「感性を高めるためのヒント」
感性のレベルアップをしよう― 世界で初めて“感性理論”を完成―「福島流・感性の法則」
(9)感性に基づく生き方を実践する
78 感性に完成や答えはない
自分の心を本当にみたすのは何かという要求をもって外に向かい、感性は動き出す。それは、現実に満たされていないものであってよい。そして、それを内に求める。行動する。そこの何かとは人間にとっては、一番大切な夢、ロマンのようなものである。
予め答えをもって対する必要はない。知識などというのは、その時代、場所など、ある条件下でのみ有効なものであり、それぞれの人の立場でも変わるからだ。
それよりも、永遠に問い続ける、そのプロセスこそが大切なのである。たとえば、弁護士になるために司法試験に通ることは正解でなくプロセスであり、本当はそれをどう世の中に使うかが大切だということである。その使い方、行動、その人なりの真実がみえてくる。
感性は、問いかけを発する。現実に、満足をせず、常に問いかける。
勇気、美しさ、強さ、愛、善と、「真実の」そして「本当の」ものを求めて生きていることである。よりすぐれているもの、より本質的なものへ近づこうとするのである。それを、常にあなたが今、どのように考えているかが問題である。
問いをもてば、怒りも悲しみも笑いも感情があらわになっていく。動物のようにありのままとなる。生命力、これが一番、強い。そして、それを現実に対応できるように感性を磨いていくのである。
☆生きていることに問いをもち続けよう。
79 自分の生きがいをもつ
何かに頼ることでは、自分の力を本当に出すことはできない。それは、まわりのものや他人に頼るということで、自分に不信な心となるから、力を出し切れないのである。自分自身で「そのためなら、死ねるものをもつこと」が、感性を全開にする。たとえば、自分はこのために生まれてきて、一生これをやって悔いないという仕事をもつことが望ましい。
感性は、磨かれるにつれ真実の生きがいをもつこと、死を恐れないこと、勇気ある行動をすること、を迫ってくる。そして、その行動は、
1.過去の事実、固定概念に支配されない。
2.理性、物質に支配されない。
3.否定せず、肯定的に生きる。 ということになる。
そのためには、次のことを心がけよう。
1.真剣に生きる力をもつこと
人間が本当に真剣に生きると、誰でもリーダーになる。つまり、まわりの人も動き出す。
真剣であるには、そのためなら、死ねるというものに、その覚悟であたることである。
深刻になるのでなく、真剣になること。すると、あなたの心は明るく、すがすがしくなる。
2.自分の力でやること
勇気と責任感をもって行動することだ。理論、知識、論理は実践を勇気づけるが、その勇気と責任感は、感性から湧き上がってくる。
「腑に落ちる」「心でわかる」「体感する」という共感、納得の力に、論理、説得、対話は及ばないものである。
ケネディは、四十三歳、大統領就任時に教会で神の加護でなく、神に困難と戦う勇気を求めた。そして、アメリカという国が国民に何をしてくれるでなく、国民が何ができるかを問うた。あなたも、自分に問おう。
3.自立すること
人間は自ら考え、そして自ら感じて動くものである。
感性を哲学で捉えると、その自由さと主体性にいきつく
4.責任転嫁しない
行動したからは、すべてそれは自分が選びとったものであり、責任がある。他からの力でやったなどというのは、その人が権威、金で支配される人間であるということを表わす。
5.高感度人間になろう
かつての女性は、感性的であるといわれていた。それは、他人の思うままに動くのでなく、相手を通して自分を感じられるようであることにおいてである。我が子を自分の体と一体に捉えることこそ、高い感性といえる。
しかし、それも自分がいてこそ、すべてを愛せるということである。
☆人間のエネルギー源は感性だ。
80 他人のパワーを利用しよう
人間は、なぜ一人でいられないのか。というと、一人ではエネルギーがでないし、でても続かないからである。
人を思いやろうとしたら、気を遣う、それにも、パワーは必要である。相手が自分をどうみるかを考えすぎたら何もできない。働きかけて感じて正していくことである。そしたら、大きなパワーが得られる。「思いやる」というのは、人の気持ち、たとえば悲しみにそのまま入っていくことである。心、気は、遣うことが大切である。心配りと気づかいで疲れるのではなく、癒されるようになる。
