プロフェッショナルへの伝言3 (会報2005.4〜巻頭言)

 

<目次>

「ノウハウの伝授と、真の指導の違い」
「本物とは、関係において問う」「声はすべてに通じる」
「一流、二流、三流について」
「ロックしてる」
「本音で話す」
「何が目標か、何が成功か」
「行動しよう、声を出そう」
「研究所設立の理由」
「プロという仕事」
「感動させていく」
「解脱する」
「方法というワナ」
「自己投資」
「まねるのでなく、盗ること」
「トレーニング心得」について
「人は変わるということを知ること」
「プロ論」
「やれる人、やれない人」
「トレーニングへのとりくみ」(1)
「トレーニングへのとりくみ」(2)
「楽に逃げるな」
「当事者意識をもつ(才能論)」
「あなたは叩かれ強くなる、叩かれるくらいに強くなれ」
「学ぶこととは自分を疑うこと」
「希望をつなぐ」
「命ある限り」
「よいものと売れるもの」
「まねると学ぶ」
「判断中止」
「延長上で考えない」
「のみ込むか、吐き出すか」
「裏を読み、裏を補強する」
「その時、その場の真実と“発心”」
「表現されたものについての注意」
「声を扱うことの大変さについて」
「自ら育つということ 自ら学ぶということ」
「よき敵をつくること、よき敵となること」

さいごに 「がなり語録」より(高橋がなりさん)


0504
「ノウハウの伝授と、真の指導の違い」

○人を選ぶ能力、使う能力
 何事もノウハウやマニュアルの効力というのは、個人に帰すものである。たまたまうまくいくことがあるかもしれないが、本当に成功するとしたら、それは使う人の能力による。
 一流になる人は一流の人につき、そうでない人はそうでない人を選ぶ。やれていく人は、やれる人に、やれない人はやれていない人につく。この本質を観る眼、選択眼もまた、才能です。
 同じ人についても、その人の能力をどこまで生かすかは人によって千差万別。同じ額を払って同じ時間を費やしても、得られるものは全く違う。すぐれた人は、相手のもっとも高い才能を引き出すとさえいえる。

 ところが多くの場合、最初に見えていたはずのものが、渦中に入ると曇ってくる。そして、青い鳥を求めるように、どこかに正解があると、それを探したがる。相手にそれを求める。
 日本人は、殊にそれを他の人のもっているものへと追い求めます。追うから自分を見ないのです。この状況のままでは、何事も実現不可能です。師とは、何かを成し遂げる人が、自分自身を知るためにいるのですから。
 トレーナーのようにやりたがる人も多い。もちろん何をやってもよいのですが、もし間違えというのがあるとしたら、そこが唯一の間違えなのです。

○真の指導とは
 真にすぐれた指導というものは、本人さえわからぬうちに、本人に努力を強いる結果、本人の力でものごとを成し遂げさせます。そこで感謝もお礼も求めない。やれる人は自分の力でやっていくからです。
 本人がひたすらやりつつ、工夫しつつ、成功するまで続ける。その邪魔をトレーナーはしてはいけないのです。信じて待つ、見守るしかないのです。

 ところが、日本人というのは、類に交わり赤くなる。写しとることを上達と思うから、教え上手に思われる人について、早く教えられて、教わったと満足して終わる。早く求めてはうまくいきっこないから、一緒に悩んでくれる人を求め、そこに情を感じ、親しみを感じる。それを本当に、自分のためになることと混同してしまう。そういう人には、トレーナーはただのカウンセラーになってしまう。となると、そうしないトレーナーは、わかってくれないと嫌われる。

 教えたがりの先輩を選ぶか、師を選ぶかは、その人の精神性と成熟度にかかっています。こればかりはどうしようもない。その人の器(と将来)ほどに、選ぶのですから。
 これまでやり方よりも、選び方が悪かった、学び方よりも生かし方が悪かったのを省みず、またさらに最悪の選び方、生かせない道を、その人がその人の判断ゆえにしてしまうのです。
 私が、こういうことに少しは早く気づけたのは、すべて私よりも人生経験を積み、判断の適確な師やアーティストに早く会えたおかげです。でも、他の人は、私ほどにそういう人を活かせなかったように思います。

○今の人生は、自分の選択、判断の結果
 今のあなたが、思い通りいっていないなら、そこを変えなくてはずっと同じです。でも、変えられる人は、とても少ない。
 そして、自分が選んだと思ったとき、多くの人のその決断はより優れた師や世の中から、自分自身のめざす世界から見限られているのです。

 しかし、それも悪くはありません。自分の器以上に望むことは、想像以上の苦労を強いられるからです。やがて多くの人はそれを遂げようとはしなくなるのです。
 それを、ノウハウや他人のせいにしないなら、まだ何とかなるかもしれません。いつも、そこが大きな人生の分かれ目なのです。
 それは才能、努力でなく、選択のせいなのです。

○正解を追うな! 問いをつくれ!
 世の中には、正解が一つと思う人が多いのには、閉口させられます。正しいやり方、正しい声、正しい歌、正しい人、そんなものの考え方、見方ほど、アーティックなものと反するものはないのです。

 プロとして、世の中でやっていくのには、世の中に出ていない人、何らやり遂げていない人は、私の経験上ですが、あまり参考になりません。一つのやり方をのみ、正しいという人、誰にも同じようにやらせる人(レベルによっては可ですが)もあまりお勧めできません。

 最近、私のところには、お笑い芸人だけでなく、若い映画監督や演出家などがきます。これはおもしろいことです。
 ヴォーカルとして声のまねごとの追求より、やるべきことがあって、それをやるのに声のコントロール力が必要だということに、彼らは気づいているのです。そういう人には、きっと自分の世界を創るのに、声が大きな武器となることでしょう。


0505
「本物とは、関係において問う」


 私は最近、あまり日本のコンサートに行かなくなりました。何でも顔を出さなくては、というのではなく、逆に行きたいと心を動かされるものだけにしぜんに行こうと思いはじめたからです。言うまでもなく人生短いのですから、すべてのアーティストのすべてのライブなど、みられません。
 それともう一つは、旧来然としたシステム、客席に詰め込んで、一方的にステージから送りつけられる歌というか、ライブのスタイルに、閉口してきたのです。開始時間に行列して、待って、座ったら、終わるまで帰らせてもらえない。そりゃ、帰ろうと思ったらできますが……、映画だって、上映期間もあれば、1日何回か選択の自由もあるでしょう。はっきりいって、窮屈なのです。

 さて、本物ということを例えていうなら、どんなに人気があっても、多くの人が好きでも、私にとってはそれは本物ではないからでしょう。
 だからといって、そのコンサートで思い出にひたったり、涙を流す人たちを否定しているのではありません。
 そういうことが、日本の歌ではすっかりなくなった私には、アーティストとファンに成り立ったその関係は本物ですから、うらやましいのです。つまり、本物とはどこかにあるのでなく、そこでの関係性にあります。本物の男も本物の恋愛も単独であるわけではないのです。あなたと誰かとの間に、それが生じることもあるということです。
 もっと簡単なのは、ボロボロに不幸になればよい。もっと、音楽が心にしみるだろうと思います。でも、それは、腹がへったら落ちているものでもうまいというもので、本当においしいものを味わう幸せとは、また違うと思うのです。また、何か、私自身は、もうボロボロになったとしても、不幸にはならないように思えてならないのです。

 もう一つ、大きな理由があります。私もいろんな創造活動をしています。そのときに、他の人が、イベントやレジャーでくつろぐ中で、息抜きとしては、音楽は専門ゆえに、くつろげないのです。私はそれを選び、そのためにしぜんに楽しむことを奪われました。自分の活動で楽しんでいるのですから、ぜいたくな悩みだと思っています。しかも、いつでも選ばないという選択のできる身なのですから。
 私にとって、イベントとライブは、大きく違います。イベントはそこで楽しませてくれ、すっきりさせてくれます。ライブは明日へのエネルギーを与えてくれるのです。つまり、レジャー、イベントは、終わったら疲れる。私は今、自分の活動で心地よく疲れていますから、不要です。
 ライブは、本物のライブは、その日も眠れれない、何かやらなきゃとエネルギーをくれ、しかも次の日の仕事を充実させてくれるのです。それが私にとっては、本物なのです。

「声はすべてに通じる」

 私は、声の勉強は社会に出ても充分に生かせるものだと思っています。演劇なども同じですが、学問よりも、よほどストレートに生かせるものと思っています。人間関係や恋愛、仕事に、そのまま役立つからです。まさに魔法の声といえます。

 声を学べば、
  ・相手の本心を見抜ける。
  ・危機を脱することができる。
  ・相手の誤解を解ける。
  ・相手の怒りを鎮められる。
  ・相手を説得できる。
  ・相手に好感をもってもらえる。
 どれも人生、仕事、恋愛にとって、とても大切なことではありませんか。


0506
「一流、二流、三流について」

○師につく
1.アーティストの師
2.日本人のヴォーカリストの師
3.先輩トレーナーの師

○やれるためのやり方
1.勝負できるところにもってくる
2.他の人のまねできないところでやる
3.うまくなることを捨てる(「〜のように」とならない)

○ステージ、メジャーの条件、動き方
1.三年、五年、先をみて、先からもってくる
2.今、ヒットしているものを知る
3.後追いにならないようにする

○トレーニングの目的
1.器を大きくする
2.整理する、調整する
3.確実にする

○トレーニングの位置づけ
1.歌(創造する)
2.レッスン(リアルタイム)
3.トレーニング(レッスンの後追いと、その先のために)

