t『自分の歌を歌おう』 |
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(3)発声・歌唱論 日本人の声・歌の限界と突破法 | |
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「どの声が正しいのかわからないのですが―」というのでは、大体どの声もダメだといっています。「自分の歌のどこがよくてどこが悪いでしょうか」ということも、どれもダメなのです。 本人が自分で最高によいと思わないものを、人がよいと思うはずがないからです。自分が自分の声や歌に惚れ込まなくては、人に与える価値にはなりません。いや、自分ではよいと思っても、他の人はそれほど思わないものです。そこに客観性が必要となります。 レッスンは、その客観視する力を得るために必要なのです。(だから、私はポピュラーヴォーカルや役者には、グループレッスンを勧めています) ○歌や声の才能 声や呼吸なども、人にどれが一番よいのかと聞くのではなく、自分の中でとことん磨かれていなければ、本当の個性は出ていないと思いましょう。 絵を描いて、その中でどれが一番よいですかと聞かれても、あなたが一万枚描いて選んだ一枚の絵ならば、こちらも言う意味があります。きっと伝わるでしょう。しかし、その日にはじめて描いた10枚では、まだあなたの中の才能が表われようがありません。それで、その人を判断してしまうということは、失礼なことです。声も歌も同じです。まして、一人よがりに、あるいは習ってくせをつけてきたなら、尚さらです。今だめだから、もうだめということではないのです。誰もが、そこから始めたのですから。 一万時間以上、やっている人のをみて、100時間くらいしかやっていない人が、ああいうふうにできないといっても、それは才能の差でなく、やっていないだけです。人間はやることで大きく変わっていくものだからです。 ある分野を限ると、それに有利な才能というのはあると思います。しかし、そうでなければ誰にでも才能はあるものです。それぞれの分野、あるいは新しい分野を切り拓いていけばよいと思います。 ○歌い方を似させない すぐれた歌い手のパターンをたくさん入れておくこと、真似も一つの勉強方法です。しかし、表面を真似しないで、なかで動いている感覚をつかめるようになることが大切です。見えないところを見ていくようにしていくのです。そういう、もっとも大切なレッスンが、日本では、どこでも行なわれていないのは、どうしてでしょうか。 真似をしたらいけないというのは、素人は絶対に真似したらいけないところだけを真似してしまうからです。本当に真似てよいところというのは、見えないところでの動きです。だから、まねるな、盗めといわれるのです。 さらに真似ることによって、うまくなったという錯覚が起きます。歌ほど、あこがれの人の歌い方に近づいていくことがうまさや心地よさに思えるものは、ないでしょう。しかし、その歌い手と同じ呼吸や同じ音色を無理に作っていくということで、その人の作品を超せなくなります。声についても、同じです。 日本では、トップスターを真似させるやり方が、今もまかり通っています。それは、近づくには早いやり方です。まわりも皆、上達したというでしょう。しかし、やり方ゆえに、真にその人のものになりえません。より新しいこと、より自分にあったこと、レベルの高いことができなくなります。 でも日本の客が、誰かに似てること、あるいはその人の昔のままの歌唱を求めるのですから、その方が無難となってきます。日本では、新しいもの、前例を破るものは、認められにくいからです。 歌うときには、自分の声がなかなか見つけられないものです。だからこそ、一声からのレッスンで自分が知っていくことです。自分がどうやれば声と心とがフィットするのかという、自分が実感しながら基準をつけていくことが大切です。トレーナーの発声を絶対視しないのも、そういう点では同じです。どこかにトレーナーと自分とは違うんだということを、入れておいてください。 ○歌は声で、声は息で伸ばす 歌っているうちに、声が出るようになれば理想です。でも毎日、何回も試合をして、うまくなるのは、初心者がある程度のレベルにいくまでです。そのあと理想的にいかなくなるのは、無理がたたり、雑になるからです。要は判断基準がぼやけ、より厳格な適用ができなくなるからです。そこで、目的別に部分を強化して、矯正補強するトレーニングが必要となるのです。これは、シンプルなメニュで、本当にていねいに繰り返すのです。難しいメニュは、雑になります。シンプルなメニュが、誰でも簡単にできるように思えて、本当はいかに難しいかを知ってください。 カラオケのように歌を歌で直すのは早いのですが、そこでは根本的な問題には、降りてきません。 いわゆる、プロの感覚を入れることです。それには、歌は声のことで直し、声は息のことで直していくのです。息のことは、体で正すのです。つまり、体で息をコントロールするということで根本をつくるのです。 ○歌のモチーフ 声をシンプルなフレーズで動かして、タッチ(デッサンの線と音色)をみせているところを私は、モチーフとよんでいます。自分はこの歌をこういうデッサンの線(声の使い方)と色(音色)で描いていくということです。本人が歌とか音楽というのは、そこから誕生していくのです。本人が語っている、歌っているつもりで、発した途端に消えていく、どれだけ生かされていない、いや生まれてさえいない、せりふや歌が多いのでしょうか。 歌詞やメロディは、テーマであり素材でしかありません。それを歌い手は、自らの声とその使い方で、構成・展開して動かしていくのです。楽譜を声に置き換えるのでなく、息吹きで生命を吹き込み、声で音の世界を築くのです。それなのに、演奏順にキィが点滅するキーボードを正しく弾けたからといって、人を感動させられると思っていませんか? 芸術作品を見たら、これは誰の作か一見して多くの人がわかると述べました。そこにその人独自のタッチがあるからです。そのデッサンが歌という形に、どう展開されているかをみるのです。 日本人のもつ歌の考え方の大半は、メロディにことばをのせて、声でつないでいくというものです。そのため、練習は、階名で正しく読んで、音での歌唱「ラ」か「ア」で発声して、最後にことばをつけていくものでした。その多くは、発声も歌い方も、どこかにある、いやどこにもあるもの真似に終始し、表現の楽しさやインパクトを生じません。耳のまがった人以外には、退屈極まりありません。 ヴォーカリストの獲得すべきことは、曲を使って創造するための、自分の線を描くタッチです。そうやって自分の歌をつむぎ出す術をもつことです。つまり、何を歌っても、あなたになるという世界をもつことです。 ○スタンダードとオリジナル 日本の場合は、スタンダードの曲を歌うとしても、基本のところに戻して再構築せずに、自分の好き嫌いで変えて歌っていることが少なくありません。その結果、自分で声の素材からどう曲として演奏するのかという、ヴォーカルとしてもっともベースであるはずの力は、欠けてしまいます。スタンダードナンバーでの基礎トレーニングが不足しているからです。自分の歌では、プロとして、応用力では通じている人でも、大半はそうなのですから。 歌というのは、声そのものが一人ひとり違う上に、そこでいろんなことができるために、何かが創れた気分になりがちです。そのために、真に創造的なものになりにくいのです。そもそも、創ることや表現さえ、意図していないことも多いと思われます。そういうのも、あってもよいとは思いますが。 オリジナリティは、音楽の中では、音色とその使い方(フレージング)で問われます。それは、声質や歌い方そのものではないのです。 たとえば「明日があるさ」(坂本九、ウルフルズ)を作り直してみましょう。