会報バックナンバーVol.177/2006.03 |
レッスン概要(2005年)
■講演会(京都)
○アカペラに親しむ
声は、組み立てのほうから入ってしまうと、何でもできてしまうのです。歌での方が、声は単調に使っていると思います。プロでも、歌える声のほうが限られている。日常で皆さんが出している声のほうが、けっこう、よく聞いてみたら、バラエティに富んでいる。
根本的なことでは、日常に使っている声を拡張してみて、笑い声でも泣き声でもいいのです。
歌に使えない声もあるのですが、上に浮いている声、胸に響いている声、体を伴って出ている声、それからかすれている声から、日常の中にいいのも悪いのも、全部入っているのです。そこにないところに歌声を求めてしまうと、また後で結びつけるのが大変になってしまう。だいたいその中の一番いいようなもののバランスからとっていくというのが、初歩的なヴォイストレーニングです。
歌になってしまうと、個性もなく歌声も同じになってしまうのに、話しの中の声からとってみると、とてもいい人はいます。
それから発声の延長上で、その声をどう動かしていくかということです。多くの、特にロックやパンク系のヴォーカルは、生まれつき声がよくないし、発声も声がほとんどコントロールできない。言葉をどう組み合わせるかとか、言葉に出てくるニュアンスの中で、ロックっぽくしている部分があります。そこになると、判断が非常に難しいのです。
サンボマスターは、メジャーになってきた。彼らの音楽は、正に歌から入っているのではなくて、言葉だけです。言葉を言って、それを何回も何回も言って、それがどう動いてくるか、音程や発声の関係ないところで言っている。
最近私が考えるのは、音楽や歌から入るというのは、もう既に基本を外していっているんだと思います☆。たぶん、言いたいことを衝動的に言って、それを何回も繰り返している中に、ロック、音楽じゃないのか。というと、言葉じゃないのです。そこの中に、メカニックな響きが出てきたり、あるいはペーソス的なものが入ってきたり、当然楽器の音の部分も含めてですが。
一番難しいのは、アカペラだといいたいのですが、バンドになったときに、その音楽的な部分を、バンドの方が、担当してしまいます。そうするとヴォーカルの方との役割をどういうふうに配置していくかが、実際の現場では難しいです。
だから、ピアノの弾き語りでやっていく人と、アカペラでやる人は基本にいます。ギター一本でもマイクをつけなければ、アカペラに近いようなものです。
トレーニングにおいてはバンドを入れてしまうと、何をやってもいいということで声では基準がつきにくくなります。
いろいろな学校を最近も見ているのだけど、上達と考えたときに、それが周りの人から評価されるということは、何かのステレオタイプ化していくわけです。たとえば平井堅に似てきたら、周りは上達してきたと思うし、うまくなったねと褒めてくれる。ただ、その道でやっていく人は、どんどんステレオタイプから離れていかなければいけない。要は同じようになってはいけない。そこが楽器と違うところです。
教えるという行為が成り立たないのです。教えるとかトレーニングとかいうのは、上に目標を定めて、それにいけばいい。もし教えられるとしたら、たたき台ですね。声はこのようなかたちで出したほうが、喉が開いて楽になるという、一番ベースの部分と、それからフレーズの動かし方を真似しなさいじゃなくて、この人はこの中で、これだけの動かし方をしているだろうとみえるようにしていくこと。それにかわるだけのフレーズを持ちなさいと。
それに呼吸や体がわからないなら、プロの人と同じように動かして、たった一瞬でもいいから、そういうふうな動きや統一感、全体的な動きにする。自分が本当の意味で動かせるところの声をとっていきなさいということです。
それは、自分で感じていくしかないのです。その体の動きの中で出てきた声で動かさないと、最終的に繊細な処置ができない。
でも、今のヴォーカルのレベルでいうと、マイクでそこを加工してしまっていますから、カラオケと同じです。お客さんにはそこまで見えない。でも、それは甘えた考えで、ヴォーカルである以上、声を扱えなければいけない。お客さんに見えようが見えまいが、本当はそこでやらなければいけない。
一番困るのは、そこが本人たちに見えていないということですね。それを見ていかないと、レベルがこれ以上上がっていかないということです。
○ひっぱらせる
なぜこんなことばかりやらせるかというと、歌は自分で、誰でもできるのです。誰でもできてしまうことの感覚を変えようとするのは、自分よりレベルの高い人の感覚や体に引きずられるようにする。自分を忘れたときに、一瞬でも2瞬でも、つかんでいくしかない。
スポーツなんかもそうです。高校生がどんなにチームメイトとがんばろうね、一生懸命やろうねといっても、絶対にわからない。パッと大学やプロのチームに入ったら、やってはいけない。けれど一瞬でもその動きについていけたら、そこではじめて次元を超える。アーティックなものはそんなものなのです。これについていこうくらいに思って、違うものが出てきたら、ラッキーと思い、その距離を見てください。
2オクターブに配置しています。部分部分のところでいうと、一番声の扱えるところではないのです。どんなプロでも2オクターブ完璧ということは、ありえないわけで、せいぜい1オクターブ、あと半オクターブくらいしか本当の意味では動かせない。後はカバーできる。
すると、そういう人は、自分の一番歌えるところよりは低く落としている。あるいは高く上げてやっている場合があります。特に日本人の場合はそうです。そうすると、そこのところだけでは勝負を、せいぜい五分でしなければいけない。勝ってもいい。
そこではこの人よりは歌えるけれど、全体を見てくると、バランスが壊れたり、発声のこと、特に声量や声域が問われるとしたら、そこの部分でほころぶべきなのです。
音域や音程がとれない人はいない、言葉を言えない人もいない。そうしたら、その中での違いがどうあるのかをみましょう。音をとるくらいなら誰でもできる。言葉をいうだけでも誰でもできる。歌うだけでもできるのだけど、そこまでのところは10分の1までのところです。
残りの10分の9をどう見ていくかというところで勉強しないと意味がない。大体皆、10分の9のところしか見ないのです。プロでも10分の2くらいしか見ていないことが多いです。だから、実際できるのは、10分の3とか4でもいいのですが、見るのは10見ようと勉強していかないといけない。
きちんと組み立ててきちんと落とし込む。落とし込んだときの一番いいタイミングのところの一番いい大きさのところで、一番いい角度で入らなければいけない。要はデッサンしていかなければいけないわけです。
だから、皆は、とっているのだけれど、それはとっているだけで、そこで動きをつくらなければいけない。しかもメロディにのってとか言葉を言うのではなくて、そういうものは何もないときに、その言葉を相手に伝えることの動きを、そこに伴わせなければいけない。だから、大変なのです。
○構成、動き、つなぎ
「さよならをもう一度あなたに」
「さよならを」というのがあって「もう一度」があって「あなたに」ではなくて、「さよならを」があって、そこに「もう一度――」というのがあって、それが途中で切れて、その線がつなぎ合わせたところに「あなたに」がのっている。
そういうふうな、要はデッサンができないと聞いているほうには、「さよならをもう一度あなたに」といっているのと変わらない。それは歌になっていないのです。
だから歌が成り立つというところ。今すぐに全部できるということではないのだけど、これは半オクターブくらいの「ミミミレミ ミミファソー ミレミレド」、これでちょうど、ドからソまでの半オクターブですね。だから半オクターブの中でその構成、3つの構成がきちんと出るように。
「ドー」でなくて、これは「ド」となっているのか、切っているわけではない。息を吐いたときに「ド」とつまっていて、次のところの「あなたに」があるから、早めに切り上げて、その流れをつくっているのです。
そういうのは、当人も頭で考えてやっているわけではない。何回も何回も歌い上げるなかで練り上げている。それを形として、ここで切ったなとパッとやったらだめなのです。皆が勉強すべきことは、そこで切れなくてもつながってもいいのですが、彼がつくったような流れを自分なりに出せることです。
「さよならを」「もう一度」「あなたに」、そういうふうに聞こえなければいけないのですね。
結局動きを出すために、ギリギリのところまでやらなければいけない。これは結果としてこのくらいに聞こえるかもしれないけれど、つくっている動き自体は、非常に大きくつくっておく。結果としてそのくらいで、皆は結果をとらなくてもかまわない。その動きの方で、破綻してもかまわない。大きめにつくって、その動きの中で声が動くようにしていってください。
ややこしいことを考えなくても「その肩にー」とやっていたら、発声上、響きが上のほうに移ります。そういうところでやってみてください。その5つをとるのは、誰でもとれます。
理屈でいうと、フレーズはどの部分も、その前の部分を全部受けていて、それを次につなげる。だからこれでも、前半の部分は、それまでのところの流れの上におかれているし、次のところは次の流れがあります。
ただ、ここでは部分部分でやっているから、全体の流れはまだ見えなくてかまわないのです。しかし、耳でよく聞いて、要は5つの文字が2つあるということ以外のところをくんで、線にしていかなければいけないですね。その線が動いていかなければいけないし、盛り上がるのか盛り下がるのか、掘り下げていくのか、上げていくのかというようないろいろなイメージで取り上げてください。
これくらいの声でやらないと、体も息も必要ないのですよ。そんなものが歌いたいくらいだったら、鍛える必要も何もない。
うまくやる必要はないし、こなす必要も全然ないので、つくらなければいけない。一瞬でもつくれたらいいということです。
私は5秒や10秒、期待しているのではなくて、その中の一瞬でも、だって1秒からはじまるわけです。1秒でできないことが、どうして30秒や1分でできるか、あるいは1音でできないことがどうして半オクターブ1オクターブでできるか、そういうふうに練習しましょう。
こなすのはこなせます。皆が今こなしていることは、高校生全員にやらせてもこなせます。そうじゃないことを練習にしなければいけないですね。どうぞ。
○新たな声の使い方のために
大曲というより、この人が歌うと、非常に大きな歌になってきます。けれど、練習を部分的にとっていくのであれば、そこのところで、これの2倍くらいで歌ってみてもいいんじゃないかということです。
こなすのではなくて、つくっていかなければいけない。その結果、これと違ったら、だめということではない。むしろ違わなければいけない。だから耳でとっていくのではなくて、体でそこをとらなければいけません。
だんだん息が見える人には見えるようになるとしかいいようがないのでしょうね。10年20年やっても全然見えない人がいるし、頭で考えてしまう人もいるし、楽譜でしかとれない人もいる。
ただ、根本的に体のところで入ってくれば、声楽でもポップスの歌でも変わらない。ポップスの場合は、マイクがあるから、そこまでいかないうちに1オクターブ2オクターブとれてしまう。そうなると、今度は音域や声量ばかりに気がいってしまう。
実際に、声量もそんなに必要のない時代で、音域もなければないで、何ともなるのです。けれど、声をコントロールする力と、そこでデッサンする力でのせていかなければいけない。
それをどんなに耳で聞いてやって、自分のところでしかやらないと、相手に伝わらないということです。日本の歌は、だいたい客が聞き込んでくれるから、じめじめしたといったら変ですが、自分のひとりよがりのところで歌っていても、それが寂しそうとか悲しそうとかなる。
本来は、他人にそこまで干渉してくれない。ストリートでやっていても、皆無視をしていくわけです。それを足を止めるためにどうするか、止めたって、「あっ歌ってら」と思ってまた行ってしまう。じゃあ、聞き込ませるためにどうすればいいのか。
一番ベースの力というのは、声量じゃないけれどパワーなのです。だから、声量じゃないパワーというのは、集中力であったり気迫であったり、伝えたい思いであったりする。人の歌を使うときに、それってなかなか出てこないのです。スタンスとして、そこの部分を持っていないと、そこがトレーナーとアーティストの違いですね。
トレーナーは歌もうまいし声も出る。でもアーティストが持っているような、ああいう意味での気迫や絶対的に伝えなければいけないという意欲がない。あったら、自分で歌っているでしょう。
アーティストを育てるといって、トレーナーばかり育ててしまったのも、学んでいることによって、学んだことをそのまま伝えようというのではしかたがない。やっぱり学んでいることはどうであれ、新しい形で出していかなければいけない。
だから、鏡でも見て、自分の表情や、働きかけるものが全身から出ているか出ていないか。歌は、こうやって音感や声がよくなっていく。誰でも長い時間をかけたら、そうなっていくのです。
だからアマチュアの人で、歌を楽しみにしているのであれば、それは緊張感に包まれるところではなく、楽しくやれるところにいって、そこで声が引き出されていくのもよい。ただそれも、うまく歌えるようになると言っているのは、指導者がおかしい。
実際の舞台というのは、非常にテンションの高いところですから、だから逆にいうと、そのテンションを破るくらいのものを、自分が持っていかなければいけない。それからテンションの高いところの練習じゃないと、感覚が鋭くならない。音に関しても非常にルーズになってしまうのです。そうしたら、自分の中の声もきちんと磨かれないというか、必要がないのです。出ていればOKという形になってしまいます。
日本でゴスペルを10年も20年もやっていますが、全員で歌っているという安心感の中で、かなり雑な使い方をしている。観客にしたら、パワーとして聞こえる。そこが日本の客の耳のないところでしょうけれど。人間が集まるだけでパワーというのは、絶対に出ます。そうしたら、歌なんか使わなくていいのだろうと思います。
だから、コミュニケーションをとっていくような歌の扱われ方が、ちょっと違うと思います。やっぱり絶対的な作品を制作していく。そのためには体や息が必要だというふうに考えなければ。
イメージの練習で、まだまだ耳が鍛えられると思います。それは、別に、もっともっと聞かなければいけないと思う。
もうひとつは、イメージがある程度できていても、声や歌が伴わないというのは、声のポジショニングとか声そのものの扱い方のところです。
調律的なことはヴォイストレーニングの中心にはあるのですが、そこの前の楽器づくり、声を一つでも、「ラ」でもいいので、集中して出してみて、それの一番コントロールできるところをきちんと知っていくこと。
これはトレーナーがやっていると思います。それと、声の力があろうがなかろうが、歌があろうがなかろうが、技量がなくても、プロをやっている人はいるのです。それは個性か演奏力です。
結局自分のことを知り尽くしていて、見せるためにどういうふうに動かしていけばいいか。これが行き過ぎてしまうと、いやらしくなってしまいますけれど、どちらにしろ、自分の作品というかたちで示さなければいけないわけです。
だから、こんな作品をいまさらやらないと思いますが、この当時はすごく単純だったのです。だから、体や呼吸を見たり、音楽的な動き、それを見るには、今の作品より、学びやすいでしょう。
今の作品は、私が見たら、本当に1から16まで、並べて歌っているようなものです。バンドがつないでくれたり、エコーでつないでいるだけ、その人がアカペラでやったとき、海外に行ってみて、プロの歌い手は違うなと日本人が言われるほどには、残念なことに、今の歌い手のほうが器用だけれど、そういうパワーがなくなってきています。
だからそれはそれで、そこのオリジナリティでやれているのだから、いいとは思いますが。
今の声の使い手でレベルが高いのは、お笑い芸人でしょう。ああいう声の使い方やコントロール、スピードワゴンでもアンタッチャブルでもいいですが、あの声の入り方や音色、いっこく堂さんはまた別ですけれど、聞く気もない人間が引き込まれて、そこに声や言葉が飛び込んだり、そこの意味が飛び込んでくることをやっています。
ヴォーカリストは最初に音楽に乗せてしまって、バンドをつけてしまって、それで歌があって、エコーをかけっぱなしで歌うというところで、すごく大切なところを抜かしてつくっていっているから、結局、定まらない。要は、それより上にいけなくなってしまう。
だから、皆がやるところは、自分で歌うときには、そういうセッティングのところでやっていいと思うのです。練習するときには裸になって、そこで自分の声がどういうふうに動いているのか、広いスペースが一番理想的だと思います。
それと何よりも、向こうに飛び出す声です。やっぱり5メートル先に届いていく声じゃないと。それは声量ということではない。そこにすごく気持ちが入っていたら届くでしょう。集中力が増してでも届くでしょう。【05.5.22 京都講演会】
■レッスン
○形をおく
前半だけやってみましょう。少し長いフレーズで、「あなたじゃない」まで入れたら。無理なら1行だけでもいいです。
「夏を待つ 都会の静けさ…あなたじゃない」
これはエンディングですね。
「去年の夏のままに 私はしゃがみこんでいる 私の夏は続いている」
これをつなげて言えたところに着地点をきちんと持ってくればいい。日本人はここまで歌えませんけれど、この当時の人の中には、1曲を1曲で歌っていた、1コーラスをつなげて歌っている中にフレーズを、本当にこんな練習を1000回くらいやると、10本くらい見えてくるのです。
それが難しかったら、100やったうちの10を選んで、その10をそれぞれ、100にする。無理かもしれませんが、10くらい動かしてみると、できることできないこともわかってくるし。それから、やりたいこととやれないこともわかってくる。
その中で今やれることの最高のことを知っておくことと、将来的に目指すところ、それは生まれ持った声や体がかなうかかなわないかわからないですが、理想の形というところで置いておく。その2つの目標は、普通は見えないですね。
こういうふうにやりたいといって、それに迫っていこうとする人がいます。けれど、それは最初から負け勝負。
自分も見ていない、音楽も見ていないし、彼女とは違うのだから。自分の将来の理想を知るために、今の中で何ができて何ができないかということ、何がやりたいかやりたくないかということ、中を知っていきながら、確かに将来的なトレーニングはしなければいけないのです。
今の時点で、今の最高のものを取り出せたり、コーディネートできることをしなければいけない。本当のトレーニングはなかなか調整ができない。トレーニングしていない人は、調整しかしていないから、けっこううまくやれてしまいます。器用に、これしかできない。だから下手なところを隠していきます。下手なところを隠していくことによって、その人の個性も同時に隠れてしまうから、同じような歌い方になったりつまらなくなってきます。
今回の本も、結構正直に書いたのですが、トレーニングは上達を目標にしている。じゃあ上達って何だということを考えたときに、本当にプロでやっている人は、上達していったのではないのです。他の人と違うことに深めていって、そこに価値をつくっているわけです。だから、当初から、方向が違う。
○トータルに問う
それをこういう場でやったり、お互いに習っていたらできないのかというと、そうじゃない。一人でやるよりいろいろな人から学べます。自分の中でいろいろと理想のパターンがあっても、他の人を知ることによって、初めて自分にしかできないことがわかるわけです。
もっというのなら、自分の中で、これは最高だと思うけれど、あいつがやったほうがいいというものは、捨てなければいけないということです。それが一人でやっていたらわからない。自分より才能のある人、あるいは他の部分で強い人、そうしたら、このリズムでの勝負は、自分よりあの2人がやったほうが絶対にいいなと思ったら、そこの勝負じゃ勝てないというところを知る。
場は縮図みたいなものです。他のところでもっと優れた人もいます。何となくそういうマップができてくると、簡単にマップとか横並びにという形はとれないのですけれど、ただ、自分にしかできないところって一体何だろうと考えることです。
あるいは自分が他の人よりできなかったとしても、その中で持っているものを精一杯使えれば、かなりいい作品になっていきます。
声から考えるのも歌から考えるのも、それだけではあまりやってはいけないというのが最近の傾向ですね。そうやっていろいろな技術を身につける、簡単なことでいうと、この世の中でトレーナーレベルの人は結構いるのです。10年見ていても、20組でトップが3人いたら、年に60人くらい、軽く600人から2000人くらいいる。そういうことが目標になってしまうと、あまり価値を得られない。
だから自分の身近な人には、できない。できないけれど、自分はそこをやれてしまうとか、他の人はそういうことをやりたがらないから、やらないだろうなというところは、案外と勝負ができる部分ではあります。
歌の場合は、オンリー・ワンと言っていながら、その中でのトップでないと、なかなか持たない。ビジネスだったら、人の嫌がることをやるのが鉄則なのです。それが一番、仕事になるし、食うのに困らない。
