会報バックナンバーVol.174/2005.12 |
レッスン概要(2005年)
■レッスン
○留学の現状
私の知人は、海外にバイクライダーになりたいと行ったけれど夢がかなわなくて、パイロットの免許をとってきた。日本に帰ってきたら向こうのものは、認められない。向こうで就職するというのはけっこうできるのですが、日本はそういうものをなかなか受け入れてくれない。海外に行く人もまたニートなのです。登校拒否やいろいろな問題があります。
彼も本来は留学というエリート教育のほうをやるつもりだったのに、もともとは商社で向こうに行ったエリートのお子さんたちが、そのあと、そこの現地で家族が戻ってしまっても高校を辞められないということでやっていた商売らしいです。
今行っている子たちというのは、日本では適応できないから、向こうに行ったら、適応できるわけではないのですが、それでも日本人よりも社交性のある国の子、だいたいマイノリティでのグループができます。インドや韓国から来ている子と元気になり、立ち直って戻ってくる。
普通の留学というと、だいたい英語がうまくなりたいということで行くわけでしょう。向こうに行ったから身につくわけでもない。必要性を感じ、日本で勉強したから何とかなるようになるので、日本の教育のほうがずっといいです。
向こうに行って語学が身についたとしたら、それは日本で基本が入っているから、その辺の大学に入れる力があるからで、まったくしゃべれない連中が、単語もわからなくて行ったら、困るだけです。学校の場合はだめですね。働いたらいいのです。働いたらしゃべれるようになります。
○国際性とは
学校と現場の違いをどこかで見ておけばいい。国際性というのも、国際連盟や国際連合でわかるように、国際といったときには、対立する考えの人のコミュニケーション、国と国との利害調整の意味で使われるのです。コスモポリタンではなくインターナショナルという意味で、それは国を越えて仲良くやるという意味ではないのです。国と国がぶつかってしまうから、そこでどうやってコミュニケートするかというところで入るのです。ということは、海外で生活をするとわかるのです。
○仕事をしてみえてくる才能
まず学校に行くくらいでは、ぶつからないのです。皆、仲良くやろうと思っているし、そんなに関わってきません。学校にいるとぶつからない。音楽サークルのいい友達になります。一緒にやれる友達見つけたとなります。仕事になるとそうはいかないのですね。そこにはそれぞれのポリシーがあって、それがぶつかってくる。
たいていサークルでやっていると、それがメジャーにきちんとした活動になってくると、仲間割れします。そこに才能のある人が2人いて、サークルのなかで、いつもめちゃくちゃにぶつかっている場合、こういう人たちは日本ではまれですが、成功しています。すでにサークルのなかに対立があり音楽的にぶつかり合いがあり、そこのなかで、厳しい競争があった場合だけです。
学校というのはそこを避けます。準備期間に、そんなことをいちいち起こしていたらいけない。しかし、世の中というのはそういうものですから、学生が海外に仕事をしに行ったときにまずぶつかる。そういうときにアイデンティティになるものが問われます。自分が生まれ育った国で得た習慣ですね。
○儀式は他人への尊重
旅行でもアラブやイスラム方面に行くと、何で今休みなんだろうお祈りの時間ということで、予定が中断されてしまう。この期間は入場できないと、悲惨な目に合います。そうやってぶつかって、こっち側の意見を通すわけにはいかない。それは現地に従えということではなくて、考え方が違う。言えば通ることもあります。
ホームステイにしても、教会に行かない。それは自分の考えだという日本人もいるというのです。現地に行って、共に暮らしていくときに、かたちに表さなければいけない部分というのは、あるのです。
牧師さんのお払いからされて、洗礼も受けていないのに周りの人に迷惑だろうと言ったら、いや、しないことが迷惑なんだと。学校はカトリックなので、自分の意のままにならないことがあるということを知ってしまえば、楽なのです。
国旗掲揚でも、争いは、教育委員会が見て先生や生徒をチェックする、生徒がしなければ、先生が処分されるかなどというようなところまでセットアップされてしまう。心の自由までは犯せないので、形だけやればいいのです。心のなかでどう思おうがいいのです。
昨日のサッカーでも日の丸を持って、選手がそこで問題になってしまった。中田(英)なんかは笑っていました。
それが不謹慎かどうかなどということは、表情に出さなければよい。心のなかで何を思っていてもいい。その場でそういうものがひとつの儀式としてあって、認められているものであれば、参加する限り、かたちとしては従わなければいけない部分はあるのです。
私が怖いと思うのは、あんなことで国旗掲揚をしないとか国歌を歌わないとか、声量問題になってしまった。そんなことを言い出すから、声量を出しなさいとか、立って歌いなさいとか。私たちの頃は、どうでもよかったのです。そんなことも言わなかったから。ああ日の丸が揚がった、歌えばいいのかな。
でも歌っていない。心の中は自由ですよ。そんなことを訴えだしたり、人権侵害だということを言ってしまうと、言われたほうはやらざるをえなくなってしまうでしょう。そんなことをいうから、全員立っているかチェックしなさいとかピアノの教師はそれを弾きなさいとなる。昔、私のころは誰も弾いていなかったり、生徒でうまい人がいたら、その人が弾いていたり、自由だったわけです。そんなことで予算ばかりたくさん使って、法令化して、またきゅうくつになる。
だから心の中と実際の行動は違う。違うから、じゃあ、心の自由を侵された。そんなことは海外に出て、いろいろな人たちと生活していたらわかる。それぞれが違う意見を持っていていい。
その場が、キリスト教の学校に入るのであればキリスト教を尊敬しているふりをしなければいけない。そのくらいの融通を利かせられないことが、人間としてどれだけおかしなことなのでしょうか☆。自分が思ったとおりに行動することがすべてではないのです。
そんなことをしたら全部ぶつかって戦争ばかりになってしまいます。
そういうことをやっているのが、今の教育者です。マスコミもよくない。若貴のことも、どちらかが黙れば済むのです。真実は自分の心のなかにある。
訴えなければ、自分はどんどん悪者にされてしまうから、どんどん言って、誰にもべらべらしゃべっていけばいいというのは、日本人の美徳がどうこうとは言いませんが、非常にレベルの低いことになってしまう。宗教や信仰心がなくなってくるとそうなってくるのかなという気がします。
何かいやだなというのは、自分さえ楽になればいいというような思想です。何かをやっていくためには、絶対にきつくなるのです。自由な考え方で自由な行動をしてはいけないのか、ということになりますが、葬式のときには、あなたもGパンでは行かないと思います。
その辺のことをもう一度考えていかないと、最近世の中が騒がしすぎますが、たいしたことで騒いでいるわけではないということです。もう少し本質的なことを見るようにしていきましょう。
いろいろなアーティストは、よい作品を残しました。そういうことが何よりの主張ですね。
本当にいろいろなもので振り回されていて大変だとは思いますが、東京で、さらにテレビに振り回されないほうがよいのではないかという気がします。
Q.歌というのは人間性が必要だと思うのです。技術だけ見ているのはありえないということで、歌が芸事である以上、あるいは歌詞が前面に出るものである以上、その人だという人間性、人に語れるほどの人間性、立派だとかそういうことではなくて、面白みやピエロ的な人間性が必要だと思うのです。歌手を目指すということにおいて、それを成し遂げるためには、そういう人間性を出ていく生き方をしなさいということでしょうか。
A.さらすものはピエロ的なもの、それも人間の一部ということです。歌手とはいわないけれど、前に出る人に問われる一部分ではあるのでしょうが、ピエロ的にやればいいということでもないし、ピエロも芸です。
さらすということも本当のことで言うと、必要ないことですよね。若貴でいうと、土俵以外のことをさらす必要はいっさいないわけです。
確かな技術ということで成り立つ部分においては、厳粛で、歌だったら歌に対する力のことです。
ただ、時代やまわりがどういう状況にあるかということで、ジャンルによっても違いますね。たとえばもう確立しているジャンル、野球やサッカーであれば、求められるレベルはすごくはっきりしている。
その人の人間性ではなくて、成績です。国を追われたり、犯罪を犯したりしたら、プレーはできない。マラドーナのように入国禁止のようになっていると。でも、そうなっても、その国ではスターであったりファンがついている。成り上がっていく時期には、そうはしない。偉くなってからでしょうか。
歌い手にとってその人が面白いかどうかとか、どういう生活をしているかどうかというのは、はっきり言って関係ない。公務員をやっていようが、サラリーマンをやっていようが、何をやっていようが、歌い手であれば歌で問えばいいことです。歌に表われ出たものが全てです。
Q.歌のなかに何かしら人間性が出ているような気がします。それは僕が好きな歌い手がそういうタイプなだけでしょうか。
A.そうでしょうね。歌や声や数学などには、あまり関係ないかもしれないですね。その人がどのくらい教養や経験があるのかも関係ない。10代でもデビューできてしまう。ポピュラーな分野においては、新しい時代に対して新しい才能が問われるから、60歳までがんばったら何かができるかということの方が少ないですね。
じゃあ、10代の子は何を持っているのかというと、タレントや女優さんというのは、きれいに生まれついたら、見られるということを意識して生きてきた年月があります。そういうふるまいをする、歌はそこにはあまり関係ないでしょう。
破天荒な生き方をしなければいけないとかどういうということではない。むしろ自分のイメージのなかでどのくらい膨らませられるかということですね。
たくさん曲をレッスンしたから、いろいろなところでいろいろなことを学んだから、自分の作品になるのかというと、そういうわけではない。
ただまったく何もやっていない人が、歌や音楽においてすぐれるということもあまりない。何もやっていないといいながら、普通の人から見たら相当なことをやっている。そこに関してはあまり人間性は関係ないです。
私がここで見るときには、その人のバックグラウンドは入れないです。遠方から来ているといわれても、基本的には入れないです。入れないほうがいい。というのは、芸事を見ていくときに、すごく一生懸命やっているから点数をつけてあげるとなってくると、根本的に変わってしまうからです。ここは、音と表現と、舞台、特に音で見るといっていた。ヴォーカルといったら、すごくかっこいい人は、かっこ悪くて歌のすごい奴よりやれてしまうのです。現実の世界のなかでは。そいつを見るだけでも見たいといって、歌わなくてもやれてしまう人がいる。それを認めてしまうとトレーニングとして、この場は成り立ちにくくなってしまう。
ということだけの話であって、世の中の評価はこことは違っていいと思う。ここの評価=世の中ということでは、研究所や養成所ということの実質的なことができないですね。
わざわざ、ここでやらなくても、それを世の中としてしまえばいいということになります。トレーニングとして考えるのであれば、どう考えるかというところで、一線世の中とは引いているわけですね。現実的には同時にできないということです。
Q.うまい歌というものはロジカルに論理的に考えて、自分のなかでやっていけば、歌える可能性はあるということですか。
A.自分に満足する歌は歌える可能性はあるでしょう。ただ、その時代や歌に対しては別問題になってきてしまいます。
現場から言ってしまうと、歌い手って何で価値づけられるかというと、その人の名でかたられるヒット曲があるかないかです。
何年やっていようが、キャリアとは関係ない。芸能界でいうと、紅白に続けて何年出ているということ。それと実力は、今の紅白でいうと関係ないですね。昔だったら関係あった。
でもスケールとしたら、その人の名前を聞いてわかるか。その曲でわかるかどうかです。一発屋という人でも、ない人から比べたら全く違う。知られなくてはやれない世界です。エンタテインメントの世界です。
海外でもそうです。今、トップレベルにいるアーティストというのは、レベルが高いけれど、あれが最高かというとそうでもないが、もっとうまい人もたくさんいるのです。歌い手は、プレイヤーより、それが大きい。
本当にうまいのだけど、ヒット曲に恵まれなかった。トップレベルのアーティストのバックにいるコーラスなんかは、そのヴォーカルよりは大体うまいですね。海外は作品としていいものをつくろうと思うから、日本みたいに自分より下手な人にコーラスをやらせるということはない。日本の場合は引き立て役です。名があれば、一番うまい人を選べるのです。選ばれて後ろでやっている人たちというのは、踊りも自分よりも踊れる人を配していきます。
プロレスも、プロレスというショーに対してプロである人が名が知れてやっているのです。猪木より強い人は世界中にたくさんいますね。
裏社会で、本当に人を殺してしまうという、単に強いという。プロレスでそういうランキングではない。ショーとして60分を見せる、そんな奴が出て1分で殺してしまったら、興業どころかすぐに終わって送られてしまいます。
ガチンコでやっているところと、そのエンタテインメントでやっているところと違うのでしょう。そういう形式を皆が考えて、やっていくというようなことのなかで成り立っているわけです。
何を持ってというのはいえないですね。サッカーでもすごくうまい人はいるのでしょうけれど、チームとうまくやれないで、追放されてしまった人もたくさんいるでしょう。歌い手だけではなくて、役者でもすべての世界において、一番すごい人がそこにいるとは限らない。ただそこにいる人は、だいたい何かあるのでしょう。
Q.最近思っているのが、自分の歌というのも、先にどんなかたちでもいいから世に出て、自分が歌というものになると思っていてそういう感じでいます。モチベーションの問題だけではありませんが、閉じこもっているところだけで練習していると、フラストレーションもたまるので、外でやらなければと思っていますが、なかなか現実的には難しいという感じです。
Q.発声をやっていたり長く学んでいると、どこか型にはまってしまって、危険な部分があると思う。でも、まだ自分の型が決まっていない場合、どうでしょうか。多くは、世に出るというのは、そこで誰かに認められるだけの形はつけているということです。
Q.デモテープをつくってみようと思っています。送られたほうは、どういう基準で送られたテープを聴いているのかというところを配慮しながらつくるべきだと思いますか。たとえば、伴奏があったほうがいいかどうか、アカペラでいいのか。あえて宅録OKと書いてあるところと、何も書いていないところがあったり、そういうレコーディングの部屋をあえて借りて、取り組まなければいけないのか、宅録でもいいのか、そういう常識的なことを教えてください。
A.常識というのはないのですね。常識にとらわれているプロデューサーというのは、あまり力はないです。その先もないと思う。
よく学校では、デモテープづくりに生徒にお金をかけさせるところもあるのですが、最高のスタジオ設備でとって、プロに聞こえるようにデモテープをつくってあげる。でも送られたほうから見たら、きれいに加工されるほうがわからないですね。その人の個性や可能性は。
常識の問題というのはある。人に聞かせるのに10曲も20曲も入れない。どれをどう聞けばいいのかもわからない。そういう人とやりたいとは、まず思わない。今の世の中は、作品力だけで勝負できることってあまりないと思うのです。
器のあるプロデューサーには、受け手のほうも器が必要なのです。その器というのは、こいつは何かあるからとにかく5年見てやろうかとかいうことです。今、そこまで余裕がないのと、そこまでの才能が見抜ける人がどれだけいるかということですね。
音楽業界で5年後のことというのは、アイドルか何かで12歳の子が5年後、17歳でもしかしたらという見極めはあると思いますが、あとは即戦力に近い。
ヴォーカルの生の声質や、バンドとしての色を聞くことがあります。
そこでインスピレーションがあったら、ライブハウスできちんと判断するということで、歌がどうこうという話ではない。声も歌も関係ありますが、そういうときはバンドの音がバックにないとどうしようもない。
ソロでやっているときには、基本的にはアカペラであろうが何であろうが、その声質とその声のなかでつくられていく世界みたいなものに、プロデューサーがどう反応するかというところです。
プロデューサーの関心や比率の置き方が全部違います。個人の差のほうが大きいのではないでしょうか。
いろいろなチャンスがあって、誰かに何かを言われたとしても、それはその人がそう思っているくらいで、あなた方の才能があるとかないとか、判断することではないということですね。
だから一番わかりやすいのは、才能のある人を見ていけばいいのです。私は、すごく才能がある人、もっと才能のある人に、ここでも外でも逢ってきている。ひとりくらい、えっと思う人がたまにいます。
それは歌を聞くとかでない場合もあります。プロフィールを見て思う場合もあります。顔を見て、思う場合もあります。人間離れをしているわけでもない。作品で見られれば一番いいのですが、何かつくっている人というのは、何か背負っているものがあって、そういうところから直感的に働きかけていくのだろうなというのはあります。
Q.日ごろの呼吸と話し声は、歌とつながっていると思うのですが、小さい声の人は、歌ったらどういう声になるのかとかわからないのでは。
A.昔は小さい声では、役者やヴォーカルにはなれなかったのです。今、なれるようになってきたのはいいのことではないかと思います。トータル的な才能があった上で、コラボレーションしていく。
昔は、突出した才能があったうえで、コラボレーションができなくて、ひとりでやっていくところにマネージャーがついていたというパターンが多かった。
情報が出るようになってきて、いろいろなことがわかるようになってきた。音響なんかも安く使えるようになってきた。それぞれが自分で発信できる。
だから学生が自分で商売できたり、中高学生でも、コツコツ稼いだりしています。そういう時代になってきたのはいいのですが、皆が同じツールを使えるようになってくるほど、独自性、その才能が問われる。ある意味非常につらい時代になってきた部分があるのです。
年齢やキャリアで勝負できるようにはなってきていない。
年齢というのは若くて勝負できるというよりも、ある程度まで年齢をとったら獲得できた部分があるのです。紅白に出たら一生食えるという時代、今はそんなことはないですね。一回出たからといっても、次の年には観客が全部なくなるかもしれない。
○ツールと才能
未開な民族のところに行くのだったら、一番友達になるのにいいのは、あまりに未開すぎたら殺されるかもしれませんが、ポラロイドのカメラを持っていく。けっこう今でも海外では喜ばれます。今は、子供たちと友達になろうといったら、まわりから誤解されて危険な目に遭うこともあると思います。
カメラマンなら、カメラマンの師匠の弟子になるでしょう。漫才やお笑い、歌もそうだったのです。そうやって5年10年そこにいると、5年10年耐えているやつしかそこにいなくなって、自動的にその地位が降りてきたのです。
たとえばカメラマンの弟子なってみたら、その先生が体が動かなくなってきたら、その仕事が全部来るでしょう。自分で買えない高級なカメラを扱うことができる。その一台を持つことによって、仕事は来たのです。その仕事というのは、ほかの人が出来ないのだから安定しているわけです。
今は皆がカメラを買えます。相当いいカメラが買えてしまう。そういう時代においては、サラリーマンだってその仕事ができてしまう。すると自由業というのは、安くて、使えるという利便性を除けば、才能の世界ですよね。プロとしてそこで20年もやっていても、サラリーマンですごい人がいて、その人よりすごいものが作れてしまったら、その人もやれてしまうのです。
歌い手なんかも似ています。昔だったら、声楽を勉強した人しか歌い手になれなかった。今はそんなことをやらなくても、なれる。
なったときには、2つ、本当にそれを受け継いでいくということで、得ておかなければいけないものを一本柱としていく。それは私の毎日もぐちゃぐちゃですけれども、そんななかでも2つはきちんとやろうと思うことがある。
明日もし死ぬと決まっても、1、2ヶ月後に癌か何かで死ぬとなっても、そのことは守っていこうと思うことです。
北野武さんで言うと、やっていることは、タップダンスとピアノですね。
世の中がどう動こうが何であろうが、自分の中できちんと積み上げていくようなところの部分の一つの技術を守る。そういうことができない時がどうしてもあります。そういう時に振り回されるとしても、それはその場の現実で対応していかなければいけない。そこでどういうふうなPRをしていくかということと、その2つですね。
○インスピレーションとスタンス
だから、あなたがやらなければいけないことというのは、こういうところの場所において、一流のヴォーカリストの、何らかのインスピレーションを学んでいくということです。
スタンスということをよく言います。集中力や調整すること、比較したりすることで、他の人よりも若干早く、そういうものが身についていくというようなことであれば、よいのですね。
あまり、勉強どうこうというのを言わないのは、そうやってきて優秀だった人たちが、あのレベルですね。皆が聞いても、そんなに高いレベルだと思わない。研究所にいたら、自分たちでできるかできないかは別にしても、かなりのレベルかということはわかる。
研究生ということで、外に出て行ってほしくない。もう、今が外であり中であるんだよと。そういうふうに自分で分けてしまうところからおかしくなる。そうすると、そういうところにいかないとやれない、その先生につかなければやれないなら、通じません。
プロデューサーというのも、自分がそのプロデューサーの才能を使うということであればいいのです。ところが自分の方が何もなくて、向こうの才能だけくださいよと言っても、まず成り立たないですよね。それは、人間関係のすべてのものです。私から見ると多くの人はすごく急いでいるのです。3年や5年で何とかしようと思っている。でも、私の今ある仕事の人間関係というのは、全部10年以前のものですよ。
会報を作ってもらっている人も、歌手でいる人も、そのころに、基盤というのができているのです。
今度、あるプロのリハをここでやります。積み重ねていって、何かしら相性が合う人は続いていく。そうでない人は、勝手に離れていってしまう。そういうものの中でしか、成り立たないのです。
だれでもその日に会った人と何かができるのであれば、それはいいことだけれども、向こうに何のメリットがあるのかということを考えると、よほど自分の方に力がない限り、続かないと思います。
○現場と学ぶ場
本来は人に頼らないというのが、第一です。それで、第2には人にギブしてあげる。自分はこんなに売れるんだ。いい作品を持っているんだ。儲けさせてあげるよといったら、それが本当なら、のってくるプロデューサーはいくらでもいます。
