6−1 主体性をもつとは 「レッスンがつまらない」
レッスンがつまらないと思うのもおもしろいと思うのも、あなた自身です。しかし肝心なのは、そう思う場があることであって、それが最初は大切なことです。そして善処すべきなのは〈あなた〉自身なのです。つまらない表現しかできないから、つまらない、「ここはつまらない」と言ってつまらなくしているのは、他でもない〈あなた(たち)〉ではないですか。だからこそ入門科なのです。
おもしろいと思えるのは、自分たちが表現できる、あるいはできるようになってくるからであって、それができるようになった人たちにとっては、まだできていない人たちがつまらないのです。この研究所は、あなたたちがそうではなくなるためのトレーニング場でしょう。
もっと言うなら、講師の力さえ〈あなた(たち)のような人〉が限定しているのです。講師は、表現技術のあることですでに意味があります。技術は人からプレゼントされて、おいそれと身につくものではないからです。そういう場のあることが、ここの価値なのです。しかし本来は、あなたのいることがここの価値であるべきなのです。入門科で求められることさえできずに、それに取り組もうとせず、つまらない判断で自分を腐らせるのはやめなさい。
できていく人はできていくことで(それしか意味は見い出せないでしょう)、他の人に「こんなつまらなくやらずに、オレのように楽しくすごくやれよ」と叩きつけていくでしょう。それができない自分の力をつけなさい。このような頭を直さないかぎり、芸ごとはまず身にはつきません。自分の小さな器でしかものを見ることができない人は、学ぶ資格を与えられても、何も得られないということです。器を大きくしてください。
ただ、あなたは、同じ器のなかのだれかれと、こんなことをチャラチャラひけらかして腐らせず、私にぶつけてきた点で救いがあります。多くの伸びない人は、自分がやっていないことを棚にあげて、同じくやっていない人をみつけて、ぐちって、さぼったり、やめていく理由や、伸びない理由を、わざわざ捜しているのです。
早く気づくことです。
まず、その責任を私のアプローチの仕方に求めているのが気になります。本当はこれが大きな問題なのです。
それは舞台(ステージ)に出たものが、そこで「私、どうしてこのせりふを言うのだろう」と言っているのと同じことです。あなたは観客席にいて、あるいは人生の劇場の中にさえ入っていないのではないのです。私が六〇分演じて、あなたたちは一分も演じられなかったのです。あなた(たち)の時間であるにも関わらず、です。
そのくせ、舞台の一員のような気にだけはなって、「正当化しない、反省する、殻に閉じこもっている」といった、いわば媚(こび)を売っているのです。と言っても、その意味も今はわからないでしょうが。
私の“自己啓発セミナー”(それでも別に悪いとは言いませんが)からさえただの一つも学べない人に、それ以上の何を与えよというのでしょうか?
さらに言うなら、自己啓発(この回答もほとんど自己啓発レベルそのものです)をさせているのが、あなた(たち)なのです。
自己啓発できていない人には、そうであってしかるべきでしょう。そういう人は、まず自己啓発のセミナーにでも行ってから、ここにきて欲しいものです。歌心もアーティスト精神も全くわかっていない人をヴォーカリストにしようとしている私などよりも、そういう催しもののほうがよほど社会の役に立っていると言うべきかも知れません。
私のことばを絶対的なものにしているのはあなた(たち)の方だということを、あなたは自分の文章から気づくことです。「なぜ、そうおっしゃるのか」と、問いを投げかけた相手(つまり私)に言ったとして、何の意味があるのでしょう。それは問いに気づき、自ら答えを求めていくことがトレーニングです。そうでないのは、ある場での、あなたの主体性の放棄でしかありません。
なぜ反省するのですか。なぜもっと自分を正当化しないのですか。こんな卑屈な態度で他者を権威にまつりたて、否定してみることに何の意味があるのでしょうか。
〈あなた〉に、ここでこう〈おっしゃって〉あげるのは、あなたが研究生である以上は、という一抹の期待があるからです。私が愛情と誇りを持って運営している場に、今あなたがいるからです。
自分に届かないなら、とろうと努力すればよいのではありませんか。ここはだまっていれば何でもしてくれるような幼稚園ではありません。幼稚園だって、実際は何でもしてくれるわけではないでしょう。私はトレーニングのための場をもち、あなたがたに課題を投げかけることで、必要な役割を果たしています。もし届くことが〈あなた〉にとって必要なら、あなたが勝手にとりなさい。みんなそうしているのですから。
6−2 思い込みと偏見に曇らされるな
多くの人が会報や私のコメント、あるいは活動にいろいろ感じてくれるのはよいが、どうも自分に役立つように受け止めていないと思える人が多いようなので、以下にいつもながら老婆心でアドバイスしておく。
1.自分にとって役立つところ、よいところだけをとればよいではないか。あとは無視して、わからなければ、できたら二年後に読んで欲しい。
2.くやしければレッスンでこたえを出せばよいではないか。ましてあなたたちはヴォーカリスト、それを歌で語る人なのだろう。
個人的な手紙はうれしいが、ただ私は作品を認めてはじめてその人を知りたくなるくらいで、ここの研究生であるということだけでは、残念ながら私は、それ以上に個人的な関心はない。
〈バラ〉には誰よりも平等に水をやっているつもりだが、その水をうまく吸い上げられない人がいる。すぐ自分を他人と比較したり、すぐにわかった、できたと思うような人だ。自分は人より少しすぐれていると思っている人や、少し人より違っていると思っている人に多い。でもその程度なら、誰でも違っているでしょう。その違いは、そのままでは芸に全く関係ない。
3.あなたも含まれているだろうけれど、あなたに対してだけ言っているのではない。 講師(私も含め)のことばもみんなのことばも、この研究所について語るだけなら〈無用で有害〉だ。誰でも入れるところに少しの間いるだけのメンバーが、人並みすぐれているわけはない。そんなこともわからないのだろうか。
あなたがすぐれている(?)ならよいのだが、誰からも一目さえおかれていないなら、文句をいえる立場でない。これはだめだと言うまえに、あなただけがすぐれた個性を発揮できるようになることが先決だろう。
誰でも入れる研究所に入って誰でも一流になれるわけがない。それは世界のどんなにすぐれた養成機関でも同じである。
どこにいても、そこでナンバーワンになる努力は最低でも必要である。少なくとも習得すべきことは先にまだまだたくさんあるのだから、そのことを知ることだ。
4.オリジナリティにおける勘違い
オリジナリティというのは、基本の習得の上にしか出てこない。スポーツや舞台の芸術と同じく、歌も人間の財産だ。人前で本当の価値を出すには、何事も、体や呼吸のベースの上以外に作れないものである。
〈落書き〉を人に売りつけておいて、買ってくれる人がいるのだから〈落書〉にも価値があると言うのと同じでは情けない(ここでいう〈落書き〉はもちろんアートと認められないものだ)。
デッサンも基礎だが、それよりも基本というものがある。一般的に人を不快にさせるものやノイズの中にも、新しいアートの可能性があれば、私は誰よりも先に認めているつもりだ。しかし、全く練られてもいず、でまかせでやられたものは、本人がいくら練習したとしても、全く違う。何にしても人前でやるつもりなら、ちゃんとした人がどんな想いで聞いているのか、そのくらいはわかるべきだろう。自分だけで勝手に満足がいくものを作りたければ、ここに来て人前やレッスンで問う必要もない。他の人に迷惑をかけず、一人でやっていればよい。
5.基準について
