「感性を高めるためのヒント」
感性のレベルアップをしよう― 世界で初めて“感性理論”を完成―「福島流・感性の法則」
(1)感性なきものは生き残れない
7 実力社会の決め手となるのは、フィーリングだ
仕事や生活がうまくいくためには、結局のところ、人間関係のよしあしが決め手となる。そして、それは長い眼でみると、感性での関わり方のよさに負うところが大きいと思われる。
これからは、日本のビジネス社会も、終身雇用下での年功序列制度という、これまでの会社と正社員といった既存の組織のワク組みがこわれていくだろう。目下のリストラを経て、派遣ビジネスやアルバイト契約に担われる部分も増えていく。つまり、これまでの不動だった会社の知名度や地位、肩書きが、それだけでは全く通用しなくなる。いわば、既製の権威が崩壊していく。さらに規制緩和、自由競争の波は強くなり、ビジネスの関係も新しく再編されていくだろう。私生活でも、高齢化社会となり、家族や教育にも大きな変化がおとずれよう。そして、これまでの束縛に縛られない人が多くなる。
すると、当然のことながら、感性中心にものごとを進めていく傾向は高まっていくだろう。なぜなら、これまでよりも、自分が決めなくてはいけないこと、決められることが多くなり、その結果、人生も仕事も、メリットよりも気持ちのよい人と関わっていきたいという欲求が優先されるようになるからだ。仕事も一人ひとりが感性豊かにとりくんだものでなくては、認められなくなっていくだろうから、尚さらだ。
実力社会というと、才能、能力や資格ばかりが重要視されていくと思っている人が多いが、むしろ、人間関係が最優先するようになるのである。つまり、成功は、その人とやっていきたいかと思える人がいるかどうかに絞られてくるのである。そうでなければ、たとえ一時、仕事になってもその関係がすぐに切れてしまうだろう。次々とパートナーを変えていては、決して仕事はうまくいくものではない。そこでは、おのずと気の合う人を求めるようになる。
仮に私が、ある人とやっていきたいと思うとしたら、そこにはいくつかの理由がある。
1.やって欲しいとき…技量がある。その人にしかできない。即戦力、実力を頼りたい。
2.やってみたいとき…どうせなら、この人とやってみたい。おもしろいものができるかもしれない。何かうまくいく気がする。
3.やらせてみたい…試したい。あとでよくなる気がする。いずれ、よい関係ができそうだ。
このうち、即戦力といわれるのは1であるが、本当にビジネスや人生において望まれる関係とは、むしろ2、3の方から生じることが多い。というのは、1のようなプロ中のプロとは、確実であるがために、結果もはっきりしている反面、ビジネスライクなつきあいで終わることが多い。コストも高く、忙しいこともあるだろう。それよりは、2、3の方がおたがいに学び合うような関係がもちやすい。
ともあれ、実力だけを問うていく社会になるにつれ、それぞれの人がプロとして力を出す分野がはっきりとしてくる。すると、仕事のやり方や期待されるものも変わる。すると、各人がそれぞれの仕事のスタンス、ポリシーをもって、それに合う相手を選ぶことになる。その決め手は、即戦力というだけではない。むしろ、自分の求めるところまで、どのようにイメージを広げてやってくれるかという感性が決め手になるだろう。また、仕事も、おたがいの知恵を出し合って発展させていくというソフト型のスタイルが多くなる。それは決して、一朝一夕でできることではない。おたがいの感性を結びつけて、新たに創り出していくことになる分、フィーリングがものをいうわけだ。
☆よい仕事はプロセスでの感性の交換をうまくすることから始まる。
8 感性で語り合うグローバル人間になろう
私はよく人の紹介を頼まれる。「こういう商品の開発のできる人はいないか」とはっきりと求められるときは、楽である。そういう人がいるか、どうかだけだ。しかし、「懐が深く、人望のある人に会いたい」などと言われると、難しい。引き合わせるにも、おたがいの性格や仕事ぶりをよほど知らなければ、おいそれとはできない。