○トレーニングでやること
1.長い時間のかかること
2.現場でやらないこと
3.今、すぐに必要ないこと

○歌を創造する
1.声で問う
2.歌いあげる
3.歌にまとめる

○レッスンのレベルの違い
1.プロのレッスン
2.セミプロのレッスン
3.アマチュアのレッスン プロ、より

○創造的レッスン
1.新しい感覚の延長でやる
2.トレーニングで片づける
3.知識、過去を、片づける

○レッスンをやめるとき
1.最高のときにやめる(あすから活動、できる限り続ける)
2.ペースメーカーとなったときにやめる
3.最低のときにはやめない

○やれる人とつきあうために
1.先の人とつきあう
2.今の人とつきあう
3.旧の人とつきあう

○やれない人のパターンI
1.やった人のあとを追う
2.すでにやった人と同じことを知らずにやっている
3.アドバイスを受けいれない

○やれない人のパターンII
1.同じレベルの人とやる
2.同じレベル以下の人とやる
3.トレーニングしかやらない


0507
「ロックしてる」

 サンボマスターは、落語家に近い。尊敬するアーティストを立川談志といい、志ん生、志ん朝の落語もベースに入っている。井伏鱒二、太宰治に感化された。大道芸の啖呵売(タイカバイ)は、心地よい。久々にロックしている、美しさ。

 「たま」の石川浩司以来、渥美清、カンニング竹山のようと言われる、ブサメン。
 カンフーロックでは、中国の歴史から語り、カンフーの型を演じる。
 「〜なわけですよ」「あなた方」
 「ああーたがたが聴いてくれなかったら、ホント、オレら、虫けらみたいなもんですよ」と、文体をもつ。
会津高校出身、野口英世青春通りは、私も先月、通ったっけ。

 「ロックとは、命の放射」「分かちあう」「つながり」「本当のこと」
 古きよき時代の日本語ロック。単純なテンションだけでなく、研究との両立したものとしては秀逸。
 この世の中の現状をみてる。そして、生きている。だから、大人も見に行く、ひきこまれる。

ロックとは。
 衝動、カオス、未整理、リアリティ、情熱、共振。
 セックス、ドラッグ、陶酔、エクスタシー、不良、バイオレンス、危険、理性。
 ことばをとばす、メッセージ、全存在、そこに真実を。
 美意識、そして、音、美しい余韻。

○音楽とコメディ
 「浅草の笑いにはオペラの要素があったし、新宿にあったムーランルージュはレビューだった。
 僕の大好きなクレージーキャッツにしても、ジャズってものが根底にあった……。
 とにかく東京のコメディには音楽の要素が欠かせない。」(三宅裕司)

○切り替え力
 漫画「ドラゴン桜」では、予備校の先生は、授業後すぐ群れずに、帰る子が一流大学に合格するという経験則を述べている。それを「切りかえ力」という。


0508&9
「本音で話す」

 ものごとに取り組むというのは、成し遂げていくということは、自分に信じる心があるかを試すということです。
 すごいことを素直に取り入れようとする心があるかどうかが、いつも問われます。
 「そんなわけない」
 「あんたがうまくいっただけ」
 「できればやりたいね」と、全く信じない人もいます。

 トレーナー、方法など、他に信じる何かがあるのでなく、それは自分の心の中、そこに信じられる音楽(音声)があるかということなのです。
 本も、そこに書いてあることを信じたら効果が出るし、信じなくては無意味でしょう。
 真の師匠は、自分なのです。言われた通りに、書かれているままに、信じてやりましょう。それは、疑うなということではありません。そこで表面にとらわれず、自分と音楽を深く知りなさいということなのです。
 シンプルに、トレーナーや本から学ぶ。そのなかでいいことをつかめばよいのです。
 出会い、良縁、大切に。


0510
「何が目標か、何が成功か」


 自分を肯定するのはよいことです。これまでそれができなかった人は、まずはそこからです。
巷の本を読んでください(私の、『「愛される声」に生まれ変われる本』でもよいでしょう)。
 しかし何事も、大きく変わろうと思う人しか役立ちません。今できていることの確認に来てどうなるのでしょう。
 できているところの声や歌がよいというのなら、それで世に通じていないのだから絶望的となるのです。
 よい声やよい歌が、独自に、あるいは別のところにあるわけではないのです。
だから世の中を認めること、それは同時に多くの場合、自己否定から始まることになるのです。  できていないなら学んで自分を変えていけばよい。世の中に通用する自分にしていく。  ところが、自分でなく場が変わることが、救いになるときは、やはり自己満足に陥るのです。
 自分自身で満足いけばそれでよいというのは、独自にあるときです。自分への承認を自分がしていることになります。
 その延長上に、自分への承認をスクールやトレーナーなど、他者といえ、身内に求めることがあります。
自分のいるところが気に入れば、精神的自己満足的成功とはいえるでしょう。
 それを第三者である客に求めることだけが、あなたの可能性を充分に開いていきます。私の考えるトレーナーとは、身内でなく、客の代表、ある程度、プロデューサー的立場でなくてはならないといえます。もちろん、プロとしてやれている人には、身内でもよいのです。
 作品は結果として、世の中が欲するものを形づくるのです。だから、売れるのです。だから、やれるのです。
だから、とても厳しいものです。  スクールで学べたところで、いくら、あなたの歌がよいといわれようと、あまり関係ないのは、そのためです。  人間は、自分が成功していけると希望を抱いているときには、素直です。他人のよいところに学びます。  しかし、何年かたってそうならないと、多くの場合、ひねくれてしまうものです。
 他人のよくないところにばかり、目がいきます。自分がかつてそうなるまいと思っていたようになります。
ひがみ、そねみ、ねたみとなって、世の中を否定します。自分を認めないゆえに、他を否定するようになるのです。
そういう人をみるのは悲しいことです。そういう群れに入ると、結局、自分の将来の可能性をも失うのです。  だから私は、すべての人に、あなた方一人ひとりに、大きく成功して欲しいのです。


0511
「行動しよう、声を出そう」

 あなたたちは、いま判断できるレベルよりも、ずっとたくさんの情報を得ています。その結果、逆に行動しなくなります。情報から、結果を予測してしまうからです。
 しかも、情報があまりに多いため、目でみて手間をかけて比較することもできないので、選択の判断さえ、情報にまかせてしまいます。
 やってみてもないのに「やってもムリだよ」と答え、動かないのです。そこには、「やってムリなら、無駄、損した」というような、せこい省エネ思考や経済観念が、見受けられます。
「やってムリなら恥ずかしいし、バカみたい」と安っぽいプライドみたいなものに支配されているようにも思います。
 声を出したり、他人に声をかけることも同じように思っているのではないかと、心配になります。
「あなたは、この二日間、何も食べていません。お金ももっていません。さて、どうすればよいのでしょうか」あなたにそのように聞けば、どうしますか。「ネットで検索して調べます」と答えるかもしれません。何十時間、ネットで調べても、おなかはふくれないでしょう。メールで、食べものを送ってもらいますか?
 そんなものは投げだし、すぐに外に出て、通りすがりの人に片っぱしから事情を話してみたら、どうでしょう。
たぶん一時間以内に、あなたは一食分、食べているでしょう。声をかけたからです。それが、あなたのすべきことなのです。
 いろんな情報を得ると、そのうち「できない」という口グセになります。もったいないことです。
 やってムリならやらないというのと、やってできなかったというのはまったくちがいます。そこで体験ができたということが大切なのです。
 その体験から学んでいけるからです。すると、つぎにやってまたできなくても、少しは近づけるかもしれません。
そうして学んでいけばいいのです。
 やらなければ、また時間を費やし、情報だけとっていきます。しかし何も変わらないのですから、無益なことです。
 すぐできてしまうものなどは、できたといわないのです。ただ、すんだだけです。できないようなことをやったから、できたというのです。できたできていない、成功失敗を一時で決めないことです。
 できないことをやりつづけるのが、人生の醍醐味です。何よりも成功よりも、失敗したときに味わいがあります。
人間関係も同じです。失敗しないと人のよさは味わえません。
 成功したときに誰もが楽しく失敗談を話します。失敗せずに成功した人もいないのです。
 つまり、試みることに意味があるのです。
 成功、失敗と白黒に分けるのでなく、成功か失敗かを体験しなかったことが、いちばんもったいないことなのです。
 だから、行動しましょう。はい、声をだしましょうということです。
(岩波ジュニア新書「声のトレーニング」拙書より)


0512
「複数のトレーナーにつくこと」


 医者には、セカンドオピニオンがつくことがあります。一人のドクターが考える治療の方針がよいのかを患者にアドバイスします。医療分業で、病院と薬局を分けたのも、医者が売り上げ利益優先で薬を選ぶことのないようにするためです。
(国が補助金を出すのが大変だからできたのでしょうが)
 分業をしたり、違う角度からのアドバイスをとり入れる。このことで、トレーニングにおいても最良の選択や処置をしようというのが、私の考えた研究所です。
 どんなすぐれたトレーナーでも、間違いを犯すことはあります。声のトレーニングは、間違いということさえ生じず、わかりにくいものです。(機会損失という考えもあります。同じ期間、費用を投じたら、もっと成果がでるべきだということから、実際に出た成果をさしひきます。)
 もっとも声は長期でみなくてはいけないので、その判断は、とても難しいものです。3年ほどたって平均的な伸びに至らないなら、方向性、方針、やり方、さらに必要に応じて担当を変えてみるのも、検討すべきことでしょう(もちろん、成果が著しく出ないことが、必ずしも誤りということではありません)。
 そのためにトレーナーは、あえて同じタイプ、同じ出身、同じ考え方にしない方がよいと思っています。あらゆる分野から異なる考えややり方、育ち方できているすぐれた人を集めた方がよい。
 ということで、最初は私ははえぬき(一門育ち)だけでやっていたのを、少しずつオープン(プロ実績による外部採用)としてきました。外の眼は、世の中という外でやっていく人に欠かざるをえません。
 トレーナーを選んだり変えたりできること、また複数のトレーナーに相談をできることで、一人のトレーナーだけつくときの相性や主観的方法で左右される誤りも防げます。
 多くのトレーナーは、ただ一人、自分のノウハウしかもたず、他人に与えたことへの実証は、全くしていないのです。
誰にも同じようにやる方法やトレーナーはいても、誰にもすぐれた方法を選んで、くみかえられるトレーナーは、あまりにも、いないのです。相手もトレーナー自身もすぐれていてオリジナリティがあるほど、このことは難しくなります。