私の認めたものが絶対的な基準であるとはいわない。しかし、それだけのものを受け継ぎ、聴いてきたからこそ信頼されているのであり、世の中も動いてくれるわけだから、もう少し柔軟に取り組んだらよいと思うのだがどうか。
私は、どんなに自分が嫌いなものでも、すぐれたものは認める度量はあるつもりである。一方、相手の努力やひたすらさに打たれることはあっても、それだけのものでしかないものは認めない。プロである以上、自分自身の好き嫌いの感情と評価とは分けている。
何の分野でも基準が全くなければ、世の中に、あるレベル以上の仕事ができる人も、認められる人もいないはずだ。
繰り返し言いたいのは、音楽、歌もまた全世界にあり、国境を越えて伝わるものである以上、客観的基準は厳密なまでにあることだ。すぐれているもの、そうでないものは、ある。
自分でルールを変え、新しいものを作るのはよいが、それはそれで、そこに深いレベルの認知と働きかけがなくては到底、通用しない。一つのものごとが成り立つのは、雨が地にしみこんで地下水となり、小さな川が大河となって大海へ出るようなものである。
一つ二つのレッスンを受けたらどうのこうのなるなどと考えるような〈せこさ〉は、いい加減捨てたらどうか。二年で一つ得られたら、元はすべてとれるのだ。ここは、その一つのことしかおいていないのだから。
「テニスっておもしろいですね。はじめてやったんですけど、全部、コートに入るんですよ、プロに勝てそうですよ」
こういう質問に、バカていねいに答える人は今の私以外そうはいないだろう。こんなことは誰も本気で言わないのが普通だが、歌い手になろうという人には、本気で言っている人がいるから恐い。言うのも思うのも自由にはちがいないが、そのギャップを知らないうちは、この世界にはまだ一歩も足を踏み入れていないということだ。
その世界につっこみしっかりやれば、やっている人を尊敬しこそすれ、同じだなどとは言えなくなる。まして、まわりで「すごいよ、なれるよ、がんばりな」という声をたてているような同輩は、いったい何なのだろう。
私は長年、師のもとに通い、気づいたら、技術、表現において、師と同じことに近いことが少しはできていた。そんなものではないか。一年でわかったつもりのことは二年目に否定され、三年目にできたと思ってもまだやっていた。五年目にそうでないこともわかり、またゼロから築きあげてきた。そして、いつの間にか、一声で誰もがわかるくらいになった。まわりから言われて、超えたことを知った。
あるレベルからは、体や声よりも精神や心の器が問われる。ひたすら自分の心と体を無にして感覚を研ぎ澄ます。その場に行くことがすべてで、一人ですべてを歌に練り込めていく。一〇〇回に一、二回のアドバイスが、ちょっとしたことばが、一年のもとをとるのに充分なものだった。
その場を、もう少しわかりやすく現在風に提供しているのがこの研究所であるつもりだ。プロと普通の人との絶対的な差は、絶対的に手に入れる覚悟と欲がもたらす以外の何でもない。
もし絶対的なものを学びたいと考えてここにきているなら、もう少し、性根をすえたらどうか。そんなに簡単にわかるものなら誰でも手に入っているし、やれている。そうでないのは、何が違うのかを考えてみたらどうだろうか。
6.力をつけたければ〈ぐち〉をすてることだ
〈コミュニケーションをとりたい〉とかいう、日本人の〈群れたがり症候群〉が顕著だ。芸の世界はみんなでやれば何かできるのでなく、一人の力があって、できる奴が集まらなくては何も出てこない。現状で自立できる力、歌や表現として価値をもつ人は、ここでも一人か二人いればよいと思っている。三人もいれば大したものだ。
一人の力が万人を超える。二〜三年ですぐに育つのなら、こんなところに来なくともよい。日本中、トレーニングをやっている人はどこにでもいるのに、なぜ成果を出している人がいないか考えるところから始めよ。
結局多くの人は、自分とどっちこっちのレベルでしかないまわりの人の見解を頼りにして、本当はやりたかったのにできなかったことを何かのせいにして(ここでは学べないとか、うまく伸びないとか)諦めてしまったり、また別のところに行って同じことを繰り返しているだけだからだ。
ここにはみんなが気づかぬところで才能が集まっている。だから私も才能を発揮できている
確かに、個別に親切にアドバイスしてくれるよきトレーナーは貴重だが、だからと言ってそれは一流になれるかどうかとは別問題だ。ここを最大限、活かしきるのが才能だ。やめたい人、やる気のない人は出ていけばよい。そして「五年、一〇年たって考えてみなさい」としか言いようがない。
本当の意味で、ここが必要ではない人が多すぎる。早く、ここを必要な場にして欲しい。そうしたら、何事もきっとうまくいく。
ここを必要とする人になって欲しい。もちろん、その力をさらに磨いて、日本、世界を変えて欲しい。
人に親切に与えられることを、求めてはいけない。自分を追い込む環境をこそ求めるべきだ。
日本人は、最初から答えや結果を求めたがる。そんなもの、あとで気づいたころにできるものだろう。与えられた問いに答えつつ、自らの問いに気づき、それを解こうと努力する人のみが、人前に立って生きていく資格をもつ。それはどこの世界も同じだ。
どんなに近くでアーティストにまみれても、本人がそうなる努力を誰よりもしないかぎり、あなたの夢は近づいてこないだろう。そうでなければ音楽雑誌の記者やスタジオ勤務の人は、みんなミュージシャンになれる。
自分の仕事をしっかりとやっている者は、自分の足でしっかりと立って前に進むことに精一杯で、人のおせっかいなどやいている暇はないものだ。どこでも、自分でやれていない者だけが群れたがる。
自分がやれていてはじめて、人が認めるものだよ。それを歌や表現でやりたくてここに来たのではないのか。
7.場を生かすこと
入門科生が上のレベルの授業には出られず、上のレベルのステージにも出られないのは、上のクラスの邪魔になるからである。入門科生はまだお客さんだからだ。私は上のクラスは上のレベルで鍛えているつもりであるから、そこにたとえ研究生といっても、何もわからない人を入れて密度を薄めたくはない。
場が人を育てる。ただ雰囲気だけでこなした歌や失敗だらけの歌を、うまいなどと感心する人を参加させていては、いったいここは何の場かということになる。自分によかったからよいとか、勉強になるから出たいと言うのは、伸びない人の理由である。
そんな時間があるなら、一流のプロの見本をこそ見て学べ。他の人に有無を言わせぬ力を持つ人をプロと言う。一、二年くらいこの研究所にいたからといって、そのへんの日本人と何が変わっていると言うのか。世の中を甘くみてはいけない。やっている人は、やっている。力も出せないというのに、うぬぼれてはいけない。ここに来て、頭ばかりでかくなるなら、むしろ害だ。
福島英のことばをこれみよがしに使ったら、入ったばかりの人はきみのことばにうなずくだろう。でも、それではニセモノへの道だ。ミニ福島、福島のコピーはいらない。結果はステージだけだ。
日本人の客と同じくらいにしか、歌をわかっていないことを自覚することから始めよ。それはあたりまえのことである。しかし、そこから脱しなくてはいけない。学ばなくてはいけない。
人はレベルの同じ人のところにいるものだから、ここはここでよい。くやしければ、力をつければよい。それが実力の社会だ。力がついたらきっと、今の私の想いもわかってくるだろう。そして私のこういったバカ正直なぐちを、少しは誠実さの現れと思ってくれるかもしれない。
6−3 高い志をもつこと
「私は、2年間、がんばりましたので、悔いはないです。発声だけでも学べればよいと思っていたのに、考えていた以上に、いろいろなことを吸収させていただき、満腹です。
