4−1 精神的バックボーンを得ること 欠けているもの
1.テンション――スピード感、パワー、緊張感、衝撃
2.精神性――こだわり、ポリシー、威厳、思想、哲学
3.音の密度――表現、感覚、身体、バランス、調和、宇宙
タレント、漫才師並みのテンションもない。まして、精神性のかけらもない。
時間の感覚、気も波動もなく、いったい何が生まれるのだろう。
歌のうまい人、技術のある人などは、どこにもたくさんいる。
でも本物は自分の世界を持っている。己の生きざま、ポリシーを存在まるごとで伝えるからやっていける。
そういうことを伝えようとすると、それを補うがために必要に迫られて技術が身についていく。そしてそれは完結せず、放射する。永遠に、完全とはなりえない。
それは、与えるがために完結しない。技術ばかりがうまくなっても、精神が伴わなければそれは、やがて限界となる。
本物をめざすと言っていながら、芸術、文学、哲学、宗教、何も触られず語れぬものに、どんな世界が開けるのか。
歌も音楽も、ここのあり方、ありざまも疑うことだ。それを、他者としてでなく自分との関わりとして、古典、歴史、文化に学び、本物、一流に触れ、自分の体、歌、考え、生き方を生きざまとして歌や音楽、仕事、そして生活に活かして欲しい。
自分の世界とは、あなたの存在とそれが放つ光である。
自灯明。これまで、レッスン中にも、私は音とアーティスト精神を伝えてきたつもりだ。しかし、これは一流の歌や芸やそういう人の生きざまから直接、学ぶべきことである。
レッスンだけでは足らないので、私自身のプロデュースするBV座を、発足する。
歌であって歌で超えたものを問いたく、その精神的支えとして当講座をおく。特別講座と同じく、自主参加とする。これは私とともに学ぶために音の世界で先人、もしくは当代を生き切っている人の肉声を聴く。つまり、話をもとに、そのあとに自分で考えていくようにする。
4−2 舞台について
1.ステージ―舞台らしくなっているか、入り込めるか、抜け出せるか、さもなければ歌に洗脳されかねない。
2.主役意識―世界の中心にいる、ず太く繊細になろう。
3.華があること―照明に負けない。歌うと大きく見える。
4.ファンにする―この人といたい、もっと知りたいと思わせる。
5.完投する―最後まで演じ続ける。
歌は、孤独な作業である。人間としての顔を作らなくてはいけない。考え方や生き方が出てくる。
舞台は、きれい、かっこよいでなく、自分をみせにくるところだ。だから、もっと裸になれ。
何が起きてもただの舞台なのだ。そこで生きるということはどういうことか?
この世の中も舞台だろう。五〇年の一生に、戦争も犯罪も起こる、そこの断片を集めたのがステージであり、その断片が一つのまとまりとして、完結する。
6.自分―誰かの真似、振りしても不自然、不快。その人が自分を考え、自分の感覚を、生きていること。
7.研磨―おもしろいけど、汚れた原石のままでは輝かない。そこで、もっと汚れていく人と研ぎ澄まされていく人がいる。
8.化身―「お姫様は、できません。きついです。ぼくは男で二八歳の役しかできません」と言う役者はいない。人は、化けられる。
日本のヴォーカリストは歌や音楽に逃げ、ファンもそこへ逃げる。世の中には、そういうディズニーランドも必要だ。しかし、そこで生きることはできない。
そこで働いている人が現実だ。ぬいぐるみに入っている人が舞台に立っている。
ここの歌は現実でありたい。生きる力、気づいたり考えたりする力、創造する力になり、観客にそう働きかけるものでありたい。
4−3 本物・一流の条件を得るために
本物は、クリエイティブな人(一般の人も一所懸命生きているのは同じ)をクリエイティブに刺激するものだ。
1.動きは目線で伝え、呼吸で動かす。
2.ステージ、歌、ことばが始まるとき、その瞬間をつかみ、切り出せ。
3.いろんな歌があるし、いろいろな学び方がある。人の数だけ学び方がある。
4.人は自分の才能で生きるべきだ。やりたいことよりもやれることで生きる。
5.いろんなドラマを生じてきた。ただ、一人で参加しなくてはいけない。みんなでパーティをやるのでない。「おれに歌わせろ」と言う人であること。
6.いろいろな人がいるのはよいこと、いろいろな声、いろいろな考え方、いろいろな感じ方、どれも正しい。でも人に与えるなら研ぎ澄まされ洗練されていなくては、退屈しのぎに過ぎなくなる。
7.一番いいところ出す、どこを愛してもらっているのか、そこが出ていること。
8.才能。若き才能、天才に会えてきたが、才能はアピールすること。能力+α(天啓)。