○レッスンの時間と回数について
 研究所での個人レッスンの平均は、30分ですが、プロであれば実際現場では一人1、2分でもアドバイスできないのですから、個別にみる30分というのは、決して短くありません。たとえ15分間でも、1コーラス1分で12回(12曲分)、10秒のフレーズなら1分5回、何も話さなければ75回できます。
 1回60分レッスンをやっている人でも、20分発声、歌1曲3分を5、6回、それに休みや相談などで、実質20分あればよい方です。
 これよりも私はオンしていく(次元をかえていく)レッスンとしては、最高の状態の15分を選びます。
あとは、レポートやメールでやりとりすればよいのです。
 もちろん初心者は、自分のよい状態をもってこられないから初心者です。そこで体のことをやるには、30〜40分は欲しいと思っています。

 かつて月に30日、しかも1回2〜3時間(2、3コマ)受けられる体制にしていたことがあります。ほぼ全日制でやっていたのです。つまり、1年365日、400時間、3年で1000〜2000時間、月に15時間ほど、これは私自身が若いときにすごした環境でした。そこまでやらなければ、月に12回などといっても同じように思うのです。
 レッスンは、そこでトレーニングをやるところではありません。トレーニングやステージでやったこととやることの確認をしにくるのです。ですから、レッスン料金はレッスン回数で割るのでなく、自分のやった全トレーニング時間で割ることです。
 声は日常にも使っていますから、1ヵ月分の30日で割ってください。つまり、それだけレッスンを活かし切ってもらえば、月に4〜8回で少ないなどということはないはずです。毎日メールで質問も受け付けています。できたら自分の勉強のレポートをおよせください。もっと、研究所やトレーナーを使い切ってください。


0601
「プロという仕事」


 私のところでは、プロとアマチュアと、共に同じ場でレッスンをしているので、その違いがよくわかります。
そして、その差がいかに大きいのか、プロをめざす人の問題はそこからです。

 アマチュアの人でも、なまじ優れた人はプロの歌を聞いて、たいしたことがないと思っています。しかし、そこまで思うのなら、プロは、歌だけでやっているのでないことに、なぜ気がつかないのでしょう。もちろん、それ以前に歌の力のみえないところでの違いに気づくべきなのですが。

 以前、「若いときから素質があって、今もただ歌い続けている人」をほめたメールをみたことがあります。
 私は、それだけ才能や実力があって歌う場を得られていないという現実しかみませんから、何ら偉いとも不憫とも思いません。
 トレーニングを続けるのも、歌を歌っているのも、その人が好きだからやっているのです。好きなことをやっていたら、続けていたら、そんなに偉いのでしょうか。ただ恵まれているだけです。それを守ることはやっているのでしょうが。

 そもそも真の才能や実力というものは相手があって生じるものです。少なくとも声や歌は、相手との間にしか存在しません。相手を自らの与える価値によって得るのが、プロともいえます。
 多くの人たちは、“プロとは自分の好きなことを極めること”だと思っています。でも、それこそがアマチュアリズムの典型なのです。

 私自身は好き嫌いあっても、それを表面には出しません。それが出るようであれば、プロでないと戒めています。
プロであろうとしているから、学び、表現しつづけます。

 好きなことしかやらない―なら、ただのわがままです。すごい才能と実力があれば、そのわがままが、そのまま人に歓迎されることもありますが。それを除けば、それよりは、人生を生きるに値する仕事をやり抜き、定年後にでも好きな仲間と楽しくやればよいと思うのです。それゆえ、そのような人は、そうでない多くの人の前に立つことはありません。

 プロとは、人に役立つことをする人のことです。
 プロのアーティストは、その作品やステージで人に多くのものを与えます。だから、ギャランティが発生します。
つまり、仕事となるのです。
 「素質があった」、ならばこそ、好きなことばかりやるのでなく、それを活かすために、少しは人の役に立つことをしようと考えられなかったのだろうかと思うのです。
 プロとは、他人に対する思いやり、配慮、サービス精神のいきつくところにのみ、成り立つのです。


0602
「感動させていく」

 感動して入ってきたら、感動させて出てけという。
 何か講演会で感じ入って、入ってきたら、レッスンでも何でも、「いつまでも感動させてよ」と思っている。
 入ってくるまではお客さん。私の本や話に感じ、入るのはよい。
 入ってきてから、さらにそれを求めるのは違う、と言いたい。
 もし、世の中でやっていこうとする人なら、そこで自らがまわりを感じさせる義務を負う。
 私のレッスンとは、感じ返していく、そのための場である。これまでのすべてを出すことで、新たなものを入れる。
巷の多くのレッスンが効果をあげていないのは、同じものを入れようとしているだけだからだ。
 入ってきてからも、お客でいる人も少なくない。お客なら、まだよい。妙に斜に構えて、評論家のようになる人までいる。まあ、出ていったら、何を言おうと勝手だが、いつまでも自分を主役の人生を歩めない人の、一時、集うところであるつもりはない。
 私を、ほめようとけなそうと、どうでもよいけど、いつのまにか、輝いていた原石が、衆に交わり色あせるのは、世の常、人の常だ。ここにいる間は、場が守っている。そこで攻めに転じられなければ、出ても、出ていけない。
 内にいても出ていけるし、外に出ても出ていけない。これは内外の問題ではない。
 攻めというのは、出力ではない。もっと入力することである。
 少しずつレッスンに出なくなっていく人をみると、初心貫徹というのは、いかに難しいものと、改めて思うばかり、残念なことだと思う。自分の判断に言い訳をつけて、テンションが低くなっていく。高める術を得るための場なのに。こうして、どこでもあきらめず続けた人だけが、収穫を得る可能性を持つようになっている、夢を遂げるには、それだけである。


0603
「解脱する」

 今を、与えられた時間を一所懸命、生きること、
 煩悩を納め、生かされていることを知り、
 人のためにすべきこと、できることをやること。
 誰しもあと少しで死ぬ、
 で生まれてきて、少しずつ死に近づいていて、死んだあと、
 ものも金も残った人にしか残らない。

 だから私は、本を書いてきた。会報を残してきた。レッスンをしてきた。そして、今をつづってきた。

 炎に向かって坐り、たらたらと汗が流れるなかに、一瞬、涼風が吹く。その心地よさ。
 自分が消え、炎となれば、涼しい。
 人生とはそんなものって、仏は教えてくれている。
 それなのに、いつもそううまくいかないから、こんなものを書くはめになる。
 その今の自分をも、みつめること。
 いつか、本当の炎に焼かれる日がくるまで。


0604
「方法というワナ」


 何ごとも、正しい方法があると思うよりも、理想と現実の間をとことんつきつめることです。
 他人と自分とを客観視することで、他人との距離でなく、理想と自分との距離をつめることです。
さらに言うならば、自分の理想をはっきりさせ、そこに現実の自分をしっかりと重ね合わせるのです。
 方法とは、それを使うこと自体がすでに歪めていることなのですから、その後、元に戻すまで続けてみなくてはいけないのです。よく効く薬ほど毒であるのと同じです。

 効果を出すことより、副作用をあとで抑えるためにレッスンがある、と思ってください。
 暴走のブレーキとして、レッスンがあるのです。自ら、ぶっ飛ばす気持ちがなくては、心地よい風は受けられません。

 応用しては、そこでの詰めの甘さから、繊細に丁寧に扱うための大きな器をつくっていくこと、それがトレーニングの基本なのです。


0605
「自己投資」


 何ごとも仕事にして欲しいと思うのは、そうすることではじめて、学んだことが社会に役立つからです。
それとともに、より力をつけることを求められ、おごらずに励む契機となるからです。
 学んで力をつけたといっても、その力はまだ本当の力でないのです。社会にぶつかり、仕事となってはじめて、力といえます。社会で仕事をすれば、少しでも気を抜けば、力をつけたつもり、そのつもりが慢心になり、よい結果につながらないものがつきつけられるからです。
 潜在能力がいくらあっても、開花させる努力をしなくては、向上しません。残念ながら、そういう人をもたくさんみてきました。仲間内だけで楽しむというのはよいのですが、それだけ厳しい土俵で磨かれてからでなくては、本当に楽しめるものにはならないでしょう。何よりもその甘えの中で力をつけるチャンスを逃してしまいます。

 私がここを続けているのは、ここでも社会でも、やっていることを結実させて欲しいからです。ここにいるうちには無理でも、社会に出て花咲かしている人もいます。そういう報せに触れるとき、ようやく期待しなかったことまで報われているのを感じ、嬉しくなります。
 今は、大いにここに来る人に期待しています。私もまた、反省を重ね、変わっているのでしょう。
 学んでいるのも、仕事も同じ、というのなら、すでにあなたにプロのベースはできています。
 学んでいるのは、お金を払っているのだから、などと考えているかぎり、それは単に消費になりかねません。
学ぶことであればこそ、自己投資として位置づけて欲しいのです。
 すると、続けているうちに、それが生活の一環になっていきます。続けるとかやめるという悩みもなくなります。
 だからこそ、ここで学んだことを社会に大きく役立てようとして欲しいのです。