でも先生は、もっとたくさんのことを教えてくれようとしていたようで、先生には悪いことをしました。
ただ、先生の想いに比べて、私の想いが、かなり低いところにあるのがギャップとしてあるのではないかと思います。私は、実力はもちろん、もっと欲しいと思っています。しかし、先生のもつ世界的な基準に、私の基準が全く合っていません。椅子でも投げられれば、目覚めるのかもしれませんし、この世界をよく把握してないのかもしれないです。
研究所は、ハードルが高くて、とても私のようなものが通用するところではなかったのです。
私は、近くに音楽を、そして一人でも私の歌を必要とする人がいるなら、歌いに行こうと思っています。人数は関係ありません。世界とか何よりも、まず足元の身近にいる人が大切です。悩んでいる人や、悲しんでいる人は、いつも近くにいると思っています。そういう人たちに歌が役に立てば……と思います。
たとえ、カルチャースクールでも、ただ歌が好きで楽しいだけの集まりでも、私はいいのです。それがなくなったら、続けられません。きっと、純粋な趣味の一つであるに過ぎないのでしょう。先生の想いの高さに比べて、私の想いが低くて申し訳なかったです。」
感謝状に文句をつけるつもりはありません。こう考える人への私見を述べます。参考まで。
1.まず研究所は、確かに世界をみていますが、だからといってレッスン受講する人は、さまざまな目的で来ており、たとえ一般の人並みに声が出せるようにというのが最終目標であってもよいと思います。それは、ここにオーディションのないことでもわかります。ただ、高い目標をもってくる人には、こちらがもてるものを与えるために、当然、できるだけのことをしているつもりです。そのなかには、技術よりも考え方や精神的なものが大きく、それを伝えないレッスンは、私は不毛に思うからです。また、それは押しつけ、強要でなく、実力をつけるために、そうした方がよいと考えているから、選ぶ材料として、あります。
2.ですから、貴兄に対し、世界的な基準など、私は一度も求めたことはありません。貴兄に対し、世界の一流の人しかついていけないレッスンをやったこともないはずです。ハードルが高いといわれても、何であれものごとを上達させるのに必要な、基本の大切さをくり返すことしか、やっていません。
現に、初心者も10代の人もレッスン受講後にすぐに対応できるのは、そのレベルでのレッスンだからです。私は、一つの音がすぐにとれないところからでも、伸びればよいと思っています。うまくなるのは、二十年かかってもよいと思っています。
3.少々どこかでやったからといって、ここに来るなり、まわりを卑下するような人も、ときにいます。やっただけの差などは力の差でなく、できていないことでは同じか、やったのにできなかった、できていない現状を、厳しくみるようにさせています。それは自分の年齢、キャリアが実っていなければ、同じやり方では初心者より可能性がないということだからです。私は、なぜ音大卒や役者、ヴォーカルとしてやってきた人が、若い人や初心者という他人の不出来にうんざりするのかわかりません。やったのに、それとステージで何ら差をつけられない自分の問題こそ、考えるべきことなのに。
4.それと、私は日本の声楽家などとは違い、世界というところ、イタリアの○○コンクールとかに勝負に行けなどといったことも、ないはずです。音楽や歌を必要とする人がいても、今はまだ歌うなと言ったこともなければ、人数が少ないところでやっても仕方ないとも言っていません。
5.ただ私は、五体満足な人間が、歌や音楽などというものを、時間やお金をかけてまで学ぶのなら、せめて人にそれで喜んでもらうようなところまでやればよいのに……と思うだけです。そうでなければ何もこんなところに来なくとも、ボランティアとか笑顔やことばをかけることで、すぐにやればよいと思うのです。現に10代でやっている人もいるでしょう。地域に根ざした活動もどんどんやればよいと思います。
では、何のために芸を磨くかということです。
6.歌でも演劇でも、人様の前でやる以上、人に与えるものがなくてはいけないと思います。一般のサラリーマンでも、いろんな場に、準備不足でいい加減で、テンションの低いへたな歌やせりふ劇が出るのに閉口している人もたくさんいます。それでもその人が、一所懸命やっているのだから―ということで、皆、不平を言わず、その時間、がまんしているのです。何もないより、あった方がましというくらいの、なぐさみとして。絵なら見なくともすみますが、音は耳をふさぐわけにもいかないのです。席も立てないでしょう。それは、いくらその人のがんばりであっても、そこで歌や音楽を使うのは、考えものです。やはり本来は、その力でもっと大きなものを与えられるものであったはずだからです。それを生かさないのは、やはり準備不足といえます。
7.ですから、私自身は、こういう人をもったいないと思うだけです。少なくとも、私は皆を退屈させるように歌や声の扱いを人前でやってしまったら、それを続けることはできません。それは、プロであるというまえに、歌を生み出した人にも、相手にも申し訳ないからです。お金をとっていない場でも同じです。
私は、今は、歌を強要されません。ある意味では、純粋な趣味として最高のものを追求し続けています。そして、それは誰でも想いを高くもてば可能だと思っているから、研究所をオープンにしています。
自ら自分の可能性を低くみてしまうのは、とても残念です。人に何か与えるなら、そのことにおいては最大、最高をかなわなくても求めることが大切ではないかと思います。
まして、それが自分の考え方しだいで、あるいはがんばりしだいで、もっと大きくできるのなら……。そこには、プロもアマチュアもありません。
歌だって、誰のを聞いても、やはり聞いた人はうまい方がよいと思うのは、言うまでもありません。だから、誰でも必死に練習するのだと思います。それが、相手のことを本当に考えるということだと思います。私は十代の頃、日本人のへたな声楽、ポップス、ジャズ、シャンソンに触れて嫌いになり、その誤解を解くのに、ずいぶんと時間がかかりました。まずいウニやイクラを食べ、生涯、口にしない人と同じになるところでした。やる以上、とことん上達すべきだと思うのです。
8.好きで楽しいだけでもよいし、まわりの人と一緒に歌を楽しんで歌うことなど、素直な楽しみ方はたくさんあります。でも、そこにとてもうまい人が来たら、そういう人のを聞くだけで、もっともっと楽しくすてきな一日になるでしょう。がんばればそうなれるのに、すぐに自分はそうではないと、誰が見切るのでしょう。
そういう人の歌は、本当はもっとうまいのを聞きたいのに、これしかないからという使われ方で、歌もその人も、あまり幸せでないし、自ら高めないものを世の中は何度も求めることはありません。やはり結果として、やらなくなり、やれなくなってしまいます。本当の意味で、エネルギーをそそぎ込んできたものしか、他の人に生きるエネルギーを与えないからです。
9.だから、私はここを「身内や知り合いだから、待っている」という甘えを排除した上で、その人やその人の作品を待つ人がいるかどうかという場として、設けたのです。ここでも、数少ないですが、誰かに歌を待たれている人や、待たれている作品があります。そういうものだけが、やっていけるのです。
10.だから、世界とか一流などという大それたところに場はおいていません。世界のレベルの高さは私ほど、それを身をもって思い知ったものはいないからです。世界をみていれば、ここで通用くらいするというだけです。だから、ここでは、自分の作品として本物であることをめざしています。最大の問題は、何年いても、自分の足元さえみず、“研究所は○○だし、私はそうではない”というように、まっすぐにみることや入ることのできない人に、どう気づかせるかということです。