9.ここを使い切れ。人の土俵でない、自分の立つところは自分の土俵とする。
10.北を歌うなら知床に行こう。体験でイマジネーションを補い、イマジネーションで体験を補う。
11.アマチュアが一〇〇時間かかってできないことが一瞬でできる。奇跡を起こす、起こし続けるのが、プロ。
12.主張したいことは何か。あなたのうしろに、世界のヴォーカリストがついている。
13.人間を求めている。間違ったとわかるのはいい人だけど、歌で何をやっているんだということ。
14.なぜもう一曲、聴きたいと思えないのか。途中までしか歌が持っていない。あるいは歌が始まっていない。聞こえてこない。
15.リアリティ―選曲も歌い方も歌にあらわれたあなたも現実ではなくてよいが、真実でなくてはいけない。
この世界の現実にまさる本質を抽象化、シンボル化していくから普遍化、一般化する。
16.オリジナル―オリジナルに近づく様は本人もみる方も、どんなにおかしな表現でも安心、心地よい。オリジナルは、その人もうかがいしれないその人の奥深くにあるものの抽出である。オリジナルから離れていくのは、どんなに受けがよくとも、つまらない。
4−4 無名戦士の墓
日本は日本でよかった。でも世界の中でやる時代、日本人が日本人でなくなっていく
それが嫌なら、アウトローとなるか中心になるか。
みんなここをアウトローと思っている。次代の中心は周辺、辺境から生まれる。
みんな、ここで大したことができないと思っている、思ってくる
でもたくさんの人がすごいことをやってきたところ。無名戦士の墓
4−5 迷いから抜けるために
1.年とともに道が開けるように、オンする
普通に生きていたら、上の人はパワーダウンし、いずれ死んでいくから、ひきあげられていくのが、人の世。つまり、世の中では道が開け、やりたいことができるようになるのがあたりまえのことで、何もすごいことではない。
しかも、これほど便利になり豊かになったのに、そのようにしてくれた先人に負けるなら情けない。
ただし、そのためには弛(たゆ)まなくつみ重ねることが必要だ。自分を磨いていなければ、後輩に超される。年(歳)を経るごとに押し下げられ閉ざされていく。
2.リピートオン
今の日本では、早くて二〇歳で生まれるようなものだから、二三歳で三年、二六歳で六年で、二三歳のときの二倍、三〇歳で一〇年、三倍となる。
その時間をキャリアにしていく。リピート・オン。あたりまえのことをあたりまえにリピートすることの上に、スタートができる。
一〇年プロをめざす。才能とは、オンしたもののこと。オンする力のこと。
3.プロとアマチュア
プロとは甲子園での優勝をめざす野球を一〇年続けるだけではだである。監督の言うとおりのプレーができても、プロにはなれない。〈こなす〉から〈つくる〉に。〈もらう〉から、〈与える〉にレベルが達しているかである。プロにも〈与え〉られるのが本物。
4.歌うことと教えること
日本では、教えられたものを受けうりでやっている人ばかりだから、よくない。そういうふうに、教えられるのもよくない。いつも知って、考え、そして、やること。「知って」では単に「知った」だけのものでしかない。使えない。
5.水商売
アーティスト=水商売、客の心をなぐさめ、元気にする。そういう料理一つに勝てるか。自己満足で「すぐれたことをしている」つもりなら、くそくらえ。相手にあわせないからってつぶされるくらいなら、それで必要ないくらいなら、いらないものでしかない。
6.〈やりたい〉と〈やる〉こと
〈やりたい〉が必要をおびてこないと〈やる〉必要なくなっていく。
〈やりたい〉が必要になるには、〈やらせたい〉という力が働くこと。
〈やる〉ことで〈やらせたい〉と思わせていく。
7.耳ごこちのよさ
なぜ、残らないのか、それはまだ、表現、存在、命でないから。
8.保証なし
収入は水とパンがない人には必要だ。どこにいても力つけないと苦しい。自分の力のみが社会との関わり方を変える。結婚しても、就職しても、歌はうまくなるわけはない。
9.破壊と創造
安定、安心ばかりを求めていては超えられない。何を作ってもプロであるのが、アーティスト。
10.生計と自立
好きなことで食えるか。食えることを、超えてやれるか。
食えないと好きなことできない。好きなことで食うのかは別。
11.時間が助ける
効率よく時間を使う。効率よく、うまく学ぶ環境を作る力こそが才能。
12.土俵をもつ
人間にはいろいろなタイプある、やり方がある。
しかし土俵にあがらないのは、タイプとかではない。人前に出て価値を与えるのが仕事であり、プロ。状況を現実として踏まえて、事を起こそうとするのが最低条件である。
