5−1 〈自由〉、〈平等〉の嘘 「失楽園」の主人公の行動の是非が、論議をよんでいる。氏の言う通り、小説は不倫の是非を問うものでなく人間の本性をとり出すものであり、そこにテーマをとり出し、今の社会現象を分析したがるのは読み手の勝手だが、それは氏の作品の価値、まして氏の思想、行動とは全く関係ない。
この作品についてそういう踏み込み方をするのは、表現の自由を抑え込む権力と同じ体質を持っているからだが、それを当の言論人がやるこのおかしさは、言論の不在を告げている。それゆえ、そこへ新しい思想などぶつけようもあるまい。
週刊誌の連載を持ち、〈アナ〉をあけられない書き手と、話題になっているものにとびつく読者、その読者に売らねばならない出版社の〈媚び〉という癒着構造がある。今や、書き手をはじめとした表現すべき立場の人が読者の共感を得ようとして媚びる醜態は、やや限度を超えつつある。
だいたい世の中が平等であるわけがない。福澤諭吉の説いた〈天は人の上に…〉は、生まれつきの身分によって生涯が決まるのでなく、学ぶことで立身出世ができるということだった。それで学歴社会のもとになった。たくさん、学んだ奴が偉くなる。年齢とともに学んで、出世もしていける。その時代、日本は学歴が必要で、荒っぽい言い方をすれば、だから植民地にもならなかった。今の時代は求められるものが違ってきたというだけのことで、相変わらずいつの世もどこの世も実力社会であることには変わりはない。
それにもかかわらず、〈自由〉だの〈平等〉だのと、みんなでエセ弱者の権利を振り回すから、わけのわからないことをやり出す人が出てくるのだろう。名前や肩書きや施設や人のうわさしか、頼りにできない。強者がいないと弱者も守られないのである。もうちょっと自分の眼でものを見て、本質で判断できないものだろうか。歌に命をかけていたら、そのくらいできるだろうに。
自分の命とひきかえなら、だれだって必死にものを観よう、捜そうとするにきまっている。そんなことをしないのは、心が傷つくからなのか、お腹がすくからなのか、他に楽しいことがあるからなのか、ともかく見ようとしない。その結果、見ることができない。だから、いつまでも変わらない。
自分が大切、自分もないのに自分、自分、……である。それならいっそ、一生そのままでいたらどうだろうか。本当は、表現できる自分が欲しいんじゃないのか。
表現できるのか、今? と問えば、返ってくる返事はきまって「しています」「自分なりに」である。「自分なりに」? その程度なら、人は誰だって生まれたときから表現している。どんな仕事をやっている人でも、家事をやっている人でも、表現している。まず、社会で認められている一つの仕事を一人の人のまえでしっかりとやることを考えよう。一人でそれ以上のことはできないのに、それ以上にやろうとして冒険をしているのがアーティストである。きみが歌うとする、仮に三万人の前で二時間歌うために立ったとしよう。〈平等〉を口にしたければ、きみは次に三万人それぞれの歌を二時間ずつ聴かなくてはいけない。一日一人聴いて三万日、それだけで八二年かかる。最後になる人は、八二年後になってやっと聞いてもらえるわけだ。
今の時代、三万人を集めるコンサートを開こうとすれば、大型トラック五〇台、スピーカー三〇〇台、照明機材五千台である。ハイテク日本の音と光と総合マジック、演出ショー。それはまるで映画の製作と同じで、その才能に脚光を浴びるべきはプロデューサーである。そこで歌のへたな奴が歌を歌うからって言って、誰一人、文句を言わないじゃないか。不平等だとはいわない。
日本人もいい加減、入場数、投資額、売り上げ利益でよしあしをみるのは、やめるべきだろう。アメリカ流のやり方の悪いところばかり模倣して、質を伴わぬままCDやカラオケをアジアにまき散らしているのが、日本である。一つのコンサートで台湾の全家庭の四年分の電気量を使ったからと言って、それは自慢すべきことではない。アーティストはともかく、その取り巻き(マスコミも含めて)のこの態たらくは、あきれる。
こんな不平等はないはずだろう。長年、技を磨いているアーティストたちに見向きもせず、ミスコンやらグラビアのモデルみたいなものに歌を歌わせる…でも、そんな連中にも勝てないのが今の日本のヴォーカルである。結局、何もやりもしないで文句を言っている奴よりやっている奴が勝ちである。
そこで考えたいのは勝ち方である。
日本人は、〈昔は〉偉かった人たちが作った世界で評価されるのが好きである。争いごとを起こしたくないのである。借り物の〈平和〉な世の中の〈文化〉〈芸術〉なら、どこかのお寺の庭でもあれば、それでこと足りるということかも知れない。
しかしきみらは本当に歌を欲しているのか? 歌うことを欲しているの?