11.私は、一人の人間の可能性を信じて運営しているので、長くいる人にこのように言われると、とってもがっかりします。もっと素直に、もっとしぜんに人にもっと与える力をつけにここに来たのではなかったの、と言いたくなります。「人は人、自分は自分」を確認するのにここに来るのでなく、だからこそ、それをつなぐために、ここに来て欲しいのです。
12.人の前に立って、しっかりしたことをやっていくには、まずしっかりとした考え方が必要です。次に目標と、そこに到達するのに必要な努力です。「音楽や歌が楽しめなくなった」「好きにやるのが一番よい」などと考えるのは自由ですが、これは、研究所やトレーニングの問題ではないのです。少々、厳しくいうと初心の放棄であり、現実や生きることに背を向けているのです。だから、そこから他のことについても、伸びなくなります。現実の厳しさを知り、あきらめるのも大人になるということですが、私は、その上で、さらに自分でしかできないことを高めることだと思うのです。
「歌で苦しむことくらい、楽しめないのか」と私は思います。それはきっと、自分の歌を待ってくれる人がいないからだと思います。
13.そういう人は、趣味でよいのです。でも歌は、人前でやってこそ歌だから、私は同じだと思うのです。ここは、基準を音声を表現する舞台としたのです。これこそ今、流行りの売れ線のプロからみたら、高尚か純粋かわからないけど、大いにぜいたくな趣味だと思うのですが。だから、一緒なのですよ。
14.あなたが生きていることで、誰かが幸せになっているかを考えましょう。身内や知人でなく、歌や音楽で……。もっと幸せにするために、自分の力をつけるのでしょう。そうでなければ、こんなめんどうなものに頼らなくとも、あなたの今もっているあたたかい心と表情とことばで、充分なのです。それさえ今、使っていないで、何が必要なのです。それでは足らないから、表現するのでしょう。歌の形式でなく、内実をもって。
15.私は、ここのライブで、年に、1、2曲、幸せにしてもらっています。足元から頭のてっぺんまで涙ぐむほどの20〜30秒を何度か味わってきました。また、世界のアーティストに強く生きる力を与えてもらってきたので、こうして微力なりに自分も発しようとしています。だから、あなたのようには考えません。無理にでも、死ぬまで高い志をもって生きます。結果は、死んだあとに、出るでしょう。
6−4 言いわけと逃げになっていないか
Q トレーニングをしていて、歌がおもしろくなくなってきたが、これではよくないと思う。
A だからどうするのですか。おもしろいおもしろくないで進退を決めるのは、まだその世界に入っていないからです。
選手とファンとは違います。「なぜ、やろうとしたのか」「どうして、続けるのか」それはおもしろいからにほかならないのです。あなたのおもしろいかどうかは、ファンが、ちょうどグランドに出てみたくらいの感覚です。本当のおもしろさは、誰よりもやったあと、ずっと先にあるのです。
*
Q トレーニングに専念するのに、ステージは休みたいのだが
A ここで月一回、歌一曲できるV検、L懇くらいのことはトレーニングの一環と考えましょう。そこでのトレーニングが充分にできないから、他のレッスンがあるのでしょう。
気分や迷いで、あるいはいかなる理由でも、前に出ることをしないとき、もうそれは老いたことに等しいのです。誰も待っていないから、自分の意志で出るしかない時期から受け身になっていては、先はありません。そこで理由をつけて出れないから、やがてやれなくなるのです。たかだか研究所のなかで左右されるくらいのパワーでは、生涯できることもしれています。ここでやることくらい、やれてもやれなくとも、早く楽しめるようになりましょう。
*
Q みんなとやるよりも一人でやりたいし、じっくりとやりたいのですが
A みんなちっぽけなプライドで、自分をかばってばかりいるのですが、人前で自分をさらして、そこではじめて〈なんぼ〉の世界でしょう。タレントやお笑いの人のテンションを見習ってください。
本当にその道で力をつけていける人は、学ぶ姿勢や考え方ができています。だから、自分のやった年月やキャリアや地位などに関わらず、いつも初心に戻り、一からものごとを作り始められるのです。どんな人の前にも出られるし、そこで楽しめるのです。
それが世の中です。そして、大切な童心であり、初心です。ものごとをやっていく上で、もっとも大切にしなくてはいけないことです。すべてが奪われても作り出せる、その力と自信をもてるような毎日を過ごしてください。
私は、多くの才能が本人の気づかないちっぽけなおごりやプライドでだめになったのをたくさん見てきました。また逆に、何もないことを知って努力し続けた人が、自分の世界を得ていくのを見て、本当に無心、白紙にする心の大切さを知りました。素直であることが器です。うまくいかないと思ったら、自分に欠けているものがあり、それを見つめて直す努力をしないといけません。
また、仲よくつきあっていく相手によって、だめになっていく例もたくさんみました。でも、それはその人が、その人の分相応に身近なところで選んで言っているわけですから、それをもってだめとかよいとか言えるものではないのですが、その精神や作品を見て、がっかりとさせられます。そういうことが、うまく〈大人〉になる方法なのでしょうか。しかしそんなにすぐ老いたいのですか。もう充分、人生、やりましたか。
私が残念に思うのは、「ヴォーカルになりたい」と言う人も、本当のプロの意識をもてたら必ずやっていけるのに、自分でやれなくしているということです。他の分野に比べてプロ中のプロの心構えのある人がいないだけのことです。この分野では、高校生のクラブ活動のトレーニングレベルで音(ね)を上げる人ばかりです。
二十代であきらめても、あと、その倍以上も人生はあるのですよ。思う存分、やりましたか。外ばかりに目がいき、内に、自分と戦わないところに何を創ろうとしているのでしょう。やれたことがやれないでなく、自分がこれ以上できないと思えるだけやったかどうかでしょう。自分が全力を尽くせない悔いこそ、恐れるべきです。
私は今、ここのみんなといるときが、一番、孤独です。「みんなとやる」といえるあなたが、うらやましくあります。また、こういう質問への答えを述べるのは、自分の作品を作るよりも孤独です。作品は、待つ人の笑顔が見えます。こういうスタンスや考え方の違いを明らかにするための言動は、スタートを切れない人の耳にも、私の心にきついことです。しかしそれも表現への責任です。おたがいに一歩ずつでも歩もうではありませんか。
6−5 こういう奴、それはあなただ!
私は十代のときに、世界でいちばん@時間があり、A金があり、B最高のモティベーションをもつ人を想定し(それゆえ、Bについては二十歳すぎて何人もに出会うことができたのは幸せだった)、それをライバルに学んできた。自分がそうでないのを、イマジネーションをふくらませ、意識と時間で補えるのが人生のすばらしさだ。
もう私は能書きや権威から離れて、音声や体でものを語ることにしている。私のレッスンほど感覚と体のレベルを示しているものはないと思うのだが、「精神論」レベルで喜ばれているのは残念なことだ。
そういうものだとしか思えずにやめていった人もいるなら、さらに悲劇だ。そういうことを私に口にさせてしまうところで、どれほどだめなのかをわかって欲しい。そういうことでは、精神なくしては技術にも入れないことも知ることだ。
ユニフォームを着ない人に、そのレベルのことにあれこれ言う人に、ボールは回ってこない。これはこだわりではなく、子供のわがままなのだということを知ることだ。
目的も心構えのないところにはどんな技術も宿らない。せいぜい人並みで終わる。人並みでは人の前に出られない。ヴォーカリストも役者も人前に出る人ではないか?
