会報バックナンバーVol.180/2006.06


レッスン概要(2004、2005年)

■講演会

○調整と器づくり

 プロの方は、ここに一人の世界に、はまってきてるのではないかなどいうようなことでくるのでしょう。普通で歌ってたらそれだけで、もう持ってしまうのです。ここで聴いていたら、プロだなぁと思ってしまう。
 それをどうするかというと、より強くしたりより長くしたりしてギャップを本人に見せるわけです。

 例えばこういうフレーズを与えたらさすがにこういうふうには歌ってきてないから、どこか破綻するわけです。例えば2秒とか3秒でフレーズをいっているのを8秒にしてみたら、後ろのほうになったら息が持たない。そうしたら体を作らなければ呼吸をコントロールをもっとしなければ、不明瞭になってしまう。
 あるいはより強くぱっと入ったときに入りきれなかったりする。そういうところというのは基本の条件が欠けているということです。わざわざ欠点を突きつけるわけです。

 今日も先ほどまでプロの人とやっていました。こうやって最後の音が少し大きくなってしまう。これが今からステージいきますという人だったから、ここの大きくなるところは無駄に耳に響いてしまってバランス悪いから小さくしなさいと教えるわけです。
 ところがステージがないか、あるいはステージと切り替えて練習できる人には、ここでこの大きさがあるのだったらこっちのほうにもっと大きなものをきちっとつくっておいてこう納めないといけない、これがないからここが目立ってしまうといいます。

 だから調整していく教え方と器そのものを作っていく教え方というのは全く逆なのです。要はあらを見えなくしてしまうことをやるのか、あらたげていくのか。
 音程でもそこをとれなかったらカラオケの場合はそれを覚えなさい、この音だよ、となります。ところがそこで覚えたといっても、それはなんとか覚えただけだから意味もよくわからない。反射できるようにしただけです。大切なことは、それがなぜ起きたのか、そのようなことが起きたらおかしいことが起きる理由です。

 レベルの高い人であったらそういうことは起きないはずです。そうしたらもっとベースのことを入れていくしかないのです。
 そういうことが起きないようにしなくてはいけないわけです。そうじゃないと次の曲になったときにまた違うところで起きるわけです。当人の中できちっと身についてることではないからです。

○成り立つのが表現

 今は普通の歌い手の勉強をして役者や声優やアナウンサーやナレーターの人にプラスになるとは思わないです。カラオケ教室に行ってヴォイストレーナーについて発声やってみたって、ただの歌でしょう。成り立っていない。ここの場合はそうじゃないです。
 こういうことを歌の中でも壊してやることによって、生かすのです。歌い方を歌の中ではやらせません。こういうことから得られたことを使えばいいのです。

 日常だって、役者であろうが声優であろうがナレーターであろうが、声を繊細に丁寧に扱うということにおいては同じなのです。
 セリフから入って勉強するのもかまわないし歌から入って勉強するのもよいのです。
 要は声が相手にたいして伝わるようにどうするかということです。練習としては伝える努力をし最終的に伝わるようにしていかなくてはなりません。荒たげるのは、成り立ちをみるためにすぎません。

○一声でみる

 勉強すべきところはこういう出だしのところです。みなさんの声域でも声量でもカバーしてるはずです。でも多分やってみたときにここまで伝わらない、日本のプロの人がやってみてもここまで伝わらないです。みんな歌える、歌えるけど伝わらないということは成り立っていないということです。

 泣いてるように歌ってるからでは泣きまねで歌ってみましょう。といってそんなもので通用するわけではないです。その人のこれを持ち出すところの世界観があって、それにそって歌が作られる。その呼吸に伴って声が出て伝わっています。
 伝わるものがあって、それが息と声が邪魔してないというような形です。
 途中のところですごく大きく出したりしているのは、それだけの大きさが最初からあるのに使っていない、全体の構成のことです。
 ヴォイストレーニングで考えるのであれば、その小さな声を本当に生きさせるためにはそのくらいのバックグラウンドがなければ出せないのです。本当に小さな声で演技するためには、出せるだけの器を持っていないと。
 それは大きいとか小さいということではないということです。日本ではほとんどそういうところでのチェックというのは、なされてないです。その人のひとつの才能というのは、伝わっているとか伝わっていないとかのレベルになります。

 誰にも教えられないでやれてしまっているのは、ひとつの才能かもしれませんが、外国にいくときちっと系統的に勉強しています。ポップス史を勉強し、それぞれの歌い手を分析し曲の中でのよさ悪さということを徹底して聴けるような耳することを最低でもやっています。バイオリンやピアノではやってるわけですから、それは当たり前の話ではないかと思います。

○真のオリジナリティと北島三郎さん

 ただ歌の場合は日本の場合は成り立たないのと、なかなか成り立つ見本が使いにくいです。
 北島三郎さんの昭和40年頃の「函館の女」、あの頃にはいかに天才的な感覚のフレーズで歌っていたか。カラオケでやっている人たちはみんな大きな声を伸ばしたり大きく歌ったりしますがそんなものではないです。本当に鋭い感覚の微妙な節の回し方です。
 演歌というか日本のリズムが完全に入ってないと私たちがやってもそれっぽくはなり、絶対にああいう爽やかな感じにはあがらないわけです。一流の声楽家がやってもできないのです。そういうものを持ってして才能というのか表現というのかわかりません。そういう感覚を磨いて声の使い方をやっていた。

 ただ日本の場合は他の歌い手もみんなそうですけれども、デビューのころは一番いいのですが、その後はそのやり方でやっていってしまいます。そのやり方が見えてしまったところに、カラオケもJ-POPSもそうですが、限界となる。
 今は平井堅や冬ソナの劉さんの歌い方が流行ってきています。でもあれで味を出すというのは普通で歌うより難しいですね。
 最初にやる人はよいですが二番目からみんなだめになってしまいます。それはその人のオリジナルなのであって、トレーニングのところでは他人のオリジナルやコピーはやれません、もっと基本的なことをやらなくてはいけません。

○感覚は簡単に変わらない

 誰でも洋楽は聴いてるしJ-POPSでも本来は向こうのリズムに乗っているのですが歌うときにそうならない。それは聴いているようでいて聴けていないのです。「non so mai」あるいは「felice」といいなさいといわれて「ノンソマーイ」や「フェリーチェ」と言い直してしまうのです。
 勘のいい人でも二年くらいかかります。たまに相当洋楽がうまくてプロで一年くらいでなんとなくそんな感覚になる人がいます。声量などはないけど、プロでリズムがよいということでやれている人などは比較的早いですが、普通の人は2年で変われば早いほうです。
 言うとわかった気になるし、やれている気になるのですが作品として現れるというレベルになると2年で出れば早いほうです。比較的優秀な人がここにきて2年で変わればよかったほうです。

○応用力をつける

 そのトレーナーについたことが本当の効果あれば次のトレーナーについたときに全部対応できるはずです。要はトレーナー自身考え方もやり方も違うし目的自体も違う場合が多いです。でも本当にその人の力がついてるのであれば、そのトレーナーのようにできなくてもかまわないし、そのトレーナーが言う通りにできなくてもいいのです。
 ただほかのトレーナーについたときにこういうふうにやりなさいと言われたときにその日にぱっとできてしまう応用力があればよいのです。

 現場とはみんなそうです。声優も何が足らなくてくるかというと、いろんなマニュアルもやり方もわかるのですが、ベテランと実際に現場に入ったときに、そんな言葉もマニュアルもない、その現場で伝えるということをやっていけるかということです。自分がやっていると声が疲れてきてしまったり相手が望むようなインパクトをそこで出せない、ということは何もやっていないということなのです。
 学校に行って勉強することと違うことがたくさんありすぎる。本来はトレーニングというのはそういうことをやらなくてはならないのです。なのにそういう部分があまりにもないのです。

 現場によって用語もやり方も違うのです。だから何も考えないほうがよいのです。きっとこうだろうと学校は教えられるような所だと思ってしまうと、とんでもない間違いを起こします。
 ただ勉強ということだとそれがパターンということで知っておくのはかまいません。
 現場で問われるのは応用力です。「もう一度やってみてください」、「もうちょっとこういうふうに」とかいろんなことを言われたときにあるいは言われなくてこちら側が相手がこう出たらこうなんだなと気付くような力と勘です。

○身内を入れないこと

 お笑いの吉本興業では勉強のベースはマーケティングです。世の中で流行ってる商品とか新しくできた店を教え込みます。それは時代を知ってなくてはいけないということです。
 もうひとつは自分の力で客を集めるということです。いっさい身内は入れない。身内はカウントしないで千人集めるのです。これは大変なことです。集めてくれてるように見えていても、自分で最初は集めます。けっきょくは自分たちが価値を第三者にどこで認められるかということをはっきりさせていくのです。

 お笑いがうらやましいのは反応がすぐ返ってくるからです。日本の歌では、成り立たないというのはないでしょう。歌ってみて拍手がこないとか途中でブーイングが出たとか途中で客が席立つということはありえないです。どんなレベルの歌でも。だから歌い手もわからないのです。身内でしかやらないから、ほめことばしかない。
 それはよくないことです。お笑いと同じでレベルが低ければブーイングがくるべきです。
 外国は音楽も同じですから当然客が主権を持っています。お金を払ったんだからお前引っ込んで早く次のいいやつ聴かせろというような態度です。なぜ日本では守られるのかよくわかりません。みんな音楽に対してはみんなそんなに期待してないんだろうなと思ってしまいます。
 昔のカラオケのほうがよっぽどよいです。何かつまらないといって他の客がいなくなってしまったり、すごいなと思ってみんなが近づいてきたりとかしていたのです。

○デッサンの必要性

 こういう人たちはデッサンがあるんです。単純にいうと、この楽譜を渡されたときに誰にもわからないくらいの何かをつくる、それを自分のデッサンでやるために自分の世界を見せるためにどうやればよいかということを知る、そのためにデッサンの練習を一番しなければいけないです。その基本デッサンがあっていろんな曲に応用できるということだと思います。

 せりふも全部、声でやってしまうと伝わらなくなってしまう。言えただけです。
 練習ではよいです。役者の学校で一年目などというのでしたら。ただ本番ではタブーです。声だけ出してる、何も伝わらないということになります。
 それを息を混ぜていう発声練習をしましょうということではなくて、声にする練習をしておいて、現場では心だけの問題です。
 そのシチュエーションで役を作れるか、なりきるのかです。

○役者の発声

 役者の発声というのが養成所にあります。体に入れた声で外に出せということいわれました。どちらかというと外に出すということよりも、体を使うためにわざとそういう発声をしていました。
 何も基本がないのに外に声を飛ばさなければいけない、それで喉を痛める人をいたし、痛めながら鍛えられた人もいます。痛めたら終わりだということで微妙に使うやり方を覚えていった人もいました。
 だから必ずしも鍛えてたらよいわけではないです。成功した人はみんな自分のやり方が正しかったと言います。同じやり方でだめだった人もたくさんいるわけです。その辺がトレーニングの難しいところ、相手をみて決めていかなければいけないということです。

○テンションとの一致

 ただ言えることは研究所でも「ハイ」を勉強して、「これで正しいですか」と聞かれますが、迷うものはだいたいだめですね。それをテープに入れてみて聞いてみたってピンとこないでしょう。自分でピンとこないのに、お客さんがピンとくるわけないのです。
 「ハイ」も口先と体の声との違い、発声というのは、体で準備が必要なのです。
 それは何で決まるかというと発声できまるのではなく相手に伝えたいか伝えたくないかということです。
 悪い見本をやるとき私はテンションを切ります。どうでもいい、伝えなくてもいいとなると、別に無理しなくても喉にひっかかってくる。逆にきちっとやらなくてはいけないというときには姿勢が正され空気が深く入ります。いきなり出さないで「ハイ」というふうにどちらかというとどこにも触らないようにして出てきます。

 クラッシックでも何でも同じです。ワンクッションどこかにあってそういう部分からコントロールするのです。
 もうひとつ基本のベースでいうと再現ができることです。「ハイ」を100回やってみても変わらないあるいは100回やり終わったあとに声がよりよく出るようになっていくのであれば、それは原理にかなっています。
 ところが100回もやらないうちに喉がかすれてきたりうまくいかなくなってくるようであれば、それは雑にやっている、方向が歪んでいたりどこかに無理な力が入っているということです。

 腹式などはわかりにくいのですが、そうやって取り出してチェックしてみれば案外とトレーニングになっているかなっていないかがわかります。
 それだけの体の力がなかったり呼吸の筋力がなかったりしたら、そういうことはマニュアルにあるようなことで鍛えていけばよいわけです。
 結果的にオーライになっていくような方向を組んでいればよいのです。
 呼吸法の先生や呼吸自体を教えている人もたくさんいます。そういうものより声のほうがわかりやすいです。声は出してそこのところで、普通の人でも今のはよいとか悪いくらいはわかります。ところが呼吸法が正しいとか言われるとわからない。その先生の力もわからないところがあります。

○呼吸が合うということ

 しゃべってるからといって何か発音がおかしいなとかしゃべり方おかしいなとか方言が入ってると思っても直す必要があるかどうかは別です。アンガールズを観て、どう考えたって、あの発声や発音はないだろうと思っても、味になっていてウケるのです。あれを殺してしまったらトレーナー失格ということなるわけです。
 どういうことかというとそういうふうに応用されたところに手をつけてみても仕方がないわけです。応用は舞台です。
 ただより強く速く言いたいといったときに体がついていかないとか声がうまくいかないとかいうことがないようにするためです。
 お笑いの舞台をみたり落語家の弟子をみていたときもあるのですが、彼らの場合は日々、舞台でよくなっていきました。ヴォイストレーニングをやらなくても名が売れていったら、ことばがきちっとしてくるんです。カラオケなんかも、場を与えると自分に責任感を感じてそれなりになります。

 昔は語尾が言えてなかったけど今はしっかり言えるようになったなど、練習の厳しさが自分で伸びていく人たちはわかっていくわけです。
 ただ、漫才もみていると1年半くらいです。楽な仕事に移ってしまってネタが荒れていきます。
 テツ&トモは、日韓戦のネタはすごかったです。4分45秒でぴたっとおさまっていた。
 別にあの動きができなくてもよいのです、ただ音の世界でみたときに、組み立ててテンポひとつ間違えずにお互いの呼吸を合わせ、ひとつとして入り違いしたら成り立たないというレベルでできたのです。それがぴたっと合ってると本当に客から笑いが引き出せる。少しでも狂うとだめなのです。そういうことができる時期というのが一番強いのだろうと思います。
 本来はそのテンションで3年目5年目いかなくてはいけないのですが、いろんなところに出始めると荒れはじめます。

○声の力

 オリジナリティ、自分の作品はどういうことなのだろう、なぜ彼にそれだけ客につくのかなど、よい勉強になります。声だけの力ではないのですが、ひとつには声の力です。
 声優も落語家も5.6人の登場人物を出さなくてはいけない。それを声だけで表さなくてはいけない。身振り手振りもありますが目をつぶってCDで聴いても、5人の登場人物の声の世界があるわけです。
 声優もギャラが安いからひとり3役くらいやらなくてはいけない、するとひとつの物語で3役きちっと作り上げられる声のキャラがある、そういうところからみると日本のヴォーカルは随分と雑です。

○音楽の読み方

 読んでみて、そこからフレーズ処理と私は言っています。歌ってしまったら最後、歌じゃなくなってしまいます。読んでみて、それ以上やる必要はないのです。ポップスはマイクがあります。
 もうひとつは音楽から入る、こちらのほうはなかなかできません。イメージが必要になってくるのです、音をつくっていって音楽にしていく。
 ことばの世界を全部なくしてしまう、トランペットやピアノだったらこの歌をどういうふうに処理するかということです。伴奏を覚えておくのが一番よいです。

 基本の力がつくと3回聴いたら覚えられます。勘がよければ伴奏がどう入っていたかもわかってきます。それが入っていない以上歌は歌えないです。本当に厳しいレベルでいうと。
 美空ひばりさんは楽譜読めませんでしたが3回聴いたら全部覚えたそうです。覚えるというのは伴奏がどうなっていて、そこに自分がどう出せばよいかということ、すべての世界が走ってなければいけません。

 そういう勉強というのは自分でもできると思うのです。例えば誰かの歌を聴いてみてだいたいの場合というのはAABA、AABAという感じでいきますよね。そうすると1番の出だしのところと2番の出だしはことばは違ってもメロディからいうと同じです。楽器音で聴いて1番と2番といったい何が違ったかです。

 ところが日本の場合はことばが違ってしまうと歌い方が変わってきてしまうので、けっこうわからなくなってきてしまいます。
 要は本当は1番2番3番といくのですが、物語りとしての1番2番3番で、音楽的な構成における1番のひとつのブロック、2番のひとつのブロックという考え方をあまりとらないです。
 外国の歌でいうと1番のひとつめと2番のひとつめ3番のひとつめを全く同じようにことばがかわっても出す場合が多いです。これは楽器だったら当たり前の話です。
 だからそういうのが成り立っている、あるいはそれが成り立ってることに対して変化させていかなくてはなりません。

 AAA’だったら日本人の場合だったらことばが違うからこれは悲しいことだなという動かし方です。ところが音楽的な動かし方というのは1番がこう進んでいることを完全に入れておいた上でそれに対してどういう違いをメロディがつくっているのかとその差をみせていくやり方をとっていかなくてはいけないわけです。
 だから音楽とは常にリピートなのです。「ミミミミソファファ」と聴くと次に「ミミミミソファファ」は同じですが、「レレレレファミミ」とずらしています。
 構成が全部入っていないとずれはつくれないです。メロディでみるのではなくコードやハーモニーを含めて、例えばベース音のところの変化など。そういうのが同じだったらコードの同じところで成されているものというのは実際にメロディが変わっていても同じことを歌っているんだということで解釈していきます。

○声で創造する

 ことばをどういうふうに処理するのかは、どれが正しいとか間違いはないです。その人がデッサンを出して、それを一貫させて最後までやりつづけて、それがいい音楽だったと納得させたら勝ちです。
 その人だけの世界みたいな歌がよくありますが、聴いてるほうにはどうでもいい話なのです。その人がそういうのを歌いたくてその気になってみて、そう歌ってるだけでは、こちらはお金を払う気にならない。当人は楽しんでるけどこちらは楽しくない。そこで終わってしまう歌が多すぎるのです。

 だからそれ以上のことを起こすためにはどうすればいいのかというと、やはり創造しなければいけません、それから自分の強いデッサンを持っていかなくてはいけません。役者さんもです。
 ところがアナウンサーやナレーションの場合はそこで終わってよい場合もあります。それ以上に型を崩してはいけない。要はその人の個性があまり出ないように、そこまでに留めてやるという場合が多いです。