0606
「まねるのでなく、盗ること」


 まねるのは、借りているのですから、返せば終りです。表面的にはとりつくろえますが、まさにその形を覚えたところに落とし穴があるのです。
 その術の成り立つところを盗るのが正しい学び方です。盗むとは、自分のものにすることです。どんどん盗ってください。そう簡単に盗れるものではありません。盗ったもの勝ちです。アートの世界では、まねてばかりでは借りばかりです。
創ろうとしたら、盗れるのです。
 学ぶべきことは、作品をうつすことではなく、作品の人々に働きかける力を自分の身につける、つまり、自分の血や肉にすることです。それは、パクリや盗作ではありません。
 よりよいものとして自分から出るということになります。なぜ自分から、よりよく出るのかには、いくつかの理由があります。

 1.今、生きているから……今を生きていなくてはなりません。
 2.過去に学んだから……過去でなく、いつも変わらないものが入っていなくてはなりません。
 3.多くに学べるから……多くでなく、すべてに通じるものが入っていなくてはなりません。
 そして、その前に現実に生きている人がいるからです。

 私がレッスンでは、短い1フレーズしか回しません。それでも充分に思うのは、そのためです。
 その1フレーズにすべてが入っています。それを見つけるお手伝いをします。
 たった1フレーズのなかに、永遠の時も無限の空間も入っているからです。
今、ここのなかに、これまでからこれから、ここからあらゆるところまで、出せるものがあるのです。

 それを自分で選び出せる力をつけさせます。
 多くの材料を与え、自ら選ばせたものをさらに吟味していくことです。それこそが、レッスンで行なうべきことだと思うのです。


0607
「トレーニング心得」について


『「どのようにすべきでなく、なぜそうなるのか」を教える』(ジャック・ニクラウス)
『愚かな人に嫌われることを喜びなさい。彼らに好かれることは侮辱でさえあるから』レクエア(カナダの詩人)

1.方法でなく、認知をさせる。(どうするでなく、どうあるのか)
2.ノウハウでなく、メニュの材料を与える。
3.正誤でなく、選別をさせる。
4.決めつけるのでなく、判断ができる。
5.教えるのでなく、引き出すようにさせる。
6.大まかな方向、細かな目的別設定をする。
7.批判でなく、提案をする。
8.否定でなく、肯定をする。
9.トレーナーでなく、本人中心にする。
10.声ではなく、表現を求める。
11.今ではなく、将来を変える。
12.ここではなく、世界をみる。

トレーナーへのアドバイスの一文ですが、皆さんも自分自身のトレーナーになってください。


○「他山の石」とすること
 あるトレーナーのCDをいただきました。音響をうまく使い、とてもキレイに発音正しく発声されていますが、それだけなのです。何ら聞いて高まらないのです。
 なぜ若くしてデビューできたのに、続かなかったのか、わかります。そこには欧米にあこがれ、一度も自分を疑わず、クローンをつくろうとしてきたことしか感じられないからです。
 よくあるタイプで、ただきれいな声で、若くしてデビューして(ルックスやセンスがよいため)、その後、実質引退したような人です。
 こういう人は、自分やその方法を疑うことを知りません。そこで生徒を集めて、自分の歌を聞かせる趣味のサークルをつくっていくというパターンになりがちです。
 プロデューサー出身が、ライブ、CDづくりなどをうたって、やっているところもあります。
 どこで学ぶのがふさわしいのかは、本人が何を目的にどこまでやりたいのかによります。いろんな場や方法があるのは、悪いこととは思いません。どこでも活かせている人もいるからです。
 ともかく、自分の足を使って、しっかりと決め、決めたら専念することです。
 トレーナーや方法に左右されているようでは、どこにいても本末転倒です。あなたが、自分で決め、自分のために役立てる、そのために必要度において利用すればよいのです。
 ものまねの発声に、発音、音程、リズムのチェックからは、本当の歌を生じるようにはなりません。それは何のためかを考えてください。このように、あまり本音で言うのも考えものですが、自分の作品づくりと仲間内でやりたいのとは、目的が全く違うことだから、同じにしてはいけないのです。

 最近、改めて感じることは、
  1.素直さが大切。
  2.相手と同じ低次元におちない。
  3.感情でものを言わない。
  4.自分で決めつけない。
  5.怨みを徳で返すこと。
  ともかく、自分で学んで(学んだつもりで)決めつけたものから出られなくなっているのは、不幸なことです。
  多くの人は、学ぶことで素直さを失ない、みえなくなるからです。すると、

  1.文句不平を言う
  2.陰口を言う、人をうらやむ
  3.時間や身辺にルーズである
  4.不正をする、嘘をつく、ルールを守らない
  5.相手を尊重しない

 家族や身内でなければ、こういう人とは、やれないし、やっていかなくても正解だと思うのです。


0608
「人は変わるということを知ること」


1.感情でなく、必要性で判断すること
2.その人の悪いところでなく、よいところをみること
3.よいと思われる人から悪いところ、悪いと思われる人からよいところを学ぶこと
4.一人の人間の多様性に目を向けること
5.自分の尺度だけでものをみないこと
6.人は変わるということを知ること
7.非難したいときにも、自分が同じ状況、立場ならどうするかを考えること
8.好き嫌いでなく、すぐれているかどうかでみること
  すぐれていないところでなく、すぐれたところをみること
9.考えても仕方のないことや、言ってもしょうもないことに時間をとられないこと
10.感情だけでものをいわないこと 論拠をきちんと示すこと
11.関わる必要のないことに関わらないこと
12.10人に9人は、ここに述べた逆のことをしていると知ること


0609
「プロ論」


勉強とは、生計を立てるとともに、世の中に役立たせるためにやるものです。
いつか、ありがとうといわれる。だからやりがいになる。好きになる。
そのことが好きなのでなくて、そのことで人に役立つことを好きになりましょう。

時間をつくり出し、自分をつくり出す。
学びつくすより、困っている人を助けよう。
金にならないくらいの役立ち度でなく、徹底していく。 
自己投資なら、稼いで回収しよう。お金がおたがいを真剣にする。

よい作品はお金に変えられない、という理由を知ったら、
もっと、価値を考えるようになるだろう。
それなりに払わない人は、本当には、相手の価値を使えないのです。
お金がなくても、時間をかけることです。
心身に精神をかけることです。


0610
「やれる人、やれない人」

なぜ、この人たちはやれなかったか。
「たかが、百万円、百人動かせない奴」は、ものを言うなというのが、実力世界です。
何であれ、事実のまえに現実のまえに、素直になることです。
すべてにおいて強いという人はいません。

力をつけるには、やれている人を見習うことからです。
若いうちはやれている人に認められ、そういう人を動かすことからです。
そこで先人の経験を学び、自己の経験をつんで、成長するのです。

皆、やっている人は、自分の力以上に、世の中に役立つように全力で生きています。人に助けてもらったり、いろんな工夫をしたりして、ない知恵や自らに足らぬものを補っています。

そういう人を能力がないなどと自分のことを棚にあげて非難するのは、情けないことです。
それなら、自分でそれ以上のことをやればよいのです。やれると思ってもやれないから批判するのでしょう。
しかし、やれる人はやれるまで、忍耐して、やれるように力をつけてやることで、それを示していきます。

やるべきことをやっていたら他人に構う暇などありません。やらないと暇なので、そういう人は、他人のあら捜しをします。そして一人、くだをまいて、悦に入るのです。
自分のことがきちんとできないから他人のことにいちいちつっかかってくるのです。それは、他人を許せない人なのです。
そういう人たちは同じ穴のムジナが欲しくてたまりません。一人では何もできないからです。
そういう人を相手にして、貴重な人生を無駄にしないことです。その孤高の心と勇気をもちましょう。
大体は、自分のことをしっかりとやっていたら、他人に寛容になっていくものです。

そういう人たちは、何をやっているのか。何をやってきたのか。
他人のことを言うまえに、自分のことをしっかりとやってはどうなのかと思うのです。
きっと自分はもっとできると思いつつ、何もやらずに、人生は過ぎていくのです。
他人のことより自分の後ろをふり返ってみることです。
それは、一歩でも前に歩んでいくためです。歩み続けるためです。


0611
「トレーニングへのとりくみ」(1)


言い訳、ベスト3。遠い、忙しい、高い。
アーティストの個人的な事情や都合は、客には関係ありません。
レッスンを続けるのも厳しいようですが、そこからが勝負でしょう。
なかには北海道や沖縄からきている人もいます。

そういうイマジネーションも働かずに自分のことしか見えていないうちは、到底ムリです。
すべては、優先順位なのです。
レッスンを優先できるようにする力がないなら、そのようにしていく。
そうしなくては、先は開けないでしょう。
もし、この道で生きるなら、大学や会社からも、いつでもどこでも動けるようにしていく。
仕事に就いて、経済的な支えを必要とすることもあるでしょう。

やらないと逆にやれない方の条件が多くなってしまいます。
年齢をとるにつれ、仕事やつきあいにも時間をとられていく。
そのうち自分の才能に自信がなくなり、それを人生で賭けられなくなってくる。

何もない若いうちには、時間を自分のことに徹底して賭けることです。
夢を実践する人は、それを支える環境と習慣をもっています。それを得ていくことからです。

私は、自らがやりたいことを学べる環境と習慣を得ていくために、20年以上かかっています。
そうして少しづつ、やれる条件が整ってきました。誰よりも時間とお金と情熱をかけてきたと思っています。
そうして生きてこれたことを本当にありがたいことだと思っています。

「句調(ととの)わずば舌頭に干転せよ」 (松尾芭蕉)


0612
「トレーニングへのとりくみ」(2)

プロになる人は、「この人は必ず世の中にでていく」とまわりが思うような生き方をしているのです。
それは、見る人がみるとすぐにわかる。だから、世の中に出ざるをえなくなってくるのです。
もちろん、行動もしなくてはいけません。
そこでどこまで耐えられるかの勝負です。ここで大半の人はあきらめてしまうのです。