5−2 プラス志向の嘘
ここで歌を選んで、しかし本当の意味で歌える人は一〇年に一人育てばよいなどと私が言うと、「それは考え次第ではないか、みんなが育とうと思えばそうはならない」などと応じてくる。〈プラス志向〉とやらいう受け売りの思い込みほど恐しいものはない。誰もかれもがみんなアーティストになったら、誰が聴くんだ。
もちろんスポーツと違って順番はない。王や長嶋がいたから活躍できなかった選手とか、ベンチ入りも予選落ちもこの世界にはない。スポーツには肉体的な制約があり、死期を早めることで偉大さと美しさとドラマを記録していくが、アーティストの世界ではさらに優れたもののみがアーティストと呼ばれる。アーティストでもないのに何かを作れば〈アーティスト〉として通用するなんて、実は大ウソだ。
一時間働けばステーキが食えるほど史上稀有な金持ちの世界、ある種の国から見れば貴族以上の生活をしていながら「会費が高い」、「ぼくはビンボーだ」などと言う。貧しいのは財布ではなく心だ。でなければ思想、あるいはその〈顔〉であろう。
研究所に来る人は、才能はある。一般の人たちと比べて、少し多い目くらいにはある。しかし、磨かなければ発揮できない。その覚悟と努力が足らない。
役者なんて、普通の生活者に比べたら〈バカ〉の集まりのように見えるけれど、しかし人生に賭けているからこそ輝く。美男美女などであるよりも、賭けてきた年月がその〈顔〉を作る。あるいは〈バカ〉だからできることかも知れない。それを、うらやましく思う。
自分の愚かさを愛そう。愚かだということ、〈バカ〉だということは、むしろ尊いことだ。人間、欠点だらけだからこそ、それを超えて成し得たものに、人は感動できる。
頭がよいと、出身とか経歴、所属、そして他人まで利用し、利用されてしまう。利用されているだけなのに、芸が本物でもないのに本質を見ることができないから、平気でアーティストを気取ったりする。ちょっとでも目の澄んだ人がみたら、まるで裸同然なのに。
そう思って考えれば、日本のごく一握りのアーティストたちは、見向きもされないことで、逆にいちばん大切なものを守ることができているのかも知れない。
しかしきみらはそうではない、できないのは、なすべき努力が足らない、見るべきものを見ない、必要なものを補わないからだ。本当に新しいもの、本当におもしろいもの、そして本物をこそ見よ。
5−3 ビジネスと音楽について 歌は個人事業か?