自分でケーキを作ればまわりの人は喜ぶとみんな思っている。確かに喜ぶだろうが、それは〈タダ〉だからだ。まずくても文句はいわない。しかし、五〇〇円の値段をつけたらでは誰も買わないだろう。へたくそな歌は、お金をつけるからと言っても聞いてはもらえない。時間はお金よりも大切だから。
〈味〉はまだ〈入りたて〉だからともかくとして、「それを客に出してこい」と言うと、〈バン〉と音をたててテーブルの上においてくるだけだ。それでは客は二度と来ないだろう。
こういうヤカラには、ケーキの作り方よりももっと基本的なことを述べるしかない。たとえそのケーキが一応食べられるものであっても、他人はあなたのは食べたくないと言うだろう。
実際にレッスンやV検がおもしろくないのはそういうことだ。人間の味、歌の香りすら、しないのだから。
そういう人は、自分のことだと考えずにこれを読む。「こういう奴いるよな」なんて口にしながら……。でも、それはあなたのことなんだよ。そういうレッスンや発表の場に出ていて、全くわかっていない。これでは二、三回教えてもらっただけですっかりバレリーナ気分で踊っている子供と変わらない。子供ではないというのなら、あまりに幼稚だということだ。〈精神論〉でもよいから、実践してくれよ。
6−6 信じられるのは、この肉体の完成の力
Q.(投稿文)これからの表現、変化と成長について
「表現とは全く受け手によるものであり、作り手の意思とは全く付録品なのか? また作品と作り手の関係とはいかなるものなのか?
編集という機能は、デジタル化することによって生まれる最大のメリット。それを職業とする人でなくても、高品質の作品がたくさん作られていくだろう社会で、それで食っていこうとしている人たちはいったい何をいちばんの売り物にしていけばよいのだろうか?
「自然の私のよさを見て」的な、「みんないいものは持っているよね」なんてレベルのものを越えることが、より困難になるのではないか?
雑誌や本から情報を仕入れて何かわかった気になっている状態から、それを吐き出し、その反応によってさらに好ましい自分へと変われるもの、それが協働でした。オリジナリティということばにこだわって自分の世界を大切にするのは、ある程度売れて、その世界にお客がついて、その関係を壊したくなってからだと考えます。
今、自分で自分の限界を決めてしまうのではなく、つねに変化させて、まだ知らないものへと変わっていった方がよほどおもしろいと思えるし、おもしろいことができると考えました。進化しているわけではなくて、変化しているだけなのではないか。
それを成長と考えると、五歳のころの自分はまだ今の自分の中に全部いると考えます。変化と考えると、五歳のころの自分と今の自分は完全に違うものと考えます(同じ性質がいくつかあるとしても)。また一日前、一秒前の自分とも、今の自分は違うということになります。変化と考えることによって、今は何とか納得できています。つまり、ものさしなんかどこにもないのだから、自分で創るしかない。そのものさしで、自分がよいと思えるものに自分を変化させていくしかない。
それは成長ではないから、今までできなかったことができる代わりに、今までできていたこともできなくなるかもしれない。このことは体についてだけでなく、思考についてもいえると思います。
自分は、入った当時よりは、表現についてたくさん考えました。しかしそれによって自分の考えが進化したとは思えないのです(少なくとも自分には)。たいていの人は〈考える〉ことを〈進化させる〉ことと思いますから、その人たちの中だけでは、〈進化した〉と思わせることができます。しかしそれも、その中だけでしか通用しないものさしです。
反対の意見の人たちを完璧に否定できる力をもちません。そう考えると、思考も考え方も、進化、発展するものではなく、変化しているだけなんだ。頭がいいとか、ああこの人は自分より上だなと考えるのは、今まで知らなかった考えをみせてくれて、自分が好ましいと思える(納得する)考え方をする人に対して抱くものであり、そのような考え方に自分が変化するときです。しかしそれによって、今の自分の考え方は、さっきの自分より進化したとはいえないのです。ただ好ましいものになっただけなのです。
そのところを勘違いしていたので、今まで、よく考えてないと思った人には思い上がった態度、発言をしてきました。しかしその態度をとった瞬間に、自分がその人から得られるかもしれなかった、好ましい変化の可能性を閉じこめてしまっているのです。意味づけが受け手にかかっていることを考えれば、その人がおもしろいかおもしろくないかは、自分が決めることだったのです。変化しているのならば、どっちが進んでどっちが遅れてるということもないんですから。声だけにこだわることは、少なくとも今の自分には意味が薄いものだったからです。
それでも自分は、ここに在籍していたい。自分にとって好ましい変化を与えてくれると期待できる場所だからです。自分の中での声の比重が相対的に低いので、あまり通えません。このような輩は、研究所的に受け入れてくれるのでしょうか?
稚拙な考えを披露することに少し抵抗がありますが、それが変化へとつながると考えますので、ご批判いただければ幸いです。そのようなときに有効なもの、みんなの心を鎮められるもの、それが歌であり芸術だと考えます。(T氏の投稿より抜粋)」
A.「変化と成長」など、机上で考えると、同じことをことばで二通りに定義づけるだけにおわります。頭でなく体で考えましょう(右脳なんて〈古い〉ことばにかぶれていてはだめです)。それが難しいから、研究所のような実践する場があるのです。表現する主体にとっては、声楽家が声楽や音楽をやり始める前と後とでは、明らかに感性も体も〈成長し、変わって〉いるわけです。この二者択一で、どちらも正解になる定義は、こだわる意味もないでしょう。
要は、その人間が表現に必要な武器を身につけ、それが認められた(他者へ影響を及ぼした)という点においてのみ、意味が生じるということです(本当は、そのプロセスでの内面の成長・変化においてなのですが、この説明は貴兄に反論しても冒頭で言ったことと同じように無意味なので、このあとに述べていくことで察してください)。付言するなら(深読みしてよければ)、私にはあなたの思考は「成長はアナログ、変化はデジタル、でアナログ∧デジタル」というふうに統括されます。
編集もコラボレーションもデジタルの特質であり、それゆえあなたはアナログたる〈声〉の比率が軽くなり、声→歌→(映像)→インターネットとなるのでしょう。それは同時に、誰もが発信できる社会での表現者の地位や評価が成立しない、という自己矛盾を抱えるわけです。しかしこれは、最近、流行のインターネットの考えに翻弄されているだけで、こんなことはすでにいつの時代でも、とくにわかりやすい例では〈大衆社会=マスコミの成立〉とともに起こっていることで、現にそれゆえ、力のないアーティストも出てこれるようになったわけです。
結論を先に申しておきます。人間はアナログ的存在でピークを迎え、やがて死にます。同時に、同じところに同じ時間に存在できません。これを仮想現実化で可能とするのが、デジタルネットワーク技術です。そこで出会う人も、ひとときも二度とくり返せません。かぎりある存在ゆえにかぎりという型の中で、どこまで深めたかが真髄となるのです。まさに一期一会、ゆえに一所懸命(ひとところに命をかける)なのです。
ついでに言いますが、へたに学ぶこと、トレーニングすることで本質の眼が狂い、才能が出なくなる人が多いところから、「十で神童、十五で天才、二十歳過ぎればただの人」と言われます。気をつけましょう。
これだけではよくわからないと思うので、二つヒントを与えましょう。
私と、仮にパソコンの中で友人と組んで表現を完成させたあなたとが、どこかのパーティ会場で自分紹介をするとします。私は声によって、一〇秒で自分が何たるかをわからせることができます(歌でもよいのですが、歌にはジャンルや民族による理解の差があるので、声でのパフォーマンスとします)。画家は一枚の紙とペンで同じことができるでしょう。あなたは?? そこでマックを起動させますか?