13.群れる
年に一、二回、群れるのはつまらない。あそびである。早く飽きることだ。
力をつけないとまわりが迷惑する。だから開けないだけだ。
仲よく群れて、気のあう奴らといつもいる。語るのは何もできていない自わか他人のことばかり。ひどい場合は、ぐち、なぐさめあい、他人の助け待ち。五体健全の老寄り、太ったブタ。人のしていることの話題に生きるな。自分を語って生きよ。語れる自分になれ。
14.負けから入る
負けるということは、恥ではない。しっかりと負けることだ。負けるのは、きちんと勝負したからである。自分ですぐれようとしたからである。
多くの人は徹底して負けないから勝てない。つまり、土俵にあがらず勝負を挑まずに終わる。
負けを認めざるを得ぬ相手に出会うことこそが上達、そして幸福への入り口である、そういう存在に感謝せよ。
人は、負けてはじめて力を伸ばせる、頭を下げるから、頭が上がったときに違うものが見える。自分が自分より上のものに挑戦したら負ける。しかし挑んでいくから、力がつく。
15.時代と役割
今の日本は音声においては、まだ〈人材が出る〉より〈育てる〉段階。それも啓蒙の時期である。
16.敵と味方、チームメイトをライバルとしなくては力は伸びない
身内との和と外への排斥、未だそんなところで、日本人の音声表現における文化芸術は停滞のまま、それどころか最近は衰退しているかのようである。闘わずにして仲よくなれるか。
まず一人、自分を生きよ。力をつけてほほえむこと、人に求められ待たれる人になれ、知名度、話題でなく存在で示せ。それができたら、人と仲よくやりたまえ。そしたら、それが大切だ。
17.トレーニングはひたすら一人、自分の力を
ステージは、自分の役割を果たしつつ、まわりのサポート、協調を。
4−6 BV座について
この場だけが正しいのではないし、あなたが正しければあなたのいるところが正しい。
BV座から、二人のメンバーが引退した。一人は最初からアーティストの才があったし、もう一人はまじめさとひたむきさで取り組んで、声や技術をあるところまで得ていった。ところがレッスンの場に出なくなるにつれ、その表現は才能を欠くものとなり、声や技術だけに負うものとなった。私が先にBV座について書いたのも、彼らのためであった。BV座の終わるたびに言いたいことを伝えつくしたのちのことであるから、これは追悼文である。
この場に入るのも去るのも、本人の考え一つである。本人が選んで入り、本人が選んで去る。学び終えたもの、やりつくしたもの、もう学べなくなったものは、おのずと意味を失い去る。私は一切ひきとめない。だがやめるときや、やめたあとになって、この人はこんなにもわかっていなかったか、ステージにあげたのはかわいそうなことをしたと気づくことも度々あった。
私は学んできたし、学んでいる。しかし、この世の中、学ぶべきことが多すぎて手におえないし、先人たちがやってきた一〇〇分の一もできず、人前に立つことになっても赤面する思いである。もっと学びたい、というより学ばなければという恐れに、表現の闇の深さをみる。いつも学べているのだろうかと疑問に思い、全然学べていないことに愕然として、悔しがっている人生であった。いつだって思いのままには表現できないのだから。
そして、ここで学ぶことを人に教えることの難しさを何よりも学んでいる気がする。学んでいると思って信頼していた人(それはレッスンによく出ていることや気迫でわかる)が、結局、二〜三年のうちの一年そこそこしか学べていなかったのだということがわかる。もっと学べたなら、どんなにすごくなっていたのだろうと言っても、これは私にも当人にも、すべての結果として突きつけられることに過ぎない。
二年目に二倍、三年目には三倍学べと言っている。しかし、ほとんどの人は、少しできてくると他の人に比べて安心したり、うぬぼれたりして、井の中の蛙になる。世界に通じるヴォーカリストが日本から出ないのも、業界(プロデューサー、トレーナーも含め)やそれをめざす人たちが、他の世界からは考えられないほど志が低いからに過ぎない。
入ってきたときには一生歌っていくなどと気安く言って、一年くらいはがんばるけれど、気力も体力も自分へのプライドも、結局そこまでしか持ち合わせていないのである。私が言う気力、体力、プライドというのは、まわりの人に比べてちょっとできるからどうだといった次元の低いもののことではない。本物のアーティストとして恥ずかしくないレベルにまで絶対上がるのだという自分への信頼、それに見合う他人への謙虚さ、素直さのことである。
