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― 音声を舞台で表現するために ―
プロフェッショナルへの伝言

めざせ、アーティスト!
学び方のヒント

 

 

あとがき2 -- 人と歌と生きざま --

 

○横尾忠則 無防備でいること

 横尾忠則さんが直観やヒラメキで感じたことを絵で伝えるとき、次のようなことを述べていた。

 自分の考え(コンセプト)から自分のアイデンティティを証明するために使うのは、自分には役立つが、相手の意識や魂の進化に必要ない。理解したところでおわるような芸術は、何日ももたない。ただの欲。

 ところが、直観やヒラメキで肉体で表現されたものは、ことばや論理を超えた力が働く。それには、子供のように無心、無我夢中になることが必要。それで本人がまず解放される。「上手に」とか「人に影響を」と言うまえに、「自分は何か」を問う。感性を磨くには、観察、よくみることから始めることだ。

 体で描いたものは、絵の息や墨にのりうつっている。

 そのエネルギー、パワーを感じることが、見ることであり、感じること。偉人の字には、パワーがある。

 見つめているうちに、相手やその相手が、体で作ったものとの間に交流ができ、情報が伝わってくる。これを返して交流する。これはことばを超えた思い、情念のようなもの、そしてそのものの実体や全体が見えてくる。それが感じること。無防備でいること、ですべてのものが聞こえ、すべてのものが見える。何かにとらわれていると、他の音が聞こえない。それができないのは、恐れがあるから。常識、一般の通念の拘束、それから解放され、肩の力を抜くこと。好き嫌いは単に感情、欲得、値段、他人の評価などで決めていることが多い。

 見られたくないものをどれだけ吐き出せるか、である。
  

 宇宙と一つになって絵とともに活かされていること
 心が体を動かすようになる


○王貞治 技術と志

 王貞治は「新巨人の星」のあとがきで言っている。

 「当時の私が野球にどんな気持ちで取り組んでいたのかを考えると、当然〈打つ〉あるいは〈打ち崩せる〉という自信と決意が、私のプロ野球人としてのプライドだったように思う。

 これは私一人の気持ちというのではなく、ほとんどのプロ野球選手は、自分の能力を信じ肉体の限界に挑戦して、一つひとつのプレーの最高点に到達したいという欲求があった。

 中途半端でなげだすことなど、〈プロ野球選手〉という名においてできなかった。そういう気持ちが私の一本足打法を完成させた原動力だった。栄光と挫折、勝利と敗北は、人につねについてまわる。勝利と栄光にいつまでも有頂天であれば、必ず挫折と敗北が巡ってくる。

 永遠に続きそうなスランプや不調からやがて立ち上がるのが人である。そのときのエネルギーになるのが、〈闘争心〉であり〈向上心〉であることは、誰もが知っている。そしてそれをもち続ける強い気持ちがあるかどうかが重要になる。

 人にとって、栄光や勝利をもたらし、挫折と敗北の苦しさを味あわせるのは、一体何か。私は〈いかにしてホームランを打つかという技術〉に生涯こだわりをもったと言ってよい。

 この新しい技術にいかに対抗していくかが、ライバルの存在価値であり、相手の技術を打倒するもう一方の技術の開発と鍛錬にしのぎを削るのである。この繰り返しが際限なく続いていく中で技術を限界点にまで高める〈志〉(こうでありたいと思う気持ち)が、挫折と敗北から再び栄光と勝利へと導いてくれるのである。

 〈技術〉と〈志〉を完全燃焼したい。バッティング、ピッチングあるいはフィールディング、キャッチングを野球の技術とするなら、もちろん他にもいろいろあろうが、この技術とプレイヤーである選手は必ずいつか向かい合うことがある。技術と対峙するときである。

 〈このままでいいのか〉〈このやり方ではこのレベルが限界だ〉と思うときである。プレイヤーとしてレベルアップするときと言ってよい。

 しかし、容易には解決できない。いろいろ試行錯誤していく中で、本当に大切なことは何かという真理にふれることがある。ひらめきといったり、目の前の霧が晴れるように、といったりする。こういう経験を積み重ねていくことで、一つの考え方にとらわれない自由で柔軟な生き方を学ぶ。スポーツのよさの原点はここにある。

 野球に興味を覚え始めた少年のころ、少しでも上手になりたい、もっとうまく打てるようになりたい、もっと速い球が投げられるようになりたい、なかには数センチ先をころがっていくボールを何としても捕りたい、と思うときがある。私自身もそう思うことの連続だった。そして少しうまくなると、もっと遠くへ、もっと力強くと、ますます野球のおもしろさに引き込まれていく。

 いつの間にか、野球が自分自身と切り離せないかけがえのないものとなる。勝利と敗北を重ねながら、野球を通して野球以上に大切なことを学んでいく。

 〈フォア・ザ・チーム〉の精神であり、真理と巡り会う瞬間である。この〈フォア・ザ・チーム〉が野球選手一人ひとりを極限の練習に駆り立てる。自分に課した練習が、強い心を鍛えてくれる。やがてプロ野球選手になったときに、他人が成しえなかった記録への挑戦が始まる。この挑戦をとおして、むしろプロ野球選手になっていくと言ってもよい。

 そして、容易なことではないにしても、壁のようにそそり立つ目標はやがて乗り越えられ、前人未到と思われた記録も、一人の選手の能力と努力によって、塗り替えられていく。

 それが数かぎりなく語り継がれる男たちの伝説になり、プロ野球の発展につながっていく。困難と挫折にもてる能力のかぎりを奮って目標に立ち向かい果敢に克服していく。(中略)努力しても報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか」

 以前「ここでは甘えることも許されないのか」と言った研究生がいた。それを言えてしまう状況とは、どんなに甘いのだろうか。甘えることが許されないところでは、そんな発言は出ない。しかし、今ではそれさえ懐かしい気もする。甘えたくなるほどにも、厳しいことをやってはいないように感じるからだ。

 


 

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