ところが歌で人の嫌がることをやるのはたぶん無理、そんな歌は誰も聞きたくない。やっぱり人が気持ちよく思うことをやらなければいけない。その部分では難しいと思います。
案外、そうじゃないやり方もある気がします。芝居だと、とことん嫌な芝居をしたり、皆が見たくないようなものでマイナーなファンをつくっている。映画もありますね。ビデオの社会でも、ゲテモノみたいなもので、1000人、1万人と、今のネット社会では、世界に問えばよい。音楽もそういうものがきっとある。
あるいは誰も使っていない楽器を使うというだけでも価値がつく。この時代から学べるものは、本当に限界がそのまま出てきます。少しわかりにくいですけれど、ここまでのことができる人が、こういう選び方をしているとか、こういう作品の切り取り方をしているんだと見ていくとよい。自分の限界があったところで、作品ができないわけではないと思えばいい。
それよりも今みたいなことをやって、やれたけれど、格好よくやれたわけではない。そうしたら、格好よくやれるために何が足りないのか。
語尾も伸ばしたし、いろいろなフレーズをつけたけれど、そこからが研究です。それを詰めなければ、ここで終わってしまったら、何の意味もない。
こういう人たちはそれを現場でやっている。何回もステージをやりながら、練習をやりながら、楽器とあわせながら、いろいろなフレーズを直感的に考えながら捨てていっている。そういうもので磨かれたものをひとつのたたき台とするのはよい。ここから今、1やったとしたら99のことをやって、見つけてみてください。【05.5 2クラスサンプル】
○最高レベルを求める
求めるレベルをどこで持っているかということが、すごく差があると思うのです。歌の中で一回出せるでしょう。そのことで歌を通そうと思って、通ったときに、その歌は出来上がりなのです。
多くの人は、その1回が出ていても、出さなくても、歌として認めていってしまうのです。ステージでもそうでしょう。「1冊の本を読んだら、人生が変わるくらいの価値がなければダメなんです。価格の3倍くらいでは、もう人が見たら買わないんだよ」と、私もそうだなと思ったのです。
果たして売れている本が、人生を変えるほどの価値があるかどうかは別にしてみても、少なくとも、問われているレベルはそういうことです。歌もそうですね。
それをどちらかというと、つまらない歌を入れてみたり、つまらない人とやってみたり、そんなことで落としてしまったら、もう見放されます。
本当にその人の能力の最高のものを、最低のレベルにして、きちんとくみ上げてきたら、誰かが認めてくれます。
それをやるのは、大変は努力がいるのです。
サークルというのは、形で仲良くなるのです。そうするとレベルダウンして、その中で回ってしまう。そんなことに、他の人がお金を出して行きたいとか見たいとか、思わないです。
力がないときほど、一人でやれといっているのはそういうことですね。周りの皆が力がないのです。力のない人と一生懸命合わせて何かやったらできるという世界は、どこにもないです。それはボランティアとか介護でも、プロと素人は違います。
普通の仕事の中にはあります。トップレベルの仕事の中にはない。むしろ自分より才能のある人のところに、振り回されながらくっついていく。
昔は、師匠につくということだったのです。だから漫才もそうではないですかね。その影響の下でやってしまうとつぶれてしまいますが、それを生かそうということで、自分を中心に考えていれば、何人の先生を持ってもいい。
ここでも何人もの先生を持っている人がいます。もちろんそれも考えもので、いろいろな人がいろいろなことを言っているのを全て聞くと、自分の中で整理できなくなってしまう。いい機会なのでいろいろ見直してください。
どこを見ているか、自分の発声を見ている、ことばを見ている、ストーリーの流れを見ている、でも音楽は見ていないというのはわかります。それをお客さんが必要としていないレベルにおいては、必要のないことです。そういうものを越えたときに、はじめて周りが違うんだということがわかる。
でも、こういう人たちはよい作品も見ていますから、逆の考え方もできる。そこまでの考え方や、そこまでの鋭さが自分にないから、できないとみて、その中で最低限まとめることをやっている。本当にできるのかできないのかはわからない。能力は使わないと劣っていってしまうのです。
SEなんかも、プログラムを組んで、仕事になるレベルはすごく高いレベルではないのです。数がこなせて需要が多いところでしょう。仕事がくることにおいて、最新の技術や勉強はいらないのです。そこで忙しくて24時間まわってしまう。だから皆、3,40代になってくると、次にくる新しい人に負けてしまうのです。ところが一流の人は、先のことを勉強しているから、また次のときに対応できるのです。
そういう部分のことを何が本質的なことなのか、根本なのかを見る。そこで稼げるからといって、目一杯やって体を壊してしまうので、見えていないことになってしまう。
○成り立つということ
英語は聞き取れなければ、適当に言葉をつけてください。言葉を変えてもいいです。この言葉でやってしまうと、厳しいなら、略してしまってかまいません。
18題くらい曲を与えて、そのうちの6曲くらいを使って、一つの曲を構成する。トレーナーがその夜に、「この課題を下げてもらえませんか、できない」と来た、いわくつきの課題です。
この1曲の中から5秒、フレーズをとるということだったのです。誰も成り立たない、どこも成り立たないということで、私はできなくてもやらせる方なのですけれど、彼らから言われたのははじめてなので、しかたないと。
要は成り立つということはどういうことか、トレーナーは判断できますから、だから、成り立たなかったものはやらせたくない。力の差があるわけではないが、それが力の差、2日やって成り立たないものを10分で切ってみてもしかたがない。そのくらいの厳しさで見ることができて、成り立っている人は、何をどうやっているんだろうということで見てもらえば、もしかするとできる。となればたいしたものです。
全曲コピーでやると難しいのですが、サラ・ヴォーンもかけて懲りていると、何とかなると、手が届きそうなのも、錯覚にしかすぎないが、イマジネーションってそういうものからです。
できるだけレベルの高いヴォーカリストを、コピーしろと言っているわけではない。それを常に入れておくと、それだけ早く聞けるようになる。
英語も、ドイツ語を聞いたら英語が簡単になるのと同じで、サラ・ヴォーンの英語を捉えようと思ったら、けっこう聞き取れたりしてくる。
感覚の相対差みたいなところを利用します。
サラ・ヴォーンのようにできなくとも、そのレベルの手前には、人間には皆、可能性がある。
ただその可能性の最高のところからおろしてこないから、できていかない。
サラ・ヴォーンというヴォーカルがいないとわからないのだけど、その一人のところにおいて、誰を最高にとるかでもずいぶん違ってくるのでしょう。身についた人は、その時代の最高のものをとっています。だから、好き嫌いではないのです。
○ムーブメント
何が人を惹きつけていくかということです。こういう芸術的なものになってくると、珍奇なものやおかしなものはたくさん出ているでしょう。でも、18,9世紀の芸術の域を越えられているのかというと、全然越えられていないわけです。
建築にしても何にしても、文明としてはすごいことができています。橋やビルができている。でもインパクト、芸術性ということになると、そんなに人間性は変わらない。そういうことでいうと、こういう人たちは、何はともあれ皆が思っている問題と同じものを抱えて超えたのです。
プロデューサーに見出されたとか、いろいろなことがあり、見出される何かをそこに出したわけでしょう。
まったく無名のとき、特に世間は知らない人に対しては冷たいですから、そういうところに対して、みてください。アポロシアターにでも行けばいいですね。出たら、一声で、登場しただけでブーイングが来るのではないかというような、そこで最後まで客を納得させる、5分間を、体験していくというのは、よい経験です。
技術レベルであれば、本当の歌というわけではありませんが、音楽や歌の世界のレベルということであれば、ひとつの基準になっていくと思います。
だから、下手だ、できないということではなくて、そういう形で引っ張られていないと、すぐに落ち着いてしまうということです。それはマニアックになれということではありません。それと共に、それをどう問うていくかということを、目的をきちんと詰めればいい。
皆さんの抱えている問題は、10年前、あるいは自分の10代の頃から抱えていた問題でもあるし、永遠の課題でもあると思います。どうやって世に出そうと思ったときと同じ課題です。
でも、それは誰かが出すのではなくて、出させるような気分にさせるかどうかです。だから私はそういう気分になったときには、そういうふうに動いていましたし、気分じゃなくなったときには、そう動かなくなってしまった。非常に単純な話なのです。
自分の歩みを見たら、すぐにわかる。レッスンをやって、一人ずつ聞くしかないなと思ったら、V検ができてきた。これ、バンドをつけてやりたいなというときにL懇があって、あれはバンドをつくところまでいった。そこで、私はふっとひけてしまって、二度とバンドは使わなかった。代々木のライブハウスでやったことがあるのですが、もうやめてしまった。
人はそうやって動いていくものです。よく生徒が「前にこういうものがあったのですけれど」と言うけれど、でもそれは誰かがつくってみた。私がつくったというより、生徒がつくってきたものにこちらが答えざるをえなくなってきたことです。
要望とかどうこうというものではないのです。ひとつの動きなのです。逆にそれがひいていくというのは、そういうふうに流れているわけです。それを無理にお金をかけてとか、時間をかけて守っていても、中はないのです。
それは素直にいけばいいと思うのです。だからいい悪いということでもない。すごいバンドが来ていて、バンドがついていたらいいといったら、もっと錯覚が大きくなってしまいます。そこで、真実を、本質的なことをきちんと見ることを考えてください。
○下積み
時間があれば、宝島のは女性向きの本ですが、読んでみてください。Q&Aというのは、とことん手を入れています。どういう入れ方をするかというと、10人の想定をしました。ここを出たOBやトレーナー、それに対して10人分を入れたから、それに対しては使えるようになっている。
そこがあなたも考えなければいけないところだと思うのです。その客を自分の身近なところにとるのなら、1回の直しで済みます。ところが世の中に対して、とったときには、そのひとつは、かなり特殊な自分の身内ということになります。そうじゃない人に、そうなったときには、そういう人たちをどのくらい知っているか、だから半分くらい芸術家を入れておけばいいですね。
これをミルバやサラ・ヴォーンの前でやったらとかね、あまり高いレベルでお客さんを呼んでしまうと、何もできなくなってしまいます。日本の尊敬するアーティストくらいにしておけばいい。
後は、プロデューサー、そうやってイマジネーションは何でもできますから、イマジネーションを準備できるのは、世の中に出ていないときにしかできない。お客さんが来たときには、そのお客さんに対してやるしか、できませんからね。
彼と私はほぼ同年代ですが、下積みで、ようやく32,3歳で講師になって、それで助教授やっていて、今、全力で出ていますね。私なんか5年前くらいに同じようなことをやっていました。考えてみたら、彼はあれから、しかも連載を10本くらい通す力があるのですね。
彼はいざ出たときにどうやろうかと準備していたことでしょう。それだけの準備があって、能力があれば、やっぱり誰かは認めるということです。
だから、芥川賞をとっている人でも、その後ひとつも出せなくて、やれない人がほとんどです。
その中の一部というのは、皆、デビューした後、2作目3作目をきちんとのせられた人です。デビューを目指してやるのはよいのだけど、アルバムの10曲を入れるのにヒーヒーしている人が、2作目3作目でできないでしょう。
現代において2作目は5年後、10年後でもいいですといってくれるプロデューサーはどこにもいない。プロデューサーが見るのはそこです。この人はゼロからつくれる力があるのか、過去の財産でやってしまうのか。皆が一番必要なのはそういうところです。
レッスンでもこんなことできないやというところで、やれるのが力。そこでやれれば、また違う可能性が出てくる。プロデューサーもつく。
これもだめ、あれもだめ、昔やったものなら勝負できます、という人には、歌がうまくても誰もつかないですね。
デモテープの仕上がりがどうこうというのは、どうでもいいのです。世の中にたくさんいます。うまいのかということで終わってしまう。うまかったからと言って魅力は感じない。
○価値づくり
どう音楽シーンが変わるかという強烈な何かがなければ、その後、一緒にやっていこうという気には、ならない。
ある意味では皆も自信を持っていい。私が一緒に時間を割いているということは、価値もある。何かしらまだ面白いから、ここに来ている。面白くなくなったら、やめてしまいます。
冷たいというよりは、正直にいこうと思っています。他の学校を断っているのは、面白くない。本当に面白くないのです。いずれ、面白くする力を出せるでしょうが、そういう意味で何かがある。
私にとって、何かあるということは、世の中の1割や1パーセントに何かがあるんだから、それで充分やれるのです。
ただ、それをあなた方が凝縮して、非常に高いレベルでまとめ上げていかなければ通じません。一瞬そういうものがあるからといって、面白いものがチョコチョコ出てきたと思いますが、そこだけではやっぱりダメです。
自覚しなければいけません。「それはどこで学びましたか。教えてください」といわれるようなものではなくて、自分で構えていなければダメなのです。
レッスンやトレーニングをやる意味があるとしたら、何でしょうか。たとえばヴォーカルでも10代でセンスよくやれてしまう人がいるでしょう。ここの中でも、何も感情を入れて歌っていないけれど、そこを持っている人と、よほどきちんと構成しないと持たない人がいますね。
初期の勝負では何もやらないで、歌らしくなる人のほうが得なのです。でもそれは長期的になったときには、自分の才能がどう出ていたかを努力していなから、気づいていない。把握していないから、その上にはいかれないのです。
だから、器用だけでやれている人は、だいたいダメになってしまいます。
2つ考えておけばいいと思います。自覚して伸ばしていけるところは、努力して研磨していく。それは、技術の部分です。
それは、「どこまでですか」「あと何年いたらデビューしていいのですか」という問いではないのです。そこは永遠にやっていくしかない。きりがない。50年経っても80年経っても、この歌のレベルに、1万人に一人もいかないでしょう。そのこととやれることは別なのです。
多くの人はそこを勘違いして、あるレベル以上にいけばやれると思っている。そうでなくて、やれるかやれないかは、やるかやらないかです。今、やればやれるのです。皆、もう充分です。
この中で2年くらい残っていたら、その辺のヘタレよりは、充分です。彼らはまた違う魅力で、舞台を構成している。
現在、人前に出て、10代20代の子がすべらない、拍手をしたくなるようなステージというのは何なのだろうか。ネタがうまい人もMCがうまい人もたくさんいます。ああいうふうに出てきている人たちは、必ず自分たちの定型をつくってきているでしょう。世の中に出すためのかたち。一見、バカバカしいものです。
レギュラーの「あるある探検隊」なんて、3ヶ月でだめかなと思ったら、ネタが深まってきましたね。人生の痛いところを突くようになってきた。めずらしいです。くだらないことを言って終わってしまっていくのが多い。
ああなってくると、ひとつのポジションはできてくるんだろうなと、そういう部分で、考えられるかというと、なかなか考えられないわけです。
ここで2人で組んで、あんなことをやらなくてもいいのですけれど、でも笑っていないで、何であれだったら客は、受けるのか。テツandトモ、波田陽区くらいでも厳しいかなというふうになってきたけれど、まだああいう形でできる。ヒロシもやっていますが、そこまで歌だとはいいませんが。オリエンタルラジオはもう歌が、芸ということであれば、そこの境目はないのです。
だからコラボレーションということであれば、そういう才能のある人とやっていけばいいのかもしれない。お笑いに向いていない人がお笑いをやっても、しかたがないと思う。ああいう人たちも小学生の頃からのキャリアがあります。デビューまで相方と組んで10年、その前の10年もそれを考えて生きてきた人に、ちょっとくらい同じことが言えるからといって、通用する世界でもない。
歌というのは足りない部分をまわりのプレーヤーや機材が補ってくれたりする。そのかたちをつくらなければダメです。昔の歌をただ歌うだけということで、やってみても、その人を知っている人は来てくれるけれど、その歌を聞きたいとならない。
○自分の研究
私が一番考えることは、何でも帰りにその人が思い浮かび、次の日に思い浮かんで、もう一度見たいかどうかということですね。見たくないところもありましたけれど、「ミリオンダラー・ベイビー」、タイトルはともかく、やっぱりプロだなと思いました。それは成り立っていくのだろうということです。
それから面白いこととは言いませんが、新しいことを確信しているかということは必要だと思います。昔ながらの歌をよみがえらせてみても、そのままではだめでしょう。そうなるのは鈍い。いろいろなものができるでしょう。
声や歌と分けて考えてほしい。今の音響や照明の技術力、それはそんなにすごいところでなくても、それなりのところにいけば、ほとんどの欠点はカバーできるのです。欠点を考える必要はあまりない。もしかすると、言葉も声もリズムも、あまり考えなくてもいいかもしれない。
そういうことでいうと、何を問うのか、歌い手である以上、声は問わなければいけないと思いますが、プラスアルファ、何かしらビジュアル的な要素、ストーリー的な要素が必要になってくる。そうしたら、日本人の中で受け継がれているもの、歌舞伎でも、コマ劇場の玉三郎でもいい。確かに客層は違います。キャラクターの研究をしてみてもいい。
お笑いの人でもそういう才能のない人はたくさんいます。しかし、絵を使ってみたり音楽を使ってみたり、最新の機材を使ってみたり、漫才ということで、2人で掛け合いをやらなくても、成り立てる。
絶対にできそうでない人がピンでやってみたり、やれているわけでしょう。それこそ自分の才能を知っているということ、話す才能とか、ネタの才能がなければ、道具で補ってみる。
そこは、わけておいてほしい。技術は本質的に、自分が自分を疑わないために磨いていってほしいし、落とさないために長く続けてほしいと思うのです。しかし、やれるやれないは技術の上ではない☆。
むしろやれるやれないことに対して、技術がくっついてくるようにすることです。仕事ということと同じです。さきに仕事をやってしまいましょう。そうすると、何が必要で必要じゃないかがわかります。
技術があとから追いかけていっている人はたくさんいます。ここをやめたテノールの人、3年5年経ってみて、相談があると会うと。「ずっと勉強しているけれど、どこからも声がかからなくて」と。かかってくるわけがない。超一流の人はかかってくるかもしれない。プロでやっている人は、自分が名乗りを上げている。まず、自分が名乗りを上げてくるような人でないと、やれないでしょう。
打たれ強くなればいいと思います。無視されるのが当たり前です。プロダクションでもプロデューサーでも断られたら、俺の価値がわからないということで違うところに行けばいい。
勝負を急いではダメだということです。ちゃんとした人ほど、3年5年と長く、見ています。それを忘れてしまうとダメです。
あくまでパートナーとしてやっていく。けんかをしていてもしょうがない。
そのときに、それでは何が足りないのかということを知っていけばいいと思います。皆、すごいぜいたくです。全部が整っていて、客まで入っていないとやれないと思っている人が多い。でも、そういうところの客は、自分の客ではありません。その仕事を打ち切られたら終わりになってしまいます。
一人ひとり客をつくっていきなさいと、効率の悪いことをやる必要はないかもしれないけれど、やったことがなければ味わってみればいい。だから、たった一人とはいわないけれど、5人10人を集めるのがどれだけ大変かを知っていたら、いろいろなことができる人になります。
歌や声にかまっているよりも、そのステージをどうつくらなければいけないか、どのくらい客に神経を届かせなければいけないかということがわかってきます。
それは歌やそんなもので勉強するよりは、大切です。実際に集めてやっている人や、そういう仕事についてみればいいと思います。だから、一人でやるのではなく、他人のところに学びにいくのです。
サラリーマンは、いつでもラーメン屋やペンションを経営できると思っているけれど、皆、失敗しているでしょう。かわいそうですが、何かにのっかってやっているのではなく、それを一回ゼロからやらなくては。いろいろ叩かれて嫌な目にあってください。出世度は嫌なことにあった回数や量と比例するなと思います。日本は、出世した人はそういう目にあいます。昔はそういうのは、有名税といっていたのですが、割に合わない。そういう面でいろいろな事例が世の中にあふれています。