自分の作品にこだわるのはよいのですが、一人よがりは困ります。何事にもいろんなやり方があります。
ただ、それに急ぎすぎると大切なことに気づかないのです。
やり方は、大切なことを学ぶためにあるものです。なのに、やり方の正誤にばかりこだわる人ばかりになったように思います。
何事も結果を出せるように使うのであり、それはトレーナーも本も同じです。

一曲で決めつけられないのに、自分で一生のことをその一曲で決め、あきらめてしまうとしたら、もったいないことです。
つらくなったら、人や方法に責任を転嫁してやめてしまうのも同じです。
さらに悪い場合は、しっかりと一つのことを見極めもせずに、また新しいトレーナーや本やノウハウを絶対的なものと信じて、同じことをくり返すのです。

あたりまえのことが伝わらないもどかしさをいつも感じます。
ヴォイストレーニングでもまた一言「ハイ」をしっかりと相手に伝えられない。
その声さえ相手に通じない人が、どうしてプロとしてやっていけるのでしょう。
しかし日本ではやっていけることの不思議もあります。これも声のあいまいさゆえなのです。
だから、目標を高くとらないと迷ってしまうのです。

でも、声は正直です。一声で全てを語ります。私は、声を誰よりも信頼しています。
充分に時間をかけて、少しでも、自分が勝負するのに有利にしていってください。

「俳諧は教えてならざる処有り。能く通る(自ら会得する)」 (松尾芭蕉) 


0701
「楽に逃げるな」


プロに必要なのは、何よりも、バランス感覚です。
常に、個としての表現と、つながる相手とのなかでギリギリを迫られます。
それゆえ、すぐれたアーティストが、プロとは限らないのです。
しかし、人に影響力を全くもたないアーティストは、すぐれていても認められない。
それゆえ、そのことに気づいたらプロの道を自ずと進むことにもなります。

バランスとは、自分と他人との、である。
バランスとは、今と未来のとの、である。
バランスとは、今の自分と将来の自分とのである。

私は楽に好きなことをしようとしているのを否定はしません。快適快楽こそ志向されるものと
いえます。しかし、鋭い感受性があれば、楽した分、苦で補われることがわかるはずです。
楽は、妥協でもあるからです。
そこを見ないのは、見て踏み越えないのはアーティストでありません。
それゆえアーティストは、他人の目には苦行とうつることを、アスリートのように重ねていくのです。
楽を享受しないのです。
なぜなら、楽は、その作品に接した人が受けるからです。それをもって、アーティストは快感とするのです。
それゆえ、人に影響力をもつこと、感動させることも売れることも同じように大切なのです。
より、すばらしいものを創りだすために。


0702
「当事者意識をもつ(才能論)」

若い人が世の中に出られないとしたら、それは、ただ、先達に頭を下げ教えを請うことを潔しとしていないからです。それがわからなければ、厳しい場を求めましょう。鬼上司のいるところなら、理想的です。
教えを請わなくとも、指示と理不尽がふってくるからです。そこで磨かれ鍛えられ力がつきます。

才能のある人でも、才能を生涯にわたって生かせる人は、まれです。
なぜなら、才能のある人は、自分一人でやれるといううぬぼれがあるからです。何でも一人でやろうとするからです。大して才能のない人のなかでしかやらないので、まわりの人よりもできると思い、本当にできる人のできるゆえんを知らないのです。すぐれた作品やすぐれた人を認めても、そこに求める努力をめんどくさがり怠るからです。それによって才能があるのでなく、何にも大して才能がないことを現すことになるのです。才能は、才能を求めるものだからです。

才能は場を得ないと開花しないのですから、場をもち続けている人は、才能があるということです。
ある人を才能がないと思っても、それはより才能のある人から比べてのことです。
あなたというあなたにとっての当事者からみたら、全く違うのです。
なのに、あなたが、いつまでも、あなたの人生において当事者にならないことが最大の問題なのです。
当事者とは主役です。当事者にならないというのは、主役を振られているのにそれを真摯に演じないことです。

私は、自分より経験も実績もない人の批判をもありがたくちょうだいします。それもできる限り、勉強の糧や刺激にします。悪口をいう人にも「ありがとう また勉強させてもらったね」と気分が悪くても、それを活かそうと努力をします。そこで、エネルギーをためて自分の作品に昇華します。その結果、言いっぱなしで一時、スッキリしている人とは、ますます、その差が開いていくのです。

つまり、自分自身が何たるか、自分という当事者にきちんと向きあうことが大切です。

私も、若い頃、少しは才能があると思っていました。しかし、現実にやれていなかった。
その現実をみて、先達につき学びました。今も学んでいます。どんどん学ぶことが多くなって尽きることはありません。

才能のあるなしなど、どうでもよいのです。世の中では、やれていることが、大切なのです。
それでもそんなことにこだわる人には、才能ゼロでも活躍している人は、才能が満ちあふれても何もやれていない人よりもずっとよいということを認めることから始めたらいかがでしょうかといいたいのです。
そういう人は、才能の有無に関わらず努力してやりとげている。そのほうが大切だと考えますが、いかがですか。 


0703
「あなたは叩かれ強くなる、叩かれるくらいに強くなれ」


本当のことをやっているかどうかを見る眼を養いましょう。
何であれ、誰かのやっていることが急にめだってくると、足をひっぱる人や、自らはやらないのに貶めようとする人がでてきます。
私はそのたびにメッセージをおくるのですが、わからない人には、わからない。気づくまで送りつづけるしかありません。そういう人は、自ら気づく変わる、ということをしないので、できないので、それ以上のことをしたところでなおさら固くなります。
それよりは、同じ時間を、もっと可能性のある人にさくことになります。
むしろ、本当のことをやっていれば、まわりの波は、気にすることがありません。
そうして、何か言われることもまた、それだけの活動をしているからです。
ものは考えようです。どっぷり影響下にいてくれるファン(アンチファンこそが、ファン)なのです。
そこでは、同じ程度につまらないことにふりまわされる人をとり込んで防波堤をやってくれます。
こちらをよりよくしてくれているわけです。
ファンに支えられるともいいますが、すぐにファンになるような人は、却って、相手を甘やかしだめにします。

文句というのは、何にしろ、気づくチャンスをくれているのです。
熱海のある老舗ホテルの社長が、「よくも悪くも、人の口にあがれば客がくる」といっていました。悪評であっても、その存在が知られることで、あるいは思い出されることで、きちんとした客は、行くのです。自分で確かめない他人依存な客はいかないのです。ですから、内容はともあれ、とりあげられることに感謝をしましょう。
よかれ悪かれ、若いときは印象を残すことです。
こない客はどうせこないのですから、人の口にあがりつづけることがありがたい、ということです。
これは実力社会ではどこでも同じでしょう。

あなたも、そういう立場に立たされることがあったら、あなたの名をあげてくれる人に熱いキスを送りましょう。
日々変革し成長している人もいるのに、十年一昔の人には同情を禁じえないのですが。


0704
「学ぶこととは自分を疑うこと」


その人がうまくやっていけない、あるいは上達を妨げる、もっとも大きな要因は、その人に考え方にあります。その人がどういう育ち方、学び方、考え方、感じ方で生きてきたかは、問いませんし、その人には、その人の人生があります。
ただ、多くの人のほとんどが、そのためにうまくやっていけていない、あるところで上達が止まってしまうのをみてきました。そうでないためにどうすればよいかを求めにきたというなら、ここで指摘だけはしておきたいと思うのです。

世の中にはそのように考えた方が便利なこと、ルールや法や常識もあります。しかし、それに依ってしまうがために見えなくなり、却って、結果を悪くしてしまうこともたくさんあります。これは、当人が、当人である限り、気づかないからやっかいです。だから、師についたり、本を読んだり、他者へ学びにいくのです。ところが学び方によっては、学ぶ前よりも、ものの本質がみえなくなることは少なくありません。いや、誰でも一度はそうなります。そこを抜けるために学ぶのに、そこにはまってしまう人もいます。案外と業界などというのも、そのなかでみえなくなり、やれなくなっているものでしょう。そのまわりの人には、よくみえているものがその中にいるためにみえなくなっているのです。

そこにまで、自分を疑いなく通してしまったら、成果は大して望めません。
その人はそうして生きてきた。そして、何かを変えようと来たはずなのに、また自分中心にしかものを見ていない。相手ばかりを疑い、学べなくなっていくのです。
ときに自分を疑うことも必要です。いや、自分の考え方や行動について疑ってみることです。
うまくやっていくことや、上達というなら、今の自分を否定することから、踏み出します。もっと、深い自分を引き出すためです。それを妨げているのは、いつも、自分自身の考えでしょう。考えは外に出さなければ、害にならないというのなら、その考えに基づく発言や行動です。
そのときに、気をつけることです。

たとえば、以前、私の歌はすごいので聞いてくれというような人がいました。これは、明らかにセッティングを間違えています。ここは、あるいは私の役割は、すごくないのをすごくなる方へ導くことです。
すごければ、ここや私でなく、お客に問えばよいのですから。
同じような愚を犯さないように、じっくりと考えてみてください。


0705
「希望をつなぐ」


自分をよくわかっていないと切り替えられないもの。
それには、考えていることを書きつけることから。

まわりに迷惑かけないことばかり考えるより、リーダーシップをとろう。
成功・失敗の判断を、他人に任せるな。自分で自信をもって、続けよう、
自分のことなのだから。
わかりあう努力をすることも大切ですが、
たとえば、私はこの活動を正誤のレベルでやっているのでない。
思う存分に自分の表現をしていってください。全てはそこからなのですから。