そのときに他の人に替えられない何が出せるかという力が、あなたの作品ということです。アーティストは、彼らにしかできない、彼らの世界を歌っています。その上で、レベル、評価があります。 ○最低限、必要なところとは ヴォイストレーニングや呼吸法も、そこで何がやりたいのかがなくては成立しません。真の声楽家が、それだけで一生の課題というほどのものですから、完成度は遠く無限です。だからこそ、使いたい最低限まで習得する、つまり、使うレベルを知ることです。 あなたが望む声や技量をもつまえに、それを、どう使いたいのか、どんな絵を描きたいかということなのです。確かに、そういうことはそれを持たなければわからないことでもあります。 しかし、持てたらどうするのかということがなければ、何をどこまでもてばよいのかも定まらず、迷いのなかで成長は止まります。創造活動というのは、いつまでも始まらないでしょう。だからこそ、同時に始めていくのです。 自分のものは何かという核がなければ、自分の世界も出てこないということです。それでは、必要なトレーニングも、定まりません。歌の加工をトレーニングと思い、本当の基礎トレーニングをやらないのは、その存在にさえ、気づいていないからではないでしょうか。 ※トップアーティストの技量があったとき、それをどう使うかを考えてみてください(私が他の人をみることができるのは、そういうアーティストに会うだけでなく、自らそう考えてきたからでもあります)。 ○日本人の弱点 最初に気づいてもらいたいことは、日本に生まれ暮らし、日本語で生活していたら、それで欠けてしまう要素があまりにたくさんあるということです。特に音色表現力に関しては、ワールドワーストワンといえます。 外国人の中での音声は、日常のことばで、日本人からみると舞台のレベルと同じところにあります。 歌を聞いても、しぜんでしょう。高音発声をマスターして、その発声を歌に使っているのではありません。映画や劇団の俳優のごとく、感情が高ぶるとか、怒りが込みあげるとか、感情表現の表われから音が高くなるのです。相手を口説こう、なだめようとすると声が低くなる、そのままに、歌にもっていっているのです。それには、それだけの声の器があるからです。 裏声、ミックスヴォイス、ビブラート、シャウトも同じです。ビブラートやシャウトの方法があるわけではありません。そういう気持ちが音声にのってきたときに、音色やフレーズがそうなるのです。その働きより、発声を優先してはなりません。 しかし、日本のポピュラーは、そういうものから切り離され、輸入されました。その人が地べたで生きているというところと、違うところでやってきました。そのため、しぜんより、技術を優先し、発声法で歌おうとします。それが少し出ていると驚いたり感心するという、情けないレベルです。 技術は感じられぬよう、しぜんに戻さなくてはいけないのです。しかし、そこまでは問われていないのでしょう。それならば、まだ自己流発声の歌い手の方が、しぜんに伝わるのは、当然です。 ○音声の判断力がない アカデミー賞やグラミー賞のスピーチを見ていると、その人が生きていることがそのままスピーチという作品になっているような気がします。もちろん、舞台も歌も、すぐれているのは言うまでもありません。 この前イッセー尾形さんがおもしろいことを言っていました。他の国に行くと、笑いというのはそれぞれバラバラのところでおこるそうです。だから、作品を通してのざわめきが落ちないらしいのです。ところが日本の場合は、みんなが笑ったところで一緒に笑うから、急にワッとなって、すぐしーんとなるというのです。自分で切り出すことが、苦手なのは国民性です。 向こうではそれぞれが自分の判断で笑うのです。受けるところが違うのも、個性です。 クラシックコンサートでも、日本の場合は、拍手一つ、まわりを気にして、同調しようとします。自分に判断力と行動力と、その責任感がないのです。そういう客に喜ばれるのは、派手であたたかいステージであり、人となりであって、音声での作品ではないのです。 だからこそ私は、トレーニングくらいは音声を表現から磨く“場”が必要と述べているのです。 ○強弱リズムの感覚がない 統一音声 向こうのものを聞くと、高いところや低いところを歌っているということは、あまり感じないでしょう。合わせて歌って、その高さ(ピッチ)や音程の広さに、びっくりしませんでしたか。 つまり、高低での歌い分けの感覚はなく、強弱での繰り返しがメインです。目立つのはスピードとドライブ感(うねり)、つきはなすようなひびきといった、パワフルさです。踏み込んではなす、あるいはぐっとつかんで突き放す、そのように歌い手が声を全身で動かして魅きつけているのです。 そこでは、統一した音色(オリジナルの声)が、基本としてあります。それが自由に心に働きかける音色に変わっていきます(オリジナルのフレーズ)。 レッスンでは、こういうものをストレートに聞いて、統一音声の感覚を獲得していきます(最高の感覚の追体験を、よい音響再現の場のもとでやっていくのです)。 そこで、彼ら自身が、声を高低でとろうとしていないことを、耳から体、息のレベルで捉え直していきます。その上で音色と感情をミックスさせ、もっとも効果的に働くように応用していく、つまりオリジナルのフレーズとしていくのです。 ○強拍に巻き込む 歌の中で彼らの言語感覚で握っているところを捉えましょう。大体は、強拍の中に巻き込まれています。強のところがつかみです。そこをつかんでフレーズの動きをつけていくのです。弱拍部の発音などが聞こえにくいのは、そのためです。 役者などのせりふでも同じです。表現が働くには、どこかで入りこんで、どこかで抜くわけです。自由に表現するための時空間を創り出すため、そのまえに踏み込まなくてはいけないのです。 日本の唱歌、民謡などは、ことばの長さを等しくし、均等に音(母音)をつけていきます。だから、一音一音はっきりと聞こえるでしょう。歌自体が間伸びしがちで、あまり自由がありません。歌っているという形の上で、音声そのもの(一声)や、変えたところでの見せ方(ロングトーン、ビブラート)が、メインになってしまいます。 ○日本人の発声法は、応用ばかり そのために、日本人の考える発声というのは、母音中心で、そこから共鳴させていくやり方になるのです。 のどのはずし方というのは、上の方にあて、まとめなさいという形がほとんどです。マ行とかナ行とか、鼻濁音、ハミングでひびくようにしていきます。それは、確かに声量や音色(息)のない日本人の体にあった一つの方法です。(歌謡曲や演歌は、これでことばとメロディ中心に、日本人のリズムで一つの世界を創り得たことは、私も認めていただけに、現状の低落ぶりは残念です。) しかも、高音、中音と低音(域)発声を分けて、教わります。3つに分けて(三声区)、習得しようとするのも日本人は1オクターブにおいて、ストレートに叫んだり、しゃべったりできないからです。 でも、プロがそのようにやれている以上、根本を直すことの方が基本ではないのでしょうか。エンジンそのものをパワフルにして、解決していく問題を、テクニカルに複雑に細分化するため、どんどん体が使えなくなってしまいます。歌も声も上しぜんになります。 ○話す声と歌う声は同じか? もう一つ、日本の中で忘れられつつあるのは、演劇の発声です。かつて、個性的で魅力的な声の役者は、たくさんいました。劇団の人は、わずか4、5年で、かなり舞台で通用する声になったわけです。これは感情表現のできる音域内で、まず声の使い方、みせ方といった動かし方を働きかけと同時に磨いたからでしょう。話す声も、日本では歌い手よりも役者の方がよいでしょう。練られた声、鍛錬されたプロの声です。 劇団では、体に声を入れるというやり方をとっています。