 アナウンサーとかナレーターの勉強というのは、マイクを最初に置いて、そこに対して入れることをやってしまう。私なんかもよく言われたのは「息吹くな」と、昔のマイクは音響が悪かったのでラジオなんかでも。今は志向性がよく、何でも入りますからどう話してもよいのですが。
 外国ではよいのです、このくらいでみんな話してますから。日本人だけ調整してるんです。日本人はマイクをつけないと歌えないですから。
 実際、声自体が集まって音がはっきりしてくるというのは12cmくらい先なのです。だからアナウンサーとかナレーションはよいのでしょうが、今のカラオケや歌い手さんは、マイクにくっつけていて不明瞭になってしまうのです。かえってむずかしいのです、声量も出せないから。

○真似してはいけない理由

 音程とか音域とか歌の中にすごい拘束されてしまってその中で苦しんでる歌みたいになってしまう。もっと体から楽な声で素直にやればよいのに。感情を移入してる分だけ息が漏れてしまったり聴こえた感じになっています。ただお客さんがそれを許してしまうのでそれはそれでそういう時代なのだろうなと思っています。
 トレーニングでは例えば平井堅さんのように優れた感覚やっている人が見本になってしまうと他の人たちはみんなできなくなってしまう、真似るほど二流三流になってしまうのです。

 真似してはいけないヴォーカルというのは他にもいます。彼らは彼らの才能のところでやれているから他の人が真似てもああいうふうにはできないしやれない。同じレベルのことやっても彼らと同じレベルには通用しない、彼らが優れているということとは少し別ですが、自分の勝負できる個性のところと作品とをきちっと絡めているという一番大切なことができているのです。だから世の中に出れるわけです。他の人がそのことを真似てしまうとよくないです。

 B'zと同じような歌い方は、B'zしか聴かなかったら何を歌ってもやはりそうなってしまいます。それでお客がつくのかというとB'zに似た歌い方は、B'zのファンは聴かないですね、B'zのファンじゃない人はもっと聴かないです。だからやっていても仕方がない。
 本人がカラオケの中で自己満足するのだったらよいです。それだったらもっとそっくりさんがいるのではないでしょうか。彼らと顔形も声質も似ていてもコピーバンドとしては、けっこう厳しいと思います。

○こなすのでなく創る

 この曲などは比較的、旋律の中で多分こういうことをやったのではないかというものが走っていて、それに対してずれをつくっていくのです。だからメロディとかリズムとかそういうものがきちっと入ってないとズレというのは創れないです。
 先ほどいったリピートに対して創造していくのと同じです。声もそうです。ベースのことをきちっとやっていなくては違う声を出したときに戻せない。戻せなきゃ納められないからせっかくいろんなことをやってもめちゃめちゃに壊れてしまうのです。
 でも壊さないよりまだましです。歌の中で創るということ自体、日本の歌い手さんの場合なかなかやらないです。こなすというのが多いのです、歌いこなすと。

 渡辺淳一さんが書いていましたが、「歌い手はよい、昔若いときに覚えた歌をずっと何回も繰り返してたら食えるのだから」と。小説家は一回書いたら全部構想から材料から集めてまた次の作品をゼロからやらなくてはいけないと。そう見えてしまうのでしょうけど。ただ私が知っている海外の歌い手は、ひとつの作品があがったらもう全部なくなってしまうのだから、同じです。【講演会 04.11.13】


■レッスン

○予兆と古典

 これはペギー葉山さんの、若いころやストレートな歌で、そういう表現を経てから段々まとめて歌われるようになっていくのです。
 名のある人は若い頃にはけっこう大変なことをやっていたのだということと、CDやTVでは判断できない、感動的な舞台をやっていた。それから時代というのが当然あります。
 こういうものから見て欲しいところはこれは応用だということです。
 昔うまいということは(昔の時代のうまさなのだから)あなたがたにとっては基本を勉強するためにはよいのですが、そのまま歌うことにはならないということです。もっと言うのであればもっと昔のこの人が見本にしたような基本を勉強したほうがよいのです。

 基本をやるというのは古いことをやる、勉強でいうと古典をやるのです、落語でも何でもそうですが。
 ここはそういう場なのです。ただ歌い手には古典をやっていない人もいます、落語家でもあまりそういうことを勉強しないでやってる人もいるとしたら、それが今ウケてるとしたら未来から先取りしてるのです。

 アーティストというのはけっきょく予兆する人たちです。先に何が起きるかあるいは今の感覚の鋭い人たちが少し先に感じていたり当たり前で考えていることを形にする。早すぎたら時代を待たないと受け入れられないです。
 今流行ってるような人たちのをみんながやってみたいのもわかります。でも今の人が今をやっているというのはもうすでに遅いわけです。そういう人たちというのは5年10年前に組み立ててきているわけです。
 お笑いでも、今のネタやっている人たちは、ネタとしては今かもしれないけれど、多分3年5年前にもう仕入れてるし、そういうスタイルをつくっている。よくJ-POPSのクセをうけたり、Ryuさんの冬ソナの歌い方そのものも、そうでしょう。

 この前きた子も海外留学(アメリカ)で勉強してきたのですが、行ってみても、確かに向こうの黒人でもそういうふうに歌う人はいるのですがベースは全然違うのです。彼らの場合は応用したところでできていて、それを真似て歌っていたら、もう本当にふわふわとなってしまいます。そういう判断をするためにやはり古典をやっておくというのはよいことなのです。
 ああいうものがすぐ消えてしまうのか、ずっと持つのか。
 あの人ではよいのだけど他の人が出てこれるのかというと。応用されているものほど、その人のオリジナル、個性です。ですからとっても意味がないです。

 みんながこの歌い方を力がないから流行ってるような歌い方でやろうって思っているのは一番勉強になりません。というのはそれでやれていたらやっているのだから、やっていないということはすでにそこで遅れてるわけです。
 今流行っているのを勉強するのでなく、古典をきちっとやることで、今という未来を読めてきます☆。
 未来からおろしてきましょうということです。これの勉強は基本を聴いた応用です。みんながやることは、この人の時代に一回戻ってこの人が聴いたところからこれをこの人と違う形に組み立ててみようということです。

○位置づけと慣れ

 例えば感情移入するのかしないのか、どこを弱めたりどこを強めるのか、あるいは変えたほうがよいのか、音楽のとおり歌ったほうがよいのかというのは、その人の歌としてのスタンスなのです。トレーニングにおいてと考え方が変わってきます。
 歌というのはやったもの勝ちです。それ以上はそこにオリジナリティというか何かしら人を惹きつける魅力が出ていればそれをどう分析したって惹きつけてるか惹きつけてないかということなのです。

 トレーニングやレッスンといったときには、それらがどういうふうな位置付けなのかを自分なりにはっきりさせるべきだということです。
 長くやっていくということは、そのことをはっきりさせていく。よりていねいに区分されないのであれば雑になってしまうだけです。
 多くの歌い手がだめになってしまうパターンというのは発声が出てきて声量ができてきて声域が広がってきたり(あるいはそうではない人もいますが)、歌が歌いなれてきてやり方を覚えてくることによってです。他の試みをしなくなってしまうのです。
 要は歌えたか歌えてないか、観客にウケたかウケてないかということになってしまう。それは良さそうなのですが大きな意味で自分の伸びを妨げてしまいます。

 私が教えないやり方をとってきたのも最初からプロ相手でしたから。
 プロは声量も声域も関係ないのです。そうすると声量声域で差をつけられるというのはアマチュアの特権です。
 プロはステージをやらなくてはいけないのです。そこで声量声域などつけようとしたら今まで歌えていたことさえできなくなってしまうわけです。そうするともう感覚勝負にしかなりません。

○可能性とギャップ

 今個人レッスンでみているプロの人というのは、ステージを何百回何千回とやっていろいろな舞台をふんでいる人だから、もうそれでできてしまっているのです。できてしまっているけど自分ではそうではない、違うということで、自分の違う可能性、自分は思い込んでいてここに到達してしまったのだけれど、もっと違う意味で何かあったのではないかということで来ています。
 そういう人に対してギャップをつくるわけです。

 あなた方がそういうレベルではなくても行き詰まった時に考えてみればよい。例えばもう自分がプロであってやれているとしたときに何が足らないのかということをみるためには、ギャップをつくらないとトレーニングは成り立かない。目的があってそこを埋めていくことがトレーニングです。
 ギャップをつくるというのは簡単なことです。例えば二倍の声量でやったら破綻します、あるいは二倍のテンポでやったらうまくいかないですね。

 そうやってみて粗が出たときに、チェックする。
 そこは4秒で終わるというフレーズを8秒にしたときに必ず6秒目7秒目8秒目持たなくなります。そうするとそこで息の保たせ方という課題が出てくる。あるいはその息自体をキープできるための体のつくり方という課題も出てくる。それから声をキープできるための発声技術をさらに完成させなくてはいけない。で、8秒完全にできる体にしておいて4秒歌うのと4秒しかできないところで4秒歌うのではこれは深みが違ってくるわけです。

○コピーの限界

 そういうことでいうとトレーニングというのはいくらでも自分が課題をみつければあるわけです。それとともに見本からやっていかないやり方というのはなかなかポップスの中にはないみたいなのですが、トレーナーが出してみてその通り写していけばよいというのは、一つの手段にすぎません。
 というのはより優れたトレーナーを見、より優れた生徒を見たときに、そこで成り立ってることが過去の模倣でしかない例が多かったからです。決して生徒はトレーナーを越せない。それが受け継がれていくということはレベルが下がっていくことなのです。
 トップスターをコピーする限界があるというのは多分正しいと思います。

 どういうやり方をとるかというと自分の中の一番よい声を先生としていくということです。あるいは歌の中でいうと自分の中の一番よいフレーズを元に考えてみてそうではないものを正していくということです。
 それは声について前から言っているベターなものをベストにしていくということです。ベストにしていくということがトレーナーみたいにとか声楽家みたいにとかより大きくより音域が出るようにということではないのです。

 それらはあくまで原理に忠実にやったときに自分が神様がもし磨けばそこまでいくよという可能性を出したところまでです。
 ピアノとかバイオリンに比べてこの世界で勘違いしてはいけないのは、基本の上に必ずしも応用が乗っているわけではないということです。基本がなくて応用だけでもやれてしまってる人がいます。そういう人は基本に戻ったほうがよいのですが。
 この曲もうまく歌っています。ただこれを真似た人たちはみんなそういうふうには歌えないです。彼女の中でもこれは比較的よいところが出てる歌です。でもそのよいところを真似てしまうとだいたいだめになっていまします。それはどうしてかというと過去のやられたことを追っていっているからです。

 ましてはみんながやってはだめです。もっと言うのだったらこの人が今デビューできただろうかということです。歌としてはうまかったかもしれないけど今の時代だったら多分厳しかったですね、ポップスの世界はだいたいそうですね、20年どころか5年前の歌い手でもだめです。
 だからいえることは5年後10年後に出てこれる歌い手が時期をみて待ってるというような未来の先取りしかないのです。アーティストというのは少し先のこと、あるいはすごい先でもよいのですが、その中ですごく感覚の鋭い人たちが何かしら感じてるようなことを形にする人たちなわけです。それの手段として過去から勉強するとよい。

○瞬時にわからせる

 だから漫画などから見たらわかりやすいですね。パッと表紙を見た瞬間にもうそのキャラ、タッチの進み方が飛び込んでくる。
 映画などもそうです、今の映画がよい、古い映画のよいのもわかるけど、お金を払ってまで古いのを観にいくかというとビデオでは借りることはあっても観ない。やはり今に生きていて今のテンポのほうが合うようになっているわけです。
 だからそれを昔を元に考えてはいけない。やることは徹底して昔のことで基本をつけておく。自分の中でトレーニングとしてベースに戻っていく。

 結論から言ってしまうと音楽が入っていたら何やっていても歌になってしまうという部分もある。その音楽が入るということがなかなか難しいのと入ったものを出しただけじゃ作品にならないということです。そこの部分でどう創造するかということです。だからそちらの創造活動に徐々に入っていかなくてはならないということです。

 だからあなた方がこれの原曲を聴いたときに彼女と全く違うレベルで起きてこなければ、それはトレーニングが嘘だということになります。
 それとともに自分の勝負できるところとその曲が勝負してるところ(曲のいいところ詞のいいところ)があります。名曲になればなるほど少なくとも、とりあげるレベルの曲というのは、我々が自分で書き上げる曲よりはよっぽどよいはずです。
 そこの部分をモノにする、それを殺さないようにするというのはひとつの方法です。

 曲と詞と同化することは悪くないし、そこで自分が価値を出せる部分にはそれを守る、そうではないところは曲に任せる。そういう見分けが必要です。
 曲の中でいつもひとつ伝わればよい、そのひとつは自分で、あとは音楽で持たせればよいわけです。それを自分を伝えようと思って音楽も殺してしまって自分のよいところも出てこないのでは、何ともなりません。
 でもこれが多くの歌でやられている現実です。その逆をやらなくてはいけません。

 少なくとも今の歌い手にアカペラでひとりが朗々と10曲も15曲も歌うのを聴きたいと思っている人はいません。ところが勉強している人ほど昔を追います。オールディズが好きでオールディズやっているというのは全然かまいません、それでもしメシを食おうと思ったら、古いスタンスにしてああいうものをやる。昔のスタンスにして昔の人をやるという。ではそれを真似たからといっても今のを真似るというのは、もう遅いわけです。今、次にくる感覚ということを昔のものからきちっと学んできたらなんとなくわかってくるだろうと、そのなんとなくというところでどれだけおちてくるかということでしょう。

 これが原曲です。先ほどのが応用です。原曲に戻してみて自分だったらどういう方向に応用できたか、一番悪いのは古く応用されたものをそのままコピーしていくということです。コピーの勉強にはなります。それを通じて声の動かし方とかいろいろ学べます。本来であれば、この当時のものでも今の時代にリカバーされてるものたくさんありますが、そういうところに何が入っているか、あるいは自分だったらどういう風にかえるのかということです。

○方法論というもの

 歌えないというのもあれば、歌いたくないというのもあれば、そう歌ってみても仕方がないだろうというのもありますが、そうなったときに自分の作品を創る方法論を持っていることです。テンポやキー、フレーズをどうするのか、いつもイメージということで言っていますが、例えば声量が足らないとかそういうふうに伸ばせないとかは、やはりイタリア語みたいにはうまくいかないから、日本語の場合、かなり特殊なやり方をとっています。

 歌い手の場合は無意識にそれをやってしまうのですが、勉強する立場としては、原点に戻しましょう。方法論を勉強するのもひとつの勉強ですが、できたら原曲に戻ってその方法論自体を使う。というよりは何をどう方法にするかということからです。最初は仕方がないから、誰かのをコピーする、というよりも、やはり自分で気づきたい。やってみてこれって方法になるのかな、とか、これって通用するのかなみたいに。とにかく創ってはチェックしていくしかないわけです。

○音の記憶と再現力

 それはみんなこうやっていきなさいではなく、もしかすると誰かが1年でやったことを誰かは3年かかるかもしれない。その1年でやれたことの中で、どこか落ちてる部分に関して、他の人は何も気付かないで1ヶ月でできてしまうことを3年かかるかもしれない。
 自分以外の人がいるということは「簡単にやれてしまう人がいるんだ」とか、同じ条件の中で聴いて、本当のことをやれば優れていかなければいけないということです。

 ひとつは暗譜力、譜面として暗譜するのではなくこの音楽を1回聴いてみたときにその音楽が頭の中にちゃんと残っているかということです、楽譜として残ってるかということより音楽として残っているかということです。
 例えばこういう歌の同じメロディが進むところ「ままに」と「白いおうちは」の「は」のところ「ままに」と「は」の伸ばし方がどう違うのか、音楽の耳で聴いていたら「ままに」とか「は」ということじゃないところで判断がつくはずです。

 ただ歌い手の場合は、ことばによって違ってしまう場合があります。でも日本語じゃないので、聴いたらほとんど゙同じです。コピーして入れたくらい同じになっています。そういう意味での完成度というのは日本人の場合ない。という場合はことばのほうで変えていきますから、ことばが違ってしまうと違うメロディといったら変ですが違うフレーズになるのです。

 ところがリズムとか音楽を中心に考えていくのであれば、それは同じメロディで同じ役割を果たしているのだったら全く同じように歌うのが本来は普通なわけです。だからそういうことも分からない、というよりは頭に残っていなければわからないです。残っていると1番のあそこの中ではこういう変化をとったのに2番のここのところではこういう変化をとっているとなる。楽譜でわかるのではなく楽譜以上にわからなければならない。次にコピー力です。

 ただ考えて欲しいのは、この歌い方を聴いてみたら誰もこうは歌えないとか、こう歌いたくないというのがある、それに対してどう変化させるか、ある意味で言うと、カバー力です。
 自分が勝負できないところでは勝負しないし、切ってしまう。ところができるところに関して一箇所でも二箇所でもきちっとそれを出す。
 そうなったときにプロはこう料理している。漫画とか絵で考えたら、こんなもの描けないや、でもこの人だったらこんなふうに描いている、こういうやり方でやればやれるんだと気づくことです。方法論ですから、やればよいという話ではありません。それをやってみて脱しないと意味がないです。

○方法論を超えて

 3年目4年目5年目となるほどコピーをしないで自分のものが出てくるようになって自分の粗のところは整理され、自分の生かせるところはより出てくるようになるのは、望ましいことです。
 このやり方でやったら1オクターブと2度は、いりません。1オクターブない見せ方、例えば半オクターブしかちゃんと出ない人でもこれで1オクターブカバーできます。これを真似なさいということではなく、あなたがコピーしてやったときにピッチを外したり致命的なミスを起こしてはいけないということです。

 成り立ってないというふうに出てしまうのは、音楽とか音楽に持っていくやり方のところで完全に欠けてしまっているわけです。
 素直にやるのはトレーニングの場合はよいことなのです。ごまかしてしまっては、成り立ってるのか成り立ってないのかわからなくなってしまう。それが起きてしまう甘さはだめです。
 歌えていようが歌えてなかろうが普通のお客さんが聴いたときに歌えているのだろうなとかああいう歌なんだろうなと反応できないといけないわけです。そういう方法論を超えていかなければなりません。

 一箇所だけです、フレーズとしての大きさを見せたのは。この人の場合だったら最初からそういう歌い方もできたのでしょう。これで歌いたいこと、あるいは、この歌の効果を考えたときにこういう見せ方が一番大きく見える。自分の勝負できる。
 ここの練習の場合は、みんなが歌いたくない曲やみんなに向いてない曲もきます。最終的にそれをつかんだらこの曲を選曲してもよいけど、それがつかめなかったら選曲すべきではないです。
 課題曲の場合はプラスα、自分の才能の活かせる部分をどう見出していくかです。自由曲は何を選んでもよいようにみえますが、自分で選ぶのだからそれがはっきりしていない人は歌えているだけで本当は成り立ちません。