ただ大切なことは、単にプロデューサーと考えるのではなくて、自分の才能を生かせるプロデューサーはどこにいるんだろうということ、日本中探しましょう。そうでない人とやっても、どうせうまくいかない。
そういうことをやるには、自分の才能を自分が知っていなければいけないでしょう。それがないままにやっていても、開けてきません。現場ってそういうことなのです。
外国に行っても、語学がうまくなればいいなと思っても、語学力がつくわけではないでしょう。日本ではあまり努力したくない、でも周りで英語ばかり使っている連中がいたら、英語って身につくのかなというようなので、身につくわけがないです。
現場ってそういうことで、一人ぼっち。確かに、どうしたら身につくのかということで、一人でポンと投げ出されて、食べるものもない、金もないとなったら、語学力は身につきますよね。そこに生きるための必要性が落ちてくるわけです。でも、日本で一所懸命、3時間でも英会話学校に行っている人の方が身につきます。
必然性。歌でも昔はそうだったのです。趣味ではなくて、それがなければ生きられなかった。たとえば親が歌い手であったり、目が見えなくて、三味線が弾けて、歌えなければ死んでしまう。迷うことはないのです。それがなければ死んでしまうのだから、死にたくなければやるしかない。そういう部分がベースにあるのと、歌とか歌じゃないというのは、分けなくていいと思うのですね。
○選択の仕方
日本で一番間違ってしまうのは、歌を歌ととらえてしまうからで、芸事なのです。人様の前に出ていくもの、ジャズでもマニアックにやっている人がいて、そういう人は、今出ているような人を批判するのですが、でも結局自分たちがやっていることは何かというと、自分たちの世界でしか通用しないことですよね。本当に優れていたら、人というのは理解するし、それを見に行きたいと思いますからね。
だから声が優れていても、歌が優れていても、うまくできない人を、私はけなしているわけではない。もったいないよということなのです。
本当に自分にいいものがあったら、誰かに見せたいと思うでしょう。
そんなに優れたものじゃなくてもいいのです。ただサークルのような感覚でしてしまったら、世の中に出るチャンスを逆に失うということです。せっかくなのに、もったいないのです。
やりたいのだったらやれる人とやっていく。やれない人とやっていったら、チャンスは失います。それは簡単なことで、サッカーで弱小チームで、自分がキャプテンをやりたいからといってやっている。それと、プロの中で頑張って、そこで成績がだめでも、いずれやれるというような道の違いのようなものです。
○プライド
留学ということに対しても、それが逃げになっていてはだめだよと。向こうの学校に行って、教育学とか学ぶでしょう。でも、それが仕事で使えない。仕事になったときには、誰の世話もできないようであれば、その教育学というのは教育ではなかった、しゃべってみて通じないのであれば、それは語学ではない。そうやって、勉強するのはいいことなのですが、それで通じないからといってまた勉強しに行くわけでしょう。
多くの場合は、それは日本に帰って働きたくない、小さなプライドがどんどんできていってしまうのです。そういうことに気をつけた方がいいです。
学ぶということは、別に学校だけで学ぶだけではなくて、人のところに行って学んでいるのだったら、その意味を自分の中にきちんと定義づけましょう。それは何のために使うのだということです。
留学が失敗してしまうのは、目的がないからです。だからニートと同じなのです。日本人の逃避、向こうに行って、プライドがついて、日本でこんなつまらない仕事はできない、自分にふさわしい仕事がないという形になってしまうのです。
歌い手の状況も、似ています。うまい人がやれないというのですが、やれないということは、プロから言わせると、うまいことではないのです。下手な奴でもやれている、それがプロということ。
だから本当に純粋に、芸術性といっては変ですが、自分の中の完成度だけを追求するのであったら、それは一人でやればいい。レッスンに来る必要もない。自分の中で回ってやっていけばいい。
ただ人前でやるということを前提として、特に歌の場合は、人前を前提としなければ成り立たないと思うので、そうであれば、人に対して何が働きかけられるかということを、自分で作って試してみる。それを、あまり声や歌そのものに求めるのは、やめた方がいいと思います。
漫才師の方が面白いネタを考えている人はいっぱいいると思う。それを演じることができる人もいっぱいいると思います。現にやれている人は、何をもっているかということになると、すごくくだらないなあと思う時もあるのですが、あの型を一つ作るのに、普通の人では、できないのです、そう簡単に。
いろいろ、いいのも悪いのも見ればいいのです。そうすると、くだらないと思っても、5分くらい、「あーつまらなかった」と思うような芸だって、普通の人がやったら、5分どころか30秒で持たなくなってしまう。つまらなかったというところまで見られるという芸は、とにかく芸なのです。
歌もそうです。だから、そこで見てみると、やれている人は優れているということを学べばいいと思うのです。
そこではジャンルを外した方がいい、というのは歌の中のジャンルでやって、すごく優れた人が、本当の意味で、後で伸びていない。歌がわかりにくいということはあります。
お笑いも後で伸びているとは言いませんが、それでもああいう脈がまだある。縦の組織があるところというのも、よいのではないかという気がします。歌は、縦の組織がないです。邦楽にでもいかないと。そうすると、自分をいさめてくれる人がいないから、勉強できなくなってしまうでしょう。
そうでない人は、そこに最初からいる。天才的な人や一流の人というのがいて、人柄もよく、誰にも悪く言われないで、最初からトップにいたというような人はいます。でもそれは、そのようになれていない人は、考えてもあまり仕方がないことです。長嶋茂雄にどうなるかというような問題ですからね。
そうじゃなければ、そうでない人のやり方ですね。糸井さんでも村上龍さんでも、ヒットしているところに行って、作っていく。私は、彼らは一流だと思うのですが、一流であっても自分を二流だと思って、それで努力している人が、世の中を動かしていきます。一流で一流だと思っていて、努力をしない人は落ちて行ってしまいます。一流ってどういうことかというと、努力における一流というのもあるのだろうなと、それは、好奇心がおう盛であって努力が伴っていくというようなこと。
だから、アマチュア、プロというように分けるわけではないのですが、それが仕事になるのかならないかという見方はしておいた方がいいと思うのです。豊かになるかはわからないが、学んでいるということの錯覚はなくなるでしょう。そのことで金が得られる、得られないということは、絶対にぶつかるわけです。あなたとは直接、ぶつからない。でも、研究生とは研究所というところで、いろいろぶつかっているわけです。その時にいろいろなことは考えるわけです。そういうシステムを作ることは必要だと思います。
○儀式
私も、あなたよりもずぼらだし、どちらかというと努力も嫌いな方です。きちんとした格好もしたくないというようなところはあります。
ただ、きちんとした格好をしなければいけない機会をつくっているのです。
先生のところに行くとき、年末年始、それは、自分に対する一つの儀式ということでやっている。
昔も合宿はそういうことで、一年が早くたってしまってはたまらない。夏に一回は行こうと思ったのが、五回目以降の軽井沢です。その儀式自体では、意味がないかなあと思ってやめてしまったのです。でも、そういうことは自分に課しておいて、するとそこでいろいろなことがわかります。
ということは、フリーでやっている人に比べ、サラリーマンの社員をやっている人は、日々の生産性は悪いのですが、長期で見ると結構勉強になっているのです。長期で見ると、仲間ができているのです。なぜかというとそこに10年20年いるわけですから。
ところが、フリーというのはそういうものがないから、いざ落ち込むととことん落ち込んで、その間のロスが大きいのです。そういうものを見ていました。その期間は、すごくロスだなと思ったから、それがないように強制的にシステムを作っているわけです。
ここに必ず週何日か来るというのも、講演会も、やらなくてもいいのですが、月に3回、人前で話すということも、強制的なシステムです。どこまでやれるかわかりませんけれども、会報を書くのも強制的です。だって自動的に上がって積まれているわけです。それは創造的なことではないですが、それに取り組んでいること自体がリズムになっていく。
サラリーマンが、朝出社して帰るまでやるというのと同じです。彼らが8時間働いているんだから、こちらも8時間。そして、16時間できてしまうということは、残りの8時間はやっぱり好きだからです。嫌いなものはやっぱり残ってこない。
○才能とテーマ
それから才能ということでいうと、歌い手の才能というのは100 努力して100 しか出ないのではない。その世界に入った時に、20くらいの努力で100 出している人がいるんです。それから50くらいで200くらい出せる人がいたのですね。そういうものを見たときに、長くやっていくと基本的に自分のためにも、周りのためにもならないという予感が、けっこう早めにあったのです。
そういうことで言うと、自分に合う才能と合わない才能はあります。家族とか遺伝とか、環境とか、徹底して自分のことを調べてもいい。
私は感性や睡眠の研究をしたこともあるのですが、それは自分で、本当に時間がなかったときに、睡眠を減らすしかないということで、徹底的に読んだのです。
すると、専門家よりも勉強できてしまうのです。たとえば睡眠だったらネズミの実験をしているわけでしょう。あんなもので人間がわかるわけがない。自分の睡眠の方が、もっと睡眠実験のようになっている。人間には人体実験をできないから、ドイツの収容所ではこうだったとか、洞窟の事故で閉じこめられてしまった人とか、睡眠の周期が変わったとか、そんなところからしか学者というのは研究できないのです。
そういうところで専門家と行う必要はない。第一線で、4時間くらいしか寝ていない人は世の中にはたくさんいるのです。そういう人たち自体が考えた方が、よっぽど現代の社会において自分の身を使って実験している。ちゃんとしたものができるわけです。
○研究する
だから、自分のことにとことん、どん欲になる。普通の人だったら他の人の本を2,3冊読んで終わる。
でも、自分に本当に必要だと思ったら研究すべきです。そのことをすべてにおいてやっていけばいいわけですよ。だからやることがないというのは一番困るわけです。
歌でもプロデューサーのところに行ってどうこうだとか、オーディションを受けてみてどうこうだとか、あるいは人を集めてみてコンサートをやってみる。そうやってどんどんと人が人を呼んで、それは1970年代の感覚ですね。
今やっている人というのは、そんなやり方をとっていないですね。たまにいると思いますが、そうでないやり方で、彼らがどう出ていったのかを徹底的に調べればいいのです。
調べてみて自分でそれがとれるかとれないか。自分はネットなんか使えない。インディーズ製作もできないとなったときに、じゃあ誰が必要なのかということです。それはお金で動くのか、それとも時間がかかるのか、時間がかかるのだったらかける。やっぱり5年か10年か、かけていけばいいのです。
今、私は鈴木先生と本を書いています。鈴木先生とそのことが成り立つのにもずいぶんかかっています。本当は最初に会った時にお願いしたかった。私の持っているデータについて、出してほしい。それをやってしまうと、相当、時間もコストもかかってしまう。そうしたら、向こうに協力してもらうのでなく、向こうに協力するためにどうすればいいのかと。やっぱり5年か10年はかかってしまいます。
医学的にも、今ようやく実験のようなことをやれるようになってきた。一代替わって、できるようになった。そこまで考えれば、皆さんの若さだったら何でもできるのです。今の上の人がいなくなってしまったら、あなた方の天下なのです。
○実験
世の中というのは、自分がこの分野を取りたいと思ったらそこにいればいいのです。いずれ相手は死んでいってしまうのです。たくさん取れる分野があります。アーティストの分野でも同じです。皆、すごく急いでしまうでしょう。1年2年で考えてしまう。目的をきちんと決めて、プロセスをどこまできちんと作るかということと、市場を見なければいけない。
ここを辞めようが辞めまいが、あなた方の中でも、そんなに大きなことであってはいけないはずなのです。私の中でも大きなことであってはいけない。ここにいるから親しくするけれども、外に出てしまったら親しくなんかしないということではないのです。
ここに通っていると、人件費や場所代がかかるから、それを皆で負担して分けてもらっているだけです。
だから、「長くいてはいけないのですか」といわれてしまうと、「長くいたければいくらでも長くいていい」というところであって、会報に「活動しなさい」と書いているのは、「ここを辞めなさい」と言っているのとは違うのです。
活動も、ライブを月に一回にやったからと、偉くも何ともないです。やろうと思ったら誰でもやれるでしょう。電話をかけまくったり、集めまくったり、そういう手間を考えて、それが来年再来年どうなっていくかをきちんと見通したうえで、やっていかなければいけない。見通せないのであれば、やってみたらわかるわけですから。
実験でやってみるのはいいのです。ただそうやって、年に一回くらいやって、それが10年くらい経ったら、すごく大きくなっていく。どこかに運命だと投げ出してしまうと、それは実現するわけがないです。
毎日のように歌っている人や、ストリートでやっている人がいます。ああいうものを見ても、何にもならないでしょう。何ともならないから、やってもしかたがないと思うのか、やってみて、本当に何もならなかったとわかるのか、大きな違いがあります。それはやってみればいいのです。
やってみるとこうなんだな、それがわからなくてやっている人も好きでやっている人もいる。でも好きだったらやり続けるだろうし。
ほかの人がチャンスだと思わないところで、どれだけそこにチャンスがあるのかをつかめるというのは、それだけ本人が必要性を持って、常に希求してなければ駄目ですよね。そうしたら落ちるように落ちるわけです。
○単純
特に日本の場合、皆が野球選手になったりサッカー選手になるのは、無理でしょうが、歌は高いレベルではやられていない。アメリカだったら、私もこんなことはやりません。10代であれだけ天才的な人がたくさんいるところです。
ところが日本というのは、あまり変わっていないですね。確かに優秀な人や変わっている人が出るようになってきたが、30年、50年前から比べて、進歩したのかというと必ずしもそんなことはない。私は、退歩したと思っています。
でも新しい才能を持っている人は出てきている。そういう才能を持っている人がどういうところに何を主張しているのか、気志團やサンボマスターも、どうなるかわからないです。でもすごく単純でしょう。
やっぱり歌を歌おうなんて考えてないですね、ああいう人たちは。
人間性ということであれば、はみ出せばよいとか、すごい経験をたくさん積むということではなくて、ほかの人が当たり前のように言いたいことを、きちんと代弁してやる、それだけですね。
誰も思ってはいないことや考えていないことをやっても仕方がない。観客から考えればいい、あなた方が何で何を見に行くんだ、面白いから行くんだ、そうしたらそういうふうにやればいい。すっきりするから行くんだ、そういう分野があると。
友達だから行く、親しいから行くという分野もあるけれど、それはメジャーにはならない。マイナーで歌っているからだめだという話ではない。それはそれで一つの意味はあると思います。
でも、すごく年月をかけてまで、家族や友達の前で歌うためにやるのかということになったときに、もったいないとも思います。それは、一番いいことだと思います。大切な人の前で歌うということは、それができるだけでも、一生歌にかける意味はあると思います。でもそれは、今夜やればよい。
わけのわからない5万人、自分でなくても喜ぶような人たちに向けてやるよりも幸せなことです。
ただ、本当にいいものができたら、やっぱり多くの人にそれを知ってもらいたい。そうやって意味があるのであれば、頑張れるとも思います。だから、現場の問題、留学でも、本当に英語が使いたいと思ったら、使わざるを得ない状況を自分の中で演出していく。
○必要と計画
日本の中で英会話に行くのも嫌だと思っている人が、英語を身につける必要も私はないと思うのです。もしそういう必要があれば、英語がしゃべれないと身につかないところに行く。
お金がないから外国に行けないとか、いろいろなことを言うのですが、お金があってもスケジュールがあって、時間を決めてパッパッと回らなければいけない。私は、昔、3,4週間東欧に行っていた時に、一番友達ができました。
まず、泊まるところがない。あり過ぎていてもそれが使えないよりよい。
たとえば今は、私が観光客なら誰も声をかけてくれないし、かけるとしたらカモにしようというような人です。
だから、決してお金や時間があることが恵まれていることではない。
その人のベクトルがどっちに向いているかということだと思います。だから、人前でやってみるということも一つなのでしょう。できればきちんと計画を立てながらやっていくとともに、考えている間があればやるというのも、一つの考え方と思います。結局、自分の何を売るのかということになってくるものです。たぶん、すべてが売り物にはならないけれども、でも誰にでも一つの売り物はあります。それは時代や地域にもよる。それから方法にもよります。
○工夫
今、ここでもプロになっている人がいますが、いろいろな工夫をしています。どうやってそのライブハウスに出られるようになったのか、そういうところに仕事が来るのかとか、いろいろなことを聞くと、とても工夫をしていますよね。
それで、すごくリッチになっている人は少ないけれど、何とか食べていけるという人というのは、たくさんいる。案外皆の身近でもあると思います。
だから、自分がどこで何を、いつやりたいのか、それは年間を通してみたら、どうなるのかということで設定してみればいいと思います。
今は、離婚留学、親子留学が多くなっています。目的を持っていないから、昔ほどきちんと教えてもらわなかった。外国人と同棲していたら何とかなるだろうと、それは無理だと思うのです。そういう線上で生きてきて、そうやって英語が身につかなかったのだから、そうしたらそこに延長してみたって、それは昔教えてもらわなかったからということではなくて、必要がなかったから身につかなかった。
今必要があるのかといったら今も必要がない。それなのに、なぜ身につけようと思うのか、というようなことだと思うのです。
でも、外国人の考え方を知るということは非常にいいことだと思います。海外から学ぶことというのは、私は多かった。
というのは、日本に住んでいたら日本のことが当たり前だと思うのですが、いかに日本はそういうことを考えないで生きているのかというようなことです。それは皆が鋭ければ、レッスンの中で、こんなことをしゃべらなくても、曲の中から学んだり、出していけることではないかと思うのです。だからそういうことに鋭くなっていくことです。
○放棄する
今、英語の教科書を読まされているのですが、本を読んで教えてもらい、実際に使って、それで習得しようというのは、まさに身につかない英語のやり方だと、この人は書いています。
英語はなぜ身につかないかというと、コミュニケーション能力がないのに、英語もない。言いかえてみれば歌も声もないということなのですね。そういう経験の中で気づいていってやっていくのが不可欠。この人は英語を教えるな教わるなという本を書いています。
教わり慣れしたような学習を放棄することが、英語を身につける第一歩。まさに私が行きたいようなのと同じ。試行錯誤でやっていくしかない、そこの中の気づきでしか、本当の物事にならない。そういうものではないかと思います。
英語の論理性というのもそういうものですが、音楽の論理性というのもあるでしょう。それを感性でとらえていかなければいけない。それが一番、ミュージシャンの才能の一つです。そういうことはここでも、やっています。
○英語漬け
それから日本語の表現力やコミュニケーションを高めていくということ、あと多様なバックグラウンドを身につけていくため、多様な音楽を聞かせていると思います。それから、自分のものを投じて成り立ったという経験、ちょっと難しいかもしれませんが、他人のステージからでもいいから、これが成り立つこと、これが通るということというのを知っていく。そういうリアルな状況づくりが必要だと思います。
だから、英語に関しても、子供が逆立ちをしたり、だっこされて振り回されたりするような五感を総動員したレベルのところで、得る。質の高い言語というのであって、そういう体験が必要だということです。
私も耳で聞いて口で出すだけの歌で、本当の歌は出てこないと思います。
いろいろな方法があるという気はします。英語で必要なのは、集中して聞く態度、体からの息を声にする力ということ、コミュニケーションとしていく動きがいることをいっています☆。それから何々漬けになる、音楽漬け、英語漬けになるということでしょう。
週一回くらいで何かが変わるというと、ここのレッスンでもそうですけれども、そこに成果を求めるからおかしくなる。とりあえずやっていたら、何とかなる。何にもなりはしないということです。
○コピーとオリジナリティ☆☆☆
声もハスキーなかたちで、持っていっていながら、ことばで入り込んだり、感情に持っていったりする。これをそのまままねるところで挑戦していくと、体は変わって、息も変わってくるから、近づいていけると思います。
作品として2つ比べて、同じように聞いてみたときに、後追いになってしまっています。
この作品を聞かないで、あなたのものを聞いても、この切り替え方というのが不自然だな、この落とし方というのは、何かに対してつけていっているなというのが、予感されてしまいます。
練習としてはかまわないのですが、一つの音をキープしていて、それをきちんと抱きしめて動かして、フワーッと動いていって、間がとれていて次に動くというように、一流の完全さはあるのに対し、キープ力、あなたの場合はこういってこうくるという線があるところの、間のところや呼吸を動かすところがない。
そのところで、急にハッと入る。線はつながってはいても、というのかな。要は、その曲の中でテンポも、音も外れているわけではないけれど、バッティングでいうと、溜めみたいなもので、その溜めがあって次の段階にいく。
それがないのに、次に行くと、それが飛躍していないところはいいのですが、けっこう技術を使って、フワーッといったり落ちたりする。そこで溜めがないと技術を使ったことが、見えてしまいます。
Q.溜められないのは、どうして☆。
コピーするところで、耳からの実線で聞こえるところの線のところを先にとって、実線だけがでてくる。たとえば普通の歌だったら、こういってこういくというところはできています。
ところが、この人みたいにこういったところで溜めて、ここでこういってという実線が表れてくるときに、ここのちょっとした踏み込みや動きとかというのは、あなたの場合はとっていない。あれっ何でここからこうなのかな、元の歌がそうだったからこうなんだなというふうに私には見えます。そこの部分は一番難しいところです。