歌はビジネスでないのだろうか、を考えるヒント。
1.ビジネス=実益(歌の実益も同じ)価値を生じさせること。
2.プロ=ビジネス(=個人、事業家)。たとえばプロ野球選手は、個人事業家、ホステスも事業主である。
3.理想は、現実の延長上にある。
4.必要な人がいて、待っていることに対応することが価値を生み出す。価値は他人が決める。
5.求められている価値に対し価格がつく(求められてもいないことは趣味)。工業産品は原価から価値づけるが、芸は相手のニーズから評価される(もちろん、興行経費などもかかる)。
6.相手の望み通り、どんな注文でも歌うことは、悪い意味で消費活動であり、悪しき意味では、サラリーマン的、作家でなく売文家。
7.自分ではなくともよいところでやっていくのは、代用がきく意味でアーティストでない。ポリシーがなく使うのに便利ということで、雇われるならまさに悪いビジネスとなる。
8.本業でなくやるなら、街頭でお金をとらず歌うところからやり、生計は別の仕事で立てることだろう。
9.人の力、人の店を頼っていくことも同じである。頼るだけでなく、相手に稼げる価値を生じさせてあげなくてはいけない。
ちなみに研究所は相手に頼っていないし、自立している。どこの干渉も受けないで自由にやっていくためである。その精神が金銭より優先する。
10.プロのミュージシャンにとっては、結果として歌がビジネスである。結果として、ビジネスになっていると言うなら研究所も同じである。ただし私自身は、今は歌でも研究所からも金銭を得ずにいる。
11.研究所は、あえてビジネスにしようとは思わない。求められる価値を、人にその対価として与えられる本当のビジネスでありたい。仕事(ビジネス)とは、まわりの人に迷惑をかけず感謝されることによってしか広まらない。
12.ビジネス=悪の構図と考える輩もいるが、幼稚である。それは、理想とかそれに反するとかいうものでなく思想でもなく、ただの甘えである。つきつめられていないままの逃げの口実である。絶対(理想)を求め、現実に甘んじているのでなく、現実の中で、できるだけのことをやって理想を求めていくことだ。
13.考え方によって、人は後進に負ける。ものごとができあがってくる様を長くみること。最初はみんな、ゼロである。人に影響を与えることにおいて、続けることで人が育つこと、自分が育つことである。可能性をつかむまで続かないで投げ出すなら、それは社会にとってよいことではない。
そのため多くの企業は存続し続ける努力をする。研究所は、活動をいろんな人に好意的に支持してもらい成立している。問題は、どうきちんと価値を与えるかで問われるのである。
14.ヴォーカリストは自由人であるべきだ。自由人とはどこに属しているかでなく精神のもち方であり、どこかに属していることが価値を決めるようなものでない。何もやらないこと、やれないことを自由とはいわない。
5−4 いまだ欧米もどきの日本の歌 ヴォーカリストはなぜ育たないか
日本の歌を、なぜ欧米もどきにしなくてはいけないのか、私にはわかりません。今もってトレーニングがすべて欧米の教材というのもおかしなことです。なぜ日本人はものまねしかできないのでしょう。
それは言うまでもなく、そういう技術をまねれば少ない時間で効率よく身につくと考えていたからです。工業や商業(品物は早くでき、らくに儲かる)ならばともかく、文化については、これは危険と言うより効果の出ない道です。本物のまえでは通用しない、まがいもの作りの道を選ぶことになります。同じ人生の中でなそうとするのなら、なぜ本物をめざさないのでしょう。
同じ一生をかけて同じ人間にできないはずはありません。ヴォーカルはじめ音楽界の層、そしてムーヴメントが必要なのです。何ごとも自分の内面の成熟、体の成長を待つ必要があります。世界に冠たるヴォーカリストが出ないのも同じです。プロデューサーやトレーナーの未熟さからもきているのです。
これはヴォーカリストだけではなく、役者を含め、声を使って表現しようとするあらゆるプロの問題です。ところが、研究もプロジェクトも何もなされていない。スタンダードさえない。お寒い限りの現状なのです。
巷には、すぐにでもプロになれると称するスクールやヴォイス・トレーナーなどという〈商売〉ばかりで、今の業界では無理なのですが、もっと悪いのは、それをめざす人たちの志のなさです。
ヴォーカリストになるのに必要なメディアとファンの育成、獲得――本当に力のあるヴォーカリストだけでなく、本当に力のある人の歌を聞こうというお客作りをしているのは、日本でこの研究所の活動だけということかも知れません。
