プロフェッショナルへの伝言(4)
2008.6〜2010.08 福島英 「会報」巻頭言より
<目次>
「評価すること―客観性とバランスの大切さ」
「極めていくために」
「一つのことを続けること」
「甘いプロセス」
「正誤をおくことの誤りについて」
「言語化と体に聴くこと」
「声はそう簡単なものではない」
「私がヴォイストレーニングに携わるわけ」
「“飛躍のために足元を固める”」
「器を大きくする」
「続けるということ」
「処し方」
「トレーナーの選択とトレーニング方法」
「レッスンの進め方とトレーナーとの判断の違い」
「形を壊すこと 〜成立と想像〜 」
「表現は語ることの基礎能力から」
「プロの学び方」
「人は自分をもとに考える」
「めんどうの先に」
「魅力的になる」
「他人に学ぶということ」
「人に対する姿勢」
「大切なこと」
「評価すること―客観性とバランスの大切さ」
自己診断に加えて、ヴォイストレーナーたるテクニカルコーチに、メンタルコーチが評価して、その三面から比べるのも、大変に意義深い結果が得られるでしょう。あるいは、テクニカルコーチも、二人、三人の評を入れるとさらによいでしょう。
私はコーチにも、セカンドオピニオンを採用することをアドバイスしています。
自分でもっともよいコーチを選んだといっても、それはかなり限られた条件のもとでのことです。
確率からいっても、世界一、目の前にいるコーチが最高ということは、ありえないのです。
ただ、相性が合っているとか、長くやっていてよく知っているというのは、条件の一つであるから、それを否定しているわけではないのです。
もっともあなた自身が明確にヴィジョンや目標が決まっておらず、トレーニングも充分でないため、
あなたの強味も個性も出ていない状態では、世界一、自分にふさわしい人を選ぶという方が、無理なのです。
ですから、とにかく誰かとはじめる、その誰かをどう選ぶのかは、後のことになるでしょう。
運命的出会いということもよく言われますが、多くは、はっきりとした目的をもって、
自分に足らないものをしっかりと捉えて求め続ければ、出会う人に出会うべきときに出会うものなのです。
ただ、私が見るに、そのような人は1パーセント、100人に1人にも満たないのです。
90%の人はそこまで続けない、ねばらないからです。
また、それに気づかない、目の前の人をうまく生かせない人も少なくありません。
自分のレベルに対応しているコーチにさえ対応できずに、高いレベルに対応しているコーチに対応するのは
難しいものです。まして、短期の即効的な効果よりも、長期の真の効果を見据えてやるのは、声に関しては、難関中の難関といってもよいでしょう。
しかし、初心者向けのコーチは広く受け入れてはくれるので、成り立ってはいるようにみえるのです。
多くの場合は、最初は、こういう目的やプロセスを知る、学び方を知るために、コーチにつくべきなのです。
でも、どうも声だけのトレーニングと考えてしまうから、そのようになってしまいがちです。
そのために本当に必要なこと、もっと必要なことを考えなくなってしまうこと、つきつめていかないことが大問題です。
これはコーチの責任ともいえなくはないですが、少なくとも、ヴォイストレーナーなどでは、そこまで考えている人はほとんどいないでしょう。むしろ、声だけに絞らなくては、あまりにとりとめなくなるし、表現は
必ず、絡んでくるのですから、本来、本人が表現に行きすぎて自滅するのをトレーナーが止めて、バランスをとるのが、理想的な関係と私は思います。現実は逆にトレーナーが表現に向けていかないと、声しか考えない。つまり、一般的な声しか考えず自分の武器にすべき声をつきつめていかない人が大半です。
コーチについたがため、依存して任せて考えなくなるくらいなら、その人の言うがままに操り人形になるなら、
そのコーチを本当に使っていることにはなりません。そうなりたがる人が、そうしたがるコーチにつくので、
そういう問題さえ見えなくなっていくものです。アーティストにもっとも大切な、目を開かず、それが曇って
しまうのでは、何のためのレッスンかわかりません。ヴォイスジムというなら、よいかもしれません。
レッスントレーニングは、目的を遂げるためにあるのです。少なくとも目的がよくわからないなら、トレーニングするプロセスで必死に探ろうとしなくてはならないはずです。
そうでない人は、ただ声の悦学、トレーナーとの逢瀬を楽しんでいるトレーニングとなります。
それが目的なら、それも決して悪いことではありません。社会から自分の声や体を感じることが失われた今、そこも原点といえるからです。
「極めていくために」
本気で極めたいなら、なんでも人に聞いたり人を訪ねる努力を惜しんではなりません。
そこで差がつくことに気付くことです。
ひとりでやるのは、好きなら当然で、いずれ、仕事として考えていくなら、
一人前になるというのなら、人の中に入る勇気をもち、
めんどくさく不要にみえる手間を惜しんではいけないのです。
まずは、どこかで短期と長期との勝負は全く違うことに気付くことです。
今は全力で、勝負しつつ、そこから、本当の勝負に備えられるように準備していくのです。
といってもそれがよくわからず、無理なうちは、
せめて人と交わり、そこで嫌な想いをたくさんしてもまれ、強くなることです。
何でも疑問を抱いたら聞きにいけばよいのです。
あなたが素直であれば、いろんな人が教えてくれます。
そういう動きができないなら、自分を反省して変えていくことです。
意地をはってばかりで素直になれないか、
できたつもりで慢心してしまうか、
急ぎすぎて心を失っているか、
そういうときに、それに気づくために師がいるのです。
尺度とするのは、あなたの力でも、あなたのまわりの人の力でも、
あなたの目標とする人の力でもなく、
それを超えた力であるべきなのです。
人間を知るのがどんなことでも、仕事の前提です。
仕事だからこそ、好き嫌いを外して頑張ってやり続けたいものです。
一人での勉強などはやっているなどと考えず、
仕事の合間でやれるようでなくては、その先は開けません。
大変だ、無理だ、できないと言い訳だけの人生にしたくないなら、行動することです。
頭で考えることは、それに伴ってきます。
考えるよりも、行動することなのです。
自分の頭の中でなく、人に働きかけることです。
レッスンが自主トレーニングと一番大きく違うのはそこです。
「一つのことを続けること」
考えてみれば、声につきあい出して30年になります。その一つのことを続けるために、ほんとうにいろんなことをやってきました。
最近は、トレーニング日記をつけるようにいっても、一か月目しか続かない人がいます。学ぶということは、どんどんオンしていかなくてはならないのに、最初が一番学べていて、勢いが弱まってくるのです。あっちいったり、こっちいったり、やったりやらなかったりでは、深まりません。Wiiのゴールキーパーのゲームでは、連続してボールを防御すると+1、+2、+3・・と、わずか10球で、55点とれます。1点、1点、1点、で10回なら、10点なのに、5倍半になるのです。これが、どれだけ大きな差になるのを気づいていない人が多すぎると思うのです。
毎日、報告に目を通していますと、いろんな質問、問題、トラブルがあがってきます。少なくとも自分よりも経験のない大半の人に対しては、より見えることがあります。なのに当の本人は、自分の見ているようにしか、相手が見えていないと思うのでしょう。それどころか、こちらの胸の内まで、自分と同じ程度に判断して疑うこともない人さえいるのです。
自分しかみえないというのは、客観視能力がないのであり、こういったバランス感覚では人並み以上のレベルへは到りようがありません。
縦社会では、その差が早くわかったのだと思います。
「鴻告(こうこく)、いずくんぞ、君子の志を知らんや」とまではいいません。
しかし、あまりに安易な物言いや推測が堂々と主張していると、そういうレベルで考え、生きている人なんだと、逆に本人がそこで真っ裸にされるのです。主張するのはよいことです。それがどういうことか気づくために、黙っているよりも早く学べるチャンスがくるからです。
