は、逆に計算して(していないのかわからないけれども、)離しているわけです。だから、歌の作品の完成度としては高いのです。  でも逆にいうと、これで終わりかねないし、歌いこなしたことになりかねません。最初のところの動きの線が、形にはまってくるわけです。歌は応用で鮮度を保つのですから、形にはめてしまうとそこから動き出せなくなってきます☆。そういう見方でいうと、ここのレッスンでやるべきことというのは、原点のところの接点をきちんとつけていくということです。 

 こういう歌を聞いたときに、ほとんどの人がプロのように声量がないからできないとか、音域がないからできないと思ってしまうのです。確かにそれもあるのですが、そこの部分ではないところで、できていないことを知らないといけません。その2つに加え音程が簡単なところなら、できるのかというとできないのです。なぜそれができないのかというと、それまでの準備ができていないのです。その準備の問題はいつもいっています。舞台をつかまないと、安定度がもてないのです。声をつかむというのも、その安定度をもつために必要なことです。皆さんの中で、やりやすいのは、まだ、ことばのところだと思います。 

○直す、つぶす 

 オーディションでいわれたことの一つひとつのことや、会報などに載っているもので自分に当てはまると思うことは、徹底してつぶさなくてはいけないということです。そうでないと、直るはずがありません。音程、リズム感でも、フレーズでも同じといわれたら、徹底してやらなければ、直りません。それに対し音域がないとか、声量が足りないといわれることは、それほど問題ではないのです。すぐにはどうしようもないことです。呼吸法や発声のことも気をつけてください。一つのことばをいうときに、自分で意識して深めていかないと、何も変わっていかないということです。 

○設定

 ここのレッスンにきていると、音は入ってくるし、いろんな曲も覚えるとは思います。それと自分との接点をどうつけていくかということが問題です。プロがうまいのは、その柱を立てること、つまり本質を捉えることです。全体の構成を読みこんで、たとえばそのために自分のキィに設定し、どのテンポにもっていけばよいかという計算を瞬時にやるのです。それは音楽が入っていないとできません。自分のことも知っていなくてはなりません。声量や音域がなくとも、その設定のところで絶対にミスしないのです。  自分がどこでミスするかという危険性も、徹底してわかっているということです。  ステージからみるとこの3つともミスです。要は、呼吸の寸法と音楽のテンポが合っていないのです。でもそれはやっているうちに合ってくるし、そのうちに自然に声もともなって出てくるようになります。 

○プロセス 「コインブラ 今は遥かな町」 

 今のは腹式呼吸でもなければ、呼吸法も使っていないのです。口のところで呼吸を全部殺してしまって、そこでいっているだけです。部分的なだけで、それが最後まで保てていないわけです。  そのセッティングをしなくてはダメです。呼吸が聞こえる人は一人です。声で歌を歌うことのではなく、その声のところに息の条件をつけ、体の条件をつけ、それを一つにしたところから歌が飛び出すためにトレーニングをしているわけです。その本質的なところを煮詰めないまま、応用していては、先がないのです。カラオケと同じです。そういうことは高校生でも誰でもできてしまうことです。そういう人たちが絶対にできないところにもっていかなくてはいけないのです。それであればこそ歌に入っても、崩れないのです。  これでモノローグをやっても、皆さんのキャリアを誰か信用してくれるでしょうか。まだ、それが出ていないわけです。 

 問題は、それができないようなトレーニングをしているということと、そうであるに関わらず、その場で取り出せないことを知っていないということです。  どこでもいいわけはきかないのです。こういうのも1回目でとれているべきです。なぜ最後のを聞かせないのかというと、最後にはその人の作品になってしまうからです。それはあなたが好きにやればよいわけです。  そのプロセスをいつもとらなければいけません。なぜ「ハイ」のトレーニングをするのかというと、こういう状態を意識せずに、いつでも瞬時に取り出せるようにするためです。絶対これしかないという形で出していくことです。その繰り返しです。何でもできるというところでは、絶対に通用しないのです。 

○状態から条件へ 

 通用しないのは、それだけ中途半端でいい加減だからです。「遥かな町」とやるには、準備もいらないし、集中もしなくてもよい。しかし、そんなもので歌の出だしが通用するわけがないのです。歌どころかことばのところでも通用しません。頭で計算してやっているだけです。自分の中での接点をつけるということを考えましょう。できないのは、数をこなすか、質を見ていくしかありません。  条件が変わらないことをやっていてはなりません。状態を突き詰めることです。そうでなければ変わっていきません。状態がギリギリになって、それではもたないとなったときに、条件が変わっていくのです。足りていたら、筋肉はついてきません。こういうものでも同じです。皆さんが思っているくらいの体や息でよければ、それでまとめていけばよいわけです。 

 だんだん短くしていっているのは、集中力を絞り込んでいるのです。「コインブラ今は遥かな町」を、2の集中力でやっている、一つのことばでよいから、10の力を使ってみなさいということです。その10の中で、間違いを発見し、正していくことをやってください。2の力で全部をやっていたら、間違えさえ起きないのです。条件よりも前に状態が変わっていきません。 

○全身化 

 そのときに息、肉声というのは、体が読みこめるかどうかで決まってきます。どんなに響きにもっていっても、それは全部が声になっていても、息とか体がついていないから、キンキンしてしまうだけです。最終的に音にすればよいのです。最初から音の枠を作らないことです。それは歌と同じです。音程を先にとるのではなく、体の呼吸の中で「遥かな」が入っていくようにすることです。 「石畳を通りすぎた」  口の中で動かしているのと、体全体を動かしていくということの違いをわかることです。片手間で部分的にやっていても、全身でやっている人に敵うはずがないのです。部分的にやっている人は、まず全身を使うということを覚えなくてはいけません。それは表現からの必要性からもってくるしかないのです。それが一つになっていないのです。それでは練りこめないし、何か出てきそうな予感さえしません。 

 「今は遥かな町」というのをいうのでさえ、相当大変なはずです。ある程度そのことは知ってできていないことも知っていれば、どういう接点をつけるかとか、どういう形なら見せられるということにいくはずです。それをいつも表面だけでとってしまうと、何も起きなくなります。 

○対応力 

 こういう曲を与えられて、すぐに自分の体で引き受けようとしたときに、一つの音も動かせないとか、次の音につなげられないということが起きてきます。そういうことが起きてきて始めてレッスンの条件が整うのです。そこで歌を作っていくということになるわけです。そこの接点をつけていくことです。  曲に対応できないことを知り、もっと対応できる人であれば、どうするのかを知ってください。そこでの本質的なところをつかんで、自分の体に特化して出せるわけです。そしてそれぞれの弱点を強化していくことをやっていかないと、何も変わっていきません。そうしないと、また1年経っても同じことをいわれてしまいます。 

 カラオケを20年やっている人や、声楽をやっている人でも腹式そのものができていない人がいます。そういう声は一言聞けばわかります。  トレーニングを自分の中で受けとり、進めていくためには、毎回のレッスンで何を落とし、落としたものを自分の中でどうつなげていくかということをやってください。なぜ毎回のレッスンや月末にまとめているのかというと、そういうことをきちんと煮詰めないと、ダラダラとなるからです。 

 ことばから入るというのは、今までやってきたことができていないから戻りなさいといっているわけではなくて、実感して修正するためです。応用して基本の力のないことのチェック、それは常にやらなくてはいけないことなのです。プロになろうが、体をリラックスさせ、柔軟運動をし、自分の集中力を高めるようにしなくてはいけないのです。そういう意味でいうと、年々、より早く綿密に扱えるようになるために、トレーニングしていくのです。そうやって自分のプログラムを組んでください。この曲は歌えなくてもよいのです。そういうことに気づくための課題です。 【「美しい4月のポルトガル」2 月火 00.12.14】 

○否定 

 体や技量が違い、音楽的なことは、イメージで全体的につかんでおくことです。それに合わせて、皆さんは呼吸や声量をセーブするのですが、トレーニングですから、3音や5音のところで集約させて出していくことです。体だけのことをやるのであれば、「ハイ」だけをやっていればよいのです。その楽器がどう使われるかということが分かって始めて、楽器も身にこなれていくのです。そのためには、音楽と体の両方をイメージしておくことが必要になってきます。そうしておけば、両方が伴ってくるのはあたりまえなのです。みんなそれがトレーニングだと思っていながら、全然イメージをもっていません。バットを振ったら何とかなるというような感じでやっているわけです。

「コインブラ今は 遥かな町 月影揺れる 春の夜に」 

 このレッスンで問題なのは、できるできないということではないのです。自分のイメージをもって、それに対して声とか体が追いつかないということであれば、それはあとから伴ってくるのです。その必要性を与えておくことです。  そのイメージのところで間違えてしまうと、そのイメージのところが最終の形になってしまいます。それで息も体も使えない、必要ないなら、5年10年やっていても、全然変わらないということです。  歌を20、30年やっている人はたくさんいるのです。大切なことは、伸びるときには基本の器を伸ばさなくていけない。上達というのは結果です。しかも去年までやっていたことを、否定しなくてはいけないということです☆。その集中度では問題にならない。その声のコントロール力では、雑だというようなことになるから、上達するわけです。そうでなければ、オーディションで1年前と全く同じことをいわれてしまうのは、あたりまえのことです。 

○セッティング 

 いろんな作品の形がありますから、私も作品は作品として見ます。ただ、可能性のところで見るならば、それがあとで大きく変わっていけるところに置いておきなさいということです。気の抜けたような練習では、10年やっても変わらないのです。神経を通わせていないし、それだけ体を自分の中でセーブしているからです。それではトレーニングにはなりません。もっと体を使える人はたくさんいます。  それをセッティング、自分で接点をつけられるようにしていくことです。この曲を聞いたときに、ここはこのイメージではできないけれど、あそこは何とかなりそうだとか、そういうことはトレーニングの中ですからよいのです。このくらい簡単に歌えると思っている人が、10年経っても変わらないのは、そのためです。歌えるのはよいのですが、歌えたところから何が足りないかということを見ていかなければ、いけません。音だけとるのであれば誰でもできます。 

 二つのことが必要です。この曲を聞いたときに、一つの枠組みやその世界観に対して、どう背景を作っていくかということと、それに対して自分の声が使える範囲内の接点をもつということです。皆さんよりもずっと音域が狭い人でもそれを目一杯使うということが、どういうことかを知っている人の方が強いのです。歌はセッティングの能力です。  今日やったことは、「ハイ」のところから息、体をつけていくこと、そこの中でことばを処理していくこと、メロディがついたときにそちらに逃げない、響かせるのも、他の現象も覚えておくのはよいのです。ただ、それをメインにしてしまうと、そこで固まってしまうということです。そこで固めるには、まだまだ神経とか、一つの気持ちの統一度が弱いのです。舞台のスタンスから、創るということをやってください。絶対に崩れないためには、テンポ感も必要なのですが、世界観まで、必要です。そのスタンスを作るということが難しいのです。もっと詰めて、音域と声量とは関係ないところで処理するようにやってください。 【「美しい4月のポルトガル」3 月火 00.12.14】 

○一つの声のなかに盛り込む 

 声の中で何が起きているのかを見て欲しいのです。ヴォイストレーニングは何のためにやっているのでしょう。大きな声を出すことも高い声を出すことも、今は機材が発達しているのですから、いらないのです。  その代わり人間でしかできない、たった一つの声の中にいろんなものを織り込んだり、その呼吸によって微妙に動かしたりします。  まさに「イエリスィ」とみせているようなことです。赤とんぼの最初の「夕や」のところまで、本当にそこの中に何がもち込めるかなのです。それだけではわからないから、いろんな曲をやっていくのです。音楽をやっているのは、声が自由になるとしても、ゼロから音楽を作れといっても無理なのです。そうしたら100パターンでも1000パターンでも入れておけばよいのです。 

 皆さんも「赤とんぼ」をやってみればよいと思います。何に感心するのかというと、ああいうことは自分もできるかもしれない、100パターンくらいは作れると思いますが、その100個のうちのどれが一番よいかを選べるかということに自信がありますか。それをきちんと決めてきているのが、歌い手です。  他の歌い方でやっても成功するかもしれなくとも、その歌い方を選ぶのに、徹底した確信と本質を見る目が必要なのです。そこを勉強していかないと音楽を勉強しているということにはなりません。  音楽は音楽で勉強しなくてはいけません。体のことは体のことで勉強し、体のところから声にすることは「ハイ」と、「ラララ」のレガートのことだけでよいのです。その基準が、赤とんぼの「赤」をきちんといえる、別れの朝の「朝」のところで引きつけられるのであれば、あとは正していければよいのです。 

○方法論は、歌である 

 ヴォイストレーニングとか、発声とかをやるのに、要はトレーニングとか発声という形で覚えるとダメなのです。そうすると、それと歌との接点をつけるかのに、歌も形で覚えてしまうわけです。そういうものは全部ないものと思うことです。ブレスヴォイストレーニングのトレーニング方法など、ないと思った方がよいのです。  ただ、より有利に体を使えるために深いポジションは得た方がよいということと、それを息で動かしていくということです。それを誤解してやっている人が多いのです。それでやった結果、効果が出ないといろんなものに表出する人たちがいるわけです。  問題なのは、この「ラララ」が歌に聞こえればよいというだけのことです。そのために邪魔なものがたくさんあるわけです。それを取っていくのがヴォイストレーニングだということです。そういう面では声楽と同じです。それにはまず呼吸をとらなくてはいけません。その呼吸がきちんと整わなくてはいけません。それは最初からいっていることです。 

○深い声でつかむ 

 深い声とか、深いポジションといっているのは声をつかむためです。きちんと握って投げなくてはいけないということが練習のプロセスです。  体に身についたら、別に握らなくても握っているし、投げなくても結果として投げていることになります。それで始めてリズムとか、音楽に乗っていけるわけです。今はそこのプロセスをやっています。そのときに、外に出せばよいということでも、口の中で作ればよいということでもありません。その音に対して1本しか神経が通っていないものを10本でも100本でも通らせるようにすることです。  基準というのは簡単です。これ自体が作品であり、しかもこの作品が結果として外に出たときに、それがあとでいろいろな動きを柔軟にとれるなという予感を抱かせるということです。それは、声が自由になって放り出されているということです。その声が自由に動けるという可能性があるところに最初はいろんな形をつけないのです。それが歌の形をとっていきます。それをやれるのは呼吸しかありません。 

○呼吸で動かす 

 呼吸で動かすということは難しいことです。たくさん呼吸を使おうとすると声にならなくなるし、声にしようとすると呼吸が伴わなくて体が止まってしまうということです。みんなどちらかというと形からとっていくのです。でもそれは全くいらないことです。いらないというより、そこから深まらなかったら意味がないから、たぶん10年かかってもものにはならないと思います。  その中でものになっている人は、たまたま体が恵まれていてついたのか、そうでなければ、よっぽど表現という意欲があって、それを読み込んでいったのかです。そこの部分をより正していかなくてはいけません。 

 もう一度やってみましょう。なるべくシンプルにすることと、中心のデッサン線をとっていくということです。まず自分とキャンパスとの距離を定めなくてはいけません。  筆をもつのにも、ここからこう動くなという感覚を読み込んで、それの位置を設定しなくてはいけません。それが一つの呼吸の感覚になってくるわけです。音の世界は、時間の軸です。始めにその形の方をとらないで、全体の中で呼吸の中からそれをとっていくことです。 

○勘違いしない  

 その勘違いがどこからくるのかということを、考えてみることです。それぞれの人のど真ん中は違います。それを大目にみて、息から流れてきたらよい方向にいく人もいれば、声を大きく出すことからよい方向にいく人もいると思います。要は、そこに感覚がついてくれば正されてくるのです。  感覚のつけ方を自分が考えていくのも一つのアプローチです。全部をこうだと決めつけていくと、方法論の戦いになってきます。おかしな話です。結果として方法論は自分で作ればよいのです。ただ問題なのは、それ自体の中できちんと声をコントロールしなくてはいけないということです。そのコントロールをとるための寸法、息の用意が必要です。いきなりは入れないはずです。 

○読み込みとセッティング 

 彼女が「夕焼け」をとるときに、どれだけの間をとったかわかるでしょう。それは舞台の間もあるのですが、あとは自分の間です。自分が「夕焼け」の「ゆ」のところから完全に一曲描き切るための間です。習字などと同じです。  それが分からない人は、始めにバッと書いてまた次もバッと書いて、ああ間違えたとなるのです。最初の1年くらいはそれでもよいのです。ただ2年目、3年目になってくると、どこにいったら最後はどこになるかということを、そこまで読み込まなくてはいけないのです。  そういうことでいうと、発声練習が歌そのものと同じなのです。それができないのはよいのです。できないと思います。それはすごく難しいことで、どのレベルでみるかという話です。 

 ただ、そのセッティングをしなくてはいけないということです。セッティングをしてダメだったということであればよいのですが、そのセッティングができないまま、描きだしてしまうと大体、失敗します。  そうなると心の準備の問題です。そわそわしていて、ヨーイドンでいってしまったという感じで終わってしまいます。それには最初から勝負にならなくなっています。舞台になると見えるし、日頃の練習でもすごく雑です。  声楽の世界ほど厳しくなくてもよいのかもしれませんが、でも結局やっていることは同じです。ああいう人たちでも、よい歌はよい歌として聞くわけです。それにはある論理的なものが体で回っているのです。 

○中心線とフォーム 「ララー」(シド)

 問題なのはそこに中心の線が走っているかどうかです。中心の線が走っていれば、若干いろんなものがついていても構わないのです。それは全部体の力が抜けていないのとともに、どちらかというと、先に体とか形の方が動いているのです。フォームが本当のフォームになるためには、そこで充分呼吸を準備しなくてはいけません。  その呼吸が止まってしまったり、あるいは呼吸をせっかく準備したのに、その呼吸にのらない場合もあります。それは体が使い切れるような状態でやることです。  「ラ」はどちらかというと、いろんなところが働きやすくなります。逆にごまかしやすいのです。 

 次は「ナイ」「ネイ」を体がいっているような感覚でやってみましょう。 「ナイ」「ナー」  二通りあって、それを応用していく方向と、基本に戻っていく方法があります。中途半端に出たとしたら、それをきちんと一度入れてみることです。  声をやる前にもう少し息のことを確認し、体のところからなるべくはずしてやります。太鼓でも吊り下げておくのが一番よいのです。どこかを握っていると、その分だけ響きがなくなります。  共鳴の中心に自分がなるのであれば、それを邪魔するものを取り除くのが一つです。もう一つは、共鳴させる方向を一つの方にすることです。ギターでもみんな穴が開いているし、そこから音の出る方向が決まっています。ヴォーカルの場合は口が出口になります。 

○強化トレーニング

 できている人は調整トレーニングでよいと思います。そうでない人には、トレーニングというのは強化トレーニングしかないのです。強化トレーニングというのは、負荷を与えるしかないわけです。単純なことは、筋肉的負荷です。息を吐いてみると、筋肉がそこで感じられるということです。そうやって深い息を獲得していけばよいと思います。深い息自体が必要なのではなく、その息がいい加減になることによって、声がいい加減になることを防ぐのです。  統一してコントロールできる息を使うことによって、声が安定するということになるわけです。それが体と息と声の結びつきということです。  戻して「ハイ」から「ナイ」「ネイ」に入ってみましょう。  少しは音になってきたところや、はっきりしてきたところがあります。  量をやる段階はあってもよいし、勢いだけでやる時期もあってもよいと思います。最終的にバタバタして歌っているわけではありません。静かにピタッと止まって、自分の集中力を使って歌うわけです。

 高度な練習はそうやるしかないのです。バタバタしていたら、のどの状態も悪くなり、のども渇いてきます。そこの切り替えをしなくてはいけません。今出したものの中の判断を磨いていくことです。  たとえ今の「ハイ」というのができても、その「ハイ」は歌ではそのまま使えないから、歌うときはそれを響かせて使ったりもします。大体の日本人で教えている人自体の「ハイ」自体がずれているのです。  本当は、きちんと一点に集めています。先生自体がそうでないということがわかっていればよいのですが、そうでないのに、それが正しいと思っている人が多いのです。 

○声楽 

 発声トレーニングというのは、声そのものをきれいに響かせてみたり、そこで飾りをつけるためにも必要です。生まれつききれいな声を、合唱団のように歌えるように伸ばせるためには、声楽という方法は、とてもよいと思います。  しかし、ここで声楽をやらせているのは、一つの声に対してどれだけ丁寧に扱わなくてはいけないかということを知って欲しいからです。  それをハードな機械で補って歌っているのです。そこにもっと声が伴っていたら、もっとすごいのに、ということで、声のトレーニングをやって欲しいということです。そういう意味で、ここでは両方やらせています。できるだけシンプルな感覚で捉えてみて、それを邪魔するようなところではやらないことです。 

○声をつかむ 

 声をつかむのですが、それはどちらかというと不安定なところです。ここが難しいのです。トレーニングをやって、安定なところを求めていって、絶対にそこはできるというところでやるのです。でも、本当は、もともと不安定なものなのです。その不安定な状態で、ただ自分の強い集中力によって響きのところに集めてみたり、体のところに集めたりするのです。安定させてしまったら、その胸のところの発声しか聞こえてきません。それは取り違えです。  問われるのは、歌が何を乗せてくるかです。そういう面で一番勉強して欲しいのは、バラードなどでゆっくりと呼吸を伴って歌っているものです。そのときの呼吸の取り方と、その呼吸の声へ変換の仕方です。  その声がどういうふうに動くかというのは音楽の問題です。この3つを押さえ、それをどのくらい細やかに見ているかということです。 

○トレーニングとコントロール 

 同じメニュを使っていて差が出てくるということは、どういうことでしょう。人間なんて大して変わらないわけです。プロでも、発声は完璧ではないのですが、作品にするときに、それをどう補えばよいかということを知っているのです。そこは普通の人にはわからないところです。  呼吸のコントロールが乱れるときもあります。体や声としては、そういう意味では皆さんの方がもっていると思います。では何が違うのかというと、そこの中の読み込みです。そこでのキャリアが違うわけです。10年経ったからああなれるということはほとんどないのです。  なぜダメなのかというと、もった時点で気を抜いてしまうからです。絶えず神経を100本、200本めぐらせて、しかもそれを選んでいくという練習をおくことです。

 あまり発声練習をして歌を歌うとは考えないで、発声練習が歌になっていて、歌が発声練習になっているということが理想です。それを補うために体力を作ったり、息を強くしたりして、すごく無駄に思えるようなことをやるのがトレーニングです。  自分の中にある声を徹底して見ていくということです。その中で一番コントロールしやすい声をきちんと見て、それは使ってみます。さらに、今はコントロールしにくいけれども、あとでコントロールしやすくなってくる声を見ておくことです。 

○「ハイ」の深さとチェック 

 「ハイ」はいえるけれども、1オクターブにはできないというところは、みんな諦めてしまった声です。それを諦めないでやっている人が研究所にいます。生理的にそういうふうなものを求めて、思いっきり歌っているあいだにそういう発声が身についてきたという人もいます。  外国は大体それがほとんどです。そこの部分をしっかりと見ることです。もう一つは音楽の創造性です。結局、創ることです。創るためにはいろんな音楽を聞いておかなくてはいけません。 

 赤とんぼでも歌ってみればよいと思います。そうすると、まず自分の思っているような赤とんぼが出てくると思います。それでいろんな赤とんぼを聞いてやってみると、自分の好きなものでない嫌いなものが出てきます。  でも本当にフィットするものというのは、徹底して自分を知り尽くした上で、自分がしぜんに使えたら出てくる赤とんぼでしかないのです。それがわかるかというのは、難しい問題です。ましてや、いくつかの曲で出せるということは、すごく難しいのです。本来、自由曲はそうでなくてはいけません。なかなか自由な分だけいい加減になりやすいのです。それよりも、課題曲でお互いに比べていた方がわかります。 

○整理、切り捨て、無駄排除の、ノウハウ

 最初の1フレーズで聴いている人が聞いたら、その人の全部の欠点が見えてしまうのです。プロでそこが見えない人というのは、そこで何をやっているのかということです。同じくらいの体で、同じくらいの声量で歌っていながら、それだけ表現が違うということは、より整理をしているのです。  より相手に働きかけるところに関しては集中し、大きなものを出している代わりに、そうでないところに関しては、そこはほとんどやらないとか、切り捨てることをやっているのです。それをこういう音楽から聞いていけばよいと思います。 

 よいステージを見たら、そのよいステージの中にすべてのノウハウが入っていると思えばよいのです。それを、こんな程度だと思って10個しかとれないのではなく、その10個の中に100個、1000個見ていくことが、本質を見ていくということになります。  1フレーズの中にたくさんの問題があるし、その1フレーズは思いっきりやってできたとしても、一曲つなぐところで無駄がたくさん入っているのです。  息を動かすこと、体を鍛えること、声の中心を取ること、その中心から声を放つこと、その放った声をきちんとチェックしコントロールすること、それが歌の形を取るようにもっていくこと、そこに音楽を入れこんで、歌いだすようにすること、歌はそれだけです。それが舞台となって、人様が評価するということになったときに、難しくなってくるのです。それぞれでいろんな勉強をしてみてください。

○自我に邪魔させない 

 時間を投じ、お金を払っていると執念が宿ってきます。それは値段ではないのです。状況を自分できちんとセットするということを、できそうな人たちから学ぶことです。  頭のよい人に限って自分で決めるのです。こうやればなんとかなるのではないかとか、先生はこういっているけれど私はこう思うとか考える。それは自由ですが、そのことは少し違うのです。自分で考えてしまうと、意味があって放りだされているものにさえ、その意味を読み取れないようになってしまうのです。 

 ステージに立ったときに、本来であればもっと厳しくなくてはいけません。近寄ると切りつけられるみたいな怖さがあったのです。そういうものを今は見せかけでやらなくなったのは、よいのですが、魂とか、心の面でも普通になってきています。これはここだけではなく、世の中全部がそうなのです。  落語の世界でも、パフォーマンスの世界でも同じです。ここは、まだギリギリよくやっているのではないかと思いますが、昔は日曜日にやっていると35人くらいは、きていました。そういう飢えているものがなくなってしまうと、タダの方に出ようと、そんなものではないと思うのです。本当にこちらのシステムの与え方も考えてしまいます。

 昨日のはよいステージだったと思います。知らないあいだに6曲目まできていました。ああいうことは難しいのです。なかなかプレでもああいうことはできません。彼女が優れているところは、1曲目の一番頭のところで、きちんと客を引っ張れることです。  ただ、ここでやって欲しいことは、今日やった基本のメニュです。どんなに高度な個人レッスンをしている人でも、みんな同じです。それをどのくらいのレベルでやっているかというだけです。  それができるかどうかは、最初の「ドレミレド」で決まってしまいます。それをどれくらい読み込めるかということです。  まだ皆さんは息が回っていません。同じようなステージをするためには、どのくらいのウォーミングアップと精神集中が必要なのかということです。そういうことが一番大切だと思います。そういうことをここのレッスンの中で試していって欲しいと思います。このレッスンで、歌った人と同じような体を感覚できればよいと思います。 【基本☆ 00.12.22】 

○意味よりも蓄積

 同じ曲を3パターンくらい聞かせました。専門学校では、この感想を言ったり、ディスカッションしたりするのかもしれません。ここでは創ることに専念していきたいと思っています。ロックをやりたいのに、なぜこんなチンタラした曲をやらなくてはいけないのかというと、この中で読みこんでいくためです。ロックのリズムに合わせてやっても、それは表面を単に真似しているだけです。本当の勉強の仕方と真似方というのは違うわけです。 