 自由度が大きいわけですから、より厳しくならなければなりません。こういうのを聴いていたら声量とか声域じゃありません。ただ鋭さとか動かし方とかインパクト、歌に対しての世界観あるいはその人の音楽観、その人の中に流れている音楽というのがあります。こういう最初の歌い方を真似させないのは、そうしてしまうとこの人の中に入ってしまうし、この人でもこのやり方がこの歌ではよいのですが他の歌で通用するとは限らない。

 方法論というのは同時に身を滅ぼしてしまうやり方にもなってしまいます☆。要は方法で持っていってしまう、2番3番が歌えなくなってしまったり他の曲になったときも同じ、ごまかしの部分があるわけです。方法と思われてしまうようなところで、もうすでに自然ではないわけです。
 でもやはり見せるように形を切り出さなくてはいけません、歌は作品ですから。そんなときにギリギリの接点を合わせて、それがはみ出してる歌が多いですが。

○音の世界で観る

 作曲家が描いていく世界と一致していくわけです。優れた作曲家だと、もうそこの中にミュージシャンが演奏したら優れた作品になるようなものは入れているわけです。そうすると歌い手は自分の個性を消してしまっても個性が引き立ってくるわけです。
 最終的にいろいろなものを応用していくということは一番ベースのものを深めていくことと一致するわけです。

 私が図を描いたりするのは、違うところから見る、歌というのは中に入ってしまって出れなくなってしまうから常に違うところから出ながら、いろんなことをやっていくことによって、5年10年たっても変わらないものが1年でも2年でも、あるいは長くやっただけの期間で、質的に充実していくためです。
 そういう意味では頭を使ってもよいですが、応用の中でベースのことをきちんとやるには、歌っているときに頭など使ってはダメだと思います。そういう切り分けをやりながらやってください。

 歌というのはことばがついてますから、そのことばの伝わり方が左右してしまいがちです。「ありがとう」というのも普通に言うのと感情を込めて言うのでは違うし、音の世界でいうとピッチとテンポのふたつの軸でかける、その中で何が起きているかということはわかりにくいものです。
 器楽的な耳で聴いて、ことばは違うのですが何が本当に違ってくるのか、外国人の歌い手は器楽的な発声とはいわないけれども、その辺になってくると難しいのですが、日本語の場合は聴くほうがことばの方に耳をたてるから、どうしてもことばで歌い方が違ってしまいます。
 違うように歌える歌い手のほうが優れてはいるのですが、ただ勉強するプロセスにおいて全体の構成をつかむとかルールをつかむとか自分がその曲をものにするというところにおいては、メロディが同じだったら同じなのだということです。

 外国人が聴いてみたら、ことばはわからないのだから何で働きかけてるのかといったらことば以外の要素です。ただその曲がそういうことばを伴って創られているということは、「ラララ」より「アモーレ」といわれたほうが、ことばがわからなくても通用する部分というのはあります。そこは器楽と違うのです。
 トランペットやピアノ、サックスを聴いて歌ってると思う瞬間があると思います。そのときに何が起きてるかというと純音と違う音(=ノイズ)が出てるわけです。

○音を重ねてみる

 まずひとつは音楽の力、記譜力をつけてほしいということです。1フレーズ目があって2フレーズ目歌うときに同じメロディ展開なのに、あるいは部分的に少しくらいしか違わないのに、それを全く違うように理解する人が多いです。構成がわからないわけですから一曲をきちっと覚えるというのはすごく難しいです。メロディとことばと覚えて、それで感情移入して歌っていても、音楽的に覚えてきてるということはあまりないと思います。楽器をやるような人は構成で覚えています。

 今の歌というのは昔と違って、頭打ちでとらないです。1番から3番まであったら、一番よいところの歌のところだけを切り張りしてつけるみたいなことをやっています。そこまでプロデューサーもディレクターも要求しない、作曲家の人は同じ歌詞で同じ箇所を歌っているのも3つのうちでどれが一番よいかというのは明確にわかるわけです。みなさんも自分に対してはそれをわからなくてはいけないです。今いうのはこれを音にして考えてみてください。1番目と2番目が何が違っているのかです。

○構成、展開を抑える

 初心者に限らず楽器の人は5年くらいでそういう耳ができてくるのでしょう。歌い手というのは20年歌っていてもそういう耳はもたないです。10年20年やっている人に歌ってもらうと、1.2.3.4…..16フレーズ覚えて16個歌っているのです。
 歌というのは16個もあるわけないです。せいぜい4つくらいです。音楽が入ってる入ってないというのはそういうところからわかります。1番の出だしのところをあるふうに歌ったとしたら2番の出だし3番の出だしでもまったくそのとおりに歌わなければいけない。歌わなければいけないというより現実的には歌えるということです。歌ったのを覚えていてその覚えてるものに対して変化をつけなければいけないということです。

 違うことをどんどんやっていったらわけがわからなくなってしまいます。サビも同じです。変えるところのヒントがことばであったり感情であったりはします。1番は楽しい歌2番は別れの歌みたいになってる場合もあります。でも1番も2番も一曲の中の1番2番なのです。
 日本人の歌を聴いていて3番までなのに6番みたいに聴こえる、あるいは3番までなのに1から16のようになってたら、それは1番だけなわけです。アカペラでやるとはっきりします。

 1.2.3.4とわけると1から3のサビにも2から3のサビにも両方入っています。普通は繰り返しがあって1から入ることはないです。1と2は同じだという創り方をしています。こういうのを勉強するのであったら全部を1の歌詞でやってみればよいわけです。

 「夢のカサビアンカ」でやってまた次に「夢のカサビアンカ」でくりかえして、次に「忘れられない」で、また「夢のカサビアンカ」に歌詞をまったく同じにすればよい。もっと構造を知りたければ、「夢のカサビアンカ 白いおうちは」ではなくて「夢のカサビアンカ 夢のカサビアンカ」を繰り返していけばよいわけです。「忘れられない」も「夢のカサビアンカ」と歌ってみます。

 けっこう流して歌ってますが、その代わりこういう構成を使っていく。力のある歌手ならボケーっと歌ってるようになったときに何かするのだろうなと思うと何かする、というのがこういう部分です。歌で変えられなければアレンジで変えるというやり方もあります。

○技術で歌わない

 結局、難しいところというのは創るということです。
 こういう勉強をしていると、技術などというのは誰かに習ったりしなくても自分なりに考えていってついてくるのです。けれど、技術で歌うようになってしまうとおもしろみというのはなくなっていきます。こういう勉強の一番難しいところです。
 何のために仮に技術というものがあるとしたら創造を支えるためです。そこが主客転倒してしまうと意味がなくなってしまいます。
 それだったら技術でいかないほうがよいです。特にポップスの場合、今の時代をみていてもどちらかというと技術は出ていないです。
 お客さんが技術を好む場合は仕方がなく技術を見せている場合はあります。それが消えたときじゃないと感動しないです。素晴らしい舞台をずっとやって不思議なほど感動しないのです。

 うまいということはうまいです。うまいと見えてしまったり技術とみえてしまいまうくらいなら、そうでない方がかえって感動します。何か泥臭いけれどすごい一生懸命やっているとか。その辺のバンドでもそうですね、声がうわずってるだけでもけっこう感動してしまいますね。
 だからそれをなくしてしまう技術というのはいったいなんだろうということです。イメージの豊かさの問題です。
 それぞれの歌い手がソロとしてはイメージの豊かさを持っているのに演目としてやられたときに演出家の下に置かれてしまうといういやらしさで、リアリティが出てきません。
 お客さんが予期するイメージというのはあるわけです。お客さんのレベルを下回ってしまったらオンチといわれたりしてしまうのです。
 予想に対してプラスαの部分を出さなくてはいけない、それを常に考えなくてはなりません。

○過剰に表現に落とし込む

 「あの日キスしたそれだけの人」でただ終わってしまうのか「それだーけの人」でもう一度まくるのか、あるいは、まくった後にさらに「人」のところで何かするのか、そういう落とし込みをした後にもうひと工夫もふた工夫もするとか、ここで終わるなと思ったところをさらに伸ばしたりさらにメリハリつけてやることです☆☆。

 漫画でもドラマでも、盛り上がらずには終わらないです。そこの後の落とし込みがあります。
 この前西部警察の特集がやっていました。事件解決した後クライマックスで終わらないですね、必ず部屋に戻ってねぎらうところとか、サビの後にきちっと現実に戻したり、次回に対して働きかける何かがある。あれをやらないときっと次の週は観ないと思うのです。
 歌い手も同じできっとそこに次に何か起こるなというような予感を常に持たせるだけの含みを持って終わらなくてはいけない。

 だからお客さんが予期したことに対してどのくらい予期を裏切る、プラスαできるかということをしなくてはなりません。やったことが変なことと思われてしまうのか、おもしろかったなと思われるのか、だからリスクがあるわけです。でもそのリスクをとらないような歌はつまらなくなってしまいます。
 感覚がよいとピッチをとったりことばをとったりして早くできあがってしまうのですが、あまりおもしろみがないです。おもしろいかすごいかのどちらかですが。若いうちはよいのです、勢いで歌ってるとその勢いにやはり共感できてしまう部分があります。それを徐々に技術にもっていくということです。予期できないところの部分をやるために技術が支えていないと単に変だと思われてしまいます。

○声楽+α

 非常に優れた歌い手です。例えばこれの一番高い音、彼女だとクラッシック歌手みたいにしっかり出せるんです、でもそう出していない、それからこれは明らかに技術なのですが技術っぽくみえません。
 私も声楽から入りましたが、声楽家じゃないと歌えない歌というのはないです。声楽家やクラッシックの歌をポップスの歌い手がかすれた絶対に届かないような声でも届かせて歌っているようなのをよいかどうかは別にしても、どこかで覚えておいてほしいのは、声楽家のような声の声量とか声域とかひびきがなくても歌が歌えるんだという当たり前のことです。
 逆にいうと声楽家が歌ってみてつまらない部分、それはどうしてかということになると、一致感がない、その人間の生きてるところの部分の、イメージの豊かさが出てこないと伝わらないです。そのことと声の技術とが結びついてなければいけません。声の中の表現力、歌唱力です。

 このフレーズもみんなが歌っていたら声がよい人はそれなりに、歌える人は歌える人なりに歌うのですが歌えるところまでですね。
 要はプラスαのところ、自分が創造したところの部分に声が従っていたり技術が従っていなくて、メロディが出てきてしまったりひびきが出てきてしまったり、あるいは自分の配分が出てきてしまったりする。それくらいはお客さんは予期できてしまいます。そうじゃないことを起こさなくてはいけません。

 同じ力があったときにその同じ力をどう見せていくかということです。これをこの人が最初から飛ばしたところでは見せられない。明らかにポイントをきちっとしぼっていっています。
「あなた イオ ティアモ」
 声量のことをいうとここのところだけが出ればカバーできます。
 この歌い方だけではないですが、とにかくこれが歌ということではなく、プラスαが飛んでくるわけです。このやり方とまったく違う形で処理するプロもいます。とにかくプラスαを出してください。どの曲ということでなく、ひとつのフレーズあるいはフレーズのデッサン、いつもいっているとおり声のフレーズデッサンの中にもうその人のすべてが出てきます。

○守るための発声技術

 発声の感覚はすごく個人的なものです。それと偶発的なものが優れてる優れてないというのも、ものになる方向なのかならない方向なのかというのもさまざまです。例えば歌い手が歌に使ってる声というのは発声からいうと必ずしも一番のベストの声だけではないですね。というよりベストの声はあまりつかってないかもしれません。

 1オクターブ半にわたって3分間しかも毎日の歌唱に耐えなければいけない。クラッシックなんかの感覚で声を定義づけて、あなたの声のここのキーはこの声が一番よいからという考え方からとっていくとそれは確定すべきことでしょう。確定したらそれを使って100回に1回しか出ないものを100回に100回出るようにしていくことでしょう。
 しかし、ポップスの場合はそのやり方をとってしまうと声の技術や発声が前面に出てきます。歌になったときにそこまで声にこだわるといったら変ですが、その発声をもってして歌をこなそうとしたときによい結果にならない場合が多いのです。

 ポップスの場合は問題が複雑です。技術が出てしまったり声が出てしまう。
 クラッシックというのはどちらかというと本当にレベルの高い人はあまりそういうことではないでしょうが、ほとんどのプロの人たちは声の技術において見せていこうとしている部分が多いです。大声コンテストと同じような意味で、今まで自分が10年20年かかってマスターしてきた技術の結果がこうだよと。

 ところがポップスの場合は声に関してはそこまで重きを置いていない。むしろ同じピッチのところの声であってもことばが違うと発声が違う、違う歌になったときに違うというのは当たり前ですね。
 トレーニングにおいて発声というのは、ポップスの場合はそれで歌うためにやるのではなくバランスが崩れたときとかの、いろんな処理をするため。むしろそこから離れて何かしなくてはいけません。
 クラッシックでも本当はそうです、声を見せていくというきちっとした基本の世界があるのだけれど、その基本の世界をどんなに繰り返されても聴き手はおもしろいわけでも魅力も感じない。そこで裏切った何かが出ないと。

 例えば10人くらいの歌を聴いていても、この人はよい声で技術が高いと思ってもそれで歌われてしまうとおもしろいのかというと、そうではない人の発声もだめだけど技術もないけどすごいしっかりと歌ってたりしたら案外とそのほうが歌としてのレベルが高かったりする場合があります。
 そういう面でいうとあくまでそういう人の確実性がないことのフォロー、3回歌ったら3回とも違うのでは困るよというようなことで得ていくのがひとつの発声です。

 いろんなことが起きるということで考えておけばよいのではないでしょうか。それを確実にとするところは大切なのです。ただそれを急いでやってしまったり、自分でこういう出し方と決めつけてやってしまうとそのときの感覚そのときの体の中での限界に今度はなってしまいます。
 基本というのは応用がいろいろできるのですが、その応用のところで確定してしまうことになる。応用で確定してしまったらそこはうまくできるのですが、やり方を覚えてしまうから、それ以上のことができなくなってしまう場合もあります。

 それがすごい難しいです。体と同じで、体も何年も鍛えたらどんどん鍛えられていくわけではない。ある程度のところまでは歌にふさわしい体というのはあるのですが、それ以上になってくると、もう本当にちょっとした差でしかなくなってくる。そうするとそういう段階でそういう技術というのは獲得できたレベルで落ち着いていくわけなのです。
 それをそうじゃない最初の段階、何も鍛えてないところでこの音の取り方というのを覚えてしまうと、その取り方から抜けられなくなってしまうということです。

 逆にいうとプラスαの部分から中心に考えればよいのです。要は技術など必要ないし、発声などなくても伝わる部分があるべきだろうと。ただその伝わる部分というのを確実にしたり。あるいはひとりよがりでやっていたときにあまりに出来不出来が激しすぎるとか少し続けてやったら全然できなくなってしまうとかとなる。そうしたらそれを守るために技術とか発声とかいうことがあったほうがよいということです。

○ベストの声とベストの歌

 発声の勉強をして、ある音に対していろんな出し方の中から一番出せる音を選びます。一番の問題なのは今一番よいということと将来一番よいということが必ずしも一致しないということです。
 ただ多くの人たちにとっては、今日一番よいというよりは今年の中で一番よかったことを来年毎日出せるようになることは至難の技です。少なくとも自分の中で一番よいような状態というのを知っていて、できるだけそれが確実に出るようにしておこうと、その繰り返しでよいと思います。
 それを発声とか発声の勉強法からヒントを得てやっていくというのはひとつの方法、これはクラッシックみたいなもの、ここに響かせましょうとかこういう感覚にしましょうなど。

 それからもうひとつは私がやっているみたいなレッスンは発声だと思われていないみたいですが、私は発声をやってるつもりです。例えばこういうひとつの歌の中から自分が一番よく出てる声、自分が一番うまくいってるフレーズを選び、磨く。
 確かに実践からとったほうが早いことは早いのです、というのは実践のところでは、声のよさだけでこちらは聴くわけではないからです。今のは一番よい発声ですよという注意はせず、今のは一番よいあなたのフレーズですと言います☆☆。
 他人の発声というのは、とれないものです。
 クラッシックがとるのは、同じところをめざしてるからであって、同じ人たちとやっていく世界だからです。ポップスの場合はそういうやり方を知っておくのはよいのですが、私にとっては声楽とかヴォイストレーニングで得たノウハウというのはいかにそれを脱すればよいかというのを知るがためのノウハウです。

○スタイルと世界

 例えば声楽ということを徹底してやっていくとする、そうするとこういう歌い手は理解しにくい。
 これだけ歌える人というのはノンノンノンの一番高いだってビーンと出せるわけです、でもこれは出していない。長く伸ばしているところも息の声でもっていっていて、技術とか発声というのを出していません。でもこの人が日本のクラッシック歌手レベルのことができないかといったら多分できると思います。スタイルを選んでいるとともに技術とか声で勝負しようとしているわけではない、むしろことばであったりメッセージであったりこの人のこの曲の世界で。声で持っていってるわけでない。

 歌をやっていてやれるのは内面的なものからどう取り出していくかということにつきるのです。でも内面的なものから取り出してるときに、取り出せないとかひっかかるとかどうしてもうまくいかないとなったら、こういう柔軟性とか感覚みたいなものが必要です。うまくいかない、そうしたら外側からとか声楽をやってみるのもよい、ヴォイストレーニングやってみるのもよいと言っています。
 単純な話でいうとお客さんが予期できないどんな奇跡を起こすかということになります。歌うのは誰でもできるわけで、パワーだけでもかまわないが、それを殺してしまったらだめです。一番大切なのは技術がテンションよりうわまってしまう場合です。インパクトがないところで声が使われてしまうと一番つまらなくなっていまいます。

 原曲を聴いた中からこういう解釈をしてこういう歌い方をしていこうとすると、やはり自分のスタイルがないとできません。それとともに自分のことを知り尽くしていなければなりません。
 歌える歌、歌えない歌というのがあるわけではなくて、ポップスの歌手だってその気になればオペラを歌える。ただ、それは自分の勝負どころを知っているからで声量で張り合おうとかオペラ歌手の真似したってオペラにかないっこない。でもポップスの場合、歌い手それぞれ持ち味があって、また他のポップスの歌い手の真似をしたってかなわないわけで、それがスタイルです。それができてこないと、客には伝わっていきません。

○感覚は変化する

 もっとよいのができたはずだと思って、結局その音に関してはもう一生そういうのが出なかったと思うのもある。けれど、何か確実にものになったというのを、それを比べることができない。というのは次の年の感覚がもう違いますね。その時にその感覚で出たと思ったことが仮に外側から同じものが出ていても同じように感じるかというと多分違ってると思います。