歌だけ声だけと分けて考えるから、わからなくなってしまいます。決して歌と声でやっているわけではありません。ヴォーカリストに関しては。それを見てみれば、やりようはいくらでもあるし、場もたくさんあると思うのです。
そんなことを宝島のは女性用に書きましたが、やっていくのに大切なことを、たくさん入れています。
あまり分けないほうがいいと思います。日常の生活の中の声でも、コミュニケーションですから。結局そのコミュニケーションです。自分の磨いたものを使うか使わないか、磨いたものだけをどこかで使おうというのは無理ですね。その辺をもう一度考えて、いろいろな戦略を練ってやってみればいいと思います。【05.6 Q&A☆】
■カウンセリング
○歌と成長する
プライベートなものとオフィシャルなものは、ずいぶん違うものですが、その人が成長していったら、より成長している人間と付き合っていくわけです。
たとえば芸能人がやっぱり芸能人とくっついてしまう場合が多い。普通の人の方が、ある意味では支えてくれるのによさそうでも、いろいろな活動をやっていくときの才能のことや相談相手が、アーティックな感性がなければ、難しい部分があります。
それを今の時期に決められるのかということもありますね。例えば十年も一緒に暮らしていて、自分のことよりも相手のことを手伝う方が、創造性としてはいいということもある。そうでない場合は、いい結果にならないことの方が多い。あなたは、先生や時間や場所を、自分でキープしてきている。それはあなたの権利としてある。
これが劇団だったり、プロダクションだったり、あなたに給料を払っているのであれば、そんな考えでは困るといわれるかもしれない。ほかの周りの人に迷惑をかけるでしょう。
ここをあなたがどう利用しようかというのは、あなたの権利です。あなたが継ぐというような家元のような形ではないから、もっと軽い気持ちで来ている人もいるし、その時期だけはここに通っているという人も大半なわけです。
そういうことは5年10年の単位で考えることであって、すごく頑張ろうと思ってきて、すべてかけようと思って、2,3ヶ月たってみたら賭けれない、じゃあ辞めるといってきたら、結果としたら5年10年でもやっている人の方が真面目ということになってしまいますね。
思い詰めるのはいいのですが、そういう形で全部考えていくと、本当に自分の幸せにとっても、危ないと思いのです。
あなたの方の立場としてどうすればいいかということでしか見れない。そうなったときに、そうやって覚悟していますが、ということ自体が、アーティストにとってみたら重荷以外の何でもない。
あなたがいろいろなことをやってくれるのはいいかもしれない。だからと言ってあなたが自分の世界を切り開かないと、誰かにそうしてしまうこと、それがあなたの幸せになるというのは、あなたにとっていいのかもしれませんが。
相手がある程度いろいろなことができていて、マネージャー的なことをやってほしいとか、精神的なサポートを全部やってくれということであれば、別なのでしょうが。それでうまくいかなくなったり、実力の世界だから仕方がないのです。
力のある人は一人でどんどんできる。ひとりでどんどん切り開いていけるのに、歳だけとって、力がなければ、失敗だったとか、恨み辛みになりかねないということがある。それは自己責任になってしまうわけです。昔と時代が違うわけですから、逆の立場だってあると思うのです。
女性の方がアーティストをやって、男性が支えるというようなケース。ただ、若い時期というのはなかなかそれは難しいですね。
ある意味では時間もすれ違っていく。あなたが自分の時間を充実できるものを、きちんと養っておかなければ精神的にはよくない。一人で何かに煮詰めている時間、1年会わなくたって充実して過ごせるくらいの確固たるものを持っていない。その人が芸事でずっと一生やっていく人であれば、とても一緒にいれないと思う。
それは、別にあなたがどうこうということではなくて、今までいろいろな人を見て、いい意味でいい人生を送っている人もいれば、最初はいいと思っていても、途中からとんでもないことになっているようなこともあります。
別に破局したとか離婚したとか、それも一つの自由で幸せと思うから、人生が開けたらね。だからダメということではないのですけれども、右か左かというような、あるいはこっちをとらなければこっちを捨てなければいけないという考え方自体が危険ですね。自分を追い詰めてしまうことになってしまいます。
生きるか死ぬかみたいな問題にすぐに行ってしまう。そうじゃない部分ってたくさんあるわけです。この間は生きてはいけなくても、まあ死んだふりをしているかとか、ある種のいい加減さがないと人とはうまくやっていけない。
一本気で一つのことに熱中したら、そこに全部入れ込もうというのはいいのですが、それで全部つかもうといっても、人と付き合っていく分にはそれはできないから、それをやってしまうと、関係自体がダメになりかねない。
だから、本当にその状況が整っていたらそうすればいいと思います。あなたがサポートできるというふうに、そうでもなければ、それはあなたの思い込みだけの話で、そんなことだったらアーティストとファンの関係にしかすぎないから、あなたの思い込みだけでそうなっている話であって成り立たないと思います。
その段階なのかどうかというのをきちんと考えた方がいいと思うんです。サポートするというのはそういうことです。
発声を覚えなければいけないということではなくて、あなたがすでに持っているところの強さがないわけです。だからそれを持つこと。
今、直したような形で、今、ちょっと直したらそれだけでよくなる。そのよくなったところは、もうできてるわけです。この1分や2分で、すごいことを覚えたり身につけるのではなくて、あなたの中にもうすでにあるわけです。それを最高のところで出していくのが、こういう道です。
それは、あなたが本当に自信を持つきっかけにもなるし、逆にあなたが自信を持たない限り、聞いている人はそのことを心地よくは感じないわけです。そのことは、本当に人生と同じなのです。だから真正面で取り組むのもいいし、そこにぶつかっていくのもいい。
それが人のためとか誰かを助けるためというのは、自分が確立できていなければ、壊れてしまいます。
だからあなたが一番やらなければいけないことは、まず歌にもしきっかけがあるとしたら、歌の中でそういうことができるようにしていけばいい。そうしたら周りもうまくいくし、別にあなたが手伝わなくたって、歌い手というのはそういうものですね。
私たちも同じで、世の中の困っている人を皆助けることはできない。
それでもそういう人たちの前で歌う人やその人たちのことを助けることによって、社会的に関わっているわけです。直接助けることが一番いいわけではない。そういう時期もあるし、その必要がある関係もあるのです。人を助けるというのは、自分ができなければ助けられた方が迷惑をしてしまうことの方がずっと多い。皆、忙しいから、誰かの助けというのはすごくありがたい。
でもその人が本当に大切な人であれば、今年だけのことではない。長い人生において、10年20年ということで決めていかなければならない。
今、助けてくれるというのは、周りのファンでもたくさんいる。そんな程度のことだったら、自分のものを辞める必要はない。歌の中で成長していければ一番いいのです。歌と一緒に。
歌をきちんと自分のそばに置いておくことは、誰かと一緒にやるためにも、たぶん必要なことだと思うのです。自分がだめな時は、歌はだめになるし。自分が自信を持たないと、歌も自信を持って聞こえない。
本当に修羅場をくぐっていかないと、こういう歌は歌えない。体験しなくてもそれがイマジネーションであればできる。それを切り替える力が必要、それが身につくかつかないかが大きな課題ですね。歌い手になるのであったら、たぶん、絶対に必要なこと、人生の中でも切り替える力は必要ですね。
本当に自分のことが分かってきたら、やりたいことよりも、プロになるというのであったら、やれることの方に放り込まないと。たとえばあなたが、試験みたいなものに対して、うまく適用しないところを、無理に適用させて入って、またそういうところで歌おうとして、ということが、向いていないというところまで見てしまった。
好きであろうが嫌いであろうが、活動をやっていくためにネームバリューは使いやすいから、価値はあると思うのです。どうとらえるかですね。
今の時期、長い人生から見たら、たいしたことではないと思いますが、自分の耳でいろいろな作品を判断して聞いていながら、考えましょう。
○声楽界との接点
基本ってある意味では応用性で見れるわけで、皆ダメなわけではなくて、そこで試験を通るためにはそうやって通るし、そこから皆で演奏するときには、イタリアの偉い先生が見に来ているわけでもないのだから、そこの教授が気に入るようにやるのでしょう。
それはポップスでもそうで、プロデューサーの前でハードに思いっきり歌いたいと思っても、オーディションに合格するために、向こうの音楽的な傾向に合わせた曲をアレンジする。それを含めて実力なのですから。
だからあなたが本当につけなければいけないのは、支持者とファン。上に引き上げられていかないと場が得られない。場が得られた人がいろいろなことを言ったりやったりするのは、よい。それでも言いにくくはなってしまうでしょう。
誰かに場を与えられてもらってしまうから、本当の意味では本当の表現もできなければ、本当の確信もできないように、体質的にはなってきてしまいます。
それはどこでもそうで、一人ひとりを見たら、優秀でも、劇団のシステムに組み込まれてしまったら、去勢されてしまうところがある。そうでない人は、外に出てやる。だからといって場が得られるかというと、興業と一緒なのだから、ファンしだい。
だから、本音と建前というのがある部分でやっているから、大学というのが成り立っている。その上で指揮者やバイオリンやピアノで世界的レベルな人たちを出しながら、声楽としては出せない。
素質のある人はいたのでしょうが、その体質になっている。その上のことをやるか自ら切り開くかしかないわけです。それを、どう考えるかということです。
美術の世界でも、ど真ん中のところから 発信している人もいるけれど、蹴飛ばしてやっていった人もいなくはない。
ただ、日本人の場合は外で認められたらいい。オペラでも美術でも外で賞をとれば、日本人というのは認める。
最近は芸大でも、他の分野では、北野武や漫画の先生をよんだりしている。大学も独立法人化で、それなりに魅力のある先生を入れていかなければいけない。決して馬鹿ではない。
ただ、あなたが合うか合わないかというのは、また別問題ですね。その時間ももったいないことはもったいないから、だから、期待はしていなくとも、そこのコネクションで、向こうに直に行って、そこで勉強できればよい。
胸が固くて、そこで響かせていくような外国人的な発声というのは、日本人が持っているような音感や音程というものをクリアにとっていく声ではない。むしろリズムや息を吐くようなところでやっていく。それは日本人だから、耳の構造というのは、クラシックの場合、イタリアでやっていても、母音の響きのところで聞いている。日本人的な聞き方なんですね。だからあんな歌い方になってしまう。
皆、声があるのに、どうしてそういう歌い方をするかというと、そういう感性と耳を持っているからです。それで日本人はつまらないのに、いい声といって、ブラボーというわけです。かなり無理していますが、それはそれで合っている。
だから、バスをやるのなら、テノールの価値観と違うところでやれると思うのですが、今の日本のバリトンは、ほとんどテノールと同じ、別にどっちをやってもいいみたいな感じで、似たような声を出している。そうするとあなたの声質からいうと認めにくいという気がします。
徹底して何が何でも入るのなら、音程練習、コンコーネ、コールユーブンゲンからやってみる。ここは今、芸大のトレーナーもいる。その路線に沿った人ですね。
私が入れているというのは、ここの価値観どうこうというのではなくて、日本の中では得がたいからです。たぶんあなたがレッスンを受けると合わないということが続くでしょう。
3年4年受けて受からなければ、それは合っていないのだから、5年10年がんばっても、10回くらい受けている人もいるけど、無理だと思うのです。直るとか直らないということではないでしょう。
一方で18歳で入ってしまう。それも決していいことではない。早く入りすぎて早く4年間がすぎてしまうと、無駄な4年間かもしれない。22,3歳くらいから入るのも理想なのかということもあります。
でも合う合わないはどこにもあって、東大でもそうだと思うのです。3浪4浪5浪とすればいいのかというと、2浪くらいで入れなければ相当厳しい。相性とかひとつの流れというのがあるだろうから。
今まで本当に真面目に取り組まなかったということで、真面目にやってみて賭けてみるというのは、1,2年くらいなのだから、芸術家にとって、そのくりは、失敗にならない。30歳すぎてから発声に開眼したという人ばかりの世界だから、私は何とも思わない。
意味ないところは、本当に意味がないから。オペラをやるには、私のような考えで一人勝手にできない。私は気楽なのですが、そういう人たちもそういう道を踏んできたわけです。それだけお金をかけて入っている。きれいな部分しか、見ていなかった。けれど極道の世界に似ているのだから。
○声楽界への改革
中に入ったあと、先生を受け継いでいけないと、後についていけないし、場を得られません。日本はどこもでもそうですね。
先生のやり方にあわせたようなやり方をしないで、新しいものを考えついたり勝手に評判を上げてしまったりすると、どこも左遷されて終わりになる。日本では、先生の教えたとおりに全部がやる人が出世する。海外から見ると本当に馬鹿みたいな話。
たまにそうでない人はいるのですが、ずば抜けて天才的で海外で評価をされて、やむをえなく、周りとは合わないが、やれている人がいるのですが。招聘された人でもないかぎりそうではない。
だからしかたない。早く国を出てしまったほうがいい。本当に優秀な人は国を出てしまいます。でも、そこまでは我慢しなければいけない部分もあるという気がします。
改革をするのに、外の人間が何を言ってもだめです。東大は東大生が壊すしか、ないのです。千住家は、真理子さんを守るために兄2人が、芸大に行った。そこを優秀に出ることで、妹が自由に活動できるということになる。体制の中でトップを極めることによって、日本の中での立場を確実にしながら自由なことをやるというのは、ひとつのやり方ですね。
官僚になっておいて官僚をやめてやるとか、官僚の中に入って改革していくと、外から何を言ってみても難しいからです。
私がどんなことを言っても、芸大の先生がそれを読んで使うことはない。専門学校とかプロダクション、現場で困っているところは使う。共同研究や情報交換というのも成り立ちにくいのです。
科学的な手法を使って、声を分析している人はいるが、共同でいい歌手を育てようとなりません。スポーツならそういう話になるのに、そういう耳もない。
頭は結構柔軟だし、ポップスも聞いているし、美空ひばりさんも評価していて、話したりすると分かるような人たちが多いのですが、世間を知らない。
かなり特殊な人で、お金も自由になるから。バッシングされることもない。本当にコレクション、ビデオも誰々の演奏というのは、とっている。
でも、芸大を追放されているような方は、よく知っていますね、世間のこと。それが普通だと思うのです。
日本人は芸術家でも、一部の人を除いて、政治経済、他の分野のことを知らない。向こうの一流のオペラ歌手は違います。そういうところが日本は乏しい。音楽家だから音楽だけでいいという感じです。
何か、音楽もきちんとできないのに、それだけやっているのが偉い感じが嫌です。それだけしかやっていないなら、そこで働きかけたらと思います。ただ30代になるまで、一つの世界を極めるまでは芸術馬鹿でもいい。それを社会に発信したときから、社会の勉強をせざるをえなくなるのですね。私も、声優がきたら声優の勉強、役者がきたら役者の勉強、日本語教師の勉強。社会に出てしまうと、本当に、勉強させてもらえる。
学校での邦楽が必修になって、音楽は選択科目ではずされていく。邦楽の歴史から、読まないと話にならないという。ああいう分野も日本人が受け継がなければいけない。邦楽を、小中学校で教えることといっていながら、芸大で邦楽専門課程がない、どうするんだ。教員が教えられないのに、日本は本当におかしいことをする。
邦楽を一番よけてきたのが声楽出の音楽教師、その教師が一番嫌いなことをそこに加えてしまう。普通の人には、もうちょっと民謡とか歌っている人などもいるのです。
そういう人は全部避けてきた人だから、そんな人に授業をやらせてみたら、生徒はもっと嫌いになる。かえって迷惑だというのは、彼らの本音でしょう。
呼び出される、先生たちができないから、近所に住む師匠が呼び出されて、これが長唄、三味線と、何時間か絶対に入れなくてはいけなくなった。ところがプログラムも指導要領に入れないといけないと書いてあるだけ(笑)。
何でそういうことをやってしまうのだと、本当に日本っておもしろい国。お偉い先生方が考えてそうするのだから。芸大に一つくらい、科を置いて、徹底的に教員をつくらなければいけないと考えないのか。官僚が考えても皆関係ないという顔をしている。それでやれてきたから、結局そうなんでしょうね。
○太い声
声楽といってやっていたのは、コールユーブンゲン、あれを声楽といって、これが声楽なのかと、発声も何もやらない。コールユーブンゲンが終わってコンコーネ、ちょっと音楽的でも、原調でやると、最初上の音は出ないから、そこを出すための響かせる。これが声楽なのかなというのは、大きな勘違いだったのですが、巷ではそうですね。コールユーブンゲンやコンコーネというのは、今考えると、教えるときにやり方としてあるのかなという程度。
まず、原調ありきです。10代の子に上のソと言ったら、まともな発声じゃ出せないから、音域だけをとるような出し方になります。
音大は2,3年生で上のラが出せるかどうかが勝負、それをやろうと思ってやっていた時期には、高い音ばかり出すから、高いところばかり出るようになる。それがポップスにどう関わってくるんだろうというのは、いまだに関わっていない。要は、ラが出ないと、テノールとしたら、通用しない、そんな考え。
世界の一流のテナーは、どちらかというと、実際はバスかバリトンに近いようなベースのものを持って、あそこまで音域を伸ばしていく。日本のテノールの声帯ではないのでしょう。どちらかというと、太い声の人間が、徹底してハイCまで出せるような技術を得ていったではないのでしょう。
ところが日本の場合は、そういう人間がそこまで育つ環境にないから、バリトンになってしまう。あるいはもっとバスくらいになってしまう。元々高いところだけしか出ないようなテノールがトップのほうに行ってしまう。
本当は声区というところで見ないといけないのです。日本人の音色はないわけではない、外国でも、ただ、ちょっと違う。
実際にやられている指導は、体とか骨盤と言っていながら、響きとか楽に喉を抜くかたちになってしまう。いわゆる共鳴中心なのです。
外国人のオペラ歌手が来たときに、床を鳴らしているような気がしたのです。手を上げる、腰から下も鳴らしている気がする。全身で全部を利用してやっている。日本人と共演すると全然違う。日本人は頭だけで歌う。
それはポップスもまったく同じでしょう。たまに日本のミュージカルに外国の客演の人が来たりすると、その人だけがイスの背まで響く。声の厚みが違います。
一番簡単な違いでいうと、日本人はドラムの中でいうと、ハイファイの上のところだけなのですね。バスドラの部分がない。
五木寛之さんが言っていたけれど、特にロシア、普通の人たちの、軍隊の行進や民謡なんかから、地響きみたいなものがとどろく。日本人にない。ロシアはバスに強いけれど、外国人でオペラ歌手というと、そういうものもあるんですよね。
響きはあるのですが、声楽の教本を見ると、インペット、体からとか胸の共鳴は入っているのですが、実際に聞くとない。
だからソプラノでも、本当は説得力が今一つないのですが、日本人はそういうものを比較的、きれいにとる。
それは日本のニューミュージックの世界でも同じです。たぶん日本語自体が母音で伸ばしていくから、その母音の共鳴のところだけで、聞くのでしょう。子音があって、胸の響きが出てくる言葉に対しては、やっぱりあまりきれいに聞かないでしょうね☆。
前に、長唄の野口さんと話したら、日本の邦楽の歴史にも2つあって、一つは室内でやっていくようなものはきれいに響かせていく。高い声、それに対し、浪曲や浪花節みたいなものは、シャンソンなんかと同じで、元々は野外でやるもの。野外で聞こえるために、ああいう大きく太い声が必要だった。
日本はそういうものは、浪曲、浪花節にはある。あの延長上に本来のオペラもあるかもしれません。ところが日本の歌唱のイメージというのは、ウィーン少年合唱団みたいに教会の響きのいいところできれいに抜いている声のほうがいいのですね。
しかし、これは本当に響かないところだと話にならない。教会のドームのように響くホールだから、きれいに聞こえるのです。
そうすると日本の場合は役者あたりのほうが、鍛えられていますよね。だから、私は今でも、最初に役者の体をつくって、それで向こうの人の普通と同じ体になる、そこからようやく歌える条件の一つを得たとみています。
外国人はしゃべっているだけで1オクターブを強弱で出している。そこに半オクターブ歌えばいい話。