十代なら、まわりは待ってくれます。三十代となると、まわりは、言ってくれません。そこまで気づかないできた人に気づかせるのは無謀なことにみえるからです。
何事であれ、見えている人には、その人の器や程度や成り行き(将来)が丸見えです。述べていることから、考えていること、やってきたこと、やっていけることも赤裸々にわかるものなのです。
その程度のことをこちらが考えていると思っての批判について、どうも、取り合う気にもならないのも、そのためです。今は何をいってもわからないとわかるからです。
つまり、そういう人は皆、相手も自分程度の考え、いや、自分よりも低いレベルでそう発言したり、行動していると思い込んでいるからです。
自分よりどこかが秀でたところのある人(多くは誰でも、そういうところはもっています。)を知るなら、もっと、言動に用心して、主張する分にはしても、その後は、謙虚になると思うのです。
ネット社会の成立は、そういうことへのとんでもない鈍さを加速させた気がします。
かつて何の実力もない歌い手がデビューさせてもらったがために、すぐにだめになったのと似ています。
少なくとも文章でも本や雑誌など、第三者の眼のチェックのあるところでは、誰かに吟味されるのです。
それがないところでは、何でもすぐに発言できるために、その人の成長も気づきも止まるのです。周りの程度レベルになじんで、そこから出られなくなるのです。一人悦に入ってものを言い、そこに同じレベルのそれ以下の人が加わり、より優れた人は、時間の無駄と無視しますから、「自分らってけっこうすごいことやっている、」「世間の奴は、何も反応できないのかな」って、井の中の蛙、自己礼讃のかわいそうな人たちになるのです。匿名ゆえ凝りることもないのです。
どんな人からも学べることがあります。もしあなたがすぐれたいと思うなら、どんな人からもよいところだけをみて学び、悪いところを学ばないこと、みないことです。それさえできればあなたは彼らの上にいけます。 初心をもって、貫ける人はとても少ないのです。
「甘いプロセス」
何かをやったからでなく、それは相手に評価されてはじめて価値になり、報酬になる。
それをただやったから、がんばったからといっている間は、まだ、甘いプロセスです。
たとえば、オーナー、起業家、学者、アーティストは、いくら時間や労力を費やしても、
そのことによっては一銭にもならない。その先にも何の確証もない。
本人だけが思い込みでやって、切り開いていく。
たとえば、自分の働くところを貶めて、自らの価値を自ら崩すような人が少なくない。
また自分の実力を過大に評価して、自分勝手に不当な要求をし、それが受け入れられないと
やめていく人も少なくない。
一時の損得で動くから、本当に得にもならず、結局、損するばかりなのだ。
それで仕事そのものまで失ってしまう人もいる。
悪いところを直したり、補ったり、変えたり、よりよくするために自分が、
そこで仕事する意味があると考えられないのだろうか。
それを、たった一人でもコツコツとやり遂げ、全体をも変えていこうとするところに、価値が生じてくる。
その価値を生み出しつづけるところに、信用が生まれる。
そして、信用なくして、評価されることはないのです。
それには、けっこうな年月がかかるものです。1、2年で測れるものではないのです。
結局のところ、人生とは、奉仕して生きて生かされるところにあるのでしょう。
犠牲といって、人のために死ぬのは、もっとも尊い生き方と思うが、
そういうことは、簡単にできないから尊敬されるし、誰もがやらないから、価値がある。
ともあれ、自分の悩みの解決に挑みつつあるのが、人生なのです。
自分のことしか考えなくなるのは、種としての死であり、自分の死となる。
種のために自分を生き、自分を生かす。
それは自分を殺しても、他人を生かすことにより、自分を生かすことになるということなのです。
「正誤をおくことの誤りについて」
先日のTV番組で、千秋さんが子供の安全のため、監視カメラをつけると提案しました。
反対側はそういうのに任せること=頼ること=人間間の心の交流がなくなる、との論理にすり替えました。
しかし、まあ、安易に、機材に頼って失敗する例は多いです。トレーニングも本やトレーナーに頼って、失敗している人もいます。
生じ、なければ1人でがんばるのに、それがあるために逆効果となる。もちろん、それのおかげで育った人もいます。それがなければ育たなかった人もいます。つまり、何事も、本人しだい、選択としては、何でもあった方がないよりはよいのです。
たとえば、そこで、手間・時間・お金のどれを最優先にするかというと、必ずしも自由に選べるものではないでしょう。
ピアノや防音ルームを買ったから、練習する気になる、というように、人間の弱い面での克服、形から入るのも悪くないのです。
何事も右左に二分するのはよくありません。二つの全く反対に思える意見があったとしても、右の人も真ん中までかぶり、左の人の真ん中までかぶり、そのグレーゾーンのほうが広いと思ってはいかがでしょう。
ことばというのは、このグレーをなくし、二極に分けてしまいます。つまり、論理としてとらえるために、○×のどちらかに、将来をも時間軸のなかで予想を立ててしまうわけです。達していないのに、結果を読み込んで、あたかも、そこにいるように思わせてしまう。結果はそこからの時間での行動しだいなのに、行動せずに正誤を問うから誤る、というのは、正しくなかったのでなく、行動というプロセスをおくことをせず、そこを正せばよいのに、正せなかったために進めなかったのです。
進んでいないのに間違いは生じず、進んでいくことが正しいのに、進まずに正誤をずっと気にして、それゆえ進めないということですね。
だからこそ、ことばはわかりやすい、いや、わかった気にしやすいのです。正しいを求めるがために正しいを決めつけ、そこに間違いを生じさせてしまうのです。間違えたくなければ、正しいを決めつけなければよいのです。つまり、芸などは、程度の問題なのですから。
研究所や私の役割は、ものの見方、本質の捉え方を伝えることです。それで深い判断ができるようになってもらうしかないのです。絶対的な正解を求める人に、それを差し出すトレーナーのレッスンなど、おかしいと思わないのでしょうか。(思わないどころか、多くの人はそれを望んでいるのです。だから、生涯かけてもトレーナーよりも先にいけないのです。)
量も質のために必要です。頭で考えるから間違うし、頭を使うからうまくいかないのです。ですから、頭を使わないことといっても、皆、どうしても使ってしまう。ならば、徹底して使い込んで、それを抜けていくことも必要なのです。
成功した親は、子供に苦労をさせたくないと考えます。トレーナーも同じです。同じレベルに到達するなら、より早くより楽により確実に引き上げるのが、トレーニングの真価です。ムダを省き、最大限の効率を追求します。
しかし、より楽になるのは、トレーナーが見本としてあって、それに近づくのが見えているという点においてで、そのためにトレーナー以上にはなりません。それどころか、最初だけは早く近づいたようにみえるだけで、ちっとも近づきもしない例も少なくありません。近づいたということさえ、大きな誤解がほとんどです。どうか頭でわかることから体に身につけることに切りかえていってください。
苦労が無駄な努力を積み重ねることから磨かれてくる勘もあります。むしろ、そういうことでしかわからないのが人間というものではないでしょうか。天才のことはわかりませんが、多くの人は、そういうことでは一流に生まれついていません。また、方法を越えるほどの量の支えのない一流もいないのですから。
考え方を柔軟にして、何からも学んで自分の血肉にする、それが核なのです。それが学ぶということなのです。トレーナーといっても、そんなに偉いものではありません。何もかも知っていて、何でもできるのではありません。それを、知らないトレーナーに傾倒しすぎないことも必要でしょう。
「言語化と体に聴くこと」