0706
「命ある限り」

池田晶子さんが亡くなった。
「14歳からの哲学」。
2年前に、中尊寺ゆつこさんが亡くなったときも、私は、勝手に一緒に少し向こう側へいった。

生まれたときから、順番におくられる向こう側を彼岸という。
多くのアーティストは若くして、そちらにいった。
あるいは生きていて、ときに、そちらと行き来している。

私は、父母に問う。「そちらからはどのようにみえますか」と。
「池に写ったような世界なのかしら。」
「それとも、私が池に写っている方なのかしら。」
どんな夢がどうかなうかは知らねども、いつか必ず、順によばれていくことが、これほど確かに決まっているという将来はない。

つまり、私もあなたも死刑囚なのだ。銃で、刃物で、縄で、爆弾で殺されなくても、何かでおくられる。
病、ガン、脳卒中、あるいは風邪かもしれない。今は、ほんの少し、私たちの免疫力が勝っているだけだ。
それは、明日にも逆転するかもしれない。

世界中がバブルで沸きたち、やがて、またはじけるだろうけど、そうであろうとなかろうと、
この“愚かで素晴しい世界”に私たちはそう長くはいられない。そう思うと、愛しくはなるものだろう。

私を生んで育てて短い生を全うして逝った両親に、私は、与えられた命と使命を燃やすことを誓う。誓いしことができるように祈る。私でなくてもよい、私のあとにまた生じ、受けついでいく者が、そうして、何かを為し、開花させられることを願う。それまで、いや、その後も、この“素晴しく愚かな世界”がつづくことを心より願う。

けっこう、本気でそう願い、いつも祈る私を父母は“少しほめてくれるのかな”と思いつつ、“あなたたちの死を無駄にはしませんよ”と、格好つけすぎと思いつつ、私は、今日も生き、今日も伝えようとする。この“愚かで素晴しい世界”にいる限り。創れるだけ創り、残せるだけ残していきたく思う。


0707
「よいものと売れるもの」

「よく売れるものは、よいものである。」
仮に内容が悪くとも、誰か必要としたのだし、少なくともそこで経済的な利益を生み、
次へのチャンスを得ることができるからである。そのチャンスはよいものをつくるチャンスでもある。

よいものなのに、売れないものもある。一つも売れなければ、それは他の人に意味を生じないばかりか迷惑をかけることになる。作者には習作として生かせたら、次へのチャンスとなる。しかし売れないという落印は、次のチャンスを遠ざけることにもなる。
本来は、一つだけ売れても、それが一人の人生に何かをもたらせたら、充分であろう。
しかし、これでは落印が押される。

売れないものの中にも、よいものはたくさんあるのは言うまでもない。
しかし、それが、よいものというなら、だからこそ、売れた方がよい。
思うに、売れるものは何にしても売れる理由をもっている。そして、売れないものよりは、総じて優れているともいえる。
だから、売れるのをけなすのはよくない。そこに学べることは、少なくない。
何よりも、そういう人は、売れないものをつくって注文がこなくなるか、つくることもしない人、つくっても売る努力をしない人だからである。

売れるものに学べることは、少なくない。


0708
「まねると学ぶ」


まねると学ぶことの間にある深い溝については、何度か言及してきました。
まねるというのは、どうしても表向きになります。
大切なのは、その下にそれを表わそうとした感覚を盗ることなのです。

自分よりすぐれたことを行なう人は、勘がよいのですが、それをずっと続けている人は、
それが身についているだけでなく、行動が習慣化してシステムとなっているといえます。
つまり、内部での感覚が支えられるための行動、その行動を支える考え方、判断の基準があります。
これを私はポリシー、思考ともいっています。
いわば、外に表われたその人の世界を支える内面の世界です。

研究所で学んで欲しいことは、まさにこのことなのです。
造花をつくるのでなく、芽を出し、花を咲かせる土壌を養って欲しいのです。
そして、それを私はバックグラウンドといってきました。


0709
「判断を中止する」

自分よりすぐれたことを行なう人に学ぶには、一時、自分の判断を止めなくてはいけません。
自分の考え、感覚、やり方で持ち込んだら最後、それではこれまでの自分の枠を出られないのです。
学校で頭がよかったのに学べないタイプの人は、このことを知りません。
黒板を写して頭に覚えて、同じことを言えたら、頭がよいとされてきたからです。

ですから、相手もまた自分と同じように、ものを見て考えているとしかみられません。
だから、そういう人は、自分のことを棚に上げて、他人の批判や粗探しをします。
この場合、劣っているところを見ようとするのは、その人のコンプレックスからきています。
そういう人は、自分よりもすぐれている人には、自分がそのようにしか考えられない人間であることを
もろバレにしているのです。
ですから、自分よりもできの悪い人としかやっていけません。そのために何事もうまくいきません。
自分のみえないものが相手にはみえているということさえわからない人に、何が学べるのでしょう。

一方、世の中でうまくやれている人は、それを知っています。
相手のよくないところと付き合っても仕方ないので、できるだけ相手のよいところに学び、自らに活かそうとします。

視力0.01の人と、1.5の人のみている世界は全く違います。
0.01の人は、すごく苦労しているわりにうまくいかないでしょう。
なのに、メガネやコンタクトは「自分の眼ではないから、使わない」などというのです。
そんな問題ではないのです。
世の中で成功したり、うまくやれている人は、そうでない人よりも、よく見えているだけなのです。
他人の活かし方を知っているのです。


0710
「延長上で考えない」

私はこれまで多くの方と会ってきました。いろんなこと、特に自分のことについて、あれこれ言われると、そのことを考えます。ときに相手がそのようにしか人や思いを捉えられないということがよくわかります。びっくりすることもあります。
なんと頭でっかちで、人の言うことや本に書いてあることをうのみにして、そこから自分で考えたり、学んだりするといういことができないのだろうと。ですから、そういう本も書くことになったのです。

自分よりもすぐれた人に会ったときは、自分の延長上に、考えないことです。
そこにもっと深い意味、思惑が隠れていると思うことです。
それを感じて懐に入る人は学べるし、そのまわりでぐうたら言っている人、背を向ける人はいつまでも変わらないのです。
本人が変わらないことを是としているからで、それはそれでよいとしか言いようがありません。

自らの望むことを自らがブレーキをかけている。
アクセルとブレーキを同時に踏んでいては、どうにもしてあげられません。

私は目上の方や年下でも、自分にない経験を積んでいる人、成功している人には、白紙で臨みます。
自分の考えの延長上で考えないようにしています。
自分で判断したくて、あれこれ浮かんでくる雑念を切ります。
判断中止にして、素の心で観るのです。
すると、どんな人に会っても、どんなことがあっても、学べます。
学べることはとても楽しく、嬉しいことです。眼力をつけていきましょう。


0711
「のみ込むか、吐き出すか」

理不尽なことというのは、突如として降りかかってくるものです。
長らくレクチャーをしてきましたが、突如として不調がくることも数多くありました。
しのげたこともありますし、私にしかわからないレベルでさんざんだったこともあります。
そうでなくとも、いろんな参加者がいらっしゃいます。

その全てを満足させるのは、まさに魔法を使うがごとく至難のことです。
多分、とても満足なさった方のいる一方で、とても不満を抱える方もいるでしょう。
一方にとても楽しい話題も、他方にはつまらないことでしかないこともあります。
それを選択し、状況に応じて変じていくときに、いろんな判断をせまられます。

以前は、参加者は学ぶ意欲と、信頼を元にいらっしゃいました。
少しでも長く、詳しく、言外のものを吸収したいという意思が強く感じられました。
今は、すぐに役立つところだけを欲しいと、とても狭い関心範囲でいらっしゃる人も少なくありません。
それに対しては、プロとしてのサービスを心がけるとするなら、まさに雰囲気づくりに終始して、誰にでもわかるような説明と、誰でもできるマニュアル、ノウハウの披露になります。
つまり、主体がこちらでなく、参加者の方に移るのです。

これはCS(Customer Service)を持ち出すまでもなく、相手の欲するものを与える商売としては正しいのです。
正しいゆえに、そこまでなのです。参加者は自分に合ったもので大いに希望を与えられ、モチベートを高められ、心地よく満足して帰路につきます。買って満足ってことです。
多くのビジネスがそれを研究して発展させてきました。
それゆえ本当に高いレベルで通用するものとしての主体は、常に、相手側に握られてしまうのです。
それはアートでも例外ではありません。創ることなく買い続ける。
自分に合ったものが必ずしてもベストの選択ではない、むしろ逆である世界なのです。
だからこそ、挑戦と勇気が必要とされるのです。
他人の答えでなく、自らどう学ぶかの自らの問いを得るために、本もHPもレクチャーも利用してもらいたいと思います。


0712
「裏を読み、裏を補強する」

どこかに属して、若いときだけ少し、その他大勢で出て、いつ知れずやめてしまう大半の人は、
“そこ”に気づきません。気づかせないようにするのが、プロの側のノウハウです。
“そこ”に気づかないから楽しめるのです。
それで、多くの方は満足し、楽しみ、いつもよりも快適に過ごせるからです。
“そこ”に気づいてしまうと楽しめなくなります。そこで自分でもっとすぐれたものをつくりたくなるのです。

「アートは楽しいもの」とか、「あなたはそのままでいい」とか、「いいものをもっているから伸ばしなさい」とか、
甘いことばが飛び交います。
そこでは、本当の力をつけるのに苦労をした人は、幼い頃から積み重ねているので、早く評価され、
場を与えられるから、あまり、苦労や努力のようなことばは使わないので、なおさらわかりにくいのです。
それは10年以上毎日10キロ、走って通学した人が、マラソンを苦と感じないのと似ています。
それは“いい人”ですが、中途半端に力がついていない人の相手はできません。