我々はこう喋っていても、高低アクセントなのにドからミ、3度くらいの中でやっている。これを同じように1オクターブ半歌えといったら、無理なのですね。
たまにいるけれどね。小さい頃から1オクターブくらいでしゃべってきていて、そのまま歌わせると、結構腹から出るような人が。そういうの人は、今まで研究所で何人か見た。何で簡単に高いところが太く出るのと考えても、小さい頃からそうだったというだけだから、トレーニングにはならないのです。
誰よりも声を大きく出してきた子、そういう子って外国人と同じ、日本では珍しくそれだけうるさくしゃべってきた子、その20年、教育の期間での20年のことを変えれば、日本人でも音大に入ってからで、困らない。でも、きれいな声どうこうというのではなくて、タフに、とにかく壊れないようにしてほしい。
○器用から入らないこと
今の人は、まったく声を使ってきていないのです。私の時代以上に使ってきていない。私のころもそんなに使っていなかったけれど、声楽家もすごく弱い。すぐに加湿器など細かいことを言って、ちょっと歌うと1日に3時間くらいしかレッスンができません。
全部歌うわけではない。3時間のオペラをやるのだったらわかるのだけれど、レッスンは声を出すとしても5分の1くらいの時間しか出さない。でも続けてやってもそのくらいが限界だという。だから弱いのです。
逆に強い人は、ある時期までは細かく使えないと思うのです。それを見てくれる先生がいないと育つものも育ちません。
音大の試験も、実力テストでは点数をとれるのですけれど、学校のテストでは点数をとれないとしても、それだけ大きな器なのだから、音程や楽譜に正しくというのは、後になったらきちんとできると見てくれるといい。
音程の練習、声はピアノで音だけというと、声を小さくせざるを得ないですものね。それはしかたない。
歌で感情を入れなさいとか、正確に音程やリズムをとりなさいといわれても、何かをそこにのせられると、自分が自由に扱えるところまでのぎりぎりの声量のところまでしか出せない。声量を目一杯出したところで、ピッチは外れてしまう。
だから逆にいうと、器用で器の小さな人は、いつまでも大きくならない。早く才能が出てしまった人が、後々大きくなれないというのは、それは日本のポップスもそうですね☆。
プロの人は、何年歌ってきても、若いときに一番パワーがあって、だんだんなくなってきてしまうのです。それはどうしてかというと、最初に歌がまとまってしまう。プロになったら外すことができないから、冒険できない。
要はメロディをとりにいったり、言葉を言ったりすることが精一杯で、音楽自体の大きな流れということでは、体も呼吸も対応していない。プロの体を持たないできている。
バッティングでも鋭くミートポイントだけ触れればいいのですが、その前に大振りしていないと、それだけの勢いや筋力はつかないのですね。その期間が、本当は勉強する前にあるといいのです。
音大生の呼吸の問題は、アスリート並みのことをやればいい話。呼吸法を先生に教えてもらったってしかたがない。
筋トレをして、ジムにでも行って、日本のスポーツ選手並みのインターハイに行けるくらいの体をつくっておけば、呼吸法なんかやらなくたっていい。最終的なところで呼吸法をどう使うかというのは必要なんですが。でかくして、繊細に。
そう、音程とかリズムとか、楽譜を初見で読めるというのはさしあたって必要がない。まずその声がきちんと魅力をもって聞こえてから、言葉が言えたり音程が正しくなってくればいい。最初から正しくできるわけがない、器をつくっているわけですから。
誰が考えてもわかるのに、最初にそんなチェックを入れてしまうから。その都度、期末試験といって、そこで正しく歌うことばかりチェックしていたら、歌えなくなりますね。減点ものなのですね。
向こうのように加点の部分をやって、減点のところは、その人の大きな器ができてきたら消えてくる。
必ずポップスの人ではそういう問題が起きてしまいます。プロダクションやお客さんは外れないことを願っている。そういうふうに歌わせたら、後々伸びないからと大きくすると、音程が悪くなったとか高いところが出にくくなったとか、そんなことを言われてしまう。そうすると本人たちも気にしてしまう。
だから、今回の本でも書きましたら、結局、どこまで見るかです。こちらもさすがに20年後、どうなっているかわからない。でも5年後を考えたときに、ここ1ヶ月でできることとはやり方が全然違って当たり前ですから。
そんなことは私が考えたとか編み出したのではなくて、どの時代だって、皆そうです。野球でも走りこみからやるのであって、最初からバッティングからやるようなところはない。中学生でスタープレーヤーだったとしても、高校1年になったら、しばらくはボールを打たせてもらえないで、高校生の体って違うんだということしょう。それをつくってから入らないかぎり、通用するわけがないのですね。
日本の場合は、オペラが格闘技という感覚がないのですね。あれは喧嘩みたいなもの。日本人でも本当の喧嘩のときの啖呵の切り方、間のあけ方というのを、オペラの人がやればいいのですけれど、やらないですよね。
輸入して、基本の基本をやらない。本当にそういうことをできる先生というのは、他に芸事をやっていたり、スポーツ出身だったりアスリート、体自体が普通の人と違う。それで当たり前の話だと思います。
音大も体力測定で入れてしまえばいい。そうしたら、もっと素質のある子が入ってくる。どうせ20歳で入ってくるのだったら、インターハイにいったとかで、腹から声が出るスポーツ選手を入れたほうが、いい声楽家になる確率が高いと思う。インターハイに行くような子はリズム感もいいし、度胸もある。ひ弱にコールユーブンゲンなんかをやって、骨が抜かれてしまう。
○体づくりと量
皆、入るときにやろうと思うときには、すばらしいものを聞いて、こうなりたいといってくるのに。
体力をつけていることはキープしましょう。絶対に深いところが出にくくなるし、一時響きにくくなると思います。逆に上のファやソを確実に押さえなくいけなくなると、高めにシフトしなければいけなくなる。そうすると、低いところが出なくなる。
ここでやったように低めのところにシフトすると、高いところは最初は出にくくなる。試験までは高めにシフトをしておかないと、低めのほうにシフトしてしまう。受験狙いであれば、ドから上のソくらいまでの方にシフトして、ドより下のソ、ここで一番やったものに関してはなくなるものではなくて、中途半端にやらなくてもいいと思います。
音大に入ってからしばらく取り戻せないかもしれませんが、決して失うものではありません。シフトだけの問題で、また下にシフトすればいいだけの話です。そこで体の体力や息を吐く力が劣っていなければ。私が言っていることは、下の音になると体がつくと同時に、息で声をコントロールすることが同時になります。
高いところでやっていると、体はつきにくいし、わかりにくい。最高音のところでピッチをとっている発声では、体を殺すわけではないが、感覚でこっち側に持つ。
ずっと高いところばかり出していたら、高いところは出るようになるのだけど、それで出るところまで出したところで、音大は通ってしまうと思います。
それを輝かせようとしたときに、それは体がないから、下のところできちんとつくって声と同時にコントロールできるようなものを、下から少しずつ上げていって、最初はドとかミでも苦しい、それを越えて、ハイCまでつくっていく、もう一度プロセスが必要になると思います。
今、両方欲張ってやると、またピッチが下がる。コールユーブンゲン用の声をいうのを一つ用意しておく。カラオケを教えているときには、こんな声でやって歌ってみても、そこで違ってくるから、高めのところで、ニューミュージックっぽい声を出して、彼らよりはていねいに扱える。こっちはこんなのしかたねえと思っても、聞くとうまいなと思うでしょう。
大きな声を出しても発声するとよい。だから、そういう使い分けができること自体は、日本では必要ですね。それは一つの技術というか、逃げとして、覚えておいたほうがいいと思います。
単に発声を出してピアノに慣れていくことのほうが、ベースとしてはむしろ大きいのですね。レッスンなどに通ってくる人の半分は、やっていない。ということでできない、それだけだから。
だからともかくやるということ。音楽とピアノに合わせて、バンドをやっている人はいいのですが。合わせるとき、順番待ちで歌だけ歌う。2時間3時間スタジオに入っても、実際は10分、3曲くらい歌わせてもらっているだけで。誰かが直してくれるわけではないから、自分でやればいいのですが。カラオケに行って何時間も歌ってみる。そこにピアニストがいて、カラオケよりは厳しい基準で、体験することです。
まず、間違っているとか正しいとかいう前に、それだけ楽しめたら一番いいのです。声を出すとか聞こえてくる音にあわせて、声をコントロールするということ自体を、やっていない。コールユーブンゲンや一通りをやっている中で、音大生がやっているだけのことをやっていない。
歌ってきたとかカラオケをやってきたというのは、本当の意味では全然聞いていない。
それはプロからではなくても、真剣にやればもっと聞けるはずのことを、本当に注意して細かく聞くことをやっていないから。声楽やピアニストでも、ひとつの音ということをきちんと認識して、次の音を認識してということ自体に耳を慣らしていくことが、まず前提です。
それがないのに、歌ったり声を出していても、しかたない。だから発声という意味もあるけれど、たとえば歌でいったら、ひとつの言葉かもしれないけれど、ピアノでいったら5つの音符、7つの音符がついている。そうすると7つという認識はよくないけれど、音が微妙に変化して違う音が重なっているということをきちんと捉えることです。
そういう意味で、先生に発声を見せてもらってもレッスンの気分が出るだけだから、こういうふうにレッスンの上でなく本当のレッスンはそんなのではなくて、進めること。
声で教えてもらうのに、何でピアノを使うのかというと、ピアノがはっきりわかるから。鍵盤を見たがる子もいるけれど、それを見ないできちんと楽譜でとるといったら、変ですけれど。要は吹奏楽器と声はいい加減なところがある。
逆にいうと流れというところで音をどうつくるかという、ピアノなんかはわかりにくい。きちんと1音1音捉えてしまって、流れを無視したような練習になりやすい。
でも、最初に音がたくさんあるんだということをきちんと認識しなければいけない。秩序の問題で、音楽になっていくというのは、単に声を出していたらいいのではなくて、そこにきちんと論理と秩序があって、流れの動きみたいなものがあって、ということを感じるところから、とても皆がそんなところから入っているわけではないから。そんなのでいいのです。
○反面教師にする
対極的なところだと、フィーリングで、器用といったら失礼なのでしょうけれど、雰囲気のある、アイドルの歌手のような、表面でなくて、音楽の中では動かしている。そういう部分に関しては一切タッチしない。重い声や強さがない部分は気になるのでですが、このほうが日本では評価される傾向がある気がしますよね。
ロックやヘビメタの世界でも、日本では歌うと歌謡曲やニューミュージックみたいになってしまう。いわゆる深い音や踏み込みがない。そこでやれている人は、生声で、喉をからしてやるから、テンポキープやリズムに関しても、かなり雑なとり方になって、勢いだけでとって崩れてしまう。その両極ですね。
シャンソンもはっきりしていて、音大出て、きれいに流れで歌う人と、役者出身で、音楽的な流れはないが語りで聞かせてしまう、その両方をとれる人は非常にまれ、ほとんどいないですね。本当はどちらのよいと思われるところもよくないのだから、とったはいけないのですが☆。
実際、皆がそれをできるのかというと、こういう歌い方自体もできない。喉が弱かったり、歌ということをピッチや発声を念頭においてしまって、やっている人というのは、こういうかたちを崩したり動かしたりすること自体が発想としてできない人が多いですね。
クラシックあたりから入ってジャズを歌っている人というのは、その代表、シャンソンもそうです。それは好き嫌いでいいと思う。
ヴォイストレーニングとの接点から言うのであれば、声をもう一度丁寧に扱っていくのと同時に、それに対する体や息の力を伴わせること。それが本当の意味で、歌に対して生かされていない部分に関して結びつきをつけていくようなことがメインだと思うのです。プロ歌手の方が来られて、その方々もうまいのですが、どちらかというと流れで歌ってしまう。自分で決めつけて歌ってきたからプロにはなれたけれど、本当の音楽はこうじゃないとどこかでずっと思っている。
そういう場合はどこかで思い切って踏み込ませたり、思い切って伸ばしたり、そうするとはっきりと歌が必ず破綻しますから、気づける。ここでは破綻させましょう、お客さんいないのですから、で、破綻させたことをきちんとおさめられるようになるために、息や声をギャップをつくって、その必要性を与えていきましょう。
お客さんが見ていると思ったら、うまく歌ってしまいますから、うまく歌うのはなしですよといいながらやっています。全部英語で、日本語で歌われることはない人などは、判断さえつきにくいわけですね。
○英語より日本語で
日本語の方がわかりやすいところもあるのです。声のロングトーンにしろ、きちんと伸びているか、母音と母音がつながっているかということ。日本語は歌いにくいと言われるが、逆に言うと、それができないから粗が見えてしまう。
英語は叩き込めば何となくいってしまうし、音もとれる。だから楽といえば楽なのです。そういう意味で発声ということで日本語を使うのもよいことです。
英語は格好いい感じでいってしまうから、もってしまう。歌い手が失敗しているのに、拍手くるのは、客は聞いていない。日本語というのは、そういうのが置きにくくて、きちんと伝わったところはきちんと反応がくるし、そうでないところはだめ、わかりやすいのです。
「smooth」というサンタナの曲で、日本語はダサいが、それで伝わるのが、本当に歌い手の力なのです。サンタナのようにして、格好よくマイクに近づけて歌ってしまうと、何かラジオっぽくなって、歌えていないが、若い子が聞いたら格好いいということになってしまう。
それがダメとも言えないから、日本語で勝負してみましょう。すごくダサくなるでしょう、それは歌えていないんだよと、フィードバックがありますね。
英語は一つの、それを使うだけで格好いいのと同時、逃げになってしまうところがありますね。だから、私は、英語で歌われてしまうと、横にサラやエラの声が聞こえて硬いとなってしまう。
向こうの人たちの鋭いけれど柔らかい動きで音楽を動かしているところから見る。でも、日本語をやると、すごくうまいということも分かる。そういう意味でいうと、日本語は一つのベースでしょう。
私が英語を使わなくなったのは、歌っているときに、発音などの英語自体に気にかかってしまうことが多い。ちゃんとした英語を聞いていると、そうでない英語というのは、耳障りになってしまう。喉にひっかかりやすい子音も多い。
それでカンツォーネを使ってみたり、日本人が楽な言葉、ポルトガルやスペイン語で、こちらも意味が全然わからないから、そういうもので歌うとよい。
英語でも日本語でもないところで、音として、楽器として伝わっているか伝わっていないかというのがわかりやすい。
発音ではなくて、体と呼吸とがきちんとまわって、声と音楽を奏でているかどうかというのは、分かりやすくなりますね。
日本語で歌われるときは、日本語自体が、言葉として強い、というのは、日本人に対して音楽が成り立っていなくても、語りかけたりしたら成り立ってしまいます。そこの力で、特に役者型は酔ってしまいます。グルーヴがなくてもリズムが外れていようが、言葉にしてしまって、説得してしまう。それで押してしまう。それをやられてしまうと、何でもOKになってしまって、レッスンにならない。そういうのをできるだけ使わないようにさせるという形で、進めてはいます。
○現場とレッスンの使い分け
実際にステージで歌われているものと、生でお客さんのところを気にしないところで歌われているものというものは、歌い手もステージが多いほど、ステージのこなし方で、必ずある意味では守っている部分はでてきます。下手と思われないためにしなければいけないこと、パッと切ったり無理に伸ばしたり。そういうものを外してみたときに、違って声が聞こえる部分はある。
それからエコーが入っていると、わかりにくい。そんなところですよね。
だから何を使ってやっていくのかというところで、ジャズのナンバーでもかまいません。ただ、あまりステージに差し障りのあるものは使いたくないなと、昔歌って、捨ててしまった歌とか、まだ歌われていない歌のほうが、よい。レッスンは歌を完成させるためにやるのではなくて、部分的な問題を拡大していくためにやるのです☆。
レッスンで歌をギタギタにしてしまうと、ステージなんかに出しにくいような歌になりかねない。レッスンは部分強化のようなところがあります。
スタンダードでも使われないようなジャズナンバー、カンツォーネ、シャンソンからジャズに入ったようなものもあります。そういうもので見てもいいですね。
リズムの問題も、こなされ、聞いている音楽が入っているなら、そこに当て込んでいて動かされてしまう。全部外してみたときのリズムと発声ということが、どこで歌われるのかなというのは、ライブだけでは見えないものですね。
芸術レベルと現場の判断は、違う。どういうことかというと、トレーニングをしているとき、あるいはオーディションの判断というのは、将来に対してする。実際の放送や現場は音ではなくて、聞いている人の生の感覚で判断する。
アイウエオカキクケコという練習というのは、それが言えるかどうかでも、アイウエオには意味がない。実際には「赤」と言ったときにアとカが2つ言えていることが、試験としては大切なのです。
現実的には「K(無声)」となって、両方言えていないが、聞いている人が、それが「赤」だというふうに伝われば問題ない。
アナウンサーのようにすべてが「赤 青 黄色」というふうにきちんと言うと、「赤 青 黄色」というような人よりも、イメージが伝わらない。
役者さんもアナウンサーも、ベテランになるほど、型から外れて、お客さんがのっているところで冷静な声を出しても、サッカーの中継と同じようなものとなるですね。
教育されたようなアナウンスをしても、そぐわない。お客さんはそれを聞いて、さらに煽りたがっている。気持ちが伝わるということは、声だけではない。そのイメージができていて、声をきちんというよりも、イメージが伝わるというような力がなければいけません。
オーディションやトレーニングで、若いときは細かくいわれるのは、そこまで背負えないからです。そのときはしかたがないから、それをきちんというのが正しいと思っているのですが、そうではなくて、それを言わなくても伝わるために、必要なのです。
歌も、発声をなぜやるのかというと、発声したことで、声が殺されたり、そこで出なくても、それ以上伝わるためです。それは失敗したときにカバーできるというよりは、むしろできるだけ声を使わないで、意味を伝えたほうがいいということですね。
難しいのですが、本当にうまい人は、そんなに声が響いていたり、声が目立っていたり、そんなにはっきり言葉を言っていない。むしろはっきり口を開けるということは、新入劇団員にはいいのですが、ベテランにまでそれを強制すると、はっきり言うがために落ちてしまうものが大きすぎる。ことばは発音だけで伝えるものではありません。
情感や感じ方。たとえばすごく楽しそうなことや面白そうなこと、日本語をきちんと言い切ってしまうのは、日常的にはないわけですよね。私たちは生活の中で本当に驚いたり悲しんだりしているときには、言葉を言わない。言わないことにおいて、受けているのに、言葉をはっきり言ってしまうがために、言葉ははっきり分かるのに伝わらなくなる。そこは非常に微妙なところです。
日常ではないから、舞台だからすごく速いテンポで展開しているわけですし、そうしたらそのストーリーは伝えなくてはいけない。日常よりもはっきりとことばを明示していく必要はあります。それが明示されているところでさらにはっきり伝えることをどれくらいやるかといったら、表現上マイナス、マイナスとは言わないけれども、最低限のところに甘んじて、もっと最高の表現があるのにそれを追及しないことになってしまいます。
歌でも同じです。言葉も一つの要素、発音も一つの要素で、音色やスキャット、リズムで伝えたいという時に、言葉を抜いてしまっても外ししまってもいい。違う音を出したって、音楽としてその方がよくて、完成度が高くなるのだったら、そちらが正解です。
ただ、今の時点で、そこのところでクリアしなければいけない。サ行タ行、カ行は喉で作ってやっていること自体が、あなたの日常にはなっている。発声でそれを一回忘れたほうがいい。
物まねの声と同じで、あなたの声に本当に合っているというよりは、小さいころからそういうイメージのなかで、どちらかというと、つくってきている。
たとえば誰か憧れの人がいたら、その声を真似して作っているような声、骨格が同じで声帯も同じだったら、その人にとっても自然なのでも、人間で同じことはない。そうするとどうしても真似た相手、憧れている相手の影響を受けて、自分の方で操作してしまう。
そちらの方が確かに、生の自分の声というのはわからないから、それよりは近いように思うのですが、本当のことで自由に楽に使える声とは違います。