声というと、生まれつきか、素の声と思われるかもしれませんが、それ以上に、今、もっている声の使い方が大切なのです。素の声の欠点を使い方でカバーすることができます。そのためのヴォイストレーニングもあります。
トレーニングとは、体を意識的に、よい方向に変えていく運動です。その結果、体の発揮できる力は増大します。それにならっていうと、ヴォイストレーニングとは、声を意識的に、よい方向に変えていく運動で、その結果、声の発揮できる力が増大する・・・ということになります。
ここで気をつけたいことは、声を発揮できる力でなく、声の発揮できる力だということです。
体以上に複雑な声のことを知るとともに、その具体的トレーニングについてアドバイスをしていきたいと思っています。
最近、呼吸、発声、声、ことば、話し方で悩む方だけでなく、それを教えていらっしゃる方の質問、相談もとても多くなっています。現場で混乱してきたということには、いろんな原因があります。
一つには、これまでよりもより多くの人、一般の人が声について関心をもち始めたことがあげられます。それによって、口伝のように、表に出ていなかったヴォイストレーニングが少しずつその実態を表してきたことです。私は講演に加え、本を書いていますから、一般の方と接する機会が多く、そこで多くのことを学びます。
いつも現場は混乱しているのですが、それを認めてこなかったトレーナーが、素直に聞く耳をもつようになってきました。いや、持たざるをえなくなったことともいえます。つまり、相手がプロ同士であったときには、みえなかった問題があがってくるのです。しかも、一般の人は素朴に疑問を口にします。つまり、これまではトレーナーにぶつけられなかった疑問を、口に出すようになってきたことも大きな変化でしょう。
トレーナーが増え、本やHPの情報量も増え、メニュや理論が公開されるにつれ、混乱に拍車をかけていることなどがあげられます。
これらのことは、必ずしもすべてがよいことともいえません。本当は、こういう分野は、ことばで説明して解決できるものではないからです。
ですから、私もわざと聞く耳を持たないこともあります。今でもそれは正しいことと思っています。相手を信頼しているからこそ、相手の気づくのを待つ。これが大切なのです。ただ、このご時勢、できる限り情報を開示すること、少なくともその努力は必要とならざるをえなくなりました。そのことでしか、信頼をしてくれない人も増えてきたからです。
確かに、ことばにする能力の不足をトレーナーが省みず、かつての師匠のように、だんまりを決め込むのは、今やお門違いでしょう。ですから、ことばやイメージで伝える努力は、教える立場であれば、惜しむべきではないでしょう。私は当初より、誰よりも本や会報を通じて最大限に言語にしてきました。(同時に、レッスン受講生にも、感覚を言語で表すことを求めてきました。)
しかし、現場では、レッスンではできるだけ寡黙でありたく、今も思っています。しゃべることで大切なもの、声は音声、歌は音楽、それがおろそかになりかねないからです。それとそんなに簡単に答えられないことが多いからです。
1.トレーナー本人の未経験のこと
2.相手の属性、タイプ、年齢によって違うこと
3.感覚、捉え方自体の個人差などです
今、私のところでは、メールで質問をやりとりして、答えられる分は答え、あとはレッスンの中でという対策をしています。レッスン時間をいつもカウンセリングや知識の伝授に使うのは、特別なケースを除いては、もったいないと思うのです。また、ここのようにデータ化して、大量にストックして分析することで、トレーナーと考えたり、自らわかってくることも少なくないからです。
いかによいレッスンであっても、コツコツと努力を積み重ねないと、大してものになりません。それと同時に、いかによい指摘や説明であっても、静かに自分の体に聴く間を持たなくては、何ら身につかないことをどこかで覚えておいてください。
「声はそう簡単なものではない」
声はお金で買えない・・・だから、価値があるのです。生涯、声をキープするのには、
うまく使い続けなくてはいけません。声は、頭や体が弱くなれば、その影響をてきめんに受けます。
ヴォイストレーニングのなかには、「3日で」、「1週間で」、いや「1日で」「5分で」
「声がよくなる」と述べられているものもあります。
しかも、誰でも同じ方法ですぐできるようにPRしています。
ということは、おのずとその完成の程度はかなり低いものでしかないわけです。
しかも、どんな人もすでに声は長年使ってきているからです。
「そんなに早くできることはありません」とはいいませんが、「誰でも」は、無理です。
なぜなら、誰でも声は、すでにもっていて、そこまでの差の方が大きいともいえるからです。
よい声を目指すという、そのよい声の程度がかなり低いというのは、
教えるトレーナーの半分のレベルにでもなれたらよい方でしょう。
さらに「何でもできる」というのには、無理です。
声においてはできることもできないこともあります。
それに声域、声量が人並みはずれで獲得できたとしても、
それでいったい何の価値があるのでしょう。
このように目的、目標設定レベルでの過ちを、トレーナー自らが起こしていることが少なくないのです。
しかし、それはきっとそう望む人が多いからです。
素人といいながら、声やことばについては、誰もがいっぱしのプロであり、
素人の判断力といっても、私はさほど差がないと思っています。
プロ中のプロの力とは、それを具体的に相手にわからせることができることに尽きます。
むしろ、業界の中の人の方が、売ることを考えるがために、よほど見えなくなっていると思います。
器用な歌い方を教えられる人では、声や話し方などになると、教えるどころか、
自らが社会人レベルに達していないトレーナーも少なくありません。
声は育てていくものです。それも、ゼロからでなくすでに何年も使ってきたからこそ、
問題がややこしく、自分ではわからない。しかも他人がわかりにくく、教えにくいものなのです。
私は20年以上、きっと誰よりも多くの人を声でみてきました。
それでも会う人ごとに、真剣に向き合うほど、試行錯誤の域を出られないでいるのです。
「私がヴォイストレーニングに携わるわけ」
今の私は歌やお芝居をしているわけではありません。ヴォイストレーニングは日常の中で習慣化しています。
自分が自分であることを、人は誰でも確認したく、何らかの実感を得たいと思っているものでしょう。
それに声は、きちんと応えてくれます。ここにいらっしゃる多くの方もそうでしょう。
1.他の誰よりも時間や情熱を費やしたもの
2.他の誰よりも得意、才能のもてるもの
それは、
1.仕事に役立つ
2.生計が得られる
ということよりも、ずっと大切なものでしょう。
声は空気を振動させ、他の人に伝わります。しかし、身体を体の内部から震わせ、自分自身にまず、生きていることを実感させるのです。
声のエネルギー源は、息です。体の筋力や息が弱いと、よい声は出ません。声がしっかりと出ていることで、自分の健康や能力に、自信をもてるといっても言い過ぎではないでしょう。
たとえば、カラオケで声を涸らして出なくなって、仕事で困った経験はありませんか。肉体がその人の生活をもの語るように、声もまたその人を語ります。生き方、性格から能力までが、声に現れてくるのです。
かつて会社は、声の大きい人を採用しました。歌手や役者にも、声の大きい人をとりました。声が大きいということは、仕事の基本の能力を期待させる、器としての大きさでもあったのです。今でもその傾向は変わっていません。
人は強い人を尊敬します。昔は、体の力の強い人が王者でした。力が強く、声の大きい人が重宝されました。今は頭の強い人が世の中を変えていきます。頭のよい人ではありません。しかし、声が強いことは、今でも大きな武器なのです。
すっ裸になると、体で評価されます。仕事では、頭も問われますが、その中身は見えません。表情もしぐさから察することもできますが、もっともわかりやすいのは、少しでもしゃべってもらうことです。話の内容よりも、話し方や声がとてもその人の本質的なものが出てくるのです。