結局、コピーしている限りにおいて、その人ではない限りできない部分でもあるのです。それに代わるあなたの体、例えば外国人で、この人と同じレベルのヴォーカリストが、この歌い方をやってみても、私が聞くと不自然だなと、この体なのにこういかないで、こういってしまうのだろうと感じると思います。確かにレベル的な差もあるけれども、一つはどこまでこれに合わせていいのか悪いのか、ということもあると思います。
Q.自分でできる枠で消化したほうが、ナチュラルに聞こえる☆。
歌をコピーした場合にテンポも、音程やリズムを守ってしまう。それを守ってしまうために、自分の呼吸の流れ、声の置き方みたいなところで、いい練習にはなる。それが歌らしくなる。
ただ聞いている人は、溜めているところに引き込まれて、フワーッといくところで開放されている。そちらの方で快感を感じているから、それがないところでいかれてしまうと、バタバタしているなとか、安定がないという。理由のないところに急にビブラートをつけたり、ミックスヴォイスにしたりということと同じで、何かしらの違和感を感じる。
この曲を聞かないで、あなたのを聞いたら、何かやりたいんだろうなあ、と思う。でもなぜこのいくつかの技術をここで使うんだろうなというふうに、ばらばらにとらえられてしまう。
このヴォーカルの場合は、いくつかというのはなくて一つの歌だなと聞こえる。そこはオリジナリティだから、技術を勉強するということで、やっていって、歌っていくうちに、そのうちのいくつかは使えるし、あとは、本当は違うものを入れるべきですね。
Q.もっと部分的なところでは、何が問題か☆。
一流のアーティストと比べた時に、最初にバッと聞いたときに、すごく溜めていたり、息のほうで持っていっている。パッと聞くと何でもっと声に響かせたりしないのかなと思いませんか。でも、一曲全部聞いてみると、ああ、だから、そうなんだとなる。完成度として高いのですね☆。
たぶんこういうものでは、日本人ではあまり感覚できないところです。日本人って声やひびきにしてしまうからです。
あなたのところで聞いて響いた部分というのは、彼の方はもっとソフトに響かせてない部分のところです。溜めているというか、日本人の発声の教本には、ないところですね。
トレーニングでやるときにこれをどうやるのかということは、私が課題に使うのであれば、ことばで言っているところからなら、レッスンにしやすいと思います。頭のところの入り方だと、使えない、というより人によると思いますが、偏りやすい。
10人のうち9人は使ってみても、かすれた声にして、息だけが出てしまったりする。それを合わせているのがわかるから、使えていないということではない。けれども、わかるとは声になってしまうからだと思うのです。
声になったところはあってもいいのですが、その前後にきちんと体の支えが、もう一つ深いところで必要です。部分的なところをもう一つ深いところでやれば、何とか練習になるかもしれません。
ある意味では、最高レベルのことでもあるのですね。響きにもできるし、歌い上げることもできるのですが、それをわざと殺して、かすれた声で、溜めてみたものをゆったり動かす。だからマイクのある世界においては、すごく大きな広い世界に聞こえる。
歌われてしまうと、その音だけが聞こえてくるから、音で働きかけて音の動きでいくのですが、この場合はむしろ抑えることで聞かせて、そこの中できちんと起こしているから、正当な発声と違うとはいえ、その正当な発声の延長上のところで動かしている感じがします。
たぶん、こういうなかでやった時に、あなたの声よりも、深く取るのはトレーニングでやっておいて、歌おうと思うのなら、今くらいのポジションまで戻してきて歌わないと、バランスが壊れていく。だから分ければいいのです。
ここであなたを歌わせるという形であれば、今の形をとります。ただ、その部分で変に癖をつけないで、深めて息を盛り込んでいこうという練習をしていたら、体や呼吸の力はついてくる。喉さえ締めなければいい。
この歌で学べるかもしれませんが、基本的には、すごく誤解しやすい歌だと思います。息だけを吐いて、これを持っていってしまったりしかねない。変にかぶせてしまったりするのも、耳で聞くと、そうなってしまうのです。感覚的にとらえたことを、同じにとらえるほど、実際に出てくる声は、人によっても違ってくるとみた方がいいと思います。
Q.明確に、この人のなかではこう、私のなかではこうと、わかりたいんです☆。
こういう人のは、発声ではなくて歌だから、すごく細かいところで微妙に変えている変化があります。どちらにしろ誰のを聞いてみたも、それを勉強したのでは荒っぽく聞こえたり、雑には聞こえるのです。
逆に言うと、自分の中でそれと同じ繊細さをもって扱える声を選ぶべきです。そうでないと、この人の声に似ているところでやろうとして無理がきます。
アニメ声にしてみて、気持ちを入れなければいけないような、矛盾がおきてきてしまいます。
彼にとってこの歌い方がいいのは、彼にとってだけよいのであって、その歌い方で通用する人もいるけれども、普通の人がこの歌い方をすると、彼ほどには繊細には扱えない。この人の音楽の世界や、魅力のバックグラウンドをとるのはいいことだと思います。
たとえば上の方で、響いているからその響きをとり、その長さをとり、その息の動かし方をとろうとすると、そこだけは一瞬くらいできると思う。だから3秒や5秒の練習にはいい。ただ、一曲を歌おうとすると、取れれば取れるほど、いくつも技術をくっつけた歌だなぁというようなふうに見えてしまうと思います。
一本通っているというものがあって、その上に展開していかなければいけない。
彼のは最初はよくわからなかったけれども、最後まで聞いてみるとこれで一本通っていると知ることです。しかし、そうなってくると、好きな人ははまっていく。嫌いな人は聞かない。きちんと一本通っているという意味では、完成されている歌い方で、嫌いな人にはよい課題になります。
もちろん、いろいろ動かすことができると思います。そうなってくると、ヴォイストレーニングの中で扱えることではなくなってきます。あなたが自分の作品を作っていくときに、参考にすればいいし、入れていけばいい。
もし、上げたり下げたりしてやれば一つの勉強になると思います。
ただ、歌をそこでとらえるのではなくて、歌うときには、あなたが一番繊細に動かせるところの声というところで歌った時に、これと違う形になっても、この歌の良さというのは、あなたが優れていけば、この人と同じような歌い方に近くはなってくると思います。
部分的に違っても、こういうことが好きでこういう世界をつくりたいと思ったら、まったく違う声だったり歌い方であっても、この曲自体のイメージというのは、かなり似てくるはずです。そちらの方が異なってもすぐれていくと思います。
コピーすると絶対に限界があります。それは、お客さんでも見える、何かしらおかしいなと感じます。ちぐはぐでやれるところまで作って、後で一本通そうとして、ちぐはぐなところをとっていくようなことはかまわない。ほとんど残らなくなるでしょうが、勉強にはなります。
Q.コピーをして、今歌ったのと、その方がよいと言われた声、その明確な違いがわかっていない。自分が動かせて自然なんだというのが、まだわからないのです☆。
それは、たくさんやるしかない。好きなヴォーカルの好きな歌を、そのヴォーカルみたいな感じで歌ったら、絶対に気持ちいいですから。
自分の形でやっているものは、そちらから比べると確立していないから、足りないように見えてしまう。でも、それはあなたではありません。その人が完成度がそこまで高いように見えているのは、この人の体と感覚に素直に正直にやっているからです。だから、その感覚であなたが同じようにやろうとすると、うそ臭くなってしまう。
逆にあなたでなくても、ほかのプロの歌手がいて、その形で歌おうとすると、それも無理がかかったりうさん臭くなる。だから同じ歌を、優れたヴォーカルの人は歌い分ける。
五人のヴォーカリストがいたら、五人とも違う歌い方をします。でもその五人の何かしら共通して聞こえるのは、ありますよね。やっぱりこの曲を生かすために、ここはこういうふうに溜めるんだなとか、ここはバーンといっちゃうんだなということは、似てきますよね。もっと優れた人たちが歌うと、素人はこんなところで勝負しないから、単に歌うだけのことになります。
素直なのが一番いいと思うのです。何か作っているなとか無理しているというのではないことをめざす。それは、常に自分でチェックするしかない。聞いてみて、嘘っぽいと思うのか、すっきりしていると思うかは、本当に紙一重の差だから。
だから自分でテープに入れて、テープから聞こえたのが正しいわけではありませんが、ステージの感覚はとらえていったらいい。
一曲で見てしまうと、複雑になってしまうから部分で見て、その部分で見たときに何か心と体が入りやすいというところはいいところでしょう。
自分がそれを入れたからといって、人に伝わるかどうかは別です。いい曲をたくさん聞いているから、客観視して自分のものを放り込んでみれば、何か単純だとか、さらっといってしまって、似ているようだけど、普通の人が聞いてもちょっと違うなというところが、課題になる。そのようなアプローチをとればいいと思います。
その結果が違っても、いいと思います。技術を勉強するレベルにおいては、こういう人を徹底してコピーして、その影響は後まで残るとしても、自分のものが出てきたら、その影響はあくまで影響にすぎない。そのまま物まねではないのです。その両方をわかってくればいいと思います。
それは、分けられるものでもないのかもしれません。自分でやっているうちに、自分のものになってくる。だから、真似してはいけないといっても、すぐれた作品をやっていたら、似てくるわけですよね。その似てくる部分はよくて、真似している部分というのは頭で考えて、操作しているから、不自然なわけです。
それは自分で何回も聞いて、自分の聞くレベルが高くなってくると、この曲のここの部分は、すごくきちんと素直に伝わるように出ているが、ここは作ってしまっているな、嘘っぽいなとかいうことは、判断できるようになってくると思います。ただ、全部が嘘っぽくなると、判断しにくい☆。そこでプロアマも独りよがりになります。
一箇所でも、キラッとしたものがあると、あとは全部嘘っぽいとか判断できるのですが、全部嘘っぽいとそれなりに、特に自分のものというのは、何回も聞いていると心地よくなるのです。自分が作っているから。固めて歌いやすくなるから、間違えてしまう。客にも受けるから、さらに固めてしまう。
たまに聞いてみると、やっぱり下手くそだなあと、いい加減でいいところがないなと思うのですが、続けてずっと聞いていくと、こういうところがいいのではないか、全部いいなあというふうに、基準が甘くなってしまうのです。やっぱり自分のものだから。
そこで自分ではない目を持たなければいけない。それができるまで、私たちを使えばいいと思います。それができてきたら、自分の判断でいい。私が何と言おうが、俺はこの音楽なんだというのを作っていけばいいのです。
形と実、どちらをやっていってもいいと思います。ただ、その間がないのは、全然関心しない。素直に出ていた声もあるのに、まだ揺れている。感覚が変わって、あるとき歌ったら、えっこんな感じで出ちゃったということでいいのです。それを響かせようとか引っ張ろうとかやっていると、表面っぽい対応になってしまう。すると本当のグルーブや音の流れからそれてしまう。うさん臭くなってしまう。自分で、これは嘘か本当かと自問してください。
○クラシックの意味
やり方はわかるようになってくるから、それっぽく歌えるようになったり、カラオケっぽく歌えるようになるのです。声楽は、急に変わるわけではないのですが、やっていると、声のことの音域や出し方の技術的なことは身についてきます。それをそのまま、すぐにポップスに応用するわけではないのです。ポップスはそこにノウハウがあるわけではないですから、自分の曲をどう切り出すかが大切です。
ロックなら、声楽は接点がつかなくてもよい。体からの発声原理、声の濃いほう、扱い方を別にやっておくつもりでもよい。簡単に言うと、ヒップホップをやる人がクラシックバレエをやっているみたいなものでもよい。直接クラシックバレエが何になるのかということでなく、ワンクッション置いたところのものと考えましょう。
たとえばヒップホップでどんなに踊り方を覚えても、切れがいいとか悪いとかいうようなことは、どこにくるのかというと、体としての感覚です。
柔軟体操や筋力トレーニングで、クラシックバレエでやるところの支える力にくるわけです。直接的にはいろいろな振り付けをたくさん覚えていくというのが、ヴォイストレーニングのように思われていますが、私の思うヴォイストレーニングというのは、それ以前のところですね。
そういう意味でそこでやっていることが、どこかのところでいつか結びついて反映していく。
特に体の中のことや、声の響かせ方のところです。直接の表現においてはベースなのだと思います。
○明るい声
声楽で、明るいというのはいろいろなイメージがあると思いますが、前に出して体で支えるようなところをやっておく。そのことが、歌の中の目指している雰囲気の声と、直結しているのではないと思います。
この3つを歌い分けてみたときに、どれが声楽みたいになって、どれがまったくあなたの歌になって、どれかがその間くらいになったらいい。今のは、同じに聞こえて、中途半端になっている。そういう意味でまず、イメージですね。そのイメージは、あなたの中で固まっているから、本当のことで言えば、そのイメージ自体のところで一回広げたいのです。
例えば、今の歌で、1曲目の歌い方のところで、ヒントがある。その世界を作ったものが共感できるものになってくるかというと、また難しいところがあります。2曲目が合わない、3曲目はそのやり方では難しいというのはわかるのですが、どの曲であっても、あなたの方が魅力を出せるスタンスが必要になってきます。
だから、声楽で言われるところの明るい声、暗い声というところで、明るい声でやりましょうというのであれば、声楽でやっていればいい。それで自分の歌になったときに、その明るい声を使うか使わないかというのは、次の選択の問題。
気になるのは、あなたの世界の中での、明るくなくてもいいのですが、ベースにしている声というのが、声楽どうこうというのではなくて、ポップスから見たときに、暗いという言葉を使われたこと、プロデューサーだったらフラットしているとか引っ込んでいるとかいう言い方をする。
○メリハリ
一つのメリハリですね。これになってくると、どのレベルで歌うかというよりも、どこで歌うかによってもずいぶん違ってくる。ただ、身内でもない限りお客さんは基本的にはすっきりしたい。歌い手の元気を受けたくてくる。そういうヴォーカリストになれということではなくて、どんなにしみじみ歌うヴォーカリストであろうが、歌の世界の中で詰めていって心情を出していくヴォーカルであろうが、最低限必要な部分として、飛ばすことは大切です。
昔でいえばマイクがなければ、声量がないと歌って聞こえないよねと言っていたことに変わる、今はマイクがあるからしゃべっている声よりも、もっと小さくたって通用するのです。その分、そこでのメリハリ。そこでいうのであれば、声楽の中で問われる響きという明るさではなく、あなたの歌自体の中の、希望や救いのことです☆。
お客さんがそれを聞いて、悲しかったり泣いたりするのかもしれませんが、元気になったり、あるいはホッとしたり救われたりするような部分が、声の中では出てほしい。
○声楽とポップスの表現☆☆
その部分で共通する要素というのは、声楽にもあると思います。ただ、声楽の先生は、ポップスを考えていっているわけではない。だからありがたいのです。声楽の中の基準で見ていっている。私がそういう先生を、ここに呼んでやっているのは、そこで問われる要素は、ポップスにもあるからです。ポップスで直すと、歌い方を変えろということになってしまいます☆。それをしてしまうと、それは自分の歌い方ではないとなってしまう。
踊りと同じですね。ヒップホップのところで、クラシックをやるところではそんなに抵抗がない、それは違うものだから。
ところが、今の踊りはだめだから、こういう踊り方にしろと言ったら、それは俺の踊りじゃないと。なまじ芸に入ってしまうと、その人のものというのがあります。そういう意味で、ここはひとつ声楽にまで下がっておいて、その中で直すのもよいと考えています。
だから、あまり声楽のところで求められていることが、自分のステージのところに直接出てくると考えなくてもいい。そこでは違う声と考えてもいい。表向き違う声が、体や声の一つの動きの中においては、共通する。邦楽になると、もっと違ってくる。しかし、邦楽でも、深い声は声楽であろうが同じ。そういうつながりを何となく見えるでしょう。
○イメージのミス
2曲目3曲目は、もっと特徴的なのですが、声ですべてやろうと思ってしまっているから、詰まっていく。どんどん中に入っていってしまいます。あなたの内の世界に入っていってしまいます。あなたの世界もつくっておかなければいけないのです。
それをレッスンやステージのところにあれば、思いっきり投げださなければいけない。その先しか客は聞かない。トレーナーは体を読み込みますが。
このメロディというのは、全部死んでしまっている。それはあなたのイメージで、ここの場合はできるだけ広く見ています。
とことん業界から反することをやっている人でも、そこに音楽性があったり表現性があると、私は見ていくので、その意味がわからない期間はあまり言わないのですが、はっきり、今のところまで、イメージのミスだと思います。それで歌って、何かになるということはない。
そう思わなければ、自分のステージで何をやっても構わないのですが。ここの中では、それはどうしようもない。そのイメージ自体を、伝わるように、音楽で伝わるように、でもことばで伝わるようにでも、持っていきましょう。どちらも殺しているような形で置いているように捉えられる。
○動かし方、置き方
そこの後、「君をモデルに」から入ってみましょう。
聞かせどころを全部、流してしまっている。声の明るさや輝きは一つずつ、「モン マル トル」、動かなくなってしまう。自分で決めつけて、そこに置いていく形になってしまうから、あなたのやりたいことであるとしても、お客さんのところに対する働きかけがなくなってしまう。
最後まで聞いていて成り立っているところは、「モデルに」というところの動かし方、それから「20歳のころ」という置き方はコミュニケーションが成り立っています。その2箇所のことを頭から最後まで全部にやらなければいけない。そのうえで、さらに引き立つところを置いていくことが歌へのヒントです。声の問題ではなくて、トータルイメージの問題です。
トータルイメージからみて「君」と「モデル」がバッときれない。「僕の」の「の」にうまく響きがかかったりビブラートがまとまったりしていないから、だらしなくなってしまう。
そういうことをきちんと固めるのが、ヴォイストレーニングの問題ですね☆。
今のかたちでは声楽で流してみても、その使われ方がすごく甘い。せっかく声を出しているところでもっていかれるのに、歌のなかでいうと、力の3割くらいしか出していない。
○提示する力
課題曲は課題曲にすぎないから、これをうまく歌えるようにということではないのですが、そうやってギャップをつくってみていくことです。あなたの世界で歌ってしまったら、3曲とも歌えてしまって、高校生よりも味があるところで、あなたはこうやりたいというのは、伝わらなくはない。
でも、プロの世界から見ると、そんなまどろっこしいことをやっていないで、もっとすっきり伝えられないのかという部分です。舞台でも、声楽家が聞いても、思うことは似ていると思います。
私は、そういう歌のほうが好きだけど、あなたがやろうとしているのはわかるけれど、わかった上で認められない。声があるしメリハリがつけられるのに、そこでしか使っていない。
自分のなかでも「君と僕のー」みたいな感じで、「愛し合った君と僕」が出てこないのです。あなたの中でいくら出そうと、思いをこめているのも、あなたの感情移入もその重さに表現が耐えていない。もっと音楽的であって、ことばのニュアンスや情感が出る部分が、あなたの声にたくさんあるのに、あなたの神経や感覚がセーブしています。それはもったいない。
プロの曲を聞き直してみると、あなたの好きな歌い方ではないと思いますが、彼らはそれをやっている。私が言っている最低限のことは、こういう歌い方は好きでないと思ったって、認めざるをえない表現がそこに出て、それが好きな人が聞く。その部分に関しては、自分のものであれ、他人のものと見る。プロには、そういうものがある。それに代わる自分のものは何だろうということで、研究していけばいい。
今のところも、声の問題では、長く伸ばしたりするところに若干ふらつきがあったり、声楽的に解決する問題はあると思います。けれど、もっと前に出す。その世界を客に提示する力のところで、引いてしまっている。詩の世界にはなっても、それを音声で取り出したときに、その音声の先にその世界が見えていかない。
常に私が舞台というのは、自分でいろいろなものを考えたりするときには、自分の世界でいいのですが、一度、舞台に立ったときには5メートルや7メートル先に出たものしか、相手は聞いてくれない。
向こうはこちらまできて読み込んでくれない。今のはこう言ったのかなあとかこんな思いかなあと、それを考えさせてしまうと、歌や演劇の世界は、つまらないというか、客が疲れてしまうのです。
○心地よさは、伝わることと違う
その声を頭から全部使うわけではないのですが、その2箇所が通用するということが、もし自分でわかるのであったら、通用するレベルに対して他の場所をどうすればいいのかを見るのが、一番早いですね。
そこはイメージや感覚の問題だから、変えようと思ったらすぐに変わるのです。変わらないと思ったら10年経っても20年経っても、変わらない。体や声より大変な問題です。
変わろうと思ったらすぐに変わるといったら、明日からうまくなると思うのですが、現実に出ている感覚は根強いものがあります☆。
無理に変えようとしないかぎり、大体は戻ってしまうのです。そうやって育て、ここを出て1,2年くらい経ってしまうと、元に戻る。自分に心地いいひとつのイメージというのがあるので。だから、その心地よさやいいのは大切だけど、甘い。どこかで自分では心地悪いし、こんなふうにやりたくないけれど、すごく伝わっているというのはあるのです。
それは認めなければしかたない。人様に出したもので判断される。自分のものやどうこうというのは、そこに1割くらい入っていたらよしとしなければいけない世界でもありますね。その辺から考えてみて、特にきちんとやろうと思ったら、問題山積みになると思います。
○破綻させる
あの歌い方だと、あなたがこなしてしまっているから、問題にならない。たとえば「モデルにー」みたいなところ、あるいは「愛し合った」の入り方のところで、これを「ゆりかご」で、頭のところから入ろうとすると、この歌は歌えないし破綻してしまうと思います。
つまり、ベースまで違ってしまっている。練習は、それでいいのです。この歌がレパートリーではないから。
破綻したときに、何で破綻するんだろう、やっぱり体がない声がない、あるいは感覚がないというのがわかって、これを埋めてやろうと、2,3年経って、もしこれの2行目、あるいはサビの5秒や10秒ができて、まだ半分もできないということが続いている期間は上達します。