そういう声は日常の中で、たぶんレッスンの中では、普通に芝居をしているとき以外は、どこかで出していると思います。笑っていたり楽に自分で疲れないように声を使っていたりしている。その辺のところから持ってくるのが一つでしょう。
せりふに関してはそれがいいと思います。もう一つは声楽とか発声練習のところで少しずつ開放してあげることです。
こういうものを読むと、役柄によってはそのまま使えるのに、ナレーションの地の文を長く読む、あるいは違う役柄の場合に使いにくいことがあります。アニメのところで勉強してしまう人はそういうところが多い。
その一つの役にははまるのですけれども、三つの役、そこで違う役をやりましょうといったときに、もともとの自分のオリジナルのところではなくて、応用でやっている。
一つではできるのですけれども、それを戻して違う応用にはなかなかいかない。だから、そこの部分ですね。
○しぜんの理と応用
原理というのが核としてあるわけではないですから、我々が判断するのは直観、2分くらい読んでいて、そのあとに20分読むとなったときに、たぶん徐々に悪くなっていくだろうという場合と、別に変らないだろうなあという場合がある。分かりやすいのはそこですね☆。
いろいろな作り声ができますが、それを人前で3時間4時間としゃべる。そうなってくると30分か1時間で、そのしゃべり方ときつくなってきますよね。
だから、自分がこれが好きだとか、こういう声でしゃべりたいというのは短い時間だったらできるのですが、長い時間とやるとできなくなってしまいます。
プロの仕事をやって戻ってくると、最初は日常になると普通の声に変わっていたのですが、だんだんそっちがメインになってくると、戻らなくなります。役者でも何でも、イタリアオペラの人もそうですね。
日頃から日本語のポジションではないところで話せるようになります。そこまで向こうの声を必要とされていないし、しゃべることの方が多いからこの辺でやっていますが。同じ体で、こうやってしゃべると疲れるから、疲れる。
高音を使ったり響かせなければいけないと、このしゃべり方とそれを切り替えるのは大変だから、しゃべり方自体がそういうふうに変わるわけです。
それは、本当の意味では無理をしているからよくないと思うのです。でも、勝負するところは、オペラの歌唱として、日常どころのものではない。だから、本当は日常のところの延長上にオペラの歌手の声があればいいのです。きっとイタリア人の骨格を持って、顔を持って、声帯を持たないと、いや、生活も必要です。民族によっての差があって、それによって生まれてきたものですから。
そういう人たちがやっているところは、日本語というところの浅さを、言語的にイタリア語に変えたというところでの勉強ですね。
だから、変えられないということではないのです。
そういう人たちがいるということは、あなたの自然に戻ってみて、そういうポジションに変えていけばいい。もしかすると今が自然ではなくて、自然に戻ったら、なおる。もっと楽になるかもしれない。だから、今の問題はどちらかというと、もともと持って生まれた声と、自分のイメージで、その後の使い方ということでは、使い方のほうの問題です。使い方を何パターンか覚えるということでも解決できると思う。
実際、長くやって役柄が付いて慣れていくと何でもないことなのです。
ただ、オーディションとか学校とか、若いうちに業界の人が目先の判断をするということに問題があります。私はそういう注意をしないのですけれども、アナウンスに関する人たちは、発音を最大限に見るから、そこで基本ができているとかできていないのかという。
先生や人によって見方が違うのは当たり前の話です。声でやっていくのだったら、こうやりなさいと言われたり、こう出せませんかと言われたときに、60でやってくださいといわれたときに30だからできませんということはダメなのです。あなたの応用性をつけていくことです。
見方をいろいろと変えてみるというのもいい。アナウンサーについて、テレビを見て言ってみる。そうするとあなたの呼吸や声の出し方に比較的合う人が、プロでたぶんいると思うのです。最初はそんな人の語り口をまねていいと思います。
あなたの声でも誰かに似てくると思います。表情的には子供っぽいものとか大人っぽいものとか変えられても、息や声のところで、同じように変化はなかなかさせられない。
テクニックでも変化ができます。0.2秒で出す、0.4秒で出す、0.8秒で出すという世界のある人と、ほとんどの人がそうですけれども、0.1秒で全部出すと決めかかって、あるいはそれしかないと思ってやっている人とは違うわけです。
役者や声優は、特に朗読をやる人は、声を丁寧に扱っていると思います。たった一つの音をどうやって次の音につなげるかというのを徹底して勉強している。そこに発音の問題はあります。
同じ文でどういう声の響かせ方や聞かせ方があるか。そういうレベルまで研究するのもいいのではないでしょうか。
そういうことを意識しないで合格してしまう人よりも、そういうところで苦労しておいた方が、後々勉強として、どうやって欠点を補っていくかということに厳しくなってみていくことができる。
あとは、根本的なところで体の健康、柔軟、呼吸、そういうところで体自体を変えていくことです。CDの中でたった一つでも二つでもよいのです。言葉から入るのはややこしければ、歌で入った方がいいかもしれません。
音楽というのはそれが引っ掛からないようにするわけです。
行間の流れが見えないのと、ただ声に突っ込んでいく。そうでない流れで持っていく。歌の場合に、一つ一つの音から音のあいだとか、そのニュアンスのところが声がつかえているような形では、取れにくくなっています。
半年か一年くらいやって、私のところへ戻ってきたときに良くなっていればいいステージが良くなればいいのです。そこが、課題で言うと柔らかいこと。
その時間がそれだけとれないなら、自分増やした方がいい。
○遊びとルール
「約束してくれた君」というところが、ある意味では遊びなのです。バタバタ歌っているから、音楽的には壊れているみたいなのです。彼なりのセンスで、こんなふうに面白くかましてやるという動かし方です。
そういうほぐしたところがないと、入り込んで歌い過ぎてしまうと、こういう歌はかなり厳しくなってしまいます。「どうして若すぎて…」という歌詞でなくて、もっときれいな歌詞をつければいいじゃないということになってしまう。こういう歌はああいう歌い方がうまくきいてくるようなかたちの作り方なのです。
そこの今のスタンスで歌えるところは、「真心がつかめるそのときまで」一つくらいにしておいて、そのスタンスで全部流すと、厳しい歌になります。「勝手にシンドバッド」と同じ、一つの面白さを取り入れながら、きちんと盛り上げて落とし込むところへ落とし込むような、ある意味では高度といえます。
1曲の歌をいろいろな歌い手で聞くというのは、勉強するにはやりやすいのです。自分のオリジナリティに関心を持ってきたら、1つのアルバムを聞いて、こうやって聞いていくと、この人の本質的な部分はどれなんだと、普通の人はこう歌うのに、この人はこうやって全部歌っているとかいう部分から、自分の歌があればわかってくるわけです。
ここはこうはしないだろう、でもこうした、何でだろう、次の曲でもここはこうしている、曲や詞の違いによって、最初は左右されてしまうと思うのです。
でもオリジナリティというのはそうではなくて、あいつが描いたら、ああいうタッチが出るという、説明しにくければ絵に置き換えてもいいですね。
スポーツなんかもそうかもしれないですね。その人の一つの動き、基本的な、他の人のルールは踏んでいるのですが、卓球でもテニスでもその人のプレーってありますよね。
そのときに前に出るとか。ルールは踏んでいるのですが、普通の人と同じことをやっていたら、普通にしかならないから、何かしら飛び出すことをやるわけですね。プロとして優れた人は、それをいいプレーにしてしまう。
ところが我々は、そういう体力がなかったり、自分の体のことを知っていなかったりすると、それをやってしまうと、何て馬鹿なことをするんだと怒られてしまう。絵もそうです。何だ、ひどい作品だと言われてしまう。そこに基本が入っている入っていないというのは、別に基本を勉強したから入るのではなくて、その中に戻せる感覚、ベーシックなものがきちんとあった上で、そこから飛び出していく、そこが創造ということです。
だから基本の上に応用がくるのではなくて、本当の応用をやろうと思ったときには、基本は入らざるをえないのです。
プロのバスケットプレーヤーのところで、ゴールに入れろといったときに、トラベリングや3秒ルールもなければ、相手がプロでも何とかして入れられると思うのですけれど、絶対にそういうことはできない、というのは、そういうセットを知っている人は、全部の動きを読んで妨げる方法を知っている。
そうするとどうして対抗するかというと、バスケットのなかで基本として、相手を崩すやり方というのがあるわけです。サッカーでもある。だから基本に戻る。より応用したいがために、基本をさらに徹底することしか応用を超えられない。同じ人間である以上、同じルールというのがある。こうやって何曲か聞いて、この人はこういうふうだなと、そうしたら逆に癖のところを全部とってみると、歌や曲の本質的なものは、本当の歌い手はつかんでいますから見えてくる。
困ったことで、今の曲も使いたいのですけれど、なかなかそこが見えない。応用即基本ではなくて、両方のないところで歌っている。詞も、その詞でなくても、あるいは素人が考えた詞のほうが、今歌われているものよりも良かったり、そういうことができてしまうとその世界が成り立たなくなってしまう。
少なくとも教える基準がなくなってしまいます。それをよしをしている人たちもいます。音楽は自由といっている人もいます。そう考えると自分が迷ってしまうと思うのです。
どうやってもいいといわれてしまうと、かえって困るのです。こういう中で絶対に最高のことをやってくれといわれた方が、作品も日とも高まる。その辺ですね。
○フォーマルと歌のスタイル
私も自由な服装をしているからいえませんけれど、クールビズというのは、何か本会議では正装をするらしいですけれど、日本人からフォーマルを外してしまうと、悲惨だなという感じですね。他の国に見せると、少し恥ずかしいな。
私も背広もネクタイも嫌いですが、週に1日は必ず締めるようにしている。それは昔、40代50代になったときに、フォーマルの似合わない人にはなりたくないという、昔だったからですけれど、自由業をやると、着なくてもいい。そうすると日ごろ着ていないと、着たときにおかしい。
新入社員を見てもわかるでしょう。4月か5月に見ても、新しいということではなくて不似合いなのです。いいものを着なければいけないということではないのですが、礼服でも何でも、どこかでそういう感覚を持っていないと、戻るところがなくなってしまう。それでやれる人はやれるでいいのです。
そういう意味でいうと、トップはどうやってもいいのでしょうが、周りの人がきちんとやっていて、トップだけああいうふうになってしまうというのは、そぐわない。皆が皆、自由な服装であればそれはそれでいいと思うのです。日本人が一番似合うのは、着物だと思います。そんなことを言うのだったら、西洋のものではなく、着物でもいいと思うのですが。
大人社会においてフォーマルな服装というのは、洗練されたもの。楽だったらいいということでもないし、環境のために2度下げろと言ったら、むしろ汗をかいてシャワーを浴びて、着替えればいい。
何か決定するときに、楽だからそうしようというのは、よくない。政治をやる人には切り替えが必要です。人前に出るときに切り替えないからよくない。スタイルは大切です。そういうのも考えなければいけないと思います。
ここでやるのは、歌の中でのスタイルの問題です。「二人でお酒を」と今陽子さんの「恋の季節」とは、フレーズということで使っています。新しく録音されたデジタルものより、古いものがよいですね。
これは解釈本を見なければわからないのですけれど、微妙に全部違っています。最初に聞いたときには、「うらみっこ」の「こ」だけ休符が入っているのです。これは「み」が「みっこ」の「っ」に対して間をとるためになっている。後のところではどこもやっていないのです。ただ2番の「いたわり」のところでも、「うらみっこ」のところならわかるのですが、「いたわり」でも同じようについている。この当時は言葉のニュアンスを残していったのだろうと、もっとおかしなところは、4行があって、「みずに」のところだけ、早くきている。
他のところは「なしで」「しないで」ころからなのですが、「みずに」、これだけ言葉が少ないためか、歌詞先行でつくって楽譜を変えている。
日本のにはよくあります。どうしたかったのかが聞いていてもよくわからない。歌手が、それであわせて歌っている。微妙に聞き分けてもらえば、歌っていて、聞いて合っていればいいです。それからサビに入りますね。昔はサビのところをやらせていたのですが、この出だしが一番難しい感じがしますね。
○音楽の選択科目化問題
こういうふうな日常がなくなってきて、こういうことばがなくなって、それで、歌い方も今みたいになって、常に私は現状肯定で考えますから、J-POPSは今、ああいう会話があるから、ああいうふうに歌っている。
この当時はこういう会話や使い方があったのでしょう。ベーシックなところにおいての声と音楽と、どう関連付けるのかは難しい問題ですね。
この前、学校で邦楽が取り入れられ、音楽が選択制になったらしいです。そういうのは私にとってもどうでもいいのですが、選択制というのは選べばいいのですが、選ばなければ音楽に触れないで教育が終わってしまう。総合科か何かにしてしまえばよかったと思うのです。それでなんでか邦楽を授業のなかでやらなければいけなくなりました。
教員というのは、音楽大学に行った人や声楽をやった人ほど、普通の人以上に邦楽をよけてきた人です。だから大変なことになっている。何でそういうことをやるのか。
そのことが嫌いな人が押し付けられて邦楽を教えてしまったら、なおさら子供たちは嫌いになってしまいます。
日本というのはいつもそういう感じで、どういう考えが働いたのかわかりません。日本にもいいものがあるから、見直そうということだと思います。邦楽家も大変みたいですが、楽器屋さんは喜んでいるでしょうか。邦楽の楽器が、学校に売れます。ただ、洋楽と違って、邦楽の楽器は手入れが専門の人でないとできない。そういうところに予算もつけないのに。普通だったら教員、教えろといったら、国立の大学に養成講座を設けますよね。教育科のなかに。そういう人たちが育ってから、教えるということをするでしょう。
官僚は、現場の先生に教えろという。予算もつけないで。そこで町の邦楽家が引っ張られて、代わりに教えているらしいです。とんでもない話です。
下手な人が教えるより、プロの人が教えればいいのですが、呼べない学校はどうするのかというところです。最近、町の師匠というのはいません。そんなことばかり言ってもしかたないのですが。
この当時のものは邦楽ではなく、演歌でも邦楽ではない。すべて西洋音楽の影響下におかれてつくられてきたものです。唱歌まで含めて。だから、その昔のものをどういうふうにするか。
同じ生活の基盤やコミュニティがあって、実感があって、そのことばが「うらみっこなしで別れましょうね」ということが、歌ですから、時代の先を行っていてもいいと思うのですけれど、リアリティがなかったら、こういう歌は歌えない。
とくに日本の場合はことばが、すごく変わってきます。これを英訳して歌っていたら、今でも古いとならないけれど、このことば自体、私にとっても皆にとっても古い。
こんなふうにしゃべる女性はいないという中で、どういうふうに残していくのか、邦楽はもっと大変だと思います。書き換えていくしかないという気がします。
そのときにリズムもメロディも書き換えなくてはいけないかとかいうことになると、アレンジは変えていくしかないのですが、こういう音楽がどこまで、持つのかということです。
しかし、ヒットしている曲を見たら、昔とたいして変わらない構成をとっています。音楽も行き着くところまで行き着いています。それから新しい発展は、めったなことでない。絵でも何でもそうです。
そういうなかで何をやるかというと、過去の焼きまわしを新たなかたちでどうするかということ。そういう研究をしてみてください。
これは、サビのところをどうするか。純粋に声、最初に使っていたのは、サビの高い音のひとつ前の音のところで、日本人の場合は上にそらせてしまうことが多いのですが、あるいはファルセットをつけるのですが、この当時は踏み込んでいたという、普通のことをやってみましょうということです。
○一本通してバランスもとる
このポジションくらいが昔の日本人のしゃべるポイントに近い。今はもっと浅くなっていると思います。
基本的な踏み込みのところでベースをつくって、それに対して変じている。むしろリズムに戻しているのですが、同じことを繰り返さないでこういう形で処理することによって、歌としては、軽快な形に出していますね。
酒を呑もうと言っている歌です。あまり深刻に押していってもいけないわけですね。
微妙にベースのことをやって、軽くおいて、また「呑みましょう」で入っていて、またちょっと離すという、説明しても何としようもないのです。色っぽさは終助詞、「お酒」の「お」の後とか、「ね」の後とか、歌としては大切なところですね。
通してやってみましょう。「それでも」から「呑みましょうね」変じることを忘れないでください。全部押してやらないでください。
私が音楽を聞くときに、1番2番3番があって、日本の場合は1番まで通せばいいと思います。一回全部通してみる。これを4つくらいにわけてみて、8つになって、16というのがひとつの単位、起承転結のなかで、そういう形で置きます。
そのときに一本通していることを見るのと同時に、これの関係ですね。少なくとも向こうが優れているという前提で考えるのなら、こちらがこう考えたことに対して、どういう変化を彼らはつけているかということを見なければいけない。
必ず、バラバラではないわけです。通しているということがどういうことかというと、どこかで戻しているし、どこかでそれを壊して、つくっている。
いろいろなことがあって、何かを動かさないかぎり何も起きてこない。やりっぱなしは、今のJ-POPSでは多いですけれど、必ずこの音に対して戻して、人々は納得する、すごいと思える。
それをどのくらいの速度で、どのくらいの速さで、どの時点でやるか、それは歌い手の自由です。
ただ起こすのは自由なのですけれど、収めるところは法則がある。それが一つの起承転結。何やかんや言って、皆似たような曲になっていくというのは、こういうことがあるわけです。歌い方も似たようになってくる。
だからそうではないものは、新しいものですが、そうでないものは受け入れられない。でも、新しいけれど受け入れられたものは何かというと、ベーシックな部分では何かしら通っているのです。つまり理屈がつく。
楽譜でも、皆同じでしょう。名曲になると、きれいな楽譜になるのです。それを数字に書いてみたり楽譜の線をつないでみても、きれいな形になる。
シンメトリーになっていたりフラクタルであったり。決してぐちゃぐちゃなものにならない。何かしら人間が感じるものや心に残るものは、こういうものがなぜかあるのです。決して完全な対象ではないのですが、それに近づいている形のなかで個性がある。それをどういうふうに捉えていくか。歌い手もそこで見てもらえばいいと思います。
考えてほしいのは、4本線があるとしたら、その4本もあるですが、4つの間もあるわけです。その間の中で、何を残しているか、その間に何を置いているかということです。
歌い手は4本の線を描くことばかり勉強するのですけれど、聞き手にとってみたら、その線が入るところは全部間で、間の直前が一番大切になってくる。その間をどういうふうに線でつないでいるかというと、まったく逆になる。
そっちが歌っていたら、こっち側は間でしか残らない。感じられるところは、歌い手は何かを起こしているのだから、その起きたところがどう感じられるか、間のところで全部受けていく。こっちからいうと、間をつないでいるのが歌になるわけです☆。
歌い手にとっては歌にあるのですが、こっちにとってみれば、間のほうが歌になる。歌のほうが間になるのです。
皆が歌っているあいだは、こちらは退屈なのです。でもその間のときに、こっちができるからではなくて、そこに何が残るかということですね。語尾が大切になるし、次の出だしも大切になる。必ず表面裏面があって、完璧なものほど間のものがきちんと詰まっている。
○掛け合い
こういうのも歌ですね。言葉中心のところに対して、かなりリズムでとって、きちんと切ってしまったり早めに切ったりしています。その掛け合いなのです。歌い手の中で、何かつくっている部分と収めている部分があって、これなんかも踏み込む部分と離す部分、離す部分にむしろリズミカルな軽い処理をして、この歌らしくしている。
そんなところは解説しても仕方ないのですが、自分が感じるときに、集中してみる。もっと自分に自信のない人は一つひとつ見ていけばいいと思います。
「うらみ」というのはどういうふうに言っていて、そこに「っこ」というのはどう置いていて、「こ」と「な」というのはどちらが強いのだろうと。
優秀な刑事と同じで、部屋に入ってみただけで、その中のことを全部みえるわけですね。明日になってみて、あそこには何人いて何を着ていて、何をはめていたという、ミュージシャンはそれを音の中でできなければいけないのです。