 この3人のどれがよいというのは、皆さんの好みでよいと思いますが、ただどこが優れている、どこはまずいというところはわかりますか。優れている部分だけでもよいです。  5分という長い時間を、きちんともたせるスタンスをもっているという、舞台を作らなくてはいけません。3人を比べて、大体同じくらいの力なのに、出し方が違うのです。4分、と5分半というほどテンポが違うわけです。自分の作品を出すときに、徹底して考えなくてはいけないのは、それはどのテンポ、どのキィでいくかです。もちろん、どの作品でいくのか、最後は自分で終わるのか、ピアノで終わるのかということも、全部含めて創造なのです。その基準を入れていかなくてはいけません。 

 基準の勉強をするためには、読みこめる力がないと仕方ありません。昔はこういう説明はせずに、そればかりをやらせていたのです。今はそれは意味がないとか、わからないからといって、やらなくなる人が多いのです。それでその意味も説明していくのですが、意味を説明しても仕方ないのです。こういうものは、知らないうちに自分の体に入っていて、蓄積されていくものなのだからです。今日やったら、明日なんとかなるというものではないのです。人のを移し変えてそのままやるのであれば、すぐにできるのです。それでは絶対に続きません。自分でしかできない形に返ってくるものしか、深められないし、興味を失ってしまいます。 

○限界からのスタートしか、キャリアにならない

 以前の会報の巻頭言にも書きましたが、5年経ってみて、現実の壁とか才能とか、実力がなかったというのがわかるというのであれば、最初にそのことを教わり知ればよいのです。それを知ってからしか本当のスタートはできないのです。そんなことを5年もかけてから知るというのは、もったいないことだと思います。でも、わかっただけ、まだよいのです。  つまり、これと同じことが今、できるかということです。そこにどれだけのものが足らないかということがわかって、そこにヴォイストレーニングとか発声が必要なのです。 

 感覚の鋭さが必要です。こういうゆっくりしたものを完全に扱えるというのは、感覚が鋭くないとできないのです。  音楽の怖さというのは、自分がそこに参加して、表出しているだけに関わらず、何かを表現しているような勘違いをしてしまうことです。それでは風呂場で鼻歌を歌っている親父さんと同じです。音楽も自分の実感から勉強しないとダメなのですが、そういう場が少ないのです。どこでも、周りを整えてもらったら、うまく聞こえるのはあたりまえだし、のりよくできるのかもしれません。他の人でもできるということです。本当に自分がやる意味がないのです。  私は作品、つまり人間の感覚が見たいのです。その感覚を磨いて出してもらわなくては何ら、どうしようもないのです。 

●レッスンの経済効果

 こういう曲も今日1回しか使いません。皆さんがどう捉えるかです。たとえば、今日使ったCDは全部で一万円以上する、この3曲を皆さんが探して選んで聞こうとすると、大変でしょう。それを誰かがダイジェストしてくれて、自分に落ちてくるところだけを自分の勉強の接点につければ、ずいぶんお金や時間の上で、助かると思うのです。そういうものに取り組むのですから、レッスンもかなりの効果が上がるのです。 

○見極め

 今日の課題はメロディ処理というところです。ことばでいって、それにメロディをつけていきます。ここは役者の部分です。  「ハイ」というのも、その「ハイ」を使うとか使わないの問題ではなくて、それを一つに捉えられることによって、感覚が磨かれてくること、それとともに、その声を使って、息と体を結びつけるということです。それを持ったうえで音楽を入れていくことです。今日やることは、その中間のところです。読みから入った方がよいと思います。 「我に返り老婦人が手にしたのは」  頭で表現を入れようとしたら、何か計算し、それがみえ、失敗します。その見極めが瞬時でできるようにして、体一つで聞いていきます。「我に」というのがどこかに引っかかってしまいますから短くしましょう。なるべく瞬間的に「我に」と入れるように、体の状態を作ることです。 

○役者の表現と歌手の耳 

 これは悪い意味で役者的な表現をしています。作ってみろといわれて、ではどう作ればよいのかということです。それを洗練させていくには、たくさんのパターンとか、たくさんの歌い方を入れて、そこから厳しく選んでいく作業をしていかなくてはいけません。最終的にどう選んでも、結局、自分の呼吸でやっていくわけです。自分のものにしていくのです。その判断基準を宿していかなくてはいけません。 

 それとともに、耳を鍛えていかなくてはいけません。これがヴォーカルに欠けてきている要素です。バンドをやっている人でも、難聴ぎみの人が多いです。  今皆さんが読んだところでも、大きくしてみると、いろんな展開をしているのです。音を小さくすると、単に同じくらいでいっているように感じてしまいます。音の音量を聴かなくても、その人の感覚の中と呼吸を読みこんで、そこに入っていくという練習をやることです☆。そうでないと、いつまでもその人以上のものは出せません。  ずいぶんと呼吸によって、声の動かし方が違います。「恋の夢を見ていた頃」という、この3つの処理の仕方でも、全然違うわけです。ここでかすれてしまったとか、うまく声にならなかったということで、呼吸とかヴォイストレーニングをやるのです。その使い道がはっきりしてくると、否応無しにそういうものに厳しくなります。普通に楽譜通りに歌っているだけでは、何も問題は起きなくなってきます。

○一本調子にぶつける

 「幸せだった」に対して「愛する人の」でも、本当にもう少し伸ばしてしまうと飽きて、ワンパターンになってしまう、そこを、そうならないようにうまく整理したり、切ったりしています。プロの形の技術はいらないのですが、そこの判断の基準を磨いていくことです。普通の人がこう歌ってしまうと、本当に一本調子になってしまうのです。これは全部日本語で処理していますから、頭の方でとっています。ことばでいってから、音をつけてみましょう。  できないときは、どうしてものどにきてしまいます。のどは開いて、できるだけ息と呼吸でやっていくことです。息と体に必要性を感じて、そこを鍛えていくことです。「あの頃ー」とか「愛するー」と逃げていくようであれば、それを刻むことです。そこのリズムは一つではありません。いろんなリズムがつけられるのです。その動きをどう作っていくかという問題が出てくるのです。そうすると、楽器と同じレベルで声を扱えます。 

 本当のアーティストとか演奏家というのは、このベースは自分で演奏しないのです。音楽は進めておいて、それに何をぶつけて効果を出すかということを試みています☆。本当はズレをつくる勉強をしなくてはいけないのです。  それこそ、V検の中でやって欲しいと思います。でもほとんどの人の歌は、ピアニストに合わせようとして歌っているだけです。だから全く創造的な世界ではありません。音楽の下地をもち、そのうえに何を描くかということが大切です。 

○整理と統御力 

 「あの頃にはー」と伸びてしまうのは、感覚の鈍さです。必要がないものは全部整理していくことです。整理するのには統御力がいります。「にはー」と伸ばしている方が楽なのです。そういう表現にすぐに対応できる体とか、声を作っていかなくてはいけません。両方をやらなくてはいけないから、大変なのです。  練習のプロセスとしては、こういうところで練りこんだものが歌の中ではしぜんに出ていくという方がよいです。皆さんにビデオなどをたくさん見て欲しいのは、比べ方の基準をつけながら、その判断をつけるためです。一体この人の創造性、アイデアは何なのかということです。日本でそういうものを学べるのは美空ひばりさんあたりで、結構難しいのです。人の歌を歌っているのは、おもしろいです。そういうものを聞いて、どうよいのか悪いのかがわかるようにしてください。 

 音楽的なことは全然わからなくて、まず指が動かなければピアノが弾けないというレベルの人は、とにかくこういうものをやることです。最初は読んで、それに表情や抑揚をつけていきます。あまり役者のようなことはしたくないのです。とにかく自分の呼吸や声を使って、この場を変える、この時間、空間を変えられるようにすることです。  今日やって欲しいことは、「我」というのがいえないとか、「愛する」ということばがいえないとしたら、「ハイ、愛」だけでもよいです。のどを使わずに体を鍛えていくことをやってください。それが一番のベースです。 

○常套法

 外国で10年くらい生活したらできることを、できるだけ意図的に毎日やっていきます。彼らが使う息とか体を使っていったら、変わっていきます。最初は大変かもしれませんが、続けていくことです。のどを痛めやすい人は、息吐きだけでもやってください。3年くらい続けていたら、誰も3年も続けないから、変わります。海外に10年くらいいたような体にはなります。それは役者などをみていてもわかります。18歳くらいですごく声の弱い人が、23歳くらいになったときには、ちゃんとした強い声が出せるようになっています。そういう部分をもつようにしてください。  その部分をもっている人は、音でどう作るのかということを早く勉強することです。それは勉強してもきりがないのです。いろんな曲を比べながら聴いていくのが、一番よい勉強だと思います。  フレーズ処理の勉強ということで向こうの人の歌を与えています。これは、リズムに乗せることによって、その下の条件がそのまま歌になるからです。この3人とも、ことばを重視して歌っています。というよりは、もともとことばを聞かせるような曲です。こういうものからもたくさん勉強できるところはあります。 【「老婦人」00.12.27】 

○問題を見抜く読み込み 

 声の問題がないわけではないのですが、それよりもコントロールの問題です。安易にコントロールをしてしまうと、表面的に動きやすい声になってしまいます。ちゃんと歌えている曲に対して、何がどう違うのかということをみていくことが必要です。ことばの意味としての「輝いていた」ということと、メロディのところの「輝いていた」ということをきちんと消費して、そのうえで作り出しています。  皆さんには、同じことの繰り返しにしか聞こえないでしょう。そこにどれくらいの変化をつけなければ、5分どころか1分ももたないかということです。そうしたら何かをやるわけで、その何かのやり方が問題になってきます。 

 こうやって部分的に取り出して、拡大して聞いてみたら、違うように聞こえてくると思います。さっきは聞こえなかったでしょう。今、違うように聞こえるということは、最初に聞いたときに全然読み込んでいないということなのです。読み込んでいないということは、自分で出してみても、結局その程度にしか出ないということです。ちょっとした音のずらし方とか、音の中の音色の乗せ方のようなものをしっかりと見ていかなくてはいけません。ロックの中では、そこまで細かいところには拘っていませんが、違う要素がたくさん入ってきます。逆にそうでない歌を聞いていくと、わかりやすいと思います。 

 この前のプレブレライブでも、最初は裏拍で入って、最後には表拍で終わったのがありました。そういうものは、基本をやらなくてはわからないということでなく、音楽をきちんと聴いていたら、わかるようになってくるのです。そこで判断しなくてはいけないことです。そんなことは起きてはならないことです。瞬間的に気づかなくてはいけません。そういう問題が起きるのは、総合的に音楽を捉えていないからです。そういう要素は慣れとキャリアが必要です。 

○等配分せず、実感に 「美しさの残るその手に 輝いていた宝石はなく」

 このときにいろんな判断の基準があると思います。ことばとか、声とか、呼吸とか、全体のここまでの流れとか、いろんなものがあります。それを等配分しないことです。  声の中でまとめていかなくてはいけません。フレーズのイメージがあるに関わらず、声が入らないとか、体が伴わないという場合は、その原因をきちんと見つめなくてはいけません。  全体の構成の方から見ていく勉強と、体とか楽器作りの勉強があります。「輝いていた」の「か」が入りにくいとしたら、「がやいていた」とか、「がいていた」とことばでいってみるのです。その場合、声の発声の問題というより、呼吸がそこに用意できていないのです。そこで落ちついて取り出せないということになります。 

 最終的にリズムの処理ができないとか、フレーズが出せないということは、呼吸の問題になってきます。呼吸が出たのに、うまく声にならないという場合は、そのうちに伴ってくると思います。ことばで「がやいていた」でやってみましょう。  メロディはあまりメロディとしてつけたくないのです。なぜ、外国語のを聞かせて、次に日本語をつけているのかというと、なるべく日本語の実感をもって判断しつつ、日本語の感覚ではないところで声の処理ができるようになるためです☆。音が均等につくことを防ぎたいのです。あまり意識しないでやってみましょう。「がやいていた」の中で、縦に音が入るようにして見てください。 

○焦点化と創造 

 今やっている練習というのは、声を中心で捉え、芯のところから、重さを感じてきちんと動かしていくことです。やって欲しくないことは、上の方にそらしたり、横にずらしたりすることです。そうなると息が必要ないのです。それは口の中でできるのです。  まず「が」で入れなくてはいけません。そして「がやいていた」の中で何かを起こさなくてはいけないのです。それは音に声がついて、声の中にことばが生まれてくるようにします☆。  それを一番短くすると「ハイ」になるわけです。そのポジションがとれないと、サビになったときに、いえなくなってしまいます。それが体で受け止めやすくなる練習をしてください。  頭の中で計算して、響かせてやらないことです。体のところで、きちんと息を送りながらやることです。そのままでは実際の歌にはなりませんから、次に整理しなくてはいけません。そうやって、自分で表現の核を見つけていくことです。 

 ポップスがおもしろいのは、声や体の力があっても、一本調子になって伝わらない。逆にそういうものがなくても、自分の中できちんと焦点を絞り込み合わせる方向でいくと、成り立つことです☆もっと時間とか空間を変えることができるのです。  声楽家の場合はそれを声とフレーズでやるのですが、ポップスの場合はいろんな手段があります。どちらがよいとか悪いではなく、要は自分で創ることです。自分で創るために、音色とフレーズの線が必要なのです。それが音楽上で、歌の場合は声ですから、ピアノと違って、いろんな音があります。ただ日本の歌というのは、美しい声というのが最初にありますから、それをいったん原点に戻してみようということです。戻した方がよいというより、戻してやると武器として大きくなるわけです。それがその人のオリジナルな声とか、息とか体ということになってくるのです。 

○投げ出す、放り出す

 舞台が5分間以上、持つというのは、難しい。一度、全てを投げ出さなくてはいけないのです。その投げ出されたものが、まとまってくるまで待つ、客の観点で整理されることです。それには客と同じ基準をもっていても通じません。客よりもずっと高い基準をもっていなくてはいけないのです。  歌い手の居心地、自分の好き嫌い、気持ちがよい悪いということではなく、放り出されたものが何を起こすかというところで、整理されなくてはいけないのです。それが放り出せない人の場合は、成り立たないのです。それはことばを一つ読ませてみてもわかります。そのイメージとか感覚をもっているに関わらず、声が伴わない場合は、その部分を鍛えることです。ここのレッスンは、全部を通してやっているのです。  ヴォイストレーニングとか発声をやって、声や体ができたら何でも歌えると思っている人が多いのですが、大きな間違いです。それは必要な条件にしか過ぎないのです。 

 楽器の人は毎日その楽器と親しみ練習しなくてはいけません。歌というのは、日常の中のものが出てきます。声というのは、時間をかけてこなれてくると、その人の中に入って、そこから飛び出してきます。  本当のトレーニングの意味とは、一つのものにどれだけ豊かに感じられるか、そこでの条件づくりです。感じられるだけではなく、こういうものを感じたあとに、どれだけ創れるかということです。だから、耳を磨かないと、あるレベル以上やるのは無理なのです。 

 そういう細かいところをきちんと見ていくプロセスをとっているかどうかです。プロの歌い手というのは、すごく丁寧に歌っているのです。まずは、自分を知ることで、自分を一番出せるキィやテンポを知らない限り、何も創れないわけです。それを知るためにどうすればよいかというと、自分の体に聞くしかありません。  一番伸びないヴォイストレーニングや発声法は、頭で考えて、口の中でやってしまうことです。体も息も正しいのです。耳は、正しくない場合が多いです。それはいい加減なものが聞けないのでなく、優れたものがきたら、ほとんどのものがいい加減になるにも関わらず、常にそれを妥協してしまうからです☆。  自分の歌に関しても同じです。そこを正していくのがレッスンです。 

○指し示す、起こす

 ことばでやっていきます。ここから声や体の方に戻っていく方向もあるし、これを表現として取り出していく方向もあります。トレーニングとしては、両方が必要になってきます。  「輝いていた宝石はなく」、まず条件としては、それを前に指し示せることです。基本のトレーニングでは、これをきれいに歌えることとか、歌らしくなることよりも、まず、ここで何かを起こせることです。起こせるということは、まず起こせる可能性をその中に持つことです。動かせるところの原点のところで、それをもっているということです。  自分の中でそれが行き詰まってしまったり、ぶつかってしまうのであれば、それはそれで問題として受け止めればよいのです。ただ、本当は感覚をその瞬間に切り替えなくてはいけません。歌の中でもいろんなことが起きますから、突っぱねていかなくてはいけません。そういう感覚で、自分が創ることをやらなくてはいけないのです。こなすことをやっていたら、「それでよいでしょう」ということになります。ただし、それくらいは、中学生や高校生でもできます。

「美しさの残るその手に 輝いていた宝石はなく」  自分のフレーズを見つけていくというのは、すごく難しいことのように考えてしまうのですが、体と呼吸にヒントというのがあって、さらに音楽上のヒントがあります。いつもイタリア語やフランス語に日本語をつけさせているのは、そのためです。こういうものを聞いていくと、大体こういう歌い方になってしまうのです。この歌い方そのもののところと、実際に音楽が動いているところのズレをみるのが大切です。  くずす人は、応用度が音楽のところからかけ離れている場合が多いのです。それを真似しても、そこにより繊細な神経を通わせていくということはできません。大雑把に切っていくのでは通じません。 

 「輝いていた」のところでも、少しは変えようと思っているようですが、その感覚が問題なのです。ポップスの場合は、そこへの焦点の絞込みが鋭いと、声量とかは問題なく、より大きく聞こえるし、伝わるのです。焦点部分を音で決めてしまうと、焦点が絞り込めなくなるのです。この歌い手は、「美しさの」を「タタタタタ」でとっているのではなく、「ター」というふうに一つで捉えているのです。そういう感覚を聞けるようにすることです。歌のへたな人とか、盛り上がりに欠ける人というのは、全部を歌ってしまうからです。 

○確かな一本の線 「枯葉の散る広い庭には 美しかった」

 練習の方法として、体の方とか息の方に落としていくには、ことばでまずいえることを、とにかくやっていくということです。でもそれだけをやっていると、単調になってきます。だから、息の配分でいろんなところにつけてみるのです。整理するということはそういうことです。  うまい人というのは、細い線であろうが太い線であろうが、一本の線が走っています。ところが、多くの人がまだ複数の線が中途半端に走っているのです。それは自分で決めていってもよいのですが、複数に走っていると、どんなに体を使っていても、集中しても分散していきます。だから、とにかくシンプルに一つに捉えてみることです。それを体や呼吸に入れていくことです。歌であろうが、ことばであろうが、一番自分が捉えやすいところの声をきちんととり、それを動かすということです。今は捉えにくくても、あとで動けるところは、体が伴ってくるところです。そこを使っていくことです。  たくさんの曲を聴いてみてください。その音色とその線を聞きましょう。そのイメージと呼吸を聞いてコピーしたり、あるいはそこで自分のものを創るという勉強の量を、できるだけ増やしてください。カラオケのような練習は、やらない方がよいと思います。感覚を鈍くするだけです。どんどん一人よがりになり基準がなくなってしまうのです。創るというのは、頭で創るのではないのです。 【「老婦人」00.12.28】


■特別レッスン

○総評<トレーナーA> 

 ライブという形の実習になりますが、場に入れてライブという体勢をとれていたのはEさんだけで、それは皆さんも見ていておわかりのことと思います。ここに来てあがってしまったり、失敗してしまったりということは、その場をどうにかしていく形で経験していただけばよいと思います。  L懇だからこの曲、というようなことが見えるようになってくるとよいと思います。場に入れるかどうかだけで負けてしまったり、色あせて見えてしまうということ、ここに来るまでの手間や準備ということを感じました。  まず課題曲の方ですが、2曲とも難しくて、でも難しいからどうのこうのという部分ではないところで述べます。「別れの朝」は、歌えば歌うほどはまっていってしまう曲ではあると思うのです。「別れの朝 ふたーりは」といったら「冷めた紅茶 飲みーほし」と、永遠にそのままやってしまう。聞き手はまただ、まただというふうに聴いていて、歌っている人だけはわからないというふうになりがちです。 

 もう一度原曲をよく聴いて、どう歌うか、変えるということは自然なことだと思いますので、続いた時点で何か変だ、ということを前提として、もう少し詰めてほしかったです。こういうふうに歌ってしのぐ、という形が見えてしまって、自分で創っているわけでも生み出すというところでやってきたわけでもなくて、歌い方の中で処理した感じがあからさまに見えてしまいます。  どちらの曲も音域的にきついところがあります。とりあえずサビのキィが合うところで設定しました、ということが聞こえて、歌は聞こえてきませんでした。何のために課題曲があるのか、自分が見えなければやっている意味がないと思いました。その辺をよく考えてみてください。

 それから自由曲の方は、課題曲でできない部分や自分の得意なところやよいところを、できるだけ出してほしいと思います。どういうものがよいというのは一人ひとり違いますが、なんで選曲をするのかというのがあります。歌いたいからという純粋な動機があるのはよいのですが、どうしても歌いたかったら、そういうふうな詰め方ではだめだなという感じです。好みでやってそれでも歌いから、というのではなくて、歌いたかったからこうなったんだ、というところまで見えない。聞き手を引っ張ってくれるところまで出さないとピアノが素晴らしいだけに、歌がもつということと、あるいは時間がそのときもっているということと、もっていないということがどう違うのかを、もう少し身にしみて感じてください。 

 自分がやっていることに関して、もっていないということはどういうことで、今はもっているということはどういうことで、というのを常に感覚していく必要があると思います。高いところでどんなにきれいに声が出ても、人はそういうところを聴くのではありません。張り上げてきれいに出ているというのは、前提のことであって、それが歌のわけではありません。それは今さら言うことではないと思いますが、やはりキィ設定か何かで低めに設定してみたのかな、とかサビに合わせたのだな、というふうになってしまいます。

 「イルモンド」は2オクターブありますから、ただ、上のサビで張るためにあんなふうになってしまったのだな、ということが見えてしまうのはやはり違うと思います。  それは失敗や緊張ではなくて、その曲に対して自分が何をしてくるとか、何を生み出すとか、表現を入れるとか、そういうことの問題です。漠然と好きな曲やのれる曲ということはよくわかりますが、歌い方の中で処理しています。たとえ調子が悪くてぐちゃぐちゃであっても、ある程度、自分が出ている人の方が、ピアノがついたせいもありますが、私は聴けたと思いました。声がしっかり出ていないとしても、なんとなく流れてしまったものよりは聴けるという感じです。  自由曲とか課題曲とかわける必要はなくて、単にライブという形でやってくれたらよいのですが、Eさんのところにきて、やっとライブが始まるんだという感じだったと思います。そういう空気の動きを実感として詰めるときに、「別れの朝」などと歌い出す瞬間の空気のところまでもってきて、そこで詰めるべきだと思います。まだ頭の中で、こう言われたからこうすればよいのかなとか、声が出る出ないとかいうところに振りまわされています。

 乱れるのも声が出ないのも嫌ですが、自分が歌うから自分の歌になるのではなく、それは絞り出すものだと思うのです。絞り出していないものはそれだけのものだと思います。だから、それが入っているものと入っていないものを聴いていく。そして自分がそういうことをしたいのではなくて、別のことだというのであれば、もっと目一杯出すべきです。その点で、表現したいものをとにかく出しているんだというものではないという感じがしました。それが皆さんにできないというのではなく、単に準備不足というか、L懇だという感じが見えたから、それが聞き手に見えてはいけません。  何があるのかなくらいは思わせて、それでああそうだったのかとか、結果的に失敗してしまったとかいうのは次に生かせばよいことです。本当に絞り出してきたところで、曲も磨かれていないし、声が出ないからこっちの曲というのが見えるようでは、見ていて退屈です。そうでないものが見えるように、それからピアニストをもっと生かすことを入れてください。 

 V検に出席しない人は、L懇の感じもつかめない。V検はV検で、また独特なものなので同じではないと思います。ライブという形でやるのであれば、カラオケ的なつけ方ではなくて、どういうふうに出すかということを生かしてもらえばよいと思いました。  リハーサルの時間がほとんどとれないことはありますが、もう少し煮詰まったものが出せるようにしてください。プレBV座を見ていることが、よくない方に影響が出ています。ああいうふうにやったらよいというような、決してプレBV座がよいわけではない。同じ人がやってみてよいことと、あいつがやったらよいけれど自分がやったらよくないというのがあります。話題の選択でも何でもそうです。何を喋っても何をやってもよいのです。ただ、ちょっとしたことで空気が動いたり固まったりします。本当に一瞬のことだから、それを踏まえていないと、単に気楽に喋って楽しそうにやって、というふうになります。そういう雰囲気が何かを創るわけではありません。出てきて視線を浴びて、去るまでのことをリアルに詰める段階から入れてくることです。わざわざここに来て、何を出していくということで歌を捉えてほしいと思いました。 

○個人評<トレーナーB>

1.課題曲に関して、今日に始まったことではありませんが音色が暗い感じがしました。まだ自由曲の方が軽やかさがあったので、気持ちよい感じがしましたが、課題曲に関しては声の重さが目立ってしまいました。いろいろな改善方法があると思いますが、どうしても傾向として「ウ」や「オ」の暗い感じに聞こえます。ですから、たとえば「イ」の明るい母音だけで、1曲を歌ってみる。それで、メロディを息と音色で捉える感覚が欲しいと感じます。リズムやフレーズなどの音楽的処理については、そんなに気にはなりませんでした。先ほど「イ」の母音と言いましたが、いろいろな母音だけでやってみると結構歌えたりします。どうしても歌詞が入ると、子音が入ってくるために息の流れが止まってしまいます。たとえば「いわないで」というのも、「ラララララ」とやった方が、まだ曲の感じはつかみやすい。その感覚でひとつとってみて、また歌詞をつけてみるというような練習方法が必要ではないかと思いました。 

2.マイクのスタンドは自分で調節してください。低いままでやっていました。基本的な声はよいと思いますが、まだ押しつけ気味の感じがしました。あと、歌に対して動きがありません。まだ声を聴かせるような感じがします。要はトレーニングを聴かせているようで、それでは歌とはいえないという感じです。 

3.今日の曲は難しく音域が広いので、課題曲にしてもとりにくかったと思います。まず、今日はアカペラで歌ったという理由はありますでしょうか。ピアノが間に合わなかったという感じがしてしまいます。アカペラで歌った理由が聴いていて伝わってこない。むしろ僕に伝わってしまったのは、ピアノと合わせづらかったのかな、それともピアノに出すのが遅れたのかなという感じで、アカペラで歌いたくて歌ったのではなくて、仕方がなくというくらいに感じてしまう。アカペラで歌う説得力がない。一人ひとり与えられた時間は同じだったと思います。V検があって次にL懇があるわけですが、与えられた時間の中でものすごく詰めてきた人もいれば、そうでなかった人もいます。彼女が一生懸命やってこなかったという意味ではありませんが、その中で、どれだけ準備をしてきたかということがあります。意気込みも含めた準備、どれだけ練り上げてきたかというところが、まだ見えない感じがしました。 

4.ぱっと見はうまいのですが、それだけなのです。小さくまとまってしまっている。確かにそんなにずれないし、今日の出来の中では、多少音が外れるというようなことはあったかもしれませんが、そういう問題ではありません。歌詞がとんでしまったとか、ちょっとした間違いとかは、聴いている方からすれば些細な問題ですが、曲を大きく捉えていないというか、自分の器の中で今もっている材料だけでまとめてしまっています。それは作品を創るということでは、決して悪いことではありませんが、ややもするとそのまま1年2年いってしまいます。実際、そういうふうになっている人は、上のクラスでも結構います。