私がBV座へあげたために、そこでの役割が単に出るだけのことのようになってしまった何人かの愛する仲間の志を、今日はこういう形でみんなに伝えようと私は思う。
何かが育ち、できあがっていくには、さまざまなステップや役割があり、こう言う私もあなたたちも、多くの人のやってきたものの上に立ち、支えられてここにある。それを汲み取り受け継いでいくことも、この場とともに、いやこの場であろうとなかろうと、自らの中に価値を有するべき人であって欲しい――それがあなたの義務だと思うからだ。
この研究所にだけ価値をおき去りにし去るのは、いい加減にやめて欲しい。学ばせられているのは研究所だけで、あなたたちは自分では学べずに去って行こうというのか。研究所に価値をたくさん与えつつ(現に私もそうしている)、あなたたちもそれをたくさん持ち返って欲しい。ここはちっぽけな井戸だけれども、本人に力さえあれば、世界中のものがくみ出せる。そういう井戸であるように、微力ながらしてきたつもりだから。
4−7 BV座、一時中断
いったいどのくらいのことができているのか。
BV座をやめてL懇にし、さらに私は見にいくのも一度やめた。そのことを誰もわからないのか。ここまで言わせるのかという気持ちが今の私にはある。
伸び悩んでいる―と?。きみたち本人がどう思っているかはともかく、私から見て、全く伸びていない。伸びていないということは、きみたちもまた年齢をとっていくのだから、後退しているということだ。
私は半年前から、入ったばかりの人でもやっているアテンダンスシートを出すように、同じことを六回も言っている。それは研究所とのコミュニケーションには欠かせないものだ。だが、守っている人はわずかである。自らコミュニケーションを断ち、お山の大将になっている輩に言うことばもない。
「伸びない」のはあたりまえだろう。やるべきことさえ何もやっていないのだから。本当に学んでいるのなら、こんなことをこの私から言わせぬはずだ。
本人にとっては、つねに成るか成らぬかのこと、ゼロか一〇〇かのことである。それまでできることは、ともかく五〇パーセントの可能性をキープし続けることだ。それを自分でわざわざ〇パーセントにしておきながら、先のことに悩んだとて何になるだろう。やるべきことをやらずに、どうして伸びることができよう。
〈運がない〉のでなく、それをひきよせる力さえないということではないか。
力がつくということ、ついてきたということは、光り輝いてくるからわかる。だまっていても、その人の〈個性〉が強烈にアピールしてくるからわかる。すると自ずと道は開けていく。
一方、力もないくせに、この世界に長くいるというだけで出てくるおごりとうぬぼれが、せっかくの才能をも殺す。方向違いのステージになってしまうのも、自分を確認する作業を怠っているからだ。私が口を酸っぱくして言うのは、つねに理由あってのことである。その理由をくみ取れる人だけが、生き残っていけるだろう。
ところが実際はほど遠い。第一に、私が何を言っても、それを自分のこととはいっこうに思わない、できてもいない自分を棚に上げて、ただ一般論としてしか受けとめず、自分を変えようなどとは考えもしないらしい。
研究所では、力をつけるための最低限のこと、本当に最低限のことしか課していないのに、それさえもできないし、しようとさえしない。
毎回のアテンダンスシートや宿題をきみは出したか。そんなことで、自分が歌で生きていく証として、全精魂かけて取り組めたといえるのか。いえる人は、ここには数えるほどもいないだろう。今日やることをやらずして、どうして明日がくるといえるのだろう。
三年目には一年目の三倍、質も量も書いてくるということ――それが力、目に見える力になるまえの力である。そして忘れてならないことは、やっていく人にとってはそれがあたりまえのことだということである。アウトプットする力もやる気もなくて伸びるなら、私は誰はばかることなくきみたちを〈天才〉と呼ぼう。
友だちにお世辞を言われて調子よく舞い上がっても、きみに降りるところはない。私の話しているとき、いくらうなづいていても、その日から行動にうつそうとしない人間を認めるわけにいかない。信じもしないし、期待もしない。一年待ったが、このざまではないか。
三クラス以下の人に言う。きみらはきっと、彼ら以上のこともできないだろう。彼ら以上に無個性に、〈全体〉としてしか動いていないからである。だから、たった一人でよい、〈全体〉の中の一人であることから抜け出て、絶対的に一人の人間である自分として力強く学んでいく人を待ち望みたい。そのときにBV座は何らかの形で再開することになろう。それは誓ってよいことだ。奇跡を起こせぬBV座なんて、くそくらえではないか?
