t『自分の歌を歌おう』 |
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(7)トレーニング論 伸びる人の条件、トレーナーの条件 | |
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ノウハウを教える方法では、それでうまくいく人にはよいのですが、他の人にはほとんど通用しなくなります。自分でできてもうまく他の人に伝えられないのが、歌や声の先生です。ある方法で早くは伸びるようにみえても、すぐに限界がきます。方法でやっているから方法がみえてつまらなくなるのです。 スクールや劇団のトレーニングをみていると、先生が「アエイオウ」とやっているのを生徒も皆、真似てやっています。でも、日本人の場合、その手本のほとんどが、のど声です。そこで、すでに判断が狂っているのです。生徒に判断力をつけさせるべきトレーナーに判断力がないのです。 しかし、これも誰かのノウハウを形だけ受け継ごうとして、自分で感じたり考えないからおかしくなるのです。こうなるとトレーニングをやったがために、どんどんと勘を悪くしていく結果となるのです。 ただ、これは、教えるほうも、受けるほうもあまりに鈍感だということです。他の人によくても自分には、もっと違うやり方やアプローチの可能性を学ばないからです。 よいヴォーカリストであるほど、他人を導けないのは、自分が学ぶプロセスで他の人のつまづくプロセスをしっかりとみる必要がなかったからです。ドの音を聞いて、しぜんとドを出せてしまう人は、そうでない人の悩みも解決法もわかりません。 必要なのは、基準と、それを満たすのに自分に入れていく材料です。 とにかく、こういう世界でやっていくためには、勘がよくなければだめです。鋭くなければいけません。いろいろなことに気づかないと学べないからです。その気づき方から勉強していきます。日常的に起きていることからも、たくさん気づくことです。それには、いろいろと人のいる場に出て、すぐれた人や作品と出会うしかありません。そして、音の世界のなかで何が見えるのか、そういうことに対して、どこまで読み取れるのかをつきつめていきましょう。自分が見えないもの、聞こえないものに対して、自分の表現をとることはできません。 ○歌のトレーニングはどうやるのか 楽器ならその先生と同じレベルのことができると一応、食いっぱぐれはないでしょう。少なくとも、プロとして認められ、演奏一つで伝わるものをもって基準とします。ところが、ヴォーカルの分野は、どんなプロのヴォーカルと同じように歌えても、やっていけません。それではその人の表現が出てこないからです。 一人ひとり声帯から、体つき、筋力、やりたいことも、いろいろな意味で違います。声帯という楽器自体が多様性に富んでいる上に声の使い方もさまざまだからです。本当は、一人として同じ声や使い方はないのです。 そこで、学ぶべきことと、学んでも仕方ないことが、わかりにくいのです。そのため、多くのトレーニングは、学んでも仕方のないことにほとんどの時間が費やされています。 そこを間違えないためには音声を扱える役者になるつもりで、音やことばで一つの表現をつかむことに時間をかけることです。 ほとんどの人が上達を何をめどにみるかと言ったら、いきなり歌での音程やリズムが狂っているかどうかで問うのです。これでさえ、今は音響の技術で直せます。 (仮にあなたが、どんなに歌はへたでも知名度があれば、日本では立派なCDはつくれるし、売れるかもしれないのです。音響技術で立派な歌に聞こえるようにできるのです。 好きなヴォーカルに惹かれて、それを歌ってみるのはよいでしょう。でも、同じになろうとしてやっていては、絶対になれません。また、なる必要もありません。自分にないものと必要のないものは身につきません。それが、トレーニングで伸びるための前提です。) Q.上達していくためには、どの程度の練習をすればよいか どの程度のことをめざすかによって違ってくると思います。やっている人は、24時間ずっとそのことを考えています。こんなことは考えずに、やることなのです。 プロというのは、必ずどこかでそのことを詰めてきた人です。だからといって、100年もやったわけではありません。 レッスンは、気づいたり、チェックしたりして、自分のために使うためにあります。しかし、一人でやっている量にはかないません。一人でやるだけのことをやって、他人は、自分でできないことのために使わなくてはいけません。 一人でできることを、先生と一緒にやっているのがレッスンというのでは、親しくなること以外の意味はありません。 