ことばよりも声が重視されるのは、ことばは飾れるし嘘もつけるからです。面接でマニュアル本どおりの受け答えを練習したら演ずることができます。しかし、声はそう簡単に変えられません。もう一つは、ことばは他人が模範回答をつくれますが、声はその人自身の個性で他人の真似をしてもうまくはいかないということです。
声から、能力、性格、経験、熱意などが感じられるから、人はできる限り、直接会って相手を判断したがるのです。その繰り返しがあなた自身の評価となり、仕事にも結びつくのです。
「“飛躍のために足元を固める”」
これを今の私の心境で換言すると、
「人のために生きるためにもっと自分の力をつけよう」なります。
1.相手の嫌なことはしないこと
2.相手の立場になってみること
3.負の感情を切り替えること
4.考えても仕方のないことは考えないこと
5.最高を考え、最悪を考えること
6.お金の使い方に細心の注意をすること
7.歓心を得ること
8.時を逃がさないこと
9.全ては自分の糧とすること
10.頭を下げて地道に生きること
4番目のは、私の座右の銘、“莫妄想”の解釈です。
思えばこのことば一つでずいぶんとこの人生、助けられてきましたし、堕ちそうなときもとどまれました。
もちろん、今になって考えてみると、そのために助けられずにとことん堕ちたり、もっとじっくりと苦しみ、もがくことでしか見えないもの、感じないものをなほざりにしてきたこともたくさんあるとわかってきました。
新幹線も鈍行列車も歩くのも、大して変わりがないから、生き急いだ分、死に急いでいるだけなのだと思ったら、ときに足を止めることも必要なのだと思うのです。
でも、これまで思いっきり走ったことのない人は一度、全力で走ってみることをお勧めします。がんばらないのがよいといわれるような風潮の中で、がんばってみるのです。もしかするとすぐに息が切れる人もいると思います。何度も繰り返してペースをつかむまでがひと苦労ですが、私たち研究所がお手伝いします。
「器を大きくする」
情報を取り込むときに判断しないことです。
これはとにかく一度、接したものはすべて入れてしまうこと、何でも放り込んでしまうということです。
自分の頭で先に判断して、遠ざけないことが大切です。
人に対しても、同じです。
たとえば、すべてを出し尽くすのも、すべてを書き出すのも、すべて並べてみるのも、そのために、とても効果のあることなのです。
そのときに真ん中にくるのは、すでにあなたがそう考え、そう動いているものなので、大して必要ないというか、そうしているうちは、大して変わらないのです。
むしろ、端っこにあるもの、自分では一見、受け入れ難い、他人の考え方や処し方から学ぶことがずっと大切なのです。
かつて専門学校生と大学生との違いは、トータルの力、総合力といわれていました。
このように、器をどう大きくつくるかということです。
とはいえ、少々は器がないと、なかなか自分と異なる他人の考えは、受け入れられないものです。
何かをやろうとしたら、判断からでなく、一時、判断を保留にして、入り込んでみることが必要なのです。
頭でなく行動で学ぶ人が伸びるのはそのためです。
「続けるということ」
研究所のHPに、サン=テグジュペリの「星の王子様」の話を入れています。
これには「時間をかけて育てなさい」ということと、「時間をかけて育てたものを大切にしなさい」という、二つのメッセージがあります。
歌も声も家族のように、生まれたときから共にあるもの、死ぬまで生涯を伴にするものです。「私は歌はあきらめました・・・」のような連絡をもらうと、悲しくなります。あきらめても、歌も声もあなたと一生、共にあるのですから、わざわざ別れを告げる必要はないのです。
私たちも同じです。別れなくとも出会いを重ねていけないなら、それは別れているのと同じです。
会っても、お互いに、何かに気づいたり、変わったりしなければ、”出会い”ではありません。
たとえ離れていても、そこで得たものが育っていけば、出会っているのと同じなのです。
それをすぐに何にどれだけ役立つのかというくらいのメリットだけで考えるのは、とてももったいないことです。
これまでの日本は、嫌なことやうまくいかないことには向き合わずとも生きていける、つまり自分で選べる豊かな時代だったかもしれません。しかし、それは一方的に与えられていたもので、自ら育んだものではなかっただけです。
ですから、今、問題となっているリストラや派遣切りで職を奪われたといっても、単に取り返されただけかもしれません。苦しくとも、チャンスとみることです。
育てるということは、育つということは、選び続けることというよりも、選ばないことかもしれません。
血縁のように、好き嫌いもメリットもデメリットもなくつながっている、声や歌ともそういう関係でありたいと、私は生きてきました。
そう考えると、選んだり、やめたりしなくても、つながって続けていられるのです。
何であれ、自分で選んだものを続けていることは、他人にとってはともかく、本人には、欠けがえのない価値があるものではないでしょうか。
「処し方」
技術スキルを学びにくることは、大変によいことです。
ここは、そのために、それを充分にもち、与えられるトレーナーを選び、おいています。
しかし、技術だけでは、ものごとはうまくいきません。
むしろ、技術におぼれ、驕ると、それが仇となることもあります。
生まれや育ちに恵まれている人もいますが、慢心がその可能性を損ねることもあります。
大切なことは、人に対してきちんとコミュニケーションをとれることです。
むしろ、ここでの“処し方”がとても大切だと思うのです。
仕事でやっていくなら、きちんと全力で仕事に臨むことです。
自立とは、自活でなく、誰かに信用、信頼され、人の役に立ち、感謝されることです。
自分の好きなことを優先することではありません。
そういう力をつける努力を、考え方を学ぶ努力を続ける努力をしましょう。
1.自分の本質を知らない生き方
自分が自分を見いだそうとしていないことに気づいていない
虚無感から、○○だったらよいのに・・・と、外の価値観に委ねる。
見栄や相手を見下す。
2.自分の本質は知っていても、本当の自分になろうとしない
選ぶ自由や不安から逃れようと引きこもる(自己疎外逃避型)
3.本来の自分とは違う自分になろうとする
本来の自分になる責任はないと怒り、社会のせいにする
被害者として他人を攻撃する(被害妄想的な反抗型)
思うに、何事も A.伝承(正) B.革新(反) C.伝統(合、昇華) の繰り返しです。
Aを教わり、Bを自分でぶつけ、Cを導くことが大切です。
Aだけでは、過去のまねで現実対応できません。Bだけでは一人よがりになります。
知的生産でいうなら、Aは知識、Bは発想、Cは知恵となります。
「トレーナーの選択とトレーニング方法」
トレーナーを大きく2分できるわけではありませんが、トレーニングの仕方について、両極のタイプや方法を示してその間にいくつもの選択パターンを示すのは、頭を整理するには有益と思います。
この研究所には、8つ以上の大学から、それぞれの秀でたトレーナーに学んでいるトレーナーがきています。そして、それぞれにまたアレンジを加えて、今の時代に合わせ、わかりやすく工夫して皆さんの指導をしているわけです。
どの教え方についても一人ひとり、楽器としてののどが違い、その上で育つプロセスでの使い方、筋肉のつき方が違い、さらに使われ方によって、楽器の仕上げ方が違うものをひとくくりにすることはできません。しかし、ここではその二極から説明を加えてみます。
たとえば、トレーナーを見本として絶対視していく方法、これは、邦楽の口伝に似ています。
口伝というのは、ことばでなく、口から口へ、感覚で伝えていくことですから、そこでの質問や言語化はご法度です。とはいえ、これを無理に言葉にすると、いわゆるステップアップが刻めます。つまり、いつ知れず、師と同じになる方向で、ギリギリまで近づいてから脱するという自立でなく、小師匠のような、グレードのような段階を刻むのです。