 ですから、今のクラスの中で、どんどん殻を破っていく努力をしていかないと、僕は危ないと思います。やっぱり1年2年経っても、このままでいってしまうのではないかと思います。この中ではまあまあまとまっている方かもしれませんが、それくらい歌えてしまう、もっと歌えてしまう人は世の中にたくさんいるわけですから、その中を這い上がっていかなければいけない。プロというのは、人ができないことをやってお金をもらうわけですから、そういうレベルからいうと、まだ人ができることをやっているという感じがします。すごいと言われる人はすごいことをやった人なので、すごい努力をしていかないとだめなのではないかと思います。今はまだ、と言ってよいのかわかりませんが、もっと失敗しても外れてもよいし、訳がわからなくなってもよいので、曲を大きく捉えて、殻を破っていく努力をしていくことが必要だと思います。今のうちからまとめる方向にいってしまえば、それだけで終わってしまいます。そういった意味ではもっと外してもよいのではないかという気がしました。 

5.自由曲は自分の好きな曲だったので楽しそうでしたが、課題曲は嫌々歌っているような、覇気がない感じがしました。ひとつはきれいに歌おうとしすぎてしまっていて、点になってしまっている。フレーズになっていない感じがしました。自由曲に関しても楽しそうに歌っているのはよいのですが、全体的に構成としてのメリハリがない。1番2番、3番とも全部同じテンションに聞こえてしまったので、もっと見せ場とか、自分は音楽的な解釈をどうしているとかいうものが、ないような気がしました。その辺ももっと研究した方がよいと思います。 

6.あまり声はないのですが、出だしのフレーズなんかはよい感じがしました。声はあまりよくないと言ったら失礼で、あまり声量はないのですが、音楽的な捉え方、フレーズのとり方などは非常に一生懸命練習してきた感じが伝わってきました。ただ、声という部分に関しては、まだいろいろとやっていかなければいけないと思います。特に高いところにいって、その後、完全にスポーンと抜けてしまうのです。ビブラートというよりトレモロ、それも本当の意味のトレモロではない。声は自分の中で大きくとろうと思って、一生懸命に息と体を使っているのですが、それが結局、空回りしています。そもそも声量は、息の強さと体の強さだけではなくて、それが体に響かなければだめなのです。声量とは何かというと、響きであり倍音です。本当に響いてほしいところと違うところに焦点が合っている感じがします。表現は表現として、声自体はもっと楽に響いてくるところがあると思います。その辺のところがずれてしまっている。低いところではよいところもありますから、そこは一音ずつでもトレーニングで、息を吐いた分だけ声になってくるようなところを一つひとつ練習していかなければいけない。そういった意味で作品としてはまだまだこれからという感じがします。 

7.前回も指摘して、少しはよくなっていると思います。でも独特の固さがあります。自分で気づいているのかわかりませんが、胸で「アアアア」という感じに聞こえてしまいます。自分ではそういうふうに歌っているとは思っていないかもしれませんが、胸に力が入ったような、そこのコントロールがやはり心地よいものではありません。息の強さや体の強さ、支えや音感はあるのですが、癖でどうしても「アアアア」ととってしまうところが抜けない感じがします。それが全体を壊してしまうことがあると思います。声をストレートに出すイメージをもっと研究してもらえたらよいと思います。 

8.歌そのものは、あたり障りがないというか、大きく外れもしないし悪くもないし、割と凡庸な感じがしました。声に関してはよい声があり、歌っている中でときどき、よい一瞬があったのが印象的でした。そういう意味では、まだ声が安定しないのですが、フレーズの中でスポーンとよい感じで抜けてくるのがキラキラとあるので、その僕の言った部分がどこなのかを、自分でテープでとってみたりして、そこの感覚を常に出せるように練習していったらよいのではないかと思います。自分のどこがよいのか、自分のどこがまだ重いのか、まだ重いというか抜けない部分の方がほとんどですが、よい一瞬もありますので、そこを自分なりに努力してください。 

9.声はよいのですが、何か「氷雨」、「のませて ください」というように聞こえてしまうのです。このところが抜けません。声はよい声をしていますし、そういう意味ではよいのかなという気はします。後は音楽的なセンスの問題と言ったら、身もふたもないかもしれませんが、音楽としてどう表現していくかという部分だと思います。そこまで頭の中でイメージができていて、音楽をどう捉えているか。ただし、あなたがそれで気持ちよいのであれば、僕の歌はこれなんだ、これでいくのだというつもりであれば、後は細かい部分の粗さがあるだけで、それはそれでもうまとまっているし、それでよければよいという感じがします。そういう意味では、それでよければよいのかなと思います。ただ、自分でどうにかしたいというものがあるのであれば、まだまだ変われる要素もあり、努力する要素もあると思います。これが自分の音楽だと割り切っているのであれば、口をはさむ余地はないというぐらいです。 

10.一時期は、発声で全部「H」が入っていた感じがあったのが、今回はあまり感じなかったので、本人なりの解釈でどうにかしているのかなという気はしたのです。歌を大きくとろうとするイメージはあると思いますが、まだまだ、それが声の部分では消化されていない。大きくとろうとする姿勢は、僕は評価してよいかと思います。イメージはあるし、こういうふうにやりたいというのはある。ただ、体がまだついてこないということで、そういう意味では努力する余地がたくさんあります。あえて言えば、大きくとろうとすることによって、特に高いところにいくと、のどが詰まってしまう。息の量=声量ではありません。声がしっかり響くポイントがあり、声が共鳴していて、最終的に声量という形になってきます。大きくとろうとして力むことによって、結局大きくとれないというのがあります。そのバランスです。だからといって大きくとらないようにすると、そのまま小さいままでまとまってしまう場合もあります。大きくとろうとして、それが邪魔で結局大きくとれないという場合もあります。声量として転嫁されていないところがありますので、声に対する研究はしていってほしい。 

11.今回に関しては、曲が合っていない感じです。僕としては、もっとよいところを知っていると思っていますので、今回は、前のようなテンションにはいっていなかったと思います。曲の合う合わないはありますので、それはそれとして頑張っていってくれればよいと思います。知っているだけに、うーんと思ったのですが。微妙にずれている。音なんかではなく、音楽的なずれ、声のずれの部分です。そこをもっと一致させていってくれればよいと思います。 

12.もう声もまとまってきているし、あとは音楽としてどう捉えるかという世界だと思います。そこの部分では、たとえば「Georgia on my mind」は非常に難しい曲ですが、もっと遊ぶ部分、「イルモンド」にしても、ただ歌うのではなくて、自分なりに組み立てていくような部分がないと、1曲2曲は聴けると思います。3曲目になると飽きてきてしまいます。2曲くらいは、うまいというような感心はするけれど、感動まではいかないという感じです。もっと動かすところや遊ぶところや、おさえるところになってきたらもっと動かしていったらよいと思います。 

13.今日の中では、全体を通して気持ちがよい。大きさもあるし、よい感じがしました。あとは、どこまで今度は自分に期待していくか。まとまってしまえばいつでもまとまってしまうし、いつでも終われるというか、進歩をやめられますので、そこに対して自分はどう考えているかで、あっという間に進歩は止まってしまいます。確かに、このメンバーの中ではよいとは思いましたが、世の中に出ていけば、もっとうまい人はいくらでもいます。そうしたときに、自分がどうなりたいのかという先のイメージを持っていないと、そこで終わってしまいます。 

 なまじうまく歌えてしまっている人の方が大変です。求められている課題が違いますから、声があれば何とかなりそうだというような人は、もっと漠然と努力する方向があり、トレーニングをすればよい。声がなければ発声練習をすればよいし、体がついてこなかったら息吐きをすればよい。問題がまだシンプルな人が多いのですが、そうでなく、声もあり音楽もコントロールできるようになると、次の課題が壁になってきますので、そこを乗り越えていかないと、いけないような気がします。自分がそれでよいと思っていれば、それで止まってしまいます。自己満足の世界です。ただ、世の中にはもっとすごい人はたくさんいて、この中で自分が結構うまいなと思っていると、本当に井戸の中の蛙そのものです。そういうところでいくと、いろいろな音楽を聴いて、だからずっと努力をするしかないと感じていられます。自分の目標としているレベルをどこにするかということです。 【●L懇3コメント(トレーナーA、B)00.11.24】 

○組織化しない

 結局、みんなと同じことがやりたくてきているのか、いつのまにかここにきたら同じことがやりたいようになってしまっているかです。それは組織のもつ怖さです。  ここに入るときに、そうならないようにしてくださいといっているのに、一人だけでもよいから、そういうものに出た方が、名前も覚えられるし、自分のためにも一番よいのに、やらない。そういう意味で、ここも世間並みに変わってきたという感じがします。 

○手段化

 最近はヴォイストレーニングをやるスクールはたくさんできています。立ちあげの相談も受けます。しかし、いったいヴォイストレーニングとか、ヴォーカルスクールとは何なのかということです。  たとえば、トレーニングしたり、スクールにいくことと、デビューすることはどういう関連があるのかということです。そこに行ったからといってデビューできるのかというと、そんなわけがないのです。逆はあります。デビューできる人がヴォイストレーニングをやったり、スクールにいったら、何か得るかもしれません。  でもヴォイストレーニングをやったり、スクールにいったからといって、その道が開かれるのかというと、現実に開かれた人を見てみたら、そうではないのです。そこを誤解しています。  ヴォイストレーニングというのは、自分の感性とか、感覚を磨くために、自分の肉体を使う武器として鍛えていく手段ということです。それを介して舞台、表現、歌と全部に関わっていくための手段です。 

○表現と表出

 小学館から出た「自分をちょっとよく見せる演出術」(鴻上尚史)というのに、声のことが書いてあります。「表現と表出の違い」ということが書いてあります。彼の新著のあとがきにインターネットに言及して、いくら表出していても、それは表現にはならないということをいっています。表出することで表現していると間違ってしまうメディアとしてインターネットが与えてしまったということです。インターネットなどのメディアや技術というのは、彼のように核のある人でないと、生かせません。今はちょっと凝ったら、大いに生かせても、5年ほど経ってそれがあたりまえになってくると、価値のないものは、やはり伝わらないのです。 

○慣れるというレベル

 私は今日のコメントは考えず、照明をやっていました。  オーディションの結果は、3部では1番出る人は6曲、2番の人が3曲となったのは、その差が点数では460点と360点で、100点の差があったからです。この1部に関しては平均150点くらいだと思います。その辺のプロセス結果は、後日会報に載せます。そういうコメントの掲載を遅らせるのはその時点で聞いてもわからないことがあるからです。  確かに、ここは皆さんのための研究所で、その日の夜にやることを教えてくれよというのはわからなくもないのですが、この評を後で全部見てもらえばわかるとおりです。  たとえば、あなた以外にそういうコメントをされている人はほとんどいないはずです。  ここでは個人的に返答するつもりはないのですが、オープンにいわれたのでオープンに返した方がよいと思い、答えます。アテンダンスや手紙でいわれたら、掲示や通達で返事をします。これはあなただけにいっていることではなく、こういう場の利用法として聞いてください。 

 結果として、今日私が見てみても、そのコメントを変える必要が一つもないと思いました。「慣れている、堂々としている、何となくなりそうだ」ということです。そういわれて、その日の夜にやることは何なのかということは、自分がそういわれてしまうということは、一体どういうことなのかということを徹底して考えるということです。これは、音程やリズムが狂っているということ以上に重傷なのです。  たとえばプロの人とか、3部の人たちがステージをしたときに、この人は慣れているとか、堂々としているとか、そういうことは決してコメントでいわれないわけです。  そういうコメントをいわれてしまうということは、どういうことなのかということを見なくてはいけないということなのです。それも1人からではなく、何人かの先生からいわれているのですから、そこを見なくてはいけないのです。それはリズムとか、音感が悪いというより、正すのが難しいことだと思います。 

○もったいないか?

 プロでやっている人とか、3部に出ている人たちとの差に比べてみたら、この1部での差は本当に小さな差なのです。でもその小さな差が見えるかどうか、それをこだわって大事にできるかどうかということがこういう世界ではすべてです。  ステージの使い方はどうでもよいでしょう。そうやって表現したつもりで、自分も傷つけ、周りも傷つけ、それを背負って、また自分の表現にそれが出てくればよいとしましょう。しかし、それが単に表出にすぎないから何ともならないのです。  ただ、今日ここに出て、そこで歌っているということは、前向きだということです。  でも本当に前向きだったら、本当はそういうことをここでいわないでしょう。どうして俺を1部で出すんだ、もったいないじゃないかということを、ステージで納得させるべきなのです。そのための今日だったはずでしょう。こんな邪念で固まって過ごしてきて、どんな歌が歌えるのですか。「俺が自分なりに一所懸命遣っているのに認めないからもうやめてやる」といっているサラリーマンと同じです。

 結局、こうやって終わったときに、みんなが、あいつは1部ではもったいなかったと思ってくれているのかどうかです。私の考え方とかはどうでもよいでしょう。  オーディションがどうこうというよりは、ここの30人の評価でみてください。きっと皆、先のコメントのようにみたでしょう。そのときにどういう評価がくだされるかということです。自分で客観視して見ることができなければ、そこをつめていけないということです。そのために人まえに立つわけです。 

○プロをくどく

 表現というのは、相手が評価することなのです。自分がどんなに気持ちよくやっていたり、うまいなと思っていても、相手が認めなくてはいけないのです。その相手も、そのことをやっていない素人よりも、プロに認めさせないといけないわけです。  私の世界では、何をするにしても、プロを口説き落とす毎日です。いい加減なものを出したら、断わられます。そのときにこちらはどうこうというと、なんやかんやいってみても、客が満足して帰るかという、客の方に価値を置くのが正しいということにもなるのです。  自分はどうであれ、そこに出されたもので判断されて文句を言っても仕方ないでしょう。  それは自分のものではなく、客のものなのです。与えられた人がそこで動かされたり、そのことによって感動するかどうかが問われるわけです。

 プロといわれる人たちは、そういう観点でものを見ています。そのためには本質的なものを見ていないとやっていけません。他の人へのコメントはともかく、そのコメントは、私のではないかもしれませんが、的を得たものです。  ヴォイストレーニングをやったり、教えたりすることは誰でもできるわけです。でも誰でもできるのですが、プロの仕事というのは違います。  いいたいことをいったおかげで、緊張感をもったかもしれません。でも、つまらなかったでしょう。押さえられないのは学ぶプロセスの中では、情念があるからまだよいわけです。しかし、ステージならそれを歌に込めていくプロセスをとらなくてはいけません。こういうライブに関しても、何がそこの中で回っているのかということをしっかりと見てください。舞台裏を出す必要はありません。気持ちよくないだけ、だからうまくいきません。唯一、自分の名で発言したことは、救いですが。  

 夢も歌もすごく難しいものであるのは、学べない多くの人にとっては両方とも漠然としているからです。歌はうまくなりたい、でも歌の練習をしたら歌がうまくなるわけではありません。そのプロセスを具体化して毎日の生活の中に落とさなくてはいけないのです。その手順というのにも、いろんなものがあって、会報にもいつも書いています。できるだけ同じことばを使わないようにしているのですが、それを10年出し続けていても、読み続けてみても、さらにあなた方の材料の一部にしか使えないし、もしかしたら全然使えないかもしれません。だから、自分のメニュを創っていくのです。  やってきた人というのは、深いものを落とし込んでいます。本当に細かいところ、ちょっとした人との違い、そういうところを見ています。その差を自分の中だけではなく、自分から出されたもの、あるいは人から出されたものとして客観的に見ています。実際にそれがどう働くかということを見ていかなくてはいけないのです。 

○リスク

 今日の1部でも、いい加減なものとか、しっかりしたものとか、いろんなものがありました。そういう仲間の生き方から学べる部分というのは、すごくたくさんあるのです。先生に学ぶよりもよほど大きいと思います。  ただよくないのは、鴻上さんもいっているように、ネットの中で悪口をいっていても何も始まらない、そういう人たちはやがて孤立して消えていくということです。名声を得ている人でも、さらにそのことをいわなくてはいけない程、苦汁の毎日を送っているのです。  おととい、TVで長島茂雄監督が一茂氏に、人生なんて毎日苦汁の連続だといっていました。それがあたりまえになってしまえば、どんなことが起きても驚かないというのです。

 スーパースタートは全然違う次元で苦労をしてきた人だと思います。そうでないところにいて、表現とか、人に伝えるような仕事が成り立つのかということです。  だから歌を歌いたいと求めていたのに、そのリスクは背負わず、ここの客として求めているから、実際に来ても、見も聞きもしないのです。歌っていても客のカラオケなのです。それはそれでよいのですが、それでは、それで終わってしまうことがもったいないと思います。 

○可能性

 1部が3部よりもおもしろいのは、どうなるかわからないところの可能性の部分です。それぞれのもち味がキラキラしていて、へたに磨かれていない分、新鮮です。全然合っていないということもあるのですが、絞り込むところまで絞り込んできたら、その人が輝き出してみえることもあります。その人しかできないことをやってみたら、それは人々に対して何か与えるものが出てくるということです。  それを何もせまい日本のJポップスの中で、とらわれることもないということがここの考えでもあります。  それを具体化していくためには、まず自分を知らなくてはいけません。自分を人々の中に投げ出して、なんとでもしてくれといったときに、初めて自分はこうなんだというのがわかってくるから、場が必要なのです。 

○トレーナー以上の力に

 今、ヴォイストレーニングを個人レッスンでやるのが流行っていて、グループをやらずに、個人がよいという人もいます。そういう先生は親切に教えてくれて、ほめて心地よくさせてくれるのでしょう。しかし、その先生以上にはなれなくなるということです。その先生は苦労をしてどこかでもまれてきたはずです。昔は否応なしに、世に出ていくということ自体が、人にもまれるということだったのです。  今日のようなイベントも、自分が紅白に出ていくような気持ちで出てみればよいと思います。そのときに自分がどれほどのことができたのかということでみていくことです。

 ヴォイストレーナーとか、スクールの先生の一番悪いところは、自分では何も作り出さない人、創造せずにきた人が教えていることです。  こんなものは教えられるものではないのです。できることといえば、常に自分で自分のものを作り出すことです。自分が創造する活動をずっと続けることから、誰かがそこの何かを盗んでいくのです。そのことで得た人だけに、何かをやれる可能性があるのです。

 福島程度の人間が人並みのレベルへまで基準を下げて、君のここはよいとか、こうしたら絶対に何とかなるなんていっていても、何年経っても何ともなりません。あなたたちが、レベルアップするしかないのです。  それを居心地のよいところで、みんなでまとまってやれば何とかなれると、そういう勘違いと幻想で動いていること自体が、自己目的になってしまいます。それは、安っぽい新興宗教と変わりません。  そうなって欲しくないから、たくさんの情報を得生かして欲しいし、研究所にもいろいろといってもらっています。こんなものを読んだら嫌がるだろうというものも貼っています。そういうもので苦しまないといけないと思います。  病気などで苦しんでいる人たちはたくさんいるのです。それに比べたら、こんなところにこられるということは、健康であり、恵まれているわけです。それに対して、せめて、心くらいは鍛えるということをやらないと、よくはなっていきません。 

○ほめられない

 オーディションの結果などでも、嘘でほめたりはしません。ほめることの無責任さ、日本がこんなふうになってしまったのは、そのせいなのです。確かに体が弱い人とか、病気の人とか、老人とか、そういう弱者の人に対しては、必要です。子供にも必要です。  ただ、普通の人、つまりはもっと大きな可能性がある人に対して、程度の低いものをみてほめるということは、その人の可能性をバカにしているということになるのです。  オーディション評を全部読んで3部と2部の差はなんだということで見てください。  別に1部、2部、3部に出た人にレベル差があったわけではないですが、そのオーディションの結果においてそうだったということは、客観的事実なのです。皆さんが採点するのと、審査員が採点するのとでは、違いがあるかもしれませんが、そんなに大きなズレはありません。

 ここの部に関しては特にそうです。コメントに関しても、バカヤローという気持ちもわかるのですが、でもなぜバカヤローのところでいわれてしまうのかということを見なくてはいけないのです。  「何とかなりそうだ」というのが、なぜ「何とかなっている」ではなく「なりそうだ」で終わっているのかということです。今日のも見てみても同じでしょう。どうすればよいのかというと、しっかりと見ることしかありません。「何とかなりそうだ」ということは、その可能性はあるのに、本人が気づけないためです。それを必死に学ばないといけないわけです。

 たとえば、もっとレベルが上になって、声もできて、歌もできているのにやれていないということは、そこで欠けているところは何かを考えなくてはいけないのです。そこで徹底して考えなくてはダメです。それを無視しても、これでやれるというものがあれば、それでやればよいわけです。他のところにいけばほめられるかもしれないが、そのこととやれているということとはまた違うのです。  そういうコメントが自分にきたということは、一体どういうことなのかと受けとって、自分に役立ててほしいと思います。こちらも仕事としてやっている以上、よい方からみているところもあるわけです。だから、「一人よがりで何もわかっていない」とは書きません。でも、嘘が書いてあるわけではないし、いい加減には書いていません。

 今日のステージを見てもそのコメントと同じだということは、もっと根深い問題だということです。そういう態度、ステージングも人に対して伝えるということは、その人のスタンスから、生き方から、全部が含まれてくるのです。  最終的に表現ということになると、その人が作っていないとダメだということになるのです。どんなにうまく歌えたとしても、カラオケ大会ではともかく、その中で本当に自分のものを作らなくてはいけないのです。プレやL懇でも、もっと慣れている人、もっとたくさん歌ってきた人、もっと場を保てた人も大失敗することがあります。それは怖いところです。

 自分のことは自分がわからないのです。わからないから、より優れた人のところに自分を置いてみたとき、それを真に受けるかどうかですが、それをどう補えばもっとたくさんの人に伝わるのかなど、そういうふうに考えてみればよいのです。足らなければ補うしかありません。そういうことで、ここを自分のプラスに役立てて欲しいと思います。  集団の場というのは、一人ひとりの心掛けしだいでマイナスにもプラスにもできます。いろんな機会があった方がよいと思います。その中で少しでも気づいて、そこで自分がとらなければ、畜生と思って頑張ることもなくなります。 

○そういうお前は?

 鴻上さんも書いていましたが、昔先輩たちの悪口を散々いろいろといっていて、そのときに返ってきたことばは「そういうお前はどうなんだ」ということであった。ネットではそれが返ってこないまま成り立つからダメなのです。みんなそこで「お前はどうなんだ」といわれて、何くそと思ってやってきたのです。表現するというのは、そういう世界です。  他の人にそういうのであれば、自分の出しているものは何なのかということになるのです。それを出している人はいわなくなります。そこの部分を見てください。ここを研究所と考えずに、世の中の一つの窓口として、少し他のところよりも見えやすくしていると考えるとよいと思います。  そこまでいわない、もっと居心地のよいところにいった人もいますが、本当であれば、伸びたいなら、もっと苦しめられるところにいなくてはいけないのです。ここも皆さんを苦しめられなくなっています。それが大きな問題です。ここよりも苦しめられるところがあれば、そこでやるのもよいと思います。

 苦しめられるから、よいのではありません。その問題を気づかないようにする環境作りがいけないのです。本質を見ることをやり、きちんと作ったもので問うていかないと、本当に口先だけの人間になってしまいます。ことばも態度もそのことを表すようになってきます。そのことは、その結果、周りの人たちが動かないということで、わかるようになってくると思います。このことは全体にいえることで、今の研究所の問題でもあります。

 こういう分野においては、他の人と違ったことをやりたいために、違う自分をしっかりと出していくためにやるべきところでしょう。そこで同じ行動をとってしまうというのは、何のためにトレーニングをしているのかという根本的矛盾です。  他の人とのちょっとした差にこだわり、そこをしっかりと表現していくことです。そういうところを考えてください。次に2部、3部があって、どうなるかわかりませんが、自分に役立つように見てもらえばよいのではないかと思います。  10のうち一つでも自分に生かせるところがあったら、それを10倍にしてとりこんでいくということが、こういうところでの勉強では一番大切なことだと思います。そこを見逃してしまうと、人間は何年経ってもそんなに変わらないものだからです。 【後期ライブ1部コメント 00.12.23】

○音声イメージ

 よい声や正しい発声練習という前に、自分の中に音声イメージがないと、いくら練習していっても、何も意味がないと思います。何が心地よいかということや、どこが気持ち悪いのかということが自分でわからないと、直しようがないのです。  音声のイメージに対して敏感になるということです。純粋な母音に関して、いつも疑問を持ちながら練習している状態です。母音に関していうと、声楽の人の方が、母音が日本語と共通していますから、わかりやすいと思います。その辺は、クラシックのものやポップスのものに限らず、もっと貪欲になって聞いていくことです。

 ただ、クラシックというのは、先生が一つの理想形ですが、ポップスの場合はルイアームストロングなり、マービンゲイなり、それぞれが正しいわけです。その中に、ある種共通した開かれた声というのがあって、それを我々はトレーニングしていこうということです。いろんな音楽を聞きながら、自分でリピートしていかなくてはいけませんが、今日は、基本からやっていきます。 

○よい姿勢の確認 息吐き

 うまくいかない原因は、お腹の力が抜き切れないからです。そうすると、息が全部吐けないので、息がだんだん浅くなってきます。その繰り返しです。息が浅くなってくると、どんどん浅くなっていくのです。もっと深く息を出し切るようなイメージをもって息吐きをやってください。ヴォーカリストに必要な息は、できるだけ長く吐ける方がよいのです。それを長くキープできる状態を作ることが必要です。目標を30秒くらいにして、リズムに合わせて息吐きをします。  話す声はよくても、歌になったとたんに違ってしまう人がいます。語るように歌えることが理想だと思います。話しことばのところでは、そんなにのどに負担がかかっていないと思います。まず話しことばのところで「アエイオウ」をやっていきます。自分の一番出しやすいところで出していってください。そこから徐々にピッチをあげていきます。 

○母音練習 

 母音については、話し声を中心にやって欲しいのですが、必ずしも話し声が正しい状態であるとは限りません。それはおのおの研究してみてください。ヴォイストレーニングというのは、声を柔軟に使って、思い通りに声をコントロールするというのが目的です。  ファルセットの部分を鍛えていくことによって、地声にもよい効果をもたらすことができます。特に発声に行き詰まっている人などは、ファルセットをやることによって、声の柔軟さを得ることができると思います。実際に歌では使わないとしても、やっていってもよいと思います。女性の場合は、歌唱が裏声中心になる人もいますから、その場合は地声を練習していくべきです。逆に男性はファルセットを練習した方がよいということもいえます。これはあくまで一つの考え方なので、絶対ということではありません。

 テノールは、俗にハイトーンとか、ハイシーといわれていますが、一説によると、ファルセットとも呼ばれています。実際に聞いてみると地声に聞こえますが、ファルセットを地声と結びつけた発声法だといわれています。だからハイトーンを得るために、いくら胸声を練習していっても、永遠に到達できないということになります。ただ、例外的に何の努力もしないで、そういう声が出る人もいます。  声楽的にいうと、男性の場合に「レ」より高いところは、ファルセットで練習しておいた方がよいということです。ある程度練習していくと、限界がきます。ただここでいいたいのは、あくまで声の柔軟性を養うためにやるということです。  のどは閉めないでやってください。息の支えで出していくのは、地声と同じです。ファルセットの場合、高い声を広げていくというよりは、最初のうちは低いところをファルセットでやっていく方が、効果があると思います。ファルセットを出すときにも、意識は地声のところにもってください。

○ファルセット練習

ファルセットをやったあとは、ある程度、地声の高いところも出やすくなっていると思います。そのあとにこういうものを聞くと、その凄さがわかると思います。この人が歌っているところは、今練習でやったところの音域とそんなに変わらないのです。ただ、その中でいかに自在に声をコントロールして表現しているかということです。こういうものを聞いていくと、自分の中での音声イメージができてくると思います。そうやって自分と体の中との接点を結びつけていくことです。その努力ができれば、一番早いと思います。その辺のことがわからずに、やみくもにやっていっても、ある程度のところまではいけますが、そこから行き詰まってしまうのです。