大半は、無理、無駄がかかり、練習でのどをこわす人も少なくありません。声を大きくするのに、胸や、のどを押しつけているからです。しかし、それはギリギリのところで回避できるのです。それを私は、習得し伝えてきた数少ない?日本人のようです。 外国人の歌い手の話し声は、役者と同じように素敵です。MCと歌の声がつながっていませんか。日本人は、話す声と歌う声は違うと思い込んでいます。本当にそうですか? 向こうのジャズ歌手を聞いてみてください。三大テノールの話し声はどうですか。 せりふの声と歌声は、一般的には、違うという人が多いようです。 しかし、私はこの差をなくそうと思ってきました。そのためには、日常の声から歌うときの声まで、全部含まれるだけの余力のある声が必要です。日本人の場合はそのきっかけを得るのが難しいようです(そのために私が発案したのが、ブレスヴォイストレーニングです)。外国人には、そのベースを一致させている人が多いのは、確かでしょう。 ○歌は声の応用の一つ 声のよしあしについての私の判断は、声をどこまで繊細に、扱えるかということです、つまり、どれほど自由自在にコントロールできるような応用性があるかという柔軟性でみます。せりふも歌も、応用した声での表現の一変形にすぎないからです。 人間が一番高いところをギリギリで出すと、そこはそれで伝わるわけです。ギリギリで出すから、次にしぜんにフワっと抜く、動きがきます。すると、さらに伝わります。そこに音の大きな働きかけが生まれます。しかし、力づくでやっていると、できません。そのあたりの効果を組み込んだのが、歌といえます。 歌という応用は試合のようなものですから、伝えるという目的を果たせばよいわけです。ヴォイストレーニングでやっていくことは、あくまでその状態でしぜんに対応できるようになるための基本です。 だから、いろんなトレーナーや方法論の違いを超えて、やるべきなのです。つまり、求められるように期待以上に声を使えばよいということです。 ○声区を分けない ということで、私は一声区の考え方です。つまり、声区はない、あるいは、分けないのです。声をみせるのでなく、声でみせる以上、声はシンプルに扱えなくてはいけないからです。 これは、高音低音を全く同じ声でそろえて歌うということとは違います。結果として出てくるもの、音色やタッチは、全く違ってもよいのです。いや、違ってくるのです。 1オクターブを、同じに扱えるようにすることで、あとは気持ちで変じるように柔軟にしておく、すると、歌が発声を教えてくれるということです。つまり、ビブラート、シャウト、高音低音発声法などは、表現と切り離してやるべきではないのです。 ○歌は教えられない 私が歌を教えないのは、これまで述べてきたことに加え、歌は自由にその人が好きなように歌うものだからです。歌は試合ですから、フォームが乱れようが何しようが、伝えたいことが伝わればよいわけです。十代のJ-POPに熱狂するファンは、アーティストの表情やステージの楽しさに魅せられる。そこで、一体感があり、楽しませるように演出すればよい。歌のうまさなんて、どうでもよい。それは否定しようもない現実です。SMAPの中居正広さんに、テノールの発声を教えますか? しかし、必ず乱れ、オンしていけなくなるから、そこで、作品の完成度を問いたいなら、基本に戻す必要があるのです。 歌ってばかりいるのは、試合ばかりをやっているようなもの、声が出にくくなります。たとえ、ベテランでも、限界がきます。それを体の原理にそって直すのが、基本のトレーニングです。 これをごっちゃまぜにしてしまうからいけないのです。 今が興業(ステージ)第一の考えなら、ヴォイストレーニングは、むしろクールダウン、のどを休ませることに使うことです。 ○歌の目的 そもそも、歌の目的というのは、体を原理にそって使うことや、お腹から声をしっかりと出すことではありません。人に声で働きかけること(声だけではありませんが)、興奮させたり、人の心を動かしたり、何か深いものに気づかせることです。 たとえば、オペラでも、完全な発声のものがプレスされているわけではありません。少々発声が崩れていようが、熱く、より人の心に伝わるものが、すぐれた演奏作品です。 そこで求められるのは、完全無欠な演奏や発声はありません。個性的にして普遍的な何かが、かもし出され、人の魂と邂逅することです。つまり、新鮮、生命力、リアル感を失ってはだめなのです。それを支えるために、発声があるのです。 私は、不幸にして日本では、トレーニングをしたためそれを忘れてしまった人を、たくさん見てきました。そうでない人は、最初と全く変わらないが、人まねがうまくなるのがほとんど、これは他の国ではないことです。(もちろん、日本より厳しく選ばれているし、日本人ほど安易にヴォーカルができるとは思わないからです。特に習いにくる人は、他人依存体質を払拭することです。) ○難しく歌わない 日本人のベテランの歌い手には、歌を技術として習得したせいなのか、すごく難しく歌う人が多いです。たとえば、これほどの声量がなければ歌えないとか、技術的に難しい歌だと思わせてしまいます。しかし、なぜかそのような日本の一昔前のプロの技術は、大半が古く聞こえます。もちろん、時代、価値観、メディアは、ポップスである以上、変わります。 でも、そこでさらに生き残っている少数の歌や声があるのも、忘れてはなりません。真に一流の歌や声は、決して古びません、色褪せません。向こうの原曲は、30年前の吹き込みでも、今だにみずみずしいのに、それを日本で昔、歌った人や、今、歌っている人の歌の方がとても古く感じることは、よくあります。今、ここで感じ、創っていないと思えてしまうのです。もちろん、それらは、まさにコピーだったのですから、やむをえませんが……。 しかし、少々、弁護するならば、日本語の歌は技巧的(形)になりやすい性質があります。母音共鳴で伸ばしていくために、体や息が足らなくなり、ひびかせ方がポイントとなってしまいがちです。どうしても、表現を犠牲にして発声や歌声への変換が行なわれます。ことばの頭をはっきり言わなくてはいけないし、客もリズムより音高に厳しく聞きます。おのずと、一音を点としてとりがちです。表現としては、棒読みから棒歌いになりやすいのです。声楽的になりやすいともいえます。 しかも、かつては声のよさ、ひびきの美しさを日本人は聴いていたから尚さらです。つまり、破壊的創造より、予定調和、合唱団のような世界をめざし、それが好まれていました。 現実には、声はいろんな感情をことばにのせて吐き出します。歌という音楽にしたところで、そこにある感情を最大限、生かすべきです。より効果的に計算されて使われているから、作品というだけです。 声そのものの魅力、それとそれをどう使えば、どう人の心に働きかけるかの効果を知り尽くした世界では、安易に発声で伸ばすことはしません。むしろ、最小の声で、最大にどう感じさせるかを示します。 声の場合、楽器以上に音色も使い方も自由です。だから、基準もやり方も、難しいのです。それを超えてこそ、名人のデッサンとなるのです。 ○つくらない 私も、ことばやフレーズでは、人に働きかけられるつもりです。一声で一フレーズで、多くの人は、私の声の力をわかってくれます。ということからみるなら、1曲をもって、しぜんに最高におさめられる人をもって、ヴォーカリストと呼びたいものです。 外国人の歌は、誰でも歌えそうでいて、実際に自分で歌ってみると、歌になりません。声が届かないとか、のどが締まっていくようになってしまいます。音色が太いと、低いと日本人は捉えます。この音高(ピッチ)感の違いから克服していかなくてはならないから、基本というのは大変になるのです。 彼らがすごく簡単に歌っているようにみえるのは、それを完全に消化して、体全体はしぜんに使われ、感覚のみでシンプルに取り出しているからです。