ところがさっきの歌い方で歌えてしまったら、私も言うことがなくて、1オクターブの歌くらい歌えるわけです。今大切なことは、破綻させることです☆。
声楽の練習でも、自分がやりたいことかやりたくないことかではなくて、思い切り思いのままに、やってみたところで、できないということを思い知ること、すると、そのギャップが、できる可能性になる。
今のあなたの感覚のなかで曲を捉えてやってしまったら、もうやれてしまうから。1オクターブや1分、歌えない人はいない。
そうなってくると2,3年経っても、今とは変わらなくなってしまう。
だから私はいつも言うのですが、一人でやる人はそれでいい、ただ、レッスンに来たり、ここに来た場合は、それは何かを変えたくて来たのですから、一時は自分の気持ちや意思を殺してでもいいから、知ること。それは守るのではなく、逆に、かなりはみ出してみて、そこでやってみること☆。
いずれまた、最終的にステージは自分でやるものだから、そこに戻ったというなら、その世界が好きなんだなでいい。自分の意に合わなくても、試みて、いろいろな刺激を浴びることです。今日なんかでいうと、1つか2つとれたということが大成果です。
○相称と効果
初心者のレベルだとほめたほうがいいというのは決まっているわけです。私が見たときには、先生とは合っていなくても、効果が出るのならそちらを取る。その先生とすごく合っているようでも、歌がたるんできたら、よくなかったという見方をします。
そこの判断はすぐにできないけれど、今までの出し方ではない、出し方や動かし方が、自分でもできるということでいろいろやっておいて、その上で前の出し方がよかったと思えば、そこに戻ればいい。
どんなにいろいろな出し方をやっても、歌になったときには、自分がやれるようにしかやらない。やっておくと、元のように歌ったときにも、パンチが効いてきた、前は雑な終わり方だったが、けっこうきれいなかたちで終わるようになったというふうになっていれば、それが一番いい形なのですね。どっちを選ぶということではなくて、自分の器が大きくなって、そこで柔軟に選択できる力がつく☆。
あなたにとって一番必要なのは、声のことよりそのイメージ。その器、体や声は大きくなる。ただ、イメージのなかでこういうものを表現するために、もっとこういうことが必要、もっとこういうことを強くやっていい、こう落としてみようというアイディアと声での表現力、そうしたらその歌が壊れてしまったという体験もいいと思います。あなたには必要だと思います。
今まで、守って歌ってきている。失敗しないようにはみ出さないように、笑われないように、皆そうなんですけれども。
ただ、レッスンの時間にそれをやっていると、今までそれをやってきて今だったのだから、そのことは繰り返す必要はないと思うのです。一生繰り返していくのと同じ。
歌というのは勇気がいるものです。どこかで全てをさらしていかないと、生々しい歌を歌うのですから。自分の体験がどういうということではなくて、イマジネーションの中で、発展させていきます。
○変わるより、広くする
30年たっても50年たっても、変わらない人は変わらない。ところが、変わる人というのは、1ヶ月でも2ヶ月でも、あるいはある時期に急にワッと変わる。芝居なんかと同じです。化けるためにやります。一つ事件が起きたことによって、全く歌い方が変わってしまう人もいます。
だから、変われということではなくて、もっと広いんだと。あなたのできる可能性ももっといろいろなことがあるんだということ。この3曲を、あなたは分けているのですが、別の人たちから見たら、同じところで歌っている。もっとこういうところでできるのにと思わせてしまうとだめだということです。
一曲目がこうだったから2曲目はこんな歌い方をすると思っていたら、こんな歌い方をすんだとか、えっこういうこともできるんだ、じゃあ、もう一回聞いてみたいというところがないのです。決めつけてしまっていると思うのです。そういうふうに考えてみてください。
○声楽と個性
週に六日ポップスを歌って、週に一日声楽を教わったからといって、声楽みたいになることはない。声楽を教わって、そのレッスンしか来ないから、そういうふうになってしまう。
個性なんかはそんな簡単に消えるものではない。そんな簡単に影響されるのであったら、ありがたいことです。声楽家になれるわけですしね。だから皆、守りすぎるのです。
声楽は一回自分を捨てなければいけないし、先生の言うことを正しいと思って聞かなければいけないから、それは本当の意味では正しくないのですが、自分よりも優れている人と接することで、そこで近づけるところまで近づく。最終的には、完全には近づけない、同じにはなれないのですから。そうなったら初めてそこを脱して、自分の方向性なり舞台になる。
その時に、先生のここはいいけれど、先生のここに関しては自分はこうありたくない、ということがたたき台となってきます。
型があるということは、というかそれがなければ、何を基準にして上達しているのかというのがわからないのですね。
ポップスというのは、それがわからないのです。それはそれでいいと思う。わかろうがわからまいが、ともかくステージでやれていて、人が感動できればいい。
ただ、こういうところに来る人は、そこで足りないと思っているのだし、変えたいと思ってきている。だから、トレーニングをやるといわれたときには、ポップスでいろいろな曲をやるのもいいけれど、そんなことでうまくなるのであれば、そのへんのおじさんやおばさんも、すごくうまくなっている。そういうと皆、わかるのですが、自分の歌い方というのがないのに、あると思っているのです☆。
自分の歌い方があったら、もう活躍できているだろうということです。自分の歌い方と思っているのが、一番うさん臭くて、どこかで影響を受けた人の歌い方そのものであることが多い。
本当に自分の体の使い方から、心を伝える歌い方になっていない、だからそんな程度にしか歌えないというのに、なかなか認めたがらない。特にやれた人や器用な人ほど。
でも、何でここに来ているのかや、辞めてしまえばいいのではないかというと、いや、こんな歌ではとても、と言うから、そうしたら先生に従って、先生に近いことができた時に、そんな歌い方はいやだと言って違うことをやればいい。
ここに来る人は、少なくとも何かしら基礎がある。ということは、知っている人です。そういうことには従おうとしている人なのに、それが声楽になってしまうと、そこで言われる明るい声は自分の歌と違うと思う。
別に声楽の声で声楽を歌いなさいということではない。ここでレッスンしていることのなかで、知らずと身についたことがあれば、それが歌に出てきて、プラスになればいい。すごくまじめに考えてしまうのです。ここで教わったら、その歌い方や音色で、自分の歌も歌わなければいけないということはないのです。
○守りのための声楽
お客さんはすっきりしたくて来る。客は無視すればいいのですが、お金を払ってくるのなら、どこに行っても、声楽の基本ができていないと、喉を壊すのです。声楽は、相当ハードなこと、声域、声量に関しては無視をして、必ず悪いことを起こす。すると、自分の守り方を覚えてくるのです。
ところがポップスというのは、自分の歌える範囲でしか歌っていかない。実際に、毎日歌わなければいけないことが続いてしまうと、ほとんど喉を壊してしまう。声楽家というのはワンクッション置いたり、ある意味ではサボる方法を知っている。演出家がそこでもっと出せと言っても、そんなものは出せないという、出したら壊れるというのを知っているから出さない。
役者出身は、どちらかというと根性で乗り越えてきた人だから、そこで出してしまう。それで、だめになってしまう。
それもノウハウです。声の管理のノウハウということでは、日本の中では声楽をやっておくことは、いいことです。
ポップスでも長くやる人には、声楽をやらせたいと私は思っています。
私も、声楽をやらなかった自分の声というのは想像できないから、そこは比べようもないのですが。
そのことで知ることが早くできたと思うし、型というのがあるのはありがたいことだというふうに思います。そこは自信を持って、ポップスの人にも説明しています。それでわからなかったら、位置づけは私がします。
○フレーズの一貫性と部分変化
4つにも8つにも捉えられるのですよね。あるいは、4×4で16個で捉えられる。あまり細かく16個でやってしまおうと思うとだめです。
一回、一つの流れをつかんでおいたら、一本にして、その一本の中での変化を見せていかないと、客の中には「こころー」で引っ張って、最後までいってしまっているみたいになってしまう。
歌詞でいっても「こころ」というのに「やき」にそこに「し」がついている。「なみだを」で「かわか」「せた」とついて、「その名は」、一番大きなところは「その名は」というところを、どういうスタンスにして、「ジザベル」をどう見せていくか。
「ジザベル」の見せ方はそれでいいと思うのですが、その「ジザベル」を見せられるために「その名は」をどう置き、「ジザベル」といった後に「お前さ」をどう落とすか。
ここで大切なのは、ここに対して次のフレーズがあって、そこはそんなに変えられない。同じでやらなければいけないから、飽きさせないようにしなければいけない。
この2つが終わったら、客は当然、次の展開を期待するところにバンと入るのもいいし、後半を大きく盛り上げていくのもいい。逆にさっきのように後半で落としていくのもかまわない。だから、「ジザベル」ということがキーワードになっているのです。それがくっきり見えなければいけないのに、全部を歌ってしまうと、全部が埋もれてしまう。だからもっと捨てていくことです。
後半がつながらなくなっている。ここで落とそうと思って落としたなというのが、前で見えてしまう。それから、「人生をだめにした」くらいで、「ふみにじられ」は、さすがに持たないだろうと予感してしまう。バランスからいうと、そこで力尽きている感じです。
課題として2,3年後に残しておいてもかまわない。もっともやらなければいけないことは、「その名はジザベル お前さ」、「その名」で落とすのもいいし、「ジザベル」で盛り上げるのもいいし、そこに「お前さ」という、一本のひとつの曲線でつながっていかなければいけないことです。
次の「天使と悪魔の」のところも、何かしらニュアンスか揺らしを入れていかないと、この世界があらわれてこない。「心を焼き尽くし 涙を」というようなことをさらに「天使と悪魔 2つの顔を持つ」というようなところをクラシック的に歌っても、シャンソン的に歌っても、この世界は出てこないですよね。おどろおどろしい、それが出てこないと、「人生をだめにした」というところも、歌詞で聞いているわけではありませんが、せっかくこういう歌詞があるのですから、そこにどう、天使と悪魔を、どうやってジザベルというものを魅力的な演出にしていって、出していくのかということを見せてください。
後半でこういう形で落とし込まないと、今言った言葉の問題よりは、声の流れの問題です。それを、外国人がきいてみて意味がわからなくても、そういう形の歌なんだなというところへもっていきます。
○歌の中で負担をかけない、休む
「けれども愛は失せ」の「せー」のところや「人生をだめにしたー」と、伸ばしているところまで喉に負担をかけないで、響きが結構上にあがってきているし、「ふみにじ」の「み」「に」「じ」というのは、上の方に響いているから、そちら側にスタンスをうつしていった方がいい。
力いっぱい描いたり出すのはいいのですが、それをやった分だけ同じだけ休ませておかないと、作品としてはつぶれていってしまう。
日本人の歌い方はそうですが、一番は8割歌えていて、2番は5割、3番は3割しか歌えなくなってしまう。それは一番で8割歌ってしまっているのがダメなのであって、それは落とすということではないのです。
同じ音量を出して、同じ効果を与えて、それ以上の効果を与えるために、むしろ上の共鳴を使ったり、響きを楽にして、その分、喉を休ませておくのです。
あえて、喉のところの踏み込みがあって、シャウトっぽくいくのはいいのですが、それがずっと続くと、普通の喉だったらやられてしまいます。そこでの切り替えです。使えるところはたぶん、「けれども」とか「人生を」とか、そのくらいのところで、使い過ぎています。
一つ使えば何とか響きで、同じ効果が表れる、マイクがあると。そういうところで3つとも使っているから、やっぱりどこかで壊れる、2番3番のどこで壊れるんだろうという見方をされてしまいます。
だから、簡単なことでいうと最後の「ジザベル どこに」といったときには、喉の状態は休まっていって、たしかに間奏で休ませることはできるのですが、そうでなくて頭の「心を焼き尽くし」と同じか、それよりいい状態で終わるために、歌えるところまでが、理想的なところです。
そんなことを言ってしまうと、引いてしまって小さな声で歌ったりするのですが、そうではない。
要は、負担をかけないところでいろいろできていることが、「ふみにじり」の「に」「じ」「り」で出ている声を参考にして、その声を「涙を乾かせた」「その名は」あるいは「ジザベル」の高いところあたりに、もっと使うことです。
ここだけでしか出て来なくて、最初歌った時には全部、太い音色のところでやっていたから。それで歌える人もたまにいます。外国人で。
日本人の喉が強い人は、5年10年みていると、だめになってしまうというより雑にしたつけがくるのです☆。
そこで歌えてしまうから、そういう歌い方を覚えてしまうのですが、そうすると歌えている時はいいのですけれども、喉に負担が来るからだんだん歌えなくなってしまう。ロスが乗ってきてしまうのです。
「ふみにじられ」のように、強く出すことにおいて、響きを上に移してしまうのですが、ただそれは、それで本当にできる人もいるのですが、技術ではない。そういう覚え方はしていかないほうがいいと思います。
○余韻の響き
このベースのところで歌うと、この歌に関しては、音域がすごく広いから、いきなり上の方に行くから、余韻や響きとか、そういうものがマイクの方に残らなくなってしまうと、残らないと思うのです。
今、やらなければいけないのはこの歌い方は、本当に最小限の部分で聞かせる、むしろシャウト的に考えて、つなぐところに関しては今みたいに、呼吸で響きで、一番合理的な発声というものを、より自分で自由になるようにしておく。
「心を焼き尽くし」みたいな入り方で、やるのはいいのですが、その時に必ず、「ジザベル」のところで、「赤とんぼ」で歌ったときのものに戻しておかないと、声は休まらない。ずっと喉を引きずって行ってしまう。
引きずって行って歌える人もいるけれど、日本人の場合はそれをする必要もないと思います。実際にマイクを通したときには、むしろ響きの部分の方が入りやすいから。そのことが2倍くらいのことでできたら、歌一曲は持つと思います。
それが今の状態でできないのだったら、歌の中の半分は響きの中のところで休めながらやっていかないと、響かなくなってしまうと思います。その状態で3曲歌って、4曲目といったときに共鳴がなくなってしまう。そうするときつくなってしまう。3曲目をやりましょう。
○感じを出す
カタカナをつけた発声になってしまって、この歌の雰囲気や、歌自体がその中に持っている世界や柔らかさや、感情みたいなものを、その声は最低限のペースはとっているのです。一端してはとっているのですが、色がついていない。
例えば一つの色の中で、どこかにぼかしがあって、どこがすごく急角度になっていたり、そういうことをもってして、人の五感の中に働いていく。
ハワイアンでも何でもいのですが、フラで歌って、そういう南国的な感じや柔らかい感じ、温かい感じ、そういうものが出ないのに、あなたの頭が、発声の方にいってしまっている。
こういう歌に関しては、発声で勉強するよりは、優先することがあります。発声を勉強した方がいいような歌もある。「赤とんぼ」はそれでいいと思うのです。
どちらかというと、日本語、情感の方になってくるのですが、こういう歌に関しては、言語がわからないから、声の表情を作ることの課題にしていかなければいけない。それと響き、動かし方が自由になっていくことは同じことなのです。
音で取っていってその音をつなげているだけで、そこに言葉をはめ込んでいる感じに、この曲なんかはまだなっています。自分で切ってしまっていますね。ここはもっとおけるとか、もっと丁寧に扱えば何か伝わるというのですが、さっさと行ってしまうのです。まさに課題なのです。最後まで、あまり下手に見られないように、とりあえずつないでいこうという、そんな必要はない。
○コピー部分と演奏化
何をしてほしいのかというと、あなたがこれを選んだということは、何かしらこれを歌ってみたかったり、これから受けてこんな感じ、何かあるというのはつかんだと思うのです。それを、拡大して出していきます。それが隠れてしまったら、いったいどんな気まぐれでこの曲を選んできたんだろう、カタカナが面白いからかなとか、こんなことをやってみたかったのかなと思われるようでは、仕方がない。
歌い手というのは当然ながら、何かを感じ、何かを感じさせるためにそれを選び、それを自分でまとめていくわけだから、原曲どおりに歌う必要はありませんが、原曲にあるニュアンスを学ぶこと、それからそのままでは出せないから、当然そこは自分が感じたように持っていけばいい。
原曲っぽくて嘘っぽいというのもまずい。ただ原曲の中にそのことの8割は入っているし、ところが8割あっても、自分でできることはその2割だから、そうすると残りの6割は、自分の持っているものやここで感じることや、これってたぶんこういうことを言っているのかなというようなことでしょう。
ことばでなくていいのですが、それを補って、楽器の演奏にしなければいけない。だから、どこがこの中で気に入ったのかはわかりませんが、気に入ったところの何かの部分に対して、声をどう使えばいいのかということです。
コピーするのも一つの手法ですし、コピーした部分でできることとできないこともある。自分でもっとこうやりたいというところがあればそれをやって、それで作品として、デッサンをここに見せにくる。
○色付け
歌えてしまってるのは、こんなところに来なくても歌えてしまっているのだから、どう歌うかということを、そこにどう声があるかということが結びつけて問う。
自分がイメージすることとできることは違う。だから自分ができることの中で、完璧にやってしまうのはステージでやればいい。ここではできないことを含めて、途中で破たんしても構わないから、色付けの練習をやることです。
たとえばこの2行だけを与えられたときに、プロが10人来たとしたら、皆、それぞれのデッサンを見せる。その時に自分が勝負できるテンポや声の見せ方、客への伝え方というのはいったい何だろうというところで、一ヶ月やってこないと、今やったくらいだと即興でできてしまう。一ヶ月意味がない。
できることはここで問う必要はない。そのうえのことを問うて、もっと破たんしたりおかしくならないと、よくないのです。
自分の発声の世界に持っていってしまうと、それはこなしたということだけで、自分では選んでいない曲をやってみたという変な経験にしかならない。
少なくとも、一流の歌い手がやっているものから学べるものがある。特に「赤とんぼ」と最後の曲は、もう少し徹底してやってみれば声の状態をつかむのにいいかもしれません。
○何でも変えればよい
まじめだから、こういう歌詞だったらこういうふうに歌わなければいけない、こういう単語だからこうだという思い込み、それはそれで大切なことです。
しかし、そんなことを考えなくたって、この曲は聞けるではないか。その部分の勉強をする。音程やことば、歌詞の意味、そういうものは歌の中で大切な要素ですが、それよりも音楽としての部分で、そんなものはなくても聞ける部分が、声そのものの中にはあるのです。それらをつかむようにした方がいいですね。
音程の勉強、ことばの勉強は、別にすればいいわけです。それを発音から入って、伝わったという意味がわからなくなってしまうのが一番怖いのです。
例えば、演劇か何かでどんなに台詞を読んで解釈しても、舞台でやってみたときに、それで伝わらないとしたら台詞を変えればいいわけです。その台詞を変えられないところで、自分が合わないキーや言葉の使い方で、力をつけて応用するのだったらもっといいですが。勉強する過程では、自分のいいものは出てこないですね。声優か何かで、一生懸命ドラえもんの勉強をしているようなものですね。そういうものは基本の練習としては、無駄とは言わないが、もったいないです。
Q.歌詞がわかると安心します。
だから、それがだめなので、簡単な話で言うと、自分で作って自分で歌うのが一番いいのです。その手間がかかってしまうのがよい。作詞作曲も才能がないと、大したものはできないのです。
もうすでに優れている曲のものを自分がアレンジしてしまう方がいい勉強になる。その時に、曲や詞というひとつのものがある。何もないけれど書きなさいと言われたら、時間もかかるし大したものも書けない。
10個作りなさいと言われたら、だいたい同じものになってしまいます。
こういうパターンのものを10個、これを書き換えなさいと言ったら、能力がアップします。
そのことを、曲でも詞でもやりたいのです。一番やりたいのは声についてでしょう。それが、ヴォイストレーニングのレッスンです。
声についてやりたいのに、楽譜を与えてしまうとピアノの伴奏をつけたりすると、つなぎのことや、どういうニュアンスを置いていくのかに、全然神経がいかない。
どちらかというと、そちらの方が大切です。発声ができるとか、届くということは、後の問題。あるいは要らないかもしれない。音楽として成り立つとか伝わるということが成り立っていなければ、何をやってみたってしかたがない。
だからバーッと聞いてみたときに、これは何か心に残る、そこは何なんだろうということを勉強しない限りは、意味がない。
こういう歌も選んだ理由が、あなたから出せるように歌ってこないと、へんてこな歌、こういう歌が好きなのかなあくらいではだめ、このへんてこさの、こういう部分がいいというのが聞こえてこない限り、これを選んだ意味がない。それが何年かたったら、わけがわからないけれども何かいい感じだなというように、あなたが歌えればいい。へんてこという味もありますが、こういうところでやるのとはまた、違う個性です。
こう歌ったから、次は小さく歌えばいいというのではなくて、こう上がってきたから、ここからこう押してきて、こういう流れの中に乗るくらいに、乗っていく。最初聞いたときには、ここでこういって、またこういうふうにと頭が働いてしまった。その間のところを自分の中で、きちんと見ていく。
一つひとつをきちんと伝えなければいけないのですが、全体の流れも、一回自分の中に入れてみて、その両方が必要です。それぞれの部分は部分で、完結していかなければいけない。固めて完結してしまうと、今度は全体の流れが、単にAAA …というようになってしまう。だからその中で、あなたがABCAと見せたいのか、AABAと見せたいのか、それを自分の構図としてきちんと見ておくことです。声に関してはいいのかもしれません。
Q.メロディが単純な分、自分で流れをつくっていかないとよくないのか。
この歌なんかは、自由に結構やわらかく置いたりはできるのです。ああいう歌というのは、クラシックと同じで、ぎりぎり、作品の完成度としてはどこも隙を見せられないようなかたちにしていかなければいけない。語尾をつけたほうがいい。宗教心が入っていたり、いろいろな意味があって、結構厳しい歌、メロディの進行自体が結構厳しい。すぐに説得力が弱くなってしまう。