仕事なら前項の1〜3を考えて、決めればよい。現実には、私は2、3の可能性をとることが多い。つまり相手に会わせてみたら、何か違う可能性が出てくるのでは…とか、後でおもしろい関係が生じるのではないかといった具合に考えてみる方が楽しいからだ。こういうとき、「感性がいるなあ」と思うのである。
それは、私のやってきた仕事の多くが、その場で即、成立させるものというよりも、人間関係のできたあとにしか仕事にならないものだからかもしれない。私は、ものの製造や販売でなく、人間相手にソフトを育てることを生業としている。たとえば、コンサルティングやプランニング、講師、執筆業というのは、仕事になるまでに、時間のかかるものである。功を急いでいくら即売、安売りしてもうまくいかないから、そういうやり方が身についてしまった。しかし、これからは他のビジネスでも、こういう性格がますます強まるはずだ。
となると、仕事は人と出会って楽しむきっかけであるとぐらいに考えた方がよいだろう。
ソフトを売る仕事は、相手がその人を信頼しない限り、仕事にならないからだ。だから、人との関係を優先するという考えをもつことが、仕事をうまくやっていくための最大の秘訣のように思う。私自身、関わった会社やマスコミに、いろんな知り合いやパートナーを紹介されてきたが、それを無理に分けると、
1.紹介すべきだ…即戦力
2.紹介しておきたい…誰にでもみせたい
3.紹介してみたい…この人になら、みせたい
といったものであった。ここでも、多くの場合、実力といわれるものは、即戦力として問われるよりは、可能性めいたものとなる。若いうちは、ことにそうだろう。
そこで、一つひとつのきっかけをしっかりと捉え、実績を積んで、先の利より後の関係をとる人が結局は、勝っていくのだろう。
ここで、2のレベルの人なら、誰にでも好感をもたれる。決して失礼なことはしないし、会ってよかったと思ってもらえる。感性のある人だからである。
3のレベルの人なら、ある相手になら、この人のおもしろさ、力はわかるが、他の人にはすぐには無理かもしれないという面で、相性やフィーリングが決め手となる。
どちらにしても、この3つは、相手にもプラスになるということであり、よい関係が、私、紹介者、紹介された人に加わる分、時間をかける意味もある。
ところが、同じように人と会うにも、紹介先の相手に迷惑をかけ、私にも迷惑をかけ、その人自身も、時間と精力を無駄にし、ただ自分の信用を壊してしまうようにふるまう人も少なくない。それは、意外なことに頭のよいエリートタイプの人に多いのだ。このタイプは、自分の会社や自分の業績自慢が前面に出てくるので、すぐわかる。底が割れる。奥ゆきや幅がない。
これは、要するに感性がよくないからだと思う。これまでの仕事や会社では、何とかうまくやってこれたのだろうが、それゆえに、これからは苦労するタイプと言ってよい。つまり、社名や肩書きといった大きなツエで支えられてきたために、それがないと一人ではなかなか立てない人である。こういう人は、自分の言動がいかにまわりを不快にしているか、気づかない。なぜなら、それでやってこれたからである。まわりにそういう人がいたら、反面教師にするとよい。
そういう人は、場からいなくなると、皆がほっとする、ため息をつく。感性のある人は、いなくなるとまわりが何かさみしく思う。
☆人と人との間でさまざまに感性は働く。うまくやるには感性しだい。
9 感性を働かせるほど、何事もおもしろくなる
誰でもおもしろいところには行きたいと思う。
おもしろい人なら、会いたいと思う。
また、楽しい人生を送りたいと思わない人はいないだろう。
しかし、本当は誰にとっても、おもしろく楽しいところや、おもしろい人はいない。
たとえば、ディズニーランドでも、嫌な人や行かない人もいる。人気No.1のお笑い芸人も、見るのが嫌だという人もいる。タレントの好感度アンケートで上位にランクされている人でも、嫌いなタレントの上位に入っている人もいる。それが、人間のおもしろいところだ。