気持ちを伝えるために、自由に創造するためには、それだけの条件が必要なのです。 向こうのキャスター、役者、歌い手は、しぜんな表情と声でストレートに客をくどいています。日本ではいかにも仕事っぽく、日常では、こうはやらないこととしてみせられていませんか。つまり、不しぜんにつくられ、演じられているのです。 ○シンプルにする ポップスにおいては、シンプル・イズ・ベストです。シンプルに捉えないと、複雑になって、発声技術への挑戦のようになってしまいます。しぜんにみえるのが、一番です。 日本の歌い手でも、歌唱力があったり勉強したりした人ほど、難しくなるのです。声にすること、声で描くことに、こだわるからです。 ところが向こうの人たちのを同じ曲で聞いてみると、すごく簡単に楽に歌っているわけです。吐き捨てるように、あるいは抱きしめるように歌っています。 狙いが違うのです。どちらが伝わるか、飽きないかというと、使うツール(声)は、シンプルな方が伝わるわけです。 ビブラートやシャウトなどもそのまま、真似てはいけないということです。体験としてやってみるのはよいのですが、それは本質ではありません。応用をさらに真似した応用になるからです。 ○伸ばさずに切る 歌は歌うなとは、日本でもいわれてきました。しかし、それは、「ことばで働きかけろ」ということでした。日本人が思っているほど、彼らは発声したり発音したり歌ったりしていません。作品を声で示し、ことばをのせているとでもいいましょうか。 安易に伸ばすということは、創造できる個所を少なくしてしまいます。強く踏み込むことによって、そのあとに間ができます。その間のところで音は心に大きく働きかけるものだからです。日本人はリズムより、母音共鳴中心のスタイルにするから、間伸びしがちです。 ○インパクトは声量でなく、鋭さ ピアノでも、力の強い大男がダイナミックに聞かせるのではありません。女性であっても、もっと力強い演奏にできます。打健の鋭さ、スピード、加速度が決め手となるのです。 声楽家は、大音量のオーケストラを抜いて聞かせるために、フレーズをすべて声量やひびきでつなげなくては、伝えられません。しかし、ポピュラーでは、始点と方向と終点を声で示すだけで、より大きな歌にみせられるのです。呼吸の示すベクトルが命なのです。 声楽家として一流の人以外が、その声と発声法でポピュラーを歌うと鈍いものにしかならない理由として、知っておくとよいでしょう。すべてを描こうとするから、リズム、センス、音色の変化などが犠牲となるのです。 ○ひびかさず、練り込む 発声というのは、きれいに息が混じらずに響かせるように思われていますが、本当にそうでしょうか? 声をコントロールしなくてはいけないのですから、まずは、声を握ることです。声の芯を捉えるのです。その芯を、彼らはもっています。だから、解放できるのです。それが深い息音やハスキーヴォイスとして、聞こえるのです。フレーズの前後の息を盗んでください。 下手な歌い手というのは、声がキンキンと響くか、逆にこもっているのです。息が浅くて、体が結びついていないため、口の中で音を作っているからです。声そのものにこだわるので、声の動きを音楽にうまくフィットさせられません(そういう声楽家もどきの声をよい声と聞く人が多いのも、日本で声楽家というのが、あごをおとして力でうなっているかのような間違ったイメージをもたれてしまう原因かもしれません)。 今の10代の男の子の歌は、たいてい生声です。口内音で、マイクを近づけても、よく入らないわけです。 発声の原理からいうと、正しいのは、遠くに聞こえる声です。それは共鳴がよい声です。いくら小さくしても、体に支えられ聞こえる声が共鳴している声です。マイクにもスムーズに入ります。つまり、どこにも妨げられていない声だから、正しいのです。これはひびかせた声とは違うのです。深い息で扱われている声なのです。 「ハイ」というのは、私の考えたブレスヴォイストレーニングの基本練習です。感覚を、子音、強拍、息、音色中心に変え、統一音声で動きをつかむための課題です。これにより、外国人の音声言語リズム感覚を、とり入れます。 「ハイ」のトレーニングでなく、「ハイ」を通じて、声と呼吸を学ぶのです。 ○他人の声は他人の声 日本のアナウンサーや役者も、かなり声を意図的に形作っています。まるで作った形を見せて、そこは仕事場や舞台だということを示しているかのようです。本当に他人に誠意をもって伝えようとしたら、あんなしゃべり方はしません。自分を出さず、装置化してものをいう。でも日本の場合は、そういうものが形としてあるわけです。 たとえば、他の人の歌い方や発声を一所懸命真似したとしても、いつまでたっても、その人よりも大きくはなれません。それを作ってきた人は、自分の体を知っています。歌い手でも同じです。自分の表現を知って、そう作って、客を集めてきたのです。 本当であれば、それを打ち破るくらいのことをやらなくてはいけないのです。多くの日本人の限界は、自分(の感性、感覚)を信じられないこと(信じるまで煮詰めていないこと)、他の人の評価に身をゆだねること(気にしすぎること)、正解がほかに(どこかに)たった一つだけあると思って、それをめざすことではないでしょうか。もちろん、逆に自信過剰で、他を受け入れられず、全く変わらない人もいるから、まあ難しいものです。 ○日本人女性の声の欠点 特に、日本人女性の場合は、裏声でしか歌ったことのない人もいます。地声を使い慣れていないので、そこでの発声に慣れていくことからです。日本の女性の傾向としては、普段しゃべっているところでさえ、高すぎます。もう少し低く設定した方がしぜんなのです。実際に体から一番よい状態でしっかりとした声を出して人に働きかけてきた経験が少ないから、ゼロからやった方が早いのです。大きな声でしゃべっただけで、声が出にくくなるという人も、たくさんいます。元英国首相のサッチャーさんや、小宮悦子さんは、説得力を高めるために、声を太く低くするヴォイストレーニングをしました。 ○アカペラ、マイクなしでみる 今のJ-POPでは、リバーヴをかけて、CDでは森の中から遠く声が聞こえてくるような感じがします。まさに、癒しの、といっても、なんか人工林っぽい音楽です。たくさんの加工が入って、素人には、地の声はみえにくいのです。 昔のレコードなどは生でストレートに入っていますから、その人の体や息が見えます。皮肉にも、あまり加工できなかった録音状態のものが、レッスンの材料には使いやすいのです。 アカペラやマイクを外して歌っているもの、舞台でもたまにマイクを外して歌う人がいますが、そういうときの声はコントロールの感覚が、わかりやすいでしょう。 今のマイクは高度な技術の産物ですから、プロデューサーがよければ、誰が歌ってもそれなりのものができます。その辺で、基準が取りにくくなっています。 でも、感覚が鋭くなれば、音色、フレーズの動かし方で、すぐにわかるようになるのです。判断は、歌い出しの5秒くらいでできます。当然ですが、10人に9人は、そこでだめということになります。 ○深い息のh 一般的に欧米の言語は強弱中心の言語で、息を深く吐くと、そこに中心、つまり拍のようなものができて、これが強拍になります。深い息から声を作るときに、息を妨げると、いろんなノイズ音が出てきます。そのノイズ音が子音であり、様々な音色(ミックスヴォイス)の元なのです。 日本語は、世界で珍しく母音中心の言語であるうえに、発声のレッスンでこの吐く息で生じるミックスヴォイスをノイズとして排除し、ひびきにそろえるからです。無理に音域を拡げるため、一本のひびきでつなぐのがやっとで、声量も出せず、ことばも口先でしかいえません。各音(ピッチ)にあてる発声なので、一つの声でしかつなげないのです。 