何事であれ、そう簡単には同じようにはなれっこないのです。絶対的な量と質をなくして、
人の前に立つ芸は、成り立ちません。その量を質に変えるのがレッスンの役割です。
相手の発言が、心地よく聞こえたら、それこそ疑い、裏を読まなくてはいけないのです。
深めることが、高めることのベースだからです。
体も考え方も心も、深めることなくして、高まらないのです。
多くの人は長く生きると、長く行うと、そうなると思っています。
しかし、それは違います。自分より目上の人が皆、自分よりすぐれていると思えるのは、10歳くらいまででしょう。20歳くらいまでは、同じように生きていては、年上の人にかないません。問題は、そこからです。

農耕社会での生活なら、長老は経験で若い人を導けます。狩猟社会は、力のある人がリーダーです。
私がみるに、芸事や仕事においては、実力社会ですから、弛まない努力の継続が力となります。
よくできている人は、生活の延長上にありつつも、よく学んでいるのです。
他人と区別される自分のステージを獲得するには、長さや量は一つの条件にすぎません。
“そこ”に気づくために、他者に学ぶのです。


0801
「その時、その場の真実と“発心”」


何年も続けた人のことばに、がっかりするときがあります。
特に、はじめたときの方が、ずっと先がみえ、がんばっていたのを知っていると、なおさらです。
山に登ろうとして、最初に明確に見えていたものは、その裾野に入り、少しのぼりだすと、
山の形が失われてしまう。上に行っているのか、下がっているのかさえ、わからなくなります。
多くの人は、そこでうごめいて、あちこち移動しているので、いつ知れず、その中に埋もれて時を経てしまいます。

山は頂上がありますが、芸事には、それさえ定かでありません。
特に方向を惑わすのが、かつて同じ志を抱いていたのに、行き場を失い、群れている人たちです。そこに入ると、ほとんどの人は、なおされ方向を見失います。
群れと離れるのが、不安になります。動けなくなり、先に行く人の足をひっぱり、後から来た人の先を妨げます。

結局、第二、第三の“発心”が続かないと、クリアしていけないのです。
そこでは、耳にも心にも痛い現実が突きつけられます。
だからといって、厳しいとは思いません。道を歩むのも、ない道を切り拓くのも、歩んでいる分は楽なのです。
動きを止めたとき、再び歩み出そうとするときに、けっこう大変なのです。
それこそが飛躍の前提だからです。

そういうときは少し離れて山をもう一度、みるのもよいでしょう。しかし、これは勇気がいります。
かつてみたほどの感動を得られることは難しいからです。それも、あきらめる口実となります。

心の中の山を再び、明確に描くのもよいでしょう。
人は、信じるもののためにこそ、生きていけるからです。
その人にとっての一時の真実を、誰も否定することはできません。
だから、私は、ご自分の真実を自分でなくさないようにしてくださいと願うのです。
継続とは、行い難く、しかし、そこからしか本当の価値が生じないからです。


0802
「表現されたものについての注意」

表現とは、それがストレートで強く、世の中(の人々)に影響を及ぼすほど、言うまでもありませんが、反感も買い、それと反対意見を持つ人も出るものです。それゆえ、表現なのです。
しかし、人を教える立場においては、これがけっこう問題ともなります。
私の発言が私個人の世の中に対するものではなく、教えるときの私自身にも、さらには私だけでなく、トレーナーや研究所の人や生徒まで、そう考えていると安易に思われてしまうこともあるようだからです。
ひどいときには、研究所やそこに通っている人が、私個人の述べていることを全面的に賛同したり、容認しているように捉えられることもあります。

少なくとも“福言”などにおいては、言葉と戯れ、遊びつつも、やや過激に平和呆けした日本人に警告を与えるようにか、やや誇張している(短い文章のため、尚更ですが)のは、私も自覚しています。
そうであっても、表現したものに責任を私は取りますが、むしろ反感や刺激としての役割をも、私が果たそうと意気込んで述べてきたものなので、このことによってプラスになるように使って欲しく、うまく利用していただきたいのです。
ですから、どうしても引っかかる人は、お読みいただかなくてもよいとも思っています。

とはいえ、日本人には、自分に反する、あるいは自分の感性に合わないものを遠ざけ、読みもせずに、当人に意見するのではなく、その人そのものを否定して排斥する傾向があります。
そんなことでレッスンなどに迷いが生じることがあってはならないと思っています。
私はここでは皆さんの代弁者としてでなく、むしろ、皆さんを刺激して、ご自分の考えを深めていただきたく、こうして日々、書いているのです。そういうものに必要以上に感化されないで、己の考えを保つタフさも期待しているのです。

本来は、学ぶべき立場としては、嫌いなものだから、異なる意見だからこそ、理解して、研究して、きちんと反ばく、あるいは、それとは異なる自分の意見を構築していって欲しいのです。
時に、福島はこんなことを言っているから、信じられないという人もいます。
それもよいと思います。しかし、だから全てを否定したり、接すまいとするのは、早計です。
私のレッスンや理論については、レッスンそのものや著したものの研究をして、そこから具体的に事項に対して反論していただければ私の望むところです。そうでない感情論や抽象論は、お互いの時間を無為としますから。


0803
「声を扱うことの大変さについて」

声の判断には、さまざまな知識や経験がいります。
発声の専門技術だけでなく、周辺の応用経験も含めて、あらゆる分野の学識や身体運動を含むとさえいえます。
さらに歌や芝居となると、業界や芸を踏まえた理解力や判断力が、一般やビジネス分野で、となると、スピーチ、講演、コミュニケーションのスキルや経験も欠くことができません。
まして、教育や指導となると、さまざまな人を長い期間みて、よかれあしかれ結果を出してきた現場の経験とそこでの試行錯誤から得られてきた勘も欠かせません。

自分自身にではなく、他人というものの指導に対しては、3年や5年でなく、10年、15年と一人の人間をみて、その成果の検証までしなくてはいけません。自らの声についても、それ以上のスパンで知っていなくてはならないのは言うまでもないでしょう。

さらに声をどのように使うのかという目的を見ずには、声そのものの育て方の方向も定められないでしょう。
多くの方は、その目的や方向性さえ、いらっしゃるときにはまだまだ不明瞭なので、それを明確化していく期間をも必要とするのです。
私なりに考えても、人間の共通の体として、見ていくべき基本の声づくりと、個人差を踏まえた発声指導、加えて応用として現場で発揮する力をつけること、少なくとも、三面からみていく必要があるのです。

理想としては、それぞれの専門家から成るチームをつくって、一人の人間につける必要があると思います。
声についても、トレーナー一人では心もとないと思われるので、私は複数制を勧めています。
(参考:「トレーナーの選び方」)
こうしてみると、自分が歌手だったとか、欧米で学んだとかいうだけの経験や、若いトレーナーだけでは、現実的には、対処しがたいこともわかります。(よくそのようなレッスンをしているところから研究所にいらっしゃいますが、長期的に蓄積していくトレーニングについての理解はなかなか伝わらないものです。)

私は、
能力開発、成功哲学
感性や直感、心理学
経営やマネジメント、プロデュース
未来予測、マルチメディア
創作、文章、スピーチ
などの勉強、研究なども、少なからずやってきました。

創作活動は、かつては、私もそれに専念していましたが、少なくとも表現として話すことや書くことに対して、プロであることも必要条件でしょう。そこで私は、書く力、話す力についても、教えてきました。
さらに人を動員したり、感動させたりするプロデュースや舞台演出も、理論だけでなく、現場での実践経験が必要です。
企業や一般の方へは、ビジネスやコミュニケーションに通じている必要もあります。
科学面、医学面での経験については、専門家との共同研究で補ってきました。それぞれに今も師事している方がいます。
そして、専門学校やプロダクション、レコード会社とのプロとのトレーニング、さらに研究所のプロデュース、ライブ式スタジオの経営など、ここでもいろんなトレーナーやプレイヤーと接してきました。
生徒だけでなく、多くのトレーナーに接したり、トレーナーを扱うことで得られた経験も大きな財産です。海外経験から、全国をまわり、日本人の声や耳についても見識を深められました。
これらのあらゆる経験が、声そのものに加え、その使い方の効果における判断力となっていることを知ってください。

1.声のスキル
2.フィジカル
3.メンタル (カウンセラー)
加えて、プロデュース、演出

私が独自に一人でなく、総合的に多くの専門家をアドバイザーに、ここを運営している意味を知っていただきたく存じます。その上で、今のトレーナー、スタッフ、20年以上の多くの研究生やトレーナーなどの蓄積していった財産や人脈も含め、トータルとして、より大きくあなたの目的達成のために活かしていただければ本望です。

まずは
1.アテンダンスシート
2.鑑賞レポート
3.レッスンレポート
この3つを毎日出しましょう。


0804
「自ら育つということ 自ら学ぶということ」

教えてくれない、どうも充実していない、これは必ずしも悪いことではありません。
早く、それらが自分しだいであることを知るためには、そういうムダも、私などには決してムダとは思えないのです。
「とてもよく教えてくれて充実している」のはよいことです。
生徒がインストラクターの評価をするようなカルチャー教室では、充分なことでしょう。そこでの先生の能力は、誰でもわかりやすく、覚えられるように努力して、噛みくだけることだからです。
誰もができるくらいに、レベル設定を低くしますから、楽しいわけです。教え好きと教えられ好きでの日本人の中では、これが唯一ともいえる評価の尺度となっています。ただ、これは多くの場合、本人の知らぬところで個性や才能を封じる方にいくのです。
真のレッスンとは、教えられる人の満足度によって、必ずしも測られるものではありません。最低でも先生を超えるレベルになるくらいを目標にとれば、これは当然のことなのですが。