楽しいことやおもしろいことは、受け手の感性によるからである。つくり手は、それを相手が受けとめやすくしているのに過ぎない。そこで、多くの人々の感性に訴える仕事を、クリエイターたちは目指している。しかし、その苦労を知らない受け手の感性というのは、気分やその直前のできごとにさえ、大きく左右されるほど、あやふやなものである。
だから、仕事も生活も、まずは感性豊かに楽しむ柔軟な心が必要なのだ。どんなに斬新でおもしろいものでも、固く心を閉ざしている人には感じられないものとなってしまうからである。
さて、ここでいう受け手の感性のあやふやさは、何からくるのだろう。状況によって感じ方が限定されてしまうのは、一方的に受けとめて感じるレベル=感覚力の感性であるからだ。だからこれを自ら読み込み感じとる感性=情報先取力にまで、働かせていくと、もっと自由になれる。感性は、それほどまわりに左右されやすいものであるからこそ、自分でコントロールする術を身につける必要がある。ほんの少しの工夫で、感じ方は変わり、それはあなたの人生を大きく変えるものにもなる。
半分、水の入っているコップをみても、半分しかないと考えることも、半分もあると考えることもできるということだ。楽観的な考え方をとることをポジティブシンキングなどというが、私は考え方より感じ方そのものを変える方が無理のない気がする。その半分を、ありがたいと感じる人は、一杯の水を二倍、ありがたいと感じられる。感謝の気持ちが感性を豊かにする。
感性は、生まれ育ちに大きく影響されている。だからといって、それにとらわれるのでなく、さらに豊かな体験を加えていけばよい。感性を磨くには、おもしろさ、楽しさを体験することが何より大切である。
今からでも、このようにして育ちを入れるのは、決して遅くはない。感性を刺激するものに触れ、感じて、味わうことを重要にするということだ。
つまり、おもしろく楽しく生きたいなら、自ら感性を働かせられるように生きよということである。
たとえば、ベートーヴェンのピアノ演奏曲を同じホールで聞いても、感動する人もいれば、退屈で眠ってしまう人もいる。感動できるのは、耳に音が聞こえるだけの感性が磨かれ深まることで、単に音を音としてでなく、音楽として深く感じて捉えるようになったからである。
この場合、感じとる力が、音に共鳴、共感し、演奏の先を読み、演奏家のすぐれていることを知り(本質把握)、自ら想像し、自らお客としても表現して感じているからである。さらに、自分の人格すべてで受けとめ、スピリチュアルな存在にまでなってしまう人さえいる。高名な指揮者の恍惚として指揮をする表情にも、私はそれを感じる。
どうだろう。すぐれた曲一曲の演奏に、先述した感性の要素がすべて入っている。これを芸術という。つまり、芸術に触れる機会をもつことは、感性を高めるのにもっとも有効な手段の一つであるということだ。
もちろん、クラシックは嫌いで演歌が好きというなら、それはそれでよい。いろんな感じ方、捉え方があるからこそ、人間も人生もおもしろいといえる。
短い人生のなかでは、どれだけ感動できたことがあるかは、とても大切なことに思う。
そう考え、多くの人は、感動できるところへ行こうと、旅行ガイドブックをめくる。たとえば、山へ行く、スキーに行く、そこで仲間とおいしいものを食べ、将来を語る。それも一つの方法である。感動できる人やその瞬間に出会おうと講演会やスポーツの試合、伝統芸能を見に行く。しかし、もっとポジティブになれば、もっと身近にさらに感性は高められる(具体的な方法は、本テキストの後半に触れる)。まずは、感性を意識することだ。
私も、いつも、自分の原稿を書くか、読みたい本を読むかを迷った末、ペンを走らせている。書く方が大変であるし、すぐれた本を読む方がすぐれた人の感性に触れ、多くを学べるのは、確かだ。しかし、書く方を選んでいくという努力で少しずつ、自分で書くことが楽しくなってきている。今もあなたに、感性とは何かを伝えようとしつつ、自分のペンの走りを楽しんでいる。
こんなことをしなくとも、おもしろいところへ行き、楽しい人と会うこともできるのに、なぜ……、と聞かれたら、こう答える。