 例えば自分が耳がよくないときに歌ってみたときにいいなと思ったことを5年あとに聴いてみたら全然よくない。どちらが正しいかというと、だいたいにおいては5年後の自分のほうが正しいのでしょう。でもそれもテープで聴くわけですから、出した感覚でよかったと思っているのとテープで聴いた感覚を比べることはできない。出したところでの比較ってできないです。

 仮にできるとしたら収録したテープを5年前はすごいよいなと聴いてたけど、今聴いてみたら同じテープが全然つまらなく聴こえるというのだったら、これは聴くほうだからら比較できる。でも、出してるところでは常に違う。進歩しているとしたら多分昔すごいと思ってたことを今出しているのだと、もっとよい感覚があったということで違ってくるのだと思うのです。ただそれはわからないです。そのためにトレーナーがいるのです☆。

 でも人間が勉強しようと思ったりトレーニングしようと思ったときにそういうふうに意識をもたないといけません。例えばどこで響いてるとかこう集めるとかいろんなイメージでいうとそれが正しいか正しくないはよくわからない、わからないけどその人がそう思うことによって現実に声が出てくるのであれば、それはありです。例えば喉で出すということがその人にとって結果としてよいものであれば喉で出すということばで覚えてしまってもよいわけです。

○支配から脱する

 自分が勝負したいところというのが最終的にその人が選んだところです。ただ私がみているとそこで勝負しないで違うところでもっとよいのがあるという場合は多々あります。
 多くの場合、歌い手というのは憧れのヴォーカルから入ってきますからどうしてもそちらに近づけたほうが自分にとってもよいわけです。
 みんなオリジナル、個性でやりたいというけれど、その中にはその人を支配している音楽があります。例えばプレスリーしか聴いていないといったら、どう考えてもその人の世界においてプレスリーが音楽です。

 ところが喉の使い方とかが彼と同じにいかないといったら、それは明らかに違う世界をやったほうがよい。その人の一番才能を出せる世界をやったほうがよいです。神様が与えてくれた才能と自分のやりたいことが必ずしも一致しないわけです。
 ピークとかポイントに関しても同じことが言えます。だからどこかの場でそういうことを指摘されてそれは客観視していくしかないです。指摘されたからと言って自分の考え方と違う、想いと違うというのは当たり前で、そのときに、ではこういうケースにおいては今は自分がとっていくかどうかという繰り返しです。

 それを拒む人はトレーナーなどに絶対つかないでしょう。逆にトレーナーの言うとおりになってしまう人は、きっとそのトレーナーがこういうヴォーカルが好きだとかこういうふうに歌うべきだという考えがあったら、完全にその世界におかれてしまいます。
 どちらがよいということではなく、それこそバランスです。そういう外からのアドバイスをよい方に受けていきながら、自分が思う方向にもっていきます。でも例えば自分がこのキーで歌いたい先生はこちらのキーでという場合には多分先生がいうキーのほうが結果としてokになるでしょう。そこを離れてしまったら自分自身が選んでいくわけですから、しっかりと学びましょう。

○出し続けていく

 問題が問題を生んでいくから、問題があったり課題があったりする分には構わないと思うのです。ただそのことによってステージの切り替えができなくなってしまう、迷いや自信のなさが出てしまうと、マイナスにしかならないわけです。
 レッスンだからトレーニングだからと、そこで迷ったりいろんな考えが問題を生み出すのはよいでしょう。
 私も何でも、いくらでも出てくるわけです。始めたときには3年くらい書いたら書き尽くすだろうと思ったら逆です。その気になったら1ヶ月で12冊分くらい出てきてしまってるわけです。それは声のレッスンという形においてしか成り立たないもので、まだ会報にしても会報にできない部分もたくさんあるわけです。結局は正解はないから自分が決めていくしかない。自信もってやれるだけのバックグラウンドをつくっていくしかないです。

 そう出したいというところにおいて、ただそのことが通用する相手がいるかどうかということ、そこはあなたが感性で今まで生きてきたこと経験したことで出したいように出してみればよい、出したことからでもこういうものというのは世の中こういうふうにとらえるのだなとか、こういうふうに聴く人もいれば、こういうふうに聴く人もいるのだなとかいうところで知っていく。では今度はこういう線で狙ってみようかと。
 歌でも制作物だから制作者サイドから捉えていくしかないのです。
 何か強いものを出せば必ずそれに反発する人もいるしそれを認めない人もいるわけです。そこにおいては全員に認められる必要もないわけです。すべての人に愛される歌というのは何も出してないことになりかねない。歴史の中にそういう歌はありますが。

 どんなにレッスンをして、いろんな人からいろんなことを言われ、いろんな感覚を得てみても聴かれるのはひとつの歌でしかない。そこに出てきたものでしか評価されない。だから今もしやっているとしたらそれが3年後5年後に影響して入ってくるものだという前提でやっていきます。声の研究をしようという部分であったらそれはまた別です。もう表現していけばよいと思います。レッスンも表現だと思ってください。

 出口をきちっとはっきりさせないとトレーニングというのは身につきません。よく音域がほしいとか声量がほしいと言いますが、何も分からない人に音域と声量がすごいあったら、それは有利な条件ですが、歌はめちゃめちゃになります。音域も声量もなければそれなりにまとまるものが、それを使い切れないのであれば、どんなに武器があったってかえってそれはめちゃめちゃになってしまうのです。そういう問題がけっこうあります。

 そうでなければ、そういう基本が完全にできたような役者さんとかオペラ歌手みたいな人がアナウンスとかナレーションをやったとして、高低アクセントなど勉強してないことを除けば完全に対応できるそうですけど必ずしも対応できない。その職その職で限られた条件というものがあり、それに合わせなければいけないという部分がある、それが応用に必要なルールです。【レッスン他 04.11】

○思い切っていく

 ここでやる必要があることは歌いきれないような歌い方です。要はこの一箇所しか歌いきれていなくてあとはめちゃめちゃに壊れていて息継ぎも間もないような、よく聴いていると息継ぎなどは難があるのですが、こういう歌だと目立たないわけで、そのテンポでそのテンションで歌っていたらよい。だから最初の一言しかもってないない、あとは全部だめだ、でもその一言もっているということは、それが全部もつようになったときには、すごい歌になるというようなことをレッスンではやっていくわけです。
 だからもっともっと崩してといったら変ですが思い切ってやってよい。以前思い切ってやったりやれてたときがあるし、思い切ってだめだったときもあるけれど、その中でよかったときの上に乗せていかないとあまりに無難すぎます。カラオケや友達とのライブの前でやればよい話です。

 布施明さんはカンツォーネでデビューしています。彼の歌い方がなんとなく想像できると思うのですが、1オクターブ半いきなり最初からソから上のドのところまであがっていきます。それからAマイナーBマイナーと、歌でいうと、ここで1オクターブ半で、きてしまうわけです。高音まで入れるとほぼ2オクターブに近いので発声などを勉強するのに。歌ってたらできちゃったとなれば、声域声量のことはいいのではないでしょうか。
 それから感情移入も比較的しやすい。逆にいうと何もやらないと何もなく終わってしまう曲ですけど綺麗な曲で、ことばもうまくついています。メロディをどう歌うかということです。
 分散和音(アルペジオ)が使われていますから、本当はあまり引っ張れない。そこに味をどう出すかということです。
 ボビーソロは、フォークっぽく歌っているだけですが、味をどう出すか。一曲の中で難しく考えずに歌をうまくなるというのならこういう曲をたくさんやっていくといいのではないかと思います。

○一貫したルールづくりで

 ここを強くするとここを弱くすることによって抑えるのだなとか、ここを強くしたことではここの間が少し空くからここのところで少し早く入ったほうがかっこいいなとか、そのようなルールをパッと自分でひらめいてやってみたら、よい。やっぱり合わないなとか、原曲崩すだけで終わってしまうなといって諦め、何か新しくやってもほとんど合わないのですが、たまに誰かが正解を持っているのではなくて、その人の声とか音質と合ったところでよいものが出てくる場合があります。
 ただこの曲じゃもう出てきようないという場合もあります。
 一番大切なのはそういうことのできそうな曲をみつけること、これを歌えと言われたときには、そういう接点をつけていくこと。どこか一箇所でよいからそういうルールをもとにして他のところをおさめていくことです。

 うまい人に限って、聴いていると一曲の中で4つくらい違うルールを適用してしまう人が多いです。とくに慣れてきてしまうといろいろなフレーズを自分で持っていますから、そうしたら4つの歌を歌うべきであって、ひとつの歌でやれることというのはひとつの中で一番際立ったルールを元にして他のところをきちっとおさえることです。
 ここで引き立たせるのだったらそこが引き立つように他のところは持っていかなくてはいけないのであって、それぞれのところを全部バラバラのルールで歌っていたら、いくらうまくても何かちぐはぐだなということになってしまいます。そういう意味だとボビーソロはひとつのルールというのか一貫した歌い方にしています。

○日本語に甘えない

「君の愛を知っていたら」
 当然日本語で歌うときには日本語の歌詞で伝わります。お客さんのほうは歌詞を聴きますから歌詞によって感情が左右されてもよいのですが、本当のことであれば言語のところでやっているような音色とかフレーズの関係を守って、それ以上に日本語の歌詞で動いてはいけません。その辺が音楽を創るという意味ではひとつの練習になるのではないでしょうか。日本語で歌うとお客さんのほうには実際に伝わるのは確かです。

 ほとんどのお客さんというのは外国語で歌われたらつまらなくて日本語で歌われると聴きますから。でもそのことときちっとした音楽を創っていくことと別です。安易に日本語で動かしてしまうと元々の持つ作曲家の意図やメロディのニュアンスみたいなことが失われてしまうことがあるのです。

 前半やったような言語のところで、できるだけ膨らませておいて日本語になったときに薄っぺらくならないようにします。
 日本語になるとどうしても母音だけで単音になってしまいますね。いわゆる子音がなくなってしまうし単語が短くなってしまい、どちらかというと声で聴かせるようになってしまうのです。
 声で聴かせる時代ではなくなってきたので、声が作り出す動きとか雰囲気とか音色の占める部分というのが非常に大きくなってきています。
 歌以外のところで伝えるにも関係をきちっと汲み上げていって、それを崩さないで歌おうということになるとけっこう難しいです。
 後半のリズムが入っていたり動くところよりも前半の単純に重ねていくところのほうが難しいです。でもそういうところがきちっとテーマとして出てこないとこの歌自体何かバーンといってしまって終わってしまったと、誰でも歌える歌で、よいものにはならないということです。

○全体と部分と、ど真ん中

 長唄師匠の野口さんが、小椋佳のミュージカル出ていらっしゃって、その後10周年か何かの公演があって、昨日お逢いして4時間くらい話しました。
 トレーニングって部分的だから、総合的にやらなくてはいけない。とにかく聴くしかない、歌うしかないということで、私もまさにそうだと思うのです。とにかく聴く、聴き方がわからないときにどうするかということで話しました。歌い方はわかるわからないではなくて歌うしかない、だからお弟子さんでも聴くしかないと言っていました。
 野口さんは邦楽ですから徹底して聴くことを、全く違わないように聴いていくことを強いられてきて上達していったわけであります。そういう邦楽のやり方というのはひとつの型としてあるような気がします。
 トレーニングのよくないところというのは部分的になったときにその部分がどこの全体からの位置付けかわからなくなってしまう人が多いのです。

 トレーナーもよくわからなくなってしまって、声を出させようと声域とか声量とか、部分にしてしまうとわかりやすいんですね、でもそれをどこに戻さなければいけないのかとなったときに、その人の苦手なところを非常に危なっかしく仕上げてみたところで、やはりど真ん中でとらえてやってる人には勝てないわけです。
 どこまでの弱点補強をするのかというと、音響がある今の時代においては、弱点など見なくてよいのではないかと思うのです。マイクのエコーで隠れないようなところは多分ないだろうと、そうしたらもっと強みというのをどういうふうに出すかというほうをやっていかないといけません。
 真面目に練習するのはよいのですが、気づかないままやってしまうことが一番怖いという話をしていました。
 気づくということは歌の中だけではないということです。
 歌などに入ってしまうと気づかなくなってしまうのです。歌をやろうとするとなかなか歌がやれなくて案外歌をやるなどと考えてない人が歌をやれてしまったりするような部分というのはどこかで持っていてよいのではないかと思います。

 では、総合的とはどういうことかというと、この歌ほぼ1オクターブ半、最初にいくのです。下のソから、Cのコードで、C-Am-Em-F-Am-D7-Dm7-G7-Cといくので、この進行はすぐとらえられる。けれどその中で1オクターブ半あって実際の曲としては2オクターブ近くあるのです。これが歌えてしまったら音域とか声量の条件というのはだいたいクリアできてしまう。
 多分1オクターブしか声がないような人でも1オクターブ半くらいで歌えてしまう曲なので、それこそ総合的に捉えるということになるから。そこで音がとれたあとにどういうふうにフレーズ、音色を創っていくかということです。いわゆる自分のルールづくりとそれに対してどういうふうに置いていくかと。
 これ日本語でやるとほとんど外れてしまうのです。自分の頭の中で日本語が動いてしまうとことばで左右されてしまう部分があるので、言語の中で音色をどう置いていきどう動かしていきどういう間をとっていけば相手に伝わるのかと。

 赤が1拍目、緑が3拍目というひとつのグルーブのルールです。
 それに対して音色が置かれてそこの強さとか弱さそれから色合いとかサイドというのか、色でいうと3つくらいの要素があるわけで、その呼吸をどうしていくか、そういうところから入ってみましょう。
 日本語にしたときに音色からグルーブから音の関わりから、演奏としてのルールが全部なくなってしまう。日本語で歌ってしまうから日本語の歌詞のほうに左右されてしまう。日本語というのはひとつの音にひとつの響きしかつかないから、その響きを伸ばすことでもたせてしまうのです。その言語でやっていたことは、全然違う、だから日本人にしか通用しないのだよというのが私の理屈です。

○声での演奏法

 要は原語のところでイタリア人のこの曲を聴いてよいと思うのはメロディ、ことばで聴いてるわけではないですね、その音色なりその感覚音楽の動きの中で感情移入できるのに、あまりクセがないので、ここに皆さんのクセをつけていってほしいというのが今日の課題です。リズムも最初から3連でとっていってください。
 クセだけで持っていっているような部分があります。普通にやってみるといくつかルールがつくれると思います。6つ6つで考えてみて12個で音節でいうとそうなります。それをどう最初の3個に対してあとの3個を置くのか、それから最初の6個に対してあとの6個をどういうふうに置くのか。

 発声上は「capitoカピート」の「piピ」のところ「ザペヴォケ」の「peペ」のところが結構前に出ます。
 だいたいの場合というのは「ピ」に対して「ト」がうまくおさまらない、あるいは「ぺ」に対して最後の「ケ」のところがきちっとおさまるかというところで最低限のルールができるわけです。
 そこにもっていくまでの最初のところ「Non ho maiノンノマイ」の動かし方がどうなるのかみたいなところです。それを大きく踏まえて最初の前半のルールに対して後半の部分どういうふうに置くのか。強い弱いなどで置けますが、できましたら最低で強弱あわせて、ここの中で8つの動き、それから細かくみるのであればその間の音を入れていく、全部で12個の動きをきちっと自分の中で通すというようにしたいのです。

 音域とか声量の問題もありますが、むしろ決め手はこういうところです。こういう中に自分の音色あるいは音色のフレーズあるいは音の関係がどう出てくるかで、それは音符で歌っていても仕方ないです。ただ自分の中でどこかを強くしたいとかどこかを伸ばしたいとか何かしらの動きを起こしそれは起承転結で起こしてみるとよいです。
 どこかで何かを起こさなくてはいけない、起こしたら最後何かしらそれをおさめなくてはいけないというところで、ひとつの対応が生まれてくるわけです。

 それをこの中でどうみていくかということです。それはできたら他の人と変わっているほうがよいのですが、あまりに一人合点になっていまうとルールが一貫しなくなってしまいます。
 だからこの歌なんかも基本的にはこういう部分で作っていくのが、あとのバタバタした部分なんかよりもわかりやすいです。それをどういうふうに生かすかというのを前半後半で考えていく。

 要は自分のデッサンをきちっとそこに入れ込んでそこをきちっと研究するようなことをする。
 よく自分の演奏法をみつけるとか音をみつけるとかいろんなミュージシャンが言いますが、そういうことをやらなくてはいけません。それはただ歌えばよい話ではない。
 歌ったときにこれかというようなものをつくる。でもだいたいみつけてみても合わなくなって使えない。あるいは単に変に動かしてみただけだなということになってしまうのですが。そこに納得のできる落とし方をきちっとしなければいけないので、それを1箇所でも2箇所でもつかんでいく。一番短いのでこのぐらいではないかと思います。こういう中で12個というより少なくともここのひとつの何かとひとつの何かを対応させなくてはいけないということです。これをそのまま歌ったって何ともならないので、前後はそのヒントになりますけど。

○音声の効果と動き

 方法として切っていく。では3つ3つ3つ3つで4つ切ってみて起承転結で考えていたらどうなる、あるいは前半後半というふうに切ったらどうなるのだとかいうふうなことの中で何かしらここに見ていかなきゃいけないです。
 自分の中で意図してみて、きっとここをこうやることによって、ここにこういう効果が生まれたら、それをこう生かさなきゃいけない、次は間を置かなくてはいけない、そこはこのくらいの音量で、音色で入らなければいけないとか。
 意味の世界、ことばの世界にいく前に音楽の世界の中でどこまで、そのイメージに対して声が対応できるできないということで、キーとか声量とか歌が決まってくるわけです。

 「どのくらいの大きさで歌えばよいですか」って、別に歌は決まってるわけではなく、今なんてどんな小さな声でもよいわけです。ただその動きが出ないところでさっきの誰かみたいな感じで録音したって本来は歌にはならないわけです。動きが出せるギリギリのところ、うまい人ほど小さなところで動きを作れます。大きなところの動きなどというのはだいたいそんな大したことじゃないです。
 そこにその人の感覚なりオリジナリティが出てなければいけない、そうなってくるとその人の音色、フレーズ組み合わせ方いろんなものが出てきます。

 動かし方が決まってるわけではないので、その人の呼吸とか音色の特色によって違うのです。まずリズムのルールがあって、赤いところが強くて緑のところが次に強いと、ただ実際のメロディを見てみると必ずしも高くなっているわけではないからそれは壊せる、むしろ壊さないと単なるラップみたいになってしまいます。
 そうすると最初の「ピ」という音に対して次の「ペ」、その後の「ヴォケ」みたいなところはどうやっても強く出しすぎなければ成り立つでしょうけど、そういう単純に動きをまずふたつ描いてみる。そうすると「ノン」というところは大切な部分になってあまり歌いすぎてもよくない。
 だからどこに音を生じさせるのか。音というよりも音が引き起こす動きを、心に対する動きみたいなものです。それを自分の中できちっと見ていかなくてはいけない。そういうレベルのことを歌いなさい、あるいは前に聴きなさいということです。