これは、師と同じレベルになれる人がほとんどなく、ましてそれを追い抜く人など稀有であることで見限りをつけ、昇級制のようにして向上欲をもたせたようにも思えます。
ある感覚、あるいはある方法を与え、少々、斜め上にたどりつかせる、そのくり返しでステップを刻むと、早く、何よりもわかりやすく、先に進んだ感じになれるのです。高音の出る発声、声量を出す発声など、ふしぜんであってもまず、形をつけるというトレーナーのトレーニング法によく用いられます。
この場合、難しいのは、その感覚や方法そのものに得てしてトレーナー自身が絶対の信用をおいているので、どこまでも是非を正せないことです。トレーナーの師もトレーナー自身もそれで育ったと信じているのですから、他の方法や可能性は無視されます。
とはいえ、トレーナー側が正解をもっている形のレッスンは、トレーナーの自信も信頼となって、1、2年目くらいまでは、順調に経過しますので、現代人にふさわしい方法かも知れません。
ある形を想定するのは、一時、固めることでそのままではくせになって、留まるのですが、うまく次のステップに解放されていくこともあります。うまくいくと階段をあがるように上達します。
しかし、その階段の幅や方向が、本人に合っていないことも少なくありません。何よりもそのトレーナー以外は、判断のつかないレッスンや効果に陥っていることも多いのです。私が思うに本人の判断のつかないことがポピュラーや役者など、正解のない分野では、最初のトレーナーを信じた分だけ、他の判断かできなくなる恐さがあります。
一方で全体の流れから、本人のよいところがでてくるまで待つタイプのトレーナーがいます。つまり、自分によせず、相手のよさがみえるまで待ってスタートするトレーナーは、方法や形を決めない分、大まかで、つかみどころがないもしれません。初心者やプロを急ぐ人は、トレーナーの確固たる方針や方向のなさに、不安や不信を抱くこともあります。前者のトレーナーと一緒に紹介すると、頭で考えがちな人は、必ず前者のトレーナーの方に傾倒します。
私は若いときはレッスンでは、無言でピアノを弾いてトレーニングをさせていました。
つまり、できないことは話してもできないし、できることは話さなくてもできるという真実は、変わらないのです。しかし、今の人はどうしても、そこにことばや理屈を欲するのでしょう。本やことばで成立しないからレッスンなのに、です。
そのため、本来、上達とあまり関係のない励ましや科学的知識や説明が必要になりつつあります。私もトレーナーと皆さんへのサービスとして喉の模型や声紋分析器などを導入しました。(まだ研究としては、試行中ですが)
さらに友好的態度や優しさなど、カウンセラー的なコミュニケーション技術の方が優位になってしまうのも、今の特徴です。
前者のトレーナーが、身近な材料で段階をつくってとにかく登らせながら、足元も固めていこうとしているのに対して、後者のトレーナーは足元が固まってきたら、おのずと声が教えてくれるという、つまり感覚や体の条件づくりに重きをおいているといえます。そのため、本人が基礎トレーニングによって、条件が変わったときに声が変わる、そこから本格的スタートなのだということになります。そこで、比較的、先をみた長期的なトレーニングになります。
声を引き出すとか声をつくるというのは共に例えにすぎません。どちらかの型がよいのかも、言えないからこそ、こうして併記して、メリット、デメリットをあげています。その間にいくつものやり方もあり、トレーナーもその間で相手によっていろんなスタンスをもちます。
どちらに重きをおくタイプにすぐれたトレーナーが多いかはわかりませんが、共に一流の人で比較するなら、前者は天才型、後者は努力型ともいえるでしょう。一般的には、若いトレーナーは前者に、経験をつみ、時流から離れてくると後者の傾向が強くなるでしょう。
たとえば、天性の素質の大きいソプラノやテノールは、特に若くして成功した人ほど、前者のトレーナーが多いように思います。それは有能な人をあるレベルに早く育てる反面、合わないタイプの生徒には無力なことも多いように思います。後者は、本人の個性の発現してくるまで待つから、声の使い方よりも、本人の感覚、体の使い方に重点をおきます。指導や明確な目的、目標、対処法よりも、受け入れ方、方向づけやプロセスを中心にしています。本人なりの方法論が築け、トレーナーとも異なる本人自身の判断を身につけやすいように思われます。ただ、本人の個性は、本人の努力なくして、簡単には発現しません。
研究所ではその判断は、第三者として私が行っています。一人のトレーナーにつくのも贅沢なのに、このようにいろいろとタイプの異なるトレーナーにつき、さらにチェックしている今の体制は、あなたがリスクを最大に減らして、確実に上達できるための安全策でもあり、ハイリターン(早くよくなること)をも目指している、とても恵まれた条件づくり、状態づくりであると、今は考えています。
「レッスンの進め方とトレーナーとの判断の違い」
最近は、どこもかしこも客優先で、政治までそうなってしまい、そのあたりまえの風潮に頭を悩ますことが少なくありません。
たしかに、芸事も歌も劇も舞台も声も、すべて相手があり、そこでの評価をするのは、客です。私のレクチャーでも、いらっしゃった方の満足度を無視するわけにはいきません。
ただ、商売として、レッスンをしに来る人を、お客さんとしてもてなそうとするスクールや養成所が多くなった中で、ここはそれよりも優先すべきことがあることは、伝え続けようと思っています。
もちろん、ここはどこよりもレッスンにいらっしゃる皆さんの要望に耳を傾け、日々とはいえなくても年々、変わってきています。少なくとも、私共はその努力を惜しむものではありません。
その上で、どんな世界でもお客さんのいうとおりにしていることが、必ずしもそのお客さん自身のためにならないこともあるということは、知っておいて欲しいのです。
トレーナーは、あなたが声に関して、その目的を遂げるためのヘルパーでもあり、ときには目的も含めてアドバイスするリーダーでもあります。あなたの足らないところを補い助けつつ、今でなく将来のよりよいあなたのためにレッスンをします。
ここのトレーナーは、ここの狭い客室の知遇の中でなく、広く、あなたを全く知らない人にも、一声で示せる力をつけさせることを頭においてアドバイスします。今は、あなたに耳に痛いこと、嫌なことであっても、そのことによって先に、より早く大きな可能性が広がるなら、それを本人のフィーリングよりも優先して示します。
声やせりふ、歌というのは、習い事でなく、日常の生活の中に入り込んでいます。あなたの考えや感覚、体、声への聴き方、出し方がすべて伴って、今のあなた、そして、あなたの声となっています。ですから、18年、生きてきただけで習わないのに、プロになっている人さえいます。それも18年のキャリアがあるからです。
ということは、そうでなかった、その他の大多数の人は、自分の考え、感覚、体、聴き方、出し方、すべてに対して、一度、これまでの判断を保留してみることが必要だということです。あるときは切り替え、あるときは自分たるものを一時手放して、模索、試行錯誤し、再びつかみ直していかなくてはならない場合もあるのです。
それを私は、自己否定とは思いません。もっと大きな可能性を今の小さな自分自身が妨げているからです。今の自分を否定することで、本来の自分を実現できるというのなら、大きなチャンスであり、そのきっかけとなるのが、レッスンなのだと考えています。
レクチャーで、いつも私は一番よいものを出す状態づくりに留まらず、これまでになかったものを出す条件づくりのレベルで取り組む必要性を述べてきました。言い換えると、それは絶えず、あなた自身を革新していくことにほかならないのです。
トレーナーは神様ではありません。ときには、トレーナーの判断がすぐにつかないこともあります。ずっと迷ってしまうこともあります。初めてのケースも少なくありません。というよりも、トレーナーが優秀であればあるほど、どのケースも初めてであることがわかるので、内心とても慎重になるはずです。