4−8 前期発表会を終えて
ライブにはなり切れなかったが、いろいろな意味でキラめくところのあった発表会であった。そのおかげで、一四〇曲聞いて、生還できてほっとしているというのが正直なところだ。
それにしても、客の反応はストレートで正直なものだ。たとえ客がここの研究所内の自分の出番を控えた人であっても。
よいステージだと、自然と一人の客になる。
今日、きみは何人の客を勝ち得たか。
それにしても、まだこの場に異和感を感じてのれない客の方が悪いとでも言いたげなステージやMCがみられた。条件は同じであり、音響面などで疑問なこともあったが、それに左右されないどころか、とっさに活かせた人もいた。だからこそ、〈ライブ〉であったろう。
出るだけで拍手がきて、音声や表現がどうであっても、都合よく反応してくれる場を求める人は、態度を改めた方がよい。そういう客では、自分が磨けない。
それに、そこまでには〈実績〉――日本ではTVに出て顔を売るという〈実績〉が必要である。仲間うちの仲よしライブか、ラジオ体操の指揮者でもして迎えられる日を待ちつづけるがよい。
〈ギブ〉するまえに〈テイク〉を求めるきみの出番など誰も待っていない。〈一般〉に通じるような力をつけようとしているはずなのに、力がつく以前からプロ気取りでいるのでは、MCでも伝わらないだろう。きっと、反応は冷たかったろう。このステージを甘くみないことだ。ここでは客はプロとしての歌、MC(という音声)を聞きたいのだから。
もちろん、それさえわからない人を除いては、あの場に立つとMCはそう簡単にできないことがわかる。余計なことを言わないのは賢明だ。しかし、事を起こす勇気をもとう。
ステージをする人が普段からMCの材料を集めておくのはあたりまえだろう。日本中のどこよりも真剣に聞いてくれる、ここの観客にため口聞く人は、真剣だからこそ、そう簡単には客はのらないものであることを学べる場があると考え、幸せだと思って欲しい。それがあなたを育ててくれる本当の客というものだ。
みんながプロの観客になりつつあるのはよいことだ。プロの客は、プロの歌い手を待つ。そうすればやがて日本にもよい歌い手が生まれる。日本もようやく大人の国になる。
同じ客でも、のせている人がいた。よいものは伝わり、人の心を動かし、一つにすることを改めて伝えた。そのステージに対しては、心から拍手を送りたい。
4−9 パワー不足では、発進できない
BV座を二週連続で見て、これまでになく失望した。それはたかだか二週間の間さえもたせられないということだ。仮に外でライブをやったとしても同じことだ。
歌とか声とかヴォイストレーニングとか以前に、人に何かを伝えようとする絶対的な意志やパワーがない。発声が完成しようと歌がうまくなろうと、これではどうしようもない。
これほどの声や歌う力がなくても、歌で人を楽しませ、感動させている人が世の中にはたくさんいる。いったい何のために、声や歌を学んでいるのだろうか。トレーニングを通じても、どうしてそのパワーが増大していかないのだろうか。そんなトレーニングとはいったい何なのだろう。人に伝える意志やそのために出てくる気力こそ、トレーニングをひっぱっていくものであるはずである。
真剣にスポーツをやっている人で、自分は参加しさえすればよいのだとか、ギリギリで勝てばよいのだとかと思っている人はいない。絶対的に強くありたい、徹底的に、完璧にありたい。できれば美しくパーフェクトに勝ちたいと思って、人は努力するのである。そうでない人が人前で何かをやったとしても、それで人々に心から賞賛されたり、感動を与えたりできようがない。
スポーツの話を持ち出したのは、ステージのでき不できのことを言いたいためではない。気づかぬうちに、ステージが、生ぬるいもたれあいの場となっていることを言いたいためである。歌に覚悟を決め、絶壁で歌って人の心を打っていた(少なくともその方向にあった)、以前のBV座が崩壊していると感じるからである。
歌や声は直せるが、芸のない芸人には語ることばはない。一般の人よりほんのちゃっと長くトレーニングし声が出れば、歌らしく持っていけるから、その場くらいはしのげるかもしれない。しかし、だからと言って、聞くものに心の伝わらない歌というのは何だろうか。
調子が悪いとか、今一つ、といった言い訳を、いったいいつまで続けるつもりなのか。そんなに人生は長くない。出たものだけが実力とされる世界だなどということを、なぜ今さら言わなくてはいけないのだろうか。