「それはもっとおもしろいところで、もっと楽しい人とすてきな出会い方をするために、自分の感性をこうして磨いている」、つまり、誰でも味わえる今のちょっとした楽しみよりも、自分でしか味わえないあとの大きな楽しみのために、遅々とペンを走らせている。同じことでも、心血そそぐことでもっとたくさん感じられるようになる。感性は努力して磨くことで、さらにすばらしい体験や感動をもたらしてくれる。そう、そして、このようにあなたと出会えたじゃないか、今―。
☆楽しさもおもしろさも、感性が磨かれるほどに高まる。ポジティブ・センシティブで生きよう。
10 感性は勘に通じる
運はよくとも、勘がよくないと、何事も結局、ものにならないとよく思うようになった。そう、運は機として訪れるというが、勘がよくなければ、その機を好機、つまりチャンスとして捉え、運として活かすことができないからだ。
ある仕事をして、ある業績を納めたとしても、それは他の誰かがやれば、もっとうまくいったのか、悪くなったのかは、わからない。この業績で満足してよいものか、あるいは責められるべきものかも、本当のところわからない。評価といっても、前例などから判断しているだけだ。しかし、勘が冴えて、失敗すべきところを逃れたとか、よりビックなチャンスに巡り会ったというなら、少しは、自分の力として自覚できる。まして、芸術作品のようなレベルで、仕事をこなしていたら、それはとても楽しいことになるだろう。
勘とは、もっともよい道を探しあてる臭覚のようなものである。もちろん、他の道がどうあったのかを省みれない人生では、その判断が果たして正しかったかどうかは、最期までわかりようもない。人生においては、一度なしたことは、二度と同じ状況下でくり返すことができないからだ。
しかし、だからこそ、正しかったかどうかなどは、大したことではないともいえる。やり直せない以上、すべてはなるべくしてなったと見るしかないからだ。
ということで、結果として日常の仕事や生活のなかで、ことがうまくいっていれば運も勘もよく働いていると思えばよいわけだ。
私自身は、とても効率の悪いことや、無駄や、へまをすることが多い。方向音痴で、道もよく間違えるし、天難にも合う。くじ運は最悪だ。しかし、そういうところで運を使っていないと、片意地を張って生きている。そんなことで人より体力もつけば、判断力もつくと思い、どこかに大きな運を感じ、勘の働くように生きてきた気もする。しかし、そのために、日常で気をつけていることが二つある。
第一に、毎日の仕事が人生をつくるのだから、莫妄想―考えても仕方のないことを考えないことである。それは、頭も勘も悪くするからである。考えるまえに、考えて何とかなるものと、考えても仕方のないことを分ける。考えて何とかなること以外は、考えても無駄だから考えない。仕方ないこと、仕様もないことを考えると、勘も感じ方も鈍くなる。多くの人が事故に合うのは、こういうときだ。
第二に、人に会うときは、感じをよくすることだ。
そうでない人には誰が会いたいと思うだろうか。会ったあとも、おたがいに決して楽しい気分にならないだろう。暗い顔は不幸を、明るい顔は幸福を招き入れる。そのためには、日頃から、感じよくあるように努力する。
感じよくするには、無理は禁物だ。楽しい心が必要である。それには、人との出会いを楽しむ心があれば、うまくいく。相手の心を感じ受けとめようとすれば、自分の心も開けてくる。
とにかく、くよくよと考えるのは猛毒である。顔もゆがんでしまう。感じよければ、勘が働くようになる。すると、運も向いてくる。そういう“感じ”がする。こういったことも、感性に拠るところが大きいように思える。
☆なるべくしてうまくいくように感性が導く。いつも感じをよくしていよう。
11 感性は情報を欲する〜情報先取能力を拡大しよう