二、三〇年前、カメラマンなら、高名な師匠のアシスタントを一〇年以上して、その上で高価なカメラを手に入れ、それからしか作品を世に問えなかったのに、今なら私でも同じ条件(カメラや発表の機会)はもてます。あなたの時代なら、デジカメならコストがかからないから、小学生でもそのチャンスはあるでしょう(なんせ何枚とってもただですから、いくらでも練習できる)。これは確かにアシスタント歴と機材をもつというだけの〈アナログ的〉キャリアでカメラマンと名乗っている〈プロ〉を失業の憂き目に合わすでしょう。
現に簡単なデザインなら、アマチュアでもパソコンでできるようになったため、本当に一流でプロにしかできないレベルのデザイン以外、デザイナーは不要となりました。しかし逆をかえせば、そういう人たち(カメラマンやデザイナー)は、そこに長くいる他の人がいないから商売がやれただけで、プロとしての才能で勝負できていなかっただけでしょう。権威の名の下にあぐらをかける日本という国で、これは楽な生き方です。
サラリーマンであれ何であれ、どんな職でも、才能があればチャンスがある時代といえるのは、技術の進歩でなく、私でもそうなれるかもという意識の変化のためです。しかし才能は努力に支えられていること、この努力はまさにアナログたる極みであることを忘れてはなりません。下積みアシスタントをしたカメラマンほどに、自分の才能を見つめることも努力もしないのですから、大してそういう才能も出てこない。カメラ小僧は、自らやっている意味がわかっていないから、アマチュアなのです。仮に出ていけたら、プロデューサーがプロなのです。
むしろ職人のようにその生き方が定められ、逃げることができないがために、技を磨くことで超えてきた人の方が、自由の名のもとにふらふらデジタル的な生き方をしている今の若い人よりも、よほど深いものを出せるのです。デジタルという技術をころがすだけで、高品質の作品が生まれることはありません。「ジェラシックパーク」のような作品の高品質に慣れた私たちは、その莫大な投資額なしに、同じレベルで第二弾を作れないことを知っているでしょう。だからと言って、往年の名作がそれに劣りますか。
たとえば私には、デジタル時代で得られるものはあっても、失うものは何もありません。所詮デジタルというのはコミュニケーションの強化ツールであり(単に交通や通信というメディアと同じものです)、核のない人は使えません。
余計なアドバイスですが、コラボレーションから入るよりは一人舞台からやることです。現にデジタル世界で成り上がった人は、すべて孤高のアナログ感性の魂のような人ですよ。精神風土が変わらないと、何も出てこないのです。
ここを声のことと捉えるあなたは、私が講演会で「歌は教えていない、感覚と体を変えることと基準を学ぶこと」と述べたことを、VTRなどででなく自分の体で、この場で感性がどう発露されるか、自分の本当のものとの出会いを実感するところからスタートすべきでしょう。VTRが役立つのは嬉しいですが、所詮それは〈他人の中の本物〉に過ぎません。それに出会ったところから、〈自分の中の本物〉をどうするかがこの場なのに、そこに問わないのは本筋にはずれます。
みんなが才能を発揮する社会などは、この日本では、これからはますます来なくなるでしょう。あなたのような考え方をする人が多数を占めていく(そのように育ち教えられて、今の指導者はみんなそのように考えているのですから)からです。研究所も私も、そのために苦労しています。やればやれることさえ、みんな専念してやれない。自分の中にあるいちばん大切なものよりも、まわりの青い鳥に幻想をみるからです。昔はそれは十代で卒業して、自分の足で歩み出したのに。
才能あるもの、強き者はいつの世でも人間のあこがれであり、その作品や実績は評価されぬことはありえません。
そのプロセス、たった一瞬の偉業は、まさに一人の人間の全人生を賭けた精神と存在からこそ生まれるのです。人々は、そこに人間の可能性、力、美しさ、勇気をみたいのです。そして、そこから生きる糧を得るからです。人はパンのみで生きるにあらず、人間もデジタルのパンでは生きられません。哲学も宗教も芸術、文化も、この点では全く同じです。(辰吉の初防衛成功の日に)
6−7 自分を語れ、迷える子羊へ
私は、月に何誌ものメディアに出ているせいで、いろいろと噂が流れているらしく、変な尾ひれがつくのもつまらないことなので弁明しておく。また音楽関係はもとより、芸術や政財界、ビジネスマン、マスコミメディア、いろいろなところに人脈もある。ただ私の人脈は、とりまき連中でなく、本人そのものであるから、そういう人は多くを語らない(私も語ったことはない)。これは、日本の音楽界の人間の〈うすさ〉のせいであり、私が本物や才能を求めるから仕方がない。その代わり単なる血縁、土縁、研究所での一般縁などはうすくてよいと思っている。ここでも、ただの学生、ただの主婦、ただのサラリーマンはお客さんだと思っている。歌っていればよいってものではない。その歌が問題だ。短い一生ですべての人と握手はできない。というのも、この年齢で勝負しつつ、そんな世界に私はいないからである。
だから、ここでも教えない。ただ走る。明日に向かって走る。
研究所というハンディキャップは、自分の力をつけるために課している。仕事や親の世話などでハンディを抱えてここに来ている人に負けないように。うしろを振り返っているつもりはない。
だから、二〇代で歌っている人が現役と思っている人がいるようだが、私の生涯においても、歌は二〇年たってようやく本当に学べてきている実感がある。日本の歌い手の多くは、不思議なことに音に出会わず終わってしまう。私のような凡才が非凡なる人たちから学んだことは、学べる環境を手にすることが大切だということ。
人を肩書きで分け、人のことに生きるよりも、自分の肩書きを作り自分のことに生きるようにしたらどうか。私なぞを手本にするより、一流の人に学びたまえ。
私にできることは生きること。それが歌で、表現であると考える――だから精神論というのだろうか。
だが、それ以外の何を学べようか。私の声は歌であり、体は楽器である。私は、表現することを音から学んだ、音を伝えるのは何と難しいのだろう。そして、今も学んでいる。
ここにきている人に願いたいことは、すべて自分で考えて、自分で判断せよということだ。
6−8 ユートピア幻想
あなたがたは、ものが豊かなところで生まれ、必要なものはすでにあって、与えられつづけて育った。そのためにどこかへ行けば、すべて(答え)が用意されているユートピア(正しい外側の客観的世界)があると思っている。そして、自分の外の情報のとり入れと消化ばかりにやっきになり、目移りしていく。
そしてここに来たの?