 結局、自分にとって何が心地よいのかがわからないから、何が不快なのかもわからないのです。各々の声質は違うと思いますが、優れたヴォーカリストに共通していることは、開かれた声、開かれたのどということです。どう表現するかはその人の自由です。その辺のイメージを突き詰めていくことが大切です。  もう一つは、地声とファルセットの使い方で、自分の中で両方の接点をつけていくということです。発声のヒントということで、単に発声方法を教わるのではなく、こういうことから自分で汲みとっていって欲しいと思います。 【●トレーナー特別2 23 01.3.18】


■Q&A

<質疑応答>

Q.ステージで低音域のヴォリュームをつけるためには、どうすればよいでしょうか。

 現場の問題からいうと、音響の問題になってきます。今のヴォーカルというのは、音響を使わずに考えるということはできないので、まずはそのことをヴォイストレーニングでやる必要があるのかどうかということを考えなくてはいけません。ステージでどうやるのかは、一言では語れません。<詳しくはHPの100QAを>  ほとんど今のヴォイストレーニングをやる人の目的というのは、高い声を出したいとか、大きな声を出したいということなのですが、そのことと実際にヴォーカルの活動をやっていくということは、別のことだということです。例えば、声のことがクリアできても、そのこととプロでやっていくこと、あるいは自分のヒット曲を出したり、自分の世界を作っていくこととは、あまり関係ないのです。世に出ていくには、また別の才覚が必要で、声もそこを抜きには語れません。 

Q.夜中の練習で声がかれやすいのですが、何か対処法はありますか。

 深夜から明け方までの時間というのは、ヴォーカルにとって、一番悪い状況を起こしやすい時間帯です。それに耐えうるだけの声を身につけたいというなら、それ以外で声を使わないということが一番早い対処法です。そこで無理をするような声量とか声域を取らないということが現実的な対処法でしょう。実力以上のことをやっていたら、のどに破綻をきたすのは当たり前です。それを繰り返しているうちにのどが強くなっていく場合もありますが、トレーニングからみると、とても効率の悪いやり方になります。  どういう価値観でやっていくかということが問題ですから、半年後にそうなりたいというのであれば、ヴォイストレーニングの問題にはなりにくい。それに耐えるだけの声を身につけるのは、かなり時間がかかると思った方がよいと思います。私の経験でも数年がかりのことです。 

Q.リズムが先走ってしまうのですが、どうしたら直りますか。

 リズムボックスや、メトロノームに合わせて練習しましょう。リズム感のまえにテンポとグルーブ感を身につけることが大切です。テンポをキープできなくてはリズムもありえないのです。スタンダードな曲をしっかりとやれば、主なテンポは入っています。それを体に入れていくように練習しましょう。それと伴奏をよく聞き、体を合わせておくことです。 

Q.超音波の出る声というのはあるのでしょうか。

 確かにあります。ビートたけしさんなどもすごく出ているそうです。だからといって、その歌を感動しながら聞くかというと、そうでもないでしょう。超音波が出ているかどうかというのは、訓練で得られるかどうかは別にして、考えなくてよいと思います。大体、聞こえませんから、関係がないのです。気が入っている声と、気が入っていない声ということでも、計測不能のことです。

 生まれ持ったものか、訓練で得られるものなのかといったら、絶対音感と同じで、訓練で得るようなものではありません。仮に計って超音波が出ているということで自信が持てるのであればそう思えばよい。出てないということで自信がなくなるのであれば、関係ないと思えばよい。現実的には、人間の思い込みの力の方が強いのです。

 オレは超音波がゼロだからすごいと思ったら、そういうふうになっていく。生まれ持ったものよりは、その人間の思い込みの方が大きいのです。絶対に有名になるんだという人は、有名になっていきます。それも面白いことです。普通の人はそこまで思えませんからそうならない。そういうふうに思えるということがすごいことなのです。 

Q.音感音程リズムが不安定だということをいわれました。  周りの言うことに左右されなくてよいでしょう。そんなに責任を持って言っている人はいないものです。音程やリズムは一番いいやすいからです。ピッチが悪いということも、リズムが悪いということもほとんどの人に当てはまります。ですから、近くにそういう人がいると不幸なことに自分は音程が悪いものと思ってしまいます。大体は慣れてないだけです。<詳しくはHPの100QAを>

Q.ヴォイストレーニングがどういうものかわからないのですが、必要あるのですか。

 ヴォイストレーニングが何もわからなくても歌えていたらよいのです。やる必要がなければ無理にやらなくてよい。トレーニングというのは補強でしかない。自分の目的があって、それに対してギャップを感じ足らないということを知って初めてトレーニングは成り立つものです。  ところが多くの人は、ヴォイストレーニングをやれば、声が出るようになって歌がうまくなると思っている。そのこととそうなるということは違うのです。 

Q.強化したいところを重点的にやるのでしょうか。

 音程やリズムについても、基本的にその音楽が入っているかどうかが大きな問題です。例えば、ボサノヴァの音楽が入っていれば、歌えばボサノヴァになってしまうでしょう。その音楽が入っていなければ、いくら歌ってみてもボサノヴァにはならない。いくら音程やリズムが正しくてもボサノヴァにはならない。  音楽スクールに行くと、正しくはやれるようになるでしょう。問題なのは、音楽的な完成度プラスαにおいて人を引きつけたり、やっていけているのか、あるいはその他の要素でやっていけているのかということです。自分は何を持ってアピールしていくのかということになるのです。強化トレーニングというのも、自分できちんと決めていかないと、やっているうちにわからなくなってしまうものです。

Q.みんなが真似したくなるような歌を歌う人になりたいのですが。

 あまり複雑にしない方がよいでしょう。素敵な歌なら、皆まねしてくれます。そのためには人が絶対に真似したくないような歌い手になりたいという方が早い。  こういうものを問題にあげて、あなたがまねしたい人の歌をまねしていると、そこの器の中でまとまってしまうのです。  本当にすごい歌い手というのは、誰もそんなことを気にしないで聴くものでしょう。聴いている人は、もっと大きなパワーみたいなものを聴くのです。そのときにまねできるピッチ、発音、感情移入、フレーズなどを言われてしまうというのはよくない。本来そんなところで成り立っているのではないのです。最終的には自分がどこに合わせていくかということになると思います。

Q.個性的なヴォーカルになるには。個性をトレーニングで失わないか。

 人とやっていくときにぶつかっていくと大きく、その人のためになることはあると思います。歌を続けるために、他の世界の人とコラボレーションをしたり、今の時代にぶつかっていかなくてはいけないということです。そういう意味では、いろんなものを作っていくときは、ぶつかっていけばよいと思います。ぶつかったときに自分らしさがなくなってしまうというのは、所詮自分の力がまだまだそういうものだということです。  ヴォイストレーニングをやったら、オペラっぽい歌い方になるという人がいます。しかしそもそもそれ以前に自分のイメージがないからでしょう。伝統芸も、それを超えるためにあるのです。

 ここのトレーニングもそれがなくなるように本当は次の人たちがどんどん超えていかなくてはいけないのです。ところがそれを大そうに考えたトレーニングに押しつぶされているような人がいる。愚かなことです。  私は少なくとも他のスクールのようにトレーナーのまねの形のついた人をつくるのをもっとも用心してきました☆。つまり、その人があって、それから、歌の世界がある☆。自分独自の表現イメージをつくることが先行すべきなのです。といっても日本では器用な人ほど他人の技のまねでやっていこうとしています。そして人生で本来の才能を詰まらせてしまっているように思えてならないのです。本人が上達をまねすることと思っていくのです。 

Q.間違えたことを教えられて、時間も努力も無駄になるようなことはしたくないと思っています。

 あまりこれは正解、これは間違いというふうに考えない方がよいと思います。  例えば、サッカー選手になろうという人が、何年やったらサッカー選手になれますかとか、どこが一番正しく教えてくれますか、ということは問わないでしょう。正誤の世界ではないのです。どこに行っても、自分が勘を磨いていかなければできない。その勘が磨かれないのであれば、どうせダメです。仮にどこかの先生と同じようにできたとしても、それはできたというだけで、それ以上のものは何も出てこないと思います。間違いを恐れなくてよい、それも通じて深まればそれは間違いでなくなります。

Q.正しいトレーニングがしたい。

 何が間違いで、何が正しいかという判断も難しいものです。それをわかりやすくするために、高い音が出たら正しいとか、ピッチが合えば正しいということにしているのです。ただ今のJポップスをみればわかるとおり、そういうことで優れている人がトップにいるのではないのです。うまい人はほかにもいくらでもいます。  しかし、世の中の誰も、声も歌も待っていないということです。皆が待っているのは、その人の才能やものを作る力、あるいはその人にしかない魅力です。それが音で表せる人をミュージシャンと呼び、声の動きで表せるのが役者やヴォーカリストです。それに足らないから声を身につけようとか、音楽的にだらしないところを勉強しようというのであればよいと思います。

 特にヴォーカルについてよくないのは、日本のヴォイストレーニングが、発音、滑舌、ピッチの方に片寄ってしまっていることです。私のレッスンでは、滑舌トレーニングや発音トレーニングというのは、優先順位が低いです。そのことが歌の中で直ったからといっても、それを聞いて人が感動することとは関係ないからです。  歌というのは、声が朗々と出て、うまく歌えるというだけでは感動できないのです。なのにそれだけをめざすのは方向として違う。本来自分はそれと違うものを出していかなくてはいけないのです。正しく間違えずに歌うということと、歌で説得して相手の心を動かさなくてはいけないということは違うのです。

Q.通信講座について。

 そんなに薦めてはいないのですが、本よりもツーウェイなので、要望が多く再開しました。通信も材料の一つということで置いています。ですから、ここのレッスンも通信講座も、一つの材料として位置付けてもらった方がよいと思います。世の中に絶対正しいというものはない。だから、こうして研究を続けているのです。

Q.他のスクールでは上達しないのだが。

 そんなことはないと思いますが、日本のレッスンというのは、リピートだけ、同じことを繰り返しているだけ、それもヴォイストレーニングをやる人には、やっていれば何とかなると思っていることが多いようです。あなた自身の問題です。今の自分の歌を変えたいと思ったら、奇蹟的なことが起きない限り変わらないということは、どこかで知っておいた方がよい。長くやった人ほどそうなりにくい。誰でも歌が好きです。でもそのこととそれで身を立てていくということは全く違うということです。

Q.英語の歌を自分のものとして歌えないのですが☆。

 これも根本的なことでいうと、現地で英語で生活しない限りは無理です。例えば、この人は千葉出身、この人は埼玉かなと、東京で育てばわかるでしょう。そういうニュアンス的なことが英語の中でも感じられないと、本来は無理なのです。  でも歌というのが英語の発音とか、歌の歌詞が理解できないと歌えないのかというと、別問題です。また、英語は世界の共通語ということでかなりいい加減な発音も許されています。どちらにしろ、聴いている方はそんなものはあまり聴いていないと思います。あなたの音楽性が豊かなら、伝わるでしょう。ただ日本人はどうも、歌詞を聞きたがるので、それを考えるとどうかということもあります。

Q.リタイアしてしまう人と辛抱していく人との違いは何ですか☆。

 その人に必要性があるかどうかということ、やりたいというよりやらざるをえない、やらされてしまうという使命感義務感が万能かもしれません。  いろんなものとの相性の問題も大きいと思います。他のスクールではダメだったからここに来たという人もいます。そういう人はそのままではここに来ても伸びない。トレーナーは、それぞれが違うことをいいます。自分のやりたいことや目的がない限り、ここは他のスクールよりも厳しいと思います。 

Q.仕事で使えるような声を身につけたいと思っているのですが☆。 

 仕事をとることと、声の力とか歌のうまさというのは、必ずしも一致しない。仕事が来る人というのは、そういうことよりも、いわゆる対応力や応用力がある。たとえば声がよくともいつもキャンセルや滞納ばかりしているという人は、信用できないと仕事が来なくなってしまいます。  トレーナーに私の仕事を任せているのは、最低限必要なことを生徒に与えられるという信用があるからですが、もう一つは、こちらの意図をくんで、やってくれているからです。その信用がなければ仕事はなくなるでしょう。  世の中での私への信用も声や歌でなく、その応用力、つまり感性や発想力にあるのです。※  本当のことでいえば、他の人にできない何ができるかという部分が必要です。それができた上で、時代のポピュラリティにどう接点がつけられるかということになるのです。 

 私も本をたくさん出しています。そんなことに感心してくれる人もいますが、研究所の会報は毎月本一、二冊分くらいの量で十年以上を出しています。その会報に載せているのは、私のレッスンの中で言葉にできるものだけです。よく20冊も書けますねといわれますが、少なくとも私は活字として2000冊分以上になっているのです。レッスンでは活字にならない分がその10倍いや100倍あります。その学習量や経験が元で活動が成立するのです。何事も他の世の中でやるには、人には見えない大きなバックグラウンドが必要です。本は、会報よりも、世の中一般の人に接点がついている、そこは編集者が決めることです。本は、初めて見た人でもわかるとか、納得できるということしか出せないのです。会報は、いまだに私の生徒が読んでもわからないくらいです。こういう世界はわからないままやって、それで通用すればよい世界なのです。 

 結局、わかったからよいとか、わからないからダメだというものではないということです。この世界では、誰もが同じペースで、同じように学べて、同じように習得できるものというのは、大して価値がないのです。悪い言い方では、それはやらない人の多いなかでやったというだけです。価値があるとすれば、それをやっていない人に対してやったというだけの価値です。  発展途上国にインスタントカメラを持っていったら、その日から私はスターになれると思います。でもそれは私の実力とは関係ないのです。カメラをつくった人のおかげです。しかし、日本ではよくもわるくも他の国のものをもってくるだけで、やっていける土壌がある。だから混乱するのでしょう。※  よくプロになれないどうしたらよいか、という人がいます。プロというのは、それをやっている人、つまりプロの世界において認められなくてはいけないのです。プロとしてやれるということは、そういう人たちを相手にしていくことだからです。 

Q.他のスクールと違う点はどこですか☆。 

 他のスクールといってもいろいろあるので、一概にはいえません。ただ、私は習い事でなく、力をつけてやれるようになる目的に対してレッスンをおいています。  こういう分野というのは、創造力が99%なのです。自分で作品を創造していくためのレッスンをしなくてはいけない。学校というのは、相変わらず知識や方法を教えているように思えます。  私は、最初から教えないといっています。落語の世界で弟子をたくさん世に出している談志さんは、今の時代には師匠につく稽古なんて必要ないといっています。CDも出ているし、ビデオやDVDで優れた人の作品は見られる。そういうものから一人でも学べるのです。 

 それなのにヴォーカルがヴォイストレーニングをやらなくてはいけないというのはおかしな話です。  いまだにスクールはそういうレベルです。一人でやろうとしない生徒と自分の声や歌で食べられないから、教えて食いつないでいるトレーナーで成り立っているように思えます。でも生徒の方も、来ては辞め、来ては辞めます。トレーナーが勉強しなくても、相手は素人ですから簡単に応じられる。それゆえ、研究や勉強の時間がとれず、トレーナーも成長しない。  ここのように、プロとしてすでに実績のある10年選手が習いにきているところはありません。そこに入団したい生徒とはレベルが違う。10年もいるような生徒がいるようなそういう厳しい環境がないのです。自分にはむかっては反旗を立てやっていけるような生徒を出したい。  つまらないことをやっていたら、プロには見放されてしまいます。いつも真剣勝負なのです。

創造というのは教えられません。やることというのは、こちらも創造し続けていくことしかないのです。こうやって創造していくんだと、こうやって音の世界を読み込むんだということを、レッスンという場で、あるいはあらゆる機会に見せ続けるしかないのです。  歌い手も役者も、人を退屈させないための職業です。レッスンやトレーニングの状況で退屈してしまうと、悪い方向にしか出ないのです。要は、こういうところには、勘が鋭くなるために通わなくてはいけないのです。逆に鈍くなっていくのであれば、やらないほうがずっとよい。そこに甘えたコミュニケーション関係ができてきます。  役者でもヴォーカルでも確実にいえることは、学校に行ってそうなったのではない。その人の素質なり考え方なり、その人のスタンスがあって、そこに必要な声とか歌の技術が宿っていくのです。 

 ですから、声とか歌をやれば何とかなるものではない。私はそこに乗っているものとか、それが終わったあとに聞こえてくるものを聴いているのです。それをその人が持っていなければ、どうしようもないのです。ですから、それを自分で勉強しなくてはいけないのです。  私があまり人を採らなくなったのは、ここはここでしかできないことしかやりたくなくなってきたからです。スクールと違うのは、人を入れようとしていない人数が減ろうと、どうでもよい。  マラソンやテニスでも一人の優秀な選手には、コーチが8年くらいかかりっきりでしょう。  でもここは恵まれていました。ここができた当初は年間で10人くらいトレーナーにできるなと思うくらい、人材が出ていた。人が育たなければやる意味がない。となると少数でしか成立しない。退屈する場になってしまったら、辞めること。そういう環境を守っていくというのもなかなか難しいことです。 

Q.ここに来て、真剣に声とか歌のことをやっている人たちから影響を受けたいと思っています。 

 あまり人から刺激を与えてもらおうと思わない方がよい。あなたがやっていくのであれば自分が与えにこなくてはいけないのです。パワーをもらいに来たいと思っていたら、一生そうやってパワーをもらわなくてはいけなくなります。それだけのパワーはもうあなたにあるのです。そのパワーがないと、いつまでも、人前には立てません。  今の若者を見ていても、本当につるんでいるだけで、キャンパスライフを送っている。そうやって楽しく過ごすのであれば、他のところを紹介してあげた方がよい。昔はみんなピリピリしていました。自分の世界を打ちたてていくとはそういうものでしょう。 

 場というのは、何かが生まれる可能性のある場です。その中でも精一杯やっている仲間から学べることはたくさんあります。それは誰からもたくさんあります。  同じ世代を生きて、みんなが努力して変わっていく過程がわかると、それを見てそれぞれが変わっていけるのです。ただ、そういう場が、今の日本からはなくなりました。  自分の考えとか、感性を持っているつもりなのはよいのですが、少しやらせてもらったくらいでうぬぼれるのは、困りものです。そして、本人も気づかぬに自分の中だけで閉じこもってしまう。もったいないことです。  私が、伝えているのは、学び方のことです。どんなに発音や歌をていねいに習ったとしても、内容とそれを伝えるという強い使命感を持っている人にはかなわないものです。 

Q.アーティストは日常どういう練習をしているのでしょうか。 

 練習ではなくて、どういう生活を送っているかということです。それがそれぞれで違うところなのですから、答えようありません。私自身も紙面では答えようない毎日を送っています。  声を出す前にも、瞑想している人もいれば、ヨガをやっている人もいるでしょう。歌詞をじっくりと読んでいる人もいるでしょう。それを知るのもよいのですが、それをどう自分に落としていくかということがメインです。そのまえに出口をどう自分でイマジネーションできるかということが、大きな問題です。 【03.6月講演会Q&A 03.6.26】 

Q.自分本来がもっている素材を知るためにはどうすればよいですか。 

 声楽とかオペラというのは、あらかじめ厳しい条件が決められていますから、そこに個人の中のクセを生かしていくと、その条件に満たなくなってしまうこともあります。ところがポップスの場合は、その人とその人を世に出したいというプロデューサーの価値観になってきます。それが日本の市場をつくっていきます。しかしプロデューサーが6人いたら、6人が全員一致することは難しいでしょう。やっていけるか、いけないかという可能性を見るのです。  声を見るときに、その荒削りさとかクセみたいなものを、表現方法といってもよいのは、そこに可能性が感じられる場合に限られます。それが聴く人の心地よさとか、その人そのもののより大きな可能性を妨げていると思ったときは、それは何のよさにも、自分を生かせる素材にもならないということです。 

 いくら自分のイメージだけで、これが自分の特徴だ、ここは自分の一番よいところだと思っていても、それを判断するのは自分ではありません。聴いている人です。そこが難しいのです。  自分の中で語れて、自分ではよくて、気持ちいいというのであれば、学生やサラリーマンののりのりのカラオケなどを見てみればよい。まわりをのりのりにするのは、歌や声ではないのです。  そういう歌を聴いても、それはあなたの世界で、私には関係ないと思わせるだけでしょう。当人がどんなに心をこめて一所懸命歌っていたとしても、成り立たないのです。そういう意味で、クセとか一人よがりということが問題になる。人様に何かをサービスしようと思ったら、繊細に緻密に作っていく必要があるのです。 

Q.スクールでは、いつもほめられるしデモテープをつくってくれるのだが、デビューできないか? 

 例えば、どこかの音楽スクールでやったときは、「すごくうまいね」とか、「黒人みたいね」といわれたとする。でもそういう学校が1000はあるし、100倍の人数がいるから、そういう人はたくさんいる。すると何の価値にもならないのです。CDプロデュースといって曲をつくってくれたりデモテープをつくってくれるのもあなたがお金を出してやるのなら、他の人にも同じでサービスにすぎません。つまり、そうでなくならなくては、何の差にもならないのです。 

 ここでは徹底して、歌は教えないといっています。それはヴォーカルの世界に限っていうと先生を目標においたらダメだからです。その下にくみこまれる。  トレーナーは、自分の足らないものを補強するための最低限の材料です。自分がそれ以上のことをやりたければ、ここから最低限のものは取りなさいということでやっているのです。先生が先生になってしまうと、そこから半分も取れません。そうやって伸びた人というのは現実的にはいない。問題なのは、それをいつまでも当人が判断できていないということです。特に自分はすごいと思っている、こういう分野では、学べる人は少ないものです。 

Q.自分の悪い部分を生かすことはできますか。 

 何をもって悪いとか悪い部分というのかによります。自分のよいところとか悪いところを生かすというのも、その人の世界観ができて価値判断があって始めていえることです。その基準は何でしょうか。  もちろん、アーティストというのは、自分の悪い部分を生かしていける人ともいえるのです。これは日本に関わらず、外国のアーティストも同じです。その軸をどこで引くのかということが、その人の価値観なり、判断基準になってくると思います。 

Q.日頃、大きな声を出して歌えない場合、声を出さずに心の中で歌を歌うことは、歌が上手になることと関係もないことでしょうか。

 これはおかしな質問です。それが全てでしょう。声にするということは、それを声に置き換えるだけです。優れたヴォーカリストほど、99%はイメージの中で作っています。残りは、歌いながら調整するとしても、声に出して歌わないと練習にならないということはないのです。  ただ、違うのは、勉強していくプロセスにおいては、声に出して確認してみないとわからないこともたくさんあるということです。

Q.のどに負担をかけないシャウトの出し方について。

 のどを強くしていくというのが前提です。シャウトして声を出すということ自体、のどに負担をかける出し方です。スポーツでいうと、ラフプレーです。うまく決まらなければブーイング、危ないし、やればよいというものではありません。発声原理からみてもトレーニングでは本当はやらない方がよいのです。歌の一部で瞬間的に使って、すぐに切り上げていく。外国人のシャウトはとても鋭い感覚の上に成り立っています。  トレーニングを積んでいくにつれて、のどはどんどん強くなっていくのは確かです。  そうなってからでもよいのではないでしょうか。あまりお勧めできません。 

Q.トレーナーの条件について。 

 自分のことをわかるのも難しいですが、相手のことをわかるというのはもっと難しいことです。自分ができることを相手も同じようにできると思って、それを前提にやってはいけません。私はこうやれたからとすべての人に同じやり方では通用しません。  特に高いレベルでやっている人やプロの人と接していると、そういう人それぞれが声をどういうふうに獲得していったのかがわかり、私は研究所と比べてさらに興味深く研究しています。  何人もの人を最低でも7、8年以上見た経験があるのかどうかということも大切に思います。 

 音楽スクールなどで、いつも初心者だけ、つまり、1、2年以内にやめる人しか教えていないトレーナーというのは、本当の結果を出しているとは、とてもいえないでしょう。  初心者というのは何もわかりませんから、本を読んでおけば、歌ってきた人なら何とか教えられると思いがちです。でもそれは形として教えているだけであって、本当の意味では成り立っていないのです。むしろ初心者ほど難しいのです。  一人で基準をきちんとつけていくということは大変なことです。私は8人の審査員を呼んで、毎年、100人近くを採点しそれぞれの点のつけ方なども分析していました。 

 私の中にも絶対的な基準は持っているつもりなのですが、それとは違う基準も自分に入れていかないといけない。  ただ、そもそもよくわからないものがこういう世界です。わからないことをわかったふりしてやっているのが一番害になるのです。  あなたの可能性というのは、誰もよくわからない。だから教えることもできないのです。ただ、私の話や音楽の中から、あなたに吸収できるものがあれば、吸収していって欲しいということです。

Q.歌手になるためには作詞作曲ができた方がよいですか。

 できた方がよい。というよりも、歌を歌うということは、またはそこで詞を作るということと、曲を動かすことと思っています。つまり、作詞作曲するのと同じ能力が必要に思っています。  みんな難しく考えすぎているのですが、作詞作曲というのは、誰にでもできるのです。もちろんヒットする曲を作ろうとすると難しいのですが。  例えば、この1時間で詞を6つ作ってくださいといったら、全員、書けるはずです。詞を作ることも、曲を作ることも、それをやり続けることが大切です。続けてやっていくうちに自分がどのレベルにあるのか、また他の人の書いた曲のレベルもわかってきます。歌手になるために作詞作曲ができる必要はありません。でも基本を勉強をしていくのであれば、やった方がよいと思います。

Q.息が続かないのですが、声量を増やすためには腹筋を鍛えた方がよいですか。

 教科書的な答え方をするのであれば、確かに声量に関しては腹筋がある方が有利かもしれません。でも本当のことでいうと、それを鍛えたからといって急に変わるものではないのです。  声量というのは、声を大きく出せることではありません。声にヴォリューム感があるとか、パワーがあるというふうに相手が聞いてしまうようにできる力なのです。  例えば、車に乗ったら150キロは速いと感じても、新幹線に乗っているときにはそんなに感じないでしょう。そのくらい人間の感覚というのは曖昧なものです。ですから、腹筋や呼吸の問題ではない場合も多いのです。

Q.外国人やまわりの人ほど声がでない。欧米人が有利なのか。

 アジアの人も、小さい頃からたくさんしゃべっています。私たち日本人とは一日にしゃべる量と、話す声の大きさが違います。これも。知らないうちにヴォイストレーニングをやっているのと同じです。日本人はそんなに人前で大きな声は出さないし、一日にしゃべる量も多くありません。今の歌い手は、普段話すよりも小さな声で歌っています。その問題は文化的な問題にもなるのです。  日本の歌い手で高い声や大きな声が楽に出る人は、別に苦労して出しているわけではなく、やったら簡単にできた人なので、あまり参考にならないのです。

Q.強い存在感を出すにはどういうことが必要ですか。

 多くの場合は、もともとそうである人と、あとから大きく化ける人がいます。こういうトレーニングでそうなっていく人もいます。何か人とは違ったレベルで相当やっていかないと、なかなかそうはならないものです。それが歌や音楽の世界でもできればよいのですが、スポーツと違って、勝敗がはっきりと分かれていない分、一人よがりになりやすい分野なのです。  ただ、歌というのは日常生活の影響も大きいので、自分の人生の中でそのことと同時にやることはできます。