なのに、勝手が身上のヴォーカリストはそのことがわからず、一方では食えないヴォイストレーナーが私の本で〈営業〉しているという、このどうしようもなさです。本で伝えたいのは技術でなく、精神なのです。
日本人の生き方、そして音への感性を育てなくては、根本的な問題は何も解決しません。この国では、歌は消費されるだけです。その歌は、聴く人の生きる力とならないのです。なら、歌う意味もないでしょうに。人に強く生きる力を与える歌が必要です。
5−5 偉大―しか能のない奴―を学ぶ
1.日本人の声を超える オリジナルの声
2.日本人の感覚を 超える 音の世界
3.日本人の歌を超える オリジナルのフレーズ
1、2は、学べる可能性がある。3は1、2の条件の上に築けばよい。歌、いや自分の世界を学び、築くことの方が大切だ。研究所は1を学ぶために2を、2を学ぶために3を学ぶところだ。
3は時代、国、ステージに問うこと、メディア、対象、求められるものによってあまりに複雑で、簡単には言えない、やるだけだ、生きるだけだ。結局、自分が自分であるところに歌い手の体と声と音で表現する音楽があれば、どこで何をしていても歌い手なのだろう。
自分のしたいように生きるという傲慢さが、すぐれたものを本質で捉えず、おとしめ、自分にも、すぐにできると思わせることになる(このこと自体はよいことだが、それを得るために必要な時間と精力と代償も同時に引き受けなければならないという常識を知らない)。
人に与え続けなくては成り立たない世の中で、人から取ろう取ろうとして、取れなければ文句を言う。そのいやしさがあなたの舞台、歌、ことば、すべてを凡たるものに終わらしていることに気づかないのだろうか。
走るしか能のない奴、バスケットしか能のない奴、歌うしか能のない奴の顔を見てみろ。どんなに輝いていることか、後光がさしているではないか。
それしか能のない奴、しかしそのことでは、他に負けない絶対を獲得している。一流、本物はすべてを観ている。だから、一つのことに専心し、一つのことからすべてがつかめる。
「偉大なアーティスト」といわれる〈偉大〉って何だ。なぜ、そこから人間の可能性の無限さを学ばないのか。やっている奴は、やっていることの中では、高貴でパワフルで崇高で威厳があって魅力的だ。
あなたはそういう練習をしているのか。そんなものが金で買えるのか?
それは、真剣に対峙した時間でしか、手に入らない。そうではない人生の時間は奪われていくものだ。
でも私は人生を、時間を作り出しているつもりだ。作り出すために学び、練習してきたからであり、作り出すために学び練習しているからである。きみらと同じではないのか。違うのはその時間、音に出会ってからの時間の長さ、そして密度だけだ。
5−6 Be
Artist――歌と作品の間
日本人の歌い手の最大の不利な点は、観客の不在である。観客は批評家であり、そのレベルが高くならなければ、歌い手のレベルも上がらない。スポーツなどでは、ある条件のもと、天才が表われ、その水準を一気にあげる。これは音楽の中でもしばしば行なわれることである。
しかるにこの国では、その音楽が一般の人に入っていないのだから、歌い手は音声の世界のまえに芝居、構成、舞台演、はては踊りやルックス、スタイル、ファッションまでに精力を使わなくてはいけない。それは音声の表現の中でも、まかり通っている。
観客にこび、やたら高く出し、飾りや小手先の技術を披露することを強いられる(基礎のない若手漫才師が高い声のトーンで走って出てくるのと同じである)。批評をするより実践せよといわれそうだが、これはおかど違いである。
未開の地にポラロイドカメラを持っていけば、あなたもヒーローになれるだろう。しかしそれはあなたの作品の力でなく、日本のメーカーの力だ。だから、根付くことはあるまい。すぐに飽きられ、余興にもならなくなる。
ポラロイドカメラでとりっぱなしで人に配っているレベルで、自分のとった写真がなんたるかも見ず、作品の質もかわらず、何を実践しているつもりなのだろう。ややもすると、今の歌も同じことだ。
イマジネーションのかけらもない人の頭には、歌と言うと三分間、一オクターブ半にわたり、ことばをメロディにつけ、伴奏をお決まりのギター、ベース、ドラム、キーボードでマイクをつけたもの以外に思い浮かばないらしい。
それしかみず、そう考えてしまった人に、観客は洗脳されていく。
だから、頑強なまでに私もそういう形で楽しむことを拒まざるをえなくなる。
いっそ、ゼロから作ったらどうか。私がいつも歌っていることが、どうしてわからないのだろう。ここでは、基準はつけても価値観は押しつけていない。でも、すぐれているかどうかは一目、一聴瞭然だ。
あとは場に応じ、目的に応じ、お客に応じ、自由に変化するものである。その瞬間を切りとったのが、歌という作品だ。