ここでは、他人との関わり方について、感性の働き方からみた考え方を述べておく。
1.他人の思惑の一段上で仕事する
こうしたら、どうしてくれるというように結果や報酬、ほめられることを考えない。報いを求めない。反応を期待しない。ただ、ひたすら自分のやるべきことをやる。
そうでないと、他人の思惑で心が支配されることになり、本当の自由を失う。素直に感じられなくなる。
金を貸してしまい、返ってこないのも、あげたと思えばわずらわされない。
2.他人と対立しない。
考えれば考えるほど対立するだけである。感じて収拾していく。そのために、同じように実感する経験と、そこからの感動を共にすることである。知識や形を壊し、感じること、共感することが大切である。そして、学ぶこと、人の意見をとり入れ、自分で判断する。しかし、自分の意見を押しつけないようにする。
3.命に関わる切実な悩みなら、問題はない。
本などを読み、問題を観念的に解決しようとするから、おかしくなる。
自分を捨て切る。自分をながめて解説しているだけの本などは、読んでも仕方ない。
実践できていたら、悩みや、苦しみはない。しかし、生きる知恵としての哲学をもつ。自分の感情を肯定し、受容し、無限を感じることだ。
哲学は、精神浄化のために、無を前提とする。だから、無になること、知識がないのが不安でも、そこで自分を信じられるようになることが大切だ。
☆感性は相手を飲み込み、自分のものとして形を変えて出す。飲み込んで、自分のものとして表現する。
81 自分の思うままに生きる
相手の言うなりにするという、ただの善人根性では、ろくなことにならない。数々の不正、汚職などは、そういう人々の容認のなかで行なわれた。つまり、責任逃れの行動は、相手を我がままにし、悪を助長するだけである。
善を生むエネルギーとして、悪があるのであり、悪を知るからこそ善がわかる。
力強き善は、主体性、自分に責任をもつことにある。善悪を感じる力にこそ、感性のもっとも大きな力といえる。それを愛という。
つまり、自分が自分になってこそ、人が人であることを大切にできる。
自分がみえないと、自分をひけらかし、他人を中傷、誹謗する。自分がみえたら、自分の主張を、行動で示し、まわりの判断に委ねる。人を傷つけない。悪事には、こうした主張や行動で対することだ。
「汝の欲せざるところを人に施することなかれ」(孔子)
「汝の欲するところを人へ施せ」(イエス)、というではないか。
そして、他人と違う自分を大切にすることだ。
感性は、自分が自分であるように動こうとすることであるが、
知や理というのは、人にみせようとする自分であるといえる。
個性というものがあり、一人ひとり、すべて違うことは、他人によって知ることができる。つまり、違うものこそが、自分に必要なのである。他人をみて、自分のことを知るわけだ。
自分を他人から知るのでなく、他人のなかに自分をみるわけである。そして、そこで共通するものをつかみ出すのが感性の動きである。
☆相手の思うことでなく、自分の思うことをしよう。
82 弱さをさらけ出す 入り込むこと
自分が言うことに相手はどういう気持ちになるかを感じる力をつけよう。心の思いたけ、弱さを知ることで、強くなれる。悩みをとることよりも、悩みなどは大したことないと、自分に自信を与えることが大切である。
悲しくても泣けなかった、というのは、悲しみから逃げ、入りきれなかったということだ。
悲しまないのがよいのでなく、悲しみにひたり、そして抜けるようにすることである。
「運命を引き受け、超人となる」とニーチェは言った。
対象と一体になると、心が自ずと躍動する。それは、対決でなく、入り込み、一体感をもつからである。
これまでの哲学は、理性と感性を対決させた結果、自己を見失った。
理性は世界を区別したが、感性は結合させた。
つまり、思考は対決を迫り、理性は真理を一つにして、それ以外を否定、除去した。
それに対し、感性は、何事もつみ重ね豊かに、包摂し大きくする。そこでは、真実は無限である。
たとえば、泣いたり笑ったりすることで、思考を離れることができる。考えたときには、問題があり、それがこれまでのようにうまく運ばず、精神と体がバラバラとなる。しかし、思考を離れ、心身が一つになるとき、人は人間的になる。そこから、何事も解決していく。
☆哲学は、悩みを解くのでなく悩み抜く力を与える、そういう意味で、哲学しよう。
83 すべては自分の責任とする