結局、当たり前に考えるのがいいのです。模倣から入るのも、検証から入るといいと思うのです。それを自分たちの中で組み替えていかないと、自分のものにはなっていかない。集団でやるものは、個人個人が確立して、それがぶつかりあっていくと、いいものになっていく。【05.6】
○共通して残るもの
今は2時間半くらいですが、以前は4時間半、ひどい場合は2時くらいから8時くらいまでやっていました。最初1時間くらいは質疑応答です。この12に関しては15年前、このCD、6連を2つ切り替えて、曲順を入れて、大変だったのを覚えています。今も、入れ替えなしでやっています。今の若い人には合わないなと思いつつも、声から考えたときには、この中に共通して含まれている部分と、日本人が一番改善しなければいけない部分は、今でも共通していると想います。
ただ、どんどん歌の中自体にそういうことが問われなくなってきたのと、お客さんの変容ですね。
昔の歌い手をDVDやCDで聞きますけれど、本当に声がいいわけです。声がいいということで、歌が与えられて歌手ということが成り立っていた時代、そういうことからいうと、今はそういう基準で歌い手がとられているわけでもありません。
むしろ心配しているのは、発声の技術を持っている人たちの音声の表現力があればあるほど、客が歌としては受け入れられなくなってきているのではないかという気がします。
お笑いで使われている声に関しては、実際にあれは、声の力で説得させているわけです。ネタもありますが、音色や声の出し方も非常に大きく利いている。
でも、同じ感覚があったときに、声のほうにいかないんだろうという気がします。この前、カラオケでテツandトモのテツさんが、非常にうまくチャゲアスの曲を歌っていました。物まねの部分はあるとしても、彼もプロ歌手になろうと思って修行してわけです。
その中で感覚して置き換えたときに、声を出すところよりは、感覚として客に伝えるほうに、声を使っているんだなということです。
だからといって声をやらなくていいということにはならないのです。
感覚を見せるために、声をどう使っていくかということに入っていく必要がある気がします。
特に、音響やマイクがこれだけ発展してきますと、最終的にはコンピューターがどういうふうに、人間の音声を理解し、作り出すかということになってくる。それでも人間がそういうものに負けない何を持っているかということになったとき、発声そのものは物理的な現象でつくれます。そこで、いかに不規則にしていくかというのも技術です。不規則になりすぎてしまうと、今度は聞いている人間が抵抗感を感じます。そんな感じで、今回関しては、一応ベースに戻って、以前から変わらない音声の中でやっていこうと思っています。
はじめて私が聞いたころに、CD-Rにできる機材が研究所に入って、それで入れたものです。サッチモのところまでは共通しています。こんなのを聞かせていたときもあった。
○トレーニングでの過剰☆
会報に、講演会のCDの感想を書いてもらいました。少しずつ研究所の声のことを知ってもらおうということです。
これは歌としては成り立っていませんが、そんな悪いわけではない。ただ、もう一人のほうが、音楽面と発声面でよい。、両方とも歌から見たら、トレーニングが表れている時期です。
トレーニングしていた時期だから、それでいいと思うのです。トレーニングというのは過度にやるわけです。自分の息や体を使ったり、意識がどうしても声のほうにあります。それを全部忘れて、ステージングにいけば、それはそれでいい。トレーニングは飽和状態に、過剰にやっておけばいい。
それを歌と比べて、入れてみても仕方がないのです。ただトレーニングする人にとってみたら、トレーニングしている歌い手の状態を見たほうが、歌い手の歌はいろいろな意味で、整理されています。
絵画の勉強をするのに、デッサンを見る。我々は、完成したものを見るのですけれど、画学生は、その絵を勉強したい人は、自分が憧れている画家のデッサンや習作、途中まで書いてやめてしまったり、下絵にしているようなものを見るわけです。
お弟子さんになると、先生が書いてる途中のところを見られるのでしょう。歌はそういうことがなかなかできない。
ただ、途中のプロセスが見れるというのは、研究所もそういう意味があった。自分ばかりではなくて、他の人がどういうふうに変わっていくのか。身についたついていないというのは、どこかに線引きがあるわけではなく、程度問題です。
どの世界をつくっていくのに対して、どの程度の感覚や体があればいいのかということだと思います。
研究所の理論は、本にすると理論っぽく見えてしまうのです。私はここで何も教えていないのに、教えられたと誤解されて出ていってしまう人がいるから困るのです。
一流のヴォーカリストがやっている感覚を体に移し変える。それでその通りにやっていく。間違った間違っていないも、いろいろな人たちはそうやってやっていったのだから、そうやっていくしかないよということ。
そのために何を手本にとったらいいのか、自分には何が合っているのか、そういうのを探るためには、自分ひとりでCDショップに行って探すより、こういう場があれば、この方向にあるのかなというマップ、あるいは鏡としての位置づけになります。そういうことでいうと、皆がすぐに見つけられないような材料を見ていくといいと思います。
○将来の自分の声
一番違うところは何かというと、一流のアーティストのところに憧れて、ヴォイストレーニングはやっていくのですけれど、その自分の目標を、自分の上に置かなければいけないということです。それが一番難しいことだと思います☆。
自分の理想の5年後10年後か15年後かわからないけれど、それは自分の体を元にしたところの感覚だから、こんなものをいくつ聞いてみたって、それにはなれない。またならなくてもいいし、なれないですね。
いいトレーナーがいる中でも、いろいろ相談しているときには、ああいう声を出したいとか思うけど、それは途中まではいいと思うのです。計算してみても、それが必ず手に入るのであれば、やる意味があると思うのです。でも、たぶん無理じゃないかということもある。
なぜなら、その声を手に入れた人は、20年30年もかけて、その声を手に入れていないのです。生まれたときから歌っていたという子は別にしても、大人としての楽器ができてから、5年から長くても10年の中に、それをつくっているわけです。
そうすると、その時期には方法論でなく、自分の生まれて持ってきた楽器がそうではないという判断をしていかないと、自分の延長上にしか自分の世界は築いていかれない。
ただ、歌の世界は誤解が非常に多い。楽器は楽器を買い換えて、憧れのミュージシャンと同じことを手にすれば、それを手にしたところでどうにもならないということは、わかります。
ピアノでも、どんなメーカーの品でも、高いものを買ってみても、1千万のピアノを買ってみても、腕がなければどうしようもない。ところが人間の体の場合はそういうふうにいかない。
だから、そういうことで自分のことを知るきっかけとして、こういうものを与えているのです☆。ですから、このように歌いなさいということではないのです。ただ、こうやってプロを20人聞いてみると、でも、我々と違って、何かこの20人で、共通している部分があるなと。学ぶべきところがあるとしたら、この部分ですね。20人の中で共通しているものをとることです。
いろいろな人たちが、いろいろな表現をやっているので、案外と見えやすいのではないかと思います。こういう人たちの場合は、ごまかしがない。技術的なことに走ることがあまりないのです。声は必要なことではありますが、こんなところから何かをとって、やっていきたいと思っています。
全部の曲のエッセンスを、今日の曲のテーマに合わせて、聞き方、入れ方、出し方、見せ方ということで、題材を根本の部分にとるという考えでやっていきます。
○感動のノウハウ
練習の中では難しいですね。感動するとか感じるというのは、たぶん、こちらが働きかけているときはあまりできなくて、自分のことを意識しています。それは、何かしら、それを忘れて没頭しているような部分の中に、表れ出てくるものでしょうね。
だから練習の中でそういうものを感知できればいいと思います。練習はどうしても、順番だとか意識して、固めてセッティングしなければいけない。
スポーツではそういうふうにして働くことがあるのでしょう。それと聞く人たちがどういうレベルで捉えるかという、その2つの条件が必要です。
状況から仕組むということはできるのですね。ミュージカルや舞台と同じで、合宿なんかもそうです。私も最低限、仕組みを入れて、歌い手に頼らず、感動させるようなシチュエーションにしています。
それは演出家の仕事であって、歌い手の力とはちょっと違ってきます。こんなのでも材料を挙げていって、それなりに心にしみるような物語にして、小説やドラマと同じように、泣かせるように感動するように、笑わせるように持って行けばできるのです。
それを歌だけの中でやるということになると、聞き手の心の状態が必要になってきます。こうやって切り刻んで、これやりましょう、次はこれをやりましょうという範囲での、切り替えができないといけない。
放り出すしかないですね。
○ネイティブに近づく
そう簡単に、自分が入っていないもの、たとえば私でもそうですが、私より上の団塊の世代より、もうひとつ上の世代になると「ティー」を「テー」と言ったりする。聞いていなければ、いくつの歳になっても直らないことがあるのです☆。
「ディスク」と言わないで「デスク」となったりする。私たちでもそうですね。「ディレンマ」が「ジレンマ」になってしまう。聞いていることと言っていることが違う。実際には「ディジタル」だけれども「デジタル」と言う。そういうものは20年聞いていても変わらないところがあるから、それを持っている以上、無理ですね。
臨界期をすぎると、言語なんかと同じです。だから、歌の中でネイティブにはなれないけれど、それに近づけるということになると、一回言語を壊さなければいけないし、歌の中でもある程度あやふやにしていかなければいけない。
かなりあやふやにして、違う意味でのつながりを、自分の中で感じていかなければいけない。コピーしてできるのかできないのかわからないけれど、ヒアリングや英会話教室に行ってみて、根本的に変えていくということはできる。
そこに生活してみたり、自分の頭が外れたときに、音を発していくという形で習得していく。新しく習得していくと考えるくらいで。耳で聞くにしても、その耳自体がそうは捉えてくれないから、そうすると発声器官がそのように対応しない。
「R」と「L」もそうでしょう。日本語と「ラ」とあってみて、そんな区別も教えられたらやるでしょうが、本当の意味で認識できていないから。訳のわからない中でそういうものを発してみて、決めつけないところの音をどんどんつくっていくしかないですね。
ここで「ハイ」と練習していても、今、「ハイ」と練習しているときには、「ハ イ」とは意識していないけれど、最初やると皆、「ハ イ」と必ずなるわけです。それを「ハイ」と言っていて「ハイ」なのだということが、許される。逆に「ハイ」と言ってはいけなくて「ハイ」というほうがいい、2音に分けないほうがいいという考えから、勉強でできる場合と、ある程度いい加減さで放り投げないと身につかないところもあります。
○感覚の変容
勉強で習得してできる部分は、意識して変えればいいと思うのですが、それで習得できない部分は、まったく新しく覚える感じでやるしかない気がします。それから自分で発していることと聞こえていること、相手が聞くところとが違う場合が多いのです。
それも自分が発したことを自分の耳で判断するのではなくて、一回録音するなどして、相手のほうでどう伝わっているかという判断で見ないと仕方ない。だから「イ」と言えていなくても、相手が「イ」と聞こえていたらいいというようなこと。
人間は、それが「イ」と聞こえていなくても、前後から「ハイ」なんだと思ったら、それを「ハイ」の「イ」で聞いてしまうわけです。そういうふうな耳の受け止め方みたいなこともあります。
日本の映画や話をしているのはよく聞こえるのに、英語は聞こえないというのは、6割くらい聞けたら、あとの4割は想像して補っているのです。聞けているわけではないのです。ところが英語で3割くらいしか聞こえないと、あとの7割が読めない。
映画も、筋が分かっていたら5割くらいしか聞けていないのに、全部理解できていると、自分では思ってしまうわけです。ところが2割3割だと、さすがに予想がつかない。
あるいは話題が展開されて、違うところにいってしまったら、単語も全然聞こえなくなってしまいます。
人間の中で、そういうものを補う機能、場合によってはカクテルパーティ効果といわれています。自分の名前や自分の話題があったら、そこだけに話題が集中していく。目もそうですね。
パッと見て、自分の見たいものがすごく拡大して見えて、後のものは目に入らない。そういう認識機能があるのです。本当にうまい人は、そういうものをうまく働かせてピークに持っていくような歌の組み立てをできている。そうでない人は、単に歌っているだけという、聞いているほうが、それを聞いているうちに、歌詞の世界もあるのでしょうが、歌の世界に引き込まれるような組み立てができてしまう歌い手と、何かやっぱり5メートル離れて歌っているんだなというふうにしか見えない歌い手、役者でももっと極端です。
どんなに小さい人でも、すごく大きく見える人と、実物大で舞台でやっている人と、見る人の教養もありますね。映画でも、私が昔、映画館に行ったら、幕の向こうで何かやっているという違和感があって仕方がなかったのですが、そういうのが映画だとわかるようになってくると、今度は没頭するようになってくる。だから慣れというのもあると思います。
○真ん中で発声しよう
ハミングは、マヘリア・ジャクソンがやっていました。
あまり発声の中に入っていくと、切り替えができなくなってしまいますから、出ないときも出ていると思ってやるしかないですね。方法でできる範囲では、方法でやるのでしょうけれど、それ以上になってしまうと、ある意味の開き直りや投げ出しの中で、動くか動かないかということです。それをチェックしようと思った瞬間に体が固くなったり、意識が内側に入ってしまう。声を出しながらチェックしている人がいますけれど、あまりいいことではない。
たぶん、ベストのところにはいかなくて、自分の真ん中のところでのチェックでしょう。発声練習というのはリピートするのですが、ベストのものをそこで見つけるためにやるわけです。同じ15分30分があったら、たった一瞬でもいいから、今までの中のベストが出ていればそれでいのです。がんばりすぎたり、いろいろな方法を考えすぎたりすると、それでむしろワーストで終わってしまう場合が多いです。
30分のものを1時間やってしまって、もっと状態が悪くなってしまうとか。そういう中で、昔はそれでも筋肉が鍛えられたり、息が強くなっているということが効果だったのでしょう。今考えてみると、筋肉は筋肉で、息は息で鍛えていく方が合理的で、喉をあまり強くしてみても、その辺は難しいですね。
○喉を鍛える
ヴォイストレーニングでもそうですが、日本の声楽家は声が弱い。20代のときに声が出ていたけれど、30代40代で声の出なかった人たちを見ていて、目的としては30、40でも、あるいは50になっても、声を守るために今から鍛えておきたい。
外国の声楽家というのは、大声でしゃべったり、少し荒い声の出し方をしても、元々声が強いということもあります。
日本の声楽家は、先生方、ちょっと喋っていると喉にくるといいます。日本の場合は弱いです。たぶん、間違えないできたからじゃないかと思うのです。あれやっちゃだめ、これやっちゃだめといわれて、正しくしか歌っていないから。
実際には、違うリズムのものを歌わされたりすると壊す。
一日20分くらいしか練習していない人に、2時間歌えということになってしまうと、もたないのです。
私は、その年齢のころには研究所で12時間くらいレッスンをやっていました。今はしゃべるくらいしかしないけれど、声を出していましたから、そういう意味でいうと、必ずしも正しく、喉にかけないでということだけを覚えていくことがいいわけではない。
役者なんかはめちゃくちゃに鍛えていきますから、それでダメになってしまう人もいますけれど、ある意味では声は強くなります。落語家もそうですね。なまじ、ノウハウがないほうが、いい部分もあるという気がします。
だからといって喉をつぶすということは、楽器としてはよくないことです。
日本の声楽でよく言われるダイナミックさや深い音色、外国人が持っているような響きになかなかならない。弱くて、きれいなのです。それ以上のものではない。ドイツ式のリード、きれいな声であまり飛ばないが、心地よく歌いましょうというような先生ばかりになってドラマティックに歌うような人がほとんどいなくなっています。そういうのも日本人のひとつの傾向でしょう。
イタリア式で、ダイナミックに歌うこともなくなり、元々持っている声が良くて、強く歌えない人たちのほうが試験に受かってしまいます。
○世界の一流の感覚レベル
難しいので、できないのを悔やむ必要はありません。これができたら世界一流で、日本のレベルを軽く越えてしまいます。課題としては感覚です。
止めたところから動かすというより、動いている中で動きをとって、その動きに乗せていくこととか、動いている中で、どう止めるかということのほうが、実際の歌からいうと必要なことです。
発声というのは、止めているところから動かしますから、車でいうと一番難しいところです。逆にこういう感覚の中では、歌っているわけでも、声を出しているわけでもなく、もう出ている中で出しているから、逆に皆より楽なわけです。
皆の場合は、そこのフレーズだけ止めて、やらなければいけないから難しいわけです。でも、だからと言って、その前ができているわけではないから、こういう中に入って、こういう歌い手が歌っている感覚を入れておいて、その瞬間だけ、前をとる、そのときに、声を握ることを考えるより、動かさなければいけないのだけど、すでにあるその動きの中でとり、どこで放すかとなる☆。ここのもそうです。きちんと握っているのだけど、放していますね。
ここまでのところの歌詞は、メロディに忠実にやっていますが、ここのところは少し変えてやっています。最初の「セレーナ」と、少し巻いた後の「セレーナ」も違ってきます。
【05.5.4 京都特別】
<Q&A>
ブレスヴォイストレーニングQ&Aブログ(Q1〜4)
Q1.自分のオリジナリティを考えながら発声練習をやるときに、その持っていき方がよくわからないのですが、何かそのきっかけになるようなことはありますか。
発声練習のときのオリジナリティは、表現ではなく、体の原理に合った、ということになります。
できるできないというのは、似てる似てないというのと同じで、かなり相対的なものです。また、誰でもすべてのことができるわけではありません。
できないことをやるというのは、例えば、音程がとれないから音程練習をやるというのと同じで、課題になります。しかし、プロのフレーズが取れない、その人の表現形式が取れないというのは、何をもってとれないかということが問題になります。それは、一人ひとり違ってくることです。
声を他人と同じように出すということは、不可能でしょう。どうしても似てしまいます。似るから、だめなのです。
演歌の場合などは、それをこぶしの動かし方とか、ビブラートのかけ方とか、そういうことから教えられるのかもしれませんが、これも私は感心しません。ポップスの場合は、声の感覚的な置き方みたいなものが大切になってくるので、仮にそれができたとしても、表面的な真似になってしまうのです。
ただ、最初は真似も練習ですから、そこから入ってみるのはよいと思います。誰かの歌をコピーしようと思っても、元歌が必ずしもよい材料とは限りません。例えば、低いところでファルセットがかけられないとか、そういう問題が現実的には起きてくるのです。しかし、それを自分がやる必要がどこまであるのかということです。そのヴォーカリストがやっているから、そういう声が出せるから、歌のスタイルになっているから意味があるのであって、普通は必要ありません。
その練習をどこまで重点的にやるかということは難しいことです。
一つは必要性の問題があると思います。誰かにとっては重要なことでも、残りの人たちにとっては、ほとんど意味がないということもありえます。やれるようになるには、すべてをやるのでなく、絞り込むことです。ですから、レッスンで提供した材料から、細かい部分は自分で汲みとって欲しいのです。
Q2.客に伝わるには、どのように歌えばよいのでしょうか。またどんな練習が必要ですか。
やはり、何にしても心とか魂という問題はあると思います。あなたが歌う理由、その歌の中で問いたいもの、そこにお客さんがいたら何を自分の価値として提供するかという、それによって決まってくると思います。
それとともに、それを高めていくということは、伝わるようにどう作るか。また、そのことよりも、まず自分が作ってみること。その上で、ここの部分が伝わらないと思ったら変えてみる。全部伝わらないなと思ったらその曲はやめる。そうやって試行錯誤していくことが大切です。
自分はこの曲でことばを大切に伝えたいということであれば、そういうスタンスが決まってくる。そうしたら、それを伝えるためにどうするかという問題に落ちてきます。
何かをやればよい、何でもやればよいということではありません。
伝えたいことがないと言ってしまえば、誰だって本当に伝えたいことなど、どれほどあるのかとなる。その辺は歌い手、そういうものを作っている人をみた方がよい。衝動、勢いで理由などなくやっている。では、なぜ自分は歌っているのか、なぜ勉強しているのかということになってきます。
客が見えないときというのは、難しいですから、相手を想定するということが第一だと思います。ただ、相手が見えなくてもやらなくてはいけないときもある。その辺をあまり考えすぎると、なぜそれを歌でやらなくてはいけないのか、歌でなくてもよいのではないかとなってきます。
今はやりたいことをやっていく。それが伝わったかどうかというのは、あとで誰かがそれを評していうだけのことです。伝わったかどうかということを、最初から考えずに、歌を突き放すことも大切です。その人がやりたいことを思いっきりやって、一生を駆け抜けていくことだと思います。
誰もがやりたいことというよりも、やりたくなくてもやらされてしまう場合もあるでしょう。いわゆる業みたいなものかもしれません。
歌い手も、客がいようがいなかろうがやっていく人はやっていくし、伝わったとかどうかは関係なしに、やらざるを得ない状況の人たちもいます。そういう中で何を選んでいくかということだと思います。自分が勉強しなければ、相手に突っ込まれてしまう。そういう意味では、自分が勉強せざるを得ない状況になるということです。
Q3.音色とことばとどちらが大切ですか。
それはあなたが何をどう伝えようとするかによって、違ってくると思います。
例えば、ピアノとかバイオリンなどのように、音楽面での演奏をメインにしたら、その音色がどういうふうに音楽を奏でるかということが大事でしょう。そのときに心の中でどう思っていようが、それが音色として表現できなければ仕方ありません。それは何事も同じで、ことばに感情移入すればよいものができるかというと、あまり関係ないのです。
Q4.今まで先生にとって、奇跡の瞬間みたいなものはありましたか。また、歌の創造性とは何でしょうか?