私の研究所の初期は、こういうわかりやすい考え方をする多勢の人たちとの闘いでした。結局、私が勝っても学びにくる人が負けていては、全体では負けなのですね。
自分のためにまわりの環境を最大限に生かすこと、そのためには、もちろん、レッスンの場や時間だけでは足りません。レッスンを10倍にしても足りません。それをレッスンの中だけでなく、自ら取り込み、どこでも周りを活かせるようにしていく力がいるからです。

教えて育てられただけの人は、教えられなくなったときに、育たなくなります。自立、独立するや否や、脱落していきます。こうならないために、できる限り、教えられ続けられる環境をもたなくてはならないのですが、根っこが育っていないのに、さらに教えられ続けられるから、どこでもいつまでもやっていけません。
大切なのは、根のところを学び続けることです。少しでも早く教えられたことをそのままやるのではなく、学ぶ術を得て自ら創り出すことです。
こうして自分で育つことを知った人は、教えられもしないことをも学んで、血肉にしていきます。

教えられていても、
1.言ったことをやらない人
2.言ったことしかやらない人
が多い中で、言ったことは当然、いや、それ以上に、言っていないことでさえ、それ以上にやっていく。自分にしか気がつかないことをやっていく。誰も言っていないことに気づいていく。その+αの分しか、本当の自分の力にならないのです。これを、外で通用する力といいますか。

特定のトレーナーを気にいる人の多くは、言ったことしかやらない人です。ですから、トレーナーが変わったらやらなくなります。本当に学んでいるなら、そのことを別のトレーナーに生かしてこそ、本物の力となるのに、そのチャンスまでも逃がしてしまいます。学ぶことに逃げとなってはなりません。

私は、ここに来て、できるだけ大きくよい方向に変わって欲しいために、いろいろとアドバイスしています。ときにトレーナーも変えるようにいいます。
少しは変わった人が、やめた後に、また元に戻ってしまうのは、悲しいことですが、世間ではそうでない人はとても少ないことも知っています。どこかで人は、元の自分のままでいたいものだからです。
どこでも三年くらいのうちは、大きく学ぼう、自ら育とうと思うものです。そこで最大の効果を上げようと思えば、まず、最初にとらなくてはいけないのは、その人自身の考え方、思い込み、判断の仕方を変えることなのです。

大きく変わるには、素直になること、己を無とすることが、とにかく大切です。郷に入って郷に従う、それは郷を出るまでの忍耐です。これまでの自分を頑固にもって変化を受けつけないなら、どこにいっても何ら変わりません。つまり、海外に行っても、いつも日本人とだけ付き合っているのと同じです。
それを破るために研究所はあると思うのです。変わるために来たのに、本人が変わりたくないと抵抗するのが見られるのは、何だかおかしなことですが、大変なことです。大きく変わるのは、大変ということです。

殊に、声や歌は、そこに真の問題が根ざしていることが多いのです。
ですから、私は、このようにアドバイスしているのです。なのに、耳を貸してくれないと、読み流すだけでは、そこに大発展する秘訣も隠されているのに、役に立てないことと思います。
それが、人の器というものなのかもしれません。一度、自分を離れることで、見えてくる自分もあるのです。それを見ることを目指して、しかもそこに勇気を持って、踏み込んで欲しいのです。


0805
「よき敵をつくること、よき敵となること」

多くの人は居心地のよいことを望み、そうでないことを嫌いますが、私は逆だと思うのです。
心地よさに安住するのは、発展のためによくないことです。だから、不快なことが、起こるのも、我身のため許容することが、いや、自らそれを求めるのが、器となり格となっていきます。
トップを走るには、トップになろうということよりも、トップとしての考え方を持つことが大切です。
つまり、それは他人とではなく、自分との闘いとなってくるからです。
ただ、独走していては、一人よがりになりかねませんし、ペースダウンしたり、コースアウトしていても、わからないこともあります。それを避けるには、一つには、師をもつことです。それは過去の大原則に学ぶことです。
もう一つは、今に学ぶことが必要です。それには、他の業界に見習ってみたり、今の時代に先んじている人に学ぶことです。

さらに自ら不快なほどに強力な敵やライバルを持つことをお勧めします。
一人でがんばるのは当然ですが、一人だけでがんばっても、何ら変わらないからです。
もちろん、一人からでもがんばらなくてはよくならないのですが。
そういう人がいなければ、自ら作り出してでも、刺激の元とするべきかもしれません。
私は、そういうエネルギーがないために伸びなかった人をたくさんみてきました。
邪魔する人、批判する人などは、ものごとを成就させていくのに案外と欠かせないのです。
企業でも独占を禁止して競争原理を入れたところが、発展しています。
嫌なクレームに前向きに対処できた会社だけが、生き残っていくようなことと同じです。
何よりも表現のエネルギーは、そもそも怒り、不快、劣等感など、負の感情からくるものともいえるからです。
慕われたい、いい人でいたいと思うのは、人として当然ですが、さらに一歩、リーダーとなって、相手の成長や業界の発展を願うと、今度は、自らがあえて次代のリーダーの目の上のたんこぶ、いや、鬼や敵にならなくてはいけないとも思います。
敵が弱いのなら、塩を与えて育ててでも、自分のまわりの環境を厳しくしておかなくてはならないのです。
せっかくの創始の志が、仲間のぬるい輪によって、その本質から実質を失い、形骸化した例をたくさんみてきました。
いい先生には、いい人がたくさんつきます。そのため、世を変えていくような力にならず、傑出した人材を出せなくなるのです。殊、アートの世界では、突出した人が出てこそ、なんぼです。
私や研究所を超えて、世の中で大きく活躍していく人、現実に、人のため、自分のために、声を活かしていける人をお待ちしています。


さいごに

「がなり語録」

○評価はあとからついてくる、それまで待てるヤツが勝つ
 評価はリアルタイムで、すぐについてくる性質のものではありません。1年は遅れてきます。3年くらい遅れてくることもよくあります。 

○自分を信じられないヤツほど、上司や会社に疑いをもつ
 僕にとっての大リーグボール養成ギブスは、テリー伊藤さんでした。頑張っても殴られる。もっと頑張っても殴られる。どんなに頑張っても殴られる。理不尽のかたまりのような人だと思いましたよ。だけど、自分を成長させてくれる人だという確信があったから、すべて受け入れた。数年後、伊藤さんから離れることになり、養成ギブスをはずしたら、僕は剛速球をビュンビュン投込める鉄腕になっていた。自分でも驚くほど、自分の能力が上がっていたんです。 ○伊藤さんを信じる以前に、僕は自分自身も信じていた。俺が自分の意志で入った会社なんだから、いい会社に決まっている。この人は俺を鍛える養成ギブスに間違いない。あくまでも自分が主体。自分を信じているから、会社や上司を疑わない。 自分の意志で入った会社を信じられないサラリーマンは自分を信じていないということ。自分を信じられないヤツは、上司や会社を疑います。 映画の製作現場には、こんな人が大勢います。 
 「俺、芸術は好きだけど、商売は苦手。だから貧乏なんだよ」 貧乏自慢・・・。儲けることが正義だとは決して考えない。 で、「魂売って、金儲けして、何が嬉しいの?」みたいなことをいうから、僕は無性に腹が立ってくる! もし、自分の技術や能力に自身があるなら、どうして、それを資本家たちに認めさせて、もっと多くのギャラをもらおうとしないのか。芸術家を気取ってるつもりかもしれないけど、それはただ、自分の能力を認めさせることを怠っているだけなんじゃないのか。努力しても評価されないときのことを怖がっているだけなんじゃないのか。 金(評価)にならないようなポリシーは、いらない!

○会議で黙ってるヤツの評価は、バカな発言してるヤツより下と心得よ
 「なんかイマイチ、モチベーションがあがらないんだよな〜」とかいってるヤツが、ウチの会社にもたくさんいます。給料をもらって仕事をしている時点で、誰もがプロ。にもかかわらず、やる気が出ないっていうのは論外。そういうことをいってるヤツらが大嫌いです。 ヤツらが「やる気が出ない」という理由を僕は知っています。ヤツらは、学生時代まで「燃費のいい人間」だったんです。勉強すれば、すぐに結果が出る。家庭教師のバイトをすれば、すぐに儲かる。これだけのエネルギーを使えば、確実にこれだけは前進する、という意味で燃費のいい人間だったんです。 ところが会社に入ってみたら、同じエネルギーを使ってるのに、学生のころほど前進できない。まったく進めないことさえある。それで自信をなくしたんです。だから、「やる気が出ない」と現実逃避をする。 アマチュアとプロのレースは違う。燃費よりも結果が大切。結果がすべて。燃費を気にして、本気で走れなくなったら、その時点で失格です。 

○プライドは守るものでなく築くもの
 20代のころの僕はプライドのかけらも見せない、とても扱いやすい小僧でした。なぜかといえば「いまの俺が何を言っても、誰も聞いてくれないだろう」と思っていたから。現時点での俺はレベル1の実力なんだから、レベル100の自分像をふりかざしたところで、相手にされないかつぶされるだけ。いまは、プライドを隠し持っておこう・・・・・、と。 裏返せば、将来の自分にものすごく自信があったということ。だからこそ、隠し持って育てることができた。 まだ新人なのに「俺様にこんな仕事をさせるのか!」と実績のともなわないプライドをふりかざすヤツがいるけれど、無視されるか潰されるだけ。それ以前に、実績のともなわないプライドを世間は「プライド」として認めないことを知るべきです。 

―もう、私の言いたいこともこの通りで、これ以上言うことなし。私もこうしてきたし、これしかないのに、そうでない人が多すぎるから、こんなあたりまえのことを言うハメになる。(F) (高橋がなりの「成功手帳」より ソフト・オン・デマンド代表取締役)