自分一人では絶対にできないことのためだけに、他人を使うべきです。時間もお金も、もっと有効に使うべきです。 Q.毎日やって効果がある練習方法とは 本にもいろんなトレーニング方法が書いてあります。どれをやれば一番よいかということは、相手を見ずには(みてもすぐには)わからないものです。メニュもまた、創造物なのです。 効果が出るためには、体のことが息と声につながっていくトレーニングがベースとはいえるでしょう。 Q.日常で注意しなくてはいけないことは何か 何人も何年も見てきて言えることは、自分の直感を磨くしかありません。その経験と耳をレッスンでは養うのです。そのために、常に意識を音声の表現の舞台にもっておくことです。 研究所では月に一回、舞台をやり、ビデオで撮って見ます。それを100回見て、自分のよくないところを100個直せば、ほとんどの問題は解決するのです。そのプロセスで、トレーナーが必要なのです。ほとんどの人がその100個に生涯かかっても気づかないからです。しかし、その半分は、誰が見てもおかしいところ、しっくりこないところです。そこを正さず、声だけが伝わるということはありません。 Q.トレーニングで間違った方向にいくと、癖にならないか それはポップスの難しいところです。でも、日本で現実にやっている人たちは、発声の原理からいうと、ずいぶんと違っています。むしろ、それがくせ声として個性になっている場合もあります。それを、私はオリジナルフレーズといって、オリジナルの声より、優先しています。 独特の魅力をもつ「たま」「ポルノグラフィ」「BOOM」などがクラシックの発声でやったら、ああいう世界にはなりません。J-POPはほぼすべて、そうでしょう。日本人特有ののど声でも、それを逆手に活かして、いろいろな声の演出をしています。音を動かすことにある感覚はすぐれています。誰もあの真似はできないから素晴らしいのです。 私がメインでやっていることは、音声で表現できる舞台の基礎づくりということです。人の心を動かす声の使い方として、歌い手というのは専門家ですから、ヴォイストレーニングの材料として、わかりやすいから使って伝えています。いわば、あなた自身の正誤など超えた深いところにいくこと、それを示したものが作品ともいえるのです。 Q.普段からきちんと発声して会話した方がよいか 日常のレベルのことと舞台のレベルのことは違います。「いつもウォークマンで音楽を聞いて、いつも鼻歌を歌っていた方がよいのですか」と聞かれるのですが、私は勧めていません。そんなものでうまくなるのだったら、誰も苦労しないということです。 むしろそのくらいで、やっていると思ってしまうこと自体が危険です。耳もいたずらに疲れます。練習というのは、高いテンションでやらなくてはほとんど意味がないのです。だから、きちんと切りかえましょう。 中途半端にやると、やがて高い気づきが得られなくなることで、限界がくるのです。 ヴォイストレーニングは、テンションが低い状態で決してやらないことです。のどによくないし、決して歌にもプラスにはなりません。 人前に出るときには、必ずテンションは保ち、集中していなくてはいけないから、そのためにリラックスするのです。 ステージで使える声や状態を作っていくための練習が、それよりも低いテンションでやって許されるはずがないでしょう。今日はお腹から声が出るのかなどと考えてしまうと、歌の中に入れません。それはその前にやるだけのことをやって、忘れてなくてはいけないのです。 さらに日常で声のことを意識するのはよいですが(というより、してしまうでしょう)、そこでそのまま発声しても、うまくコミュニケーションはとれないと思います。だから、区別しておきましょう。耳も声も、よりしっかりと使うために、そうでないときは休めてあげることです。 Q.ヴォイストレーニングを受けて一流の歌を歌えるようになった人はたくさんいるのですか この一流という定義をどこにおくのかということです。売れるレコードを出した人を一流というならわかります。でもその人たちが、私と接したりここに来なければそういう歌が歌えなかったのかというと、そんなことはないでしょう。その当人の実力が99%なのです。 研究所に通うことがすべてだと思っている人もいますが、ここの研究所が1%になるくらいの自分のバックグラウンドを作っていかない限り、所詮、大したことはやれないと思います。 声がよくなって、歌がうまくなっても、そんな人は日本の中にも何万人もいるわけです。だからここでは、残り99%の力のつけ方のヒントは、伝えているつもりです。だから、いうまでもなくやれた人は、その人の力でやれたのです。 