皆さんは、優秀なベテラントレーナーなら、あなたも求める答えを、何でももっていると思っているかもしれませんが、そう簡単なものではありません。第一に、トレーナーが預かる時間は、一ヶ月のなかでも、あなたの生活(24H×30日)の何百分の1のうちに過ぎません。その使い方まで、管理できるわけではないのです。それで、ここではレポート、アテンダンス、日記、レコーダーの使用など、少しでも一つひとつのレッスンの効果をより確かにするような自助努力のアドバイスをしています。
次に喉やその使い方は、本当に複雑で一筋縄でいかないし、それぞれを条件として変えていくにもトータルとして結びついたなかで探っていかなくってはいけないということがあげられます。
さらに多くの人は、初心で入ったときの努力レベルを長くはキープできません。最初の2,3ヶ月行なっていたことも1年も経たずにやめてしまう人が大半です。少しでもそれを超え、さらに質的に努力してレッスンを高め、そしてご自分を高めていけるのは、わずかな人です。
大抵は、元の自分の判断で、元の自分の日常に戻ってしまうのです(そう考えると、ビギナーラックで終わる人が多いのもわかります)。私の本を読んだあとが一番、意識としてはハイレベルになっていて、その後のいろんな勉強とともに、理屈で自己肯定して元の自分に戻ってしまう人も少なくありません。それで学んだというふうに思っているのですが、それはせっかくの自分の可能性を見限ったということです。「初心忘れるな」を忘れるなということです。
あなたを心地よく充実させることは、客商売に長けた人ほど、うまくできますが、私はそれを元にトレーナーを選んでいません。あなたのレッスンでの充実度は、一つの指標にすぎません。私は皆に好かれる、人のよい先生の多い日本で、そういう先生の元、その先生のレベルを超える人材が出たことを寡聞にして知りません。やさしく手とり足とりのレッスンは、第一線に本人が立っていたら、絶対に自分に対して行わないであろうものであるゆえ、素人さんが楽しめるレッスンなのです。同じケースをすぐれた外国人トレーナーが、日本人に対して行っているのも、たくさんみました。そこで成り立つ友好的なコミュニケーションは、彼らの本来の目的から転化した次善の目的だからです。これを客商売とまではいいません。客が望むようにレッスンしてあげるのは、初心者のレッスンへの導入としては大切なことだからです。
でも、そこでのレベルで行なっている限り、本を読むのと同じで、一皮むけはしないのです。真のレッスンにするためには、大きなブレイクスルーが必要なのです。
絶えまない革新を自らに課してください。多くの場合、発声に関しては、生徒さんよりは、トレーナーの判断が優先されるものですが、答えをみつけるのは、あなた自身です。
最初は、よりトレーナーを高いレベルで活用する力をつけるためのレッスンにすぎないのです。ときには、それは、より自分の必要とするトレーナーやメニューにめぐりあうためのレッスンかもしれません。
また、単にトレーナーが合わないからやめる、変えるというのでなく、そのトレーナーに認められる、そのトレーナーの求めることを誰よりもこなせるようになってのレベルアップでなくてはなりません。
一方で、トレーナーや本を転々としてメニューや理屈だけ詳しくなっている人もいます。あなたがもし、一般的にあまり有利と思われない素質であっても、ものは考えようです。たとえば舌が短いとしても、「誰よりも短いのか」、「ほかの人類の平均は」、「日本人は」、「アナウンサーなら」などと、解明することにどのような意味があるのでしょう。確かに、自分より舌の短い人で、大成した人がいる事実を知ったら、大きな自信になるかもしれません。でも、本当の自信にならないでしょう。その人は、そんなことにとらわれず、それがハンディであっても、問われないくらいに、誰よりも努力したからに違いないからです。
自分のもって生まれたもの、育って得たもの、すべてを自分で自分が活かせる方にセッティングして、我が道を切り拓いてこそ、人生の意味があるのではないでしょうか。誰もやっていないからやった人、誰もがすでにハンディキャップと思っているのに、やり抜いた人に、人は感動します。その努力を讃えます。
そこからみると、誰もやっていないから自分もやれないとか、誰かがやれたら自分もやれるかもしれない、と考えるような人は、その考え方で自分を活かせなくしているのです。トレーナーにも自分にもわからない可能性を追求することこそ、人生の醍醐味でしょう。医者やトレーナーのアドバイスが絶対なら、たばこで声帯をブヨブヨにした一流の名歌手など、この世に存在しないでしょう。イチローや野茂、王貞治や張本治さんのフォームなども、存在しないでしょう。彼らは、自らの弱点を長所に変えていったのです。限界あってこその可能性、現実あってこその手本なのです。
この研究所が皆さんのご自身の可能性を研究する、答えを自ら書き込んでいくところになることを、切に望みたく存じます。そのためにトレーナーを利用していただきたいのです。
「形を壊すこと 〜成立と想像〜 」
音楽のまえに、欧米の音楽教育が急に入ったことで、日本の歌は、向こうの形を借りて離陸したのです。
しかし、そこの自立では、今だに空を舞うことができなかったと思っています。
音楽、歌の世界から有能な人材が消えゆき、音楽を見切ったような遺書を残して、加藤和彦氏が逝きました。
昭和の終焉とともに、歌手がスターだった時代は終わりました。ハングリーからのし上がって、スターとなった人材は、まだいますが、時代を引っ張っていく力はありません。幾人もの作詞家も作曲家も、音楽、歌という表現手段を見切り、トラバーユしました。
これは、世界的にみても、マイケルジャクソンの死で終止符を打ったようにも思えます(2009年といえども、現実には20世紀)。アカデミー賞に比べるまでもなく、グラミー賞の影響力は、著しく弱くなりました。21世紀の新たなる才能はビジュアル系へ流れ、アニメ、マンガ、映画などと、リミックスされた形でグローバル化しています。
国内では、お笑い芸人の時代で、その層は厚く、とはいえ、1、2年で全盛を過ぎてしまうのですが、新陳代謝が旺盛に行われているのは、うらやましい限りです。その声のパワーや使い方が、歌手をしのいでいるのです。
歌というのが衰えたのではありません。歌という形をとればよいということが、大いなる甘えとなってきたのです。歌も有能な声の使い手が、どう声をアレンジするかというなかでの一手段にすぎないのです(これは、芸のない芸人が、音楽やリズムや振りを使うことで安易に場を成立しやすくしているのにも共通しているでしょう)。
さて、私が研究所を中心に、日本の近代という欧米から移してきた教育を壊してやってきたのは、表現の成立のプロセスの再確認です。いや、再創造というべきかもしれません。
歌というと、メロディとかリズム、歌詞や発声などから成立しているように思われています。そういうことの勉強から何かが生じるかのような誤解の上で、多くの時間と人的エネルギーが空転してきました。
そんなに複雑でややこしいものではないのです。
最近、私は20世紀の初期前後の単純な歌を取り上げているのですが、そこには歌のルーツ、歌が人の心を動かすすべての要素があり、逆にいうと、今の歌には、その大半が失われているのです。
音楽の勉強をしてきた人が、歌を教えるのはあまりよいことでないと、私はかなり前から気づいていました。
楽器は、体の外にあるから、まだティチャーの技術をうつし込むことが累積して、確かな効果になります。同じように真似ると、同じ音が確かに出る楽器だからこそ、コピーの中でスキルは磨かれ、師と同じレベルに演奏できれば、プロです。そこから、+α分という、アーティストとしての天性、才能が明らかにわかるのです。
しかし、歌は違います。世界で一流といわれる歌手が必しも専門教育を受けていないことでわかるように、どちらかというと、その人のオリジナリティに根ざした役者タイプが多いのです。個性を生かした表現を教えることは、誰にもできません。自ら編み出し、それを導くことをできるまで、待つのがティーチャーです。