Q.ヴォイストレーニングとか発声というのは何のためにやるのですか。

 私は自分の世界がある人が、歌で表現したいときに、楽器としての体がまだ完成していないから、その楽器づくりをやるということが一つです。  それから音楽の演奏家ということでヴォーカルと捉えると、ミュージシャンとしての要素、つまり音声演奏技術が必要になってきます。  それはことばと違い、入れていくしかない。さらに、ある意味では今の自分のレベルを超えなくてはいけない。そのために一流のアーティスト、優れた音楽作品を自分の中に徹底して入れるのです。  ヴォーカリストや役者になれた人というのは、必ずその前の時代の一流のアーティストから学び、それを自分の中に入れていったということです。そして、彼らもそこから自分のものを創り出したのです。

Q.ヴォイストレーニングで何が大切か。

 今の時代において一番大切なことは、何が自分に足らないかということを知ることです。そして、それが一体自分にとって必要なのかどうかということを、一度疑ってみなくてはいけません。もしかしたら自分には、そんなに声のことが必要ではないということもあり得るのです。  才能を磨くということはそういうことです。誰もが同じやり方で、同じようなステップを踏んで、知識を習得していくように芸ごとはいきません。とにかく大化けしなくてはどうしようもない。その機会としてあるのがレッスンです。  だから、その瞬間をどう創り出すかということが問題です。レッスンの全てはそのためにあります。 

 そのことが当たり前に出せるようになったときには、普通の人以上のことはできているとなるのです。そうでないものを積み重ねていっているつもりで続けていってもそれではあまり大きな意味がないのです。一番の問題は、受け手にポジティブさがないということです。歌がうまくなりたいとか、声を身につけたいという根本に飢えがないと困ります。しかしそれは今の日本の歌い手に、声も歌のうまさも期待されていないことも大きいと思います。世の中の歌い手自体のテンションが落ちているとは思わないのですが、学校に行ったら何とかなると思うのはよくない。今、才能のある人は、もう自分で活動をしているでしょう。学校に通おうとしている人には積極性が足りないのでないかと疑い、そうでないと確認したら、その上で選ぶことです。

Q.人数は多いのか。

 人数が多いからといってよくなるとは限りません。いろんな人を数多く受け入れたために、ここも一時、専門学校化してしまいました。  去年、B'Zのプロデューサの方にここに来て話をしてもらいました。彼らが探しているのは、デビューさせたい人ではなく、デビュー後にやっていける人、あるいはそういう才能があるからです。特にヴォーカルの場合は、業界と学校がバラバラに動いているのが実際の現状ですから、そこから出ていくということがよけいに難しいのです。よく考えてから入ってくださいということです。きっとここが50人や30人になったら、いろいろといわれるのでしょうが、量でなく質です。

 私は当初から全ての人が育つとは考えていないのです。どこの養成所でもそのチャンスを与え、それに見合う努力をし、かつ才能素質のあった一握りの人が世に出ていけるのです。それはあたりまえのことです。  しかし音楽スクールは全くそうなっていません。  だからここは厳しいといわれるのでしょう。ただ、私のところの本来の厳しさは、自分で自由にキャリアとして生かしていくもので何一つ押しつけていません。自ら考え行動する厳しさが問われると思っています。いろんなところを回ってここしかないと思う人にだけ来て欲しいと思っています。そうしないと、ここでできることができなくなるからです。

 ただ、今の時代は、声一つ歌一つだけで伝えていくような歌い手が必要とされなくなっています。声のことをしっかりやりたいといっても、どこまでその人に必要性があるのかということは難しいのです。また最近は、自分の目的をきちんと定めていない人がどこでも入ってから迷っている人も多いようです。

Q.今の.退廃的なロックシーンについて不満があるので、もっと声の技術をつけて、自分の想いを伝えられるようにしたいと思っています。  案外、年配の人がそういうことをいうのですが、私はその辺は適当です。それはこういう世界はやれることが前提だからです。歌も声も、相手がいなくては成り立たないものです。いくら自分の中で気持ちよく歌えたとしても、趣味でやるならばともかく、そういう歌は聴いている人の心を動かすような歌とは少し違ってくるのです。私も現場を見て、力がない人ほど大変なことを知っています。そういう人をどう力があるように見せるかということに精力を奪われることもあります。まず、最低限人前に立つための条件そうすることです。特にポップスのヴォーカルに関しては、全てが音楽性ということで評価されているわけではありません。パフォーマンスやルックス、スタイル面でやっている人も多いのです。

Q.トレーナーについてレッスンで間違うことはないのか。

 私は主義、主張は他人に押しつけません。自分に生かせるという人だけ読んだり使えばよい。ところが日本人というのは、自分の生かせなかった無能を棚にあげて、他の人まで能力がないように批判します。もし批判したいなら自分の名前で自分の作品として、出せばよいのです。 

 「退廃的なロックシーン」に対し、あなたの目的が何かということがあって始めて、ヴォイストレーニングとか、発声とか技術が成り立つのです。ですから、それが明確にイメージできて、目的としてきちんと落とさなければ、言うだけでは仕方ない。努力していく気持ちがあっても、あなたが作っていく世界というものを、イメージとして明らかにしていないと、いくら声や技術があっても、それで何かができていくわけではないのです。どこかに絶対的に正しい技術があって、それを手に入れさえすれば何でもできると考えるのは危険です。  10代くらいであれば、声楽を学ぶことによって、声のことを勉強することもできます。そういう方向もあってよいと思います。

Q.人の心を打つ技術とは?

 ヴォーカルの技術というのは、何をもって技術というのかということが定義しにくいのです。ただ、ポップスでやるべきことというのは、ギターであれば、そこに、純粋な音楽的進行に対して反することをやることです。そうすることによって、人の心をつかむ。  ヴォーカルというのは、ことば自体あるいは、役割そのものがそういう存在です。それはめちゃくちゃという意味ではありません。音楽のラインをそのとおりに撫でて発声の技術で持っていくようなヴォーカルというのは、何の役にも立っていないということなのです。ただ、それをヴォイストレーニングや発声法で目指されていることが多いのも事実です。

 今の時代においては、声そのもののことにどこまでこだわる必要があるのかということも、一度考えてみなくてはいけない。  自分が歌えないのは、あるいはオーディションに受かったり、デビューできないのは、声がきちんと出ないから、発声が悪いから、高いところが出ないからだと思っている人がとても多いのです。  私からみると、そういう問題ではない。要は、トータルとして人を巻き込んだり、人を引きつける魅力がないから、やれないのです。  ただ日本の場合は、いろんな勝負の仕方があるからさらに複雑です。  20歳を過ぎて初めてオーディションで歌ってみたらそのままやれてしまったという人もいます。でもそこでやれていく人は、そういう才能があるということです。そのときに自分は絶対的に何が必要なのかという問題になってくると思います。

Q.どのくらいレッスンをすれば、自分一人で高められるようになるでしょうか☆。

 何を高めたいのかというその人のレベルと、トレーナーをつける意味との問題になると思います。  こういう世界は、他の勉強と違って、吸収したら何かが出てくるのではない、自分が表現して否応無しに吸収していくことになります。自分でそういう流れを作っていくことが大切です。  やれば声も身につくし、歌もある程度うまくなると思うのです。でも声が身についたり、歌がうまくなったということは、どこで評価されるのかというと、その人がそれでやれていっているかどうかということです。  どうせやるのであれば、その上で声も技術もしっかりとあった方がよいとは思います。  今は声とか歌のことよりも、やれる人にするということが前提になってきました。やれる人というのは、きちんとした思想とか考え方を持っている。逆にいえば、それがあるから音楽や歌唱でもやっていけるということです。

 レッスンの量とか期間というのはそんなに問題ではなく、方向とやることを覚えたら、トレーニングは一人でやれます。その人の目的が高ければ、いつまでもいろんな材料を使い、いろんなところに勉強しにいくでしょう。トレーナーも材料にしか過ぎないのです。独学でやるとダメになるとはいいませんが、一人でやっていくと、第三者的な目が持ちにくくはなると思います。  恵まれた環境にいる人は、周りにトレーナーと同じ助言者がいたりするので、何を持って一人でできるのかということにもなります。私のところにくるプロは一人でやれるからこそ、そうでない勉強をしにくるのです。トレーナーがどういう才能や材料をもっているのかと、あなたがどこまでそれを使えるかということでしょう。1、2年で卒業してしまえるようなトレーニングは処詮、習い事にすぎないのです。 

Q.長い間声を使わないでいると声質がよくなると思いきや、かえって声が弱くなっている気がするのですが。

 何でもそうですが、あるレベルを超えなければ体というのはすぐに戻ります。例えば、二年くらいのトレーニングというのは、次の二年何もやらなければ元に戻ります。よくリズムや音程トレーニングをやって、テキストが進んでおわったつもりになっても3ヵ月もやらなくなれば、もう同じレベルができなくなるものです。それは身についていないということです。定着するには、2年というか、1000日のくり返しは、最低必要でしょう。  でも日本の勉強は一夜漬け、短期記憶の反復想起くらいしかやってないので、なかなか、身につけるという意味がわかりにくいようです。こういう声とか感覚的なものは、身についていないと使えないのです。

Q.歌っていない期間が開いてしまう場合は、歌のレベルは落ちないものですか。

 10年20年ずっとやっている人が、1年2年休むということは別として考えます。病気などで休んでもそれがよい休養になって、精神的に充実する場合もあります。それがよい方向に出ていれば問題はないと思います。歌というのは主観的なものなので、その判断が難しいのです。  例えば、日本のヴォーカルの場合、若い頃のようなクリアな声やパワフルな声というのは、大体30歳後半になると出せなくなるのですが、ステージの度胸やもたせる技術がついてくるので、歌のごまかし方はうまくなるのです。  ただ一般的にいえば、歌わない期間があると勘が鈍ってきたり、レベルが落ちてくるというのが普通です。できたりできなかったりするというのは、それは使えるほどのものではなかったということです。

Q.正しくシャウトすると、声はかれないのですか。

 これは一般論ではいえない問題です。誰かがやっていることと同じようなことを誰かがやってダメなこともあれば、よいこともあります。それぞれ個人の問題になってきます。何をもって正しいとするかは難しいが、シャウトそのものでなく、シャウトを加えたステージ活動がやれている人にとっては、それは正しかったというしかないことでしょう。 【03.7月講演会Q&A2 03.7.27】 


特集:福島英対談集vol.1

[邦楽家N師匠と]

福島(F):表現読み、朗読や読み方から入っている先生は、私たちのやっていることに近いです。反合唱団的な考え方が多い。日本の場合は、ミュージカルや声楽など西洋畑式の考えの人と、劇団などことばのリアリティから入っている人と相入れないような状況です。私の研究所のやっていることはポップス中心ですが、私は声楽もやっています。両方のよいところをとれればいい。今、混在してやっているのが、劇団四季だと思います。

Nさんが、ここに来たのは師匠になるときに、若い人の声をどのように判断するのかというのを、若い人とまみえて練習してみるためでした。邦楽はべったり師匠について学びます。私のところで、若い人の声を聞くと、いろいろな判断ができます。演歌の方は多かったのですが、純粋に邦楽という人はほとんどいない。

今のレッスン生では小唄やラテン、エスニックなものをやっている人が多くなってきました。声の力というのがJ−POPなんかよりも、周辺の音楽のほうが問われますね。カンツォーネやシャンソン、ラテンのものをやる人は耳が鋭い。そういう人が、日本には多くないのでしょうが、こういうところに対しては接点をとって来られてきます。アカペラなどが高校生にはきっと合うのでしょう。大学でアカペラのサークルをやっている人も私のところには来ます。そうすると声楽をやっておいた方がいいと薦めています。声とリズムのことはまたちょっと違いますが。

教育指導要項のことをもよく知っていらして、やられていることと書いてあることは違いますと。表面だけであんなことをされてしまうとよくない。先生になった人は一番、邦楽に遠いところにいるからです。普通の人のほうが、歌舞伎や能などに行っている。それを回避してきた人が音楽の先生なのです。ヴォイストレーニングのことも、学校の先生に対してアドバイスするというかたちで勧めていきましょう。

N:中学校の先生がせっかく三味線を買った。しかし、自分がやらなくなるとおわってしまう。できるかぎりボランティアで関わらせていただくことになりました。それで声の出し方をやろうとしても実際問題、邦楽のほうではなかなかメソッドがなくて、我々の組んでいるほうも、「私の言うとおりにやりなさい」というメソッドですから。

学校の方にどういう関わりをしているかというと、まず三味線を生かすということです。それなりの基礎練習書をつくって、わらべ唄から入ります。「さくらさくら」からはじめて「お江戸日本橋」「黒田節」「荒城の月」、そこらへんをやる。はっきりいって唄の取り組みというのはできないのです。そのレベルまでできない。

それから僕は、長崎の出身で、町の教育長の先生からお話をいただいて、楽器というところではお手伝いができても、琴、端曲、日本の歌曲ということになると、何も取り組みができていない。何が日本の声の出し方といわれても、どういうことを具体的にやっていけばいいのかというのが、できない。

僕の個人的な見解ですが、一番わかりやすいのは楽器の音色です。というのは、民族が培ってきたそれなりの音色、三味線にしても中国の三弦子が沖縄の三線になって、それが1500年代に日本に入ってきて、琵琶の影響を受けて撥で弾くという奏法がうまれた。また琵琶の影響か、ギターなんかよりもネックにさわるという奏法があります。

小島先生に「さわり」はいつ頃できたのですかと聞いてみたら、江戸時代中期、三味線が入ってきてけっこう経ってからなのです。三味線の音色自体が入ってきたときとは全然違う奏法。ただ、小椋桂さんの仕事で、一昨年去年とやらせていただいたとき、琵琶の先生が一緒だった。琵琶の奏法は本当に三味線と似かよっています。撥の持ち方なんかは、琵琶の持ち方の変則なのです。日本に最初に三味線を扱ったのは、やっぱり琵琶法師だと考えるのです。

琵琶の山下晴楓(せいふう)さんに聞くと、琵琶弾きが新しい楽器が入ってきたということで、扱うことになったのだけれども、結局、撥を捨て切れなかったのではないかと。もともとはピッキングの楽器です。三弦というものはシルクロードに点在していますが、もともとはつまびく楽器、ここに来てはじめて撥で弾く奏法が生まれた。

僕が琵琶弾きの末えいとして思うのは、新しい楽器が出てきて新しい音が出てきたと思うけれど、たぶん琵琶弾きは撥を捨てきれなかったと思うと琵琶の先生はおっしゃる。ではなぜ、撥で弾いた後にさわりというものが用いられたかというと、さわりのある楽器は琵琶と三味線、インドのシタール系、わざとネックにさわらせて雑音をつける。だから純粋なクリアな音を好まない民族性が、日本の中にあるのではないかと思います。

F:尺八もそうですね。さわりというのが楽器によって違うことばになっている。エレキでもウィーンというサウンドがあるし、バンドネオンでも1オクターブくらい、そういう揺らしがありますね。

N:そういうものの楽器の音色のなかに、国民的な音の好みが出てきていると思うのです。そういうときに歌曲というものをどう捉えていくかということを考えてみると、一番わかりやすいのは、楽器と一緒にユニゾンで歌うという方法がわかりやすいのではないかと考えています。

でも現時点でお弟子さんたちは昔ながらの方法で同じようにやりなさいというふうなことでしかやれない。扱っているものがあまりにも微妙で、どこに力を入れてどうのこうのというのは口伝の中には残っていますが、それでも体や楽器が違うので、やっていくという方法で伝承されてきたものです。

では、学校教育の中でどういうふうに伝承されていったらよいのかというテーマだとしたら、まずは「さくらさくら」を三味線で弾いてみて、その三味線と一緒に歌う。楽器に声をなじませていく方法でやるのが一番いいのかなと思っています。

それから、僕は学校の先生を3人ほど教えていますが、その先生方のなかにはオペラを専門にやっている方もいて、その方は長唄の発声に非常に苦労をします。ものの扱いが違う。

響きが違うとか、理屈ではいろいろと言うのですが、とにかくその先生は、プッチーニコンテストで優勝するような先生なのです。その先生に教えようとすると、本当にいいの?と逆に思ってしまう。その先生の今持っている発声を壊すことになりかねない。ひとつの出し方や響かせ方のパターンを持っていらっしゃるわけですから、それを壊すことになりかねない。そこらへんで使い分けをできるとよいのですが。僕自身の反省点でも、わかった部分とわかっていない部分があります。

邦楽の発声はこれだと、ひとくちに邦楽と一括りにしてよいものかどうか、清元と常盤津の発声は違うし、筝曲の方の発声も、能の発声も違う。これが邦楽の発声というのは、あまりにも大雑把すぎるのではないかと思っています。

これは今年の4月にうちの弟子の発表会で、中学生に演奏をさせたのです。この子がずっと三味線でやっていたのです。本来は先生に歌わせて、この先生は専門がインフォニウムなのです。だから声楽的な訓練はほとんど受けていないだけに、わりと楽なのです。ところがこの子が出演直前に腕を折り、急遽、歌に転向したのです。先生と一緒にユニゾンで歌うという、特訓につぐ特訓で、やらせていただきました。

しゃべっている声で歌えというのが基本です。しゃべっているところで歌う。ところがイタリア語の歌曲とドイツ歌曲の響かせどころが違って、洋楽の先生たちが苦労しているらしい。日本の歌曲の声の持っていくところも迷う。日本語自体がこの響きでなければいけないというのがない。声の響きでいうと、どのような響きでも高低アクセントに通じていくというふうな特質がありますでしょう。

ある芸術大学の先生とおしゃべりする。それでいわゆるオペラの声で「さあ、みなさん」と喋る。それはイタリア語のしゃべくりのポイント、ことばのポイントというのがかなり高いところにあるということと、音を集めるところが日本人とは違う。結局は、言語の違いなのです。

言語の違いで表現していって、それを習得するために、その先生は普段から自分の発声をそのようにやる訓練をしていらっしゃるのでしょう。ところが日本歌曲の場合は、しゃべりことばが音楽の基本ですから、そこで歌っていくのが基本的な考え方だと、僕は思っているのです。にもかかわらず、たとえば小津安二郎の映画と、今のテレビの俳優さんのことばのしゃべっているポイントは、明らかに変わってきていると思います。それだけ日本語はテレビ世代で変質してきていると思うのです。

じゃあ、しゃべるところで語りなさいということを考えたときに、昔の人、ラジオやテレビが普及する前の日本人がやっていたしゃべるポイントと、今のしゃべるポイントが違う。そこで、もう一回しゃべるポイントで邦楽を歌いなさいといったら、しゃべるポイントをもう一段階戻さないと、しゃべるポイントで歌いなさいとはいえない現状だと思うのです。そういう様々な要素があると思います。

私自身が現在の社会に生きていますから、これこそが邦楽の正しい発声のメソッドです、ということが無責任にいえない。

F:邦楽という括り方は危険かもしれないですね。Nさんの今言われたことは、私たちも感じていることです。私は、未来の子供に対して動いていくのが、ポップスですから、現状を是とします。音響がよくなったことによって、今の日本語がそのままJ−POPのしぜんな発声、私からいうと浅い発声になっています。役者が役者声を使わないと演劇ができない、歌声をつくらないと歌手ができないというのは、昔からの日本人のベースです。日本人の日常の声では通用しなかった。昔の方が声を使ってきた。

地の声で、小さい頃から大きな声を使って生きてきた子が歌手になれた。昔の歌手、アナウンサー、俳優の条件は、まず声が通ることでした。

それは今の時代から言ってみると、音響がフォローしなかったということもあります。だから音響がよくなったときにJ−POP のようなある意味、いい加減な歌い方でありますが、それが今風の歌声になって、日本人らしい喉声の浅い声、そのまま今の子たちに受け入れられているのを、肯定せざるをえないというところもあります。

それを補ってきたのは、向こうの歌を歌おうとなったら、向こうの発声でないと音域も声量もとれなかった。原調で歌おうとして、向こうと同じだけの音域と声量をやろうとしたら、声楽の発声から借りてくるしかないのです。

ミュージカルの現場では、声楽の技術があまり使えない楽曲に対しては、喉を壊している。誤解を恐れずに言うのであれば、日本の声楽の先生は喉が弱いです。しゃべらせも日常的に普通の声と変わらない。ちょっとしゃべってもらうと「もう歌えない」と。テノールは、オクターブ上のところからやるから、普通でしゃべっている声が悪いというのは当たり前だと思っていたのですが、外国の声楽家にあったら、そんなことはまったくない。ロックを歌ったり役者をやっても、喉が平気なのです。日本人はあまりに正しく?勉強しすぎてしまったから、それ以外のことをやったときに応用が効かないのでは?ということです。

昔、黛敏郎さんの番組で、邦楽の人が洋楽を歌うとかいうことをやって、同じようなことが言われていました。日本の声楽家は応用性がかけているのは、向こうでは声楽やポップスをやっても、そのど真ん中からでなくアウトサイダーの人が多いから、必ず自分の国の音楽を持っている。日本でいうなら、邦楽、民謡をもっていた上でオペラをやるから、応用性があるのです。

話を戻して、音痴の人や声の出ない人を考えたときに、一回リコーダーを持たせようと思ったことがあります。声を出すことと演奏することを同時にやるからむずかしい。リコーダーならとりあえず音が出ます。

ところが声というのは、出すときにほとんどの人が緊張して、悪い状態になってしまうのです。そうしたら、まだリコーダーの方がいい。歌手は楽器の人はいい、と思うときが必ずある。朝起きたらとりあえず音が出る、声はどうしてこんなに自分のせいではなく好調不調が出るのだろう。確実な一音を出せるところからスタートしたら、どんなにいいだろうというのが、つくづく感じるものです。「さくらさくら」「荒城の月」も、邦楽のようでも、西洋音楽、明治以後のものです。演歌なんかもそうですね。私もギターの教本が「荒城の月」からで、なんで邦楽からはじめるのだろうと思っていましたが、そうではないのですね。


N:「黒田節」はもともとは雅楽です。明治で教育制度の中に音楽を取り入れられたときに、それまであった音楽との隔絶が生まれた。そこから100年以上経ちます。国民の音楽性が変わりますね。

F:明治の後にそれだけ変わっても、今では、80歳以上になりますが、何かしら一節歌える。都々逸や小唄が歌えますね。団塊の世代くらいで伝統を断ち切った。

N:それに対する見直しを、同年代で一度やってみたいという人はいるのです。僕たちはビートルズの年代ですから。

F:私が学生だったときは演歌も流行していた。つい10年くらい前は、30歳近くになったら演歌でないとプロデビューできないいわれていました。ロックやポップスでは年齢でデビューできない。また、全国の子供たちの中には、ちびっこのど自慢で、声が腹から出る子がいたのです。それが最近ほとんどいません。ああやってずっと受け継がれていたのに、と思います。

N:NHK教育の子供番組で、「声に出して読みたい日本語」の斉藤孝さんや、野村萬斎さんが出てきたり、落語がブームになったりしている。日本語に対する見直しというのが非常に高まっていると思うのです。子供たちに向けてとなると、江戸時代にできた価値のある作品だということでは、通じない。面白くなければ何もやらないわけです。

では、どういうふうに面白くするかという取り組みがNHK教育の中でなされている。萬斎さんの発声を聞くと、普段から違います。中村福助さんが「火曜サスペンス」に歌舞伎役者の役として出ていましたが、それもふだんの台詞のしゃべり口が、他の役者さんと違う。和泉元彌さんが「北条時宗」をされたときも、台詞が違うのです。合い口が他の人と悪い。

小さいときからその世界で生きてこられた方たち、ことばのポイントが違います。「これが正しゅうございます」とあの方たちが言うと、正しいですが、現時点で、他の役者さんに、邦楽の発声はこうでありますということをいうのは、危険です。喉をつめたり故障の原因になる要素をはらんでいる気がします。それと、邦楽で気楽に歌える曲がない。江戸時代にはいろいろな曲が生まれています。しかし、それは幕府の検閲のもとにあったわけです。検閲が歌詞に対してなったというのは、つい最近のことではないでしょうか。

限られたなかで、思いの丈をどうのせていくか。歌は、自分の伸ばした声に思いの丈をのせていくものであるならば、今でこそ「愛してる」ということを表立って歌っても、誰も眉をひそめませんが、ついこの間までは「愛してる」ということを歌うこと自体が、ひんしゅくを買うことという社会通念があったわけです。そういう中で、「愛してる」ということを、もう普通に言える子に対して、持ってまわったような言い方をする、邦楽の文語文の言い方の作品にふれさせることの難しさ、というか今の子たちが歌えるような新曲がないということです。わかりやすくて叙情的なものは、今まで邦楽でつくった人があまりいない。

年一回、創作会をやっていますが、その中で歌詞というのは、今までのやり方を踏襲した、文語文的なせりふの中で、曲をつくっていかなければいけない状況があります。子供たちに教える、素材がない。その素材をつくることからはじめなければいけないという悩みはあると思います。その素材をつくる才能を結集するようなユニットができれば、大きく動くと思います。まず何を歌わせるかというところになります。


司会:文部省が辞令を出して、今の騒ぎがおきていますね。日本音楽に親しみなさいというのが、どこから出てきたのか、文部省が考えたことも学校の先生の受け止め方も、要は日本音楽というのは、まったく異質な、別世界のもので、ふだん馴染みのない別ジャンルのもの、今は縁がないが、昔はそういうのがあって、すばらしいものだったので、その片鱗にふれなさいという感じです。

教える方は、ずっとその世界で生きてこられた方がやられるわけです。今先生がおっしゃったように、発声のこと、ことばの問題から長い年月をかけてはじめて表現ということになるのでしょうか。学校の先生はとりあえず浪花節でも民謡でも取り上げて、そこらに知り合いの先生がいたら呼んできて子供たちにやらせるしかないという感じを受けます。

N:音楽が、必修であったのに選択科目になったと。音楽、体育、美術、家庭科から、好きなものを選びなさい、ということは、音楽も切り捨てであったといえるのではないでしょうか。その中で、伝統を取り入れますと言い出したのではないかと、僕は思っています。

僕は伝統音楽に携わる人間として、草の根的にやるしかないということが、そもそもの発想でした。芸団協の中にも、すばらしい先輩やプレーヤーがいらっしゃいます。それが子供たちにとてもいい影響を与えていると思います。その後の、現場のフォロー、どう発展させていくかということは先生方でないと難しく、ひとつの苦しみだと思うのです。


司会:つい最近、私の親しくしている中学校の先生が芸団協で2年間やって修了した。せっかくやったからもったいないので続けたいということで、何かのかたちで指導させてくれないかということで、芸団協の事務局にその旨を伝えたら、「すばらしい」といわれた。芸団協でやってきたのは、組織で教えてそれまでというパターンが多かった。はじめての卒業生だと喜んでくれたという話を聞いて、すごいなと思いました。

それでも、その先生が2年間やってきたことを途絶えさせてはいけない、もっと発展させなければいけない、楽器も少しずつ揃えてきた。でもその先生は、いつか異動になるわけですよね。

N:そうなんです。異動になったら、その後はどうしていくかということ、本当は教育委員会などで考えていかなければいけないのですが、心ある方しか後のことは考えない。また中学校ということに関していうと、校長先生の権限が大きいので、校長先生の意向によってはすぐに続かなくなる可能性もある、そういう危険性をはらんでいます。実際に活動しているプレーヤーが中学校の授業のためにボランティアで時間を割くをいうのは、かなり難しいことです。現場の先生を仕込むしかない。

先生によっては、自分で勉強になることだということで自腹を切って教えてもらいにくるしかない。そういう状況を変えると、真剣に邦楽が取り入れられるということを、つくってくれるといい。僕は、現場の先生が中心だと考えているので、自分があまり出張らないようにしています。芸大に入っている子供に手伝いにいかせる。あとは僕のお弟子さんです。ボランティアだでも邦楽に触れさせることを、将来的にやっていきたいと思っているから手伝ってくれているのです。彼女らの喜びというのは、自分が三味線を始めたころの目の輝きがあの子たちの中にいるということで、エネルギーをもらうと言ってくれています。音楽自体が、確立された資料を渡されてポンッというものではなくて、どこか手渡しのものである以上、こういうものです。