こういう中で、テストでやってもしかたないと思うのですが、自分で力をつけたいと思うのであれば、自分でテストしてみたらいいと思います。そこで何が起きていたのか。記憶になければだめ、何がよかったのかを見ていなければいけない。
どうしてもわからなければ、楽譜を見てみればいい。あるいは他の人の歌を聞いてみましょう。それは楽譜でやったのか、その人がやったのか、いい歌になればどちらでもいいのです。どちらの力が働いているかということです。
○聴きとりと発音
英語を聞き取れる人より、聞き取れない人のほうが、案外といいものを聞き取ることがありますね。ことばで聞き取った瞬間に落ちてしまう情報というのがあります。
たとえばNHKと書いてあったら、「エヌエイチケイ」と読む人はいない。「エネーチケィ」くらい、いろいろな言い方がありますが、音の世界で見て、その上で正しければいいのです。正しくしようと思ってニュアンスが落ちてしまうと、今日やっているような練習にはならない。適当でいいのです。
昔は15人くらいが最低で、多い場合は20人くらいで、もう少し広いところでやっていました。そういうときは人の声を聞くことが一番メインです。フレーズを3回か4回回して終わりだったのです。
それが10人くらいになって、10回くらい回すようになって、当たり前のようになってきました。けれど、考えようによっては50分、人の声を聞いていたり、CDの声を聞いている。
そのなかで内部の感覚か変わってくれば、自分の声は変わってくる。発声を身につけなければいけないように思っていても、ほとんどの場合は、日ごろ、相当いろいろな声を使っているのです。
むしろ歌の中に入ったときの方が、ひとつくらいしか声を使っていない。
こういう一流のアーティストはひとつの声をベースにはしている。けれど、相当の声を、少なくとも、しゃべっているよりも相当たくさんの声を使っています。そういう認識をしてください。
声がないのではなくて、響かせ方を勉強するとか、焦点の当て方を勉強するというのは、勉強だからいいのですが、本来そういうものは体の中にすでにあります。
声や言葉が出ていてもだめ、歌が出ていてもだめ、そこにイメージが出ているか、伝わるものが出ているのか。ここで息にしていますけれど、そこを「H-」あるいは「S-」というところに、何かしら人がぐっと引きずられるものがあるか。映画でもそうです。
「ミリオンダラー・ベイビー」のモーガン・フリーマンは、すごくきれいな英語ですね。発音もきれいなのですが、ことばが、よくわからなかったら、オーストラリア訛りのシュワちゃんと聴き比べてみればよい。英語ができるかできないかではなくて、普通にパッと感じてみてください。
訳のわからないことばでも、何か変なのと田舎っぽいのと、洗練されたものがある。歌が洗練される必要は、やっぱりあると思います。
人によるとは思いますが。こういう中でどう聞いていくかという問題です。声がいい人と歌がうまい人はいるのですけれど、そういうふうに相手に感じさせる人は、本当に少ないのです。天性で持ったものという人もいるでしょう。磨いていった人もいると思います。
声も磨かれるものだと思います。ただ、そういう練習をしないのですね。認識をしないのです。
トレーニングの場合は認識をしなければいけないと思うのです。奇跡的にできる人はできたでいいと思いますが、トレーニングすればするほど、鈍感になっていく人も多いと思います。それを気をつけてください。
○「Ray」とフレーズの発見
こういうのはどちらかというとデッサン、デッサンの中のフレーズ、線のほうで勝負していますね、線の動きの大きさ。それに対して色をつけたり、線を消しこんだり、いろいろなことができる。これも相当消しこんでいます。その辺を考えてデッサンしてください。
何の意図でそういう曲を使うのかと言われると理由もあるのですが、それもフィーリングなので、合わない人はいなくなってしまう。ただ、やれる人はどこでも学べる。
私がごちゃごちゃ言わないのは、一流の人はごちゃごちゃ言われないでやってきた。それをごちゃごちゃいう教え方をやって10年経って、言わない教え方に10年かけてといったら、人生が半ば終わってしまいます。
やっぱり、音楽と直に対話していく。トレーナーはそれを邪魔してはいけない。聞いたことのない曲を聞いたことのない歌手で機会を与える。そんな程度しかできないのです。もしやるのだったら、こんな曲でもいいです。
「Ray」、レイ・チャールズの映画を借りられます。「Geogia on my mind」だったら、「Geogia」を出すのに、一生賭ける価値があるということ。そこができても歌えないじゃないかというけれど、そこで違いを出さなければ、歌う場所もないです。
声は皆出せるし、誰でも歌える。でも彼のようには歌えない。彼のように歌わなくてもいいから、そこでそのフレーズ、音色、それから声、研究すればいい。それが研究なのです。
だから、自分で研究するしかない。それをどこかで教わった発声からとか、ここのフレーズでもいい、使うのはいいのですが、それでやっていたらだめなのです。
今回も本にはっきり書きましたが、トレーナーから教わった発声で通用するほど、世の中甘くない。別にプロでやれるとかそこでお金が得られるということではなくて、人の心を動かすということでいうと、それは自分の中から出していくしかない。
まだまだ出せるのだけど、出さないだけですね。他のものを見ていると、自分のものが見えなくなってしまう。自分の中にあるものを徹底して知り尽くす。それをひっぱってもらうのに、フレーズから、コピーから入るのもいい。コピーしきれないところから、自分の形が出てくるものもあります。
そういう意味ではいろいろな方法論を使うのはかまわない。振り回されるというよりも、結局は人は一声のところのデッサンしか見ない。それがだめだったら、色でやればいい、形でやればいい、あるいはトータルの構成力でやればいい。あるいはバンドの力でやればいい。いろいろな勝負のしかたがあります。
何かしら、絶対に人に問えるものはあるのです。10年20年やっていたら、まわりが全部プロみたいな世界だったらともかく、まわりがアマチュアの世界で、まあよかったねくらいでは、成り立たないですね。人が価値を認めて、その3倍5倍くらいではやれないだろうな。聞いている人が一生が変わるくらいのものって何だろうかということで追求していけば、本当にいろいろなものがでてくると思うのです。
○声を出さない子供たち
小学校4,5年くらいからになると自意識が出て、声が出せなくなってくる。だから、タレントになりたいという人は別でしょうが、1年2年、体を動かすと声が出る時期に、本当は入れないと、難しいですね。
今は、声も敬語が言えないというレベルで判断、他のことも全部言えないのですけれど、注意されるのは敬語です。
子供も、携帯で直接相手と話すでしょう。☆昔は、相手の親の家にかけるから、そこで考えるのです。敬語を使う、メモをして言う。そういう機会がいらないのですね。タメ口でやっている。
知らない人のところに電話するというのは、そういうのしかなかった。友達の家に電話すると、やだなと思いながらも、考えた。そういうのが今はない。友達の家を行き来することもなくなったりして、小さいころから、特に東京は家に行ってもせまいから、相手の親に敬語を使うことがない。先生ともタメ口なわけです。かわいそうといえばかわいそう。
環境ですね。音が反響しない。たとえばこんな教室だったら、のどを壊すことはないのです。このくらいでしゃべればいいわけですし、ところが窓を開けて、風の音から、全部、雨の日も締め切っても雨の音がするから、相当声を大きくしないと通じない。
学校の先生は大変ですね。昔は父兄参観だけきちんとやっていれば、よかった。父兄が教育現場に口を出して、ますます先生がやりにくくなって、声も出せなくなる。先生がどなったり大きな声を出さないから、子供たちも出さないですね。
昔は、人間ってあんな大きな声を出すんだと、そういうのが身近にあった。子供たちも大きな声を出して、スッキリした。今は大きな声を出されたことにすごい弱い。
私がこのくらいにしゃべっていても、怒られていると思われるくらいに、そういう経験がない。大きな声に威嚇される、これは、ある意味では危険ということです。それに対して恐怖を感じて逃げればいい、そういう経験さえない。
自分で出すことはなくなっています。スポーツをやっていて、部活で応援をしなければいけないと、そんなことくらいですね。
10人20人で動くことがなくなったから、声もいらないのです。2人くらいとしか話さない。メールでやりとりしているわけです。絶望的ですね。
外国では声を出さないと、何も成り立たないようになっているから、小さいころから、きちんと声を出すようにしつけられる。学校の先生も毅然として、かなり大きな声を使っています。歌には、今も、つながっていきます。
何が足りなくて、何をやらなければいけないということがわかっていたら、ちょっと言えばやっていける。どこでも楽だからいいのですと、それに慣れてしまうと意味がない。
小学校はまだ言うことを聞くからいいですね。高校をやるとなったら大変。小学生のうちにやるべきですね。中学高校、大学と上になればなるほど、声は出ない。あとは就職試験前だったら面談にいいのでしょう。
声を出すことが面白い、声を出さないで一日過ごすと、リズムも崩れるし、体の調子も悪くなるという理解をしてもらいたいですね。
レベルでおろしてやったら、小学生でわかる。家にいて一日誰も話さなかった、日曜日でもそんな日を送ったら、調子が悪くなるし元気もなくなる。誰かから電話がかかってきて、たった5分でも2言3言でも、「おはよう」「さよなら」のひとつでも戻ってきたら、それで心が楽になる☆。
声を使うことは、自分を守ることです。自分の体調や健康や、気分自体を、うまくキープするために絶対に必要なこと。そういうかたちで必要性を与えて、本人の思い当たることをそうなんだとしてみたら、ちょっとは声を出せるようになる気はしますね。
鬱や引きこもりにも同じですね。ちゃんとした学校の先生なら、先生があいさつをして、子供が挨拶する。校長先生が前に立って、語りかけたりすることで、反応をする、
面倒くさいけれど、生徒が言ったら、何か言う。投げかけたままで、行き場がなくなると、そこでストレスになる。そこで返ってくると快感になって、気持ちよかったということがベース。
そういうことに先生方は無頓着だし、言われてもわからない。生徒や子供のときを覚えていれば、わかるでしょう。声をかけたときに、それを無視されてしまうとどんなにきついことか。大人になると強くなっていきますが。
そういうことを子供たちの中で意識づけたら、声も使うでしょう。逆に返事が返ってこなくても、声をかけまくるのが自分の健康にいいくらい。
閉じこもってしまう前に声を出す。声を出すことは、自分のリズムを乗せるための一番基本的な方法です。とにかく誰かに逢って、電話でもいい。そこで、むしゃくしゃしたり。すごく落ち込んだり、うまくいかなかったりしているときに、家族が一番いいのですが、誰かが声をかける。話すと、人間は単純なもので、それで、どうでもよくなる。それがないから、悪い方に向かう。どんどん溜まっていくと、声が出なくなっていく。【05.3 カウンセリング】
■BV特別セミナー
[ゲストトレーナーH]
○どうして声が出るのか
オーボエで考えてみます。
どこから声を出しているかと、喉を指す人が多い。
オーボエはダブルリード、2枚の板を振動させて、音を下の共鳴管に響かせて出す。リードだけくわえて出してもブーッという音しか出ません。
人間の構造で考えると、喉仏の軟骨のなかに声帯がある。まず、ここが鳴るのだが、この音だけだと、どんな歌手でも、ただの振動のみすぼらしい音です。それが、声としては、喉や鼻への響かせ方の度合いで変わります。
鼻声には2種類ある。
鼻をつまんだ声=閉鼻声。鼻への息を遮断する。軟口蓋の裏を閉じる。
鼻に響かせた声=開鼻声。鼻へ息を通す。軟口蓋の裏を開ける。
○腹式呼吸
では、腹式呼吸をどうやるのでしょうか。MRIで一般人と歌手の呼吸を比べると、身体の使い方が全然違います。
横隔膜は、筋肉でできている。焼肉のハラミにあたります。それが上下することで、息を吐き、息が入ってくる。筋肉なので収縮して自由に動く。それに比べて、あばらに囲まれた胸郭という空間には、自由度がない。あばらのところを膨らませたりというのは、あまり個人差がない。横隔膜の上下は個人差があり、鍛えることができる。
○支え
歌うときの「支え」とはどういうことなのかを考えてみる。ゴム風船をドームで囲った模型(ドンデルスの模型)。息を吸うのはエネルギーはいるが、息を吐くのは、風船がぺしゃんこになるように自然に吐いてしまうので、自分の意識外です。
この状態が一般の呼吸の状態だが、これでは歌うときの息になりません。支えは、吐くときに意識しないと、横隔膜がキュッと上がり、風船はしぼんでしまいます。
息がなくなってしまうことを、横隔膜で支える。横隔膜は上に上がりたくなって息が出てしまうのを、上がるのを我慢しなければいけません。その我慢をしなければいけないというのが、支えです。横隔膜が上がるのを我慢するのが、支えと考えてもらうとわかりやすいでしょう。
丹田を意識するとかお腹を膨らますということを、よく言われると思います。
おへそよりもう少し上、上のお腹に意識をもって、ここをへこませないようにする、というのが彼の得たコツです。下腹は膨らませすぎない。そうするとしっかりした腹式呼吸になる。腹式呼吸のときは、胸がふくらむのを我慢しなければいけない。
○喉を開けて発声するには
「耳鼻咽喉科」、「みみ、はな、のど、のど」と「のど」が2つあります。
「咽」:鏡で口を開けて、見えるのが「咽頭」。
「喉」:口を開けてのぞいても、声帯は見えない。「喉頭」
○声を出すときのコツ
よい声を出すには、のどに負担をかけないこと。レッスンであくびをする感覚でといわれるのは、のどの奥を開けるため。喉頭が十分に開くことが大事、共鳴膣(とくに声帯の上の付近の空間)を広く使うこと。ここが狭いと響きが出てこない。
「のどを詰める発声」は、鶏が首をしめられたような声になる。特に高い声を出すときになりやすいが、そうならないようにするのが共鳴腔を、広く使うこと。のど詰め発声を繰り返すと、ポリープ、声帯にタコができて、一部が固くなってしまう。
○のどを開けるコツ
口の開け方
前歯が見える(横に開ける)開け方と、下の歯が見える(縦に開ける)開け方。
のどぼとけを触って、あくびすると、軟骨が指から下のほうに逃げていく。口を下の歯が見えるような開け方をすると、のどぼとけは自然に下がる。そういう口の開け方、顎の位置で開けると、のどぼとけは自然に下がる。
逆に口を横に開けると、のどぼとけは自然に上がってしまう。「笑って歌って」といわれますが、笑ってしまうと、のどは狭くなる。のどに負担をかけないで、正しい発声でのどをしっかり開けると、きれいな響きが出る。のどに負担をかけて歌い続けていると、声帯にタコができてしまう。
○息の流し方
旗を2つ、わりばしの先に紙をつけて(紙を外側にしなる程度にまるめる)、その旗を口の前に並べて、そこに息を流すと、“ベルヌーイ効果”で、2つの旗が自然に合わさる。
声帯を近づけておいて、息を流せば、この旗の原理のように自然に合わさる。無理に声帯を最初からぎゅっとつけて、無理やり息を流そうとする感覚ではない。
A)一般の人
息を吸うときに胸が大きくなる。横隔膜は平たく下がらず、あまり動かない。胸が上がってあっという間に呼吸が終わる。
B)歌い手
横隔膜が平たくなって、胸はあまり動かない。背中の空間にも息がたまって、ゆっくりゆっくり横隔膜が上がってくる。
口を開けることと、のどを開けることの違いがある。
「イ」は口が小さいが、のどまわりの空間は広くなる。逆に「ア」は口が大きいが、のどまわりの空間はせまい。検診でカメラを入れるときは、「イ」の発声をしてもらう。想像していることと、のどの奥で起きていることには違いがあることが多い。
乱暴な声の出し方(声帯がよく見えない、せまい)と、ていねい(声帯がよく見える)な声の出し方。
実際に感覚で思っていることと、起きていることには差がある。いつまでも感覚だけでやっていたら、先に進まない。
のどを広げたよい発声、というのは、「暗く深く丸い声」、負担をかけない大きな共鳴膣を使った声です。好みがあるので、のどをつめたほうが明るくてよいと思う人もいるかもしれません。
暗く深く丸い声」に対して、「浅く固く明るく」というものです。そうやると、細川たかしさんのような感じになります。民謡を歌う方は、実際のどがこの感じになる。これがもっとひどくなると、イタリアでは「真っ白な声」つまり、脳みそがない声といわれます。
立ち方であったり使いかたであったり、自分の方法を得ることです。その歌い方でちゃんと聞こえるか、イタリアの街で歌っても負けないか、いつも考えるのです。世界の一流になると、同じような価値観を持った発声、少なくとも説得力のある声、歌になると思います。
テノールはトラブルが多くて、高い声で歌うので、のどがせまくなりやすい。声帯が、上がって、のどと舌根が固くなっている状態です。
呼吸のことが不安、息があまり入らない。みぞおちを指で痛い限界まで押していただいて、せきをすると跳ね返ってきますね。これが横隔膜が動いている状態です。ろうそくを消すようにすると、上のお腹がへこまずに息ができます。そうすると横隔膜がじっとしていて理にかなっています。
(上のお腹を手で押さえる。それに、抵抗するように、上のお腹を突き出しながら、声を出す。)
歌っているほうは、声が変わっても自覚がないことが多いですね。私が押すことによって、抵抗しようとした結果、横隔膜が上がるのを防いだのです。
もうひとつ、息を吐いてください。フーッと吐いてください。では声を出してください。(胸を押して離しているような矯正)
最初の声は、上から声が降りかかってきましたが、後の声は、後ろに音が行って、後ろのほうから残響が聞こえましたね。
胸が固いのですね。それをとって、息に素直になる。声が響きます。身体が固いと息の流れがとまります。
顎の問題、少し上向きで歌うのがいいのです。耳の横にちょうつがいがあって、口を開けるとかぽっと開く場所があります。ここに指が入らないような開け方をするのです。ところができる方は、おそらく1パーセントいるかどうかです。顎が前に出ずに後ろに開くというのは、日本人は苦手なのです。下顎というのは出ないほうがいいのです。
今まではのどが上がっているのを上がらなくなるようにしました。胸をさわり、お腹をさわりました。そして、あごを押さえてのどが降りると、今までとちがった場所を使って声を出すために、バランスが取れなくなってしまったのです。
ソプラノで、高い声がつまってしまう。
一番上の音にいったときに声が薄くなりますね。
(レミファソラソファミレのラの音で、胸を押して圧をかけているように見えた。
一番高い音をドまで上げていく。)
胸が固いのと、重心が少し前に来ているので、身体の前面が固くなる。それによって、息の流れが止まってしまいます。力んでしまう分だけ、結果、声がうまく出なくなる。
私が胸をさわった声は、細くならなかったはずです。低い音と高い声が同じ太さです。
ここに胸骨があります。肋骨の2,3番目が固くします。説明は省きますが、これを高い音のときにぎゅっとやると、自分でできます。
発声というのは、理屈がわかったら簡単なのです。
のどをしっかり開ける、響きをつけるためにいろいろなことを言われますが、常にのどを上がらないように工夫することです。先ほどの呼吸の仕方、あごの開け方、息を感じながら、のどを上がらないようにしてください。
Q.結節ができて薬で治したが、正しい発声になるか。
A.のどに力を入れて発声している。結節はポリープとちがって、少し固くなっているくらいなら、その人の個性といってもいいかもしれない。いきなり手術する方はほとんどいません。基本的に結節は、のどの使い方を直していくのです。学校の先生も、夏休みに声を出さないだけでもずいぶんと違います。歌っている方は、いつも声を出していますね。のどに負担がかからないように、歌い方で治すのが最適かと思います。
Q.ビブラートについて
A.声帯がふるえて、のど全体、つまり喉頭のまわり、舌の付け根が自然にビブラートがかかってきます。正しい腹式呼吸や発声ができて、自然についてくるもので、加工するものではありません。
<Q&A>
ブレスヴォイストレーニングQ&Aブログ(Q18〜25)
Q18.高校でバンドを組んでます。プロになりたいのですが、周りからは音楽では食べていけないといわれ、反対されています。音楽で身を立てる方法にはどんなものがありますか。
A.いろいろとありますが、それは自分で考えることです。その力をつけることこそ、あなたの才能が問われるのだと思います。仕事がこなければ、才能は本当の意味で大きく生かせないのですから。その上で、仕事を断わり、自由にやるのは、アーティストらしくてよいのですが。
最近は、食えないのを何か他のもののせいにする人が多くて残念です。できない理由を探すよりはやりましょう。
Q19.私は身長が148センチで体が小さく、声も弱いので、ヴォーカルとして全く映えません。ステージで目立つ方法として、何かよいアドバイスがあったら教えてください。
A.美空ひばりさんは152センチでしたが、あれほどステージで大きくみえた人はいませんでした。きっとあなたが大きく見えるように、歌があるのではないでしょうか。
Q20.プラス志向の人は未来に重きを置きすぎる、今をもっと大事にした方がいいといいます。そのことについてどう思われますか?