今さら情報化時代とか情報化社会といわれるまでもなく、太古より常に人々の動きからものごとの価値までを決めてきたのは情報であった。そして、それはこれからも変わらないだろう。人の集まるところ、人の集まる人に情報は集まるし、お金も集まる。その中心にいる人は、人を通し情報もお金も得る。まぎれもなく、お金もまた情報の一種である。
情報力はいつも権力の基盤となった。権力を築いたものは、価値ある情報を独占し、さらにそれを吸収できるシステムを強化し維持しようとしてきた。そして、それを崩したのも、また情報によって動いた人の心であった。こういったことは、20世紀の共産主義の崩壊が、衛星放送などの受信によって得た情報などから生じた政治不信によることなどをみるまでもなく明らかだろう。自分の国がもっとも発展していると思っていたのに、他の国の方が豊かに暮らしている現実の画像は、どんなに権力者が否定しても否定しようがなかった。情報がそれを教えた。そして、人々がそれを感じたのだ。
何にしろ、うまく生きるためには、情報が必要である。誰でも、必要な情報はすぐに手に入った方がよい。特に、自分の知りたいことについては、早く詳しく正確なものが欲しいものだ。そういう人間の欲望、より速く安く手間をかけずに必要なことが知りたいがために、コミュニケーションの手段や機能がこれほどに急速に発達しつづけているわけである。
本テキストもまた、情報を伝える一つの形態である本の形をとっている。そして私も、実際このテキストを書くためにデータベースで「感性」の検索をし、必要と思われる本を発注し、目を通してみた。それは、そこに書かれていないことを書くためである。大体、人間が考えることは、同じようなことだから、先人の業績は疎かにすべきではない。そのおかげで、案外と早く、本テキストを書くスタンスがはっきりとした。
さらに、何人かの友人に「感性」について聞いてみた。皆、親切に教えてくれた。メールで回答をよせてくれた人もいた。これも情報である。こういったものが即座に入手できるのは、現在の“情報化社会”の一つの恩恵ともいえる。人それぞれの捉え方の違いにおどろきつつも、これは大変に参考になった。せっかくだからここでまとめてみる。[( )内は、私の感性マップでの分類による]
感性とは、
「感覚の鋭いこと、豊かなこと」(感覚力)
「感動すること、新鮮なこと」(生命力)
「五感、色、匂い、香り」(感覚力)
「目にみえないもの、心で感じるもの、予知にすぐれていること」(情報先取力)
「タッチ、フィーリング、センス」(表現力)
「若い、みずみずしい」(生命力)
「アイデアマン」(創出力)
「確かさ、ものをみる眼がある」(本質把握力)
結果としては、私の分類した主な要素がほぼ網羅されている。人の力とは大したものである。
しかし、このようにしても、すべての情報が手に入ることはない。私たちは、知りたい情報すべてを知ることはできない。また、多くの情報が手に入るといわれる反面、必ずしも情報の質がよくなり豊かになるわけではない。なににしろ、情報は使わなければ何の意味もない。使うために必要なものが情報である。
たとえば、あなたは、隣の家の今日の夕食のメニューがわかるだろうか。インターネットの料理情報では、隣の家の晩ご飯情報は入らないはずだ。これは、一昔前の日本のように、近所づきあいのあった頃は、容易にわかったことだろう。隣の人と毎日十分間でも話していたら、そう難しくないことだった。
ところで、この、どちらの情報が大切なのだろうと考えると、隣人とうまくやっていくには、その献立の方が大切である。それを話題にし、関心をもつことで、打ちとけあい、さらにちょっと一品、差し入れてみたり、相手のために何かすることもできるからだ。
ともかく、このように、情報は、必ず人を介して入ってくる。少しでも、自分の感度をよくしておくことで、自分にとって必要な情報を入手しやすくすることはできる。
仕事や生活をうまく楽しんでいる人は、必ず必要な情報をうまく手に入れている。そして、それだけでは終わらず、自分の情報としてうまく活かしている。これが、もっとも大切なことだ。そこで相手が望むこと、喜ぶことをしてあげられる。これは、感性がよいからこそ、情報をうまく使えるといってもよいだろう。