司会:文部省が日本の音楽ということを言い出した背景には、ひとつには愛国心というような動きと関連があると思います。芸術として、伝統文化を真剣にどうこうするということではなくて、誤解を恐れずにいうと、愛国心や昔はよかったというような発想で、お年寄りが言い出して、そのプレッシャーを受けてきた。文部省の教科をつくっている方は西洋音楽一辺倒できた方ですから、そこで違うものがぶつかりあって、まとめていった。

確かに自分の住んでいる郷土の伝統音楽を愛することには、異論はないのです。でも元々の発想が、あいまいなところからきていますから、現場に下りていったときに、予算的な裏づけや組織的な裏づけというのが何もないのです。すべて、先生方のご厚情にすがってやってくれというおかしいことになっていますよね。

F:今の音大は、邦楽を正式科目を置いていませんね。教員を育成しないのに、教えろというのは、何なのでしょうか。勉強しようと思ったら、専門家の個人レッスンにお金を払っていくしかない。校長と日の丸君が代斉唱問題はともかく、落語や邦楽の地盤が、日本の生活自体からなくなっている。海外へいくとわかりますが、日本はどういう文化を持っているのか、日本のものって何なの、となる。彼らは日本人のオペラを聞きたいわけではない。

日本の季節毎の豊かな祭事に、唄は結びついて動いた。祭りで踊ったり民謡を歌ったりしてきた。そういう生活が子供たちからなくなり、家の中にいてやらなくなったとき、日本人としてのアイデンティティの問題ですね。邦楽という名前では言わなくとも、日本人の音楽としてはあって、沖縄や奄美大島、発信できるのは島ですね。東京は渋谷系や六本木系などと、向こうのものをうつしたものからのは、まだ浅い。

ひとつの地域のオリジナリティを持ったり、あるいは沖縄出身の人ではないけれど、沖縄に行ってそれらしい音楽をつくってという部分では、まだ日本独自のものはなくはない。それを邦楽というかというと、違ってきますね。民謡歌手なんかは、昔は第一線にいたし、紅白にも出ていた。そういうところから言うと、断絶が起きているというのは大きな感じがします。

N:100年前に、パリ万博に川上音二郎一座というのが行っています。そのときにレコード盤に録音する技術というのが万博で発表されて、川上音二郎一座が行って、そこで長唄を録音しています。それを私たちが聞くと、ええっ!というような声の出し方です。オッペケペー、長唄ですが、どちらかというと浪花節に近いのです。

平井澄子先生という日本の声を追求した琴の先生がいました。その先生のところに声の出し方で悩み、仕事の上で、現代浄瑠璃というものを教えてもらいに行ったときに、声の出し方についてお話したことがあったのです。浪花節の声というのは、ホーミーなんかに似てますよねというお話をしました。あれは野外の声、遠くまで聞こえる声、だからアメ横あたりで「はい奥さん野菜安いよ」という声と同じでしょうと、それが浪花節にも残っていると。ホーミーなんかも野外で遠くまで通すために、ああいう声の出し方をしているのではないかねという話をしたことがあります。だから、邦楽というのを一括りにするのは、難しい。

明治時代まではちょんがれといって門付(かどづけ)芸です。明治の中期まで。それが、舞台芸術のようになった。もともとは路上パフォーマンスです。小沢昭一さんあたりが研究なさっています。あれなんかを聞くとなるほどと思います。室内でやってきた音楽と野外でやってきた音楽の違いがあります。

F:シャンソンなどは街頭でやってきた音楽です。街角で聴衆を集めてやった。西洋音楽は基本的には教会音楽です。高い天井に対して、ひびかせます。ウィーン少年合唱団も天にひびくようにやりますね。

N:西洋音楽の中には神の声に近づこうという意識があると聞いたことがあります。

F:天使の声はまさにそういう発想ですね。あれだけ高いドーム、教会がそういう構造ですね。

N:一昨年、フランスで公演したときにコンサートホールが古い教会を建て直したものだったのです。マイクロフォンを入れたのですが、生音でやってもすごく気持ちがよかったです。反響がよくてびっくりしました。

F:ゴスペルを牧師が歌う。聖歌隊の響きが、高い声でソプラノやテノールが生きるように設計されているのでしょうね。

N:我々がオペラなんかに持っている感覚と、ずいぶんと違うという気がしました。ささやき声でもそういう感覚ではない。ささやき声でも息が通っているということなのでしょう。

F:環境として、湿度のなさと建築物の石造り、日本の木と紙の造りとは違います。日本のオペラ歌手でも、向こうでは声が出るのに、帰ってくるとひどいという。楽器も日本だと湿気帯びてしまうから、調子が悪くなってしまうと言いますね。

N:三味線なんかも、皮が張ってあるので、湿度に関係があって、梅雨時はよい音がしないのです。張りが悪くていい音がしない楽器が、ヨーロッパに行くとすごくいい音がしたりすることがあります。

F:ジャンガなども、日本ではカビが生えないように手入れが大変です。日本には日本に合ったものがある。小津安二郎の映画のように、室内できれいにやるようなところの声の出し方、たとえば女優さんの、しゃべり方は今とは全然違う。しかし、もう一方で黒澤映画のようにかけずりまわって、三船敏郎、仲代達矢さん、腹から声が出る。あの辺は鍛えているのですね。そこの鍛え方というのが、邦楽も声楽もないという気がします。たとえば細川たかしさんや三波春夫さん、ああいう系統はすごく日本人らしくて、洋楽の声も出る。坂本九さんもそうでしょうが、西洋のいろいろなものも受けている。声自体を2つに区切ることもあるのでしょうが。

N:ええ、ベースは同じだと思いますね。坂本九さんのお母さんが常磐津の師匠、オメガドライブ杉山清貴さんのお母さんも常磐津の師匠、それから世紀魔Uのデーモン小暮さんのお母さんも日本舞踊なのです。だから小さい頃から邦楽のレコードを始終聞いているという環境にあったということ。

F:坂本九さんが歌ってみると邦楽になってしまいいますが、西洋のもの、でもその曲のつくり方やことばのつけ方は、あの当時のものでは邦楽の流れもありますね。今の子たちは古くみてしまうのですが、その味をわかっている子もいます。今の子は同時に情報が来るから、あまり新しい古いもなく、全部とれる。お母さんやおじいちゃんが聞いていたとしても、それが新曲みたいなものですからね。日本語の場合、ことばはどうしても古くなります。

私もここで古い曲を使いますが、そこで、こんな女性はいないとか、こういう男女関係がありえない、それこそ女性差別とか皆驚いてしまうような歌詞がある。アレンジと歌詞が古くなってしまう。日本の場合はその速度がすごく速いと思います。外国のものでは、ビートルズでも古くはない。日本語はここ2,30年でも変わってきました。女性ことばなんかは大違いです。演歌の中身は、今の女性の生活とかけ離れています。阿久悠さんがつくっていた頃に女性が自立していく歌が出る。それから五十年もたっているわけではない。

私が歌の勉強をさせるときに、リアリティというものをすごく重視します。声がいいとかうまいということよりも、歌を歌っているということではなく、語りかけてくるかどうかです。そのときにその生活を持っていて、そのことを賭けてやってきた人の説得力というのは、どの分野を問わずにあるわけです。今の子がああいう歌をつくっていて、それをいいと聞くのは、わかる。私たちの頃でもグループサウンズから歌謡曲など、歌のうまさや声の質を聞いているわけではない。その時代の中でいいなと思ったり悪いと思ったり、今聞いてみてびっくりしたりする。小椋桂さんも今聞くとびっくりします。こういう歌い方だったのかと改めて気づくものがある。

N:僕も去年やらせてもらった「ぶんざ」という紀伊国屋文左衛門の物語では、歌綴りと言って、参加したが、琵琶唄の2人、民謡から2人、ポップスから1人、ミュージカルから1人、ジャズから2人、それから浪花節から3人、あと「ミス・サイゴン」や「キャッツ」の初演をやった男性が1人、総勢14人くらいでした。小椋さんの作った文左衛門の物語、歌綴りという、半分ミュージカルのようなかたちの公演をやりました。

その中で、小椋さんが、僕は元々は「ぶんざ青春篇」というのに関わらせてもらったのです。その前に材木商となってから、全部を捨てて、俳諧、俳句の道に進むという「ぶんざ」という作品があって、それを統合して文左衛門の一生というストーリーになったのです。そこでやったときは小椋さんが同じ役で出ていたのです。それを統合したものだから、小椋さんが歌われた部分を僕が歌うことになったのです。そうしたら、きつかったです。小椋節というものが存在するということをあらためて感じさせられましたね。小椋さんのお父さんは琵琶弾きなのです。レコードが残っているのです。

F:今、お子様とやられているのも、その流れがあるのですね。やっぱりベースがあったのですね。

司会:具体的にやりにくかったとは、どういう部分で?

N:お仕事で受けたのは、長唄でうたってくださいという注文でした。元々、使っている楽器がピアノがベースで、そこにパーカッションとチェロと尺八と三味線と、キーボードが入っている編成です。ピアノでポロンとやられて、長唄の声を出せと言われても、出ないものなのです。だから、悩んだあげく自分の方向に持っていくしかないと思いました。テープで渡されましたが、全部墨で歌詞を縦書きにして、どういうふうに持っていけばいいのだろうと考えあぐねました。

「ぶんざ」は、小椋さんの旋律の中にはひとつのイメージがあるでしょう。ビデオをいただいて、こういう感じでと言われたのですが、強力なのです。最初1,2回は旋律を覚えるために聞くのですが、これを聞き続けていたら、小椋さんの二の舞になってしまう。同じことをやらないとおさまらなくなるから、途中から聞かないようにしました。

F:昔、リアルタイムで聞いたときは、小椋さんは声がよくて低くて、あの当時の井上陽水さんと吉田拓郎さんという対照的な二人の、どっちでもなく、正当的にうまい人だなという印象があったのです。それからずいぶんたって聞いてみると、すごい癖、引っ張り方が独特、詞も曲もよいのですが、けっこうそれを無視している。まだ陽水さんや他の人が、小椋さんの曲を歌っている方が曲に忠実です。小椋さんはギターなんか無視してたたみかけてしまうというか、そんな癖で歌っているとは、あの声では一見、見えない。ゆっくりした曲、「木戸をあけて」というような情感のあるようなものでは、このように歌わないように歌ってみたらという、名曲ですが、少しテンポの早いものになると、ジャカジャカというギターのリズム、後は小椋さんの勝手に歌ったみたいなもの、それはギャップでした。

N:ボブ・デュランのオリジナルを聞くと、曲のよさはわからないけれど、他の人がカバーしたものを聞くと、ああ、こういう曲だなとわかります。

F:今の生活で、いきなり日本の国歌になったときに、この前のサッカーでは北朝鮮側の選手も歌っていなかったから、あんなものなんだろうと思います。曲がいい悪いとは別として、「君が代」と似たような曲に日ごろ、何か接していなければ歌えといっても今の子には無理でしょうね。まだ昔の方が旋律や調に親しんでいた。そもそも日本の教科書も歌謡曲も、短調から入っていたので、「君が代」に接点がついていたのでしょう。

今の子に歌えといっても、どう聞こえるのかというのは、思想や歴史というのを抜いて実感として内にもっていないものを歌わされる。本来、それが一番ベースになければいけない。他の国は、意気揚々と革命のときの歌などを持ってきていると入れる。もう少し自然にならないものか。純粋に一曲、いい曲だと意味がわからないというのは仕方ないにしても、やっぱり歌いにくいんだろうなと思います。

N:民謡も洗練されてきている。町田嘉章先生が集められたころの民謡集系に収録されているようなものを聞くと、本当に声の出し方が違う。それが長持唄、今テレビで民謡大会で民謡の方たちが歌っているものは洗練されすぎていてついていけない。ある程度洗練されてところで我々もやっていかなければいけないので、それを子供たちに押しつけたところで無理。あとはわらべ唄しか残っていないような気がします。わらべ唄を邦楽的にアレンジする人があらわれて、それが学校教育の中で取り入れられていけば、まだ若干生活感が残っているところがあるので、唯一可能かも。唱歌と違って、音の上がり下がりもそんなに大きくない。そこらへんが一番わかりやすい。まだ取り入れてはいませんが。

F:幼稚園レベルだと先生がそれを元気にやれば、あとは体を動かすものと一緒についていける。どんな歌であろうが、うまく歌えなくても意識はしていない。全身で感じて動かしていくということになると音楽は入りやすい。昔は「かごめかごめ」「花いちもんめ」の中で、入れた。声を出す自我、意識しはじめると、今だと小学3,4年生あたりから意識するのですかね。だんだん出せなくなってくる。

N:たしかに、もう100年以上も馴染みのない音楽を持ってこようとしているわけですから、中学生であっても幼稚園レベルのことからはじめていけばいいと思うのです。

司会:実は幼稚園でも、わらべ唄は少なくなってきている。保育士さんはほとんどが若い女性です。ついこの間まできゃぴきゃぴ言っていた子たちです。彼女たちはわらべ唄はほとんど歌っていない。だから子供たちはまったく知らない。子供を連れてくる親御さんたちが、わらべ唄を知らない世代が多くなってきています。親と子供に対して何がウケるかというと、テレビの主題歌です。だから、幼稚園で昔からよく歌われてきた遊び唄やわらべ唄が少なくなって、アニメソングが増えています。おそらく今の幼児と今の中学生は、そういう視点からいうとある意味一緒です。そこから、本当の入り口から入っていかなければいけないですね。

F:教員を教えることよりも、幼稚園のところで幼児に教えるのが一番いい。しかし、それを誰が教えるかという問題になってきます。「声に出して読みたい日本語」も、あのヒットは日本語の雑学ブームと昔の古い文章を集める方に行ってしまっています。実際に斉藤孝さんが意図したように、全身を使って腹から声を出そうというところには一部しかいっていない。むしろ国語の先生が表現読みや朗読読み、詩を、声を出して読もうと、そこのところのほうが、音楽や声に近いことをやられている方が多くなってきています。元々、詩を見るのは日本人くらいです。あれは歌ですから、他の国は、韻を踏んで、すぐに語れるし、歌える。

音楽の切り捨てなんて、とんでもない。選択というのも、まだ総合にしたほうがよかった。総合の中に入れるべきだったのですが、演劇教育のようなもので、芸術科としておいてしまったほうがいい。その中で体育も音楽も、国語も入れてもいい。音声教育という大切なところが欠けていて、邦楽をやれというのも厳しいですね。

N:お能と狂言がどういう扱いだったかというと、お能はオペラ、声のもの。狂言というのは現代劇。だから、日本に来て、狂言を見た宣教師が、ヨーロッパに日本ではしゃべりことばで芝居をしているということを報告している。それまでヨーロッパの演劇というのは、シェイクスピアとか、ほとんどがソネット。台詞は歌い上げる。オペラの世界なのです。

ところが、狂言に関しては現代劇。しゃべっていることばで芝居をしている。それが宣教師の目には不思議にうつった。ある意味で狂言というのは、世界はじめての台詞劇ともいえるのではないでしょうか。当然しゃべっていることばも違うだろうし、響かせ方もお能と狂言は違う。観てみると、同じ声の出し方をしているとは思わないでしょう。だから声の出し方についてもお能と狂言が同じだと一括りにするのは危険ということもあるわけです。


F:コメディだから入りやすいことは入りやすいですね。外国人が見てもわかりやすい。

司会:我々は邦楽を乱暴に一括りにしてしまいますね。でも邦楽は一括りにならない。ひとつの発声の仕方ということから見ても、まず能と狂言は違う。さらに長唄も違う。それぞれかなり違うものですね。

N:基本的な部分は同じなのですが、ことばの扱いが違ったり、響かせどころが違ったり、基本的には、ベルカントとは違います。似たようなかたちにはなりますが、かといってそれを一括りにするというのは難しいのではないでしょうかね。

F:どういうイメージかはわかりませんが、声楽は案外、明確なイメージというのがあります。私たちもポップスなんかは注意できないけれど、声楽家ならこういうことを注意するという観点では、レベルや注意点が明確になる。ポップスになると、それぞれの個性が出ている上で、ということになる。声だけではなく総合的なもので見られ、基準はつけがたい。

最近、漫才の勉強をしなさいといっている。コントやっている人たちの声の使い方のほうが、歌い手よりも、同じ若者としてずっとレベルが高い。お笑いの人は下積みができる。10年くらいやって30歳すぎてから出る。20歳くらいで世の中笑いとばすということは、なかなかできるものではないからです。

ところが歌い手というのは、そういうものがなく、デビューした後が伸びない。私は、昔から日本では「歌のプロデビュー即、死」と言っています。デビューが一番よくて、後は曲や詞のよさで売れたということはあっても、歌がよくならない。歌唱の技術は、出たときの才能ややれたものが、30代40代になると、半分もないですね。声量もなくなって歌も下手になってしまう。

邦楽のほうが上がある。縦で上下があるから精進ができますね。ポップスも怠け者ではないのです。でもバンドで支えられていくと磨かれていくのはトークばかりです。歌は、私たちがダメ出ししても関係ない。だから結局は喉をつぶしてだめになったり、歌が出なくなってしまう。それで40代くらいになって来られる方もいますが、基準がないのです。

声楽や邦楽の人は、何かはあるというのは知っていて、自由にやっていいのではないというのを知っている。年齢とともに衰えてくるとわかる。賢いと、20代くらいで、先に早くに出ても、皆長く続かないから、自分は基本をきちんとやっていこうと考える人がたまにいますが、まれです。

N:歌だけでなく、ファッション、容姿など、イメージの部分で売り方の戦略というもの。この子が40になったとき50になったときにどんな歌を歌っていくかということを考えながらつくってはいないのではないでしょうか。20代でデビューしていろいろなライブハウスで歌い続けていた。僕も今年50になります。うちの師匠が72、そこに20年ある。それでその師匠の上に大師匠というのがいまして、その先生に僕はかわいがってもらって、舞台にも抜擢していただいて3番手くらいに使ってもらっていた。

酒の好きな先生で、呑みに行って、練習が終わって、「これからの勉強が大変なんだよ」とおっしゃられた。たまたまそこの50代から20何年間、師匠につかえていますでしょう。そこでNHKの「長唄の美学」というCDの収録をずっとスタジオで立ち会っています。その中で師匠の勉強の大変さを思い知るのです。40代の師匠、また50代から70代と、声も衰えてきますよね。その中でどうやっていくか、若い頃のようにピーピーと高い声が出ない、とすると表現力だろう、雲泥の差なのです。その八代目の先生が、まだ20代の駆け出しの私に、なんでそんなことをおっしゃたのかがわからない。「50すぎてからが大変だ」と。そのころ師匠は70代なのです。それを思い知りますね。かといって邦楽を囲む、現代の状況をわかってくれるお客さんはどれだけいるのだろうと思います。お客さんあっての歌い手というところがある。ですから、70代まで一生歌い続けていくとして考えた場合、ポップスを歌う人たちはどういうふうに考えているのだろうというのを聞いてみたいと思っています。

F:日本の場合は、20歳くらいでやり、そのときの財産でずっとやれた。昔のように紅白に一回出たら食べていけるという時代でもなくなり、お客さんが飽きっぽくなった。個人レッスンにして、プロの子がけっこう来ています。歌一本というのはやりにくいですね。ストーリーをつけ人形劇にしたり、和楽器とのコラボレーションとか、かたちにして、自治体とか教育委員会からお呼びがかかっているのも、何かしら大儀名分をつけないとやりにくい。

歌一本でやってうまいといっても、誰がその人の歌を聞くのかということです。昔は、オペラをやっていたら、地元の自治体が、イタリアオペラの夕べなどを教養的な意味で主催してくれましたが、後援者がいなくなってきた。誰もがカラオケを歌うし、歌が特別なものではなくなってしまった。結局は自分で場をつくるしかない。ジャズやゴスペルになってしまうのです。別にジャズが聞きたくて行くのではないが、雰囲気的に求める。ヴォーカルも、だからほとんどが女性で、オリジナルなど期待されていない。「ミスティ」をお客さんの会話の邪魔にならないようにやる。ピアノでも、バンと弾いたらうるさい。

だから、日本の音声に関する本当の意味での欲求が高まらない。耳が磨かれないとだめですね。落語なんかも昔のようにうるさい客が減った。お笑いが伸びているのは、しらけると若い子でもすぐにわかるところで向上するからですね。その状況で育ってしまう。ポップスは、失敗というのがありえない。私が聞いて何にも伝わらなくても、棒立ちになったり涙を流したりする客はいるわけです。感動もしない。音楽面ではなく、ストーリーや照明、演出面で受けているのです。結局は、目で見て判断する国民性です。

そういうなかでも、昔はラジオがあってパーソナリティの声に心を動かされた。耳だけでしか聞けなかったレコードもです。耳は鍛えているつもりで、舞台の動きを入れてしまうと、いとも簡単に音声の世界が抜けてしまうのです。音声で成り立っていたのに、どうして動きを入れると消えてしまうのかという、これはまだ日本人は世界では無理だなと思います。


司会:私は、田舎が青森の弘前です。小さい頃は民謡が大嫌いだったのです。田舎くさくて下品な音楽で、洒落ていない。中学高校となって、クラシックも聞くようになって、なおさらそういうものを対する反発さを覚えました。

たとえば4月、弘前のお城のまわりで花見があるわけです。その近隣の農家、米やりんごが作っている農家、1年に一回集まってきて、盛り上がる。弘前城の敷地がばーっと宴会場になるわけです。すると、そこを流しのお姉さんが三味線を弾きながらくるのです。それが気についたのは、高校3年くらいのとき、あっうまいなと思った。その頃からジャズを聞き始めていました。当時教わっていた先生が、「お前、津軽民謡ってすごいんだぞ。ジャズとフラメンコなどが、津軽三味線に入っているんだ。即興演奏でちゃんちゃん弾いちゃって、お前らバカにしているだろうけど、津軽三味線はすごいんだから自慢しろよ」と言われました。

もうひとつはスキーにいって、J−POPやHIPHOPがガンガン流れているのではないですか。当時は、AM放送、ラジオを流していた。日曜のお昼だと、「成田雲竹・高橋竹山の津軽民謡」が延々と流されていた。ちょうど、現役でやっていた最後のころだったと思います。

東京へ出てきて、今の会社に勤めて、高橋竹山をジャンジャンに聞きに行ったときに、全部まとめて記憶がよみがえってきた。そういう意味で、高橋竹山の津軽三味線は大好き、津軽民謡も誇りに思っているのです。しかし、一方でジャズを聞いていた。ジャズは時代をうつしながらすすんできた。僕は1970年代でジャズをやめました。行き着くところまで行き着いて、社会の状況も変わって、僕にとってのジャズは終わったと思って、やめてしまったのです。ジャズが社会と絡みあいながらきたことが、終わったからです。

すると津軽民謡って何だろうと思うのです。いい音楽、誇りに思う音楽だが、津軽の民謡のすばらしさは時代を何も移していない。今の子たちにこの良さを分かれといっても分かるはずがない。田植えということばがない。

F:津軽三味線は4,5人、若手で吉田兄弟や上妻宏光さんが出てきました。和楽器というよりはジャズ的なコラボレーションをやっている。私も竹山さんをかけて、そこにマイルス・デイビスを、たまたまかけ合わせていた。そのときに重なって、おもしろい感じになった。そこで何かおきるときとおきないときがある。2つが重なっていったときに、おきるときがあるのです。皆も何かおきたのがわかっている。それは音楽的にすぐれたクラスでした。楽器に関しては、それがありますね。今の日本人でも伝わっている。三味線や尺八、雅楽も再ブームになっている。

うらやましいのは、三味線というのは、東京に来ても民謡酒場というものがあって、音を厳しく聞ける先輩や客がいる。そこで修行する。チャンピオンになっても、技術だけだよと言われる。縦社会があるので、歌も上達する。沖縄も地元と何軒かあります。そこのランクづけ、最近亡くなられましたけど、照屋林助さんのように神様がいる。そういう部分は知る人ぞ知るというより、若い人でも知っている。

ただミュージシャンの生活に、時代か社会に絡むかというと、アメリカでもヨーロッパでも、昔ほど世の中とリンクしているかというと、音楽自体が弱くなった。日本でも安保闘争の頃で、日本のフォークあたりの世代までは、社会的にリンクしていたと思います。1970年代、ジュリーがレコード大賞をとって、その後にピンクレディ、光GENJIとなっていく。そこまでは紅白のとりの曲やレコード大賞の曲をいうのは、世の中の中心、五八戦争、五木ひろしか八代亜紀かというところでした。今みたいに何百万枚売れていて、知らないということもなかった。

それは世界的な傾向です。アカデミー賞は世界で知られているけれど、グラミー賞の歌手をどれくらい知っているかというと、大したことない。マイケル・ジャクソンやスティービー・ワンダーの頃の時代ではない。確かに実力のある子は出ているけれど。

N:イギリスのナンバーワンが、今や携帯の着メロというのも、悲しい状況ですよね。笑ってしまいますね。

F:さて、学校の先生が邦楽を教えるなら、何をすればいいのかということですね。発声というところまではいかないですね。

司会:発声をこうしなさいというところまでは到底いかないでしょう。「さくらさくら」を三味線を弾くくらいで精一杯、というところをわかってもらいたいですね。能と狂言が違うということ、先生方が理解をして取り組んでもらうという方向に持って行きたいです。邦楽に関する取り組みというのは、中学は指導要領の改訂で、日本の音楽に、鑑賞だけだったのが、強制ではないのですが、何かひとつ日本の伝統音楽の楽器にふれて親しむというのが打ち出されたのです。

ところが三味線でも太鼓でも、楽器が揃っていない。教える人もいない。だから現状では過渡期で、要領ではふれなさいとあっても、できる範囲内で、それぞれが工夫してやりなさい、文部省がお金を出すのではないが、何とかしなさいよという状況なのですね。なぜ本誌の邦楽のCDをつけないのかというと、そこまで到達していない。読者のニーズにそこまで達していないというところです。

N:昭和30年からはじまった高度成長政策で一番何が変わったかというと、町の先生がいなくなったことです。町の先生、たとえば主婦でありながら三味線を教えるから、近所の子供を連れてきて、躾のひとつの場みたいなものがあった。お辞儀の仕方から大人の中でもまれる。ガキ大将がいなくなったように、小さなお稽古場のコミュニティも消滅している。私のまわりに、最後の年代の方たちが先生としていらっしゃる。それを後を継ぐ人は皆無なのです。これはもう消えていきます。ですから、それを残していくかというのが、課題であり、難しいところです。

伝承していくこと。教わったといってもテープレコーダーがあって忠実にコピーしているわけではないのです。邦楽も、とんでもない教え方をしている先生が、実際にいるのです。でも「そこで、先生の言うとおりにやるというのが、プロとしてのひとつの技量、テクニック」と先輩から言われたことがあるのです。どこにいこうとも応用できる力だということです。

もうひとつ楽器ということに関して、バブルの頃、邦楽界もかなり潤い、楽器自体の値もかなり上がりました。楽器屋さんも大忙しでした。300万、400万の楽器がボンボン出ていく。そのときには若い職人を抱えて後継者をたくさんつくろうとしたのです。