A.未来がないと、現在はないのですから、夢は大きい方がよいと思います。自分の未来に明確なビジョンをもち、そこにプランニングしていくことが、結果的に今を大切にするということにつながるのではないでしょうか。
Q21.歌にことばは大切ですか。
A.はっきりというと、音楽で伝えるのにことばは必要ありません。ことばが聞こえなくても、ピアノもトランペットも音で伝えることはできます。ただそれは、そういう言い方をしたらそうなるということで、ことばだけで伝える人もいます。歌は、ことばがあるから楽器に勝るところもあります。
ですから、何をもって音楽というのか、何をもってことばというのかという、あなたがあなた自身の歌について定義づけをして決めてください。
Q22.低い音が苦手ですが、低い声も伸ばせるのですか?
A.低い声というのは、高い声に比べて、その人の声帯から体型など、個人的な音質が、より関係してきます。バイオリンでチェロの低く太い音は出せませんが、人間の場合、簡単に言い切れません。
人前でやるとしたら、低い声が出したくても、それが必要なかったり、人に不快を与えるのであれば、使わないことです。聞いている人にとっては、大して関係ないからです。
自分が好きだと思っていても、他の声域でやる方が周りに伝えられるならば、そちらを選ぶべきと私は考えます。そういうことも総合的に判断しなくてはいけません。
その人の楽器としての限界というのもありますが、やってみなくてはわかりません。
Q23.のどがすぐに疲れます。どのくらい声は出してよいのでしょうか。
A.のどを休ませましょう。本当にトレーニングを真剣にやろうとしたら、無駄口一つは、しないはずです。本当にのどを大切にしようと思い、のどをセーブするでしょう。嫌なことを考えると、声も悪くなります。何かを真剣に前向きにやっているときは、そんなに間違いは起こさないのです。
ヴォイストレーニングでやっていけないことは、緊張感なくやることです。自分を磨いていかなくてはいけない場所で、ダラダラとやっていては、勘も鈍ってしまいます。だからのどもおかしくなってしまうわけです。カラオケなどでは調子にのるから、のどを痛める人が多いのです。
トレーニングでも、それ以外でも、のどを無駄に疲れさせるようにしないことです。翌日の状態で判断をしてみてください。
Q24.よい声になれば、よいヴォーカリストになれるのですか?
A.歌は応用なのです。よいヴォーカリストということと、よい声というのは全く違います。それでも声にこだわりたい人は、録音が古くて、声の線が見えやすいものでやるとよいでしょう。
よいヴォーカル像というのがあるわけではないのですが、それなりに定めて、声としてみる、曲としてみるとか、いろんな見方で判断力をつけていきます。人に感動を与える声というのも、人によって感じ方が違うはずです。よい声になるより、声のよい使い方をするのも、一つの入り口です。
Q25.「体づくり」という部分で、日常生活の姿勢、歩き方なども関係してきますか?
A.音楽と歌の中で説明しにくいことは、スポーツで説明しています。
例えば、スポーツ選手が、歩き方や姿勢が悪くても、試合のプレーには、あまり関係がないでしょう。しかし、体づくりというのは、かなりやっているでしょう。他のことを習得する能力も普通の人よりもあるはずです。
歩き方や姿勢というのは、その人の意識でも変わってくることです。本人がそのことを意識するだけで、違ってくるでしょう。声も似たところがあります。
例えば、この講演を聞いたあとで映画を見ると、声や息のことにいつもよりも気がいくでしょう。声ができていくプロセスにおいて、日常的に関わってくることなのです。
特集:福島英対談集vol.7
[Y氏と]
○声変わり
Y:声変わりかどうかを見分けるというのは、その学校の先生の耳の能力のよしあしの一つです。それで声を聞いて、判別する一つの目安としては、声がひっくり返ったり、地声と裏声が、ああいう症状が出れば、たいていの先生はわかると思うのだけれども、一時的に、極端に低くなることがあります。それから声がかすれる。後ろ側が決まらなくなる。後ろを閉じるところに隙間ができて、そこから息がもれて、かすれ声が混じるということ。それも気をつけていればわかる。
それから、だいたい男性ホルモンのために起こる症状ですから、そのホルモンに関わる分泌障害、痰がからみやすくなるとか、充血してくると声がかすれぎみになったり、それから声の変化としてはひっくり返るという症状が出る、極端に低くなる。そのくらいかな。
極端にひどくなる場合は、喉が痛いとかひりひりするとかいうことが起こる。声を聞いていて気づく症状としてはそんなところが目安になりますかね。
どっちのほうが楽かということを、低く下げてしまったほうが楽だという生徒にはそちらをやらせたほうがいいし、高い音低い音がごちゃまぜになる場合には、ある程度好きなほう、上にいって出なければ下のほうをやるとか、その辺は臨機応変に、まぜながら指導をする。
歌の先生が、かなり主導権を持っていないと、生徒は上のほうに癖がついてしまって、無理やり高い音を出したがる生徒もいる。そういうときはあまり辛そうだったら、低いほうに変えてしまったほうがいいし、あのときもやっていた、自分の出しやすいほうでやっていて、それで出なくなったらどちらかに転換するとか、両方をうまく組み合わせるのが、ひとつのうまい手だと思います。黙っていなさい、今日は歌わなくていいからと、休ませるというのはよくない。
MC:それ、結構あるんですよね。
Y:それはよくない。出しやすいところで出したほうが、早くすみます。無理やり強引にやらせるのは壊しますよ。だけど、楽な声域のほうで少しずつやっていたほうが、声変わりは早くすみます。そっちに慣れてしまうから。黙っていると、いつまでもどっちつかずで長く伸びてしまうだけです。ですから、全然休ませるというのは、やっぱりマイナス。そのかわり、指導者が声のことをわかっていて、生徒に苦しそうなことをやらせないほうがいい。
それともうひとつは、その年齢の子供たち、5年なら5年生の、平均的な声域はどのくらいにあるのかというのは知っていたほうがいい。大雑把にこのくらいの声域でこのくらいの年齢だったら、歌うべきだということを常識としては知っておいたほうがいい。それ以上無理な要求はしないほうがいい。
子供のころ、かなりヘビーな、難しい技術を身につけるためにね。声の場合は、僕はあまり賛成できない。もっと先にいって伸ばすことはいくらでもできるから。その時期は声変わりを中心として、前も後も急速に変わっていく時期だから、そんなときに中途半端にいじってもだめですよね。声変わりがすんで、中学高校になっても、まだ少し変わります。成長がとまるのは20歳前後、大学に入っても遅い人はまだ変わるわけです。
大学に入った学生でも、声楽の、18,9歳で入っても、まだ厳密にいうと、変わる可能性がある。呼吸機能のピークはだいたい18,9歳で、そこから先は下り坂ですから。人間の喉頭の声帯を動かす軟骨や何かでも、25歳くらいになると老化現象を起こす。そこから先は下っていく。肺活力は生まれつきの素材がいい悪いといっても、せいぜい20代の半ばがピークであとは下り坂ですから、そこから先はいかに訓練が大事か、教育が。いい子だとちやほやされても、30歳すぎればもうダメ。
Y:実際には2,3日声を休めれば治る場合もあるし、突発的に起こった場合は、たいてい何もやらなくても治るかもしれない。だけど、ある程度日にちをおいて、じわじわとだんだんに悪くなってきたというのは、ちゃんと治療をしなければいけない可能性の方が多いですね。結節かポリープか。
小さいうちは、ちょっとしたかすれですんでいるけれど、どんどん無理をして使っている間に、少し大きくなってきて、ある大きさになったときにポツンと、急に大きくなることはありうる。だから経過が長いか短いかによって、一つは判断できる。急性でパッと起こった場合には、風邪だって起こります。
そういうときは2,3日休めれば、たいていの場合は直ります。休んでいるなら、治療したほうが早いでしょう。病院が遠くて行けないとか、そんな暇はないといえば、学校に行かないで2,3日休めること。それで治らなかったら病院に行く。
だから、比較的急激に起こった場合の症状は、だいたい治る場合が多く、一週間目安くらいです。じわじわ悪くなった場合は、一度チェックする必要がありますね。
MC:それは、喉に無理をさせているからですか。
Y:かすれるという症状は、いろいろな病気で起こります。たとえばポリープや結節や癌ができたって、声帯自体にいろいろな症状が起こっても当然かすれる。声帯にまったく異常がなくても、声帯を動かす筋肉なり神経なりが麻痺を起こせば、閉じないから、そこから息が漏れればかすれますし、風邪をひいて咳をしていても、かすれるでしょう。ですから、かすれるというのは症状だけであって、そのかすれを起こす病気というのはたくさんあります。
大まかに言えば、声帯自体に病気がある場合、もうひとつは声帯に異常がなくても、周りの機能、動かすほうの声帯を、筋肉なり神経なり、調節するほうの側に問題がある場合もかすれます。それぞれにたくさんの病気があります。神経麻痺とか甲状腺の病気で麻痺を起こすとか、神経や筋肉が動かなければ、当然息が抜けてしまってかすれる。これは外から見てもわかります。かすれという症状しかわからないから、これはのぞいてみないとわからない。かすれだけで何の病気かと判断するのは難しいでしょう。たくさんあるから。声帯をのぞいてみれば、すぐにわかることですから、それは原因をはっきりさせて、そちらの対象の治療をしなければいけない。
MC:心配なのは、ある人が病院に行って、ちょっと腫れているからといっても、放っておけば直るといわれる。
Y:いい加減な、内科の医者なんかは、実際に見ないこともあるようですからね。実際に確認していないというのは、ちょっと心配ですけれどね。やっぱりちゃんと信頼できる病院に行って、しっかり確認して、今、ビデオでも何でもとりますから、のぞいてもらってしっかり確認した上で、どうだったということを聞いてください。
○薬は使わないように
F:市販の薬はどうご判断されていますか。
Y:基本的には、まずあまり使わないほうがいい。
F:いろいろ出ていますよね。トローチから漢方薬から。
Y:とにかく徹底的に風邪薬でも何でもやめたほうがいいと極端なことを言う人もいる。声のためにとってはあまりよくない。たとえば風邪を治す場合は、どうしても咳が出たり熱があったり、そっちを治す、やむを得ず使う場合はしかたがない。元が病気を治さなければいけない。そういう場合は、最小限度、この場合はこれだけは必要だと、39度40度、熱が出ているのに、抗生物質を使わないというのは、どうしても必要な場合にかぎって、限定された薬を使うべきときには使ったほうがいいけれど、まず原則として薬はあまり使わないほうがいい。特効薬なんかはありませんからね。最近、やたら使うんですよ。
F:今、たくさん売っていますものね。
Y:耳鼻科の病院でも、ステロイドなどやたらと使うところがあるのです。却ってそれで悪くなる場合があったり、喘息なんかで、急変すると、内科の医者とか耳鼻科の医者も使う。
F:最悪のとき、舞台の直前に使うものですね。
Y:あれは非常に危険があって、喘息持ちに内科で使っていた薬、十何年も使っている人が、最近は増えてきましたね。
F:トローチなんかは直接喉に関係ないから、胃を痛めるだけだというお医者さんもいれば、いや、飲んでおいたほうがいいというお医者さんもいる。
Y:トローチなんかだったら、うがいもそうですけれど、食道にいってしまうだけです。気管の入り口に声帯があるわけですから。気管に蓋となって、その蓋の上をすべって食道にいくだけです。うがいやのど飴というのは、そういう意味ではまったく意味がない。
F:合唱団とか必携しているじゃないですか。
Y:後ろから見ると、喉頭蓋という蓋がこういうふうに倒れる。だから口のほうから食べ物が入っていくと、こっちに入ったら窒息する。この蓋の上をすべって、食道のほうへ食べ物がいく。この蓋がされている以上、声帯から気管のほうへはまったく遮断されてしまいます。食道や胃のほうには薬がいって、こちらには届かない。結局、食道にいってしまうから、肝心なところには届かないというのはあります。
MC:食道にいくだけなんですね。
Y:気休め。でも、口の中が乾くということもあるので、その場合は意味があるでしょう。いろいろな薬がやたらと出ていますが、最小限度で必要な場合に限って使ったほうがいい。薬は効力があるかわりに、副作用もこわいですから。副作用がない薬なんかないですからね。効果があると副作用の問題、特にステロイドの問題があります。
○トレーニング
Y:やっぱり年数をかけてやっていかないとね。講習を受けても、自分がわかったと思っても、わかったつもりになる人、早飲み込みする人はいるんですけれど、早くわかったという人にかぎって、早く忘れてしまうのですよね。何年かやって、自分では覚えが遅くて、人に追いつかないという人にかぎって、コツコツやっていることで、かえって確実に定着していく。ですから、早く覚えればいいというものではないと、つくづく思っています。
F:タイプもありますね。
Y:そうですね。簡単に楽に覚える方法なんてないんだから、時間をかけて、自分の体でコツコツ積み重ねていくしかないんだというのですけれど、なかなかそれは、早くという気が先にきてしまう。誰でもそれはありますけれど、どうしても、せっかちすぎて。
だから、日本の歌の人たちは、外国のいろいろな有名な歌手のレッスンを受けに行くけれど、3日やそこら受けに行ったって、そんなに簡単にうまくなるわけではないのです。近道をほしいと思うのは、わかりますけれどね。
そういう意味で、息の長い、それが必要だということがわからないといけない。特に、声の問題なんかも、発育の問題とからんでいるから、たとえばピアノだったら、小中学校で大人と同じ曲を練習させられてできても、楽器が違ってくるから、どうしてもそれは同じ使い方では通用しなくなるということがありますね。それを頭に入れて、計画しないといけない点がある。特に人間の聴覚と、言葉の問題、音声で歌う話すという場合に、動物実験ができないというのが、他の分野と比べると違う。そこはどうしてもネックになってしまって、動物実験でできても人間で果たしてそうなのかどうかということは、実験できないところが難しい。だから、基礎的な問題は問題でやるしかない。
F:固体差がどうしても大きいですからね。どうしても我々も無理だと思うと、科学に頼らざるを得ない。要は自分でできたことが、相手ができるとはかぎらないという。
Y:音大の先生も、自分がやってきたことは教えられるけれど、生徒の一人ひとりの素質がわからない。この生徒にはどういうことをやったほうがいいのか。どういうことをやってはいけないのかということ。ある有名なテナーが書いた自伝みたいなものが出ていますが、彼はずっと学校で教えることを断ってきて、ミュンヘンやベルリンから誘われても、私はまだ教える資格がないと言って、教えることの難しさ、怖さはこれは自分がやったことを生徒に押しつけても通用しないということです。生徒一人ひとりの個性がどこにあるか、いいところはどこにあるかということを見つけて、それを伸ばしてやるとか欠点を直してやるというのは先生がやって、自分がやってきたことを真似させるだけだったら、コピーをつくっているだけでは意味がないし、コピーのままでは悪いに決まっていると、彼は断っていると書いてあった。本当に難しい。
F:難しいです。結局、7年10年と見てみても、違うやり方だともっと早かったのか、でも他のやり方よりよかったのかという検証は、なかなかできないですね。一生の中で一度しか、その時期になれない。よく年齢をとってから、発声法にひらめいたとか、どこかの先生のところに行って開花したというけれど、それまでの積み重ねがあるからで、そうなる。
Y:そうなんです。結局、無駄にはなっていないと思う。遠回りしても、遠回りしたためにいいものが見つかったということもある。
F:ところが日本のトレーナーというのは、このやり方が正しいんだと、若いときに教えるから。
Y:それが通用すると思い込んでしまうところが、難しいところですね。
F:本当にそうなんですね。間違い、自分は、あるいは先生は間違っていた。あっ、ここに正しいのがあったとなってしまう。
Y:若いときはイタリアに留学したりして、コンクールで1位になったりして、ずっと教えていた時代というのは、何となく自分ではできていたけれど、だんだん歳をとってくると、それでは通用しなくなって、それで何が大事だということがやっとわかってきたということがあるのですね。特に、足腰。
結局、土台づくりができていなかっただけで、建物でいえば、上ものの建物はできていて、土台がしっかりしていなかっただけだから、土台を入れ替えると、前にやってきた勉強したことは役に立つわけですね。まったく別なものをつくるわけではない。
F:そういう方はどこに行っても、学ばれますからね。あまり押しつけない先生であれば。
○体壁振動と個性
Y:劇団○○は、できたときから知っているのですが、いつも、歌が下手なのと踊りがだめだとばかり言っていた。最近踊りは良くなってきた。バレエをやっている子が出てきたから。依然として歌がだめだと思うのが、歌が悪いといっても、芸大や宝塚を出てきたりするでしょう。そうするとすぐわかる。あいつは芸大のクラシック、こいつは宝塚、まったくそのとおりで歌う。まだ生え抜きの地声で歌っている子のほうが、多少どなって日本語的で、マイクがあるから共鳴なんか考えなくとも、ああいうほうが人間らしい。
F:原調でやるから、高いところを出すのに声楽家でないと、出せない。けっこうソプラノの声が好きなのですね。
Y:まだ、他の劇団に比べればいいほうかもしれない。努力しているほうです。
F:発声の流れよりは、言葉の発音を重視する。