BV座については、運営方針を変えざるをえない。このままでは、オープン(公開)もあったものではない。創出する意志、気力、モティベートの欠如こそ、もっとも恐るべきことではないか。願わくば、謙虚に自省して欲しい。
4−10 三人ライブを終えて
ぼくは幸せにおもう。
幸せは幸せなりに、悲しいものだ。
人の思いが重なると、重くなる。
悲しいに嬉しいという字をあてても、やはり悲しい。
思い出と友だちは、もちすぎない方がよい。
五年でここまでやるつもりが、七年かかった。
あと三年で「日本」を変えるつもりが、五年はかかりそうだ。
ここの五〇人が、そうであれば、一〇年で「世界」を変えることができる、だろうに。 いったいみんな、何を見ているのだろう。
そこに幸せも思いもあり、人もいるのに思い出と友だちをもちすぎないように? 悲しみと喜びをもちすぎないように? 目を閉じて、たまにあけるのが人生のおいしい味わい方かもしれない。
目をかっと見開いて、生きるしかない者にとっては、何が大切なのだろう。
ロビーで会ったあなたは「小心者の海外一人旅」を読んでた。入り口の横にいたきみは、「人生が楽しくなるヒント」という本を抱えていた。ライブで会ったボクは、メモを離そうとしなかった。どうして?!
三人の勝手なヴォーカリストとよきピアニスト、よきスタッフと偉そうな観客たちに乾杯―!
七年越しの亡霊たちにも、花とワインの香を――。
※(アドバイザー三人のライブのこと)
4−11 格好ヨクて力がつくか
みなさんのライブは、すべてビデオで見せてもらっている。アテンダンスシートも読んでいる。
みなさんの個々の活動については、〈やっている〉という点での敬意は惜しまないが、正直に言ってみなさんが目にさえ入れていないアイドルや、目下修業中の他の分野の人の気力、やる気にも大いに負けている。まじめで真剣なのはよいが、比喩的な言い方をすれば、歌詞を見ながら人前に出るようになったらおしまいだ。
たかだか月に二〜三曲でさえ負担に感じる。小さなチャンスがあっても出ようとしない。それでいったい、いつやると言うのだろうか。今やらないでいつかやれると思っているのだろうか――
「力がつくまで出ない」などという〈幻想めいた〉戯言を、ふと口にするのにはいかにも〈格好ヨク〉言っているのかも知れない。しかし、この〈格好ヨイ〉ことは永遠に、本当に〈格好ヨク〉はなれない道なのだということに気づくべきではないのか。〈格好ヨイ〉か〈格好ワルイ〉かを基準に考えていて、それで力などつくはずがないではないか。
積極的に世の中に向けての、真剣でありあまったパワーだけが、あなた自身の中に力をひき込むのである。〈格好のよしあし〉を考えているかぎり、力などつきはしない。
力は、自らもぎとってつけていくものである。それぞれの生き方の中で、いつとは知れず身についていくものだ。どこからか、自然に身についてくれるものなどではない。
そう思うのも、人間らしくて微笑ましくないわけではない。アマチュアらしいチャレンジ精神は失わないでいて欲しいけれども、プロフェッショナルを目指すなら、せめて生きざまはプロであって欲しいと思う。格好のよしあしは、生きざまのいちばん通俗的な基準にすぎない。
4−12 何を問うているか
もっと問わなければならないものがあるはずである。こだわること、徹底的に追求すること――今について、自分について、歌について。
そこからしか本当の道は始まらない。それはあたりまえのことだ。だがあたりまえのことをやろうとさえしない人間が多すぎるから、あたりまえのことをあたりまえにやることができたら、だまっていても世の中へ出ていける。自分がやってさえいれば、誰もが背中を押してくれる。味方が現われるときには、現われるのであって、現われようが現われまいが、やるべきことをやる。
仲間がいないなどと格好つけて言うが、本当の味方がいないのは、力をつけていないからにすぎない。
仲間がいるなどと言うが、甘ったれた、もっともらしく仲間顔をした人と組んで、何ができると言うのか。本気と覚悟のないところに、何もできやしない。
自己満足するためにだけライブをやっては発散していても、いつまでも、本当の力などつかない。何のためにもならないそんなことを、年に数回やるためにだけ、この研究所にきている(きていた)のか。より高い目標のためのプロセスなら、ここでまず、通じるようになってみろと言いたい。
歌っていて幸せかい?