ところが、日本の先生は、形をもつと、先生になれるため、言い換えると、そこから脱せられないのです。アーティストになれなかったために、形を完成させようと教えます。アーティスト自身が教えるよりは、一般の人には害が少ないから、教えることはよいのですが、そこで完成させようとしてはいけないのです。もっとも基本的なデッサンの一つまで導けば、あとは本人の力で、表現を成り立たせることを自覚させなくてはなりません。
表現たるものを知るには、音楽や歌として問うのではなく、すべての人間の、あらゆる活動の中に放り込んでみることです。即ち、歌というもっともわかりにくいものの、声の習得のプロセスこそ、目に見える絵画や書、あるいは体の変わるスポーツや武道においての成立に学ぶとよいでしょう。ただ一つの声とその声の流れが通じるかどうかというような、シンプルな認識でよいのです。そこで、日頃から本質的な価値観を磨きつつ、音楽という音の動きの中で、声の芸に世界観の習得を経て、作品化させていくのです。
「表現は語ることの基礎能力から」
日本人は相手に対して、
1.リラックスする オープンマインドになる
2.話題をつくる 提出する
3.それについて自論を語り、主張、説得する(あるいは相手との課題に独自の見解をぶつける)
に不慣れのため、そこで、多くの時間をとってしまいます。
自分のことや自分の意見を語るようなトレーニングを、日本では生活のなかであまりにもやっていないために、他人と違う意見を持つことや、それを論じることについては、もっと不慣れです。
表現以前にこういうことが問われるので、トレーナーもそこに対応せざるを得ないわけです。
ところが、トレーナーというのは、表現よりも技術の専門家ですから、多くの場合、技術本位に育てて、その結果、上達しても表現として通じない方向に導きやすいのです。しかも、トレーニングを望む人が精神的にもトレーナーを頼るために、ミスを指摘するよりも、褒める、とにかくたくさん話させる、話しやすくする、場を楽しませる、この方が大切なこととなるのです。
それゆえ、このレベル(同じトレーナーの同じレッスンでしか通用しないもの、受け身のレッスンですべてトレーナーが導いてくれるもの)から、抜けられないように、自らをしてしまっていくように思えます。
まずは、日本語でそれだけのことを声で語れるかということです。
表現のレッスンでは、内容と技術を同時に問うのでなく、まず内容、技術の前にその基礎を、それぞれに
きちんと力をつけてから行うことです。技術が何かを生みだすのではありません。そこからはコピーしか生じません。表現が真に深まるとき技術が問われるのです。
「プロの学び方」
こうして長くいろんな人に接していると、まさに学び方の差というものが、その後の実力のつき方、ひいては生き方の差になってくるのだと思わざるをえません。学び方とは、気づく力、そして、それによって人生を変える力といってもよいでしょう。
まず初心者が学ぶべきことは、基本です。それはものごとへの取り組み方や自分やまわりへの処し方から発声にいたるところです。単に発声の技術ではなく、そこで本質やイメージをつかもうとし、心身でのギャップを知り、少しずつ実感して、埋めていくことです。
そのために、黙々と日課をこなし、自分自身の改革をしていくのです。遠いところに目的と理想とするイメージをおくことも大切です。すると、日々のことでぶれることもありません。他人との関係についてもよいところに学び、そうでないところは、無視すれば、よい影響だけが及びます。誰かに合わせて変化するのでなく、何かを基に感覚を深めるのです。
多くの人はこの当たり前のことを続けられません。初心のときは素直であるのに、学ぶにつれ、しだいに慣れ慢心し、世事に迷わされていくのです。マンネリになり、ものごとを表面的に捉えては、悪いところばかりを引き寄せているのではないかと思えるほどです。それでは成長するどころか退行してしまいます。
そういうことに左右されず自らの軸をもち、深めていける人だけが、当たり前に一流の域へ入っていくのです。当たり前のことを当たり前にするのが、一流の証です。私がいつも驚くのは、そういう人のもつ素直さと初々しさです。
「人は自分をもとに考える」
A やれていないが前向きな分 可能性ある
B やれていないのに 後ろ向きで 可能性ない
考えるまでもなくAの方がよいのに、本人はBであるのを気づいていないことが多くなりました。
たとえば、年齢がいくにつれ、学んでいるつもりになっても、年齢は多くの場合、才能を埋もれさせていくものでもあるから、やれていない自分を客観できたら、その精度を高めるために判断をすぐれた人に預けるようにしくいくのがよいのです。
若くしてそれができなかった人が、老いてできることは少ないのは、そこがわからないからです。
ということは、わかれば、その上で行動できればいつでも大逆転できるということです。
「めんどうの先に」
人をたくさん集めるには、集まる人を増やすことと、集まった人がまたくるようにすることです。私はずっと、自らの力で「人を集め、集めた人を繰り返し、来させる」ようにしてきました。
レッスンはアートでないし、作品でないといわれるかもしれませんが、私にとって、レクチャーやレッスンの場は舞台、発言は作品のつもりです。こうして、新しい分野に切り開くところを、もう少し日本でも評価して欲しいとも思いますが、そう思うこと自体、己の力不足であり、無心にひたすら励めということです、
あなたも誰かとつながりたいから、演じたり、歌ったりするのでしょう。レッスンでも同じです。トレーナーの仕事も同じです。誰も仕事としてだけで割り切っているのではありません。
魅力がない、モテない、人が集まらない、そのような「いい人」は他の人とつながりたい欲を素直に前に出しましょう。人と接するのは、めんどうなことです。必ず、よいことの数だけよくないと思えることも起きます。でも、そう思うだけで本当によくないことはそれほどありません。
一人でいる方が気が楽です。だからこそ、めんどうをかけあい、めんどうの先に共に人生を築いていくのです。めんどうのなかに救いを見い出すためにこそ、耐えず、芸の力を磨くべきなのです。
「魅力的になる」
惚れてしまうほど魅力的な声、歌に、ここで出会ったことが、何度かあります。その人に惚れているのではないから、まさに、芸の持つ力です。ただ、多くはそういう人からは一回限りでした。いつもコンスタントにうまい人よりも、少しその下にいる人から、そういうことが出ることが多いのと、本当に稀にですがいつもは下手な、最底辺の人から出ることがあります。これが楽器ではありえない、声のおもしろさであり、魅力だと思いました。声では大逆転が起こせるのです。つまり、あらゆる人にチャンスがあるということです。
私にとってうまい人のは、予測がついてしまうし、それなら世界にはもっとうまい人がいるから、つまらないとなるのでしょう(今のアメリカンアイドルなどで選ばれる実力だけでは昔よりもうまい歌い手に、大してひかれないのと同じです)。しかし、その一歩手前では、何かしらプロ、一流へのビギナーラックが落ちてくるようなのです。
興味深いのは、全く目立たず、どちらかというと、おちこぼれに近い人の素直な心のこもった声や歌が、皆の涙腺をゆるめてしまうことです。これもビギナーラックかもしれません。このケース、二度目はないのです。でも、そこに表現の可能性をみたとき、普通にうまい人の歌や演技は、嘘くさくてしらけてしまうほどなのです。昨年九月に亡くなった竹内敏晴さんと対談したとき、昔はすごい吃音の人がたくさんいて、出ないことばが出たときの衝撃のほどを熱く語られていたのを思い出しました。
「他人に学ぶということ」