 他の人の中からでもそうです。音が外れているというのは、発音よりもその音の流れの中でその人がきちっとおいていけるために、どういうことをなさなければいけないのか、そのとおり出してもだめだけど、動きを自分の中でつくってみてはきちっと落としていくというようなことをやります。
 そのうちどれかこの曲でみつかるかどうかは別ですが、この曲で見つかると比較的やりやすいのは、これでだいたいの声域声量をカバーしていますから。

○自分独自の音と動きを得る

 こんなことを1時間ぐらいやって、こうだというのがわかれば、どんな歌でも歌えるわけです。総合的なとらえかたで言うのだったらいつも課題って、ここにあるのです。
 それぞれいろいろなトレーニングやったり自分で考えついたりトレーナーがいろいろなことを教えてくれたりするでしょうけど、でも行き着くところ、ここの中に自分の音をきちっと定め、自分のルール、音色を見つけ出すことです。
 ポップスの場合はそこを誰かのというのをあてはめてみても参考にはなると思うのですが、決して誰かほどにうまくいかないです。発声は誰かが真似ようとすると、ある程度歌をやっている人だったら似たことは誰でもできます。でも彼が動かしいてるところでの微妙な形の動きというのはなかなかつくれない。彼の歌の種類にもよります。

 単純にいうと雑になってしまうのはよくないです。いくら発声中だからとか高い音伸ばしているとか大きな音をやってるからといっても、それはトレーニングということで別において、雑になるためのトレーニングというのは喉を痛めるだけなのです。
 それから声にあまり頼りすぎてしまうと声ばかりを客は聴いてるわけでなく、声が引き起こしたものを聴いてるわけです。そうなったときにどういう入れ方をするとかどういう間をとるか。

 単純には最初の「ピ」というのをできるだけその「ピ」が出てくるところまでの舞台をつくってやる。「ノンノマイ」のところから「カ」のところでようやく「ピ」がバンと出てきたというところで、だいたい同じところに出てくると思っていますから、次のところの「ペ」というのは早いわけです。
 今度は転じるところのすぐのところに出てくるわけです。あまり勝負を後に持っていかないほうがよいのは確かなのです。
 「ト」のところあるいは「ノン」のところまで持っていくと遅すぎるのではないかと、この4フレーズで完結するのであれば。特に外国の場合はそうです。

 13131313で一回ルールとしてとらえてみたときに、そのままではそのまま出すと、誰でもそういうふうにやるわけです。だからそこの中に次の、よくあるのは13の3から1にいくところをつなぐ。外国人がやるのは、そういうところです。
 それから2フレーズ目の3から1にいくところ「トゥ」のところから「ノン」いくところ、この場合はその前に「ピ」の高い音がありますから、そこを重ねることよりは、切ってしまってそこの間合いで「ノン」のところをむしろ転じる。というのはニュアンスを変えて出したほうがよいです。
 だから前半の部分で出したものを後半の部分が受けるという形が最低でも見えなきゃいけない。そんなこと言っていたらきりがないですが、いろんな人が歌うのを聴いてみたら単に歌っているだけ。

 日本語でやってみるとそうなりかねない、日本語だとことばで左右されてしまって、どうしてもひとつの音しかついてませんから、その伸ばし方みたいなところに頭がいってしまいます。
 その前にルールをきちっとつくっておいてそのルールの中で本当は日本語を処理すれば音楽的におかしくならないはずです。
 日本語になるとやたら声量を出したり、高いところで目立たせないと歌らしくならないみたいな勘違いがあります。
 後半のほうに全部「知っていたら」の「ら」とか「抱きしめて」の「て」とかそんなところに勝負がきてしまうのです。それは明らかに感覚の怠慢です。

○音をどう聴き、どうつなぐか

 10個でも20個でもまず自分でパターンを出すことです。4つに切るふりだったら12個に切る。だめだったら6個に切る、優れた歌い手だったら12個の音があるのだから12個の音をきちっと伝えてます。12個に対して認識しています。
 我々の12個の認識は音符の12個でしかないです。そうではなくて元の役割としてそれをどういうふうなグルーブでとらえていくかという、普通の人が考えるのと全く違うようなやり方が仮にできたら声だけでできるのであればそれは一番よい勉強になる。音を自分で生み出すということ、音をどう並べていくかに気づいていく、自分の音を発見するというのは、誰も教えられないのです。

 あなたがたがこうだと思ったところが「ずれてるんじゃない」とは言えますが「それだね」と言えるのはあなたがたが出すしかないのです。
 いろんな人が参考になりますがいろんな人と同じことでは絶対その人には(やれている人には)勝てないです。
 あとキーの設定、ピッチなんかが取りきれてない場合があるので、それも雑だというひとつの証拠にはなります。
 ただ高すぎるから取れないとか低すぎるから取れないというのは自分の設定です。あまりメロディとか音の高さで捉えないことです。

 全体的にとにかく「君の愛を知っていたら」というようなことが言いたいよ、それでメロディをつくった人はいったい何を好んでこういうメロディにしたのだろうと、そこがわからなければ、それが自分の音でピンとこなければ、三流の音大生の歌みたいになってしまうわけです。
 常に作詞家作曲家の立場にも立ち特に作曲家で、その曲で自分がつかんだものを日本語なったときとか2番になったときに放さないことです。日本人はあまりにもこの感覚がないです。

 日常の中でのテンションの高いレベルにおいて放さないくらいでよいのです。漫才なんかもそうですね、ほんとにうまいのは2.3組で許せるのは10組いない。残り10組はやっぱり退屈だと。けっこうネタもよかったりやり方もよいのですが、声のテンションとか掛け合いの間とか、そんなもので、あいつらがやったら笑いとれてるけど、こいつらがやるから笑い取れないというのがある。
 でも情けないのは歌でしょう。歌の番組はどんどんなくなっていく。ということは漫才のほうがレベルが高いし勉強ができてるのです。
 基準を持って、たった一言とかひとつの切り方とか、こうやったことに対してどうおいたということを徹底して呼吸を持ってやっています。そういうものに乗ったときというのは強いです。

 歌も10年やってる人はいるのだけどその10年で学べていっているかということからいうと怠慢で、結局どれもいかない。お笑いの人が書く本とかCDのほうが売れていたりする。
 番組の中でも3分も歌っていたらチャンネルひねられてしまう。お笑いのほうだったらみんな持つ。それは別にお笑いがブームとか歌がだめという話ではなくてレベルの差です。
 人前でやる芸としての差として歌い手の力が全然落ちているということです。漫才から学びなさいということ。ああいうテンションとかああいう中で使われている声とか発声から学べるべきことというのは、たくさんあるのではないかと思います。

○舞台で感じる

 彼らの中で意識のないところで、現場の中でこういう掛け合いを覚えていってるのではないかと思います。ですから音楽とか歌から離れて、舞台として自分の発している声に対して感覚を持ち動かすことをやっていき、もう一度音楽に汲み上げる。音楽のほうが楽だと、そこに怠けてしまうからいけないわけです。
 本当はそれが繰り返し、リピートすることによって効果をあげていくということです。
 漫才はうまくつかっています。リピートの効果は、ことばとして同じオチということではなくテンションとか掛け合いのところからくり返す。

 人間の中でその時代その時代こうなって高まってこう落ちてくる、そうしたらこういうことを要求してそういうふうにやってくれたという漫才師と、曲に乗ってるだけの歌い手と。私の感覚はすでにあなたがたには古いのですが、それでもその時代いろんなことで入ってくる、それと自然とか遺伝子的なものとか、いろんな人付き合いの中から、歌というのは切り離されているわけではないのです。
 そういうところでは別に上の人に学びなさいというよりあなた方の生活の中で、そういう声とかことばの働きかけの中から、もっと学んでいけばよいのでしょう。そういうところからスタートすべきです。それを日本の歌というのは失いかけていますから、退屈になってしまうのは仕方ないのかなという気はします。そういう時代性をきちっととっていくという部分で問うてください。

 ありがたいことに漫才というのは結果がすぐ出ます。歌というのはなんとなく全部が成り立つというようなことで非常にわかりにくくなっています。その辺の基準は自分で厳しくしていくしかないという気はします。
 今日の中でも全曲やるようなことはみなさんのほうでもできます。そうでなく1と2の中に何があるのかを自分の中で見つけていき、そのためにトレーニングとか発声とか音楽を学んでいくというふうにしていくようにしてください。

 それは今年のトータル的な指針です。苦手なことは3年4年になってきたらあまり調整しなくても自分がどういう欠点を持っているかを知っていたら技術的に解決できると思うのです。
 そうしたらより自分の強みに対して集中して、他の人の出せない強みのところに特化すべきだと思います。違うというところで価値があるのです。

 違うということの中で納得させる裏づけが必要だから実力もつけておかななければなりません。しかし差異から始まる。
 同じ歌をどう歌い分けるか、どう違う人ができないように持っていくか。
 場合によっては楽器変えてしまうとかバンドを変えてしまう編曲を変えてしまうという手もあるでしょう。ここの指針としてはそれを声の中で変えれらるようにしたいと思います。【05.01】

<Q&A>

Q1:体力づくりで走っています。走り終わった直後、息がハァハァしているときに声を出してみると、低い声が出やすいです。ただ、本当にこの声で正しいのかどうかの判断ができないのですが。

A.人間の体は共鳴するようなしくみになっていますので、基本的にひびきをじゃまする作用がなければよくひびきます。多くの人は歌うことで、この邪魔をしています。ひびくこと自体は歌や、どのようにその声を使うかということとは別の次元で考えれば、そのことは問題ありません。ひびくことが不快でなければ、ひびくことの方がよいのです。

走ってから声が出やすいのは、体が柔軟になるし、力が抜けている状態だからです。歌う直前、いつも走ることはできませんので、普段の状態で息や体が使えるところまでもっていくようにしましょう。走ったあとの体の感覚をつかんでおいて、いつでもその感覚を取り出せるようにすることです。本当は、走ったあとよりももっとよい状態があるはずです。

Q2:高音と低音は、どのくらいの割合で取り組むべきでしょうか。

A.低い声は、のどをしめたり、声帯に負担をかけず比較的、体から声を出すという感覚をつかみやすいです。しぜんに使っているところに近いからです。高音も、本来はバランスが違うだけで、同じ原理なのですが、日本人はなかなかそのイメージや感覚がつかみづらいようです。体が動けば声が出るという感覚をつかむために「ハイ」ということばで芯をつかむトレーニングをしましょう。そのようなトレーニングで、だんだん音を上げていけばよいのです。

高い声が自分のトレーニングになっていないときは、自分の出しやすい音域を百発百中、確実に出せるようにすることの方が大切です。できることがより確実にできるということが将来の力となり、次のステップになるのです。基本を常に繰り返すことが勉強です。しかし、基本ばかり繰り返していると、基本が何のためであり、どこへいくのか方向性がわからなくなる人がいるので、調子のよいときに高音に挑戦してみたり、応用をやってみて、先の感覚を感じることも必要です。

調子の悪いときに、低い音のところも確実にできないのに高音をやるからのどにひっかかり、全くトレーニングにならないのです。トレーニングは積極的に試みなければなりません。どんどん新しいことを取り入れていけばよいですが、一方で、ベースのことを半分はやることです。ベースに戻る部分を「型」としてもち、毎日トレーニングして感覚に結びつける作業は必ずするようにしましょう。型と応用とバランスのよいトレーニングを心がけてください。そうしないと、自分のフォームもできあがりません。できることを大きくすること。それが、器を大きくする方法なのです。

Q3:声を出すとき、意識はお腹においているが、胸に手をあてている人がいます。胸も意識をおいた方がよいのでしょうか。

A.胸に手を当てているのは、ひびきを確認するためですが、手をあてるために肩が上がってしまうことも多く、あまりお勧めしません。お腹は、何をするときでも腰の中心だという意味で意識をおきますが、だからといって、歌を歌うときに意識したりお腹を使うのではないのです。体を動かしやすくするためのトレーニングレベルで意識することに過ぎません。横腹を突き出して声を出すこともトレーニングの一つです。スポーツ選手が腹筋や腕立てをやるのと同じことです。そういうトレーニングをすることで体が動きやすく、歌うときにしぜんと働きやすい方向にしていくために行なうのです。

Q4:声を出すときに息の上に声をのせる感じといいますが、トレーニングのときもこれを意識した方がよいのでしょうか。

A.同じことをいろいろなことばを使って説明しています。そのことばをそのまま捉えるより、自分のなかで感覚やイメージにおきかえて捉えていくようにしてください。そのことばでイメージがわくのならよいのですが、イメージがわかないのなら、意味がありません。自分のわかりやすいことばだけをとりこんでください。自分で気づいていかないと身になりません。ことばはキーワード、索引の一つに過ぎません。ことばを使うのはよいのですが、ふりまわされないようにしてください。

Q5:最近、暑い日が続いて、昼間通う学校や電車のなか、スタジオで、クーラーが入っているところや入っていないところを行ったり来たりすると、のどがすぐに変になります。声を出したときに違和感があるのですが、対処法はあるのでしょうか。

A.これには個人差があるようです。ある人は、ホテルのロビーの冷え切った空気を不意に吸い込んで一時的に失声、声がでなくなることもあるようです。これは急に冷えた空気をのどに直接、当ててしまい、それによってのどの筋肉や神経が一時、麻痺したことで動かなくなるのです。こんなときは焦らず、冷風が直接、吹き出しているような場所から離れて、口にハンカチなどを当てながら外気に順応するまで待つことです。

その場の外気がのどや首に当たらないように口にハンカチを当てたり、夏でも首にスカーフを巻いたりして、入室後しばらく慣れるまで時間をかける方がよいでしょう。それにいきなり強い大きい声を出すことも声帯を壊しかねませんから、徐々に声を出すか、時間前に早く来て用意することです。安易に、ビタミン剤やステロイド、抗ヒスタミン剤などに頼るのは、お勧めできません。信頼高い専門医にご相談を。


特集:福島英対談集vol.10
[M氏と]


F:ポリフォーン誌上で、私の本を一度紹介していただきました。15年前ですね。そのときに、主として取り上げていただいたのは、「下手な発声練習をするよりは、笑い転げていたほうがいい」というようなところでした。

M:はい。最近、急に声の本がいっぱい出てきましたね。

F:ここ3,4年です。

M:新しいのを書いて、本当は年内に出す予定だったのですけれど。

F:雑誌で糸井重里さんと鈴木先生との対談をしているのがあったと思いますけれど。

M:はい。

F:ワークショップをやっている人は、話しやすい。子供たちや合唱団にも接しています。いろいろなヒントがあるのではないかというところです。
当初は、腹式呼吸って何なんだろうと、専門家に聞いて、それぞれの部位に関してふくらませていくようにということだったのです。けれど、会っているうちに、かたちがなくて、それは自然がいいという(笑)。ほとんどの方がそうです。発声法の否定となる。私も現場ではそうです。
ただ、本に書くとき、あるいはレッスンでやるときにどうしても枠が入ってくる。現場を知っている人にはいいのですけれど、方法から入る人には、必ず間違ってしまう。といったら変ですけれど、かなりずれたものになっているのが、現状じゃないかということです。
今日、お伺いしたかったことは、ひとつは西欧に対しての日本という位置づけです。ずっと、日本の教育で声のことは、欧米で学んだ声楽の専門家が考え、その判断基準でやっています。Mさんは東洋やロシアのことなど、広くインターナショナルにみていらっしゃるから、そういうことにおいての声、後はワークショップや、現場でこんなアプローチがあるよということを教えていただければと。

M:そうですね。日本はやっぱり特殊ですよね。クラシックとポピュラーが分かれすぎている。他のところにいくと、そんなでもないね。

F:発声なんかでも結構どちらともなくつながっていますね。
ポップスでもクラシックっぽい、〜ぽいといったらほとんど。ミュージカルを見ると、一番はっきりする。日本の場合は、クラシック出身と役者出身がはっきりと分かれていますが、向こうにいくと両方の要素を兼ね備えている。

M:そうですね。両方勉強するでしょ、普通、自然にね。先生についていなくても、歌い方はだいたいわかる。特殊だというのは、おそらくそういう音楽の貯蔵庫と言われているのです、日本って。雅楽は、中国に失われたスタイルがある。いろいろなスタイルが日本に終着駅のように集まっていている。きっと発声の方法も、ある時期西洋で学んできた人が持ってきたものが、その時期のスタイルで残って継承されている。向こうでの練習方法が変わっても、日本ではそのまま残る。

MC:保存会的な。

M:日本というのは、保存会ですよ。何でも保存しておく。そういう要素が強い。だからものすごくいろいろな発声方法があるのですよ。

F:世界各地の音楽も保有しますよね。

M:うん、音楽も。ひょっとしたら間違っているかもしれないけれど、その間違って教わったものをそのまま持ってきて、それがきちんと流派みたいにあるというのが日本ですね。すごい奇妙なところなんですけれどね。

F:世界中の音楽が、これだけCDの棚に並んでいる国はないですね。

M:ないです。日本ほど豊富にいろいろな資料が集まるところは、おそらくないのではないでしょうか。

F:だいたい普通は6,7割は現地のミュージシャンで、あとはワールドミュージックが一部あるくらいで、すぐに消えてしまいますからね。オペラでも、ある時期200年くらい栄えたところ、そこの部分だけを日本人は、継承して、いまだにドイツ式だとかイタリア式だとかうんぬん、やっているというのは、向こうからみたらすごいことなのでしょうね。

M:そうでしょうね。皆、大真面目に考えて、どうしたら西洋人みたいな発声ができるかとそういうことに熱心に、また日本的な発声は何なんだろうかと、そういう追求をする。

F:今、ようやく日本らしくなってきたともいえるし、全く逆に日本らしさがなくなってきたのかもしれない。日本ほどそこに生まれていないのに、ハワイアンだけに、フラメンコだけに、1人の人が人生をかけているようなのは、あまり他の国にはないですよね。

M:そうですね。

F:そんな遠いところから持って帰ってきた。1950年から60年代にかけて、あらゆるジャンルの専門家や演奏家の日本人がいた。

M:日本は何でもありじゃないかな。

F:漫才でも、フラメンコ漫才とかハワイアン風、今もいろいろあります。
そういう中においてスタイル、の位置づけはありますか。ロシアだけじゃないですよね。どちらかというとアジア、エスニックに近いのですか。

M:ある時期からシベリアの、倍音を中心にやるものに興味があってやりはじめましたけれど、それ以前は、面白い声が出せればいいやという感じしたね。


F:15年前、あの本を出したころは、ジャニスとかツェッペリンとかその影響下にある人が、歌謡曲、演歌の発声も、クラシックの発声じゃ違う、向こうのロックの発声がしたいと。私はそんなものがあると思わなかったし、ロック入門のつもりで書いたわけではないのですけれど、タイトルで何か提示できないかと編集の方でロックとついた。ただそれも15年経ってみたら、果たしてどうだったのかというのを考えます。