ものごとをあれこれ分析する人は、過去のどこがわるかったということを考え、落ち込んだり、他人に怒ったり悩んだりして苦しむ。ところが、感性というのは、それがすべて自分に起因することをわからせる。そして、自分の悪いことを認める。
だまされたら、だまされるところが自分にあったとする。そして、それを決して世の中や、人のせいにしない。
感性は、大らか、素直を好むのだ。
本当に素直なら、どんなに嫌いなことをやることもできる。
めんどうで苦手なこと、自分のできないこと、足らないことを認められるのは、素直だからである。
あなたがうまくできない原因となっている弱点があることを認めるとよい。そうしないと、変われない。
まわりの人のことばを素直に聞いていると、いざとなれば、まわりも助けてくれる。しかし、人間関係がうまくいかないと誰も助けてくれない。ものごとがうまくいかない人は、感性が鈍いのである。
ゴルフでバンカーに入り、「もし」とか「でも」「あのときにこうだったら」という人は、それがたまたま、うまくいかなかったのでなく、下手だからそうなったことを認めたらよい。
他のもののせいにして文句をいっているうちは、素直でないから、学べないし、また同じ失敗をするだけだ。
未来を考え、よくなろうとするための苦しさであれば、それは大したことはない。過去に執着しないことが大切である。
☆考えても仕方のないことを考えるな。
84 現実社会に感性は対応する
現実の社会は、理屈通りにいかないことだらけである。高度に発展した文明に私たちは背のびして合わせているため、無理が生じるのはやむをえない。ときに合理的に考えることも大切だが、それだけではうまくいかないことが多い。
だからこそ、感性を重視して、それを中心に据える生活を志向すべきである。それは、自分の感性を満足させるようにどうすればよいのかということを考え実行することである。表面的に分析し、正しい答えを決めつけ、それ以外のものを排除するのがよいのではない。
何事も、統一して調和させていくという感性のもつ働きを失わなければ、感性は表われてくる。なぜなら、現実の社会も、また多くの人々が感じるように動くからである。
感じるように動くものは、目にみえないから、感じて、みるしかない。人間には、目にみえないものをみる力、つまり想像し、イメージする力がある。そこで、夢、希望、理想をつくり出せる。歴史がそれを、証明している。
そのため、目にみえるものだけでしばられないことが大切である。人は目にみえないものを支えに生きている。「人はパンのみで生きるにあらず」とは、そういうことである。目にみえないものを認めて生きよう。
☆自然も人生もゲームのように思うままにいかないもの。だからこそ、感性にゆだねる。
85 人格は感性を磨くことで高まる
人格者は、開けっぴろげであり、穏やか、しぜんで、人を楽しませる。自分だけ楽しくてもつまらないからだ。人と生きるコツを知っている。
坂本龍馬は西郷隆盛を鐘に例えた。「小さく突けば小さく鳴り、大きく突けば大きく鳴るような男だ」と。このような言いまわしができる龍馬もまた、感性の磨かれ抜かれた人だったからに違いない。
同じものをみても、深く感じられる人は、豊かな感性をもつといえる。何を感じるかはまた別問題だが、それはその人のそれまでの経験や体験によって違ってくる。その感じ方が品格となり、人物を決めていく。つまり、そういう感じ方のつみ重ねの結果、腹のできた人間ともなり、人格ともなる。感じ方は無限に、深く(深遠)、大きく(広大)、高い(高貴)のである。
一般的に他人に対しては温和な表情をもつ人は、感性があるといえる。大体、感情が強く出ているときは、話しかけにくい。表情による話しかけやすさなどは、大切な要素である。そこに、品や格が伴い、人格となっていく。共感すること。全体を包括すること。そして、感性にひびくものが、人間的なものである。
☆人柄は感性で決まる。
○好きが、小我から大我へ導く
何でもよいから、自分のひかれるものに意味と価値を発見し、創造していこう。まず好きなことからそこに意味を感じ、興味をもつこと。自分の心を本当に満たすものを体を使って行動して求めていくこと。なければ、自分がみつけ出す、つくり出す努力をする。それを、つくり出すために、理性もある。すると、少しずつ自分が大きくなっていく。
本当に自分の心を満たしてくれるものをみつけ、それを行動で実践することで、感性はよみがえる。活力を与えられ、厳しく磨かれる。それは、自分の命を、そして人生を輝かせるためである。
☆感動の中に真理を超えた真実がある。