これを前提として、さらに高い声や大きな声を出させるのは、あまりに無茶なことです(もちろん、レッスンやトレーニングでやるのはかまわないし、感覚も違うから、高音からのアプローチも場合によっては有効ですが)。 特に高音をとると、平べったく薄い声でひびかせ、点であてる、そのため動かせないし、ひびきやシャウトにももってこれない、したがって音色もほとんどつかない貧弱な没個性的な声になるのです。 日本人の若い人の歌声は、どの人もとても似ていませんか。もっとも変じて個性の出る高音で似るのは、おかしなことでしょう。日本人の声は、男女の二つしかないと言った人がいました。 ○トレーニングで、キャパを拡げる 声量でも音域でも、最初は出せるだけ出してみてもよいでしょう。質はともあれ、出せるということも、体の原理や理想的な働き方と関係します。 しかし、バッターでいうならば、ストライクゾーンだけを確実にヒットにすべきで、ボール球にバットが当たるようにする練習は必要ありません。ストライクゾーンも、各人によって違うのです。日本のヴォーカリストをめざす人は、高いボール球ばかりを打つ練習をしているように思えます。それより、ど真ん中を力一杯、振るのが、声域よりは声量という考え方です。 間違えていけないのは、声量や音域がいくらあっても、作品になるわけではないということです。その作品を本当に伝えるためには、自分の一番よいところだけしか使えないのです。まして、初心者なら尚さらです。作品に最も効果的にという観点から使うのなら、声量も使わず、音域を下げて歌うことも選択の一つです。 ところが日本人の場合は、声域も音量もないから、逆に一番高い音に合わせて歌うような安易なやり方を取っています。音響で加工して、何とかもたせています。しかし、そのまえにどうしてそこでの表現を煮詰めないのでしょう。私は、TV局などでは先ほどまで魅力的に話していた人が歌うなり人形のようになってしまうのに、いつもうんざりしてしまいます。 ○点と線 日本の発声練習というのは、「ドミソドソミド」というように、だいたい点を取りにいきます。薄っぺらい声になって、皆が同じような音色になってきます。外国人のように一人ひとりがパワフルな違う音色にはなりません。日本の合唱団と欧米のゴスペルとの違いもそういう感じです。そろえるのは、気持ちで声ではないのです。 こういう練習というのは、次の1オクターブを取りにいくためには必要なのですが、ポップスのように1オクターブくらいで歌えるものに関しては、どこでもよいから、使える声=通じる声=働きかける声を最優先すべきです。体を入れた声でないと、説得力など出てきません。お腹から、「ヤッホー」といえるようになることが先決です。 ○日本語でない発声ポイントをつかむ たとえば外国人だったら、ことばが深いから、そこでそのまま出していき、あとで自由に動かせる声が基本となるわけです。 口先で作ってしまうと、そこから先は動かすことができなくなります。 新人アナウンサーは、大きな口の動きで、口パク発声から入ります。発音中心で、個性や味が、声にありません。カラオケみたいに、その程度の完成形として歌いたいのであれば、それでもよいでしょう。カラオケのうまさとは、私は根本的にめざすものが違います。カラオケは前に立って歌うもの、歌はその人を通じ歌われるものです。 トレーニングのプロセスにおいては、そこで自分の表現が出せるように、声を深めることをやっていくのです。母音でも、より深いところをとっていきます。これは本当は、日本語の発声ポジションではありません。ということでは、私の話す声も、日本語ではありません。 クラシックでは、先に上に伸ばしてから下の胸の方につけていくというやり方をとる人も多いようです。原調で歌うために高音域獲得を優先せざるを得ないからです。しかし、のどを使わないということでは共通します。 ただポップスの場合は、結果として、のどを使っても、さしつかえないこともあります。要は、いつでも確実に戻して再現できるということであれば、許される場合もあります。もちろん、最初はのども弱いので、完全に音声化するのが、筋です。 日本の歌い手には、声を太くしようとして、のどをつぶす人もたくさんいます。過度なのどの使用には、くれぐれも、気をつけることです。 ○日本人と欧米人の音声力の違い たとえば、日本人には言語をリズムから捉え、フレーズとして動かしていく感覚というのがありません。しかし、それは彼らにとっては日常でもっている言語感覚です。 そこでは、日本人が歌と思っているように、音をとって歌い上げているのではありません。好きなようにことばをしゃべっている、その人に音楽が入っていたら、しゃべっているのが歌になるのです。だから自由なのです。つまり、常に即興、創造をもとにした声なのです。 そういうふうに聞くと、歌に対するイメージが変わってくると思います。トレーニングのところでは、その可能性を大きくもてるように声の器を大きくしていきます。あとの使い方は自分で選べばよいわけです。 ただし、この選び方にこそ、誰よりも耳のよい第三者が必要といえるでしょう。 ○体の振動で聴く 最初にやるべきことは、音質のよいところで、ライブくらいの音量での音楽鑑賞です。曲や歌を、体を通じて感覚に叩き込みます。家でラジカセなどで小さくかけているだけでは、体に入ってこないからです。 レッスンが60分なら、私は、最初は50分くらい聞くことに使ってもよいと思います。音をきちんとした設備のもとで体で振動として受けとめ、一流の歌い手の体や息を少しでも直に感じておくことが何よりも大切です。 レッスンでは、それを感じて、自分の体で増幅して返すことを目的にすべきです。そうして、一流の人のもつ感覚を少しずつ、入れていくのです。自分の中で、そういうことを感じていなければ、そういうふうには使えません。 ですから、自分の体にもそういう感覚や能力があって、それが眠っているから起こしていくと考えるべきです。 声帯でも、本当は2オクターブくらい使えるのに、ほとんどの人がそこまで正しく使わずに、変にくせをつけて終わってしまうのです。その能力を引き出せる限り引き出しつつ、それ以上のことは無理せず、待つのです。どう使うか、どう見せるかにつなげていくことです。 ○出だしの1フレーズの大切さ プロの歌から学ぶべきことは、彼らのように高いところや声量が出せないということではありません。出だしのところから同じレベルには全くできていないということです。そこが一番の基本です。つまり、出だしでのステージング、呼吸がとれていないという問題に気づくことです。 彼らは出だしの一音目から、表現し、充分に人を惹きつけています。瞬時に入り込み、歌にします。 出だしのところもできないのに、高いところ、大声量のところで魅せられるわけがないのです。それなのに、客席からボクサーへ挑んで、何とかなると思っていませんか。 なぜ違うところにばかり問題がいくのかというと、音高があっていて、ことばがいえていたらよしとするからです。歌えてたら、どうでもよしとするからです。いえ、多くは、本人がこれでよいのかと思っていても、トレーナーがよしとする。確かにわかりやすいからです。正しくてよいというのと、人に働きかけが通じるというのは、全く違うレベルです。 それがわからなければ、ひとこと、せりふを読んで他の人に充分に伝えるところから、やってみることです。わかりやすいゆえ、つまらないものしか出てこないともいえます。 ○声があれば、歌えるわけではない よく「声がないから歌えない」という人がいます。では自分のビデオを声を消して見てください。プロの表情、身ぶりと比べてください。 プロは、1フレーズのなかでも、表情がくるくると変わるし、全身も思う存分に動いています。鋭いでしょう。キップがいいでしょう。その人のなかにある音声世界が、音を介されて出ていますね。 