そしたら、自分の感性など、どこにも発揮しなくてよくなる。どうでもよいから、出てこない。
あなたがたは、そうやって育ち、そのことのおかしさに気づいている。それなのに、そこを掘り下げず、ここでもまた、与えられたものだけを与えられたときだけ、接していくのだろうか。
人間はいつも、何かを欲しくて、求めて求めて、それでもなくて苦心してつくり出していった、だから、それが人々に受け入れられた。そういうものなのに。
Q.ここでは、何をどのように身につけたらよいのでしょうか。
A.自分で考えてください。何よりも、あなた自身のために。
そのことに迷い、悩み、問い、得たものが、表現活動の滋養なのです。
*
Q.音楽、歌の本質とは? 音を動かすとは?
音と出会うとは?
A.少しは、“学ぶ”ということを考えてみてはどうでしょう。私には、こういう問いは音楽を聞かず、歌にも触れずにきた人のことばの暴力としか思えません。ことば一つでも、心に感じ、その意味において、ことばを使ってきた人は、こんな問いを他人に発しないでしょう。小学生のインタビュアでも、もう少し気がきくでしょう。もちろん、ここの2年間ではこういう横暴も認めているつもりです。問うのはよい。私や研究所の反応を楽しんでみるくらいで、ね。
「歌手生活も自分でつかめというのか」という脅迫めいた質問もあったのですが、私よりも他の人に聞いてみたらどうでしょう。まともな人は、こたえない、こたえられないと思います。
講演会レベルでの質問が出るのは、まだ、あなたがそういうところにいるからです。「そうだ、何もわからないからここにきた、何とかしてくれ」という魂の叫びはわかります。しかし、再三、本当に再三くり返している通り、歌や芸術は、幼児教育とは違うのです。それを引き受けるのは、あなたです。他人に何かを伝えるためには、自分から目をそむけてはなりません。そういうあなたを、他人はみているのですから。他人の視線にさらされる自分を、誰よりも自分が心の眼でみなくては、なりません。
自分に問いを向けられないうちは、自分の答えもみつかりません。どこへいっても。(もちろん、それを与えてくれる教祖もいるのでしょうが、私はそんなお目出たくは生まれつけなかったから、該当しません。)
*
私には、自発的な衝動であるアーティスト活動が、それをやめさせようとする圧力との闘いはあっても、それをやることを強いる概念にとりつかれたような、今の貴兄に同情を禁じ得ません。まるで、右手と左手がけんかしている。おかしなことです。
音楽、歌の本質なんて、どうでもよいのではないでしょうか。
私にとって、音楽や歌は自分の命を削ってでも、一日の食を栄養失調ギリギリまでの生活を強いられても、必要不可欠なもので、それゆえ、まさにそうした生活のなかで一秒を惜しんで触れ得られてきたものです。というのも、音楽は大切で愛すべき友であり、何よりも自分の命や精神を支え続けてくれた大恩である親だからです。ただひたすら、アーティストとその作品に感謝しています。音楽がなければ自分は立つことも、解放されることもなかった。この場に立つのも、歌のたった1フレーズを粗末に扱わないのも、それは私の魂に入り込んでいるものとしてあるからです。楽しいからやっているのです。
―あなたにとっては、どうしてもそういうものでなさそうなので、求めすぎてつらいなら、やめてみたらよいように思います。受験勉強や資格習得のようなレベルでとりくんでも、音楽はおりてこないでしょう。
キツネとバラの花の話(星の王子さま)(合宿の資料参考)をしてわかることが、あなたにわかるのに何年もかかることでしょう。100回読んでわからなければ、1年たってまた読んでください。心に感じられぬ人に、人の心に感じさせることはできません。今の私の力では、これが精一杯の回答です。
私は評論家でも研究者でもなく、本質を研究するのでなく、それを生きようとしてきた、そして生きていこうとしている人間ですので、本質論などについては、他の人と論を交えるつもりはありません。声や歌や音楽があり、人前に出る場があるので、そこでそれでいつも示しているつもりです。こういう問いがでてくるのは、私の力不足というほか、ありません。
ただ、これだけは忘れないでください。できないということは、そこまでやっていないということであり、そういうことに過ぎない。どこまでどのようにやるかが自由だから、素晴らしいのです。厳しいようですが、理屈では、何事も動かないのです。
6−9 大通夜(ボツネタ供養)
1998年出会った人で、印象に残った二人。
一人は関西へ在籍2ヵ月で「ここは本物でない」と殴り書きした手紙を突きつけて、退めた人である。研究所へ土足で入り込んでお金だけおいて出ていった泥棒みたいなもので、何が起きたのかあっけにとられてしまった。要は私が歌って、それをまねて悪いところを直したら、すぐに同じようにできるようなものがレッスンだと信じていたらしい。もし、それが可能なら、ここでもそうやっているし、一流アーティストのVTR1本買えばよいはずだ。
もう一人は、東京の特別講座にいきなり参加した一般の人で、待ち時間にかけていたフレディ・マーキュリーのVTRに発声上の悪口を手紙で匿名で書いてきて、私が「研究所では歌は教えていない」と言ったのを、「それなら意味ない」と皮肉たっぷりに書いてきた。やはり、3時間6千円とやらが高いということで。
世の中には、こちらが求めてもいないのに、どうしてほとんど見知らぬ間柄なのに、いろいろとここまで勝手に決めつけて断言できてしまうのか、理解に苦しむことが少なくない。また言ってどうにもならぬことがわかっているのに、そうしてしまうのも、わからない。その自制心のなさをみるにつけ、幼さにあきれるばかりだ。
もちろん、きっとその人なりに思い込んで期待してくれているのを裏切ったのだろうと、こちらの命も相当傷つくのであるが、当人たちも、何か一つ、失ってしまったわけで、おたがいよくないことだ。(安っぽい人間は、すぐお金を損したというが、こちらはそんなに安く命を売っているつもりはない。同じときに他の人の送ってきた礼状やアンケートも添えたい。自分が他の人よりもできると思っているから、学べない。というより、学ぶ必要もないのに何しにくるのだろう。)
こういう正義をふりかざした“いじめ”を弱者という立場を逆手にとって行なう消費者気分の人がこれから多くなると思うと、やり切れないところもある。つまり、学んで欲しくておいている場で、学べないことを証明して何が楽しいのかということだ。やって欲しいことがあれば私に直接、言えばよいし、そうでなければこちらに弁明さえを与えないおき手紙をしても、意味がない。私は、こうして表現もする代わりに、それがもたらすどんな嫌なことも、できるかぎり受けとめて返しているつもりである。結局、かわいそうな手紙を葬るために年末に私が思い出してこのように供養しなくてはいけなくなる。
世の中すべて、やりたいことがやれるようにうまくいくようにできているのであって、それを邪魔しているのはすべて自分なのである。だから、この研究所でも、技術のまえに精神やものの考えを述べている。歌のうまい人は、この世にいくらでもいる。そのことと歌で人の心に伝えること、そして世の中を渡ることとはまた違う。しかし、そうしていきたいのなら、人に認められる力をつけなくてはいけないし、歌がうまくなるのはその一つの要素にすぎない。それなのに、こういう人は、人との関係をつくるところで、自分の世界を一人よがりにゆがめて、悦に入っているだけでしかないことをアピールしてしまう。
生まれか育ちか、何のせいか知らないが、でも二十歳すぎたらすべて自分のせいである。だいたい、学ぶためには、頭も心も白紙にしなくては何も入らないこともわかっていない。