ところがバブルがはじけた瞬間に、ある程度仕込んだ弟子を首を切らないと自分のところが倒れてしまうということで、若い職人の首を切ったのが、今の職人さんたちです。

この文部省の実施によって、仕事がまた増えています。各地に納品しなければいけないから、忙しくしています。ところがバブルのときに苦い経験をしているから、新たに若い職人を入れて鍛え上げるということはしません。今、職人として脂ののっている人が5,60代だとすると、あと20年経ったら楽器をつくる職人がいなくなります。楽器あっての音楽ですから、本当に、楽器の面から考えてもとても続かない。楽器を納入した後、メンテナンスがあります。素人では、ましてや中学校の先生がメンテはできません。メンテに関しても、予算をとってくだされば、できると思うのです。そういうところの整備をしっかりしていただかないかぎり、楽器商の人がまず倒れます。

F:ピアノでは調律で予算をとることは、やっていますね。

司会:ピアノはなぜでしょう。メーカーの教育がよかったのか。調律が必要というのが、割と皆さんわかっているのです。ところが、吹奏楽もいろいろな楽器がありますが、学校によって違います。まったくメンテナンスをしないところもあります。部費で積み立てでやっていたり、楽器を買ったときにサービスしてもらったりということです。吹奏楽でそのレベルです。三味線や太鼓にしたら、買うだけで精一杯、よくあるパターンは、3年から4年の計画で台数を増やしていく、そこで精一杯で、メンテの予算化までできないと思うのですね。

F:ピアノは、学校に広めるとともに、家庭に一家に一台というところになって、商売のプラスになって、教室も展開していました。そこまでのことが見込めるのなら、楽器屋さんも当然やっていくのでしょう。メーカーが邦楽をやっていないというのは、そういう自動化できるものでもないからでしょう。着付けや生け花は見直され、和服からふんどしまで、若者が着目している。日本文化回帰ではないけれど、世界のすぐれたものをいろいろと買いあさってみたら、日本にももっといいものあるという、価値もわかってきている。

ところが、音楽になると文化や地域コミュニティの問題がある。とはいえ、若者のノリにヒットしていけば、ソーラン祭がやれる。祭りと音楽は一番ベーシックにわかるところです。ああいう確立して、皆が守っているものの中に組み込まれていくと、そういうものも参加する人も多く、観光客も多くなります。邦楽器は同じ業者さんが扱うわけですか。

N:三味線とお琴は共通でしょうが、太鼓は別ではないでしょうか。

司会:お祭りというのは、公的に、地域でも盛り上げようということがあります。消えかかっている町内の祭りを、大事にしてそこに子供たちを入れるというのが増えています。かたやお座敷芸といったような内側での芸能は、そういった意味で厳しいですね。

N:三味線の音色で、子供たちが使っているのが10万前後のお稽古三味線、皮も犬皮です。そこにたまに本番用の三味線、200万から300万する楽器、皮も猫の皮が張ってある本番用の三味線で、お稽古三味線は木の撥で叩いた音なのですが、象牙の撥を使う。すると子供たちは、すぐにいい音だとわかってくれるのです。どちらがいい音かがわからないというのでなく、高級なものの方がいい音だとわかってくれる、つまり、どこかに感じている日本人としてのDNAが、残っている。

唄の本を読んでいて、その中の沖縄紀行で、「八重山には唄で飯を食っている人がひとりもいない」といわれたということが書いてあった。すごいなと、そういう状況があってのプロのプレーヤーと、そういうものがなしでもプロのプレーヤーでは在り方が違う。ですから、昭和30年代から町のお師匠さんがいなくなったといったのですが、歌で飯を食わなくても音楽をやっていた人たちが、町から消えていった。一番大事なことは、そういう人たちをいかにつくるか。たとえば、先のお弟子さんのように、「エネルギーをもらえるから」と言ってくれるような人を、どれだけつくれるかということを僕は考えています。

F:海外の町を歩いていると、その地域の音楽を聞こえますね。バリだとガムランが聞こえる。昔の町のお師匠さんというのもそんなものです。私も田舎で、なんとなく謡の稽古をしているのが聞こえるなというところに育った。音楽はどこまでDNAなのかわかりませんが、小さい頃に入っているかどうかは非常に大きい。パチンコも商店街、軍艦マーチやど演歌でした。神社の雅楽と、寺での声明みたいなもの、知らないうちにけっこう入っているのです。何が入っているかといわれてもわからないのですが、笛の音が聞こえてくる。季節感や親に連れられての気持ちと一緒に混じっている。その経験自体が今の若い子にとんでしまったときに、どこまでDNAかということです。

今の子たちは、ちょっとずつ聞いてきたことの数百倍の量をファミコンのテーマ音楽で、デジタル音声で聞いている。その脳というのは、我々の推察できるものではないということです。そこに成功体験も入っているのです。ゲームをクリアしたという喜びと一緒に、音楽がテーマとして入っている。我々がヒット曲をテレビで聞いていた回数などと違って、一晩で何十回と聞いている。ゲームをセットした瞬間にそれが入る。そうするとその音が、脳の音楽観のベースなのです。そういう子たちが世の中に出てきているわけです。

N:日本人は虫の音を右脳で聞くといわれて、虫の音も音楽に聞く、邦楽の中に、虫の奏法として音楽にした旋律がいっぱいあります。ところがここ数年、大脳生理学の中で、虫の音を右脳で聞かなくなったということを何かの本で読んだことがあります。いわゆる脳が変わりつつある。それまで日本人が培ってきた音楽でも、脳を変質させた上での日本の伝統音楽って一体何だということになってくるのです。

F:小さい頃の言語の臨界期と同じことが、音楽にもいえる。日本語は特殊で母音を中心とする、世界的に珍しい言語です。それを小さいときに聞いて回線ができてしまう。日本人の耳自体は、非常にいいと思うのです。そうでなければ、世界一流の指揮者やバイオリニストは出てこないわけです。それを音声でやるということに対して、昔の寺小屋でやられていたような素読や朗読が、ある時期にぱたっと消えた。戦後、ますますなくなって、声を出す機会がなくなってきた。現場で、昔教えていた教え方が通じなくなってくる。声を壊してしまうのです。

服部公一さん、今の子供たちは声が低くなった。それだけ声を使ってきていない。ここでも15年前と全然違います。私が、声楽の先生を招いているのは、声が弱くて本当に壊すからです。役者の世界でも、声を壊して強くしたというのがあります。壊したままだめだった人は表に出てきていない。だいぶ壊している。その中で、喉の強かった人がそういう教え方をするから、そういうものに恵まれてくる人が残る。

ヴォイストレーニングはそういうものを安全にやるのです。それにしても、日ごろまったくしゃべらなかった人が声を出したら、ヴォイストレーニング以前に、声を出しただけで疲れてしまう。声を潰してしまう。15年くらい前は、ここで稽古した分、日常で出している声をセーブしなさいと言っていた。日常で今までどおり使っていて、さらに出したら疲れる。ここで1時間出したら、日常の1時間、長電話やしゃべるのをセーブする。それはいつも1,2時間、声を出しているから、30分のレッスン分ひけるのですが、何も出してない人はひきようがない。疲れだけがオンしてしまう。スポーツもやっていなければ体も鍛えていないのです。ますます頭でっかちになる。やたら本だけ読んでいる。

今回、Q&Aの本を出していただいたのですが、「私の息は正しいのですか」と答えようがないレベルから入ってくる人がいます。本を読まないかぎり、そんな疑問は起きないというところから入るなら、読まないほうがいい。昔は 校正文字不明 本を読むことはプラスからスタートできたのです。そんなことでいうと問題はあります。親が声を出したり泣いたりすることを嫌うのでしょうね。うるさいと言ったりすぐにテレビを見せる。小さい頃から騒げない、屋外でも皆で遊んだりしないわけです。ファミコンやって声を出すこともない。

喃語の時期のコミュニケーションで、相手にことばのまえに声で表し伝えてフィードバックしていくということがあまりない。本当の意味で声を使ってきた経験がないのでしょうね。一番困るのは、誰かにいじめられてどうこうというのも、言語の中で、あの言い方に傷ついたとか、むかつく、ことばのニュアンスや声の働きかけのところでは、認知していない。ことばが雑です。昔のように終動詞をひとつ入れるか入れないかでニュアンスが変わるというレベルでは生活していない。そこからいきなり歌に入ったときに、無理でしょう。

むしろ朗読をしている人たちのほうが丁寧にことばを使っていますね。アナウンサーのようではいけない。詩を読むということで、いろいろな人がいますが、歌い手は歌っていながら、その問題意識さえない人が多い。ひとつの声をどう切るかとか、邦楽は縦社会、同じ作品で競ったり師匠と比べたりしますが、ポップスはそれがありません。そんなところで客も聞いていないのでなおさら。却って、お笑いや演劇はけっこうそれがあるのです。言い方が悪いと終わりきれないとか、笑いがおきないということで現場でわかってしまう。

日本のゴスペルなんかも、皆でバーッと歌っていると成り立っているように見えてしまうのですが、一人ひとり歌うとメチャメチャです。雑な扱い方で、でもビジュアル的な動きだけ。トップの人だけはいいのです。一緒にやっているところですごいことができていると思っているのは、かなり甘くなってしまっている。


司会:現場の先生でも、邦楽なら何でもいいと思っているのです。たまたまそれが一番身近にあったものを、何かの縁で取り上げているということです。それはそれで別にいいのですが、その能と狂言は違うということを知ることから、共通する部分と違う部分、響かせ方が違うというところ、もう少しお話いただいた上で、それをすぐ現場の先生ができるとは思いませんが、そういう世界があって、それを認識した上で、やってほしいというアドバイスをちょうだいしたいと思います。

N:長唄というのは元々は、歌舞伎の劇場音楽という位置にあるのです。昔は江戸三座、中村座、市村座、森田座があって、プロデューサーシステムなんですね。それでいわゆる劇場付きのミュージシャンが長唄を謡います。ですから世の中こういうものが流行っているとなると、予算の関係もあるのですが、それっぽい曲を長唄でつくるわけです。

元々、邦楽は浄瑠璃と唄ものの2つの系列に分かれます。浄瑠璃ものというのは語りものの系統です。なぜ浄瑠璃ということになったのかというと、創成期に「浄瑠璃姫物語」というのがあって、それをいろいろな人がいろいろな語り口で語ったらしいのです。それを総して「浄瑠璃姫物語」を語る人を「浄瑠璃さん」というようになったそうです。それが日本の語りの系列です。それに対して唄ものと呼ばれるのは、地唄、長唄、端唄、小唄と唄ものの系列です。こと長唄に関しては、座付ミュージシャンなわけです。この部分のこれがおいしいなというところをとって、曲の中でそれらしくやるのです。

F:オペラのアリアみたいなことですね。

N:いただきということです。ですから「謡(うたい)がかり」というのがあって、有名な長唄の「道成寺」という長唄があります。この唄のはじめは「花の外には松ばかり 花の外には松ばかり 暮れ初(そ)めて鐘や響くらん」、これは「道成寺」のお能の文句です。それをそのままとって、それを歌舞伎仕立てにする。お能からとったんだよというのをアピールするために「謡がかり」というのがあります。修行中に、師匠から口やかましく言われたのは、「謡がかり」はあくまで「謡がかり」であって、「謡(うたい)」ではないということです。長唄の人間が謡っぽくやるのが主眼であって、謡そのものになってはいけないということです。

長唄はそういう意味ではいろいろなバージョンを取り入れているので、バラエティに富んでいます。その中での反論のことばです。では、今の学校教育の中で具体的にどうするかというのは、個別に置かれている状況が違います。

F:とにかく簡単でとっつきやすいものは、ありますか。

N:どうでしょうね。小唄というのはいいとこ取りなのです。おっしゃたようにアリア、大曲の中の一部、それが小唄です。上澄みのようにポーンという発声ではなくて、ちょっと鼻歌まじりの発声だったりするかたちであったりする。義太夫の「さわり」、長唄の「くどき」というものがありますが、どうでしょうか。ただ芸の習得の始めに、長唄をしたというのは、一番癖がなかった。いろいろなものを習得するのに、たとえば常磐津、清元を学ぶ前に、長唄を芸の下地にしたということは聞いたことがあります。もちろん常磐津、清元で勉強した人はいると思いますが、とりあえず長唄を修行して、いわゆるノリやリズムは、長唄ではフレーズごとそれほど変わらない。義太夫や常磐津などの語りものは、語りによって速度が変わっていくので、ある程度、一定の速度を覚えておく。それから長唄は、細かいこぶしや節が少ない。だから芸の下地として長唄が入りやすかった。だからとっつきやすいかもしれません。

F:声楽歌曲では、日本歌曲からは入らないで、だいたいイタリア歌曲やナポリターナですね。それは日本語と似ているというか、カタカナをふったら歌詞が読めるのと、「オーソレミオ」「フニクリフニクラ」「帰れソレント」など、耳に馴染みのあるものがあるからです。英語ではマザーグーズ、リズムから英語で入れるものがきっかけになる。人(ひと)口に介しているようなフレーズや代表曲がひとつあると、わかりやすいと思います。知らない曲でも、CDショップに置いてあるような、この辺からというのはありますか。

N:今、学校で取り上げているのは「勧進帳」と「越後獅子」です。でも2つともかなり高度なのです。僕は、「さくらさくら」「黒田節」最初にやっているのは「末広がり(末広狩)」という曲です。もともと狂言から発展した曲で、「松風もの」と呼ばれる曲ですが、子供たちに説明するのは難しいのですが、長さも手ごろです。長い曲だと90分になる。「勧進帳」も大曲です。「越後獅子」や「勧進帳」のフレーズ、「越後獅子」は「蝶々夫人」に使われていたりとかするので、それはCDになっているのですね。この部分は転用だという解説書付きになっているそうですね。そういうことで西洋音楽との接点を求めています。でも、そういうものが何もなしに、いきなりはじめた子供たちには難しい。

司会:鑑賞教材として出てきますものね。たぶんその影響で馴染みがあるから行くのでしょうね。

N:楽曲としてはむずかしすぎるのではないかと思います。

F:「勧進帳」はストーリーを知っているからかもしれない。

N:「義経」もやっていますしね。

F:もっと「桃太郎」というようなレベルであればよいのですが。

N:「桃太郎」という曲もあるのですが、それも高度になりますね。

F:長唄そのものの唄でなくてもよいとしたら。

N:北原白秋の詩なども面白いと思いますが。

F:谷川俊太郎さんから前の時代の人は、いわゆる日本語のリズムやことばの音のつながりのところでうまくつくっていらっしゃる。

N:邦楽で簡単にやれるような曲ができ、子供たちが歌えるといいと思います。

F:猪俣猛さん監修のもので、子供たちのためのリズム遊びを、教材としている。「お正月」をレゲエでやっています。日本の唱歌をリズムパターンを変えてサンバやボサノバにしてみる。遊びがてらですが、するとレゲエそのものを聞くよりも、レゲエってこういうものだとわかる。皆漠然とは知っているのですが、知っている曲で展開するとこうなるというのがあるとわかりやすいですね。オペラでも同じ曲でドイツ人、イタリア人ということで比較ができるとわかりやすいと思いますね。

N:ただ、中途半端な曲をつくると。本物のもつ古典のよさが落ちるという部分があります。「となりのトトロ」や「世界にひとつだけの花」を三味線で弾かせる楽譜もあります。でも子供は、古典の方がおもしろいという。それだけ生き残っている曲の力というのがある。

司会:さきほどのいい三味線の音を聞かせるとわかるという、共通しているところがありますね。

N:ある程度のところまでいくと古典の方が伝わってくる。その、ある程度までいくところを学校でできればすばらしいことです。僕の考えは、たかだかできてもできなくてもたいして時間もない。それは体系化されてここまできたからこういうふうにやってくれというのはないのです。まず、初めてふれてさわって、こんな音がして、こんな弾き方をするんだ、へぇ、へぇというところで充分。それでも、「末広がり」を1年間で弾けるところまでもってきた。歌曲は別、弾くことに対してです。歌うというところまでは時間がなくて、弾くので手いっぱい。

僕は2年目を新しい先生と取り組んでやっています。その子たちが少し慣れてきたから、今年は学校教育で取り入れられている「越後獅子」にでもチャレンジしてみようかとなる。時間をかけると、「越後獅子」を弾けるようになる。その上で、真似事ですが歌うことができる子もいる。歌ってみようと思う子もいる。それこそめっけもん、というところくらいの範疇です。

F:古典読みも本物の方が受けるというのは、斉藤孝さんから聞きました。専門家がいる場合は、理想的です。ここでもやっていただきましたが、和服で来ていただいて、おもむろに楽器を取り出して、組み立てて一音を弾くという、そこまで20分かかろうが、その間合い、その雰囲気、そこで一音出るというのと、頭から弾かれるのと、ずいぶんちがう。

CDだけを使ってといった場合、どんなプロデュースをするかというのは難しいですね。昨日サラ・ヴォーンの「枯葉」を使って、この中の一箇所どこでもいいからコピーをしろとやらせた。ここに来る人はすでにそのレベルを飛び越えた人だからいいのですが、小学校中学校になったときに、意味がわからない。声を出していっておもしろいとわかるとしたら、かなりレベルの高い子です。一番入りやすいのは打楽器だと思います。太鼓を叩いているのは、竹刀持たせて振りませさせているのと同じで、とても音楽的とはいえません。ただ体が動いてきて、どうせ時間を潰すのなら、自分たちも楽しもうというところに持ってこられる方が、そのレベルだと大切だと思うのです。1時間が1時間として楽しめたら、まず第一歩です。というのは僕が受けていた小中学校の音楽は、それが苦痛で」しかなかった。寝ないで起きていなければいけない。だから「魔王」なんかでバンバンとくるものがきたら、寝なくてすむという、そんなものです。

N:子供たちに教えようとしたとき、楽しませようとする努力、曲を弾かせるのにも、江戸の二大役所といわれた吉原と、よく花魁道中をテレビでやります。その中で「スガガキ(清撥)」という曲をやるのです。こっちの三味線が2本、ちゃん、ちゃん、ちゃん、ちゃん…それによって道中していくのです。あれは江戸町から京町へ行くから道中なのです。吉原に町の名前があって、江戸町というところが京都への道中なのです。

そのときに「スガガキ(清撥)」というのをやります。これは長唄のいろいろなところで使われています。単に三の糸の勘所と四の糸の勘所を押さえて、チャンと弾くだけ。それを子供たちにもやってみようかというのです。最初に、一度手を叩いていって、裏拍に入れるような遊びをします。すると子供たちが音楽の授業が楽しいという。

N:もうひとつは三味線の音に慣れることです。この三味線の音に、オペラの発声でやられたら変だよねという違和感を持たせる。音楽の先生はできないのに、歌いながら無理やりやっているものですから、こっちの方に何もできないわけです。しゃべるような感じで歌いこんで、それを耳に残していくわけです。この音が鳴っているときは、先生もしゃべっているポジションで歌わざるをえないから、技術的なことには神経がいきません。逆に対比として、語りというような感覚がついていく。それもひとつのやり方だと思うのです。僕は、あえて一緒に歌うようなことはよほどのことがないかぎりはしない。たまにこんな曲だよといって聞かせることはありますが。

司会:声楽をやられている先生もいらっしゃいます。それからピアノ科からの先生も弾くほうに精一杯で、歌う技術がない場合はおざなりになっていくか、西洋的な発声になっていくかになりますよね。

N:西洋的な発声は、かなり意識しないかぎり、先生たちはしていないと思います。それを逆手にとって、こうやって表現する。

司会:そういうときに先生が自然な声で歌ったとき、生徒たちも感じるものが何かあるのではないでしょうか。見よう見まねでビデオやCDを見ながら、お能なんかを勉強するじゃないですか。先生も、それらしいことをやっている。そこに芸団協のプロの方がきてやると、わからなくても、普通の中学生が、おおすげぇと言うらしいのですね。

N:やっぱりすごいというのはわかる、ただ、そこに近づくルートが見えないわけです。でも本当はそこのルートを探そうとすること自体が本当はいけないのではないかと思ったりもします。ストレートにこういうもんだという、今までの音楽の教え方より、こうやれといったほうが一番近いのではないか。それに近づくために発声がこうですということが、とてもナンセンスではなかったかと思ったりもします。直で行くほうが、簡単で迷わなくてすむ。

ただ、現場の先生にそれを要求するには、先生たちがご自分にかける投資が必要です。金銭的なことだけでなく時間的な投資も察していただけなければならない。そこのところをどう埋めるのかという議論にならざるとおえない。

F:となると、鑑賞ということになってしまうのです。中途半端なものを当人が見せても害になってしまうから。ストレートに一流を聞いて気づく。

N:三味線と一緒にユニゾンで歌うということを言いましたが、三味線というものも明治期になる前まで、楽譜というものを持っていないのです。縦書きの楽譜があらわれたのは、明治期になってからですね。口伝できたのです。楽器の「唱歌(しょうが)」といいまして、三の糸は開放弦がテン、押さえるところにいくとチン、二の糸はトン、押さえるところでツン、一の弦はドン、押さえるところでツン、「越後獅子」の頭になると「チンチンチントチチリチン トチチリチンチン チリトチチン…」というようなことで教えます。これ自体が歌なのです。

というよりも、楽器の演奏自体が歌のようなものなのです。だから楽器と一緒に歌うということによって、たとえば「さくらさくら」だったら「テンテンチン テンテンチン テンチンチンチン テンチンツン トンツントンツン トントントン」、これも歌でしょう。音色を三味線に近づければ近づけるほど、邦楽の発声に近くなる。そういう取り組みをしたら、もっとおもしろいかもしれません。歌詞があって、どうこうというのではなくて、唱歌として伝承されたことの歌曲として取り組んで、口三味線ということではじめたら、それなりの効果はあるのはないでしょうか。


司会:西洋音階のドレミファソラシドの発声と違って、人間の声本来のものと近いですね。楽器の音色まで近づけていっていますものね。

N:「チリリンチチリリンチ チチチツツンツン…」というフレーズがあるのです。それを「チリンチチン」ではなく「チリンチチ」、このニュアンスの違い、これが音楽なのです。そういうふうに唱歌として伝承されてきた三味線の音楽があります。笛も楽譜がなかった。それも「ヒューヤーギョー」で、置かれてきたわけです。

司会:1年や2年、入り口までしかいかないとすれば、学校教育はそこまででいいののではないかという気がするのです。本当に片鱗にふれて、そのうちの何人かが、勉強したいとなれば、余計なまわり道をしないで直接、入門した方が早いと思います。

N:無駄なことをする必要はないし、変な知恵を植えつけてしまうと、迷うことばかりです。とにかく伝承されていけばいいのではないでしょうか。

司会:もうひとつお伺いしたいのは、子供たちが喜ぶ曲という話が出ましたけれど。

N:それはつくる方はいらっしゃればいいですね。

司会:これまではどうやってつくってこられたのでしょうか。

N:長唄に関していうと密接なつながりがあって、元々長唄は演奏主体のものではなかった。演奏会という発想が生まれたのは明治期になります。市川新蔵さんという方がいらっしゃって、座付でいらした。出ちゃおうという話で、座付から離れて、しょうがないから、町の師匠にでもなってやってしまおうかというときに、海外から演奏会という形式が出てきた。それまでは邦楽は演奏会自体が存在しないわけです。演奏を聴いてお金をもらってという形ができたのは、ここらの組織です。明治の後期にあたる。

福沢諭吉のころで、日本人でありなが和魂入洋といわれる、和の魂を持ちながら西洋に通じる才能もあることが求められた時代です。邦楽をやりながら、演奏会で組織でがんばっている人がいるということで後援されるわけです。もちろん今までやったものを、長唄として洗練していくわけです。そういうことで長唄の演奏会というものがうまれた。最初に立ち上げたときは、舞台でやっている人のほうが客より多かった。今は、演奏を聞くことがあたりまえになっていますが、元々はそういうものだった。新しい曲に関してということでいうと、その中で演奏会で聞かせる曲ということでつくられてはいました。今の歌謡曲のように3分で終わるということがない。

初心者の方に教えるときに使う「めりやす」という部類がありまして、「ことぶき」や「くろかみ」、劇中に主人公が、そのときの思いを内に秘めながら舞台で歌うのです。「くろかみ」という曲は、源頼朝と馴染んだ女が、自分は頼朝のことが好きなのだが、北条政子のことが好きで、政子との縁を思い、自分の本意ではないけれど、自分の家の2階でその2人を逢引きさせている。その上の2人があるときに、歌を歌う、それにあわせて役者が思い入れをする、そのときに使う3分くらいの曲があるのです。それが例外的に一番短いくらいで、長唄と称するものは、最低でも10分くらいはかかる。だから、古典ののっとった曲で探すのは難しいと思います。つくられていても普及していない。

F:今は、15秒くらいで1曲という感覚の子供たちですからね。

N:3分の曲でも長いといいます。ただ、10分ある中でも「置(おき)」とよばれる状況説明のところがあったり「ちらし」というような最後のいくつかには分かれているので、それを1曲とは考えないで、5曲くらいを連続して演奏しているものなのです。長唄のいい部分だけとってやろうというのも先輩達にいわせると、ぶつ切りにすること自体が何を考えているということになりますが。この部分だけやるというようなことはします。

F:しょうがないですね。今の感覚で、ニュースを読むのも早くなっているし、演劇も昔のテンポでは。今、小津さんの映画のテンポについていけるというのは普通の感覚ではないですね。

N:僕たちのような中の人がそういうことをやるのは、ひとつの賭けなのです。学校の先生は蚊帳の外にいらっしゃるわけですから、ぶった切ってしまえばいいのです。

F:入門編はいいところで見せていかないと、退屈してしまう。

N:そこから新しいムーブメントが生まれてくる可能性もあります。

司会:学校の先生は、入り口でうろうろしている段階だから、そこまでの力があるかどうかはわかりませんが。

F:今や和楽器の若手の方、歌舞伎でも何代目というのがスターになる。そういう状況は10年前まではなかったですよね。今の子にとったら、一時より声楽、洋楽やジャズなどの方が遠くなっている気がします。私たちのころは、フォークと洋楽と二分割、両方が日本の中に溢れていました。今はそれほどまでに影響を受けていないでしょうね。生き方で欧米の特定のヴォーカリストが好きだという人はいますでしょうが。

N:「ぶんざ」でご一緒させていただいた酒井俊さんというジャズヴォーカリストがいます。日本語でジャズを歌って、さんざん批判されたといわれていました。ジャズファンは、日本語でジャズを歌われるのが嫌みたいとおっしゃるのです。僕は気分転換に福岡に行ったときに、ジャズのライブハウスに行くのですが、そのときにマスターに「日本語でジャズ歌われるのはいや?」と聞いて「ハイ」と、笑ってしまいますよね。

F:極端にいうとジャズファンは、日本人がやるのは嫌、もっというとヴォーカルつくのは嫌ということになりますよね。ジャズヴォーカルは本場でもちょっと別物、サラやエラのように楽器レベルにこなせる人ならいい。ただのヴォーカルくらいだと邪魔だという感じでみられてしまう。ジャズも長くやるのに、ヴォーカルが入ると3分一曲くらいしかない。そういう意味で音を追求すると、そこについていけるヴォーカルは天才的な人でないとむずかしい。楽器レベルに声を使える人は限られています。


司会:あるコーラスの結成10周年コンサートに行きました。けっこう日本語の歌のほうが多かった。昔の歌舞伎を素材にしたアカペラのコーラス、瞬間的に声をかけてもバーッと音が流れてくるような。その前に話をしましたが、日本人だから日本語にこだわりたいというのです。別のステージで「五木の子守唄」を彼女が歌ったのも、それがすごくいい演奏で、あの年齢にならないとできないのかなとも思いました。ゴスペルやジャズを超越して「五木の子守唄」を歌うオリジナリティですね。