次に、あなたのを見てください。そんな表情では音色も出ないし、感情も動いてこないでしょう。見ていて魅力的ですか。 だからといって、形だけ振りつけてもだめです。それは体からの呼吸や生きた声を妨げます。(試すことはよいのですが、それは目的ではないということを知るべきです。同じく、手足でリズムをとる人も、観客をのせるためでなければ、やめましょう。) 歌えないのは、声のせいではないのです。そのベースに音楽の世界とか、表現の世界が作られていないからです。それがあって、体や感覚の動きと結びついていたら、しぜんと人の心を動かすように声は働くのです。 役者でなくとも、現場で相手に何かを伝えたいと思ったら、心が感じ、そういう方向で体が動くわけです。日常生活でも同じです。ただ、その動きをより適確に修正し、よりよくみせられるようになるためにレッスンをするわけです。 ところが日本人というのは、そういうことを全くやらずに、いや、むしろ抑制して生きてきたわけです。そのため、1からトレーニングをしなければ、動けないのです。燃えるまえに、燃料を入れなきゃいけません。そこが一番違うところです。内容なしに、表現は出てきません。ところが、その仕込みを、誰も教えてくれないのです。声を通じて伝わる躍動感こそが、表現の原動力なのです。 ○呼吸の深さ J-POPでは、リズムの方にことばを切って動かしています。ことばのフレーズがリズムをもって自由に動かなくなってきています。それは呼吸で声を介してリズムを動かすことができなくなっているからです。テンポが速すぎ、早口ことばのように、口先で処理しているからです。 今は、点にあてておいたら、音響技術でつなげることができます。そのため、声に表現が練り込めぬまま、すべっているのです。にも関わらず、センスよく聞こえていると、もつのです。 しかし、しっかり聞くとだらしなく聞こえる、これは、呼吸を深くしていくことで、直していきます。ラップなども同じです(日本人のラップがしゃべり系とリズム系などに分かれるのも、両立する器がないために思えます)。 ○基本は器づくり 音楽にもっていく前の部分で、オリジナルの声を取り出せるようにしていきます。呼吸と声に関して、人間の体の原理が働くところで基本のトレーニングをやります。(ここで述べるオリジナルとは、その人元来の、独自の、固有のということです。決して、独りよがりということではありません。) 高低感覚でなく、強弱で捉えてフレーズでのメロディ処理をすることが日本人にはなかなかできないのです。 音の高さが少し変わることによって、声に違うことが起きてしまうからです。声が変わるのはよいのですが、それは音高でなく、強弱、表現によるべきなのです。 フレーズは、息でしっかりと支えられないといけません。のどだけを鍛えようとするのではなく、できるだけ体の方で引き受けることです。のどに負わせず、体に負担をかけることで、体も強くなっていきます。そういう循環をトレーニングにつけていくことです。 基本のトレーニングでの目的は、それができたかできていないかではなくて、その上に何かが乗る器がどのくらい大きくできていくかということです。自分がどれくらい大きく変化できるかという可能性を広げておくことです。 だから、いつでも呼吸を整え、気を入れなおしてください。集中してやれば、いつでもよい状態に戻ることをめざすことです。 ○どこにも邪魔されない声 きれいな声を出したいとか、声楽っぽく出したいと思って、それが目標になってしまうと、間違えてしまいます。部分的な操作になってしまうからです。軽やかでノリがよく、一見よさそうに見えても、本物が隣にいたら、吹っ飛んでしまいます。そういう経験をたくさん積んでください。誰かがパッとみて、中途半端とか、おかしいと思うものはダメです。 クラシックでも、一流の人たちは、うしろから声が飛んできます。どこにも触れていない声は、それだけ前に飛んでいるということです。そのもととなる深い声とか、声の芯というところは、日本人が日常のなかではあまり、もっていないところです。(この芯というのは、体内のどこかに固定したものでなく、自在に動ける感覚の核のようなものです) 日本のトレーナーでも、大半は、のどを外させるために、上の響きにもってこさせているというのが現状だと思います。いわば、リラックスという必要条件にすぎぬものを、それさえできればすべて片づくかのように、十分条件にしているのです。 ○ことばから歌へ たとえば、イタリア語でとると、しぜんと強弱がつけやすくなります。しかし、そのまま、フレーズや、声を真似ると、日本語の浅いところでやりがちです。そこで、レッスンでは、イタリア語などの深さをとった上で、日本語にします。(ポルトガル、スペイン語などもお勧めです) 歌う心境になって、それを支えられる体になったところで、自分の気持ちに音楽が従うべきです。音楽の形のところに歌い上げるのではないということです。 ことばでいった方が伝わるのであれば、ことばでいえばよいでしょう。その中でもっと活かせる分から音楽にしていくのです。 ことばの中で7割は片付けてください。あとの3割の部分をことばの力としてのぞいても、音楽で何倍にもできる、それであってこそ、メロディをつけ歌う意味があるのです。もちろん、ことばが消えても伝わるべきですが、ことばのニュアンスは、大きな表現力をもつことを忘れないでください。 ○歌への変換 ヴォーカルの才能というのは、そこの変換のセンスで問われます。ことばで表わされた内容を、音の世界にもち込むことで3倍に見せられる人もいれば、半分になってしまう人もいます。 人によっては、3の力しか出さなくても、それを10に聞かせる人もいるし、逆に10の力を出していても、3しか与えられない人もいるのです。それが、音楽性、センスです。 だいたいの人がやった通りにしかできないなか、そこにプラスアルファの天分のおちる人が、ヴォーカリストです。 一人のアーティストが歌ったら、何でも彼なりの音楽に、すべては置き換えられてしまうでしょう。そういうものと比べてみてください。それと異なる自分の世界でのタッチがどうなのかということで問うてみましょう。 ○比較して、メニュにする 何もわからずに声を出していても、的が絞られてきません。一つのメニュのなかに、それぞれの目的に合わせ、いくつものメニュをつくり、それに対して、トレーニングをセットすべきです。そのセッティングする力こそ、学ぶべきことなのです。 発声練習が効果をあげないとしたら、そこに課題をもち、細分化(具体化)しないからです。 大切なのは自分の声のマップを作っていくことです。そして、それを自分で完全に把握していくことです。 プロのように歌えるかどうかというのは、問題ではないのです。それぞれのフレーズから、自分が歌に使えるものをとっていけばよいのです。これが普段のレッスンの目的とすべきことです。 ○表の声、裏の声 完全に声帯で共鳴ができるところと別に、仮声帯でファルセットに抜いて出す声というのがあります。 美空ひばりなどは、裏声と地声とのあいだに、ミックスしている部分があります。男性は、森進一さんや美輪明宏さん、米良良一さんなどを参考にしてみてください。 感覚の中でコントロールしていれば、特別に意識する必要ありません。高くなって、その気持ちになったときに、声が細くなったら裏声で、声が太かったら地声くらいというものでよいと思います。完全にそれをわけて歌うものではないと思います。 もともとは、人間の感覚で、コントロールしているものと考えましょう。同じ音高でもあるときは裏声で、あるときは地声となります。同じ音でもあるときは響きで抜け、あるときは太いシャウトになっている、というように柔軟にしておきたいものです。 ○日本では、あたりまえに学べなくなる トレーニングや音楽の勉強をやる前には、本質的なものとして見えていたり、純粋に聞こえていたものが、練習を一所懸命やることによって、一時、見えなくなってしまうことはよくあることです。不幸なことは、本人がそれにいつまでも気づかないことです。 そこでは、声が出にくくなったとか、音がとりにくいとか、そんな一時的な現象ではなく、アートとして、何を滋養とするのかで、みるべきなのです。 将来、自分が表現活動をする上で、自由に柔軟に動けるようにするためのものを得ていくためにやるなら、それに必要なのは、声だけではありません。 基本がどこでどのように開花するかは一人ひとり違うのです。 日本では、自分が5年や10年続けてみて、どうなっていくのかというようなことは、ほとんど何も経験せずにきています。すると、どうしても器用な人が、早くやれた気になってしまうのです。その多くは、他の人より少しばかりきれいな声、高い声、大きな声が出る人です。 レッスンも、1、2年でやれないと、やり方のせいにしてやめてしまう人も少なくありません。とても、もったいないことです。 仲代達也さんは、何度も声を壊して、あの素晴らしい声を手に入れたといいます。本気でやれば、プロセスがどうあれ、そうなっていくものなのです。 多くの人は、自分勝手にやっていたその時期の自主トレーニングやレッスンを、役に立たなかったと否定します。しかし、私がみるに、そのときほど潜在的に大きく学んでいた時期はないのです。門前の小僧、習わぬ経を読む、です。 ○今、ここで問うこと アーティストは、生涯を通じて、何を成したか、どれだけのものを人々に届けたかということでみられます。 日本の場合はテーマパークと同じで、今年、何万枚売れたかとか、何人お客が入ったかで決まっていくかのようです。もちろん、動員数や売れ行きも一つのバロメーターです。しかし、あなた自身が自分を知りつつ、やる目的をはっきりさせていくことが大切です。 日本の歌の勉強で一番よくないのは、他の人の個性や雰囲気、情感みたいなものをとってしまうことです。これで歌謡曲や演歌、シャンソンなどはよくなくなっていったように思います。とってはいけないところをとって、そこに頼ってやろうとしたからです。安全確実ゆえに、おもしろさ、興奮、新鮮は半減します。 歌い手とお客との中で成り立っているのも、多くはその時代、その地域に応用されているものにすぎません。それゆえ、芸能・文化というわけです。しかしそれを創り切り出した人の、発想力や精神にこそ、見習うべきです。しかし、それを盗用・摸倣しても使えないのです。 あなたが表現するときには、息や体が、あなたに忠実に働いて、今ここで、出てくるものが、全く違っていなくてはいけません。同じ歌を聞いても、大学教授の古いノートの読み上げのように感覚が麻痺してはいけません。いつも、今、ここで聞いている人たちの心に対して、変じて出てこなくてはいけないのです。新鮮でないなら、歌も声も死んでいます。 ○外国人の声と日本人の声の、使い方と深さはどうして違う 研究所には音声での基準はあります。それを今の時代とどう合わせていくかということが、いつも大きな課題になっています。私からみると、日本の声の基準の方が偏っているのですが……。 たとえば、ドイツの映画を、アメリカ人やフランス人の声優が吹き替えするときには、日本人のやるように、おしゃれな語り口にはなりません。それは日本人の欧米の生活願望のところに基づいた、翻訳表現をやっているからです。でも、そうなったのは、皆がそれを期待していたからでしょう。シャンソンでもジャズでも日本に入ってくると、おしゃれなものになってしまいます。それが日本人の取り入れ方だったのです。歌も芝居も同じです。音声的体力(聞くのも奏するのも)がない日本人には、ストレートでは疲れます。そこで、パワーより耳ざわりよく歌う発声が幅を効かしているのです。 今の時代は直接、本場のものを見ることができるわけです。それをわざわざ、やわらかく、かっこよくして啓蒙する必要があるのかと私は思います。 でも、あるようです。ロック、ヒップ・ホップ、オペラも同じです。 今や、同時多発的にいろんなものが出ています。本場ということばも不要でしょう。もちろん欧米のものがそんなによいのかという考えもあります。でも、日本人には、よいようです。 日本では、ミュージカルも、最近は演劇まで声楽のメソッド(オペラ、ポジションとオペラ的発声)でやられています。世界からみると、これも一つの基準にしか過ぎないわけです。マドンナとバンデラスのミュージカル映画「エビータ」をみてください。そこでの声や声の使われ方は、決して声楽ではありません。 もちろん、日本には日本のものがあるはずです。カラオケの振りつけみたいな歌を脱し、独自のものをもたない限りは、本当の意味ではインターナショナルにはならないような気がします。 ○日本の中の音声文化の評価 日本の音声文化は、明治維新後、戦後、また平成に入っても大きく変わり、どんどん根っこがないものになってきています。 日常の声そのものも、さらに説得力を持たない、個性を出さない、自分を主張しなくなり、歌もそこにクロスオーバーしつつあります。自由になってきたようでいて、ただ雑になってきたのです。役者、テレビのタレント、ナレーターでも、いい加減に声、ことばを発しています。音響技術が日常の声を拾えるようになってきたためです。また、聞く方も、ながら見(聞?)をしているからです。 昔から、プロの世界のものは、一般の人のあこがれから、手に届くものにおりてきました。ファッション、メイクの方法、ブランド、化粧品も一般化しています。しかし、日本の場合、声はまだ日常生活に、魅力的かつハイレベルには落ちてきてはいません。 日本では外国のように、自分のことばでしゃべって、そこで人物や実力を判断してもらうというような風習がありませんでした。どこかの大統領のようにテレビ討論などで決まってしまうという音声への厳しさもない。 そういう意味での音声文化が、これから始まるのかどうかです。実際にはひどくなっている気がします。 テレビなどでも、昔はことばがはっきりと聞こえましたが、今や母国語なのにテロップを出しています。テレビの使われ方が変わってきたとしても、やっているのは、音声のたれ流しです。音声のリーダー役であるべきマスコミ、テレビ局、音楽関係者が、音声に鈍くなっているのは、困ったことと思います。 Q.どんな声でも出せるのか その人の発声の原理に合うころまでは正せます。しかし、全く今までの声の性質と違うものを出すことは、できないし、やらなくともよいと思います。自分のものと全く違うものを追いかけて深まることはありません。 人間にはやれることとやれないことがあるのです。男性が、マライア・キャリーのように歌えなくはないでしょうが、そういう勝負は、本筋をはずしているでしょう。 トレーニングをしたからといって、必ずしも誰かのような高音が出るわけではないし、誰かのようなハスキーヴォイスで歌えるわけがありません。だから、だめなのではありません。だから、おもしろいのです。誰かのものは必要ないのです。だからこそ、自分のものを見つけるのです。 今の時代は、音響技術でも、大きく変えられます。みせ方や演出は総合的なことになってきました。必要に応じてそういうことを学ぶとともに、一体自分の表現にとって自分に何が必要なのかということを見つめることです。もちろん、いろいろ試してみるのは、大いに結構です。 Q.舌や口が動かずうまく伝わらないようなのですが 日本人の場合、伝わるかどうかは、人前に立つときの開き直り(見せ方)の問題で、あまり発音、滑舌といった部分的な問題ではないような気がします。要は、その人が本気で伝えようとしたら、おのずと直ってくる問題がかなりあるわけです。だから、基本こそ、歌の勉強でなくステージングと共に学んでいくべきです。 