頭がよく、いろんなことを知っていても、耳や感性が死んでいるところに、何が学べ何が創り出せよう。私でなくとも、誰が聴いても1フレーズともたない歌しか歌えないのに、学ぼうとしないから学べない。学びたいと思ってきたのに、学びの心がなければ学べない。研究所は声を売っている商店ではない。
私は、声という世界共通のものを世界のどの国にいっても、相手がそれなりの人であれば、瞬時にその力を理解してもらえるだけのものにしたいと願い、そう歩んできた。次に一般の人にも理解してもらえるように、かみくだいてきたつもりだった。だから、こういう輩に遭遇すると、自分の力不足を知る。声量などをわざわざみせて、力づくで納得させるような不自然なことは、20年前ならともかく、今となるとあまりに幼いやり方であり、私の美学に反する。感性の耳をふさいでいるような人に、こちらも感性を殺して対すすわけにもいかない。どうすればよいのかは、わかる。こういう日本人は、メディアや誰かのお墨つきや学会などの権威にとても弱い。タレントなら、そういうものもついでに利用すればよいだろうが、私の人生の優先順位に、それらは今のところ入っていない。
ここの研究所や福島がどうであっても、外タレがどうでも、あなたがよければよいではないか。歌うのはあなたである。あなたが何ができるのか―ということだろう。たとえばこのステージ(ここでなくてもよい)で、誰もがすごいと思うように歌うのなら(もちろん、何年先でもよい)、何を言ってもよいし、何とでもしよう(しかし、そういうことを言うのは、だいたいここのメンバーの足もとにさえ及ばないような人ばかりなのだ)。そうでなければ、まず自分の力をつけることである。学ぶというのは、自分が学べないこと、知らないことがどれだけあるのかを知るところから始まる。いったい、3時間や1〜2ヵ月で、研究所の何を知ったといえるのだ。
6−10 歌の表現
Q:「歌は好きですが、その歌で表現する必要を感じないのです」
A:それはあなたが、自分の声で歌うためです。声が体のなかに生じるまで待ちましょう。待つ心が、より豊かな声や歌を育んでくれます。歌がなきゃ、ただの犯罪人が、歌える犯罪人であれば、何のための犯罪? 裁くのは法? 誰の法? と声をあげることもできます。それが大切なことなのです。
世の中、正しいことも正しくないことも、人が勝手に定めてきただけ、それを心の声に聴いて、生きるためです。表現とは、生きるということです。
6−11 考え方と実践
Q.最近、入会者から「〜とかのよい方法」は、とか「声がきちんと出ているかがわかりません」などの質問が多く、答えに困ることがよくあります。1、2回のレッスンで上手くなろうという考えなのでしょうか。
A.長く続かない人は、このような考え(B)だから続かないのかと思えます。スタートラインにつくために、本や会報を読んでください。
講演会や本で書かれた考え方(B)をしっかりと把握して、自分ができるようにする(A)のには、時間がかかります。考え方(B)は、あくまで実現する(A)ための手段、学び方としてあるもので、実現できればそれでどうでもよいのですが、できない人のためのヒントとしてあるのです。つまり、(A)が目的で(B)は手段の一つであり、それゆえ、(A)ができたら(B)はなくてもよいわけです。あるいは、そういう場合、(B)はその人なりに伴っている(D)のです)。だから、ここでの考え(B)をもとに、自分の考え(D)をつくるように言っているのです。ところが多くの人は、できない(C)のに、できた(A)の立場に立った気になるから困るのです。
「業界の考えと違う」とか、「ブレスヴォイストレーニングは…」とか「ここは教えてくれない」とか…学ぶほどに人のせいにしたり、不備が出てくるのは、いろんなことを知るにつれ、頭だけで考えて、体で学ぶのから遠ざかっていることです。つまり、知識として、いくら理性的に分析し記憶しても、それは部分的なもので使えません。感覚で自覚(気づく・発見)し、一瞬に感性でトータルでつかむしかないのです。
群れるなというのは、おしゃべりということばに頼ることで、感じて得ることをなくすからです。私のことばを実も伴っていないのに、自分の口から出しても、何にもならないでしょう。
私はいつも、今日の口から出ることばが、一生を決めると言っています。ことばは、両刃の剣、正しく使えないなら、黙ってモクモクと練習すべきです。それしか、モノにならないのです。
この世界で最初から問われているのは、どこにいるかとか何年いたかなど関係なく、その人が実質、どう学んだものを出せるかです。実質だけが問われるのです。だから、少しでも油断すると、学んでいると思って通っているだけで、初心(レッスン受講のとき)よりも、この世界から遠ざかっていくのです。習いにいっていれば上達すると考えるのは、どこの世界でも甘えでしかありません。いらないことばばかり増えるだけです。自分の可能性や自分の世界をつくることを自ら放棄する方向に考え、そちらに動いているのです。
何事も、そこにいるだけで、何か身につくはずがないでしょう。トレーニングはトレーニングでしか身につかないと言ったはずです。真に感じなくてはなりません。
私が業界の考えと違っても、それは私の「好き嫌い」と業界の「好き嫌い」なので、私が選べばよいことで、あなたたちには全く関係ないのです。結果として優れているかどうかが問題なのです。優れていると認められ、こちらが勝手に選んで好きにやっていけているのですから、私にとっては業界を超えているゆえ、業界と比べられても、困るのです。言うまでもなく、私とレッスン受講した研究生とは全く違うのです。
プロであれば、自分がやりたいことに対して「好き嫌い」のまえに「優れている」こと、それを「認められている」ことが大切です(特に、誰に、どのようにか)。それが難しいので、この研究所に問う場を与えているのです(好き嫌いでやるのがアマチュア、プロは優れていて認められていることが前提です)。優れていることと認められているがゆえに、「好き嫌い」で「選んで」やれるようになることこそ、めざすべきことでしょう(96.6合宿特集号にすべて述べてあるはずです)。
講演会では、肩書きでも能書きでもなく、実質を示し、それをわかった人がレッスン受講してもらえるようにしているつもりです。学ぶごとに、こういうことがわからなくなるのでは困ります。この世の中、人前では何一つ実質を示せないのに、それゆえ肩書きや権威筋(先生の名前や過去のキャリア)に頼ってやろうとする人が多く、日本人がそれを望んでいるから、まどわされるのです。一人でやることです。他人依存では、迷いから出られません。
今ここで、何ができるかが問われるからこそ、いつも厳しい勉強が必要なのです。人前に立つ覚悟がある以上、卒業はありません。できていて、やるやらないは、その人の自由です。自由のないところに自由な精神はなく、多くの可能性を常に選べることが自由ということです。なのに、あなたは?
ここを、本当の意味で使い切ってください。
6−12 あいつはいつも
あいつはいつも一所懸命だった
あいつはいつも働いていた
あいつはたまに息抜きしていた
あいつはいつもみつめていた
だけど 離れていっちまった
あいつはいつも夢中だった
あいつはいつも楽しそうだった
あいつはたまに遊んだいたけど
あいつはいつも笑っていた
だけど 死んでいっちまった
6−13 そのときおまえは
車のバンカーにはねられ
飛ばされた小柄の猫
おまえはそれでも
瀕死の状態で
5メートル歩んで
息たえた
そのときおまえは 何をみた?
つかの間の命
そのとき を 舞っている ボクら |