たとえばロシアならロシアの詩人がいて、朗読があって、太い声のがあって、ああいうものに憧れる日本人もいます。
バリバリのロックとというのは、たぶんそれなりにできてしまうと思うのです。後追いすることで同じことはできないかもしれないけれど、音響的なところにずいぶん加工がいっていますから。むしろ民族音楽の生の声を求める人が増えてきた。そういう歌を教えている人などがいろいろと集まるようになってくると、基準はあってないです。伝わるかどうかだけ。

こっちはそういうものがあるというかたちで、場を提供している。
クラシックはクラシックのひとつの基準がある、オーケストラを越える声が出なければいけない。演劇でも広い空間でやったときに、遠くに声が届いたほうがいい、そういう無理してやっていたことが、だんだんマイクが入って、いろいろなできるようになってくると、かなり違ってきているというのが、今ですね。

だから、Mさんは、アコースティックなところでもやり、まして音響効果もいろいろと使われています。
今の教育の現場をみると、私は、学校もマイクを使って授業をやればいい、コーラスでも声量がない子でもマイクを使ったほうがいいなら使ってみればいいと。さすがに学校ではそこまでいかないのですけれど、どう感じられていますか。

M:歴史的にいったら、マイクの登場は大きいですよ。それがあったから、独特の喋るような歌い方だとかできるようになったんですよね。
今は、マイクによってひずむものをやれる。そういうものはずいぶん多いですね。

F:バンドで音楽に入ると頭から、テクノなんかは正にそうですけれど、マイクを使います。「マイクは第二の声帯」と述べられていたと思うのですが、でも体として声もお持ちですよね。ああいうワークショップはアカペラでやるのですよね。

M:ワークショップはマイクは使わないです。

F:その区分けというのはあるわけですか。

M:そうですね。マイクのパフォーマンスは別に教えないと、たぶんうまくいかないと思っているのです。生の声でやったほうが、耳が鍛えられる。声の鍛え方というより、耳を鍛えたほうが早いと私は思っているのです。耳や感覚とかを鍛えると、自然に発声もうまくできるようになるし、音程もしっかりとれるようになる。耳だと思っています、本当は。

F:耳のことは、私も、すべてと思っています。

M:自分の感覚を信じてやるのが、一番いいのではないかなあと。いろいろな本を読むのをいいのだけれど、とにかく自分で試さないとダメでしょうね。解剖図を見てもしょうがないですよね。
アレキサンダーテクニックなんかには、器官の位置を自覚することによって、体の地図をつくって、その地図にしたがってやればうまくいくというような考え方もあります。けれど、元々はそういうものは知らないわけです。知らなくても自然に大きな声が出たり、うまく機能しているわけだから。僕の考えは、何とかなっていればいい(笑)。そういうふうに。体を壊さなければいいんじゃないかと思っているんですよね。余計なことをやると体を壊す。

F:ああいったものでは、実際に我々が考えている体というのは、厳密な体とは全然違う。舌なんかこのくらいしかないと思っているけれど、もっと大きいと。でも正しい体の図が、必ずしもベースにならない。むしろ、感覚図ってありますよね。手や唇が大きくなっているという、その方がよい。正しく知覚したからといってどうなんでしょう。
歌を歌っている人や声を使っている人は、何かしらそういうマップを持っているでしょう。自分で作りつつ、感覚での切り替えを知っている。ましてステージをやっている人は、本質的なところはここだけど、今日のこの瞬間にはこうはできないから、こういう逃げ方とかそういうものをいくつか持っていますよね。固定した解剖図では、動かない。

M:自分で開発するんですよね。一番いいのは、うまくいっている人をよく見ろと、それが一番いいと思います。面白くて、自分が楽しくて、素敵な人のステージを見ていれば、自然に学べる。だから、いい先生につけばいいということだと思うんだよね(笑)。

F:ワークショップの参加者は、何か変わってきたりしますか。

M:そうですね。いろいろな人がきます。普通の人がきます。歌をやっている人は来ないね。

F:元々、演出家とかがワークショップをやっているのはわかるのですけれど、ライブを持たれて、演奏バンドがあるのに、わざわざそういうことをやられる必要性というのは。

M:自分のためですね(笑)。半分くらいは。

F:素人さん相手だと、何かヒントになるとか。

M:そうですね。僕らが気にしていないことを気にしていたりとか、まったく声が出ない人が、出てくるようになってくるのは面白い。楽しいというのと、交流がある。自分のやり方を考え直したり、試したりとか、いろいろなことができる。
ヴォーカルのゲームみたいなものは、人間の気持ちとかをアップさせるのにすごく役立って、交流していると、自分自身、声にいい影響を与えますね。
常に声は出しているしかないでしょう。結局、歌手というのは、少しでも休むと、声帯がすぐに弱くなる。運動不足というやつですか。

F:筋肉と同じ。

M:同じことですよね。いろいろなところをつかわないと、うまくできない。特に自分がやっているのは、皆が出せない声を出そうとしていますので、すぐに出なくなりますから。


F:一時、ホーミーで有名でしたよね。

M:そうですね。今でもそういう取材が多いのですけれど。なかなかできるようにならないというのがあると思います。うまい人は少ない、ほとんど。習いに行く人も少ない、大変だからね。

F:向こうの人は習っているのですか。それとも代々受け継がれたり、名人が出てくるというのは。

M:幼い頃から聞いているんでしょうね。モンゴルはほとんどいない。モンゴルはホーミーの地位が低いといえますね。

F:一般的には、モンゴルの発声法がホーミーと思われています。

M:日本はモンゴルとの交流がさかんなので、特にモンゴル中心ですよね。ヨーロッパ、アメリカにいくと、トゥバでしょうね。ほとんどトゥバのアーティストのものしかないです。モンゴルのものはとても少ない。実際に、モンゴルでやっている人が少ないです。音楽の中に取り入れられているものも少ない。たいていがソロ。限られた使われ方をしますが、トゥバとかにいくと、ほとんどの曲に入っている。ほとんどの人がやる。それでトゥバと交流をはじめた。

MC:トゥバとはどこら辺なんですか。

M:トゥバ共和国というのは、ロシア連邦に所属しています。つまりモンゴルのロシア国境側。モンゴルでロシア国境に、ロシアとしているのかな、ブリアートという国もモンゴル系。つまりモンゴルはある意味で分割されているのです。だから、トゥバ?のことをモンゴルだと思っている人もいる。でも言葉が違います。トゥバ語というのはまた違う。

F:日本人がホーミーというのは、何で知っているんですかね。

MC:そういう意味では、日本で最初にやり始めた。

M:たぶん最初のほうですね。

MC:そうですよね。そのころになぜ。

M:それは、トゥバの人たちと出会ったのです。たまたま、94年ですけれどね。それで、すごいこの人たちの音楽、面白いと思って、次の年も行って、それから毎年行くようになって交流するようになった。

F:いきなりエスニックのもの東アジアあたりのものが、日本にバーッと入ってきた。
スイスのヨーデルの裏声と並び、世界の変わった発声法として、モンゴル、ホーミーみたいな(笑)、位置づけになった気がしますけれど。

M:ホーミーが知られてきたのは、民族音楽学者が行くことができるようになったということですよね。それまで、モンゴルにあまり入れなかった。
ソ連邦に所属しているときは、ほとんど出てこられなかった。特にトゥバのものなんか。ある意味、そこに保存されていた。古いかたちで。

F:シルクロードに入るのですか。

M:シルクロードには入りません。まったく忘れられた土地なのです。だから中国、モンゴル、帝政ロシアのときと、すっぽり空いている。そこに人が住んでいたのが知られていない。独立国だったときもある。1921年から何年間か。切手マニアの方は知っているのです。切手がそのときに出ていて、その切手が高い(笑)。不思議なところなのです。民謡が保存されているスタイルとか。

MC:それは、外との交流がないから。

M:そうですね。あと、ソ連邦の政策として、その土地の音楽を使って社会主義を広げようというところがあったのです。だからホーメイを使ったトラクターの運転手の歌とか、そういうのがあったりするわけ(笑)。民謡を使ってイデオロギーを伝えるというような。

F:最近、教本に、今まであまりなかった音楽が入って、ボサノバやラテンパーカッション、ガムラン、たぶんリトミックの一環でも入ってきていると思う。やる先生は大変でしょうけれどね。

M:でも、いろいろなところの音楽を知るほうがいいですよね。やはり西洋一本主義だったところから抜け出して。

F:そうなってしまうと先生方の方が、クラシックオンリーでかなり分けているところがネックに。

M:日本の音楽学校の教育が間違っていると思いますよ。もう少し自由にいろいろなものを勉強できるといいですよね。

F:邦楽の長唄の師匠と話したら、最近依頼が多いと。文部省が邦楽を入れるように言ったから。いいような悪いような。

M:あれも複雑ですよね。流派が多すぎる、日本には。三味線ひとつにしても、どこのをやるのかとか、はっきりいって大変じゃないですか。近所のをやるしかない(笑)。だから、あまり文部省が決めないで、自由にその土地のものをやらせると面白くなる気がします。やっぱり上から何かを押し付けると、うまくいかない気がします。

F:社会科の地域学習のように?いろいろとある地域はいいですけれど。

M:そうですね。ない地域もありますからね。でも何か流行ると、すごく発達するのですよね。たとえば太鼓なんか、鬼太鼓座とかすごく人気が出て、日本全国にいっぱい似たのができてしまったため、少しつまらなくなった(笑)。皆が激しい太鼓で、もっとゆるやかな太鼓があったのに、そういうのが少なくなってきている。

F:和太鼓のブームは、わかりますよね。一番わかりやすい、打楽器というのは。

M:ブームというのは、広げる意味があるのだけれど、ある種の怖さがあって、全部同じになる、それが怖い。地元のものがなくならないようにしないと。

F:かなり閉ざされたところ、島とかに豊かなものが、生活レベルでは土着していますからね。その土着性がなくなってくると。ソーラン祭りなんかを見ていると、若いエネルギーはあって、誰かがプロデュースできるかだけ。

M:そう、皆やりたくてしかたがないのではないでしょうかね。声なんかも出したくてしかたがないと思うのです。都会に住んでいると、普通の生活の中で出せないでしょう。

F:最近、ヴォーカルスクールより、ゴスペルの方は、すごい人気ですね。

M:大反対なんですよ。ゴスペルなんかをやるの。だって宗教だから。あまり興味を持つと、あれは宗教をやるべきですよね。宗教の音楽でしょう。もっと無宗教でいろいろなことをやったほうがいい。

F:うちも15年前に、クラスでやっていた。向こうでいろいろな話を聞いていると、月謝制でゴスペルやっているのもまずいなと思って。皆で、つくり笑顔で、何かやれている雰囲気を楽しむところで、冒涜とは思わなかったけれど、変な誤解を与えかねないのと、あの勢いでやるから、皆、喉を痛めるのです。それは喉のためによくないと思って、やめてしまいました。いろいろな人たちがいて、楽しむのはいいのでしょうけれどね。

M:カソリックの政策なんですよ、あれは。地元の音楽を取り込んで布教する。イデオロギーをやるのと同じなんだけれど、英国人のものを取り込んで、それから韓国のものと。それぞれ、どっちの音楽を取り込んで宗教活動の布教に持ち込んでいる。ちょっと心配ですね。

F:ちょっとたちの悪い奥様方なんかがいますね(笑)。自分たちは、すごいことをやっていると思っていらっしゃる。何かあれですね、本当に。ミルクを飲んではいけないとか、迷信めいたものを持ってらっしゃる場合もある。

M:聖書に書いてあるということですか。

F:声帯に悪いらしい。声帯が粘るとか、そんなところ通らないのに。

M:聖書には、肉とミルクを一緒に食べてはいけないと書いてある。そのとおりにしなければいけないわけですよね(笑)。

F:やっぱり自然なのがいいですよね。教会に小さい頃から通っていながら、歌を聞いたら何も言わなくても、そこで歌う。でもあれはいい発散になりますよね。日本では変な新興宗教などもとり入れる。

M:まあ、音楽と結びつく。

F:周りの人には迷惑ですけれど、朝から大声で唱えていらっしゃる。健康的です。

M:声明だって、仏教の経典をわかりやすく伝えるために、メロディをつけたんですよね。そうすると、もう少し親しみやすい。古すぎて親しみやすいのかはわからないけれど(笑)。少し親しみやすいということではないのですか。


F:日本のベースというのは、どこか持たれていますか。地域的にとか仏教音楽にとか。

M:よりどころですか。全然ないです。

F:むしろ地球というレベルでやる?

M:あらゆる束縛から離れるというのが目的というかね(笑)。呪縛から逃れるためにやっているところがあります。もちろんトゥバでもチベット仏教が、モンゴルでも、そういう影響がすごくある。今度はソ連邦が崩壊してロシアになったときに、民族主義がおこって、チベット仏教の復興が起こっているので、かなりよってきています、そういう方向に。くみし得ないところは出てきます。付き合いきれないわけで。

F:とりあえず他の国に行くと、宗教、政治は、音楽のところときちんと組まれています。日本の音楽なんかは、あまり根はないでしょうけれど。

M:昔の本を読むと、トゥバなんかでもチベットの仏教祖が非常に腐っているということが書かれていますね。特権的なことを利用して、悪いことをする連中が多かった。で、何もしない。日本でも、お坊さんが腐っている(笑)、こんなことを言っていいのかな。
あまり宗教と結びつくと大変ですね。

なるべくそういう呪縛から離れたい。あるいはクラシック系からも離れたい。新しい、のびのびできる声、きちんとした姿勢で歌わなければいけないとか、こういうふうに声を出さなければいけないというのは、僕はだめで、そういうのから逃れる。横になって歌ってもいいじゃないかという考えです。小学校のときに先生に「こうやってきちんと立って歌わなければいけない」といわれたのです。じゃあ、寝ながら歌を歌う人を否定しますかという感じ。

F:クラシックだからでしょうね。でも、オペラなんかは寝ながら歌う。ブランコにのって歌ったり、結構大変だなと。

M:最近は、演出がすごい。オペラの演出も変わった人がやるようになってきている。新しいオペラはいっぱいつくられているけれど、日本に全然入ってこない。電子的なものをやっているオペラとか、いっぱいあるけれどね。日本には紹介されない。

F:前衛作品は、日本はダメですね。なんたって、オールディーズがうけるから。

M:もちろん、むこうもそうですけれどね。伝統的なものはいっぱい人が入る。
日本はクラシックというものと現代音楽がかけ離れていすぎるから、どっちもいったりきたりできて自然なんだけれど。
向こうでいうと、ニューミュージックという言われ方をしていますよね。ヨーロッパ、アメリカ。日本ではニューミュージックだとユーミンになってしまう(笑)。

MC:割と古典的なものがクラシック、現代ものがニューミュージックですか。

M:そうですね。

MC:やるほう、聞くほうも、古典的なものからニューミュージックまで。

M:そうとう聞きますね。

F:その辺のコラボレーションもノンジャンルでやられているけれど、伝統ものだけだとファンがつかないし、残れないのがわかって、そういう人たちが広げていることもある。後は日本の楽器の音色そのものが、結構、ブームですね。琴や笛だったりとか。

M:そうですね。要請もあると思いますね。ヨーロッパのフェスティバルとかで、その楽器を使った曲。武光徹の曲がすごく人気がありますね、「ノベンバー・ステップス」とか。そういうものを使うと、ひっぱりだこなのです。フェスティバルで。三味線はフランスで人気がないと聞いたけれどね。

F:フランスは日本にマニアックな人が多いですからね。日本人より日本を知っている。あれはすごいと思いますね。映画やアニメと同時に、音楽が入っていく。向こうは吹き替えなんかしないで、歌なんか日本の主題歌そのまま。イタリアで「スラムダンク」を見てびっくりした。日本語の歌じゃないかと。全然手間かけていない(笑)。台詞のところだけイタリア語にしている。この前、谷川さんと会って、谷川さんは読む人だったんだなと思いました。マイク、パフォーマンス的にやられているのは、サービス、サイン会みたいな感じなんですかと、失礼なことを聞いてしまった。

ああいう人が、日本にあまりいないのですね。いわゆるアーティックなこと、むしろ詩人かな、絵画や詩人とか、そういう空間と同じところに、言葉を持ってきて、音楽、言葉をつけてもつけなくてもいいのですが、そういう実験的な声での活動をされている方というのは。
だから、谷川さんは、向こうのフォークやロックを歌っている人は皆、詩人、メッセージを声で言っているのが、音楽になっているのだからと言うのでしょう。日本にもいないわけではないのでしょうけれど、かなり音楽によってしまうか、落語の噺家になってしまうかの世界で。

M:あの世代というのが、そういう世代ですよ。ビート詩人と共通した世代でしょう。アメリカとか皆。

F:政治運動とも結びついていました。

M:そうですね。ビートニクたちは朗読する。日本でも、白石さんはすごくうまいし。

F:朗読家が、一番ていねいに声のことを使っているかもしれないですね。

M:そういう声を出してパフォーマンスをするという世代なんじゃないかなあ。

F:福島泰樹さんだっけ。

M:福島さんなんかまたちょっと違う気がしますね。後になってから、はじめたのではないかな。ちょっと演劇がかっている。

F:演劇に入っていってしまうのでしょうね。漫才とか、いわゆるお笑い芸人みたいなところに。そこと音楽はまたわけられないのでしょうけれど、日本の場合ははっきり棲みわけている感じがします。本人がそういうつもりがなくても。

MC:声は、使っていないと衰えるとおっしゃっていましたが、普段からやるトレーニングというかされているのですか。

M:何かというと声を出していますね。家で。

MC:練習というときがあるのですか。

M:練習していますよ。「パー ピー プー」とずっとやってますよ(笑)。もう書けない音を出そうという。

M:子供たちは本当に面白い声が好きなのに、もったいないよね。そういうの、どんどん忘れていくわけ、そうするとどんどん喉の筋肉が弱ってくるよね。子供は本当は声で遊ぶのが好きで、それを生かしてあげたら、本当に自在に声が出るようになると思います、中学校くらいになると難しい。

MC:今の学校教育では、そういうのをいけないことだとおさえつけてしまうのですかね。

M:そうしなければ皆、音楽がすごく好きになると思います。

MC:それはMさんがいって、皆に面白い声を100個つくろうとか。

M:絶対に楽しいと思いますね。

F:小さい子ほど、下ネタとか下品なことが好きで、「フォー」とかやっているけど。

M:こんな声が出ると、皆自慢したがったり、休み時間にやっているのだけれど、授業では除外されているからね。それも引き込んでいいと思うのですよね。
生活の中でも声を出しにくくなっている。アパートで声を出しても、怒られ、家の中でもうるさいと言われることが多い。テレビの音はうるさいとあまり言われないのに、自分の出す音をうるさいと言われるのは、心外じゃないですか。