今の自分の一番使いやすい声を知るのも難しいのに、将来的に使える声を自分で判断するのは、不可能です。加えて日本では、へたに親切でやさしい先生が多いので、そういう人につくと、さらに自分のことが客観的に判断できなくなりがちです。おかしなことですね。 たとえば、水泳などでも、自分の泳ぎやすい自己流をやめ、最初は泳ぎにくくても基本のフォームを身につけるのは、あとで伸びるためです。体の原理に合わせ、限界を伸ばすためです。それは、自分の最初の感覚ややり方と多くの場合、反します。人間が力を働かせるには、人間の体の基本の構造と使い方を知っておかないといけません。 ただ、歌や音楽の場合は、スポーツ以上にアーティックなものです。声量がなくても、体力がなくても、優れた特殊性があればよいともいえます。 たとえば、歌うのが下手でも、自分が作詞作曲をしてやれていたら、誰も文句をつけることではないのです。その場合のアーティスト性は、作詞作曲にあるわけです。そういう意味で自分の武器を見て育てていくことです。 Q.修業期をどう過ごせばよいか これは歌い手や俳優などの全体の問題になってくると思います。最近、仕事の場が狭まれていますから、なかなか舞台とか、音楽業界の中で、高いモチベーションというのは保ちにくいようです。また、クオリティの問題もあります。 私も今は音楽関係者とか、プロデューサーより、アニメ、漫画、ゲームのクリエーターや、海外で活動している人たちの方がおもしろい。よっぽどアーティックなことをやっているし、刺激も受けます。たとえ分野は違っていても、自分と異なる分野で優れた人たちとやった方がよいと思います。 自分がまだそういう段階でないときは、一人で映画を見たり、本を読んだりして、自分の作品のバックグランドをきちんと作っていくことです。 要は、歌とか声というものは、それだけでは何ともならないのです。しかし、少し応用すると何とでもなるわけです。それを通して何が伝わってくるかという、バックの世界を持っていなければやれません。 歌がうまいといっても、うまいだけで、誰がお金を払って見に来ますか。 すべては、その人の魅力によって問われます。それはMC一つでも、だいたいわかるわけです。作品のネタも、常日頃から考えることから出てきます。 そういうことを期待される人として、あなたが生きているかどうかということです。そう生きている年月がその人のバックグラウンドになってきます。そしたら、おのずとやれるようになっていきます。そうでない人は、小さなプライドが邪魔して、自分よりすぐれた他の人の声が聞けない人です。あなたよりも何かをしっかりとやってきた人の方が、あなたを正しく判断しているのです。 Q.不規則的な生活と仕事との両立はできますか 両立という問題になると、歌い手でも役者でも、豊かで、恵まれた環境で成功した人というのはあまり聞きません。世のなかに文句がなければ、そんな世界に入ろうとは思わないでしょう。コンプレックスとハングリー精神がないと、続かないでしょう。 しかし、こういう問い自体が言いわけになっていると思います。 確かに規則的な生活をして、決まった時間に声を出して、栄養価の高いものを食べて、充分な睡眠をとるということは、声のことでいうと理想的です。そういう環境が整えられているという人もいます。それは、知っておいてもよいことです。 実力社会ですから、金も親のコネもルックスも、実力の一つです。でも、逆境から、世に出た人の方が多いでしょう。あなたしだいです。 Q.日本の芸術教育について、どの分野も本当の意味で実力を向上させる場が少ないと感じます。世界の人とどう触れ合うのか 私個人の中では、知りたいことはだいたい知れるし、毎年10ヶ国近く行くので、いろんな国に関わる人はいます。優れた芸術家は、日本にもたくさんいます。つまり、それぞれ、個人個人としての問題のように思います。 音楽もフレンドリーな交流なら、よく聞きますが、たとえば、欧米の一流アーティストがやっているようなセッションがやれるのかというと、そのレベルにはないと思います。 やっている人たちが楽しんでいる分には、否定しませんが、それが芸術活動や文化ということになると、違ってきます。 もちろん、いろんなムーブメントが起きて、いろんな人が関わっていくことは、とてもよいと思います。音楽を楽しむのが一番です。そこにいる人の中で、誰がどういう考え方をしているかということで、一個人の才能、力量で決まってくることだと思います。 研究所にも今、黒人のプロシンガーに来てもらっています。歌は、日本人の誰よりもうまいのです。