楽しいかい?
自分が好きになれるかい?
生まれてきてよかったといえるかい?
それがすべてであって、また同時に何でもないものである。
地上での生との優雅な戯れ……。最高の真実を、魂を、そこに求めて欲しい。そうすれば、だまっていても歌は本物になる。人の心を打つものになる。みんなが味方になる。
世の中にはマイクももたず、声も出さず、歌っている人がたくさんいる。
そういう人たちのまえで、本当の歌を本当にあなたは歌えるかい?
最高の真実を、歌の魂を、そこに求めることだ。
4−13 関西集中レッスン発表会ライブ評
60秒の想い……まじめ、ひたむきさの強さにありがとう。
研究所のライブでよかったのは、1年半前、プレBV座のベストメンバーでやったとき以来だ。毎月、プレBV座やL懇でちらほらよいものは出ているが、いくつか出てくると、やはりその効果は倍増するのだろう。私が頭が下がったのは、2年前のピアフ演じる美輪明宏氏の舞台以来である。おもしろかった、感動した、うらやましく思ったと、皆、同じだったようだ。
最近では理屈が多くなっている。やっていないがための逃げ口上ばかり、講師は「そんなこと、これしかやっていないのにできるわけない」「やらなくてできたら奇跡だ」「やっていないからできないだけだろう」と言いたいのを押さえている。自分の鈍さ、やっていないことを先生のせいやレッスンの進め方のせいにする頭でっかちの人たち、できないあなたたちが足らないのに、それを「足らなくて何が悪いんです、どうかしてくれるのが先生でしょう、もっとやり方を考えてください」などと言いたげに、自分のトレーニング態度を省みることもない人までいる。困ったものだ。
私自身は決して、接したり教えてくれた人にこういうスタンスで対したことはなかった。それだけに、その頃からまわりに才能、環境に恵まれつつも、長くやるほどに頭がでかくなり、体で支えられず、いつまでも本当の意味で上達していかないのが、こういう人たちばかりだったことを知っている。今、考えると、よい反面教師だった。
だから、注意しているのに、その耳をもたないからお手上げだ。(本来、こういうところには、自ら学ばない人は来ていけないのだ。自分の鈍さをたなにあげ、対応できないからやり方をうんぬんいうのだろうが、そのまえに対応できない自分を省みることだろう。特に、1年そこそこもいると、わけのわからない後輩などが入ってくるせいか、したり顔してこのように考え方が変わっていくのは、おどろくほどだ。)
そういうのを何度もみて、そういう人たちは正しく道を進めず、一人よがりの歌い手や表現者に堕ちていった。この国では、若くして成功したプロでも、自己満足のうちに、かつての知名度にのみ支えられ、客商売に堕したステージとなるのをみたら、わかるだろう。日本は、環境が甘いから、才能のある人ほど不まじめになりやすい。
その傾向は、今回の舞台でもはっきりとみえる。主役をとれたはずなのに、脇役にまわった人たち、君たちはどう歌っても一般の人とやるくらいのステージではもつ。だからといって、それで終わっては、もったいない人たちなんだよ。盛り上げてはくれたが、勘違いせず、自省をお願いしたい。
そういう人は、いろんなバックグラウンドやフレーズ処理、器用さもみえたが、どこかしら形が浮いていた。それに対し、まじめさ、ひたむきさ、―本気―それの伝わるステージは最強であるということを、改めて感じた。
これは、年齢やキャリアと、さほど関係ない。
だからヴォーカリストは、10代でもデビューできるのだ。
自分の近くで、自分ができない、自分よりやっていると、感じさせる人、年月や技術などではなく、その人の創り出す作品を通して熱い想いが伝わってくるのに触れられるのは、大きな喜びである。
「こんなにやっている奴がいる」
「いったい、これを出すのにこいつはどれだけやったんだ」
「ここに入って、一日も休まなかったんだろうな」と、こんなにシンプル、こんなにストレートに、こんなにたくさんのことを伝えられるのだ。
これまで何度も確信してきたことが、普段のレッスン上で実行されると、やはり目からウロコ、心にグッときて、胸にこみあげるものがある。
たった60秒のワンチャンスを最大に活かしたその力、テンション、普段の心構えに、その努力に、私は素直に頭を下げたい。
もっともっと聞きたかったし、抱きしめたかったよ。
今日、勝ちえたものは、すべてあなたのものなのだ。