MC:確かにテレビやスピーカーから出てくる音って、失われているものが多いから、あまり刺激じゃないけれど、肉声ってやっぱり刺激的ですよね。だからやっぱりドキッとしますよね。

M:そうなんですよね。肉声に弱い子が育ってしまう。打たれ弱い。いろいろ議論していわれると、へこたれてしまう人が結構いる。あれは、普段からよく聞いたり出したりしていないから。

F:親も先生もあまり大きな声で言わなくなってきているから、弱くはなってきますね。ちょっと語尾が強くなると、怒られているみたいに感じる。

M:押さえつけるためのスタイルです。声を出さないようにさせるというのは、人をコントロールするためにある。

F:兄弟が少なくなったというのも、大きいでしょうね。

M:そう思います。僕、そういうのにすごく敏感で、コントロールするものに、なるべく反発していこうという姿勢なわけ。
だから呼吸法も、呼吸法をやった人は、人をコントロールしようとした人だと思っているわけ。宗教はやっぱり呼吸法をやる。呼吸法というのは、人をコントロールできる、たやすく。本来、呼吸できているものを、こういう呼吸をしなければいけないとしたら、おそらくそれは、うまくできない。そこで、もう一回教えてくれますかと、何回もお尋ねしなければいけなくなる。正しいものが何だかわからなくなる。

F:本やレッスンの弊害でもあります。「僕が呼吸をやりますから、それを正しいか判断してください」という子も来ます。「この呼吸は間違っていないですか」とか(笑)。

M:一番大事だと思うのは、正しいということを設定しないこと。それが一番人間にとって、活き活き生きられることだと思います。

F:そこが難しい。ワークショップだといいのですが、レッスンになると、「正しく教えてください」、「絶対に間違えないようにやりたいから来たんです」という人が多い。その区別をはっきり与える先生のほうを、彼らは待ち望んでいるわけですね。先生もそれにはまっていってしまう。
全く自由に出してくださいとやったら、先生も生徒も皆辞めてしまいかねません。

M:私は自由にやりますが(笑)。これは、最初に言うのですが、呼吸法をやる人は人をコントロールする。僕はそういうことはしませんけれど、自然に呼吸してくださいと。

F:どこでも、レッスンという意味が、コントロールされたいと思う人が、それをしに来てしまうほうが多くなっている。本来なら、感覚の次元を上げていくことで結果OKでなればいいと思うのですが。

M:それは聞く人もきっと悩んでいるのですよ。つまり、うまく呼吸ができていないから、そういうことを知りたいわけでしょう。だいたい白隠禅寺とかから。悩み事が多すぎて呼吸が乱れていた。坊主は皆、煩悩が多すぎて、エッチでしょうがなかった。なんとかしなければいけないから呼吸法をしなければいけない(笑)。
普通の人は違う。激しい欲を抑えるためにコントロールする。あるいは、精神的に不安だから息が気になる。そういう人は呼吸法をやることで、やっと自分がコントロールできる。普段うまくできている人がそれをやったら、おかしくなってしまう。そのポテンシャルがだいたいないのだからというのが、僕の考えです。

MC:それでも、レッスンやワークショップに参加される方というのは、自分で目標があるから行くわけです。学校の場合はそうではない。歌がうまくならなければいけないという意識がないわけではない。面白い声をいっぱい出してというところと、発声法とか呼吸法ではなくて、遊んでいる中から、もう少し音楽的にいい表現、こっちのほうがいいという表現を見つけていくほうに、先生がうまく引っ張っていってあげればと思います。

M:そうですね。面白い声を出すだけで、自分たちでゲームをつくってやり始めるんですよ。子供ってすごいと思うのが、遊ばせると自分たちで決まりをつくったり、自分たちの曲をつくったり、自然にし始める。だからそういうことを持ち上げるような授業ができたら、すごく楽しいと思います。

F:楽器なんかは本当にそうですよね。置いておいて、後は自由にさせれば、何かをやっていますからね。

M:シンセサイザーなんかもいいと思うよ。今、簡単で安い、5000円くらいの雑音を出し合う、あれはすごくいいと思うね。シンセサイザーの授業。

MC:それ、面白いですね。

F:電子ピアノには、いろいろな機能がすごくたくさん入っています。私のところは電子ピアノだから、何で声を教えるのにアコースティックのピアノではないのですかと聞かれる。実際にはグランドピアノほど不自由なものはない。本当の演奏会でもないのであれば、充分です。
能や歌舞伎の鑑賞ではなくて、千葉ロッテの応援に行かせて、腹から声を出す。そういう経験ってなかなかないでしょう。子供たちが。何かそういうもので知らないうちに声を出していたという感じができればよい。ジェットコースターやお化け屋敷でもいいでしょうけれど。

M:面白い声を出してゲラゲラ笑ったり、いじめられて泣いたりでもいいのですけれど、そうするとものすごく鍛えられる。エネルギーが。

F:やれている子はいるのです。プロレスごっこをしていたり。ただ先生が来ると絶対ダメ、学校では許されないことが多いですから。

M:本当に発声は筋肉とイメージだから、筋肉が全部鍛えられれば、あと腕とかこの辺が鍛えられれば自然に出るじゃないですか。呼吸法は学ばなくても、息をしているんだからいいでしょという、息できない人だけ来てください(笑)。

F:最近、それが昔の普通の状態じゃない子もいます。

M:それは確かにいますね。そういう子は体を見てあげればすぐに治るから、気持ちいいことをさせてあげれば、本当に直るんです。すごく単純にできていて、手をヒューッと肺のところに当ててあげれば、自然に出る。気持ちよければ、ああーいい気持ちだーと、いい呼吸とすぐに身につく。気持ちよさをしらないとダメです。それ以外は修行ですよね。ヨガとかの修行になるからね。それでも僕らは、違うことをやろうとしているから、そういうことをやったこともあるけれど、普通に歌いたいというときには本当にいらないと思いますね。自分の体を自然に守るようにすればいいだけだと思う。

F:幼稚園くらいのときが理想的なんでしょうね。音大生はダメなのですよ。小さい頃からそういう仲間に入らない。

M:皆、小さいときから勉強でやりますからね。

F:親が2人とも学校の先生だったりしていますから。世間から離れている人が先生になりますから。

M:なかなか学校に行くとやってくれないですよね。そのような声は、危ないから。自分の声が壊れると思って。ホーメイも皆やらない。声が壊れるんじゃないかと。

MC:そういうことってありますか。

M:それはありますよ。もちろん(笑)。あまりやると声が出なくなる。きちんと教わっていなくて、ある程度は。ついやりすぎてしまうんですよ、面白くてね。喉は、快楽と結びついているじゃないですか。気持ちよくて。気持ちいいことはとまらないというか(笑)。

F:それは、向こうに行って、そういうのがふさわしい地域とかそういう場所じゃなくても、どこでもできますか。

M:電車が走っているところがいいんですよ。やいたくなる。低い方の音が消えるでしょう。上の倍音しか聞こえなくなるから、楽しい。
僕は練習をしているから、下の音を蓋することができるけれど、普通はそこまでできない。すると、電車が走っていると、自分の上の口笛みたいな音しか聞こえないから、俺、うまくなったんじゃないかとか(笑)。

MC:それ、電車でやったら“危ない”かもしれないですね(笑)。

M:電車に乗ると、結構やりたくなる。

F:そういうのって、ここに感じて、頭蓋骨に振動する、脳内モルヒネみたいなものでしょうね。

M:でも、呼吸法を勉強したかったら、ホーミーをやったほうがいい。すごく息が長くなるから。1分以上はやってられるから。

F:操体法とか、体の技法をやられていますよね。あれはまた声とは別ですか。

M:操体はすごく役に立ちますね。考え方がね。操体法というのは、快適な感覚を味わうと、体の運動、精神活動がうまくいくよという、そういう考え方です。

F:心から体に入っていく?

M:快適な感覚。それを味わえばいい。いい音楽を聞くだけで、体が直る。骨格の異常配列まで治ってしまった。皮膚をさわって気持ちいいなと思ったら治る。直すという技ではなくて、直すきっかけを与える技術なのです。

F:いわゆる自然治癒力なんかが出てくる。

M:そうですね。

F:私は、前衛音楽というのはなかなか認めにくいところがあるのですけれど、心地よくない。心地いいということは、免疫性を高めますよね。そういうもののところで判断すると、芸術的なものでも、治癒力がある。ロックは人によって体に悪かったりする。免疫性が失われていくようなもの、これは体には心地悪い、今は医学的、科学的な計測ができるのでしょうけれど、昔は簡単にα波とか言っていました。
バイオフィードバック装置みたいな形まではまだ使えない。美空ひばりさんはこうなっているけれど、全然歌えない奴でもこうなっているとかいるかもしれないというレベル。特に超音波はそうですね。

M:超音波は当てにならないですね。

F:宇多田ヒカルが出ているというけれど、ビートたけしにも出ているじゃないかという。
まだα波のほうがよいかもしれない。実際に音楽と声、というよりも、声だけのことだけなのでしょうけれどね。

F:最初からああいう歌唱法や歌唱力があったというのは、育ちなのですか。劇団出身だから、ちょっと普通の人とは条件が違うように思うのですけれど。私なんかは素質とはいわないけれど、感覚だよといって、感覚が足りない人はそこをつけなければトレーニングをやっていたらどんどんゆがんでいってしまうから、いいものを聞きなさい、それに引っ張られるようにして、変える、というよりはもっと潜在的なものが出るように。
でも小さい頃からそう聞いていたり、そういうふうに声が出てしまう人がいますよね。ヴォーカルなんか先天的に、それが才能というのかどうかはわかりませんけれど、そういう部分ではあまり悩みがなく、レコーディングのときからパッとできたタイプでしたか。

M:自分もそうかな。あまり悩んだことないんですよ。歌ったら歌えたということでね。

F:海外の場合、親がプロでということも多いけれど、日本の場合はそこまですごい環境がなくてもできる。詩から入っていく人もいます。変わりましたか、声とか。10代20代。

M:10代からの声ですか。今のがもちろん意識的にやっているから違うと思うのですけれど、まあ、声は大きかったですね、最初から。

F:結構、日本人らしくない太い声がありましたよね。それにかぶせて歌っている部分もありましたけれども。ああいう声があると、高い声を出すとか、細い声にするというのは、結構やりやすいのですけれどね。

M:基本的なものは、やっぱり先天的なものがありますよね。

F:たとえばロシア人のバスのようなことができるかというと?

M:できないですね。のどの長さが違うからね。基本的にね。

F:ホーミーみたいなものも、すごくやりやすい人もいるのでしょうけれど、その条件があるないというのは、大きいですね。ヨーデルでも誰でもできるのだけれど、やっぱりうまくできる人とできない人と、それにふさわしい楽器を持っている人と持っていない人はいるとは思います。

M:さっき出したようなホーミーの高いような音、ああいう音はヨーロッパの人はあまりやらない。ロシア、ヨーロッパの人は皆、低いホーメイというのがあるのです。のどを転がすような、チベット仏教の、ああいうものをやる人のほうが多い。高いほうのはあまりやらないです。やる人は少ない。それは結構、構造が関わっているのかな、あと好きな音が違うんだなとわかる。

F:日本人の感覚と外国人の感覚って、すごく大きく違うところってありますか。

M:そうですね。言葉によってすごく違うと思います。トゥバの民謡も、やっぱりトゥバ語があってできているなと思う。ホーメイなんかも、トゥバの言葉を少し勉強すると歌いやすい。日本語ではうまく歌えないですよね。というのは、母音の発音なのです。主に出すためのテクニックというのは、あいまいなところの母音、日本にない母音だから、それをマスターするまでにとっても時間がかかる。かといって、ドイツ人がうまいわけではないので。「UA−」「UO−」というような母音があるのだけれど。

F:基本的に言語の違いなのですね。

M:そうですね。オランダのヴォイスパフォーマーは、のどの奥を使うのがすごくうまいですね。すごく上手で、まるで喉でパーカッションをやるみたいなことをできる。

F:最近日本でも流行りですよね。

M:ヒューマン・ビートボックス。あれは黒人が始めた。

F:結構、すぐれた人も日本の中で出てきているから、日本人でもああいうことができるのかな。あれなんかは、ちょっと違うと思いますけれど、行き着くところは、声の使い方の切り替えだったり、演出ですよね。

M:唇を使ったり、のどの奥のベース音を使ったり、そういうことでいくつかのリズムボックスの機能を割り当てたりしています。僕は楽器の模倣は好きではないのです。

F:楽器があるんだから(笑)。

M:楽器があって表現できるものは、模倣しなくてもね。楽器の模倣でなく、違う声を作るために使ったらいい。声でしかできないことをやったほうがいいよというふうに言う。

F:ひとりそういう人がいたら、楽器を持ち運ぶのがいらない(笑)。

M:そう、貧乏だからやっているんですよ。要するにリズムボックスを使えない黒人が始めたのです。全然レベルが違う。すごくうまいんだよ、やっぱり。

F:特に、太い音や低い音は真似できないですね。よく黒人のコーラスを聞くと、高いのも真似できないけれど、低いほうも無理。

M:低いほうはすごいですよ。

F:映画なんかでも、そこまで低いというよりは、体の底からみたいな太い声。ロシア人もそうなのでしょうけれど。あれは日本にはない声だなという感じがしますね。

M:日本的なものは勉強しなくても、だいたいできますよね。自分の場合ですけれどね。

F:どこかに入っているんでしょうね。

MC:どうなんですかね。僕は出身が青森で、民謡をラジオから流れるのを聞いて育った世代ですが。今の子は、津軽三味線を聞かせても、何これ、という感じですよ。

M:そうですか、あんな流行っているのに?

MC:最近は、逆にブームになっちゃっているから。そうじゃなければ、何これ、訳わからないという反応です。大都市に住んでいる人たちは、小さいときからテレビから流れてくるのは、J-POPSかアニメか。

F:今、全国全部同じになっている。
何よりも労働歌がないですね、木を切ったり、網を引いたり、それは消えていっているでしょうね。

MC:演歌や民謡が流れることも、ほとんどないでしょう。少なくとも都会の子たちには。

F:古いテーマパークに行くと、いまだに演歌が流れていたりする(笑)。スキー場とかもダメですね。

M:もうJ-POPSでしょう。

F:ちょっと前まで、中途半端に遅れているところがいろいろとあって、懐かしいなと思っていた。

MC:まったくないわけではないと思いますが。変な話ですけれど、世代を越えて共通ですんなり歌える歌って何だろうということになるのですけれど、情けないですけれど、「兎追いし」とかそういう歌になってしまうのではないですか。

M:うーん。

MC:そういう、ある意味では日本古来のものではないですけれど、日本的なものといえば日本的なものですよね。せいぜいそれくらいなのかな。今、本当にいわゆる日本的な民謡、能でも歌舞伎でもいいのですけれど、そういうものがどこかで聞いていて、ちょっと教えられると、そうかこんな感じか、という感覚がすごくなくなってきている気がします。

M:邦楽の人ががんばって、新しいヒット曲をつくらないとダメだね。

F:体とか血に流れているもの、あと育ち、脳とか五感を通じて、生まれたあとに入ってきたものと、どちらが強いかわからないですけれど。

M:知らないうちにいっぱい聞いていますからね。僕なんか世代的にいうとまだね。寄席も小さいときに行ったりしているし、いろいろなものを見ている。テレビでもああいうものを結構やっていた。浪曲大会もやっていた。すべて、そういう番組がなくなっていますからね。

F:今は、コンピューターの音楽ですからね。

M:せいぜいNHKで、意識してつけないと。

F:でも、親の見ている番組を一緒に見ないし。

M:バラバラだからね。

F:自分たちのものしか見ない。

MC:そうは言っても、僕も小中学校のころは、民謡って何てダサい音楽なんだと、すごく嫌でした。

M:そうですよね、ダサいと思いますよ、はっきり言って。いい活動している人があまりにもいないから、変な保存会になって、自分たちの活き活きした音楽をつくろうという姿勢がないんですよ。あれはよくないですよね。あれがもっと活き活きしたものだったら、他の外国に行くと、そういうところがあったりして、新しい民謡を作ろうとか、皆努力をしてやるけれど、日本は保存ばかりですね。

F:いいものを汚して、次のところに行かないですものね。だんだんうすめてしまって。

M:新しいことをやる人が、もっと出てきてもいいと思いますね。やっと最近、伝統音楽の見直しというところが出てきたけれど、どうしても僕が習ったところは小学校唱歌とか、そういうのですよね。そうすると、やっぱり明治維新、あのせいでおかしくなっているのです。国歌をつくるにしてもああいうものになっている。最初に国歌をつくろうと思って、イギリス人のフェントンという人に頼んだんでしょう。イギリス人に頼むくらいなら、日本人にと。でも、日本はそういうところですからね。

F:向こうのものを持ってくるばかり。

M:そう、小学校唱歌なんか、スコットランド民謡とかそんなのばっかりじゃないですか。よくよく見ると。

F:「ほたるの光」でも、日本のものみたいに思われている。

MC:仕事で最近、海外の工場へ赴任するじゃないですか。現地のパーティでお国自慢で何か、みたいなことで、しょうがなくて、日本の歌で「ほたるの光」、それ、お前のところの音楽じゃないだろうと(笑)。

M:恥ずかしいよね。「さくら」か何かを歌ったほうがいいね。皆、知っているから。でも、「さくら」も皆歌えなくなっているんじゃないかと思います。

F:そうですよね。「君が代」なんかもそうでしょうね。学校でも覚えるところまでやらせませんもんね。むしろフォークのほうがあれじゃないですかね。ベースにあるものがなくなった。

F:Mさんのバンドは、そういうものではなく、テクノっぽいもの、格好いいものにしてしまったというのは、あれが格好いいと思って、ひとつの美意識としてつくっていたのですか。

M:要するに、演劇のつもりでつくっていますから。でも、最初のやつは能みたいな歌い方をしている。普通のポップスに使わないような歌唱法を使ってやっていたのです。

F:いわゆるテクノの人たちの入り方とは違う?