だからといって、彼を使える能力をもつことの方が、大変なわけです。また、トップレベルのメンバーが、何人か手伝ってくれています。ありがたいことです。 Q.研究所のトレーニングのノウハウやメニュは 私が考えるに、トレーニングに、何か一つの完成された正しいやり方があるわけではありません。それぞれの目的に対して、きちんとセッティングして、はじめて意味があるのです。 だから、トレーニングだけでいうと、一つの目的に対し100個も200個も無限にメニュはあります。(研究所のHPに100メニュを掲載しています)それを何のためにやるかということがわかった上で、一つひとつやらなくてはいけません。あくまで部分的なことを意識して片付けて、それが意識しなくてもできるようにするのです。それができるようになったら、全体の技量が少し上がるということです。 ここでは、音声の表現力でみるようにしています。真っ暗にしたときに、そこで何が聞こえて、心に働きかけてくるかということを基準にしています。 つまり、ノウハウやメニュは、何でもよくて、それをどうみるのか、どう正すのかが、大切なことなのです。 ○トレーナーの弊害 日本のコーチやトレーナーの悪い面に、教えすぎるということがあります。最初の一声目から、こう出しなさい、ああ出しなさい。それは、状況をトレーナー自身の理想とする発声にどう合わすかとしか捉えていません。生徒はそれで表向き、直されて安心してしまうのです。だから、早く、ちょっとうまくなっても、伸びないのです。 歌に限らず、海外でトレーナーにつくと、先生が何もいってくれないので、すごく困惑するというのは、日本人からよく聞く話です。あなたは何が出せるのかと、どう出したいのかと、だったら手伝ってあげましょうというスタンスだからです。 日本のカルチャーセンターを考えてみればよいと思います。講師は、すぐれた先生ばかりです。しかし、教室に通っただけでプロになる人はいないでしょう。カルチャーというのは、それを教養、趣味としてやり、楽しもうというところです。 つまり、目的と効果をどのレベルに求めるかということです。人前でやれるということを考えたら、1年、365日練習は不可欠です。毎日駅前で歌っている人もいるわけです。それに対して、どうオンしていくかということを考えなくてはいけません。 ○ヴォイストレーナーになれるか 研究所では今、研究生と声楽家と外国人からトレーナーをとっています。なかなか適任者はいません。ポップスを教えられる声楽家というなら、300人のうち298人はとれません。研究生からも、ここで6、7年くらいいる人たちに手伝ってもらっていますが、やはり同じくらいの比率です。 ヴォイストレーナーが養成できるのかというと、かなり難しいと思います。トレーナーになることなどは、あまり考えない方がよいと思います。 ポップスの場合は、発声や歌だけを教えても何の意味もないわけです。教えることが目的になったときに、それ以上のことが与えられるかということになると、かなり大変なことです。 私自身は、声楽をかじったあと、海外も含め、多くの現場に加えて、研究所でも多くの人の声や歌を聞いて判断し、基準をつくってきました。音楽プロダクションのほか、プロの劇団やアナウンサー、ナレーター、声優の指導も、数えきれぬほどやりました。何よりも、一日何時間も声を使う生活を強いられていますから、まさに私の声はそこで通じるものとして、選ばれてきたものであることには違いありません。 国内だけでなく、海外も含め、実際に多くの人と接し、そのプロセスや伸び方から多くのことを自分の耳と眼で判断する経験が必要でしょう。もちろん、声や表現、芸術についての勉強も。 しかし私自身は、いわゆるヴォイストレーナーのつもりはありません。だから、このことを語る資格もあるかは、疑問です。 Q.必ず身につくのですか 材料はたくさんあった方がよいということです。それを批判するのも、無視するのも自由です。ただ、材料があることで、はじめて批判したり、よりよい方法も生み出されるのです。そういうポジティブな土壌が、日本には必要と思って、叩き台としておいているつもりです。 私程度の本や声で多くの人が「気づかされた」と言ってくださるのが、日本の現状です。 私自身は、ポピュラーにおいては、世界のアーティストの声や歌をストレートに使うやり方をとるのが、唯一、正しいものと思っています。トレーニングに方法があるとすれば、アーティストのプロセスの疑似体験を重ねていくことにしかないと思います。 私自身のもつ声のレベルを最低限として、音声表現に必要な基礎としてもつこと、すると多くの才能がより高くはばたけると思っています。 