逆に情報が入らなくなると、何事もうまくやるのは難しくなるのは、言うまでもない。
さて、人からの情報には、大きく分けて三つのルートがある。
1.マスコミ情報(二次情報)
2.身近なところから入手できるルート
3.あなたにだけに教えたいといって入るルート
このうち、もっとも価値があるのは、3であり、現実に必要なレベルでは2である。1には思ったほど価値がない。というのは、誰にでも手に入るからでる。もちろん、必要がないわけではない。
しかし、情報が価値あるものであるためには、3の条件、すなわち他の人にはクローズということが不可欠のことである。
隣の人の夕食は、隣に住んでいる人でもなければ、無価値であり、ニュースにならない。だからこそ、その情報を共有しあうと、信頼のベースができていく。共感しあえる間柄にもなれる。すると、次に自分に必要な情報も入ってきやすくなる。
好物がわかったら、何かの折、おすそわけがくるかもしれない。言うまでもなく、それがよいのでなく、そういう関係になることがよいことなのである。
もちろん、ただ会話をしただけでは、だめであろう。まして、ケンカをしたら、情報はクローズされる。つまり、感じよくしていないと、3の情報は入らない。3の情報は、人の厚意で入ってくるものだからだ。あなたに役立つようにと、あなたにだけ入ってくるから、役立つのである。
こういった質のよい情報をたくさん入ってくるようにしており、さらに、それを即決して行動にもち込める人は、これからの時代、どこにいても強いものである。
☆厚意で入る情報を手にして、うまく使えるのは感性のよい人である。
12 好き嫌いを制し、素直でなくては感性は働かない
感性重視というと、すべてを個人の好き嫌いで決めるように思っている人がいる。すると、自分が好きだと思うものほどよく、嫌いなものはどうでもよいということになりかねない。しかし、実のところ、あなたの好きと、そのことがよい、優れているというのは、全くの別問題だ。あなたの好き嫌いは、そのときその場の感情であり、感性というものではない。そういう自分を知った上で、自分の感性を深めたり、高めたりする機会を活かすことができてはじめて、あなたの好みは感性として、価値をもつのである。
だから、いくらマーケティングや商品開発で、現在の女性や高校生の行動がポイントとなっているからといって、彼女ら(高校生もこの場合、女子高校生を示すことが多いので、ここでは彼女らとする)のように、感じることをそのまま、まねすればよいということにはならない。
彼女らの感覚が、好き嫌いで左右されているのも、多くは、他に慮ることのないという意味でのしぜんさ(むしろ、わがままに近い)と情報先取能力によるこだわりからである。
「かわいい」「きれい」「ダサイ」というのは、直観というよりも、仲間うちでの共感力である。この世代の、ある分野での市場での購買力の大きさと、感性に働きかける商品群は、話題性があるから、必要以上に目立ちすぎているのである。
昔から、男は理屈、論理、女は感性、感情で動くといわれた。相手の気持ちをよみとらなくてはいけない弱者の方が、感性が発達するなどともいわれてきた。女性が強くなり、男性が女性化したといわれるくらいだから、もう男女で分けて論じるのはやめる。
しかし、そういう点では、会社へ“宮仕え”していた日本のサラリーマンも、お偉方の心を読む点においては、ひけをとらなかったはずである。でも、サラリーマンが感性が鋭いとは、あまり聞かない。それは、会社に頼って、その慣習に合わせることにたけてきたため、感性の働くところを押し殺してきたからであろうか。
そういう輩には、最近の新入社員などは、とても感性があるようにみえるらしい。確かにその服装センスや髪型などからは、まねられなくとも、学べることも少なくない。
だからといって、今の若者のように好き嫌いで判断して行動することが感性が高いこととは決していえないのである。このことを、心に銘記することである。それを、個性の表現というなら、表現とは、自ら深め、こととして起こすべきで、そのときは好き嫌いよりも、もっと深いもの、志や大義が必要だからである。