私の20歳での判断は、「私に才能や能力が本当にあったら、もう大ヒットを出し、有名になっている」ということの起きていない、「街を歩いても誰からも声をかけられない」という現実という事実からでした。もちろん、「有名になることや声をかけられることを、本気で望まなかった」と今さら言い訳をしなくとも、現実への私の対処の仕方もあり、今もそうではないのですが。こうして「およそ望むべく生きています。」と人は自己肯定して生きていくのです。ただそこで無力を知っただけに早くから他人に学ぶことについては、けっこうがんばれたように思います。
たとえばあなたは、毎日違う場所で寝起きして、移動の繰り返しを自分の人生の選択として考えたことはありますか。それには精神力、体力すべてをそこに備えていくことを求められます。言い訳一つ許されない強靭な人間としての力がいります。他人と違う経験で人は鍛えられ磨かれていきます。
私は最初、研究所の資本を捻出するのに、大企業や文化関係、イベント、テーマパークで人をどう集めるのか、そして、どう感動させて帰すのかを仕事として、請ってきました。運動会や入社式がイベントとなり、バブルを迎えるに至ったあのトレンディな時代、現実にとても多くの人と接し、学びました。そこで、仕事でも、芸事でも、ネットワークづくりでも、効を急ぎすぎて、一時早くうまくいったのに、後で続かなくなってしまう人もたくさん見てきました。ベンチャーや起業家の中にも、友好を深めた人がたくさんいました。そこでうまく事業やネットワークを拡げる人、失敗する人の違いは明らかでした。その轍を自ら踏まないようにしてきたつもりです。
ですから、今は若い人をみると、直感的にそのままではどうなるかはおよそわかります。また何が足らないのか、どうすればよいのかも大体わかります。しかし、同時に何を言っても、ここまで述べてきたように、本人が崖っぷちにでも立たないとさほど変わらないというのも、わかっています。本人がもっと他人から多くを学ぶこと。他人が学ばせることはできないのです。ここがそのきっかけの一つにでもなればと思っています。
「人に対する姿勢」
ときに、レクチャーに来る人から「プロデューサーに紹介していただけますか」といわれ、「まだ貴兄のことをよく知らないのですが」とお答えします。「そうですか」とその人は帰り、二度と来ません。それが目的なら、私でなくとも、まともな人には相手にされないはずです。
私ごときに不信と不快、自らの信用を失墜させる人は、つまり、他の人にも同じことをしているのですから、紹介なぞできません。どこへいっても、きっと早々に諦めざるをえないことになるでしょう。自ら、何らやっていないからこそ、そんなことを口に出せるのです。こういう人は「いい人」で、わざわざ相手を否定的にさせて、自分の可能性を少なくするという、立ちまわりをしているのです。「いい人」だから、自分がどうみられているかに気づきません。
有名になるのも、場やチャンスを与えてもらうのも、信用、信頼があってこそです。人は紹介したくなれば、その人にお願いしてでも紹介します。能力を認めたら、お願いしてでも仕事を発注します。そうしない試行期間は、お試し、つまり、プロとしてステージに出ていても、オーディションに過ぎないのです。私が「20年続いたら、ようやくプロ」というのは、そういうことだからです。
ここは最初に本やレクチャーで出会ってから、来るまでに年月がかかる人も多いですが、一度入ってからやめたり休んだりしても戻る人がとても多いところです。多分にここの平均年齢が高くなってきているせいもあるでしょう。本質的なことがわかっていただけるようになってきたのかと、嬉しくもあります。
さて、やるか、やらないか、結果としては、その二つですが、さらにまた迷った末にやらないと決めて、連絡をとってこない人もいます。レッスンはある程度、ビジネスライクでよいと思いますが、その人から連絡がなかったり、わざわざ、「レッスンはしません」とだけいってくる人もいます。残念なことです。レッスンを受けるとか受けないでなく、世の中に対しての、処し方、態度をいっているのです。
これも「いい人」特色です。常にすぐに白黒をつけてしまう、他人にも場にも自分で○×、どちらかに決めてしまわないと、納得できないのです。もしかしたら何年後かにここに来る必要がでても、今よりも来にくい状況に自ら追い込んでしまうのです。ここでいうと、今より来やすい状況に少しずつでも努めていくことが信用です。
私たちは、何百人、いや何千人もの方を扱ってきました。確かに、突飛なことをする人のことやその成り行きを覚えていることもあるのですが、私なぞは全く気にしてはいません。人と人との関係は、白と黒ではありません。人も白黒どちらかではないでしょう。状況や年月でも大きく変わる人もいるのです。そのときの気分一つでも大きく変わるものでしょう。
状況や相手の感情や気分といったいきさつで、人は善人にも悪人にもなります。人生や他人をある断面で判断して一つのレッテルを貼る、それからずっとそのレッテルで人や場をみる。それがうまくいかない人の特徴です。
私はいつも判断をブレーク、保留します。期待はしないが、徹底して一度は信用します。人は成長するし、変われます。先入観や固定観念こそが最大の内なる敵です。どんなに気まずいことのあった人とも、相手が真摯に望むなら会います。もちろん、人生は限られた時間ですから、優先順はありますが。
多くの人は何事にも若いときよりも慎重に思慮深くなりますが、それは、自分を変える勇気と機会を失い、後ろ向きになったことへの言い訳になっていることが少なくありません。他の人と会い続けることこそが学ぶ姿勢なのです。そこでよいことでも悪いことでも事が起きることを受けとめていきましょう。よしあしは、あなたがどう処するかで決まるのですから。
研究所のサイトに、「星の王子様」のきつねの話を載せています。相手と少しずつ距離を縮め、お互いに慣れてきたら、ようやくおたがいに大切な関係になれるということを述べてあります。
多分に現代人は、プライバシーを重視し、他人との関わりを排除したがります。しかし、仕事、恋愛、まして芸事は他人との関わりなしに成立しません。いつも今、一歩踏み込む勇気をもちましょう。何かが起きるのです。それを乗りこえることが生きることなのです。レッスンにも出ましょう。レポートを書きましょう。研究所と親しみましょう。
「大切なこと」
この研究所には、何人ものプロの方がいらしています。いつも学ばされるのは、若い人もですが、ベテランの方々の取り組む姿勢です。プロになりたいという人に限らず、見習って欲しいことがたくさんあります。そこには、声や歌よりも大切なことがたくさんあるのです。なぜ、人に他の所に学びに行くのかというと、そこを学ぶため、気づくため、ともいえます。
プロは、大体はそれをクリアしているから、真の意味で声や歌の問題に入れるのです。それに必要な環境や習慣、ものごとへの処し方を用意するまでが見習いとか下積みといわれる期間です。秀れた人、世の中で長く続けている人に共通する条件づくりです。
たとえば、
決められたことを守る
時間を大切にする
他人に迷惑をかけない
練習を休まない
不正(アンフェア)なことをしない
少々、自分の意に合わないからといっても、自分の第一の目的のある人は、その実現のためには、ちっぽけなことにはあまりこだわりません。普通の人には大したことのように思えても、彼らにはささいなことだからです。むしろ、あたりまえのことが続けないから多くの人は自分の才能を開花させられないのです。あたりまえのことをしないと、いつも、世事にふりまわされ、まわりにも迷惑をかけて、自分のやりたいことからも遠ざかってしまいます。一方、どこかで一生を大きく飛躍させるためには、少し背伸びして遠くへ行ったり、一見場違いと思われるところへ自己投資をなど冒険するようになります。虎穴に入らずんば虎児を得ず。そこから一気に大切なことを得て、他の人との差をつけていくのです。
自分の目的が大きければ、それを遂げられるように、小さなことにこだわらなくなります。何ら自分を妨げる人や悪口は気にしないようになり、他人や敵をも味方にするようになります。つまり、プロからみて当たり前のことは、他の人にはなかなか難しいのです。そして、プロでい続ける人はやがて自分や相手、客を超えて、励み続けていくのです。