私は、一流シンガーではありません。声も他の人の数倍のトレーニングをやって、ようやく世界の最低レベル、歌声のすばらしい外国人たちにも声としては認められるレベルになりました。 自分でやってきたこと、自分の体でつかんできたことしか、与えられないから、それ以外は、多くの人に手伝ってもらっています。(トレーニングは、ばくちではありません。必ず身につくものです。しかし、それは一握りのトップレベルの努力をした人のみなのです。多くの人は、頭で考えてやれなくなるから、こういう本も必要なのです) ここに集った才能ある人たちと過ごせたおかげで、さらにいろんなことがわかったことも確かです。この研究所で一番、育てられたのは、私かもしれません。だから、それを欲する人に、役立ててもらえばよいというスタンスでやっています。 私が一人で教えないのも、私の方法をトレーナーに強制しないのも、すべては自由だからです。 ただし、私は、音声については舞台でやれるレベル、プロのレベルで判断します。 本音で言うため、演出家などと同じく、認めなかった人や辛抱できない人に、よく思われないことも少なくなかったと思います。しかし、それは、ここを出て、それ以上のことを、自分の名でやればよいことです。 私も一人の人間であり、ここも一つの研究所にすぎないのです。一人の人間の大きな可能性が、方法などでやれるとかやれないとか左右されて、よいものではありません。 私がこうして生きたこと、やってきたことは、それを大して知らない人に、うんぬんされることでもないでしょう。 第一に、自分できちんとやるべきことをやらずに、他の人や他の人の経験をうまく使えることはありません。 第二に、有能な人とは、どこでも、誰からも学べる人のことです。それをきちんと認められる人です。 何事も肯定的にとらず、否定的に捉えるなら、どこの世界もやっていけないでしょう。 日本人には、そういう人、そうなる人が多いようで、ときにうんざりします。そうでない人が、そうでないことを貫けば、相当なレベルでやっていけると断言してもよいくらい、一つのことをやるための基本的な取り組みの考え方ができていないのです。現実に起きたこと、起こっていることから、どう学ぶかということこそ、私の一番、伝えたいことです。 だいたい、人にあれこれ言われたり、バッシングが恐けりゃ、何もやるなってことです。表現一つ、まともにできません。そんなことは、どうとでもなればよいでしょう。 あなたは、あなた自身で価値あるように、人生を創造し、そのために、ここやこの本が必要なら、役立ててください。 ここに通うことの誇りを、私や研究所に頼るのでなく、私が去り、または、研究所がなくなっても、学んでいるというあなたが自分自身にもって欲しいために、ここはあるのです。 Q.研究所の方法、方針を知りたい たとえば、私自身がやったことが、もっとも効率よく正しいのか、どうかといっても、他の人よりもたくさんやってきたのですから、比べようがないのです。二度、生きて、違うことを試せないのです。 ただ、私は誰よりも多くの人を、声でみてきました。研究所だけでなく、世界各国で、伸びる人、伸びない人をみて、その理由、改善法というのを経験としてもっています。 人に教えるときには、誰もが自分の直感でこれが自分のためになった、他の人のためになったということを伝えているわけです。だからこそ、こういうキャリアで培われた耳や声を多くの人は求めてくるのでしょう。 いろんなトレーナーを招いているのは、感覚や体づくりのために、方法は問わないし、学ぶにも相性があるからです。その時期によってトレーナーの方法に合う人もいるし、合わない人もいるからです。また、さまざまのトレーナーの方法を参考に、自分のトレーニング法をつくることこそが大切だからです。感覚や考え方づくりが、方法に優先します。 一流のプロが来たときに、対応できないくらいであれば、ここで教える立場もないわけです。そのため、研究所はそれ以上のレベルの人たちの声から、ストレートに学ぶという方法をとっています。 要は、私も含めて、大したことのやれない人が、これから伸びる可能性や無限にある人の能力を限定してはいけないということです。 ただ、トレーナーがもっているものを一番のベースにしたときに、何かやれる可能性が広がるというようにするのです。トレーナーというのは最低レベルで必要なことを与えるということです。鏡が歪んではいけません。トレーナーの歌を目標に目指してやるのは、トレーナーのファンをやりたいのでもなければ、大きな方向違いです。 ○トレーナーの条件 ということで、私の考えるトレーナーの条件は次の10です。 1.耳のよいこと |