今は自分に対してもあまりに厳しくなってしまったということもありますが、外国のヴォーカリストと接して、彼らはこういうふうに声を扱っているのかということがわかっても、それが自分の中でしか動かない。それを他人に伝えるのは、とても難しいことです。要は、100の力を200にしても、結局200しか出てこないし、500にしても、500しか出てこない。ところが、一流は違う。
彼らの中には10の力で1000のことを見せられるかのような人もいます。
日本では、美空ひばりさんくらいでしょう。私はファンではないのですが、いくつかの曲のフレーズの中で、彼女の歌に対してすごく創造的に感じることがあり、そのことを、他の歌い手には感じられないという部分があるのです。もちろん、他の歌手のライブでも起こっていることだと思います。
でも大体の場合、歌い出しの部分を聴いたら、最後までわかってしまうのが普通だと思います。それを越えた何かというのが、一つの奇跡なりマジックであり、プロというのはそれを起こす人です。まさに奇跡のような瞬間ですね。
世の中には、プロでなくても、歌がうまく歌える人はたくさんいます。でも、プロというのは常に感動を与えないと、お客さんは来てくれなくなる。ステージの構成などの力でよりも、一曲の中で、そのことが確実に起こせる人が、私の考えるプロということです。
もちろん、歌い手は必ずしもそこだけの魅力ではありません。今の漫才とかお笑いの人の中でも、形が壊れ、そのときに奇跡的な瞬間が生まれることがあるのです。
絵やアート作品なども、アイデアとかひらめきでやっているものというのは、必ずしもその作品が優れているということではない。しかし、着想で優れているのです。既存のアートという枠を壊している。建築物などでも同じようなことがいえます。
音楽でも、こういう世界は究極の部分に表われるのです。ほとんどの歌の場合は、歌の中で問題を片付けようとしている人がほとんどです。それは、誰かの歌を誰かのように歌っているということです。
私は以前、ロックの本を書いたときに、日本のロックをやっている人からいろいろといわれました。しかし、そういう人がやっていることというのは、向こうのロックバンドのコピーで、世の中に何ら影響力を持っていない。そういう創造性がないところに、応答しようもありません。ロックのコピーは、私の中ではロックではなく、カラオケです。
とことん、突き詰めるなら、死んだあとに何が残るのか、国を越えてどこまで通用するのだろうという見方をするとよいと思います。価値がないからダメとはいいません。しかし、歌をやるということはどういうことなのかということを、歌の中で考えても仕方がないような気がします。
現代の歌というのは、すべての人にとって、自分の日記とかエッセイみたいなものにしかすぎないかのようです。歌といっても、ウェブ上で日記を公開したら、それが作品になってしまうというのと同じことです。その中でアーティストになるということは、レベルが高いというだけではない。今はいろんな形がありますから、簡単に判断できなくなってきたということです。
ミュージシャンということでいえば、技術的な面でもはっきりするのですが、そういう感覚が客の方に働かないことには、たぶんそれ以上の作品にはならないでしょう。
よく歌の世界を文章と比べてみるのです。私は小さい頃から文章を書いていたので、その才能に比べて、音楽の才能も判断しています。うまく歌える人は、音大生でもサラリーマン、OLでもたくさんいます。しかし、音楽の中で奇跡は起きない。ところがミュージシャンというのは、そういうことを音の中で起こしているということがわかるのです。
彼らは100しか考えないし、100のことしかやっていませんが、そこに1000の世界を持ってこれるのです。そういう意味では、その才能をどう見抜いていくかということになってきます。その中の「何か」ということで絞ってみていくと、私にもみえます。
私には、もう一つそれをみる才能、つまり、聴く力にすぐれていることがわかりました。それがプロの中でヴォイストレーナーとして成り立っている理由でしょう。
皆、私の声を求めにきますが、それなら歌手や役者をみればよい。プロは声でなく、感覚を求めにきます。歌として全体をみていくよりも、このフレーズのこの一瞬とか、このリズムの中のこういう動きとか、そうやって部分的にみていく。それがわかっている人というのは、集約して作品にしています。そこにまず、鋭い聴覚、耳を求めたいと思うのです。
それは話でも同じでしょう。私の話は決してうまいとは思わないのですが、例えば4時間くらい話していると、その中で自分を助けてくれる、何かが訪れる瞬間があるのです。
私が音楽や歌が日本の中であまり好まないのは、形をセッティングし、それにそってやらなくてはいけない不自由さを感じるからです。
<VOICE OF STUDIO>
レッスン感想
★体や技術を得るには時間がかかるが、気持ちは「今」「この瞬間」である。H先生より、表現が自分の内側に向かっているとの指摘を受ける。→最近は、特に、伝えることに意識をおいていたが、結局「誰かに」というところが欠けている。→このことについて考えてみたが、誰かには伝えたいけど、自分が壁をつくっていて、自分自身で妨害している状況である。この矛盾が乗り越えるべき課題である。H先生曰く、この尋常でない曲を歌うには、ぶっ壊れることだ。→曲との接点を考える一方で、曲自体の解釈が薄れ、自分よりにしすぎたため世界観が小さくなった。そういえば、レッスンAMの時に、同じようなことを言われていた。せっかくのレッスンも活かしきれていない自分は、ばかで情けない。(7/28.AH)
★課題・・・「この胸のときめきを」 イタリア語で歌う。上手くまとめようとすると、かえってしぼんでしまうので、各フレーズの終わりに向ってふくらまして行く感じで持ってゆく。曲の後半は、詩の内容とは反対にカラリと明るめに仕上げる。いつもテンポを感じているように。軽く、だけれども息の流れは常に意識しておく。丁寧に息を流そうとするあまり、テンポがどこかへ行ってしまわないように。次回は日本語で歌う。(7/28.H個人)
★舞台に立つ時のテンションについて学んだ。惰性に陥っている。→テンションのことを言われ続けているが、以前より、素の状態になってきている気がする。(8/4.AH)
★言葉をどこまで大切にできたか。夏なのに冬の歌を歌い、今の自分では何か伝えることができるだろうか。まだまだリアルなものが欠けている。どうにも嘘っぽく聞こえてしまう。何か方法があって、どうにかなることでもない。やはり、自分で作っていく中でのイメージが、リアルなものにするのだろうか。より自分のほうに持っていくことができれば、よりリアルな歌に仕上げることができるかもしれない。それも一理あって、他の方法からもアクセスできると思うので、多角的なところから入るために、色々試していきたい。自分のものは出せたかどうか。そして、それは表現として成り立ったか。毎回どうしようか考える。考えながら出すが、大概は成り立たない。音楽的なものが乏しいことも原因だろうけど、レッスン中にはなかなか出せない。せめて、きっかけのような、なにか破片でもよいから拾いたい。今後、歌っていく中で自分のものとして出せるようなもののヒントを。そのためには、自分のものを出し続け、成り立つためにはどうしたらよいか、ひたすら考える他ない。声が奥まっている。人前でやるスタンスではない。奥まっているゆえ、気持ちまで奥まっているようであった。遠くへというイメージが貧弱なのか、まだその自分の声に対しての認識、感性が鈍い。こういうところは自分でドシドシ気づいていかないと直らない。気づかないと修正できない。今回は指摘していただいて気づけたので、これからは自分で実感するまで自分の声に耳を傾けたい。人前を想定したらこのような気持ちまで奥まったような声は許されないし許さない。出だし前の気持ち、世界作り。歌い始めたら、聞いている人を日常から切り離したい。それにはまず、自分が歌う前に日常から切り離れ、作品のイメージを作っておかなければならない。歌い始めてからでは遅すぎる。気持ちの切り替えというか、作品への集中力というか。人までは芸人として振舞いたい。人に伝えるという認識がまだまだ甘すぎる。それによってテンションだけで持っていけるテンションが欲しい。いざとなって役に立つものだから。その点はお笑い芸人の方たちが大いに参考になる。自分にも芸人根性が必要だ。(8/4)
★何でも1回勝負。1フレーズを使って全てを学ぶ方法について。今日のレッスンは新しい受け方をした。曲を聴き、瞬時にそのイメージを絵で表現していった。すぐに思いつくもの、つかないもの、また最終的に同じようなイメージしか浮かばないなど課題は山積みだが、とっても有意義な時間をすごせた。根本的な課題にぶつかっている。「伝える」ということ。「何を伝えるのか」から始まり、「なぜ伝えたいのか」に突入した。とってもよい疑問がでてきた。(8/4.F※)
★オリジナリティを出してやってみるけれども、大体独りよがりになってしまうと思う。自分のものを出して、なおかつ、成り立つようにしたい。どうしてもワザとらしくなってしまうように思う。自然にならない。自分のものがなじまないというか、それ自体自分のものだろうかと思う。急に見つかるものでもないし、すぐにできるものでもない。役者やお笑いの分野からもその点に関しては学べる点が多いと思うので、少し視野を広げて探って行きたい。今はうまくいくことは稀だが、毎回レッスンでは、自分のものを出すようにし、何かキッカケでもつかめるようにがんばりたい。
リアルさが足りない。不自然になってしまう。メロディと言葉を追いかけて、曲のイメージや雰囲気をおろそかにしてきた。結局一番大事な中核の部分だ。レッスンでは、数回聞いて出すが、それでも、この短い時間の中で自分のものを出すことを続けたい。今までのは中身のないスッカラカンの状態だった。その曲のイメージをしっかり作ってから出すようにということだったが、今日はそのことを痛感した。イメージをはっきりしていないときと、それなりに明確に作ってきたときとでは、やはり違う。今日自分の中でも実感できた。確かに、誰かの歌を歌うよりも、自分のオリジナルの曲のほうが歌いやすい。自分で勝手に歌いやすいように作ったかもしれないが。やはり、気持ちの張りも違うし、曲にもより入り込める。どんな曲でも入り込まなくてはいけないが、今の段階ではそう感じた。リアルさとは、自分で作り続ける中で築かれていくものだと感じた。
アニメの俳優さんなどもすごいと思った。たまにテレビをつけて、アニメがやっていることがるが、よく見ると、場面に応じて実に多様な声の表情を出している。そういう視点から見ると、毎回まねできないなと思う。ありえない状況でどのように表情をだすか。考え方が変化してくると、学ぶ教材も増えていくんだなと感じた。(8/6)
★何でも大量にやることにより、余分なものは削ぎ落とされ、必要なものだけが残る。考えたいことが新たに2個見つかった。→1.声の力について 2.オンリーワンになる為の要素・その比率。レッスン中歌い終わるごとに自己評価し、書き出しているが、悪いところは自覚できているものだと思った。「愛は限りなし」の最後"それが恋か〜Dio come tiamo"のつなぎを聴いて、声の大きさは変わらないが、音色が変わって小さく聞こえると思った。(8/6.F※)
★まず、細かく情景設定し、それが自分の深いところに落ちるまで徹底して叩き込む。→V検で同じことをやっているはずだが、徹底が足りなかった。思い切りが足りない。どうすれば、考えたイメージを自分のなかで消化できるのか色々な方法を考え試す。(8/6.AH)
★表面だけの表現になってしまう。リアルさに欠けるというか、ワザとらしいというか。レッスンでは短い時間しかないので、ある程度は無理かもしれないが、無理でない範囲までのことはしたい。この乏しい想像力を最大限に振り絞って、何か伝わるような表現がしたい。時間をかけられる課題でも、表現がまだ薄いように思う。時間がかけられるだけに、色々な場面が想定できる。もうこれは繰り返すしかない。乏しいという言い訳は意味がない。歌に集中し、入りきるには、自分のイメージを伝えられるようにするしかない。これに伴い、イメージの具体化も、歌に入るためには必要だと思った。歌の場面でのより具体的なイメージが、伝える力を強くする。自分で作る場合は、当たり前だけどより具体的に仕上がる。このような具合で、歌う曲はより具体的に、イメージしてみたいと思う。フレーズごとに意味があり、その言葉ごとに様々な想いが詰まっているし、これに変えて、自分なりのイメージも乗せる余地もあるだろう。レッスンで扱われる曲の言葉を見てみると、ものすごく重い表現だったり、絶対起こりえないものだったり、当たり前のように起こることだったり。今までただの「言葉」としてしか見ていなかったと思うと、何かもったいないし、もっと何かできたと思う。とにかく認識が薄かったし、勿体ないと思う。体の練習ももちろん大事だが、このイメージを考え吟味することの方が、さらに大事だ。自分はおろそかにしてきた。一体何をしてきたのか。何がオリジナルなのか。もう一度よく考えたい。
日常でのごく当たり前の言葉。これがただの「言葉」になっていた。伝わることなどけしてないただの「言葉」だった。感情を込めなければならないとか、もっとリアルにしたいという気持ちはたくさんあるが、そのくせ、このように日常で使っている言葉でさえまともに表現できないじゃないか。たとえば「さよなら」という言葉一つとっても、うまく伝えることができない。いや、伝えることのできる気持ちを作れない。こうなると生きていること自体がリアルじゃない。いや、リアルにしていないだけだ。大事なものが欠けていた。日常の、ごく当たり前のことから、細かく見ていきたい。(8/11)
★音のとり方がいい加減だということがわかったこと。ひとつの流れの中で歌えていないことがわかったこと。ソ・ファの音、前の音符によって下がったりしてしまう。休符があっても前の流れのまま歌えるようにすることが大事。(8/15.桑原W1. K)
★三上博史さんの舞台のCDは強烈でした。「曲に合わせて」「音に合わせて」でなく、伝えたい言葉や気持ちが前面に出て、それが伴奏を引っ張りながら歌っているように聴こえました。それとものすごいテンションと集中力の高さと持続力・・・。聴いていて疲れました。でも飽きるのとは違う。すごすぎだ・・・と感心してしまいました。テンションを上げるのに時間がかかりました。日常の意識から自分を変えることに、まだまだ時間がかかってしまいます。フレーズでは、すべて同じように置いていたような気がしています。気持ちの盛り上がりで、音の強さは出ていたかもしれないのですが、小さい動きでしかなく、引くところがないので平坦だったような・・・。それと、速度も一定でしたので余計に・・・。小手先ではない「変化」と「イメージをものすごく大きく」取ること。テンションを上げるのと、持続させる為に肉体的、精神的な持久力をつけられるようにしたいです。(8/18.F※合同)
★在籍2〜4年目の状況について。→他人が見え、自分は見えないということだったが、まさに今日のレッスンでそれを感じた。感じれたことで、ただ受身になっていた入所後2年間も無駄ではなかったのだと思った。
ドメニコ・モドーニョの歌。サビの1フレーズごとの流れが自分なりに見えたが、実際に歌うことはできなかった。気づいた時には、理想の流れを壊すように声がでていた。流れが見えたものの、それが自分の中で消化しきれていなかったため、体が動かなかった。自分の歌がいかに流れを無視して不快なものになっているのかを知り、それを直したいと思ったところで、声の面、気持ちの面から練習する。自分で丁寧に歌っているつもりでも、出だしから音楽になっていない。(8/18.F※)
<手紙>
★先生には3年もの間、本当にいろいろとお世話になりました。音楽や声のことだけでなく、人の生き方、考え方についても、たくさんのものを教えてもらったように思います。今でも研究所に通って学んだことを生活の中でたくさん思い起こします。先日、久しぶりに先生にお会いできて思ったのは(何だか恥ずかしいのですが)、研究所に通っている間、たくさん先生に接する機会があったのに、何だかはじめて、やっと先生と本当にお話ができたなあという事です。とても変な言い方かもしれませんが、お話しさせていただいたときの時間と空間がとてもキラキラし輝いて、心が温まるような感動(?)するような、そんな感じもしました。とてもとても嬉しかったです。ずっと心にとめていた研究所にきて先生とこんなふうにお話ができて。感謝の心で一杯です。やはり先生は、優しくて強くて細やかな心の方なんだなあ……と改めて感じました。貴重な時間、ありがとうございました。“自分の人生で最大のピンチ”みたいな事があって、約1年ほどレッスンをお休みしている間、私の生活は大きく変わり、本当にいろんな事を日々、考えていました。自分自身も少し変化したように思います。それもよい方向へ変わってきていると、自分では感じます。そう思えることが嬉しいですし、ありがたいです。まあ、いろいろと問題はあるのですが、今は“何か楽しい事したいな、マイペースに歩いていけたらいいな”みたいな事を考えています。またチャンスがありましたら、先生のお話、聞きたいです。その時にはもっと、いい女になっていますからネ。お忙しい中、最後まで読んでいただきありがとうございました。お体を大切に。ますますのご活躍を期待しています。(M)
特集:福島英対談集vol.4
[TN氏と]
福島(以下、F):先生の本は、子供の頃から愛読しています。私のテキスト「声とことばのレッスン」や「声優入門トレーニング」にも引用させていただいています。自己紹介からしないと、始まらないと思いますので。これ、音楽之友社さんから出していただいていて、詩のかたちで書いてあります。
いわゆるヴォイストレーナーといいまして、何といったらいいのでしょう(笑)。
TN:僕の友達で、ヴォイストレーナーについた人がいて、大体の概要はわかります。実際に、僕がついたわけではないので、何をなさるのか、よく知りませんが。
F:役者さん、歌い手さん、声優さんの声をみます。演じ方までタッチすることもあります。クラシックが多いのですが。私の場合はポップス中心ですので。
TN:クラシックのベルカントの唱法なんかもヴォイストレーニングなさるのですか。
F:研究所では、そういう対象のトレーナーもいます。今、役者さんから民族音楽などやられる方が、声に関心があるので、すべてがベルカントでよいというわけにはいきません。
TN:発声としては、すごくいろいろとあるわけでしょう。たとえば、僕、ブルガリアン・ヴォイスというのがすごく好きなんだけれど、ああいうのとか山城組の発声は、イタリアにあるベルカントと、全然違う。邦楽の発声も、オペラとミュージカルも違います。基本的にヴォイストレーニングでは、どういうふうに区別していらっしゃるのか、興味があるんですけれど。
F:トレーナーによって、違う見解だと思いますけれど、私は、とことん声だけのところで、人間の身体を楽器としての突き詰めたところにクラシックがあると考えています。最初は、ここでは取り入れていなかったのですが、実際に、日本の舞台で、お客さんや演出家がそれを好む場合が非常に多い。
声楽の先生につけているのは、ミュージカル、合唱、アカペラ、ハモネプといいますか、いわゆる生でハモるもの、これに関しては、声楽が一番、歴史的にも世界中でも、民族問わず、結果を出してきたということですね。ポップスの基本にも通じる。日本の民謡でも、発声法はあるのですが、共通のベースにはなかなかできないところです。
TN:なるほどね。たとえばホーミーなんかはどうなるんですか。あれは相当違う発声なんでしょう。
F:えーと、習いたいという方は、来ないのですが(笑)。「UIUIUI」とやっているところで、上に倍音みたいなものが加工され、下の音と共に出る。日本でやられているのを聞くと、ちょっと違和感がありますが、実際の現場、モンゴルなんかの、ああいう高原の空気のなかでは自然に聞こえます。
TN:私は詩を読むのですが、たとえば、能楽の発声とか歌舞伎の発声とかと、我々の発声とは全然違うのですが、声を出すということにおいては、基本的には同じなのですか。声楽、お能、ホーミーと。
F:私は同じだと思っています。むしろかつての舞台芸術が、特殊な条件におかれていた。たとえば、オペラや演劇であれ、それはどんな内容であれ、距離、遠くに対して声を伝えなければいけないということで、大きな声を出さなければいけない。そこがもう、日常と違っていますね。
ですから、いわゆる舞台ものを日常のものと捉えるのか、非日常のものと捉えるのかによって、まったく違ってきます。
我々の立場としては、日常のもの、むしろ欧米人のような歌唱をやるには、日常の言語生活で、同じレベルの発声の量と強さでやらないといけない。それなしにベルカントも何もなくて、いくら発声技法をやってみてもだめとさえ思う。
だからいわゆる日本の合唱も、違和感があります。日常、ワイワイ騒いでいる子たちが、そこに立つなり、あの顔をしてあのかたちで歌うのは、ギャグみたいで差がある。
でも、逆に日本人が、それを好む感性があって、それで磨き上げてきたということであれば、それはそれで、その世界ということで、認めなければいけないという、ちょっと別枠ですね。やっぱりお客さんの好みによります。ここでも、習いに来られる方の要求に、こちらは答えなければいけない。ただ、現実的にそんなに離れてしまったら、おかしい。
いわゆるメロディをとろうとか、リズムを勉強しようとか考えること自体が、非常に不自然です。それは、日本人にとっては、本来は20歳までに獲得しなければいけなかった、身体や言語能力を、あまりにもやってきていないから、短期にかなり強制的に、一時詰めこむというような意味での不自然だけではない。それがトレーニングのいわれですけれど。
TN:基本的に日本語だけですか。他の言語もやりますか。
F:何でもやっています。言語という意味では教えていませんが、ポルトガル、イタリア、スペイン、ドイツ、音としてで言語ではありませんが。洋楽をやるような子たちは、これは今のJ-POPSやロックの流行りがそうですが、ことばが聞こえる聞こえないということは、あまり問うていない。
TN:ああ。
F:問うていないというと間違いになるのですが、本当に音楽というものにレベルがあるのであれば、声楽の一番の方や、劇団四季のトップの方がCDでシングルデビューしたら、すぐにベスト10に入るのかというと、たぶん、若者には受け入れられない。
だから、私のなかの感覚で、すでに合唱、オペラ、ミュージカル、ジャズ、ミュージカルは別のジャンル、日本に関してですが。ストーリーやビジュアル的な面で見せるから象徴的ですが、音の世界で本当に成り立っているのかというと、日本の場合はちょっと微妙なところがあると、私は思っています。ロックやJ−POPSでもそう思います。こういうものをパッと街であふれても、子供たち、小中学生、高校生が聞きたいと思わないということは、ひとつの昔のかたちにはまったまま、現実に対応できていないような気がしますね。
TN:今のポップスなんか、僕自身もそうですけれど、必ずPAを使いますよね。よっぽど狭いところでないかぎり。そのPAの使い方はどうなんですか。発声は変わってくるんですか。
F:変わってしまいますね。本来は、歌い手のひとつの補助ツールにすぎなかった、より大勢の人に聞かせるための。ところが今のPAというのは、音質まで変えます。ピッチも変えられますから。そうするとYMOじゃないですけれど、我々からいうと歌い手によって、判断が異なる。生のベースを出していく人はある程度、声楽なり発声で評価できるのですが。
ロックも、ステージ、総合芸術として見たときには、片や歌は大して歌えないのだけど、踊りやリズムはすごいというのも、それなりに価値がある。この子はPAで価値が出るという聞き方をせざるをえないところがありますね。だから、あいまいになります。というのは、日本の歌というのは、まったく音楽の才能のない人に、プロを周りに配置し、プロの曲を与えることで、稼いできました。ポップスは、ごまかしの極地にあります。だからといって、やっぱり売れているものは、何かしらあると、それからいいと。
じゃあ、今売れている人のものを、クラシックをやってきた人なり、トップの人が歌ってみて、それで同じように感動を与えたり売れたりするかというと。やっぱり売れない。ということは、その価値が、そこに入っているわけではないのでしょう。
TN:売れる条件というのは、何なのですか。
F:本来は何かしらの、前衛的なものであるべきだと思います。日本の場合は、向こうの2番手3番手に似たものでも、売れてしまうところがあるので、はっきり言えないですね。思い出、なつかしいのもヒットする。ただ、本当にいいものというのは、ノンジャンル。たぶん美空ひばりさんが演歌で括れないみたいに、歌っているとか、これは演歌だとかジャズだとか、思われるものではない。一流の絵なんかと同じで、平面的ではなくて、生命感にあふれ、何かをつきつけてくる。
だからビートルズなんかも昔のものなのに、新鮮に聞こえる。それを真似て、日本のグループサウンズなんかはまだちょっと厳しいのですけれど(笑)、やっぱり真似たところで終わってしまうのは、時間と場所が変わったところで、通用するかしないかと見ると、はっきりする気がするのですね。一流のものは色あせない。古くならない。
ただポップスというのは、一発屋でもいいし、その時期のある強いところだけに訴えかけても、それは価値として認めていくのですね。
TN:僕なんか、一番心を動かされた歌声というのは、マリアン・アンダーソンとマヘリア・ジャクソンなんですね。2人とも黒人なんですね。なんで、その人種というかよくわからないのですが、民族の違いというのはあるのですか。それは個々人の才能みたいなものですか。声帯が全然違うというのは、ありえないような気がするのだけど。
F:この分野も科学的な研究がすすんできています。民族や個体による骨格、つまり楽器なりの違いというのはありますね。どこまでDNAかわからないのですが、民族としての体、そして育ちの中で受け継がれてきたものというがある。
ただ、キリスト教の布教と同じで、いわゆる文化も国の強弱関係はあります。アメリカのものは、全世界にばらまかれます。でもそれを越えて普遍的に、すべての国に人たちを巻き込んでいく声や音楽においては共通の力があると思います。
ただ、日本人が真似ていながら、なかなか黒人のように歌えないという問題というのは、ずっと抱えています。私は、向こうの学校をまわったのですが、シンプルに、民族差を越えたところのキャリアの差、どれだけ小さい頃から基礎づくりをやっていたかということですね。
たとえば、向こうだと10歳くらいで天才といわれない限り、ヴォーカルという職はまず目指さない。スポーツと同じくらいに、才能というものが早く決まってしまう。
TN:それは教育制度と関係あるのですか。
F:教育というよりも、やっぱり、ストリートバスケットをやっているのと同じで、もうその街全体、育つ環境、その二人のゴスペルもそうですけれど、揺りかごから墓場まで、その音楽が生活と共にあるという部分が大きいですね。
日本人なんかは、こういうところに来て、声を出す、教室へ行って踊る。でも、向こうでは、もう小さいころから街や家の中で、親と歌って踊っているのが、日常ですからね。いろいろな比較をしたいのですが、日本人は音声に関しては、あまり耳を使ってきていないし、発することもやっていない。さらに教育も、言語教育のなかでもかなり差があるというようには思っています。
TN:でも、民謡とか盆踊りのなかでも、割と、もうちょっと前の時代には、地域の共同体のなかで、歌ったり踊ったりということがあったと思うんです。だから、民謡の声というのは、日本人に一番向いているような感じがしますよね。
F:そうですね。全部外してみると、結局そういうところが残っていきますね。島唄なんかも流行っているのは、何かしら、小さい頃、聞いてきた音楽というのがあるのでしょう。ゴスペル歌手のKさんと、先日の対談でお会いしていたときも、フェイクを唱歌からやらせてみると、若い子でも案外できると。そこから入っていく方が、いきなりゴスペルからやるよりも、入りやすいと。
TN:僕、昔、アマチュアなんですけど、ゴスペル歌う黒人と知り合いでした。その人、ジョニ・ミッチェルの熱狂的なファンでしたね。まったく自分のルーツと同じだと彼が言っていて、すごく面白かったです。
F:美空ひばりもハリー・ベラフォンテなどをはじめ、海外でも大きく評価されました。でも、今の日本のなかで、声や歌ということでは、もしかすると昔よりもレベルが落ちているのではないかという気はしますね。歌一筋じゃ、だんだんなくなっています、声一筋でも(笑)。お笑いのブームといわれても、お笑いの人のほうが声をうまく使っている。朗読というのはあまり好きではないのですが、そういう人たちのほうが、ていねいに声を使っている。歌い手がどんどんPAに頼る。カラオケと同じです。発声がよくなくてもいいように聞こえるようにつくられています。だから負けていっているという気がしますね。
即興性にしてもそうですね。お笑いというのは、その時代を読み、今日起きたことや何が起きているかを知ったうえで、ぎりぎりの掛け合いを客としていかなければいけない。ところが、歌というのは、本当はそこでつくられるはずなのですが、習ったものを、流行ったものを、繰り返すだけ。作家なんかからいうと、「歌手の活動は創造じゃないと、繰り返しだけだ、我々は一作できたらまた新しいのをゼロから組み立てなくてはいけないのに、歌い手はなんていいんだろう、一曲覚えたら、それを一生歌っていたらよい。」
そんな時代じゃないともいいたいのですが、そこにのっかってきたところが歌い手にも確かにあって、そのために今、それだけ市場から受け入れられなくなってきている。甘えがあったんだろうなという気はしますね。
だから、今のラップやっている子とか、発声的には関心しないし、芸にもなかなか高まっているとは思いません。思ったことをそのまま言う、そのスタイルで若い人たちが共感するのは、日常的に、いつの時代もそうでしょうが、だらしないことば、なんだけど、そのことばでそのまま伝えることで共感できるのだったら、認めたい。我々、ポップスやっているので(笑)。
それを演歌やクラシックの発声からどうこうのといっても。だから面白いところで、その判断は非常に難しい。
日本人が音だけで、音楽とリズムだけで判断する国民であれば、レッスンがやりやすいのですが、かなりビジュアル的な面と詩に負うからです。
ミュージカルは、私から見るとストーリーとビジュアルに合うように声が使われている。CDだけ聞いてみて、あれこれ言うのは、これは聞き方としておかしな話ですけど。ただ、ブロードウェイなんか行っても、声ひとつ出るだけでも感動したり、それが3つくらい重なると、涙がボロボロ出たりする。
TN:はー、それはやっぱり違いますか。
F:ケースによりますけれど、声の力が中心であり、歌い手の力が中心。
TN:日本はまだそうなっていない?