その動きの基本を学ぶのがフレーズである。つまり、トレーニングでやるべきことは、歌い手の作品のもつべき、見えない感覚に踏み込み、それを拡大して取り出すことだ。そこで、そういうことの見えない初心者には、読み込むだけで拡大する必要のないカンツォーネの女王、ミルバなどを与える。これがわかるのに、早い人で二年はかかる。
ヴォーカリストのトレーニングなら、作詞作曲も、わざわざ作らなくともそこでやればよい。スタンダードがあれば充分である。たくさん詩や曲を書けば、何かになっているわけではない。
人生など、生涯一作品で充分すぎておつりがくる。それができたら、多作すればよい。もちろん、作ることとできることは違う。たくさん作らないと、一つもできない。だからたくさん作ってみるだけで、そのうちのほとんどは誰も残さない。残る価値がない。そういうものを、自分だけに抱えて満腹になっているのを、ど素人と言う。
いくら、本やビデオを吸収し栄養にしても、どんなに感動し感激しても、それを他に働きかけることに活かせなくては仕方がない。だから、人のものを読むひまがあれば書くべきだし、聴くひまがあれば話すべきだ。アーティストは、常に飢餓に悩まされ、ハングリーである。
それを伝えることだ。それが伝わらないから考え、さらにいろいろなものから吸収していくことになる。本質が見抜けなければ、やがて動けなくなる。
たとえ力がなく、能力、才能がなくとも、ないものを精一杯出して人のために使っている人よりも、才能も実力もあるのにそういう人を認めず、そういう人のやっている活動もできていない己を恥じぬ傲慢さをプライドと思う人が多いのが、この日本という国だ。自分のことに専念しかしていない人は、誰にも認められまい。自ら、さらされ、そこで開き直り、自分の作品の世界に人を巻き込んでいくのが、アーティスト精神だ。そうでないから、人生も開けず、何事も思うようにいかない。そこでは人にどう働きかけ、どう伝えているかがすべてである。
勉学やトレーニングに励むものは、そのためであることを忘れてはならぬ。そのことは将来、力をつけ、より大きく人に働きかけられるために許された猶予期間なのである。そこに人はあなたを待っているのであり、一日も欠かさず、少しでも早くその力をつけなくてはいけないのである。
それを忘れたとき、あなたは結果として、誰に、ではなく自分に負けるのである。今でもできることがたくさんあるはずなのに、それを先に伸ばしてまで、一所懸命やる理由は、唯一、満を待して機を待つためだけである。より大きく事を成すためである。
5−7 サッカーボール一つ 歌一つ
昨日の夜、テレビを見ていて、セルジオ越谷さんがユーゴのほうを回っていました。私も内戦の前に回りましたので、内戦で、こんなにひどく壊されたのかと悲しく思いました。彼にしても何かを言うごとに、日本のサッカー界の人たちに、相当なバッシングを受けて、追放されるくらいの身になっていますが、でも、結局、本当にサッカーのことを思えば、「選手ががんばっているのだからそんな冷たいことを言うな」という考え方は間違いです。言わなければ、言わないで済むようなことを、わざわざ言うということは、いかにそのことに対して、真剣に取り組んでいるかということなのです。
結局、日本という社会は、昔から批判や客観的な評価が成り立たない社会です。ですから、言われたほうも気分が悪く、「ありがとう」とは言えません。だから、皆、言わなくなるのです。
研究所のあるべきコミュニケーションも、最近は期待していません。そこで将来や音楽のことが熱く語られているでしょうか。昔は、まだそういう人たちがいました。ここ2、3年ではそんな話を聞きません。先生の機嫌がどうだの、もう辞めるかどうかだの、ここに何年いるだの、そんな弱虫のいじけた話ばかりでしょう。
上達しないというのは、歌や声以前に表現して生きていくということを選んでいない人、表現はしたいと思ってもそれを学ばない人だからです。表現するということは、大変なことです。そこのスタンスを正すことです。“今日、口から出たあなたのことばがあなたの将来を決める”のです。
昔、ワールドカップなどに出た選手が、内戦で子供たちが希望を失って、暗くなってはいけないということでサッカーを教え始めて、その輪が随分広がったそうです。自分の年棒も使って、教室などを展開している。その人はサッカーしかできない、でも、サッカーでそういうことができる。ものすごく、すばらしいことです。