エピローグ 感性をアーティストで語ると
私は、ライフワークとして音楽に深く携わって生きてきた。この音楽を例にすると、感性を語るのに、一本、通してとてもわかりやすくまとめられるので、ここで例に引いてみたい。
たとえば、ドラムを叩くにも、楽譜をそのまま正確に叩こうとすると、バシャバシャと音はするが、うるさいだけである。そこにリズムが飛んでこないから、聞く人も、のれない。人の心も、そこの場も、何も動かない。それは、ただの人がドラムをスティックで打っているだけだからである。人に伝わらないのは、技術と感性がないからだ。それはドラマーでもミュージシャンでもアーティストでもない。
プロのドラマーなら、自分のなかにある感じをとり出す。それを腕とスティックとドラム、音響装置(マイクなど)というツールを通じて拡大して伝える。この場合、手足が形にとり出すツールとなる。全身が感性に対応した技術をもち、楽器としての働きができているのが、プロの前提である。
そのために、想像を絶する量と時間と熱意を基本のトレーニングに徹底してかけ、プロの感性とプロの技術、体をつくりあげる。
ドラムやピアノなどで、間違えない音を出すくらいにできる人は多い。しかし、演奏して人の心を動かすまでには、並大抵でない。才能のある人は、そこで深めることを知っているから、努力する。
ところが、そうして音楽的感性をいくら磨いたプロのドラマーでも、プロのヴォーカルやピアニストにはなれないだろう。つまり、その感性をとり出す技術(表現力を支えるもの)を磨いていないからだ。つまり、プロには、プロの感覚とプロの体がいる。
この一流のアーティストやミュージシャンに欠かせない感性を改めて、本テキストの主旨にそって述べてみたい。
まず、そういうことをやりたいと思うこと、それは自分自身のもち味、たとえば血に流れているもの、体つきや気質、呼吸やテンションといった生来のものと生まれ育ちのもの、ハングリー精神、食べるためなどといった切迫感がベースにある。これがいわゆる、オリジナリティ、個性といわれるものになる[生命力]。
そこによい作品や一流の人との出会いから、さまざまな情報を得て、何かを感じることが起こる。それを今度は自ら求め、貪欲に感じとっていき、多くのものを学びとる。ミュージシャンの場合、それは音であり音楽である[感覚力]。
さらに今ここにいるという時代、空間を感じとっていく[情報先取力]。次の時代に対してアンテナを働かせ、予兆をもち、そこから他に先駆けるものをつくりあげることになる[予知力]。また、まわりの人の共感するものを知っていく[共感力]。
そのプロセスにおいては、自分が何がすぐれているのか、何を選び何を捨てるのかの[本質把握力]、そして、それを創り出すには、新たなものを考案し加える力である[創出力]が不可欠である。その結果が、磨き抜かれた技術と感性が一致した形で[表現力]として示される。
そして、つけ加えるなら、その分野を極めたものは、もっともその人らしい顔や言動をもち、それがまわりからは魅力的な人、さらに[人格]者にみえるまでになることもある。一流ともなると、芸術でもスポーツでも、神々しいほどの美しさ、強さをもって働きかけてくる表情がある。
それは、その分野を超えて通じる宇宙的なもの、[スピリチュアル]な普遍性まで帯びる。そういう人の出現により、その分野のすばらしさが伝わり、世に広まったスポーツや芸事は数え切れない。
感性の担い手といわれるアーティストたるものの条件をみると、このように感性について明快に説明がつくように思う。
あとがき
私の“感性の師”、「感性哲学」の創唱者、芳村思風先生のことばである。
”感性は対立を不快と感じる。
感性は本質的に和合を望んでいるのである。
対立して自己を主張する事は
無能なる理性の証明である。
対立は理性の恥であり
争いは理性の罪である。
人間の本質的な目的は感性の中に在り
理性はその目的を実現する為の手段なのである。
自由も平等も、
善も平和も、
愛も幸福も、みんな
理性で考えて解るものではなく
心に感じるものなのである。
真実は、いつも
理性の中にのみ在り
理性は常に
真理という仮象を作り出すのみ。
理性の底に感性がある。
感性に響くものでなければ
人間的ではない。
感性の中には
理性が創ったものではない根源的原理がある。
感動の中には
真理を超えた真実がある。
全人類を感動させる真実によって
世界の人々が固く手を結ぶ時こそ
地球に初めて平和が訪れるのである。”