現代の若者が、同じ環境で同じ思考をして群れているため(群れたがるため)、その行動が画一化しているのは、いかにファッショナブルのようにみえても、むしろ鈍いのである。そうでなければ、一アーティストのCDが、五百万枚も売れることはない。
バブルの頃、脚光をあびた女性の企画開発部なども、今はどうなったのであろうか。二代目社長のシーフードレストランとか、○○プロダクションなども、ほとんど残っていない。いわゆる企画倒れは、先が読めず人心が読めず、その場の気持ちだけで行動するからである。
実際、自分の好き嫌いだけでことが進めば、こんな楽なことはない。しかし、仕事でも人間関係なども、それを感じるだけでなく、何らかの価値として外に出せるようにしなくてはいけない。つまり、自分の外側に立ちコントロールできる力としての感性をもった人しか、うまくやっていくことはできない。ここを間違ってはいけない。
“好き”だけで、うまくいっているようにみえるところは、必ずその外側でもっと大きなところでコントロールしている力があり、そうしている人がいるのを、忘れてはいけないのである(つまり、ここでプロローグに述べた感覚力中心の素人感性に対しての、本質把握力を中心としたプロの感性の必要性について、確認してもらいたい)。
たとえば、接待などでは、もてなす方の好き嫌いでなく、相手の気持ちのよしあしでことを決めていくわけである。人によって食べものの好き嫌いがあるように、相手の数だけ、やり方がある。それは、現実、つまり実際の相手、人間から学ぶしかない。
もちろん、自分の好き嫌いを知ることも大切だ。そのことで、はじめて相手の気持ちもわかるからだ。「己の欲しないことを人にすることなかれ」という。そして、相手の好き嫌いに対することから、自分のことも少しずつわかってくる。
仕事熱心なビジネスマンの中には、相手のために自分の好きなものをやめてまで、その関係づくりのために活かしている人もいる。たばこをがまんするのも、その一つだ。それは、決して犠牲といったものではない。相手が嫌がること、迷惑することをしないのは、感性があるからだ。
たとえば、母親にとっては、子供には自分の食べものを減らしても、たくさん食べさせることは喜びである。子供の喜びを我が身に感じられるからだ。それを、愛という。感性の豊かさは、この点に象徴される。信じるもののために行動できるとき、生命は輝くのだ。
☆自分をも突き放したところに、感性は、大道を行く。
13 五感で自分をプロデュースする〜感性は可能性に動く
これまで、私たちの多くは、自分の勤めている会社を、その規模や社歴で誇ったり、あるいは逆に肩身のせまい思いをしてきた。また、サラリーマンは自分のアイデンティティまでも、社名、能書き、肩書きなどで価値づけてきたといえる。そのため、知名度、ヒット商品、社員数、売り上げなどのあるところに価値があると思い、それを目標としたり、その権威をいかに借りるかに専念してきたわけだ。しかしこれからは、そういう外の力を借りずに自分を語れるようになる努力をすべきである。
つまり、自分の所属している会社や学校(家庭)、商品を語らずに、自分を売り込めということである。何を売っていようと、どんな仕事であろうと、それは自分の信用を売ることで、成り立たせていくようにしていかなくてはいけない。もっと、つっこんで言うのなら、自分の感性を売るのだ。
会社の日常の仕事は、どんなにささいなことに思えることでもとても大切である。しかし、それを目先だけにとらわれて動いていては、よくない。常に感性を働かせ、もっと大きく感じてみよう。
たとえば、コピーを頼まれたり、ファックスが来たら、ページ順に並べて渡す。相手がみやすいように、相手が手間をかけず、次の行動に少しでも入りやすいようにする。
ビジネスがうまくいくように、自ら感じて行動するのが、仕事の基本である。感性のよしあしは、それを実際にどのように働かせているかということでみるとよい。ちょっと先のことや、まわりのことを考えて動ける人は、感性のよい人である。これは、大掃除や荷づくりなど、単純作業をやると、すぐにわかる。感性のよい人は、段取りがよい。