もっとすばらしいのは、プロの選手生活以上に充実していると彼が言ったことです。たぶん、選手の生活なんていうのは、10年くらいでしょう。でも、その後、人生は30年、50年と生きるのです。思い出で生きるのには人生は長すぎます。世間は、引退を終幕と捉えるのですが、サッカーボール一つを中心にして考えてみたら、そんな狭いものではありません。どっちが大きなスポーツをしているのか、どっちがすごいことができているのかといったら、桁はずれに、彼の今やっていることでしょう。彼は、内戦の最中に誰もできなかったことをサッカーボール一つでやっているのです。それに打ち込んでいたがために生かす道を見つけていったことのすばらしさでしょう。
もう1箇所セルジオさんが回っていたのが、難民キャンプです。ボール一つ、後は、棒を二つ立てたところで、サッカーをやります。そのなかで彼が一緒にプレーするところを見て「サッカーもうまくなるとよいものだな」とうらやましく思いました。「ボール一つで、どこでも溶け込め、すぐに友達になれて、心を共有できて、だから、すごい」と言うのです。サッカーは、ボール一つと、ゴールさえあれば、誰でもできるゲームです。
しかし、考えてみたら、歌は、ボール一つもいらないのです。それで人と人との心が触れ合える。そうでない歌というものの方が、私には理解できません。それなのにこの国では歌は、CDデビューとかライブとかに限定されているかのように皆が思ってます。そのくせ一方で歌えば何でも歌という形で捉えられているみたいです。
5−8 与えること
私はよいことをやっていると感じると、疲れが抜ける。生きる力が出てくるのです。それしかないのです。疲れても倒れないで生きるには。
与えることです。与えることこそが得られることで、力をつけることです。力がなくても、与えられるのです。でももっと与えたくなるから、死にものぐるいで力をつけるのです。あとで自分にほほえむために、何よりも自分のために、ただ、ひたすらやるのです。
5−9 志と莫妄想
歌、音楽、文章、企画など表現の世界でメシを食えるようになりたいと思っていた。そう思いつづけているうちに、いつしれずそうやっているようになった。そして来し方を振り返るたびに、〈思う〉こと、〈思いつづける〉ことの大切さに身をつまされる。行く末についてもっと思い巡らし、考えなくてはと思いつつも、分相応以上に思いをめぐらすことの難しさを感じる。
頭でっかちにだけはなりたくないと自分なりに考えていたころ、一つのことばに出会った。それは、「莫妄想」(妄想することなかれ)ということばである。考えても仕方のないことは考えるな、ということだ。
そのころの私は、いつも考えているようであって、考えていなかった。なぜなら実質、何も生み出していなかったからだ。そして、いくらものごとを知ってもそれはキリのないことであり、現実や状況を自分の力で変えることこそが、考えなければならないことだとわかった。そこで、結果を出すために、考えるべきことだけを考えるようにした。
そこから、ノートをつけ始めた。いったい自分は何がしたいのか、そのために何が必要なのか。それを煮つめていくと、やがてノートの世界は現実の世界を超えていくようになった。あたかも自分が主役をつとめる映画の脚本づくりのように人生が捉えられ、そして脚本ができると、人生はそれにそって進んでいくようになった。
5−10 一芸に生きること
ものごとを極めるということは、どうしてこれほど手数のかかるものなのかという思いが、以前からあった。
地球上に人類が五五億人もいるのなら、どんな努力をしないでも一〇〇メートルを五秒で走れるランナーとか、毎年八割打てるバッターとかがなぜ出てこないのだろう。天才といわれる人の偉さは、みんな、天才的な努力をしたというところに集約される。なぜ、天性の天才は生まれ得ないのだろうか。
歌を一曲歌えるようになるためにも、なぜこれほど大変なのだろうか。世界中の映画やアーティストの演奏がVTRなどで見られるのに、昔よりも優れた映画監督やアーティストが輩出してこないのはなぜだろうか。単に、ヒーローが求められていない時代であるからだけのことなのか?
私は、そんなことを考えながら、これらの〈問い〉に対する答えは、すべて〈一芸〉ということばの中に潜んでいることに気づいた。そう考えてはじめて、ようやく世の中が理解でき、人生の意味らしきものがわかってきた。
一芸とは何か。同じことをくり返す中に気づきがあり、真理が見え、満足が得られ、それが徐々に深まっていくにつれて、人生の妙味が感じられるようになること。完成はしないが、極められるところまでそれを追い求めていくこと。それが生の証であり、人生であること。つまり今ここであること、この一瞬を永遠にすべくプロセスを積み上げていくことだ。
今、私はその渦中でもがくことで、皆と人生を、命を楽しんで生きている。いつ死んでも悔いないように。 |