F:一番大きな違いというのは、たとえば聞き終わった後に、今度聞きにくるのはいつだろうと考えるのです。すると1,2年あけて見るくらいでいいなというくらい(笑)。もう一回見ようとか、次の日も見ようとか、友人を呼んできて見ようというところまでの働きかけにはならない。
音楽は、ある高まりに対して、リピート作用、またあれがくるなというサビがあって、それがきたというところで快感、2番3番になってくると、繰り返しで、もっと高まっていく。だから、もう一回聞いてみたいという、感動がどんどん増幅していく。歌が終わって、何も残らないのは歌でない。ことばではないところで、それが日本の歌の場合は、ストーリーの裏にある感情みたいなもので伝わっている部分がに多いといえますね。
TN:劇団四季なんかもだいぶ、発声法の授業をやっているわけでしょう。
F:ええ。オーディションから発声中心、それから母音できちんと日本人に伝えるということを徹底してやっています。
TN:その方法はどうなんですか?
F:私は考え方が違うのですが、小さな子供から年配の方、ミュージカルに対して馴染みのない方に対して、ストーリーをきちんと言ってあげる。ここはこういうことだよということに、的確だとは思うのです。だから日本人に対して、とても親切なやり方です。
そのために歌唱の技術が、少しまどろっこしくなったり、母音をはっきり言い過ぎるがために、音の世界、流れ、リズム、声のひびきが消えているという人もいます。
ただ、現場に行くとお客さんはそのことに理解できるし、ちょっと字幕付、吹替えっぽいという部分が、私には感じるのですけれど。
ストーリーとビジュアルで見せているのがあったうえで、音なり声なりが使われる。そういうなかにはまると、ああいうきれいな声が生える。
お客さんに感動させられるようにみせられるという。だから、合唱と同じで、個が見えにくいというのがありますね。
外国のミュージカルなんかは5人くらい出ていても、その5人がそれぞれ自分が生きているところのうえで、日常的に、呑んだくれだったりあばずれだったり、そのままの雰囲気できているから、バランスは悪いのですけれど、個性が訴えてくる。役者っぽく映画的で、パワーとインパクトが、声にあります。
それに対して四季というのは、演じ方が似ていて、全体的にまとまりきれい。
だから我々も、日本の歌がどうして音声に特化しないのか、わかるお客さんが声のなかのちょっとした変化よりも、その歌い手が舞台に立ったときの動きのほうにとらわれる。
お客さんがおおっとなる。伝わるとしたら、ビジュアルのほうに持っていくと思うのですね。芸人であるかぎり、ウケたほうがいいですから(笑)。
だから、才能のある方が判断して、舞台での感覚で、日本人が何に対して一番反応するかというところと避けては通れない。それを我々が耳だけで聞いてみて、ここの発声がどうこうと考える。おかしいのだけれど、本来だったら、お客さんを沸かせるための技術っぽいものを見せてみたり、こんなことができるよということはやりすぎ。そういうものは外国ではやらないのです。
TN:そうなんですか。
F:クサいし、わざとらしいし、皆できるから(笑)。本質からそれる。ムダ。
ところが日本では、お客さんが喜ぶんですね。そういうところに拍手がくる。そうなるとファンサービスだからあってもいい。
実際の演目からいうと、声のフェイクをかけてみたり、変なとばし方をするというのは、原曲にもないのに、けっこうやっているんですよ。
CDで聞いている分には、なぜここでこんな変なことをやるんだろう、やらないほうがいいのに、とわかるのに。舞台のほうに行ってみると、お客さんが喜んでいらっしゃる。そうすると、そういうふうなかたちに変わっていく。それも安易ですが。だからアリスの谷村さんなどでも、昔は相当ハードに歌っていらっしゃったのが、だんだん歌わなくなって、弱くなってしまった。ステージをやっていくと、お客さんのツボに入るところが、そういう瞬間になって、変わっていく。それが日本人の場合は、リズムやことばを投げつけるとか、吐き出す感覚ではのっていかない。何か深いものや重いものよりは、やわらかく軽いもののほうに反応する気がしますね。声で伝えない方が、レベルが高いのかしら。
朗読家も吹き替えもアナウンサーも、声は浅く軽いのが、日本人、日本語です。先生のような立場の方と、それから役者という方ではもう、スタイルが違いますよね。
TN:そうですね。まあ、基本的なスタンスが違いますからね。でも、一人ひとりの違いのほうがやっぱり大きいのではないんでしょうかね。
F:マイクというのができたおかげで、日本人がそんなに大きな声じゃなくても伝えられるようになったと。すると、本当に感情をこめて伝えるときに、日常を出さないような大きな声で、遠くに伝えるやり方というのは、かなりいろいろなものを落としてきた部分もあるわけです。
J-POPの子たちでも、高い声を出したいと言ったときに、今のままで高い声を出すのは、その日常的だから、それなりに臨場感があるのです。発声を勉強して、テノールの発声で、J-POPを歌うという、それはもうすでに、伝わるものを落としてしまうことにもなってしまう。発声の場合、技術や音楽的にだけ考えられないので、判断が難しいですね。だから私は、クラシックや演歌、邦楽の発声と分けて考えるよりは、その人の身体にあった、声をメインで考えたときに一番無理のない、繊細に調整がきいて、それで再現性があるというところに落とし込むようにしています。しかも今ではなく、将来性で、
先ほどのジャンルに関しては、審査員が声楽出身ですから、声楽をやっておいたほうがいいです。ただ私はそこは違う。声楽でも、本当の意味で感動することが、日本の場合は少ない。声量や声の輝きといっても、何かしら形が見えますでしょう。
先に形が見えていて、個人が引っ込むものに対しては、私は、自分では面白いとかリアルに感じない。生命感にあふれていない、飛び込んでこないものに関しては、退屈と思ってしまいます。それは徹底して、排除する方向にしていくんですね。
TN:その判断は、自分の感性みたいなものなんですか?
F:感性は磨くようにはしていますが、シンプルです。仕事柄、70人くらいを2曲ずつ1日中、聞くようなことをずっとやってきました。すると、新鮮なものとか衝撃的なもの以外は、耳が受けつけなくなる(笑)。たとえば、同じ曲を50人、50曲続けて聞いていたら、はじめてだったらいいのですが、何回もやっていたら、最初から、こっちまで届いてくるもの以外は、こっちは読みにいかない。そのスタンスにすると価値ははっきりします。
ここでやっていて後ろのほうで寝ていて、起こしてくれるものだけが認められる。ことばがとんできたりするならよい方、歌よりも、だいたい間違ったときのほうに気がいくのですね。歌というのはもうひとりよがりですから。あなたがあなたの世界をきれいに飾っているだけで、それはそれでいいけれど、私には関係ないと。そっちのほうから思い切り殴りつけてこないかぎり、反応しない。
いちいち反応していったら、皆一人ずつ個性があって、いいということになります。そこでは芸事として一線はひかないと、それはここの立場でです。それでも、よいものは、耳が、そして心がひきつけられる。気持ちよくなって、スッキリする。声やことば、音があふれた騒音状態では、一目瞭然です。
巷のカラオケを楽しんでいる人には、そういう見方はしません。ここに来るという人は、何かしら身につけたい、何かしら変えたいというところがあるから、そういう見方で突き放さないと、あなたは個性があって、すべていいよとやってしまうと、誰でも皆、個性はあります。
お金になるといっては変ですが、客が共感したり、客に何かを与えられるところの意味での個性がいる。たまに訳のわからないのが出てくると、それもいい。それが市場で受け入れられるのかはわからないが、めったに訳のわからないものは出てきません。とくに歌になると皆、同じようになってしまいます。学び方がおかしい。
だから、ここでも自分のことばで書かせる。トレーニングメニューも、全部自分のことばでつくらせる。それが頭中心、記憶に入っているのだから、そのことばが伝わらなければ、歌を歌ってみたり、もらった歌を歌ってみても、だめ。それを細かくやっていく。
日本人というのは、向こうの人みたいに2オクターブの世界はこなせません。日常でしゃべっているのが、音程で3音くらいの世界ですから。すると半オクターブくらいで、短歌や詩でないけれど、向こうの人みたいに5分も10分も、音声の世界には集中できないから、せいぜい10秒や20秒の作品をきちんとつくったほうが、世界レベルにいく。
世界標準にあわせすぎていますね。1オクターブ半という理由がないのに、歌をそこからつくる。
ブルガリアン・ヴォイスじゃないけれど、もっと日本にもいいものがあって、その線上につくっていけば迷わない。向こうから全部入ってきています。シャンソン歌手からラテンから、そうなのですね。ただ日本の場合は、シャンソン歌手ですよ、とかジャズ歌手ですよとかいわなければ、仕事もこないので、すぐセクト化しちゃう。そのなかでの小さな差異で生涯、いってしまう。
アドリブやフェイクや、音楽自体が、作り手の能力がそこまで高くないので、今日感じたことをこういうふうに歌うというところまではいかない。
ですから私はフリートーク、モノトークをやらせるのですね。30秒くらいで思っていることを言ってくださいと。そこのところだと、ほとんどの人が心を捉えるのです。ところが歌になってしまうと、つまらなくなってしまう。
ということは、フリートークの延長上に、まだ歌があるべきなのに、それなしにいきなり曲を持ってきて歌い上げて、発声が問題とかいっている。それに対応したトレーナーがあらわれ、教える。すべてがおかしい。かたちのほうが先に見えてしまって、実がなくなっている。だからできるだけ省こうと思っています。
今の若い子にも歌を習いにくるよりも、お笑いを勉強しなさいと。お笑いの人が5分の枠におさめるのに、そこのなかでの声の使い方、間合いとか、タイミング、それのほうが歌い手の声に対する配慮やテクニックより、ずっとレベルが高いからです。1,2回噛んだって目立ってしまうし、ちょっとタイミングをずらすと笑いがとれません。
だから私は、お笑いのブームで歌が落ちているのではなくて、お笑いの人が歌っているといっています。彼らのほうがキャリアとそれだけの力がある。それはわかるのです。お笑いでも、上の20組だけで、50組目とか100組目にいったら、ネタは面白いけれど笑えない。声の力やちょっとしたタイミングや入れ方に鈍いからです。そこに歌い手が本来問われるべきリズム感や掛け合いの妙みたいなものがあるので、そこからやったほうが、わかりやすい。
詩も先生のものは読みやすくて、とてもありがたいのですが、私は考えなくてはいけない難解な現代詩は、全然読んでいません。
私の本も、私のへたな詩を入れたいわけではないのですが、本を何回も10回も20回も直すということは、なかなかできない。その本1冊で伝えられないことを詩のかたちにすると、伝えられるところもある。要は本では、ことばで読まれてしまう。活字で読まれて、そのとおりに受け止められてしまう。
ところが詩の場合は、情報が少ないから、何かしらそこにイマジネーションなり、その人なりの捉え方で、得てもらえる。大きく分けているわけではないのですが、同じ表現のなかでも、ポジティブに読み手がなる。
TN:そうかもしれませんね。
F:こちらも何か呼びかけるのに、詩は楽といえる(笑)。私の本でも、15年くらい前の読者は、一冊をボロボロになるくらいまで読んでくれたのですが、今の人はとても。
TN:そうですね。今の人は。時代がものすごく早いから。
F:本1冊で書ききれないことを、詩1篇というのは、伝えられる、こちらの技量があればですが(笑)。
だから、私自身、生徒なんかがやったライブもコメントに、詩というかたちで書いたりということがありますね。詩をつくろうと思って書かないで、伝えようと思うと、文章でなく短文になる。私のはアジテーションですから。
会報というものを毎月出しているのですが、生徒なんかも昔はずいぶん書いていたのですが、最近はあまり。こういうなかで使われたものは、ライブを見た後のコメント、あるいは合宿の呼びかけ、格好づけじゃないのですけれど、いつも同じことを書いている自分が嫌になって、どんどん短くしていくと詩になる。だから、一般の詩ではなくて、現実に使われている、合宿の発表とか今日のライブを見て、こう思ったよという言葉集です。でも、ペンは10回20回入れたりする。合宿の呼びかけの文句なんかは、10年にわたって毎年、同じのを直していく。私なんかができないのは、詩を書く人が作品を書かれるときに、たぶん、ここで完成というかたちでくぎるところ。
TN:まあ、どこかであきらめますよね。
F:ええ、詩人は発表時にエイッと作品を切り出されると思うのですが、それがないんですね。書いたものを次の年に使うと、次の年の来る人が違い、こちらの気分も違いますから、この1行はいらなくなってというように変わる。そういうのを10年通して見ていくと、ああ面白いなと、自分で見ていて、最初はこんなつもりでやろうと思っていたんだとか、この年はこうなった。というのが、自分の詩を見ることで、そのときが思い出される。
定点観測じゃないですけれど、毎年夏に行く合宿では、面倒くさいから去年の文章を直して使うのですが(笑)、必ずしも去年書いたものよりいいものが、できない。たまにすごくいいのができるのです。
曲も詞を使わなければいけないのですが、それはあくまでも曲に添っていったもので、少し違います。
それにしても、先生、たぶん、日本語は古くなる、他の言語よりも早いですね、消費されるのが。
TN:消費される?メディアのなかで?
F:メディアというよりは、もう、そのことば自体が使われなくなっちゃう。
TN:変化ですね。日本語の変化の速度はけっこう早いですね。それは明治のはじまりのときから。
F:だから、日本のものと向こうのものを比べて、今でもマヘリア・ジャクソンを聞いて、全然古いとは思わない。歌詞も。ところがその当時、向こうの曲を吹き替え歌ったものの歌詞の古さ、歌唱力としては、弘田美枝子さん、中尾ミエさんの時代にもすごくあったのに、それを聞いて今の子が古いと思うのは、アレンジ、さらに歌詞の中身が大きい。その当時の男女関係ということも古かったからですが。
TN:そうですね。
F:その辺は、日本人ほど歌の音色なども含め、すべて変わっていく、どんどん変わる国民も少ないと思いますね。
TN:ええ。
F:この前、キューバに行ったときには、もうこれは500年前くらいからやっているんだろうなという感じで、昔のものと、区別がつかない。
私は日本では、巷の音楽から遠ざかっていますね、今は。街に音楽がなく、チケットをとって並んでいって、終わりまで出られない、こちらの気分、疲労、つまり心理や感情を無視した不自由さがある。映画でも1日のうちに時間くらい何回か選べるのに。というところからいうと、なかなか合わないんですね。2,3ヶ月後のチケットをいただいても、そのときの気分と違う。
TN:そうですよね。
司会
TNさんの詩って、お若いころと最近のって、そんなにトーンというか、今言われたような古くなるというような感じは、全然しないですね。
F:この前、昔の詩を1篇読んでいただきましたよね。あれは私も知っていたのですが、でもその前後の作と、差があまり感じなかった。といったら変でしょうけれど、先生のは時代を超える普遍性を感じますね。
我々は音の世界ですから、先生の詩では、ことば遊びみたいなところが中心に使わせていただくことになってしまうのですが。
少なくとも難解なことば、語感やリズムのないものは、やっていてあまり面白くない。
目で見たり読んだりするには、味わい深いのかもしれないですけれど、ことばとして舞台にかけて、活字を出さないことには、先生の詩のような音楽的というか、意味だけでなく、転がし方でなじんでいくもののほうが、ふさわしいわけです。
日本語も不思議に、同じ音がつながることによって、微妙な効果が出てくる。いつも、例文をつくるのです。役者の人が使っている練習文というのは、戦後の古いものですから、「青巻紙」などと言っていても、外郎売をそのままやるというのももう、ピンとこない。
ことばをトレーニングみたいなものをつくるのですね。「た」を3つ入れましょうと、生徒の制作です。いわゆる自分たちのことばを集めた練習集を出版したのです。これは。
TN:1行1行、一人ひとり?