そして、いつも与えられた仕事だけで満足しないようにしよう。数年後の自分の目標や、ビックビジネスを念頭において動くことが、より感性を活かしやすくすることになる。チャレンジが感性の力を伴わせるのだ。
そのためにも、これまでのとらわれをなくし、五感すべてを通じて、情報が入りやすい状態にしておこう。すると、大きく感じたままに動くことがよい結果をもたらすようになる。
そこで、まずは、先に述べたように好感をもたれるようにしているようにしたい。まわりの人に感じがよく思われなくて何事もうまくいくはずがない。
これから、あなたは、
1.どうできるのか、何ができるのか(即戦力としての実力)
2.どうしたいのか(目標)
3.どうなるだろうか(将来性)
によって、判断されるようになる。もちろん、あなたも他人をこういう視点で見ていくようになるであろう。
感性は、人を近視的に一方的な思い込みで決めつけない。よいところを見つけ信じようとする。だから、1の実力も大切だが、2の目標や将来性を感じさせることは、もっと大切なことである。今より、将来にわたって見通していくのだからだ。
☆感性は、自分の将来を見通す。
14 コーディネーター、エディターに学べ〜感性の創出力、表現力が勝負を決める
実力社会では、スペシャル(専門)の分野をもつものが強いといわれている。確かに即戦力ではそうである。スペシャリストは、即座に自分の今もっている能力を示せるからだ。そして、その場で人に役立てることができる。
しかし、私の経験から言うと、専門といっても、かなり一流の域でない限り、長い眼でみると、いずれとって替わられていくことが多い。昔とった杵柄や若いときのがんばりだけで、一生、通用するほど仕事は甘くないし、これからの時代の変容の速さをみると、ますます難しくなるだろう。むしろ、スペシャリストであるがために、一つの技術や技能に専念したまま、時代からおきさられることを心配した方がよい。技術革新で、使いようがなくなるスペシャリストは決して少なくない。
私の学生時代は、和文タイプや写植は食いっぱぐれがないといわれ、社会人になったときもパソコンに触れるとベーシックやコボルをやればよいといわれていた。今や、そのキャリアは気の毒なほど役立たない。最新技術や通信など脚光をあびる分野ほど、早くのしあがれるが、交代も早いということだ。
それに対し、スペシャリストを使える人は強い。スペシャリストをうまく使うには、その分野についてある程度、正しく判断できることと、その分野の位置づけを知っていなくてはならない。そのためには情報に敏感になり、一癖も二癖もあるスペシャリストをうまく動かすためには、人の心も捉えられることも必要である。つまり、感性がよくなければいけないため、感性が磨かれるわけだ。
スペシャリストをうまくコーディネートして使う人を私はコーディネータと言っている。タレントを使うマネジャーやプロデューサーなども、コーディネータである。タレントは旬があり、時代とともに多くは入れ替わり、残らない。しかし、コーディネータは残る。これは、記者やライターと編集者の関係も似ている。
もちろん、スペシャリストも一流になると、感性の固まりである。感性は、人の心に共感していく。だから、スペシャリストは、一流をめざしていくと、おのずとどこかでコーディネート能力も手に入るから、そうなれば鬼に金棒である。そういう人は、次代にうまく適応していくだろう。
まずは、そういう人とたくさん接し、うまく動かすことのできる力をコーディネータやエディタから学ぼう。たとえば、雑誌の記事やデザインにも、ジャーナリストやデザイナーなどの感性は現われている。トータルコーディネートしているエディタは、それらの感性をうまく使うことを知っているわけだ。そういう感性の持ち主に習うのである。そこから学べることは、無限にある。
☆感性の固まりのようなアーティストやその作品に出会おう。