たとえば、伝わるためには、その人の話に内容(価値)があることと伝える強い意志があることが前提です。 社長なら、そんなにきちんとしゃべれなくても、社員はよく聞くはずです。それは聞かないと、自分が不利益になるという立場(状況)の力があるからです。その状況を、どうつくり、もたせていくかが、舞台です。 歌でも同じことです。それが伴えば、滑舌や、発音の、細かなところまでこの国では問われないでしょう。私も、今のヒット曲、何を言っているのかよくわかりません。でも、伝わるものはあります。 Q.口は大きく開けた方がよいのか 私は、そんなに口を開けていません。実際は、あまり関係ないのです。ただ、声が出ない人や初心者の人には、ビジュアル的にも印象がよいということと、声がこもらないということで、そう注意する人もいます。(たとえば、新人アナウンサーは、口元をはっきりと開けています。しかし、ベテランの役者になってくると、ほとんどそういうことをやらなくなります。) 日本の場合は、アナウンサーとヴォーカルや役者では問われる声が違っています。 外国人ではそういう区分でなく、個性に基づいて異なるようです。彼らの歌や芝居は、日常の中に音声の表現の世界があって、それをそのまま取り出すからです。第三者へ伝える対話を心得ているからです。そういう国であれば、キャスターも役者もヴォーカルも、そんなに変わらないのです。もちろん、それは音声レベルのことで、その世界で問われるプロ中のプロの要素を加えて、もっています。 ところが日本の場合は、それぞれ独自のやり方を作っています。そして、上の人と同じようにやりなさいと教えられてしまうわけです。森本レオさんは、そのしぜんな語り口をいつも注意されていたといいます。もちろん、私からみると不しぜんなのですが。 そういう意味でいうと、いつも日本はおかしな方向でずれているのです。本当の表現力というのは、日常のものを集約させた上に成り立つものでしょう。 Q.顔や体の大きさで声は変わってくるのか 声については、何が問われるのですか 当然、声は楽器である身体に影響されます。ただ、ポップスに関しては、全く気にすることはないと思います。 今は、むしろマイクの加工がしやすい(音響さんが活かしやすい)声が、実際にはもてはやされています。電話などでその人の声を聞いていたいとか、この人の歌を聞いてみたいと思わせる声であるということも、大切でしょう。声量や声域も、歌にはそれほど関係なくなっています。 声に関して日本人が不利だというのは、政治家やエアロビクスのインストラクターなど、一番声を使って表現すべき人たちが、声をつぶしているということでもわかります。ダミ声、塩辛声がよいというなら別ですが…。世界的に著名な音声医師、米山文明さんは、日本語そのものが声帯を痛めるといっています。外国のインストラクターやキャスターなどは、とてもよい声をしています。そこにベースをおいてみるとよいというのが、私の考えです。 声について問われるのは、それを通して出てくる、その人の魅力、可能性です。 Q.声量や声域は努力で無限に引き出せるのか こんなことはあり得ません。ギネス挑戦ならともかく、その必要もありません。いつも、普通に考えてみてください。 なぜかヴォイストレーニングとなると、いきなりおかしな考え方になる人が多いのです。好きな曲を歌ってください。というと、若いのにいきなり「赤とんぼ」や「花」などを歌う人もいるのには、苦笑させられます。 大体ポップスの場合は、何でもありの世界です。自分がやれるところでやり、やれないところは、それをどう補えばよいのかを考えればよいのです。 ステージとしてやっていきたいのか、声のことをマニアックに追求していきたいのかというのも、大きな分かれ目です。トレーナーの選び方にも関わっていきます。 たとえば、YMOの高橋幸宏さんなどは、ドラムでは、向こうの筋肉隆々の人たちには敵わないからといって、シンセでやろうとなったわけです。日本のシンセ技術は、世界で負けないからです。世界に出ていくことを優先するなら、それも一つの手です。自分と世界や時代を知ってこそ、正しいやり方がとれるのです。 ちなみに、細野晴臣さんは、ニールヤングを聞いて、へたな自分の歌もやりようがあると思ったそうです。 Q.歌のうまさは生まれつきか 才能は、天性という考え方をしてしまうと、トレーニングということ自体が成り立たなくなってしまいます。 日本なら、トレーニングなどしないでパッと歌い手になれる人もいます。歌い始めて数ヵ月でデビューできる人もいるのです。しかし、自分はそういうことができる人なのか、できた人なのかということは分けておかなくてはいけないのです。 たとえば、16才でデビューした人よりも自分の方が歌がうまいといっても、なぜ自分は16才のときにデビューできなかったのかということこそが、大きな違いなのです。それは業界の人に見つけてもらえなかったからなのでしょうか、ほかにどんな理由があるのでしょうか。 つまり、自分自身はどうやって道を切り開くのかということです。そのために、いろんなやり方があるということです。それは、自分が選んでいくしかありません。しかし、あるレベル以上でいうなら、続けていくなら10年のキャリアなくして通用するものなどないでしょう。 天性は確かにあるでしょう。しかし、それを発揮させるのも自分なのです。その努力なしに、何かを成し遂げた人はいないのですから。 Q.最近、高音部が出なくなるのだが。声がうまく出なくなることが多くて困る そういうときは、無理をしないことです。声には年齢や精神的な影響も大きく関わります。安定しているはずのプロの人でも、何かの拍子に、声や歌がうまくいかなくなることはよくあります。体は、年々、状態が変わっているのです。 声の場合は一度悪循環に入ってしまうと、そこから抜けられなくなりがちです。 ヴォイストレーニングでも、最初は一番声が出るのは、練習を休んだときでしょう。練習をしっかりやっている人は、状態があまりよくないことが続くものです。だからといって、休んでばかり、いられません。 一番調子の悪い状態が自分の実力だと開き直るしかありません。人前に立つ立場なら、最低ラインを普通の人より少しでもアップさせていくということが、大切です。 Q.実力とは何か 私が気をつけてみているのは、リピート、再生がきくかということです。発声も歌も全く同じようにくり返せなくては、深めていけません。 客でいえば、また、次に来るかということが問題なのです。それを常に続けられたら、ファンが増え、おのずとやれていくわけです。それに対応する力があって、はじめて、実力といえるのです。 ヴォーカルが恵まれているのは、事務所に所属しなくても、自分でやろうとすれば、それなりにできることです。 ところが、どこかのオーディションで合格しなければ、歌の世界が開けていけないと思っている人が多いのです。最初から、他の人をあてにしないことです。歌の使い方にもいろんなやり方があるのです。施設を訪問したり、介護で音楽療法的に使ったりしている人もいます。 自分を知って、たとえ足らない力でも、必死に、人に与えている、続けていける、その力こそ実力なのです。 Q.役者として、迫力のあるしゃべりができるようになりたいのだが イメージづくりをきちんとしていけばよいと思います。黒澤映画の三船敏郎さん、仲代達也さんまでさかのぼって声のイメージを体に入れてみてください。 あの時代は音声にもそんなに技術的な加工をしてありませんから、どういう声がどういう動きの中から出てきているのかということが入りやすいのです。声のことや体のことを見るには、最適です。役者であれば、そういう役者のせりふのパターンを動きとともに入れていけば、おのずと変わっていくものです。あとは、それを補強する基本トレーニングをすることです。 |