F:50人分くらい、そこにとっているのです。
しかし、そういうものを見ると、その人の生活がよく見えますね。あえて無作為にして文章として、成り立たなくても、その子から出たものだから、それが本当のことばだと。同じ世代同士で通用しますから、私はおかしいと思う感覚は出さないで、そのまま認める。
歌い手というのは、自分と同じ世代か、より若い世代に歌いますから、私が何と思おうが、同じ世代に人気があればそれでいい、こちらの顔色を見る必要はない。そういうことをずっとやってきて、書きことばではないんですね。読み上げて練習することばで。今の歌謡曲や演歌にも、すごくいい歌詞がたくさんある。そのまま使いたいというのが、最初の発想です。
そのなかでも先生のは多かった。北原白秋から万葉集までとってきましたが。このあと齋藤孝さんなんかが、「声に出して読みたい日本語」を出した。
ここでやっていることは音楽、国語と体育のこと、芸術的なことでは美術のほうの考えに近いのかもしれないですね。日本の音楽には、欠けていますね(笑)、本当に。
司会
TNさんは、昔から、誤解を恐れずに言うと、作品自体が肉体というか、つまり斎藤孝さんの「声に出して読みたい日本語」みたいな、声に出して読まれたときのことが、常にこうつくるときに、基盤になされているように見受けられますね。詩人によっては、声に出して読めない、朗読できない詩というのもあるじゃないですか。それがTNさんの場合は、常に肉体的というか、ある意味、音楽的というか、そういうのがずっとあるような気がするのですね。
TN:それは、日本語の持っているような、一種の調べというものが基本的にあって、短歌俳句の七五調だとかたちになっていて、わかりやすいのですけれど、それの周辺にも、日本語の調べというのがあって、それを感じて入れることのある人とない人がいるのですよ。あるいはあっても、わざと拒否する人。だから、僕はたぶんそこに調べというものの意味と同じくらい大事に考えて、わりと若い頃から書いて、それにだんだん意識的になってきて、声に出すということを最初から考えた詩とかを書き始めたと思うのですね。自分の詩を手直しするときでも、意味の面での手直しをすると同時に、音韻面での手直しも必ずやっていますね。ほとんど無意識的にやっているのですね。なんかここ、一音多いからひっかかるとか、そういうことね。それでたぶん、原因にあるんでしょうね。
F:日本語の宿命的な音の少なさで、同異義語が出てくる場合、その面からカットされる場合はありますか。
TN:それは、漢字平仮名まじりだったら、カットしませんね。平仮名だけで表記する場合には、漢語をさけますから、できるだけそれを和語に開こうとするのですね、義務的に。あとは「民主主義」をじゃあ、開けと言われても開きようがない。「社会」ということばもそうですね。
日本語は、そういう意味ではちょっと特別に変わっているところがあるのですね。だいたい表記が3種類もあるでしょう。
F:それは歌でも同じで、たとえば、外国の歌を訳してしまうと、1音に音ひとつですから、日本語では内容が半分くらい、しかも同音異義語があるときに、何を歌っているのかわかりにくくなってしまう。さらに、高低アクセントの問題があり、非常に不自由になる。それを破ってきたのが、長唄や民謡で、その線上にのっていました。洋楽が入ってから、複雑になりましたね。
司会
何回か、KSさんとのライブを見て、朗読というか、ああいうライブをTNさん自身がすごく楽しんでいらっしゃる気がするんですが。
TN:仕事なので、あまり続けてやると楽しめない部分もあるのですが、実際、声を出して、目の前に聴衆がいると、返ってくるわけですね。必ず回路がまわっているわけです。それはひとりで文字で書いているときと全然違う。活き活きしたトークがあって、それで励まされるというのは確かですね。だから、聴衆から何かもらっていますね。だからあまり疲れないですね、仕事をしていても。
ただあまり、同じ詩ばっかり読んでいると、ちょっと芝居がかってくるんですね、変化を求めるばかり。それを警戒しないとまずいですね。
司会
結構、いろいろなところをずいぶんまわられていますよね。
TN:そうですね。
司会
それはやっぱり、東京でやられたものと同じような内容でやられるのですか。
TN:息子も僕も飽きっぽいのでね、できるだけ同じ内容をやりたくない。しかし、つまり向こうの要望もあるわけでしょう。定番を出してくれないと、聴衆が喜んでくれない。だからその点、歌と同じで、器楽を持っていきたいというのもあるのですね、その場合も。だからできるだけバラエティに長けるようにはしているのですけれど、聴衆が変わってくれないかぎり、こっちは変わるにも限界があるのですよね。
司会
そうですよね。僕らは、去年こうだったけれど今年はこうだったという、そういう楽しみかたはあるけれど、一般的には、そんなにしょっちゅう出られるわけではない。
TN:そうですね。
F:シンガー・ソングライターみたいなところで編曲していく自由がありますね。小説とか詩とかいうのは、作者はあまり出ないで、声なしで完全な作品という考え方という部分もありますよね。先生の場合は、そこのところを、ご自分で読む。
TN:基本的に、僕は作者が見えないほうがいいという考え方ですね。自分を先に読んでいても、自分の作品を生んでいるというような自意識はほとんどないですね。
F:ステージというよりは、むしろサイン会というような感じですか。ファンサービス。先生はビデオレターとか、いろいろなメディアをミックスされたものもやられてきていますが。要は、本当に作者のなかでは、詩で全て語る。
TN:そうはいえないのですが、依然として、学校教育のなかでも「作者は何を言いたいのでしょう」とか、ありますよね。ああいうふうに作者を探すのは意味がないと思っています。別に、詩が存在していればいいのであって、作者の自己表現という問題ではないと考えています。
F:よくありますね。本当の作者に聞いてみたら、正答と違ったというような問題。
TN:読む場合なんかは、自分が否応なしに出てきているのだけれども、何かできるだけ無名の声になりたいというのかな、自分を消し去って、声だけが存在する、詩だけが存在するという、言ってみれば万葉集の読み人知らずのようになっていればいいなというのが、理想としては常にあるのですけれどね。
F:落語家なんかも、自分の声が消えるのを、究極の理想にしている方はいますよね。
TN:そうですね。現代詩は、伝統芸能のように型がないですからね。もちろん、発声の型もないし、文体なんかも自由、何やってもいいわけでしょう。だからはっきりかたちを当てて、存在させることは難しいのですね。俳句だと五七五で書けば、何か俳句に見える(笑)。作者が誰だかということは、気にならない。「古池や 蛙飛び込む 水の音」で作者が何を言いたかったのかなんていうことは、言えないわけだけど(笑)、現代詩というのは、作者の思想性というのは問われるのですね。
司会
一昨年でしたっけ、夏の合唱のセミナーで、学校の先生、参加者から質問があって、先生がひとつの作品について、「これはどういう意味で書いたんですか」と(笑)、「いや、もう忘れました」と突き放していらした。いや、あれは学校の先生にはすごくショックだったと思いますね。
TN:学校の先生が、一番そこに捉われちゃってますね。
司会
そういうことでいうと、今の学校教育というのは、音楽の時間でも国語の時間でも、この人がこのときに何を感じていたんだろう、何を表現したかったんだろうと、それの正解を出すところが評価みたいなところがあるじゃないですか。何かそれは変だなとずっと思っていて、あの一言はよかったです。
F:何でしょう。日本人のこうひとつのレッテル貼りとか、どっちかに決めたいとか、そう考えなくては気のすまない方、いますね。役者でも、そのときに役柄ではどういうふうに思った、ストーリーは入っていなければいけないのですが、人間はすごくあいまいなところがあります。
先生が忘れました、と言ったのも事実でしょうし、役者がそこで解釈しでも、必ずしもそうじゃないよということもあるでしょう。フィクションの世界をつくるものに関しては、もっと複雑になりますね。演じられる人がダメで、地でいける人が一番強いといえます(笑)。
キャスティングの問題を、そこから考えている演出家や脚本家のかたもいらっしゃいます。だから、我々のなかで一番難しいのは、役者さんも発声上、正しくないものを要求されることも多いのですね。悪役の声、人を脅かしたりする。だから落語なんかでは、声のノウハウが相当あると思うのです。幽霊の話もありますから。ところが声楽の先生、音楽の正規の教育を受けた人は、そこに関してはまったく避けてきた。
人を嫌がらせる声というのは、自分ののどをも傷つけますよね。そういうのをどうするのか。となると、役者さんのほうが強いのですね。
だから発声に関して、どこまで正しく教えるのかというのさえ、疑問となります。正しく教えてしまうがために、その人が個をなくして、間違いによって鍛えられるということもなくしてしまう。
壊したことがないから、どこまでやっていいのかがわからないというのは、怖いことであると思うのですね。トレーナーなんかに最初からついてしまうと、どこまでが自分の力かがわからない。何回も壊すのは愚かですけれど、1回くらいは、冒険しておかないと、というより、頑張れば無茶するものです。それなしには、お客さんに伝わらなくなってしまうという、パワーの問題ですよね。日本のお客さんは、発声的な完成度を全然求めていませんから。歌の女神みたいな人が出るのは、民族性や遺伝と育ちと、分析をしても出ないのですが、世界中の人の心を捉える歌声のなかには何があるのか、少なくとも詩だけではないのですね。ことばはわからなくても皆、感動します。
だから、発声ができるというレベルではなくて、感動させられるレベルを問われたときに、それは技術だけでは成り立ちません。すると技術というものは、長く活動するためとか、すごくはみ出したときに、崩さないで戻せるためにする。90分演じなければいけないというときの安全パイにしかずぎない。
ただ、今の子はそこから飛び出さないので、むずかしいですね。この前の合唱の先生と帰りに話したときに、その枠をはみ出させることを教えるのか、枠のなかで教えるのかはすごく迷うと言ってらっしゃいました。合唱というのは枠のなかでやられることなので。ただ、生徒の表情が活き活きしないで、先生の管理下でやられているのが見えてしまうが一番よくない。どちらが主人公かということになる。
TNさんのなかでは、歌唱や朗読のプロの方と先生自身の立場というのは分けられていますか。中島みゆきさんでも、詩的に歌い上げていくわけですが。
TN:詩を書いている人間の立場でいうと、1950年代の中ごろから書き始めて、それからまもなくクラシックの作曲家たちが、自分の曲に詩をつけてやりたいといってきた。そのなかで団伊久磨さんとか芥川さんみたいに、わりと当時の、いわゆるラジオ歌謡系のポップス的に歌う方も、人気作曲家がいらっしゃったのですが。芸大の先生をしていらっしゃるような、現代音楽の先生方が、曲をつけてくださると、全然訳のわからないものになるのですね。それで、僕は大不満で、現代詩と現代音楽だとこれしかできないのかというふうに思っていたのが、60年代に入って、関西のほうからいわゆるフォークがはじまって、そこには我々の同世代の詩人もかんでいたということもあって、平気で字余りだろうが曲をつける。それがすごい開放感でしたね。あ、現代詩をこういうふうに歌う歌い方があるんだと。もちろん日本語のシャンソンとかという動きもあったのですが、フォークの動きというのは我々にとっては一種の開放という感じで、そこから一種の呪縛が解けましたね。
僕なんかが、書き出したころ、オペラの訳詞なんかをずっと手がけていた人が、ものすごく日本語のアクセントやイントネーションに厳密で、すべて楽譜どおりにアクセントを選ぶんですよね。アクセント的には非常にきれいなんだけど、ライブ的にはちょっとつまらないというものをやっていらした。そういうことが一種の縛りになっていた。
そこからフォークは、引きあがってくれて、だから詩と歌の距離がほとんど縮まって、ほとんど境界がなくなったというのかな。たとえば詩は、僕は素晴らしいと思うし、実際に作品が出していますね。それが僕の中に歌のベースになっているところがありますね。
F:あのころは、早めに活字だけで、現代詩手帳やユリイカなんかで分析されたり、歌い手なのに、詩だけが取り上げられるというのが、ありましたね。
TN:そうですね。
F:ボブ・デュランなんかも、むしろ、メッセージ。アメリカは、特に詩とメッセージが、ポップスだった。
TN:そうですね。反体制的な動きだったから、一種のメッセージ性みたいなものが重視されていました。
F:先生の本のなかに、声にできない詩の部分があって、それが詩人としての領域でしょうか。
TN:うーん、あの、アメリカではじめて向こうの詩を聞いたんですね。それまで朗読というものをそんなに重視していなかったのだけど、アメリカに行くと場が活き活きしているので、こういうかたちで生の場がつくれるのだったら、印刷で活字で発表するのと、声を出してするのとは、比重としては50/50だと思うようになって、そこから割合、声に対することを真面目に考えるようになったのです。
日本では、戦時中なんかに相当、戦意高揚の短歌や詩が流行って、しかも、グループがそれを読んで歩いたということですね。だから、戦後出発した、我々よりも一世代上の人たちは、そういう日本語に含む一種の音韻的なものが、人間を一種、ファシズムに導くものと見えていたんですね。人を酔わせてしまう。
そこで、彼らはできるだけ覚醒させようとして、音韻に流れない詩を書こうとした。意識的に拒否してきたのですね。
それでいい詩もいっぱいできたのだけれども、やはりそのおかげで、読者を失って、孤立してきた面がありますね。
F:労音などのいわゆる、あの運動とはちょっと違うでしょうけど。
TN:ああいうのもちょっと僕なんかは抵抗を感じて、入っていなかったのですけれどね。
F:いわゆるフォークなり歌声喫茶のひとつの思想といったら、ともかく、若者が言いたいことを、ギターで表現できる。ギター1本あれば、世界中にメッセージが届くというかたちの流れで。
TN:今でも、そういう若い子が、街にいっぱいいますからね。
F:あのころのような、何か体制として反対するような敵が明らかでないですからね(笑)。わかりにくいから。
TN:皆、あわよくば成功して金儲けようというのだからね。
F:あれは一種、独特の運動だったのでしょうけれど、ただ、やっぱり表現者を目指す人というのは、そんなものを目指そうが目指さまいとそうなってしまうものなのでしょう。けれど、そういう人たちにとって、わかりやすかったし、周りにたくさんお手本があった。我々の学生のときも、プロも歌うのだけど、ちょっとした学生くらいも歌わせてくれる場があり、こうやって入っていくんだというのが、街に開放されていた。今の子はオーディションとか、いきなり大きなシステムのなかに組み込まれていく。皆が皆、そうではなくて、ストリートでやっている子もいるのですが、なんか、それを支えられるだけの余裕、そういうところに皆が聞きに行ったり、大きな流れになりにくい。まだフォークの拓郎さんくらいのところでは、人が人を呼んで、最初50人くらいだったのが、500人になったとか見えやすかった。
TN:音楽産業がここまで巨大になったのは、いったいいつからなんだろうと思うんですね。本当にあっという間に巨大産業になってしまいましたね。これはすごく大きいことですね。
F:いわゆる憧れの職のようになってしまった。
TN:うん、うまくやればビル・ゲイツみたいなところがありますね。100万枚売れば、相当金が入るだろうというところで。僕らはフォークの連中とやっていたときは、まったくそういうマーケットではなかった記憶があるのですね。すでに流行歌もあったのですが、そこまで巨大ではなかった。
F:就職するまでの間だけ、そこでやり、それ以上に、固執するとアウトローに、いわゆる社会から落ちこぼれちゃうようなものですよね。
TN:逆に今は、そういうつくられた巨大媒体と対抗して、インディーズというのは面白くなってきますよね。つくるのが技術的に楽になってきたから、そんなに高いレベルでなくて、自分でCDを焼いて、複製できる。皆インディーズで出せばいいやという感じで。出てればいいから、品質的には区別がつかないわけですね、マスメディアと。これはいいなと思っていたら、今やネット、もうCDなんか時代遅れですね。音楽作るのも大変だね(笑)。
F:やっぱり両極ですもんね。確かに武器は入ったのですが、プロは大変。昔だとカメラマンになろうと思ったら、師匠のところにいって、ようやくつけたら、あの高価なカメラを持っている人が世の中にいないから、それを手に入れるだけで一生商売ができた。
今は、我々でも最高のものが安く買えるような時代になって、これからカメラマンになる人は、どういう才能をどう出していけばいいのかというのは、学びにくい。技術的には、ハードでできる。もちろん逆に、本当に才能だけの勝負という、今までサラリーマンやっている人は、そんなことを思いもつかなかったのに、今、会社を辞めて、本当に才能があれば、そういうものに左右されないで先生にもつかないでやっていけるという意味では、真に平等なのかもしれないけれど。でも認められても、また、すぐに崩されるわけですからね。
司会
KSさんが曲をつくられたり、伴奏をつけるというスタイルのときもあるでしょうが、やはりKSさんが勝手に選ばれた詩で。
TN:僕の詩で歌をつくるときは、彼に、あとで聞かせてもらって、いいねとか。
司会
逆にこんな感じじゃないというのはあるのですか。
TN:校歌のときはたまにありますね。校歌は限られた枠のなかでつくりますよね。だから作詞するほうも自分を本当になくして考えるのですね。
彼が校歌を作曲して、なんかもうちょっと、どうにかならないということを二度くらい言ったことがあるかな、あとはもうないですね。それは校歌という歌だから、学校の歌で考えて。
司会
あとは、でき上がったものを弾いてもらって、合わせてこんな感じかなというように。
TN:僕が歌うのはほとんどないですから、詩の場合は、彼は全部アドリブでやっています。それこそ何も相談ないですね。一回やって、今度もこれかと思っても、全然違うことをやりますからね。彼はジャズですから。でも、親子のせいか、感性が共通なところがあるから、違和感がないんですね。なんか、入りのタイミングとかフェード・アウトするタイミングなんかも、お互いに大体、ツーカーでやっているような状態です。出とちりしても、ちゃんと救ってくれるような(笑)、楽なんです。
司会
KSさんは、かなりアドリブでやっているんだろうなと思いますが。
TN:もちろんメロディなんかは書いていますよ。
司会
わりと前からリハーサルなんかをされるのかなと思っていましたが、そんなことはないのですね。
TN:僕がするときにはある程度やらせているし、コンサートで、他の歌手が歌うときには、リハーサルしています。彼が自分で歌うときには、リハーサルも何もなくて、あ、間違えたとか本番でやっていますけれどね。
今日これから音響スタジオでやるのが、彼は今、ソングブックというのをつくっていまして、全部自分の、僕の詩、自分の作曲の歌ばかり集めたんですよね。
歌手がBirdとか石川セリとか、何人か女性ばかりで歌っているのですが。昨日、僕が構成プランを聞かせてもらって、この歌聞いたことがないぞというようなものがいっぱいあるんですね。これに朗読を2つくらい入れるということで、今日はそれを書いて、これから録音することになっているのです。そういう本当にいい加減な仕事のしかた、綿密に計画するなんてほとんどないんですね。
今は、本当にいろいろなものがものすごい勢いで流れていくから、そんなに時間かけてやっても、あっという間に忘れられていくのだから、そのテンポにある程度のったほうが楽なんですよね。ジャズほど即興でいかないと、詩もちゃんと書きますけれどね。
司会
60年代ころのやられていた前衛ジャズは、私も何回か行かせていただきました。
TN:そうですか。あれはもう、アメリカの影響で。あのころはジャズマンの、詩が全然聞こえなかった。今やっと、皆が気を使うようになったんですよね。
司会
これだったらジャズに演奏だけ聞いていたいなと(笑)。
TN:そうなんですよ、本当にね。
司会
なんか、僕がずっとあのころ、ジャズばっかり聞いていて、割と高校のころとか、詩を読んだり書いたりしていたのですけれど、そのうち詩はいいやというようになってしまって(笑)。
TN:それは音楽のほうが強いですもん。はるかに。
司会
ある意味では、もうジャズはすっかり終わってしまって、もう聞かなくなって、TNさんのを見て、こういういうのもありなんだと。
TN:そうですね。あの頃とはだいぶ違っていますね。
司会
だから、あの頃はやっぱり社会の空気もあったのだけど、かなり皆無理をして、アメリカのものを真似したり、無理したりしていたのですね。
TN:なんか反抗的にね。聞き取れなかったね。
司会
それが今、4,5年くらい前かな。お二人のライブを見て、あ、いいな〜詩ってこういう感じだよなとなってきた。
TN:今、商品経済の時代だから、商品にしなければ、受け取ってくれないわけですからね。僕はそういう意識は、はっきりありますね。50年代なんか、商品なんてことを言ったら、殴られますよね。詩は商品じゃないよ、馬鹿野郎なんてさ(一同笑)。
F:ミュージシャンも今、コンサートだとお金がかかるので、CDが売れないと食べれない。レコーディングとライブの考え方が違ってきていますね。
レコーディングは商品としての完成度を上げていくので、ライブは、それが生きがいの人が多い。臨場感、完成度というよりは、コミュニケーションということに入ってきていますね。CDのプロモーション的な位置づけに、プロの音楽の場合はなっています。
他の国に比べたら、ディスカッションや対話の場というのは、日本の場合、なかなかこう、教育もあるのでしょうけれどできなくて、まだトークショーというようなかたちのものはありますが、欧米ほど盛んではないですね。TV番組でもそうですね。
TN:そうですね。下手ですね、日本人は。国会なんかの答弁を聞いていると、日本はそういう対話の伝統が、どこで切れたのかわからないけれどないな、という気がしますね。
F:昔は、政治家というと弁論部出身で弁がたった。
TN:うん、ある程度、名文を書いたり名演説をしたという気がするのだけど。大体皆、日本人は腹で済ませて、ことばは適当に言っている。ああは言ったけれど、あれは本音じゃないと、日本人のことばに対する価値観は、そういうものなんですね。
F:そうですね。音声のところでの勝負ではないですから。
司会
こんなところで。関西フォークの話も面白いし、違いがあればいいじゃないかと思うのです。合唱の指導をしている先生に、TNさんがこういうふうにしなさいと指導するものでもないので(笑)。
ときどき困るのは、中学生から手紙がくるんです。ことばの意味はどうですか、どういうふうにしたらいいんですかと。
合唱は楽譜があるだろう、楽譜の記号をちゃんと見ろよと。詩じゃないんだから、歌なんだからという、何で音楽として捉えないというね。そういう実質的なことをないがしろにして、詩の心とかばかりを問題にするのは、すごくおかしいのですね。
生徒がそういうことを言ってくるのは、先生が、この詩の心を何とかとらえろ、誰か調べろ、ということを言うのだと思うのですが、本当にそういうところは、詩だけでの捉え方ではない。今の学校はおかしいですね。
F:国語でもって音声教育がもっとやられていたら。音楽で扱うときに、朗読じゃないけれど、詩を読むことからはじめる先生は、まずいないでしょうね。
司会
いや、最近少し多くなってきましたね。「声に出して」の影響ばかりではないのでしょうけれど、やっぱり良くも悪くも、詩をまず理解して、言わんすることから音楽が始まるという先生が結構いらっしゃる。それこそ作者が何を表現しているかということから、声に対して何回か朗読するところで、ここをもう少しゆっくりしようとか、そういうことに結びつけている方はいる。全員ではないですね。
F:ここは何を言っているかというのが、本来はおかしい。成り立つ成り立たないというのは、朗読して意味がわかるのではなくて、そのことばを声で読むことで相手に伝わっている伝わっていないの感覚を得て、それを歌のなかに持ち込む。ですから、私から言わせると、あまり解釈はいらない。
TN:そう、僕もそう思うんですけれどね。
F:意味づけは余計なことで。
TN:僕ら、合唱で一番異義あるというのは、自分が書いた歌詞に聞こえないということなのですよね。ソングならまだ聞こえるのですが、合唱だと、特に芸術祭参加の作品になると、何も聞こえない。時々、その作詞を頼まれていたのですが、もう嫌になって、擬音ばかりにしたことがあります。「さわさわ」「ざわざわ」とか。これなら、ことばじゃないからというような(笑)。
だから日本の合唱の技術というのは、どうなっているのかわからないのだけど、ともかく、ことばが聞こえないことが僕は一番嫌で、そういう合唱の先生なんかに対しても、ともかく日本語がちゃんとこっちに伝わるように歌ってくださいねということを、まず一番に言うのですね。詩の解釈、そんなのどうでもいいじゃない、聞こえてくださいよ(笑)みたいなね。
F:先生の詩は、日常的なことばですから、解釈も何も、そのことばが聞こえれば、客はイマジネーションできますからね。
TN:作曲するのも解釈なんだから、それ以上解釈しなくても、作曲家のいうとおりに歌えばいいんじゃないのという気がするんですがね。
司会
発声法も、日本人が歌うのに、学校教育は西洋音楽が中心にきましたね。そうすると、作曲家もそうだし、発声のしかたも、それこそウィーン少年少女合唱団のようなものを理想としてきたことがありますから、ああいう発声では日本語の詩はやっぱり聞き取れないですよね。
TN:そうなんですよ。それの問題がね。ワールドミュージックなんて言い出して、いろいろな発声法が入ってきたのだから、もっと違うことができそうな気がするのですけれど、
教育の中ではなかなか無理ですよね。正統な西洋音楽って、いまだに崩れていないですもんね。
F:むしろ、国語の群読などに、少し興味を持っている先生が、やられているようなものがいい。
先生の詩に現代音楽家が曲をつけたような方向で、詩はフォークにすればいいというのは、もう40年前に答えが出ているのだから。
TN:そうですよね。
F:合唱をフォークで歌えばいいだけの話、母音を共鳴させて、裏声で皆でそろえてしまうから。裏声で詩は、ストレートには聞こえてこないわけですから。それこそウィーン少年合唱団なんかにお手本があって、それに近づくのが一番いいんだというところでコンクールがあるから、そうではないかたちというのは、もっといろいろと自由にできると思うのですよね。
TN:時々、中学生や高校生の合唱を聞いていて、本当に日本語がちゃんと聞こえる子たちもいるのですね。
司会
ええ。
TN:それは、先生の指導かどうかわからないけれど、すごく感激しますね。あそこまで、われわれの立場からいうと、うまくなったんだという、日本語のが聞こえるようになったんだという、部分的にはきっと良くなってると思うんですけれどもね。
F:キーが高くつくられているので、発声からいうと、響きをとるかことばをとるかになって、声楽は人間の声の響きをとりますから、これはある高さ以上になってしまうと、そこまではことばを形成することと発声することは、機能的にわかれてしまいます。口のなかでフォルマントで「アイウエオ」は言えるのが、高くなってくると、どうしても言えない。ただ、簡単な方法では、マイクを使えばいいのですよ。
TN:でも、マイク、それを言ってしまうと(笑)。違うけど似ているところはあるんだけれども、クラシックのいい音楽ホールで、時々詩の朗読をしなければいけないときがあるのですよ。これはやっぱりオペラ歌手でないから、生で無理だから、PAが入るでしょう。これで日本語が聞こえないんですよね。
F:あー、そうですね。
TN:響きを大事にするとことばの意味が通じないということを、痛感するのですけれどもね。これだけ日本は技術大国なのだから、PAで響きを殺して、声だけがちゃんと聞こえるようにできないのかなと思いますが、けっこう難しいみたいだね。
F:歌では逆になっちゃうんですね。カラオケみたいなものでも、歌って流れですから、その流れのために単音にしか当たらない人を、響きをエコーでつけて、カバーする。いわゆる声の焦点をあいまいにしちゃうのですね。だから、うまいのか下手なのかわからないけれど、聞いていて下手には聞こえないようにかけるのが、日本の音響。
TN:この間は小型のBOSEを複数配置して、ガラスのホールだったので、ガラスだったから余計にビンビン響くのですよね。それやったら、になっていって、上の階の人はだめなのです。でも、下の階の方の人はちゃんと聞こえたというのですね。だからある程度、小型スピーカーを多数配置すれば、少しはどうにかなるかもしれないですけれども、僕はPA の人たちに本当に研究してもらいたいなと思いますね。
司会
理論的にはできるはずなのですよね。つまり、逆相の成分スピーカーから出して、打ち消すという。
TN:そうそう。僕もそう思うのですよ。
司会
あれをもっと高度にPAでやれば、絶対その余計な響きを消して、声がどこまでも通るようにする。
TN:でもクラシックホールで詩の朗読なんてめったにないですよ(笑)。皆、金かけられないんじゃないですか(笑)。
F:現場は体育館でやったり、いろいろ(笑)。
TN:そうそう。体育館というのもちょっと困るんですけれどもね(笑)。地方は体育館が多くてね。
司会
そうですよね。
TN:寒いし、疲れちゃうし。
F:今の子は60分もじっと座っていられないから(笑)。演目がどっと短くなっちゃうんですね。昔なんかの3時間の演劇なんか、今の子には考えられない。
TN:そうですね。詩読むときも、1年生から3年生になると、どうやって間を持たせるか、ウケるか、大変なんですよ。お笑い芸人に近いことをやらなければいけない、こっちにそれだけの芸がないのですよね(笑)。
F:テンポは速くなるわ、2,3時間で上演したいものを1時間半にダイジェストするわ。
TN:僕は、下級生は30分で出ていけと、遊んでてと。それでプログラムを変えるんですね。1年生のプログラムを6年生が聞いていると、かわいそうですよね。
F:あの時期は、成長度合いが然違いますからね。
TN:そうなんですよね。全然違うんでね。
F:大変です。小さい子は、とにかく高い声でテンションを上げないと、ついてこないから。