F:皆、そこに戻りますね。カルメン・マキさんも子守唄で復活した。そういう感性があるのは日本人のDNA.。私は綾戸智絵さんなんかも「夜空の向こう」とかの方が好きで、向こうの曲を歌われると、比べてしまうからでしょう。声のかたさとか、動きのドライブ感と軽さとか、比較の基準ができてしまう。日本の歌はぜったい向こうができないといったら変ですが、そういう意味でいうと皆そこに戻ってくる。お客さんもそこで受け止めればジャンルは関係ないと思います。

ファッションでも日本から出て成功した人は、和で出て行っています。そういう意味でいうと、ジャズやロックのコピーで世界には出て行けない。オペラはわかりませんが、たぶん一度戻さないと。音楽の場合は民謡文化で、生活や土壌がないと、戻すところがない。落語家でも苦労していることだと思います。彼らは客をずっとひっぱって育ててきた。そこで先代を見た。客の方も弟子を育てていたのでしょうが。その関係がくずれたときに衰退する。

日本のジャズは私から言わせてみれば、特異な環境。身内の中のひとつの名目。30歳くらいにになると歌う場がないから、ジャズをやりだし、そういうところに入っていく。5,60代の音にうるさいおじさんおばさんたちと共演することになる。どうも合わないというか、本場と違うところ。僕は松本さんや鈴木さん、けっこう亡くなられましたが、ああいう和風ジャズ日本人がやっているんだという開き直りのところでやっているものはけっこう好きというかおもしろかった。どっちつかずというのは、比較基準が出てしまうからです。これが日本人の限度なんだと思ってしまう。向こうのものを聞いた軸から見てしまうのが嫌なのです。オペラやミュージカルも同じです。日本ですごい優秀で、ミュージカルなどをやっていても、そこに比較が出てしまう。純粋に比較すると負けてしまって出てしまう。オリジナリティという部分をこれまで越えようとしたときに、オペラも、日本オペラの試みというのはずっとあったのですが、まだ難しいのかなというのはあります。


司会:この前、あるソプラノの「夕鶴」を観にいきました。第一声を聞いたときに、「これはだめだ」と思いました。誰でも知っているストーリーで、日本のお話ではないですか。それをテナーとバリトンが朗々とした声で歌って、気持ち悪い。日本のオペラとしてあんなものでは出口はないと思いましたね。

N:朗々と歌い上げることがない民族ですからね。

F:私の講演なんかにくると、参加者が「先生の声って普通ですね」という。普通じゃないというのは、オペラ歌手みたいにしゃべることを期待するのでしょう。でも私は、そうできないのではなく、2,3時間しゃべるのに、その声を聞かされたほうの身になり、相当に押さえています。この場でやったときに、日本の生活で日本の距離感で調える感性がなくしては、プロはやれません。ただ、ロックにベタベタに漬かってきた年代でも、いつまでも聞いているかというと、さすがに年齢をとると聞かなくなってきている。食べているものや気質、無理して向こうと張り合ったりも、味噌汁とご飯ではそういう気にならない。それが文化なんだなというのが、やっぱりある。夜、食事のあとにオペラかというと、邦楽がいいかも。すごい失礼ですが、寝ててもいいしという感じ。若い子になったら壁があるかもしれない。その辺の遺伝子の問題ですね。それがはたから入っていない子はどうなっていくんだろうというのがあります。

ファミコンのゲーム音楽では、最近のテーマパークやスキー場だと電子音楽がBGMにかかっていますが、私は耐えられないのです。そういうものが入っていると、楽しくなってくる。条件反射です。そのときに楽しいことをしていたのだから、その体験が入る。私はデジタル音には不快な想いをしたことしかない。ゲームも楽しんだことがない。一番先に子供たちに負けたのがゲームで、大人の威厳がそこでなくなってしまう。それ以降はさわっていません。生まれてから何が耳に入ってきているかというのが、大きな問題です。ああいうものが入るより、オペラや邦楽漬け、なんでもいいのですが、何かしら人間のアナログなところから出てきたものが入っているほうがいい。

オペラの先生が悪いのではなく、そこでしか語らないから悪いだけで、一流のオペラ歌手になら許容範囲が大きくなってくると思うのですね。日本人の場合、声域で精一杯だから、余裕がない。パバロッティなんかを見ていたら、発声の練習自体が意味ないと思います。そういうふうに思われなければあのようになれないと思います。日本の声楽家を見ていると、本を見て2,3年、学んでがんばってみようかと思える。もちろん、天才がいるんだと思ってしまったら、夢もなくなってしまいますが。

N:音楽というのは、誰にも等しくあるのに、そこで自分の生き方と音楽が隔絶している。だから明治期も音楽の授業はやらされるものであった。今回も、邦楽を必修にしようというのは、上から与えられたものであって、自分の中から湧き上がってきたものではないという状況です。かといいながら、とても感激したことがあって、歌うということは生きざまをさらすことだよね、と歌い続けてきた人はそう言う。

その中で、長唄の中で歌うということは生きざまをさらしていることになるのかというと、ひとりの唄うたいとして考えるわけです。もっと違うのではないかと考えることがよくあるのです。自分が長唄に携わるようになって、10年前も迷っていた、子供たちのなかに音楽を与えるのでなく、芽生えさせることができるのが一番大事なこと。そのことによって長唄をぶった切って批判されても、たいしたことではないと最近思ったりします。おっしゃるようにパバロッティのように生まれた人しかやれなければ、そう生まれなかった人は絶望的ですよね。でも自分の声で自分の歌を歌うというのが歌であるとして、それをいろいろな障害を取り除いてやるのが、大事と思います。変な話ですが、プロとしてお金をいただく以上、それための芸を考え始めると、どうしたらいいのかわからなくなりますが、とりあえず一番やさしいところから入れるとは思います。

F:私もわからなくなると、声まで戻ってしまうのです。オペラや歌と考えたところで、では歌ってそもそもなんだったのか、日常で言いたいことを言ったり、繰り返したりしていたら、詞がついてきて格好ついて、皆でやったら楽しかったよというくらいのものだった。上からやってしまうと、楽典やって楽器買って、バンドを探して、声量や高い音が出なければとか、そういうことになってくる。

音程など全部壊してみたって、ピアノや楽譜があったのではなくて、たまたま皆がいいねという歌は、楽譜にきちんと書けるようにで、心地いいなという感覚のなかに秩序があったわけです。だから、そういうところまで分解して捉えていったら、別に歌とわけなくても日常で声を使っている、声も歌も使わないより使ったほうがよければ、その分使えばいいのではないか。使ったほうが相手も伝わるからという根本の理由があった。私もトレーニングの期間、時間に加え、お金を払ってくるというのは、特殊な期間であって、そういうことに麻痺してしまう期間、うまくならないと人前で伝えることができないとか、感動させることができないとか考える時期、これは選んだ人にあってもよい。

かたやそんなことは関係なしに、日常でやっている人もたくさんいる。普通に家族と会話して伝えていくことを伝えたいことを伝え、想いを伝え、泣かしたり笑わせたりしている。そこで使っている声の方が、よっぽど豊かでいろいろなバリエーションがある。習うまえにできることがあるのではないかと。

そこまで原点に戻したときに、何をやっているんだろうと私なんかは反省します。トレーナーにも言っていますが、普通のときのほうが声が出るね、トレーニングでは出ないというような、トレーニングは魔物というか、Nさんが言われたように、トレーニングがあるとか本を見たときから、間違いではなくていばらの道へいく。それが、昔は、より高いレベルになるためにはしかたないと言えたのですが、今はそうではなくて、難しくして自ら動けなくしてしまっているほうが多いという感じになっています。依存症になって安心を入手したい。学校に行けば頭がよくなるとか、留学すれば英語が身につくというのと同じですね。

必要性があればそうなる。私が一般的な本を書くようになったのは、プロはプロのほうでレッスンでやっているのだから、言う必要はない。逆に一般の人の中でもって、声を意識して聞いて、使うようにすれば、それで歌になる。そこは実演家とは違ってくるとは思います。もう一回ベーシックなところに戻らなければいけないということはありますね。

N:体は理屈では動かない。スポーツ選手だとやる。そのことを知るのはとても大事だと思います。実感できるということ。イメージでしか動かない。理屈で体は動くのではない。それは極端にいうと、学校の勉強とは相反するのですね。英語や他の教科と違い、音楽、体育と同じ。イメージでしか変えられない、自分が思っているほど体は動かないと、それをわからせることも学ぶことです。

F:学校に有名人が来て授業をする番組がありますよね。私が見ていると、芸事をやってきた人は、できるだけ教室を離れてどこかに連れ出したがる。そこにいて教壇に立ったときに、すでに生徒の声のいいところが出にくくなります。素人は、よい声が出ないのではなく、よい声と悪い声の区分けに素人で、自ら切りかえられないということくらい。本当のことでいうと一番いい声から実力をアップしていくのがトレーニングなのですが、そのよい状態を目的にしているところが大半。ヴォイストレーニングの教室というのは、一番悪いところのさらに悪いところを、最低限のところにやろうとしているところがほとんどなのです。日常のなかでもっと楽に使えている声はもっとたくさんあるのです。

ところが、教室にきてやる。先生が何かを言う。姿勢を正したりする。そうしたらそのときが最悪の状況です。声なんて出たがらないような状況なのです。そこのところでレッスンを受けたりするから、ストイックな人でないかぎりだめですね。自由、創造、個性の出る由がない。演劇なんかから入っている人、お笑いの人は、自分たちで楽しみ、それで伝わらないから、その必要性を感じてやるから、伸びます。

芸人をみていますが、はっきりいって効果が上がっているのは、トレーニングでなく現場なのです。現場でかんだり最後まできちんと言わなければ伝わらないということが本人に入ったときに、自らのトレーニングの中で直っていく。そういうとこちらは無力、やらない方がよいのですが、そこで解決しない問題、想定される状況に応用できる基本をつくらせる。当人たちはトレーニングで効果が上がっていると思っているけれど、それは現場で効果が上がっている。客観的に見ると私もわかるのです。

その現場を持っていない子がどんなにやっていても、そんなには変わらない。しかし、プロでもアーティックなレベルにいくには、現場の厳しさなど吹き飛ぶくらい厳しいレッスンの場が必要なのです。それをすぐにうまくさせて、元の状態に戻している。ほめて伸ばすというのは、わかっていないからで、トレーナーは、自信をつけさせたらそれでよいとなる。相手を最悪の状態にして、戻します。それは力をつけたのではない。そのトレーナーと親しみ慣れて声が普通に出るように戻っただけなのです。

N:教えるということは、子供を育てるのと同じで、口で言っても聞かないのだから、自分はこう生きているというのを見せて何も言わないというのが、やり方としては一番正しいかもしれませんね。

F:世の中、面白いものがあって、こんないいものがあるんだよというくらいのものをさりげなく置いておく。目につくように。それを与えたりこれをやりなさいというところで、もう無理が働いてしまう。

N:教えないことが一番の教え、教わらないことが一番の学びということだと思ったりしますね。

F:スポーツと似ていますね。結局、センスのある子だと一流のものにひきづられるようにして伸びていきますが、そこまでの人は非常に少ない。そういう子はCDを聞いているだけで、声も出るし歌も歌えるようになっていくと思うのです。中西さんのようなタイプはそうなのでしょう。勘がいい。大体の人はそうではないから、違う面から音楽を与えたり、刺激を与えたりすることによって、どちらにしろ内的に気づくことをおこさないかぎり、変わりません。今までがそうだったから、歌や声はおもしろくて、うまくなっているはずです。

他のことは10年20年やったら、上達する。ところが歌は1年2年ですごく上達する人がいる反面、30年50年とやってもだめな人もいるのです。

それは教え方やトレーナーと相性が合わないということもあるのです。じゃあ、どうするかというと相当、自発的に、本人の中で楽しむということがなくてはいけない。若い子たちが声を出せない歌えないといっても、カラオケにあれだけ行っているのですから、けっして歌は嫌いではない。声出すのは楽しいんですね。

ただ学校というのは、なぜかすごく音楽嫌いを作っている。そういう意味では音楽が選択になってなくなるのはいいのかもしれない。音大でやっているバンドより美大でやっているバンドのほうが、ずっとレベルが高い。なんのために音楽やっているのか、音楽に対して見えなくなるために勉強している。美大の連中は、しょせん音楽なんてということでつきはなしてやっているからいい。

N:やればやるほど、手も足も出なくなるんですよね。

F:誰かがセッティングするというのが必要だとは思います。子供たちは気づかないし町の中では音楽にふれない。声の環境。日本は駅などでもうるさすぎるのですね。耳が疲れてしまう。何から何まで余計な音ばかり、もっと静かになると、いろいろなものが聞こえる。田舎はそういう意味ではよい。私も田舎に住めば、長唄のペースになると思います。1時間くらいの曲をちょうどいいと思う。ここにいると1分の曲も長いみたいになる。島唄ではないけれど、エキゾチックとまで言ったら変ですが、生活の入っているものに興味を持ったり、昔の曲をリカバーして使うようになってきた。ただ、今の子はむやみにテンポを上げてやるのです。2倍3倍くらい。

N:そうなんですよね。教えると早弾きをしたくなるのです。早く弾きたい。

F:楽器は、そこから覚えるのですが、よほどいかないとためることとか間の意味というのは、今の子はわからないですね。なんて伝えたらいいのでしょう。

N:三味線の場合は余韻とか音色のことをいうので、それは聞かせてやるしかないですね。こうやって指で押さえると響きが消えてしまう。それでフレットがないから押さえてやると響きが残るでしょう、ここが音楽だよ、感じてというのですが。日本に古くからあるからといって、たいしたものだと思う必要はない。「感じて、いい音だけを感じて」という。それを感じられたらいい音で弾けると言うのです。そうでないものを、これは伝統音楽です、日本人として伝えなければなりません、と伝える必要のないものを伝える必要はないのではないでしょうか。

F:そういうふうな耳ができていると、子供でも感じますが、先生なんかがやってしまうと、「ドレミ」とやってしまうと「ドレミ」をつなげることが音楽となってしまう。そこに書かれていないところの切り方、ちょっとしたニュアンス、その間合い、そこでしか相手、つまり客と交流できないのに。そちらの方が音楽であって、それを出すために「ドレミ」があるのに、そういう考え方というのがないのです。それは教え方やことばで言うことではなくて、感じていくことなのですが。すると、他のものを受けつけられなくなってしまうし、本当のことでいうと、西洋の音楽もそんなものではないのに、伝わりにくくなってしまう部分があります。原点のところに戻ればよい。

打楽器というのは、人間が何かを叩いたら、反応する。まわりの人も反応する。ゲームの初期感覚みたいなことと身体の感覚が結びついているから、わかりやすい。声なんかも本来はそうなんです。日ごろからもっと使っていたら、声は人にどういう働きかけがある、どういうふうな声をかけられたら嬉しいとか悲しいとかいうレベルのものが入ってくる。あいさつの声なんかで違和感ないのに、それが入っていなくていきなり2オクターブの曲がぼんとくると無理ですよね。

F:さっき言ったとおり、洋楽邦楽という垣根がないと思うのですね。

N:面白ければいいし楽しければいいし。

F:本当に面白くて繰り返すものは、何か奥があるなというくらいのことはわかるし、伝えられる。下手な勉強をしたりさせなければ。

N:ある程度やらせると、古典を聞く、これはできないなと思うようになるし、じゃあできるようになりたいというところで繰り返しですからね。

F:斉藤孝さんも言っていましたが、漢文なんかを読ませていくと難しくて、本当に意味のわからないような名文を好んで、そうでないものはつまらないと言い出す。何かしら語感かリズムか、頭で働きかけるものでないものが働きかけるようになれば、そうなるのでしょう。やっぱり本物を何か求めているような感性はあるのですね。本物は、そうして求められてきたから残っているのです。

単に面白い面白くないというレベルであっても、それを何回か与えないと、わからない。その前に自分から望んでやるとか、探したりしない。そこに教育のエデュケート、与えて引き出してやる。子供たちが田舎に行ってテレビゲームを取り上げると退屈してしまうのですが、何日かたつと面白いことを考え出したりする。そういう環境や機会を与えないと、わからないですね。親も先生も与えていないわけです。

サウンドスケープといって、歩くと音が出るとか、音風景という演出があります。地方や海外に行くと、音楽の体験ミュージアムのようなものがあって入り口となる。日本でいうと、科学館で波が起きたり電波が光ったり、そういうものの音楽版です。叩くと音が出るとか楽器に触れるとか、いろいろな国にあって、ああいう体験ができれば、難しいことではないと思います。

様々な音楽の楽器をばらかして、使えるようにしておけば、それだけで子供たちは中高校生くらいまで楽しめると思います。ここに来たビジネスマンが、あれなんですかといってレインスティック、動かすと雨の音が出るのですが、それだけで10分くらい遊んでいます。案外、そんなに遠いものではなくて、材料をどう与えるかということです。発声や歌になるとまた、カラオケもあれだけ日本で定着したわけですからね。潜在的な欲求はあるのです。

N:歌いたいという気持ちはあると思います。交通事故の4倍も人が自殺する今の日本ですから、皆、心の中にあるわだかまりを吐き出せないで、抱えている。そこに、それを託す歌がない。あっても郷土ベース?にのっている。本当に歌って想いを刺激しているときは、自分も快感を得ているという状況がありますから、皆が歌いたいと思っている状況はたくさんあると思います。

F:70代くらいの同窓会を見ると、皆で軍歌や効果、寮歌を歌ったりしている。そういうものがあるのはすごく幸せですね。僕らはないですもの。全共学世代だったら、まだフォーク、歌声喫茶で歌っているというのがあるかもしれない。

N:歌声喫茶はまた復活しているみたいですね。

F:スタンダードナンバーがあって、全員が歌える曲がある。グループサウンズも、まあ、ピンクレディまであるか?

N:うちに稽古にきている方が、若い頃は歌声喫茶で育ってきた。そこで、相談を受けるのです。長唄に影響があるか。かまいませんから行ってくださいというのです。歌は一緒ですからと。そういうふうに個別に分散化されるという感覚が不思議で、笑ってしまいました。

F:ああいう流れに日本は、すべての世界のリズムや歌が入っていました。ロシアの「カチューシャ」一曲でも、ロシアという国土や人の気質は、こんな雰囲気なんだと伝わるものがあったのでしょう。今は、高校生のアカペラですね、あとヴォイスパーカッション、こういうものが若い人に人気。特にアカペラサークルなんかは増えたらしいですから、生声で出したいとか、人とハモりたいと。カラオケではなくてもラッパーやヒップホップの影響かもしれません。

そういうものをあまり似合うとも思いませんしうまいとも思いません。ジーンズはいてダボダボにしてみたって、黒人とは違うし、金髪にしても。でも、やらないよりやったほうが、よい。ホコ天でも何でも、やらないで引きこもっているくらいなら、声は健康的ですから。ダンスでも何でもいいですね。駅では通行妨害にならない程度に。

F:日本の大道芸というのは、私などもなるべくサポートしてあげようと、立場というのがよくわかるのですが、どこでも練習するなという感じのレベルです。石原知事が認定したくなるのもわかります。外国のパフォーマーはプロだから、芸なのです。邪魔ではなくて1時間くらい見ていたいと思うくらいの歌音楽が、日本だとそこ邪魔だという、練習してから、公共の場に出しなさいと。日本のよさでもあるのでしょう。

N:途中をさらすという傾向ですね。でも、日本の文化は、昔の花伝書でいうように「秘すれば花」だったわけでないですか。それを忘れている。練習するところは一切見せない。

F:人前では格好でなく、練習するところを見せたいわけですね。それが格好よいと思う人も、どうでもよい気分の人も、それ自体、ライブの人もいます。練習する場所がないのもわかりますけれどね。自分の姿がうつるガラスのところで踊ったりしている。

司会:私の通勤途中、最寄り駅でも、しょっちゅう歌っているのがいます。悪いけれどヴォイストレーニングに通ったほうがいいと思う。でも、うちの奥さんは「あの子、けっこううまいよね」という。そうかな、と思う。

F:流しっぱなし、出しっぱなしということで、それでも感動する人はする。それは芸でなく、歌や声の力ですね。

司会:練習という意識すらなくて、半分練習で、まだ完成されていないのに、その段階で目指したいとか、今までは修行を積んで、見せる段階になったら見せる。今ははるかに手前から見せてしまうという、変な感じですよね。

F:やっているだけ、まだいいのですけどね。早くからやって早く気づいて、そこから、本気でがんばればいい。若いときにやらなくて、あとで来るよりは、10代くらいからやって、こんなことやっても何もならないんだな、人を10人集めるのは大変なんだとか、こんなにやっても誰もお金を入れてくれない、世の中冷たいんだというディスコミュニケーションも学べる。その体験をもって、じゃあ何が歌なんだと考えると思いますよね。本を読んで教室に通って夢みているよりよい。厳しいけど、夢でない現実にいるのが大切です。

どちらかですね。師につく、そうやって打たれ強くなって、乗り越えていくか、一人でもがいでつかむか、本当にすぐれている人は両方があります。

音楽はバンドがついてしまうと本当に楽になってしまうのです。楽しくて成り立ってしまう。それでアマチュアとして楽しむなら、何も言わない。自分たちでしっかり働いて、そのお金でやるんだから。プロになりたいというのに、自分たちが楽しければお客さんは楽しんでくれると思っている。それは大きな勘違いですね。最高のものを追求するのは苦しいものです。

もったいないなと思うのは、最高のさらに最高を目指せばいいのに、レベルの低い人と組んで群れて、ステージを落として楽で楽しくて満足する。見る人が見たら、本当にあとでやれるようになる人は、何やかんやけじめをつけてきちんとステージをやっています。下手なところは絶対に見せない。間合いに関しても計算している。技術的なことも考えている。詰めが厳しいですね。教室でけっこう歌えていたというくらいの子は、歌や声はいいけれど、こういうところに立ったときに生きるような演出が自分たちではできない。


N:その辺はプレーヤーとして一番つらいところでしょうね。プレーヤーで音楽に集中すればするほどプロデューズとか、メディアのことについては自分ひとりの力では手にあまる。

F:そこは才能のある人間を頭下げてでもひっぱってこないと、できない。でも、ちょっと可愛かったり格好よかったりすると、やってもらっているのにできるつもりになってしまう。そこは別の才能です。歌や声がよくなくても、トータルプロデュースが優れている子やダンスができる子の方が、先に現場にいってしまう。後で伸びなくなってしまう。本当に力のある人しか最終的には残らない。

N:プロデュースする人たちも育てていかなければいけない、というところかもしれませんね。プレーヤーになりたい人はいっぱいいると思うのです。本当はプロデュースする人を育てて、プロデュースのすばらしさをもっと理解することが必要です。プロデュースするということがいかにすばらしいことであるかということをどれだけアピールできるか。

今、歌舞伎がブームです。歌舞伎座からはじまって、博多、大阪、名古屋でも、そういう状況が現出しています。ところが全部、松竹でしょう。

十年後に歌舞伎がどうなっているのか。僕は、歌舞伎に出るなといわれたのです。僕が草の根的にやっているのは、自分が食べられなくても収入にならなくても、かまわない。ただ、自分が好きでやっている音楽のために草の根的にやるしかないというのがない。

F:欧米などはプロデュースシステムがあって、こんなことを我々が心配しなくたって、ずっと優秀な人が、プロデュースする。お金を集めたり、配分したりする。同じ才能があれば、そちらの方にいきます。日本はほとんど芸術家やアーティスト自身がやらざるをえない。プロ野球なんかも、野茂のときから、野村さんの息子が入ってきましたが、選手の代理人といったら、うさんくさい、立ち入り禁止という感じですからね。

私は、自分が聞きたい音楽や歌い手や歌や、この世の中から身近なところからなくなってしまうと、すごく悲しい、つまらないことになってくる。そういう想いで守る。自分の息がかかったというものではないけれど、ハイレベルなものを踏まえたものは残していきたいというのは、根をつめていくとありますね。これは変えてはいけないという部分と、変えないとだめだという部分、これにはNさんほど制限がありませんが、それでも各界のいろいろな人がくると、ジャンルという考え方ばかり日本はする。ヴォーカルといっても、アーティストもだめで、ジャズヴォーカリストとつけたりシャンソン歌手とつけたりしないと仕事がこない。当人もそれを意識するから、今度はラテンで行こうとか業態転回する。Nさんのおっしゃるように決めたら動けるというのは、ポップスから見たらうらやましいかぎりです。


N:長唄と決めていないとだめですね。僕は長唄と決めているから安心して暮らせる。たとえば邦楽なら何でもいたしますと言ったら、下に見られます。端唄もやります、小唄もやりますでは、あの人はひとつのことができないから何でもやっているというふうです。

F:日本の考え方ですね。ひとつのことができているから、他のこともできているとは見てくれないですね。

N:昔の花柳界でも歌の名手はたくさんいらっしゃったそうです。びっくりするくらいうまい方、花柳界ですから、お客さまのお座興に勉強なさるのでしょう。だから三味線音楽は芸者さんの音楽だと見られていた。しかし、少しずつ芸者さんの存在自体が、若い人たちだと芸者?芸者ガール?という、コンパニオンみたいになってきた。芸者と芸の関わり合いが希薄になってきていて、そのイメージが変わってきた。

F:役者と歌手というのは、乞食みたいなものですから、元々格好よくやってきたわけでもないし、だからこそ根太い力もあったのでしょうから。

N:いろいろ考えさせられるお話で、いつも福島先生と話をすると、こういうとりとめのない話になります。

F:今の置かれている先生の実状に対するアドバイスになりましたが、紙面で、邦楽発声法というのはどうしようも伝えられないということ。

司会:扱っているものが生ものですから。これがマンツーマンだったら実施でやるのでしょうけれど、これは活字ですから。

F:CDにレッスンでも何か曲でも入れてもらって、学校でかけてくださいというような企画でもなれば。

司会:邦楽のジャンルの違いなんかも、適当に入って、エクササイズ的なものになるといいですね。

N:先生方というのは毎年転勤で変わってきますからね。先生が変わるというのは、生徒にとって一番のネックだと思います。

最低2年間、積み立て授業というのを現場の授業として考えるとしたら、2年間のうちで何ができるのかというのが基本的な考え方ですよね。

F:いろいろな考え方がありますけれど、美術の先生や音楽の先生は、その人しだいで、生徒に影響力が大きい部分はあります。体育の先生は、生徒指導やカウンセリング的なことになりますが、芸術的なものを育てるというのは、オリンピックに出すくらいに難しいでしょう。美術や音楽はそうではない子たちに対して、非常に大きな力がありますからね。アーティストだけど食べるために一時高校で教えて、辞めて、後に作家や画家になった人、それなりに見識のある方がいますね。

N:音楽の先生には、邦楽を持ち込まれたら、今までやってきた音楽教育はいったい何だったんだろうとなる。うちでやっていただいていた先生は、自分のなかにはユーフォニウムをやっていたので、もっと吹奏楽を取り入れたいという想いもおありだと思うのです。自分が吹奏楽でやりたいといって、でも指導要領の中で邦楽をやりなさいといわれちゃったと。

F:それも考えものですね。音楽の心を植えつけるなら、その先生の一番得意なところからやる。そのことで伝わってくるから、説明できますものね。

邦楽でも、まいったなと言いながら、生徒と一緒のレベルで、生徒と同じ気持ちで何だかわからないけれどやってみようか、えーそうなのーという感じで一緒にやっていければいいのですが、まいったな、本当はやりたくないんだよというのが、表に出る先生がいると、最悪ですね。

N:でも、それが正直なところでしょうね。

F:生徒の前で愚痴を言ってしまうと、マイナスにしかならないのですから避けたいところですね。