Y:元々、芝居の劇団ですからね。芝居をやっていて歌に転向したから、かなり無理があると思うのです。
F:どこもドラマがないまま、最後までいくんですね。
体壁振動ってありますね。いわゆる群読なんかで、もの足りないと述べられていた。あれが日本人は、言語で鍛えられていないから、弱いですね。声楽家なんかは、正にそうですね。
Y:特にミュージカルなんかは、足腰を使わないと、振動は使えませんよね。
F:たぶん、役者出身の人で、音楽的なセンスがある人は比較的まともなんです。ところが声楽とかアナウンサーとか、日本で求められる基準が、ちょっとゆがんでいる。
Y:そちらのほうで、ちゃんと稽古をしていなかったから、こっちだけで歌でも芝居でもできると思っています。それで、台詞のテクニックとか歌唱のテクニックとかをやっているから。声の出所のところをやっていない。若いうちは無理して出ても、ちょっと歳がいくともうだめです。やっぱり基本がないからでしょうね。アメリカやイギリスでも、ミュージカルは基礎を徹底的にやられますよね。
F:外国に行くと感じる、ミュージカルやオペラ歌手と、日本人との違いは、日常の声の深さの違いと、それから彼らはロックを歌おうがしゃべろうが、演奏に影響しないのです。日本の声楽家はちょっとしゃべると、喉に悪いとか、ひ弱です。我々はポップスだから、そういう考えですけれど。
Y:エルヴィス・プレスリーなんかが歌っている体の使い方というのも、アメリカの学者にいわせると、あれは彼にとっては一番いい、フルボディサポートといっていますけれど、体全体で支えている声だと。彼にとっては一番いい。
あれを皆、真似してよいとはかぎらないけれど、彼はああいうスタイル、形が出やすいし、一番表現しやすいのであったのだろうという話が書いてありました。やっぱり下半身が使えないとだめですね。
F:この前のH先生は、ロックの姿勢を説明していた。他の人には真似ができないけれど、そのアーティストにとったら、それが一番いいというのがあるのでしょうけれどね。
Y:自分で、こういう形が一番いい、やりやすいということをそれぞれ勉強して、そのためには一応基礎的なことはやって、それから自分の体でどう受け止められるか、自分で表現するには、どういう使い方がいいのかということを考えることでしょうね。
やっぱりはじめからああいう形で真似をしていっても、だめですよ。基本は基本で教えて、体のどこがどういうふうに使えないと、ちゃんとした声ができない。
子供のときから、小学校や中学校で、体操のときや何かに、そういうものを入れればいいと思う。何も音楽や国語の先生ではなくて、いろいろな分野であるでしょう。体操の先生だって、たとえば平行棒の上で歩かせる。体の重心の取り方というのがある。やらせればわかるわけです。子供には子供のかたちで覚えさせないと、はじめから難しいことを言っても通用しません。ひとつの遊びや運動と組み合わせてやらないと、子供たちには通用しない。
F:リズム感やダンスはよくなりましたよね。小さい頃からやっていますから。
○教師の問題
Y:声が小さい子に大きな声を出せと言ってもだめなので、「声が小さいけれど、よく聞こえるから。それはそれでいいのだけれども、こういう出し方をしてみたら」と持っていく。
現状をけなすことが一番悪いと言っていますね。小さいから大きくやれと言っても。思春期の、中学から高校の子供たちも。
お父さんに似ているとかお母さんに似ているとか、親を引き出すのが一番悪い。一番反抗期のときに、口にしてしまうのはいけないと言っていた。
僕らはこういう声のことをやっているのですが、実際にはすべてが入っているのです。心理的な面も入っていかなければいけないし、それを子供たちにどういうアプローチをしたら受け入れられるかということを考えないと。
だから、今の小中学校の先生たちを教育しないとだめなのです。でも、先生たちの声がひどいのです。先生たちがそんなひどい声でしゃべっていて、子供を指導できるのかといったら、嫌な顔をしていましたが。先生たちが授業をやるときに、やるべきことをちゃんとやっていない。先生が生徒に教えるといっても、教え方がわからない。先生たちの教育が先。
MC:喉を痛めるという話ですけれど、学校の先生は結構多いですよね。
Y:多いです。
MC:音楽の先生にかぎらず。
Y:普通の学科の先生は、もっとひどい。代議士と政治家と教師が一番ひどいと、ある外国人の教授が言っていた。教育学部で、学校の先生たちを養成するところで、卒業して先生になったなら、こういう声で授業をやれという指導をしないとだめです。教育実習なんて、2,3週間、授業をまるごとやらせるだけでしょう。
MC:単に舞台度胸をつけるだけですよね(笑)。
Y:あんなことは卒業して行けば、すぐわかることですよね。
F:今、一番厳しいのは、日本語教師。外国人に教えようとして、授業にならない。発声は資格とるのに要らないのです。知識だけでよい(笑)。
Y:そういう意味で、本当は教員養成のコースに入ってこないと。能率が悪いんですよね。
F:落語の勉強なんか、人前で話す勉強をすると、必要性ってわかるのですが、必要性を感じている人がいないのですよね。日本の場合は、しゃべれなくても突っ込まれなくてすむ。
MC:そういう意味では、先生たちが関心持つのは、声でなくなったときにどうすればいいか。放っておくと、またそうなるというのを解決するにはどうしたらいいか。これには、関心を持っていると思います。
Y:一時的に、突発的に悪くなったときには、治療は必要ですけれど、それを悪くしないためにどういうことが必要かというのは、ある程度知っていたほうがいいし、知らないからそうなるんですよね。
MC:それがまた、子供たちの教育につながってきますからね。
Y:たとえば教育系の大学で、卒業して現場に赴任すると、先生の仕事をしなくてはならない学生に授業をやるときに、どういう話し方、発声でやれということを教えておけばよい。
その先生が小学校1年の学年を持って、生徒にある程度教えられる。生徒が大人になったときに、自分の子供に教えられる。それができて、はじめて、100年はかかるけれど、やっと結果が出ると思う。だから、まず一番手っ取り早いのは、年数はかかるけれど、教員養成大学の中に、発声を持ち込むことが、一番大事ですね。これも文部省が動かないとできない。
F:考えるまでもなく、声変わりの問題は、音楽の先生や合唱の指導者だけの問題ではないですものね。家庭、学校のまわり全体の問題ですね。
Y:たとえば、簡単な言語障害がありますよね。「サ」が「チャ」になるとか、「カ」が「ダ」になるとか。舌の位置で直せる言語障害というのは、子供たちにたくさんいるでしょう。これは、学校の先生が気をつければ、すぐに直る。
5,6年生になっても、まだそういう子がいて、それで、学校の先生が連れてきた。生徒に聞くと、「今まで1年に入ってから、学校の先生から何か言われたか」と聞くと、「何も言ってくれない」と。知らず知らずのうちに5年6年経ってしまった。
早く気づいたところで、簡単にやれば、すぐに直ることです。長く放っておくと、だんだん癖になる。そのときに、もっと早く学校の先生のほうで気をつけてもらえれば。そういうことがあったという話をしたら、学校の先生は、そういうことを言うと、父兄が文句を言ってくる。うちの子供を身体障害者扱いしたとか。
これは言い方が悪いんだと思う。皆の前で言う必要はないと思う。こっそり父兄を呼んでやってもできることです。学校の先生が直せなければ、いろいろな施設があるから、そういうところを紹介してあげる。
先生側のほうから言うと、そういうことを言うと、父兄のほうから文句が出てくる。父兄を集めて学校に何を求めるかと校長が聞いたならば、しつけをしてくれと、9割。勉強はどうするかというと、塾でやるからいいと。お母さんは、私たちはカルチャーで忙しいと。そういう親たちですから、世の中、恐ろしいなと思います。
F:企業研修でも、あいさつを教えてくれというのがあります。発声でなくマナーの問題。そんなことは社内でやらないとは。会社や上司の方が問題。先生のところは吃音や方言で来る方もいらっしゃるのですか。
Y:います。僕ができる範囲ではやります。本当は、然るべき施設と、いろいろなネットワークをつくっておいて、それでどの地域だったらどこに行けと。
F:言語療法や音楽療法みたいなものが組織だって、すぐ資格になっていったのに比べたら、声はとても遅れている。音声の基準も、専門家もあまりにバラバラ。
Y:そう。それといなくなっている。養成するところがなくなっている。声帯も手術すればいいというものではない。全身麻酔でできるようなものですから、やったために後で悪くなることが、かなりある。削りすぎてしまう。取り残している分にはまだやり直しがきくけれど。機械だけがよくなっても、その分、医者の腕が落ちているから(笑)。
<VOICE OF STUDIO>
レッスン感想
★自分の準備次第で、音程が悪くなってしまうことがわかったこと。流れの中で、それぞれの音と音の差に注意。(8/1.W.KU)
★高音発声練習 あぐらかいて体を使った声になっているか確認しながら。だけど、いまいちよく分からない。最も高いとこを出すとき、音を下からずり上げてしまっている。ちゃんと一発で音に届かなかったりする。発声ポイントを、あらかじめ明確に置いておくこと。(8/3)
★フレーズ内で途切れる。フレーズが不安定。体を使うことを意識せずに、眉間の方に響きを持ってきてみる。フレーズのなめらかさ、安定感がやはり課題。また体を使って発声しなければいけないと考え、その方向に意識が行き過ぎていたように思う。あくまで今後より良い作品を作るための途中経過としての歌い方であり、その歌い方が答えではないということを忘れてはいけないと思った。(8/7.V.F)
★ラで。次にイタリア語で。深く吸った息をその場所から来た道を通って前へ出す。吸った息が入った所と、身体から出た声の出所が違ってしまう。言葉を付けた時は特に。フレーズの中の一番高い音は、抜かないで出すように。言葉を付けた時は「縦の口」を常に意識する。音によってポジションが変わらないように気をつける。(8/11.個人.H)
★歌=演技だと思うけど、自分の中に気持ちを押し込めてしまう演技ではなく感情、伝えたいことを常に前に出すように。自分の歌は、歌の中に自分の表現(=魂のようなもの)が入っていないように聞こえる。ただ歌を歌っているだけ。メロディをなぞっているだけ。歌を強く動かしていく、自分の意志、表現が入っていない。自分にその気がないのなら、理由もなく無駄に音を伸ばしたりしないこと。楽譜では伸ばすことになってるからとか、他の人は伸ばしているからとか、そういうことでは何も入らない。自分の意志で歌い、それで動かしていくこと。歌わされて歌っているのではないはず!「セレーナ」 直線的でまわってない。浅い。放りっぱなし。線で繋がっておらずバラバラ。最後のとこ、「ノーン ティーン ポール ター バー ピゥー」と全部ひとつひとつバラバラに放ってるだけ。(8/14)
★一流の、プロの人のを聴く勉強の中で、一曲通しての構成を聴きとっていなかった。構成と結びつくことだけど、どこを一番伝えようとしているのか聴き取れていなかった。しっかり聴くと、声の音色が違っているのが分かる。より表現(魂のようなもの)が入ってるところの声は、強くて深くて絞り込んである。自分ので比べると、体も魂も、全然使っていないのが分かる。全身全霊とは、どういうことなのか。全身全霊で歌われている。聴く人の心も持っていかれるように、強く動いている。
★日本語だと、イタリア語で歌うようにはいかず(未熟ではありますがイタリア語だとそれなりに深い声の自覚があります)、明らかに浅い声になってしまいましたが、日本語の子音は無視し、母音だけで歌ってみてと指示されたところ、これが自分でも声が抜けているのが分かり、驚いたと同時にとても新鮮で為になりました。私の目標は日本語歌詞でも深い声で歌えるようになることなので、積極的に母音のみ発声トレーニングを行い、ゆくゆくは子音を入れても深い声になるように努力したいと思います。さらに私は時々、中音域の声の時に、かすれるというか、変な響き?のような感覚があるのですが、それを相談したところ、高音域の声では気にならないし、中音域も聞いていても気にならないので、それを個性をして捉えてみては、との返答をいただき、ある意味安心できた部分があり、これからは自信を持って声と付き合っていきたいと思います。これまで、深い息、深い声を出すためトレーニングをしてきまして、まだまだ未熟ですが中音域や高音域は自覚できるようになってきましたが、低音域がとにかく苦手です。トレーニングしていけば、そのうち響いてくるようになると言っていただいてはおりますが、どうしても力を入れて声を出そうとする自分がいます。力まずに、息だけで声を出せるようになるのが今後の課題です。さらに、私の歌い方に関して、フレーズから盛り上げて、次のフレーズに移行するという歌い方が下手です。今後はこのメリハリのない歌い方を改善し、滑らかに、波のある歌い方ができるようにすることが課題です。(8/20.V個.H)
★「ギター静かに」を原曲に合わせて歌う。原曲は、語るように歌っているがメロディーの良さなど音楽的な面も伝わってくる。初めて聴いて歌う曲ということもあったが、音程などに意識がいって、歌詞の内容、音楽面ともに表現できなかった。また原曲は肩の力が抜けていて、発声や技術を感じさせない自然さがある。(8/21.V.H)
★プロの人のを聴くときに、表面の、声として出ているところしか聴けていないから、自分で歌うときにも、その部分でしか歌えない。(それは、声が大きく聞こえてくるところだけ、大きな声で歌うことで真似て、どういう理由で大きな声になっているか、どういう流れでこうきているのかなど考えていないから、突然、声だけ大きく飛び出して、流れにそってない。流れを作る線を描けていない。)聞こえてくる表面の声ではなく、その奥にあるもの、ベースとなっているものを聴き、その身体感覚、心理的感覚を自分の中に取り入れること。その部分で動くこと。(8/26)
★母音だけで歌う事を少しだけやりましたが、母音だけの歌い方の予習を集中的に行っていたため、自分でも声が抜けている感覚があります。ただ、立派な声を出そうとごまかしたり、力が入ってしまったりするのですが、ことごとく指摘されました。発声は、あくまで力が抜けている状態で、そして下から声を出すことを徹底して心がけたいと思います。更に、私が苦手とする低音部の声は変にこもってしまっているようですが、前へ声を出すイメージが足りないと指導されました。今後は、力まずに、そして前へ前へしっかりと声を出すイメージを持って、トレーニングしたいと思います。これまで私は、深い息、深い声の指導を受けてまいりまして、まだまだ未熟ではありますが、だいぶ深い声になってきた感覚があります。今後もトレーニングを続け、低音から高音まで、ベストの声が出せるようになるのが目標です。ただ、その裏側で、普段歌うロックやポップスを歌う時、特に高音部で、どうやって声を出したら良いか分からないというか、迷うというか、そういう感覚に悩まされる時があります。しかし、もがいている内に、時々深くて高い声が出る時があります。その声は、明らかに今まで自分が出してきた声ではありませんが、かなり自分の理想に近い声であることは確かです。すぐには無理でしょうが、今後も、もがき、苦しみ、迷いながら、自分にしか出せないような声を手に入れたいです。(9/3.V個.H)
★前回より歌詞やメロディーが入っている分フレージングを意識できたが、何か作らなければいけないと考えて思い切りが悪くなってしまった。また、結果的に迷いながら始まって、後半になって力が入るというようなフレーズになってしまっていた。今の時点ではフレーズのイメージがすぐにできないので、量をこなす必要があると思う。(9/4.V.H)
★展開をどう表現するかがポイント。抜けた後はそれまでの部分とメリハリをつけて、しっかりとグルーブを出さなくてはいけない。曲の最後の高い部分では力が入ってしまい、そこまでの声質と違ったものになってしまっていた。フレーズごとに曲が途切れてしまっている。曲全体のイメージをしっかりと作り、最後まで途切れない集中力を持たなければいけない。(9/4.FP.F)
★−低音を扱う事の難しさ−やはり何度も感じたが、YよりWの方がテンションを上げづらい。Yは一度かなり上まで出すのでその感覚で低音も出せるが、Wはそうはいかない。高音よりはるかに気を使わないと、とくに下降フレーズですぐフラットする。低音で、どれだけ息を声にするかのバランスも難しい。あとは休符の後の音は、どんな音程も基本的に難しい。気持ちが切れて、大体フラットする。短3度の音程はかなり苦手。しかし、慎重に何回かやれば一応出来るのだ。つまり、心がけ、意識の甘さの問題が大きいと思う。その高い意識を保ち、繰り返す、今はそれが肝要だと思う。(9/5.W.KU)
★歌練習 表面だけで歌うな。線を描く!(9/5)
★集中するとは言っても、目の前のフレーズにだけ捕らわれていては駄目。繋がっていかないうえに、遅れたりする。山の頂点を見据え、そこを目指して、そこに達して、そしてそこから降っていくような線を先に描いておいて、そのイメージを声にして出現させる感じ。活きてる声で!(9/6)
★V一回目ということで主にカウンセリングでした。自分のオリジナル曲をアカペラで歌ってと言われ、歌った時に歌う時のテンション、集中力を指摘されたことが良かった。課題:レッスンに対して、本番のステージと同じ集中力で挑むこと。(9/8.V.H)
★前回の反省を活かし、フレーズの頭からしっかり入ることを意識した。しかし、まだフレーズの最後に力が入ってしまい、グルーブに欠ける。原因は、思い切って入った後どう終わっていくかというイメージが無いために迷ってしまうこと。もっと歌い込んで、自分なりに良いと思うイメージを固めておかなくてはいけないと思った。(9/11.V.H)