もちろん、君らを育ててくれた講師陣にも、まわりのレッスン生にまでお礼を言いたい。
このように、本物の歌や音楽は、たとえ片鱗が示されるだけであっても、へそまがりでどうしようもない私の心まで満たし、素直に、そして、こんなにも元気一杯にしてくれる。ありがとう。
でも、これから始まるんだよ。そこまでは誰もがいった。しかし、その気持ちをもちつづけていくこと、それがこれまでの何倍も大変なことなんだ。
これまでも、何度もこういう熱い思いを抱かされた。そして、何度も、こういう人たちが変わってしまうのに裏切られた思いで幻滅させられてきた。
でもやはり、またこうして、改めて夢をみさせてくれる。人の力とは、偉大なものだ。このひたむきさ、まじめさが、ずっと続きますように―より厳しく気高い世界をめざして、と祈らずにはおられない。
研究所は、私の身体のようなものだったから、昔、私が自分の身体が声や音楽を自由にできず、一つひとつ直していったように、ここもすべて高めていこうとしていた。今は善悪もなく、なまけものも同居させられるくらい、余裕も生まれ、人間のよいところだけでなく悪いところも抱え込むようになり、そしてますます動きは鈍くなった。しかし人は、自分が望み、そしてやったところにいるのだから、それはそれでよい。でも、そこにわずか一つかみでもしっかりとやっている人たちが、ここの心臓として動いている以上、私は安心もしている。共に人生を楽しみ、輝かそうではないか。欠けがえのない自分の命なのだから。
4−14 アーティストの集まる場への回帰を
歌うのでなく、自分をみせる、みている人をくどくのだから、それなのにどうしていつも建て前ばかりなのか。みせてくどくのでなく、聞かせてくどく。
学び続けられないなら卒業だ。仮に一時は学んだとしても、それはいつまでも通用しない。学び続けられる人だけが第一線に立つ資格がある。仕事も表現も、受け身は許されない。ここでは歌っているとか歌っていないとか、先生だとか生徒だとか、そんな区別はない。生徒より学べていない人を蔑称して先生ということもある。肩書きなど。言葉は気をつけて使おう。
少々、技術が身につくと、そこへ逃げ込んで、まっさらな裸の自分で無心にぶつかれなくなる。おごりのみえる歌は、腐ったおやつだ。
皆、他人のせいにしているうちは、音が合わない。音のなかにいる努力―。そして、音をつくり出す努力。人間一人の大きさ、使っていない脳の大きさ、人間一人の可能性、何も感じられなくなる人ばかりでは困る。
4−15 今日のあなたのことばがあなたを決める
自分を語り、自分を伝えよ
自分で聴き、自分で発せよ
自分の夢や未来に向かい、音楽の行く手を想像せよ
あなたの口から今日出ることばが生涯のあなたのことば、生涯を決める。そのことを知りたまえ。
今は、一秒生きる時間の感覚が、生涯のあなたの時間の使い方と同じになる。
私から学べるものは、歌であり声である。日本人を超えた楽器としての体であり、感覚である。世界に通用する耳であり、音の創出力である。私の他の表現――文章、ことば、洞察力、判断力、企画力、人脈はすべてそれに付随したものである。神の与えた音の残響のようなものであるから全く深さが違う。
私は自分の体の中から、神がくれて自分がともに磨いた楽器で声をとり出し、発する。それが私に世界を解釈させ人間を理解させ、自分の行為をときに厳しく糾弾する。
声が出ても歌がうまくてもそれではやっていけないし、やっていくならそんなものは大して必要ない。自分を知ることは永遠の謎だが、自分の才能は自分を知るきっかけになる。しかし、多くの人は器用に人より早くできることを才能と思う。歌い手は、人より一〇〇倍時間がかかっても、わずかでもすぐれたものとして歌えたらよい。そのわずかのために、何百倍も時間をかけられることが才能だ。才能がなくて、誰がたかだか声や歌に何百倍も時間と精力をかけられるものか。
表現にならないのは、表現になっている人よりもそれが足らないというのが、九九パーセントの答えである。できないのは、努力が足らないというのが真実、それを音で出会うのが音楽であろう。声や音に出会いにきた人が、そのドアも開けずに帰っていくのはさみしい。どうやらいつの世も、重いドアを開けるのは、選ばれた人たちだけらしい。
誰が選ぶ?
自分だ!
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