M:全然違う。テクノのつもりでつくっていない。変な楽器を集めようと思ってやっただけ。最初、シタールまで入れたから。タブラン?までいたし。いろんな要素が混じって、リズムボックスは、ドラムがいなかったからしょうがない、リズムボックスでということで。

F:吉祥寺の羅宇屋なんかでね。

M:うん。歌えるものだから、普通の歌もレコード会社の要請で歌いますけれどね(笑)。

F:あの当時って実験的なバンドが多かったですよね。

M:そうですね。日本のロックバンドは歌がすごく下手だと思う。そう思いませんか。めちゃくちゃ下手。こんなの出てきていいのかなというくらい下手。

F:その流れは今も変わらないでしょうね。

M:ちょっと下手すぎる。もうちょっとうまい人を、きちんとデビューさせたほうがいいね。きちんといますからね。

F:声が出たり、向こうふうにシャウトできたりする人はあまり受けなくて、なまじ下手な人のほうが、ロックしちゃっているところがあるというのが、日本でしょう。ロックをどこに求めるのかでしょうが、こねくり回されてみて、ぐちゃぐちゃと聞こえてくるなかにある。でもこれは音楽性を問わず、メッセージが伝わるというほうが、日本の場合はメジャーにのっていく感じがしますね。

M:ある種、伝統かもしれません。語り物、どちらかというと、歌がうまいではなくて、語り物のほうがいいという感じがあるかも。

F:私の世代では完全に区分けされていました。洋楽を聞く人は邦楽はダサい、フォークやニューミュージックを聞く人は、洋楽は向こうのものだと。そこは今なくなった。日本人なら日本語で、日本人がわかるように歌えばいいというようになってきたのは、別に間違いではないと思いますね。

M:うん、それはいいと思いますね。

F:合唱団のH先生が言っていたのだけれど、「矢野顕子っていいんだよな」と、どういう根拠があるのかというと、判断がつかないから疲れないって。一理ある。

M:古関裕而さんに、自分のアルバムに入れようと思って「イヨマンテの夜」を歌うと。ダメだといわれた。何でかと聞いたら、矢野顕子みたいに歌わないでくれと言われた(笑)。矢野顕子みたいに歌われるのは嫌だと言われ、そのままピアノで「アーホイヤー」みたいに歌った。

F:伊藤多喜雄さんみたいに?

M:うん。民謡みたいに歌った。そうしたら一発でOKだった(笑)。ちゃんと歌えるかどうか心配でしょう。歌えますというところはきちんと見せて。

F:ダメなんだ。矢野顕子じゃやっぱり。

M:CMの曲でもそういうことがあった。CMで矢野顕子が曲を書いて、僕が歌ったのがあるのだけれど、スポンサーが矢野さんのデモではダメ、しかたないから僕が作り直して、曲は矢野さんなんだけど。

F:H先生が言ったのは、そこまで突っ走ってしまったら、批評のスケールにのらないという意味だと思うのです。声がいいとか歌がうまいとか、そんなものではからないところで楽に聞けると。専門のコーラスの耳を持っている人だと、普通の歌を聞くと、必ず文句が出てしまうから、ああいうのがいいというそんな感じでしょうね。ああいう矢野さんやYMOの流れとは全然、違うわけですね。

M:皆、スタジオミュージシャンみたいな人たちですからね。僕らは違う。音楽からあまり入っていなくて、演劇から入っている。

MC:そういう感じはありますか?僕はあまりそういうふうに感じたことがなかったのですけれど。

F:声が多彩ですよね。YMOなんかは特にそうですけれど、3人とも自分たちが下手なのを知っているから、声を器楽音として、ほとんど聞かせない。

M:元々、歌を歌う、ダサいミュージカル劇団にいた。皆、すごく歌が下手なのです。うまく歌うと目立っちゃう(笑)。

F:たぶん演劇から入った人のほうが、現実に声の元にぶつかっていますよね。音楽から入って声を扱う人は、日本の場合は声にはいかないですね。どちらかというと、どんどん加工のほうにいくというような。結構何もかも同じ歌い方。それでもユーミンや中島みゆきの声も、最初聞いた変な感じから、20年以上、やっているとそれなりにカリスマ性、独特のものが出てくる。

M:やっぱり素晴らしいものになりますよね。

F:皆そうですね。2,30年やっている人は、確かな理由がありますからね。

M:変な声でも、うまくいっていれば直す必要がないですよね。直すとつまらなくなる。せっかくいいものを持っていても、面白くなくなる場合があるから、癖は癖でうまく生かせるならいい。体を壊すようなら困るけれど、そうでないかぎりは、間に合っていればいいという気がします。

F:歌い手は面白いですね。どこかで化けるというか、声以外のことで貫禄がつくと、似たような声でも全然、今まであんな声と思っていたのが、何か輝きだしてきたり、違って聞こえる。場所によっても違いますね。こういうところが得意な人と広いところがいい人。

M:そうですね。歌い方が違うんですよね、やっぱり。大きなホールに行くと、歌い方がまた変わる。

F:このくらいのライブ会場がやりやすいですか。

M:ちょっと遠いけれど、もう少し壁が近いほうがいいですよね、モニターするとき。あっちまでいっちゃうと、返りが難しいですね。もう少しここの響きがきちんとしていないと、きついのだけれど、天井がないからちょっとしんどいかな、贅沢言うとね。こういうPAする音楽にはいいのかもしれない。

MC:最近皆、PA前提でできていますね。

M:そうですね。それがちょっと不満ですね。音を拡張してもいいのだけれど、半分くらい生音が聞こえてくれたほうがありがたいですね。というのは、全部音を拾えない。本当に生の音はいろいろな成分を含んでいるから、そこのところを少し拾えないと。

F:カラオケ以降は、本当にエコーをかぶせたようなのばかり。昔の人なんかも、デジタル加工版とか音質よく出していたら、つまらないものになってしまっている。昔の人は、生の迫力で歌っていたから。

M:あと、声が大きい必要もない。だって、自分にだけ聞こえる音楽であってもいいのですよね。音楽というものが、皆に聞かせて楽しませるものという誤解があると思う。音楽はいろいろな役割を持っていると思うし、楽しませるだけが音楽ではない。どうもそういう傾向があって、いっぱいいっぱいの人にとか。

自分だけのものがあってもいいのではないかと思うのね。小さな声で。モンゴルのホーミーなんかは、カブダン?の音楽になっているから、大きな音を出さなければいけない。一方、トゥバのは何か自分だけでやれるようなところがあって、羊を追いながら自分で楽しむ。それはそれで機能していると思うのです。歌の機能があると。そういう音楽を、僕は10年くらい前からすごく好きになって、ホーメイが好きになったり、口琴という楽器は、自分で楽しむ楽器、そういうのが好きになったんですよね。


MC:学校の先生はいろいろと遊んでしまうことを押さえつけるわけですけれど、そうじゃないMさんの考える音楽、学校の先生に、こういうふうにしたらいいんじゃないのというアドバイスをいただければと思います。

M:とにかく子供たちを、どうやって伸び伸びと声を出せるかという環境をつくってあげるのがいいと思います。あと声のゲームとか、いくつかあるから、そういうものを参考にすればいいと思います。ゲームって楽しい。それだけで声が出るようになると思います。

この前、フランス人のガイ・レーベルという作曲家なんだけど、声の作品をつくっている人で、その人のレクチャーに行ったのだけれど、子供たちが4人くらいチームになって、声で遊ぶという作品をいくつかつくっている。波というのをやっていて、声を波にする。「あ〜 〜 〜」というのを投げるのね。向かいの子供がそれを受け止めて「あ〜 〜 〜」と、いろいろな声が出てきて、そういう遊びとかいくつかつくっているのですよ。楽しい。それを合唱にしたり。こうやったら皆が、「あ〜 〜 〜」とやったり。楽しい作品をつくっている。

F:即興のような、伝言ゲームのような。

M:そうですね。いろいろなものができて、器楽でもできるけれど、声はすごく楽しい。

MC:あと感じるのは、システム自体がそういうふうにできていないので、難しいのですけれど、1クラス30人とか教えているじゃないですか。いろいろな声があっていいはずなんだけれど、なかなかこの子は合唱には向いていないけれど、独特の味を持っているとか、そういうものを認めて、君は君でいい声だよ、味があると伸ばしてあげるというのが、できていないような気がしますね。これは子供にとっても、先生にとってもかわいそうですね。

M:先生も耳鍛えないとダメだな(笑)。

MC:ありがとうございました。


<VOICE OF STUDIO>

レッスン感想

★「うちへ帰ろう〜」にすべてが込められている。この一声を聞くと、何か懐かしい子供の頃のようなところへ、帰れるような気がしてくる。優しい気持ちがこみ上げてくる。忘れていたことを思い出せそうな気がしてくる。歌を聴くたびに、このフレーズを今か今かと待っている自分がいる。
 彼女の歌は、さまざまな表情に溢れているが、それは的確な技術に裏打ちされているというよりも、内側にある感覚から出ているのだと思う。それは、例えば歌の中で様々な表現を「使い分ける」美空ひばりとはまた違った次元の出来事だ。美空ひばりに感じるような確固たる上手さを、彼女には感じない。

 確固たる上手さを感じないというのは、今のポップス全般に関しても言えることだ。それどころか、いわゆるJ−POPには、従来の意味での「上手さ」を嫌う風潮がある。ポピュラー音楽を聴き始めて間もない頃の僕も、その感覚を共有していた。でも、それ以降、意識的に世界のいろいろな音楽を聴いていくにつれて、今度は逆にその風潮に対して否定的な評価を下すようになっていった。それが、聞き手の音楽にたいする未熟さにも思われたからだ。

 でも、ヴォーカルのトレーニングを始めると、いろいろと思うことがあり、またまた価値観は変わり、この風潮を再び理解し始めるようになっていた。そして今、この曲を聞いて、凝り固まった先入観もなく、素直に感動していたかつての感覚を再び感じることが出来た。歌詞の通り「うちへ帰」ってきたのだ。それでは、時代の目には否定的にとらえられる「上手さ」とは何なのか?そこに絶対的な技術力の優越はあるのか?それとも、単に求められる技術の種類が変わっただけなのか?残念ながら、まだよく分からない。でも、それを探ってゆくためのきっかけがつかめた気がする。

★小さい表現でも、テンションを落とさない:特に自分は、大きな表現の部分には気持ちが乗って、小さく出す部分に関しては、気持ちが散りがちだと思う。大きな部分の表現は、勢いだけで持っていける場合が多いが、小さく出す部分は、そういう訳にもいかず、より神経、テンションが求められる。いわば、その人の技量が見えやすい部分だろう。ごまかしが効かない部分でもある。だからこそ、より細かく、繊細な表現が求められる。大きな部分しか気持ちが乗らないのは、自分がまだ幼稚だからだろう。特に、出だしの部分。歌が始まる部分には、しっかり集中して、表現していきたい。自分は、歌に入ってから気持ちが乗る場合が多いので、歌う前の気持ち作り、集中力ということに、今後はより重きを置いて、考えて実行していきたい。

 つまずくと、テンションが極端に下がる:これもどうかと思うが、やはり、気持ちが足らないからだろう。歌の先が見えていないからだろう。ミスをすれば、そこで崩れてしまうので、テンションは落ちてしまうだろうが、自分の中で本当の先、最後までイメージできていたら、そこまでテンションが下がるということはない。自分を信じ、自分の、等身大の歌を歌えれば、あまり問題のないことだと思う。そこまですれば、そんなミスもしないだろうし、気にもしない。だから、そこまで信じられる自分を作るために、毎日コツコツ練習していきたい。

 どれもこれもできないことを知る:レッスンでは毎回思い知らされる。こんなちょっとしたこともできないなんて、と。普段の生活の中では、ここまで劇的に感じることはない。なので、自分にとってここでのレッスンは、恥をかく場であり、できないことを痛感する場でもある。勢いだけ、声だけでできてしまうと錯覚する。気分よく出せたらそれで良としてしまう。そうなると、そこで終わってしまう。それ以降の進化が望めない。昔の自分だったらそんなのことになっていただろう。でも、今は、少し成長し、それでも満足できなくなっている。おかげで、昔よりほんの少しだけ深く考えることができるようになり、より歌の面白さに気づけたと思う。まだまだ進歩したいので、あきらめず、毎日少しずつ前に進めるようにしたい。

★歌を歌わない:歌を歌と捕らえると、ただの歌を歌っているだけになってしまう。歌を歌っている行為をしているとだけしか認識されないだろう。そうなると、伝わるものも伝わらない。自分で作った歌詞さえも、中身のない言葉の羅列になってしまう。そうなってしまうのは、言葉を大事にしないからだ。何のためにその言葉がそこにあり、何を構成しているのか。その言葉以上のものを、後ろに感じることができなければ、歌う意味がない。歌になると、様々な制約があり、自由に言葉をおくことができない場合が多々あるだろう。そうなると、言葉を選び、そこにその言葉以上の意味を持たせなくてはならなくなる。実際、口で言うよりも。歌うために歌うのではない。伝えるために歌うのだ。気晴らしにやっているのではないのだから。

 歌の気持ちと、自分のテンションを同じにしない:気持ちを作り、いざ歌おうとする。テンションが低い。歌う前の気持ち作りはできたが、その気持ちを歌う原動力であるテンションが低い。「悲しい」歌だからといって、テンションを低くしてはならない。せっかく作った気持ちも台無しになる。言葉以上に伝えるのだから、テンションはガンガン燃やしたい。今にも溢れんばかりの気持ちが少しずつ器から滴り落ちるような、弱い表現だが奥には強いイメージが見え隠れするような、そんな表現をしてみたい。


『ヴォイストレーニング基本講座』

 新装版によせて その1

 私が「ブレスヴォイストレーニング」の理論と実践方法を、この本(旧名「ロックヴォーカル基本講座」)で問うてから、随分とたちました。私の声に関する最初の本でしたが、どの本にもまして、多くの人に読まれ、また何度ともなく読んで、ボロボロになるまで使っていただくことの多かった、本当に多くの方に愛された本でした。また、たくさんの才能ある人との出会いをもたらしてくれた本でもありました。

 その後、私が主宰するブレスヴォイストレーニング研究所では、歌手、俳優など、声をプロとして使う人はもとより、それを目指している一般のレッスン生、さらに声楽家、ヴォイストレーナーを見てきました。さらに、私の一人よがりをさけるため、いろんな方面から外部のトレーナーやプロデューサーとトレーニングの成果や基準を常に検討してきました。科学的、医学的な専門家ともいくつもの共同研究を進めています。(一人の研究生に複数のトレーナーをつけ、方法やプロセス、本人との相性を考えながら、いつも試行錯誤してきました。最近は、研究も充実し、レッスンはプロを中心とした、個別の表現のための声の実験場となりつつあります。)
 
 ヴォイストレーニングの実情といえば、未だ、自らに効果のあった(と、トレーナーが思い込んでいる)方法だけ、あるいは、他人から受け売りしている方法を一方的に与えるだけで、その効果の検証、反省、改良など、ほとんどやられてこなかったからです。
 つまり、相性の合う人だけが、トレーナーをまねて、その半分くらい身につき、それ以外は合わずにやめていく。それは本人の問題もあるのですが、トレーナーも含め、多くの改善の余地があると思います。
 その結果が、今の日本人の声やヴォーカル(声楽家含む)の力なのです。世界のトップレベルで活躍する他分野の日本人アーティストやスポーツ選手をみるにつれ、じくじたる思いでいます。


「本当に、正しい声」とは何か?

 こうして本が版を重ねると、いろんな質問がきます。本の通りにしたが、その通りにならなかったとか、間違っているとか、別の方法がよいとか、いろんなことを言われます。その多くは、今回の改訂で付け加え、また誤解や明らかに間違ったトレーニングを防ぐための注意を細かに入れました。

 その上で、その人がそう考えるのなら、それもその人にとって正しいといえます。しかし、本人にとって正しい声というのは、本人だけにしか通じないものであり、私の伝えたい「世の中で通用する声」とはきっと違うのです。もしそうなら、その人は現実に活動しており、何も言ってこないはずだからです。その人だけの気に入る声、あるいは、ヴォイストレーナーと二人だけの間でクローズにされている声は、私には関わりようもありません。そういっているような人は、そうではないといっている声で、現実にどこまでやれているのでしょうか。

 もう日本人も、日本一とやらでなく、世界で活躍してなんぼの時代です。いい加減、海外や他人の理論や方法を盲目的によしとして、ものを判断するのをやめたらよいのに、と思うのです。それがうまくいかないのも、合わなくなるのも当たり前です。こうして、本を書くことで“発声学者やマニア”ばかり増えるのなら、私の本意ではありません。自らフィールド(現場)をもち、フィールドを知り、フィードバックしていただけたらと、切に願います。

 というのも、私が二十年以上前にすでに古いと思い、誤りも証明されてきた過去の文献や、海外の文献をもっての批判に閉口するからです。それを踏まえた上に、この「ブレスヴォイストレーニング」を日本人のために構築してきたのですから。願わくは、新たな代案と、それによって世界に通じるように育った人材、育てた人材として提示していきましょう。

 私たちが論じるべきことは、用語のあげ足とりでなく、どのような人材となったか(または、育成しているか)の一点だと思うのです。現に、「ブレスヴォイストレーニング」も私も、基本的なことは変わらずとも、表現や指導のスタイルは、日々新たに時代や相手によって変じています。年々、成長しているのです。
 批評批判、本書の誤りについては、大いに指摘いただければ、ありがたく存じます。具体的なページや用語をもとに疑問を出していただく分には、誠意をもって対応したく存じます。質問も歓迎しています。本書がこのように育ったのも、皆様のおかげです。


「真の成果」とは?

 いろんなスクールから入ってこられる人もいます。また、他で学ばれる人もいます。ただ、昔と違い、トレーナー依存の人が多いのと、短期的、かつ表面的な効果を求める人が多くなり、どこのトレーナーもその対応に追われているように思われます。そのため、多くの人が関わるようになってきた割に、真の成果は乏しいように見受けられます。
 本書の理論が、発声法の本と違うとか、他のトレーナーについたら、声が楽になったとか、広い声域、美しくひびくようになったという人もいます。ただ、私は当初から、そんなことを目的としていません。また、そういう人の本当の目的がそこにあったとも思えないのです。トレーニングをすることで、本質を見間違うようになるのなら、残念なことです。

 現実には、声をベースに、その人の世界が成り立つ−それに足る声だけを、私はみています。そのために、声がハスキーでも悪声でも、音域が狭くとも、声量がなくとも、かまわない。発声が間違っていてもよい(そもそも間違いとは、声楽からみてなのでしょうか?それならロックの発声は、欧米人も含め、ほとんどタブーを侵しているのです。)社会で通じ、日々、役立っている声であれば充分と思うのです。

 その究極で、一分のスキもない再現に耐えうること、繊細でていねいな表現ができることが、私の求める声の条件です。それは、一声発すれば、充分に何かを伝えられる、一声伸ばせばすべてを伝えきれる、あなたの世界が声で広まり伝わる、そんな声です。その声をもってして、社会的にやっていけないという人がいるとしたら、それは、トレーニングの問題でなく、もっと大切な何かを忘れているのではないかと思うのです。声一つにも、その人の全ては現れているのですから。(もちろん、トレーナーは本人がよい声でなくても、他人をそのようにサポートできればよいとも思うのですが、声にはかなり高度な判断力と経験が問われます。)